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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(135)

「イェニーさん問題」に踏み留まる

少しづつ「イェニーさん問題」の内実へと分け入っていこう。どこかでヤマギシズム恋愛・結婚観に出会えることを楽しみに……。
森崎さんが〝イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。〟という箇所は次のような一節である。
経済学・哲学草稿

“人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。
この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。
それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。
男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されているのである”(『経済学・哲学草稿』岩波文庫版)

ここで二十代の若きマルクスは、女性を肉欲の餌食や下女と見なす〝征服欲・支配欲・所有欲〟の感覚で構成されている170年以上前の19世紀中頃の社会背景を念頭に、そこに男性の女性にたいする関係がどの程度まで人間的本質になったかの現れを文化的段階として見ようとしている。
もっとも先の「イエスの方舟」の千石剛賢さんが、

“結婚ってなんだ、良心を麻痺させる淫行の場ではないのか。”

とか、「おひとりさま」の社会学者・上野千鶴子さんが、

“結婚は社会契約。「つがい」は繁殖期の行動。夫婦は子育ての戦友だ。”

と言い当てていたように、21世紀の現実とそんなに変わっていないことに気づかされる。
それよりも刮目すべきは、次の一節である。
〝男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。〟
ここに「一対の男女の自然関係としての性」が直感的に捉まえられている!

この間の自分らの表現では、〝夫婦の繋がり、人と人との繋がり〟を知る精神、その繋がりさえ分かれば……、といった次元の〈転換〉を促す〝自己革命〟の出発点に立つことを意味している。
何度も繰り返すが、じつはここでの〝その繋がりさえ分かれば〟の理解が難しいのでなく、その繋がりへの〝出発点に立つ〟ことが容易ではないのだ!?
その後マルクスは森崎さんも指摘されるように、「イェニーさん問題」から大きく逸れ、人間疎外を基調とした貨幣の謎を解明しようと『資本論』の著述に向かっていく。
そのことはまたマルクス主義として20世紀最大の〝社会主義革命〟の社会実験の悲劇へと直接・間接的につながっていく。
だとしたらあえて逸らさないで「イェニーさん問題」に踏み留まるとはどんなことなんだろうか?

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わが一体の家族考(134)

水を問題にしないで城を救う法

ヤマギシ会に参画したての頃、次のようなことを研鑽したことがある。

“目標を実現する最善の方法は一つであり、理想はその方法に依って必ず実現できる。如何なる場合でも、その方法を重視していきたい。”

エッ!? 方法はたった一つしかないの? そんなバカな……とビックリしたことがある。
こうした日々のいったい何を言わんとしているのだろうか?といった驚きが、飽くなき好奇心となって今日まで続いている。

例えば次のような話も事あるごとに思い浮かんでくる。自分らの進むべき道を指し示してくれているようにも感じるからだ。
九州の方で、ヤマギシ会会員の有志で〝青い鳥農場〟が発足したが、すぐに行き詰まってしまった。そこでAさんが「何か立て直す方法ないか」「解体せずに、何か良い考えないか」と研鑚会に出した時のことである。(ヤマギシズム理念徹底研鑚会1960.7)
そこで山岸巳代蔵は軍記物や戦略史にある「白米城」の伝説を引き出して、〝起死回生の妙手〟とか〝奇策と見える正攻法〟と自ら名づける案を披露してみせる。
白米城伝説

「白米城」とは山城の落城を語る伝説で、籠城戦で敵に包囲されて水を断たれた時に、城にはまだ水が豊富にあると攻め手に信じこませるために、兵糧の白米を水に見立てたというもの。
攻撃側から見えるように白米を流し落として滝に見せたり、馬を白米で洗う光景を見せたりしたという。すると敵はこれを見て水では弱らんぜと、長期戦やなとつい気がゆるんだとき打って出て切り抜けたという話。

この案を、零位に立って聴いて欲しいという。簡単に素直に言おうとする焦点を聴いて欲しいのだと。
というのも、関係者の誰もが「水が問題や、水が問題や」と固く信じ込んでいる中で、〝この案〟の実行くらい荒唐無稽で軽く聞き流されてしまうことが多い象徴的な例なのだ!
水が足らないから、水が問題やと。その水水と言っているから、解決できないのだ、と!?

先(「と」に立つ実践哲叢38)で触れたあの〝のぼう様〟の〝田楽踊り〟の姿が思い浮かぶ。
山岸巳代蔵もAさんらのいつまで立っても一向に結論の出ない〝くよくよ小田原評定〟にしびれを切らしてか次のように発言する。

“たいそうやね。自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいと振り返ると……。”
“自分から殻脱ぐだけ、これ出来んかね。”
“財産なければ、知恵がなければ出来んでなしに、知恵が邪魔することがある。財産が邪魔することもある。青い鳥は九州の人達の内にあるということを気づいてもらえたら結構やと思うの。”

「イェニーさん問題」もまたしかり。
イェニーさんはマルクスよりマルクスの近くにいる。あまりに近すぎて可視化することも分離することもできないという先の森崎さんの発言と重なって尽きせぬ興味をかきたててくれる。

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 「と」に立つ実践哲叢(38)

ゴールインスタート考

今年の夏は記録的な猛暑が続き、連日テレビ等で「熱中症に警戒」「命にかかわる暑さ」「エアコンを我慢しないで使うように」等々とくり返し呼びかけていた。なんだか急かされているようでどうも落ち着かない。
そんな折、ネットで観た映画『のぼうの城』で暑さも吹き飛ぶ爽快感を味わった。

戦国末期、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉の大軍二万人を前に、周囲を湖で囲まれた「浮き城」の異名をもつ小さな城・忍城(おしじょう)軍はたった五百人。勝ち目のないことは誰の目にも明らか。
しかも「でくのぼう」を略して〝のぼう様〟と皆から好かれる忍城の城代は、戦には最も不向きな臆病者。頼りなく、「俺たちがついてなきゃ、あののぼう様はなにもできゃしねえ」という気持ちにかき立てられる。何もできないことが、却って皆の心を一致団結させる。

そんな難攻不落な忍城は、とうとう城の周辺に巨大な人工の堤を築き、それを決壊させる豊臣軍の“水攻め”にあう。
そうした絶体絶命のさなか、〝のぼう様〟はなぜか「水攻めを破る」と公言する。
そして一人で武器も持たずに小舟で豊臣軍が築いた堤へと向って大好きな田楽踊りを披露する!? 
のぼうの城

するとこの〝とんでもない奇策〟に、敵も味方も驚いて一斉に喝采の声を上げる。彼らの心を大いに揺さぶるのだ。
なんとその田楽踊りをきっかけに、城に籠もるのを拒んだ百姓達が人工堤の土俵を引き抜くことで大量の湖水が逆に豊臣軍を襲う!

そんなことは〝のぼう様〟には先刻お見通しだった。城外の百姓たちも我らの味方であるとの確信があったからだ。
これが起死回生の妙手だった。思わずハッとした。これこそ、その道を通る以外には到達できない唯一最善の方法なのだ。

ふと一週間の「特講」を終えた皆に寄せた山岸巳代蔵のメッセージ(「一粒万倍に」1961.3.15)の中の〝ゴールインスタート〟という言葉が思い浮かぶ。
ゴールインとは、スポーツでボールを相手のゴールに入れて得点したり、男女交際を終えて結婚というゴールに到達したというニュアンスで使われる。
だとしたら映画での〝のぼう様〟が皆の前で披露する田楽踊りこそ、〝ゴールイン〟と〝スタート〟が一直線の立ち居振舞だったのではなかろうか?

豊臣軍の狙撃兵の的になり殺されるかもしれない。実際肩を撃ち砕かれるのだが、そうした〝結果〟は〝ゴールイン〟ではない。
戦う前から〝のぼう様〟は、「北条家にも関白にもつかず、皆で今までと同じように暮らせないかなあ~」と呑気なことを言っては皆を唖然とさせていた。この次元ですでにボールはゴールネットを揺らしていたのだ!
これが奇策と見えて実は理にかなった〝正攻法〟だった。その顕れが田楽踊りである。
自分らの〝人生踊り〟とも重なってくる。

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わが一体の家族考(133)

「イェニーさん問題」

ここでの「イェニーさん問題」とは、カール・マルクスの妻、イェニーのことだ。森崎さんは語る。
イェニーとマルクス

“マルクスさんの思想のなかでもっとも可能性があるのは、男性の女性に対する関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係があらわられると言っておられるところです。マルクスさんのこの直感のことを「イェニーさん」問題と呼んできました。『経済学・哲学手稿』のなかでもっとも音色のいい言葉はここです。イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。”(歩く浄土200)

そう言えば学生時代、岩波文庫版の『経済学・哲学草稿』を読んでは一杯の赤線を引いた記憶がよみがえる。よほど心に響いたのだろう。例えば次のような一節、

“人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。(略)
もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。”

たしかにここで新婚ほやほやのマルクスは、イェニーさんのことを思い浮かべながら書いている。
しかもこの文章は〝貨幣〟と題して、貨幣は互いに矛盾しているものを無理やり結び付け、例えば愛を憎しみに変えてしまうものだと論じた後の締めくくりの一文である。
自分らはここから出発しようというのである?
森崎さんもいう。

“マルクスにとってのイェニーさんの関係をひとつの喩とすれば、イェニーさんはマルクスよりマルクスの近くにいる。あまりに近すぎて可視化することも分離することもできない。この性をそれ自体として取りだして対象化することは自己意識によってはできない。性はいつも自己に先立ち自己の手前にある。”

どういうこと?
この間の自分らの文脈に沿えば、先(わが一体の家族考116)で〝心の琴線に触れる場所〟と題した一節、

「“神がそばを通られてもわたしは気づかず
 過ぎ行かれてもそれと悟らない”(ヨブ記)
無いものが、見えないものが見える人になるために、〝ふとした機縁から気づい〟た世界を通り過ぎないために、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを何度も何度も繰り返し表現していくのだ。」

に当たるのだろうか。
軽く見過ごしたり聞き流さないで、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを繰り返していくのだ。

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わが一体の家族考(132)

森﨑茂さんからの励まし

自分らはいまどの辺りにいるのだろうか。
以前〝ヤマギシズム恋愛結婚観への足がかり〟と題して書いた文章を九州の方に住む森崎茂さんが思いがけず拾い上げてくれて、次へと向かう道標を示してもらったことがある。有り難い! 貼り付けてみる。

『贈り合いの経済』を書いた佐川清和さんの「自己への配慮」というブログをいつもどきどきしながら読んでいる。まだ一度もお会いしたことはない。昨年8月に公式サイトを開設したとき佐川さんから励ましのメールをいただいた。偶然に見つけて読んでいますと書かれていて、とてもうれしかった。読みにくい文章なので読んでくれる人がいるとは思っていなかった。なにかやむにやまれぬものを抱え、半世紀のあいだ同一の主題を追いかけている表現者だと思う。その佐川さんが「自己への配慮」の「わが一体の家族考(88)」で次のように書いている。

“たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。
しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。
〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。”

引用のブログに先立って佐川さんは「わが一体の家族考(84)」で、ある気づきを述べている。

“社会学者・真木悠介(見田宗介)さんの著書『自我の起源』の中の「補論2 性現象と宗教現象」で次のような事例が紹介されている。
見田宗介

1980年代後半ヴェトナムからの難民船の幾つかが日本にも漂着したことがあり、偶然そのうちの一つを見たことがある。小さな木の船に、考えられないくらい大勢の人が乗っている。しかも漂流の月日の中で、いちばんはじめに死んでいったのは、小さい子供をもつ若い母親たちだったという。
つまり母親たちは乏しい食料を幼い子供たちに与え、自分たちは飢えて死んでいったのだと想像することができる。こうした難民船での出来事に心を動かされた真木悠介さんは次のように考察する。

“人間の個が、じぶんに固有の衝動に動かされながら、じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう”
つまりこういうことだ。“わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する”

性とは、自己解体の爆薬? どういうこと?
“自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している”からだ。そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだともいう。

以上のような難破船の話を知ったのは、森崎茂さんのブログ『日々愚案』の中の「歩く浄土182」からであった。そこで森崎さんは次のようにコメントされている。

“真木悠介はとてもいいことに気づいていながら、自己を裂開する背理をそれ自体として取りだすことができていないから、鋭利な気づきは外延論の背理として記述されるほかなかった。”

たしかに真木悠介さんはこの書の〝あとがき〟で、この仕事の中で問おうとしたことは、“どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか、他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか”というとても単純な問題だと記されていた。だとしたら、先の真木悠介さんの〝じぶんの欲望を透明に追い求めてゆく〟とか森崎さんのいう〝自己を裂開する背理をそれ自体として取りだす〟とは、どんな内実を伴うことなんだろうか?

何かすごく大切なことがいわれている気がするのだ。
“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?
〈性〉は自我を裂開する力を内包している!”

佐川さんの気づきを「イェニーさん問題」(「歩く浄土200」)と呼んでみる。(「歩く浄土201」2017.10.8)


そうか、自分がこの間やみくもにかかずらわってきたテーマって、「イェニーさん問題」(?)だったのか!という驚きだった。

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わが一体の家族考(131)

皆が欲求する源泉の涵養

またかつて昭和30年代一世を風靡したヤマギシ養鶏について書かれた『山岸会養鶏法』の末尾に次のような一文が記されている。

“対立社会(現代社会)と総親和社会(理想社会)との根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば、凡ての事柄が簡単に解決し、不平不満も、危惧不安も、世の中の紛糾も闘争も一切を無くして、万人がねがってやまぬ真実の幸福社会が実現するのです。”

ここでの〝根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば〟の一節にずっと惹き付けられてきた。何しろ、ちがいを把握するだけで万事を解決することもできるというのだ!?
そんな魔法のような〝知的なるもの〟があるのだ! 
いったい〝根本的なもの・核心・真髄〟をつかむってどんなこと何だろう? こう問いかけるだけで心がワクワクするのだった。

今日まで理想社会が実現されなかった原因に、現在までの世界の人たちのほとんどが〝手段を目的のように取り違えている〟ところにあると山岸巳代蔵はいう。
例えば鶏で寄って来た人たちの本音は始め、「お金儲けたら幸せになれる」として「鶏飼うのもやはりお金儲けが目的」であった。そしていったんお金が儲かっても、「あっ、これでなかったな」と気づく人は少なかった。目的のための、お金儲けのための鶏を飼うについても、着眼点が違っているが故に〝鶏飼うのはお金儲けが目的〟だとする一つの観念から抜け出せない人が多かったという。

戦後日本の農業者が歩んできた道と重なる。
農業のみでは生活が成り立たないということから、本業としての農業の薄利を補う意味で、何かの副業なり出稼ぎなりを始めることがある。この副業なり出稼ぎなりは、出発においてはあくまで本業を維持する一手段であったはずなのだが、興味が出て面白くなってきたりすると、本業たる農業の使命を忘れてしまったり目前の経済面のみを比較して農業を低く評価したりして、つまるところ本業としての農業そのものを放棄してしまうようなことになる。

知らず知らずのうちに、手段が目的にすり替わってしまう逆転現象を起こしている。真目的ならではの〝みんなが一つになって仲良く楽しく繁栄していく〟といった中身からの感化よりも、心ならずも便宜的手段としての日常行動から来る感化の方が影響が大きいからである。
その人が目的を頭で分かるだけでは、目的そのものが観念的理想論に終わってしまい、その理想論すらいつの間にか忘れ去られていく。

ではどうあったらよいのか?
目的そのものを研鑽することだ。養鶏の場合だったら、〝養鶏する人が目的をはっきり知る〟ことだ。つまり目的の日常化である。目的を今日とは遠くかけ離れた先のことや方向性としてのみ置かないで、日常化する必要がある。自分自身のものというか自分の目的=心にすべきなのだ!
これこそ自分らにとっての〝ヒックリ返す〟革命だった!

先の下重暁子さんの発言に、

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”
仮面夫婦

とあった。しかしだからといって、〝妻が夫に依存〟しない方向に〝かたち〟(方法)を整えることで、対等で自由な人間同士の夫婦の関係が実現するだろうか? 
目的そのものを研鑽するという過程を億劫がるならば、便宜的手段としての日常行動から来る感化に押し潰されること必定である。
むしろ皆が切実に欲求する願いから出発するなれば、互いに〝頼らない〟よりは〝頼りきる〟中に、むしろ必要に迫られて他の人の力を借りなければならない場面で、自ずと湧いてくる謙虚さなど心の状態をまずは涵養することだ。その次に頼りきれない部分を自分で力を付ける後先にあるのでは……。

いろいろの観念で目隠しされていて「本当に自分を気づかなかった」。それがたかが(?)こんな必要性の小さい産業としての養鶏や日々の暮らしを通してその一端を知らされる豊かさを今噛みしめている。

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わが一体の家族考(130)

正しきに戻す知的革命案

先のベストセラー作家・下重暁子著『夫婦という他人』のAmazonカスタマーレビューでの、〝それぞれの個を尊重して、共に水臭い関係にある〟生き方についての賛否両論が興味深い。
大方は、〝後味が悪い・寂しい・読んでいて心が暗くなりました〟との意見に代表されるのだが、下重暁子さんの本音での語り口の方にも現実味が感じられるのだ。 
どうしてなんだろう?
人間愛が人間社会には不可欠であるということぐらいは、既に過去幾多の宗教家、哲学者、思想家によって度々主張されてきた。それなのになぜ人間愛が、現実社会全体を流れるものにならなかったのだろう? 愛だけではすべてが片付かない現実社会においてはあまりにも無力な抽象的空想的な唱い文句にすぎなく感じられるからだ。人間愛を裏付ける何物かが欠けているからであろうか。ここに理想と現実との相一致しない矛盾に割り切れないものを感じる。
ある意味〝世はまさに逆手なり〟で、

“売ろうとすすめると、手を引っ込める。
取ろうとするから、やらぬと来る。
平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む。”(「知的革命私案」山岸巳代蔵)

といった交換条件的や報酬期待的な上下感・勝ち負け感・損得金銭計算・所有欲、力の論理・支配者の論理・欲望の論理等々の逆手社会(既成)の常識観を永年通用させてきたからであろうか。
そしてその具体例として

“アメリカに日本の心が掴めたら”、“余剰小麦に剣を包まずに、サンタ爺さんに托し”て、“「日本は狭い、常夏のハワイを自由にお使いなさい」と来たら”、戦後史は塗り替わったかも知れないと、奇想天外な〝知的革命案〟を提案するのだ!? 
確かに逆手社会(既成)の常識観から見たら、付け上がった荒唐無稽な絵空事と一蹴されるのがオチであろう。
しかも当の逆手の世界に住んできた自分ら日本人にとっても、戦争に負けてすごすごと引き下がる〝負け犬根性〟にどっぷり囚われている。ここに今の対立社会の病根の深さ・複雑さを見る思いがする。
だとしたらこうした社会通念の旧い殻を破るのにはどうしたらよいのだろうか。

ヤマギシ会では当初〝鶏〟で「特別講習会」へ人を寄せた。〝鶏〟で変わった鶏舎建てたら目につくし、自分も気づいて、利益も目に見えて、「講習を受けようか」となっていった。
農業養鶏の鶏舎

実は〝稲作〟でもよかったのだが、講習を受けてやった効果がハッキリしないし、変わったことをやる方がどうも失敗したらしい。
だからあんな農業養鶏の鶏舎が日本中に建ったところで、どっちでもよかった。
ねらいは「鶏こそ」「金こそ」と思って飼ったところで労多くして功少なしと気づいてもらうことにあった。誰の心にもある本能的に欲求するものを呼び醒ます呼び水であった。
まずは当面の農家経済を潤す中で「なるほどなぁ」と気がついて、結局は我を張ってたら皆と共にやっていけないことが分かってくる。
方便と言えばいえるだろうが、鶏で寄ってホンモノになる近道ともいえた。
研鑚会では「他よりも優れたい、儲けたい」と思っている参加者を前に、何のために鶏を飼うのかとしつこく尋ねたり、鶏が病気になっても直ぐには治さなかったり、「卵を産まぬのが幸福ですわ」と公言してはばからなかった。現象によって一喜一憂しない人になる方便だった。
こうした常識では分からないことだらけの不可解さに、会を離れた人も多かった。
しかしそうなってからの「鶏も卵も、無いよりあった方が良いなぁ」というくらいの気持ちの中に、〝養鶏する目的〟とか〝人間生きる道の原理〟が秘められていたのである。

それでは「個」であることが価値や権利であり、男女の関係も個人と個人の夫婦関係になっている逆手社会(既成)の常識観を、〝ヒックリ返し〟て正しきに戻すとはどんなことなんだろうか。

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わが一体の家族考(129)

『夫婦という他人』!?

吉本さんが定義される〝対幻想〟の概念を今少し挙げてみる。

○人間が男ないし女としてしか存在し得ない世界。
○対幻想の具体的な、現実的な現れとして家族という形態がある。
○一人の人間として他の一人の人間と関係するとか、出会うという場にできる、その精神性は全部「対幻想」と呼べる。
○そういう一人の個人対自分以外の他の一人の個人との結びつきとか関係というのは、社会に対しても、あるいは自分一人に対しても違う精神性として区別される。
○自己と共同性を繋ぐものが対幻想という特殊な共同幻想となる。

こうした吉本幻想論はどのように拡張されるべきなのだろうか?
しかしいきなり〝幻想論〟を振りかざしても何なので、まずは身近な題材から…。
元NHKアナウンサー下重暁子さんの最新刊に『夫婦という他人』という著書がある。早速一読してみて、その率直な語りに好感をもった。紹介してみる。
下重暁子

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”

として、互いにもたれ合わない謂わば他を侵す必要のない〈個で充実し 個で安定する 依存のない生き方〉の実例を自身の体験を通して語られる。曰く

“妻や母という役割が先にあって、夫や子供との関係も、個人と個人のつき合いではなく、役割としてのコミュニケーションなので、お互いに相手を理解することができない。”
“価値観も違えば、作法だって違う。いちいち目くじら立てて気にしていたら暮らしていけない。寛容の精神がなければ、他人となぞ暮らせはしない。結婚は、心の寛容さを養う良き修業の場と言わざるを得ない。”
“自分という個があっての結婚。”
“独立採算制なので、自分で稼いで自分で使う。何も遠慮はいらない。”
“一人づつの生活が二つあるわけで、”
“病気の時以外は、私はつれあいの面倒は見ない。”
“危なくなるとさらりとかわす私達夫婦の間の愛情とは何か。実は愛もその瞬間にすりぬけていっているのかもしれない。”(作家・島尾敏雄の『死の棘』を紹介しつつ―引用者注)
“なぜ結婚なのか。こんなに面倒で束縛されるものはないのに……。”
“一緒に生活するということは情が出てくるはずで、
情とは何か。それは思いやりである。四十年も一緒に暮らしていると、何が嫌で何が好きかもよく分かっている。
思いやりとは、その人の立場や性格や考え方を認めることである。”
“夫婦とは何なのか。二人で一対と考えていたら、どこかでくい違いは大きくなる。私達のように個としてそれぞれ邪魔をせぬように生きていても、時に驚くような出来事に出会う。まったく違う感覚や意見に、改めて違う人なのだという認識を深め、当然なのだという結論に至る。”

なるほど、〈個〉から出発するとこんなふうに結婚・夫婦生活が展開するのかとビックリした。この間、ヤマギシズム恋愛結婚観即ち〈性〉とか〈二人〉から出発する世界の可能性を探ってきた自分らにとって、改めてヤマギシズム結婚観でいう、

“真の夫婦はどこまでも夫婦一致で、二個別々に分けようのないもの、夫婦を切るなれば、男と女に分けられないで、粉々に細断しても、その細片のいずれもが一致夫婦の断片である。”

といえる〝一致〟の世界へとより一層の探究心をかき立てられる思いがする。
吉本幻想論に倣うならば、自己幻想(自己愛)同士の個体と個体を寄せただけの潤いのない造花の世界に住んでいるようなものだ。
なかでも作家・島尾敏雄の作品『死の棘』から夫婦愛の深淵について触れられている箇所で、自らの夫婦愛についてもサラリと省みられてはいるが、本当は作品『死の棘』に圧倒されるだけでなく、反面教師としてむしろそこで演じられた〈性〉の三角関係の修羅場を軽々と飛び出して解消されていく中にこそ、誰もが求める愛情世界が見出されるのではなかろうか? 実は本稿はそこを目指して書き綴っているのだが……。
確かに一人ひとりが〈依存しないで〉〈自力をつける〉という〈個〉であることが社会の安定には絶対に欠かせない要素ではあるのだが……。
そう言えば、

“結婚は社会契約。「つがい」は繁殖期の行動。夫婦は子育ての戦友だ。”(『ひとりの午後に』)

と発言してはばからない「おひとりさま」の社会学者・上野千鶴子さんの考え方にも重なるようだ。
今の社会風潮なのだろうか?
本来〝二人で一つ〟の対関係が、個人と個人の夫婦関係として何の疑いもなく語られるところに今の対立社会の病根を如実に物語っているように思えて仕方ない。

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わが一体の家族考(128)

幻想領域の関連図から

吉本さんの〝共同幻想論〟をうまく視覚的なイメージで表現できないものだろうかと考え込んでいた矢先、「与論島クオリア」を展開されている喜山荘一さんのサイトに出会った。
そこで、吉本隆明が設定した人間の観念領域、「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」の三つはどう図にできるか、その試案です。として次のような関連図が示されていた。
喜山荘一 吉本幻想論の構造試案

なるほどなぁと感心した。
一つは「共同幻想」と「個人幻想」は〝逆立〟する関係にある。
例えば気の合う仲間同士で毎週集まろうといった〝決まり事〟を全員オール納得でつくる。しかし、そのうちに一人がある都合で出席できなくなる場合がある。すると、欠席する人には〝決まり事〟が重荷や抑圧や縛りに変わってくる。その辺りを〝逆立〟というのだろうか。
もちろん〝決まり事〟(共同幻想)なんて、個人の意志によっていくらでも原則変えられるはずなのだが、宗教・法制度・国家へと進展していく社会の共同幻想となると権利・義務などの様々な縛りが複雑怪奇な形相に変貌して介入してくる。中身は仲間同士の〝決まり事〟と原則同じだとはとても見なせなくなる!?
また男女の問題や家族の問題を含む「対幻想」の位置は、「共同幻想」や「個人幻想」とも異なり、たんに〝幻想〟としてのみ片づけられない〝永遠性〟を繋ぐ価値を内包しているはずだ。
そうした意味で、「共同幻想」と「個人幻想」の間に位置するのがふさわしい。「対幻想」の人間愛を基調とする本質が「個人幻想」に関わって〝芸術〟が、「共同幻想」に関わって〝母系制で同致〟の世界が現出するのだろうか。
先に吉本さんが、「ヤマギシ会という共同体の一体理念」が深まれば深まるほど、却って〝男女の結びつきが圧迫される〟という懸念」を抱かれていた発言は、ヤマギシ会は共同体の理想の原型として〝男女間と共同体との水準の同一化〟、つまり〝母系制で同致〟の歴史段階を想定されていたのではなかろうか?
もっといえば、対幻想が個人幻想や共同幻想に対して無矛盾の状態に一つの理想を描くことも可能だと考えられていたのではなかろうか。
喜山荘一さんの試案図から、〝母系制で同致〟という概念が〝未知の未来に向かって〟とても興味深い新鮮な発言として蘇ってくるようだ。

“人間がある最古の時代に、集団を組んで生活しながら、男・女としてそれぞれ〈性〉的にも組んでいたとするならば、このふたつの場面で人間はどうじぶんを使いわけているのか。そしてその使いわけにはどんな関連が存在するのかということであった。”(『共同幻想論』吉本隆明)

こうした発言から、家族は本来的にどうあったらよいのか?、が『共同幻想論』の一番のモチーフであったのではないかと推察される。
ともあれここでも自分らがやりたいのは、部分的ではない本質的な意味での〝性を発見する〟ことにあるとしたら、こうした対幻想の位置する独自性の追求の中に見出されてくるのかもしれない。

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わが一体の家族考(127)

自ずと湧いて来る人の情

ここで先の吉本さんの〝性の問題〟は人間にとって部分的なものだと一貫して見なす吉本幻想論について今少し触れてみる。
もちろん一人の人間だから、自己のなかに三つの観念が合わさって混合してあるのだが、
吉本幻想論

“皆さんがこれから生活していくときに、「個人としての個人」と「社会的な個人」をきちんと分けるようにしたほうがよいという話をしましたが、もうひとつ、人間には「家族の一員としての個人」とでもいうべき側面があります。(略)
「家族の一員としての個人」は、この二つの、いわば中間にある概念です。
家族とは、「個人としての個人」同士が、性的に結びつくことによってつくられるものです。どんなに大人数の家族も、もとをただせば一人の男と一人の女の関係から生まれます。
男と女が、性的な関わり――肉体的な関わりと精神的な関わりの両方を意味します――を根幹として一つの単位を構成し、そこから子どもができ、孫ができ、親戚が増え……というようにして広がっていくのが家族なのです。(略)
「個人としての個人」(自己幻想―引用者注)
「社会的な個人」(共同幻想―引用者注)
「家族の一員としての個人」(対幻想―引用者注)
この三つは次元が違いますから、何か問題が起こったときの解決の仕方も違います。ごちゃまぜにしないで、それぞれ別個に考えることが必要です。”(『13歳は二度あるか』2005.9大和書房)

そうすれば、三つの次元をごちゃ混ぜに受けとめて不用意に傷ついたり、自分が分裂して悩まなくてもよいのだと諭される。

こうした吉本さんからの助言に、〝そうだったのか!〟と随分励まされ救われた思いがしたこともある。
例えば現状の社会を少しでもより良い社会にしていくにはどうしたらよいのだろうかと四六時中まじめに(?)心の中で考えていると、日常生活の中で〝そうしなければならない〟といった不自由感、拘束感、自己欺瞞性に強く囚われる心理状態に陥ってくる!?
そして他人のちゃらちゃらした言動が気にかかってくる。
「あそこの奥さんはいつもパーマかけている。美容院に行く金どこから入るのだろう?」
「あそこはいつも砂糖をもらいに来る。そんなにたくさん何するのかいな?」
「あの人は夕方五時にはもう風呂に入っている。仕事をサボっているようだ」等々。
普通の家庭だったら、なんでもないありふれた隣近所のうわさ話ですむところが、同じ目標で集まった集団であるから始末が悪い。
典型的な誰もが陥るにちがいない〝理念と宗教〟の混線、混入ぶりである。随分振り回されたものだ。
あれだけ繰り返し口喧しく、

“信じないで、絶対正しいとしないで、やってみたらよいわね。”

と〝理念と宗教〟の区別を研鑽してきたつもり、言われてきたにも関わらず……。

だがしかし確かにそのようにも分けられるかもしれないが、それで〝矛盾〟が解消するわけではない。
なかでも〈性〉や家族といった〝私的〟な世界に関わるテーマほど矛盾に晒されやすい。
吉本さんはこうした個人から出発した三つの次元の一部分として〝人間の性愛〟世界を捉えようとされている。
例えば次のような場面がある。

“世で鬼のように云われる冷血漢でも、家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあります。”(『ヤマギシズム社会の実態』山岸巳代蔵)

この場面は吉本さんから見たら、

“〈性〉としての人間、いいかえれば男または女としての人間という範疇は、人間としての人間、いいかえれば〈自由〉な個人としての人間という範疇とも、共同社会の成員としての人間という範疇とも矛盾している”

と見なして、つまり次元が違うということを認識した上で、それぞれの次元についての考えをすすめたらよいとされる。

ここのところをヒックリ返して〝人間の性愛〟世界から出発できないものだろうか? 
〝家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあ〟るという、自ずと湧いて来る人の情から出発できないものだろうか?
言い換えると〝先ず自分が〟と突っ張りたくなる〝自分や自己や個人〟の考えから出発しないで、〝自ずと湧いて来る人の情〟に立脚しようというのである。
ここでの〝先ず自分が〟と、〝自分や自己や個人〟を省みることのないみずからの元の心に巣食う「所有」観念こそ真っ先に問われてくるのかもしれない。

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わが一体の家族考(126)

吉本幻想論の拡張

こうした古代ギリシアまで遡るフーコーの性の探求に対して、『対話 都市とエロス』(吉本隆明+出口裕弘 1986.11深夜叢書社)の中で出口裕弘は、フーコーはホモセクシャルな思想家、文学者で古代ギリシアでは少年愛が公認されていたから仕事の場をそちらへ移したのではないかといったうがちすぎた解釈をしている。

対して吉本さんの方は、「そこは全部翻訳されて、きちっと読まないと何とも言えないと思いますが、われわれの考え方からすると、たいへん珍しい、興味深いことになっているんじゃないでしょうか」といたって慎重だ。
そして、なぜ性がここで問題になるのか〝よくわからない〟として次のように語る。
吉本隆明

“フーコーがいうセクシュアリティの歴史みたいなものには、真理の問題、メタフィジィカルな意味の権力の問題など全部入ってしまうと思うんです。性あるいは性の歴史の問題のなかにそれを全部入れてしまう、そんな着想をしたのは、どうしてでしょうか。
われわれの感覚で言えば、性の問題は性の風俗、習慣の問題で、それ以上のことはない。その次元ではさまざまな問題があるけれども、それは社会制度の問題にもならないし、政治の問題にもならないし、権力の問題にもならないということになっていくんですが、全部そこに入れ込めるのはどういうことなんでしょうか。”

ここで吉本さんは、
“性の問題は性の風俗、習慣の問題で、それ以上のことはない。”

と〝性の問題〟は人間にとって部分的なものだと一貫して見なす自身の吉本幻想論に立って〝よくわからない〟と疑問を投げかけている。
そうか、そうだったんだ!
こうした観点から、この間何度か紹介してきたように思想家・吉本隆明さんの「ヤマギシ会という共同体の一体理念」が深まれば深まるほど、却って〝男女の結びつきが圧迫される〟という懸念を抱かれていたのだ! 引用してみる。

“「その『一体』というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。
かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を『一体』という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。
もし人間の性愛のなかに、色とか、味とか、匂いとかの比喩でいうべき問題があるとすれば、それが全部、無味・無臭・無色というふうになってしまうような気がするんです。
ほんとにそうなることはたぶんありえないから、絶えず解体にさらされるか、または、もし男女の結びつきがひじょうに親密になってくれば、共同体から出ちゃうという衝動をいつでも感じざるをえないみたいな、なにかそういうところでいちばん矛盾にさらされるような気がするんです」”(吉本隆明『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)

いったい〝われわれ〟って誰のこと?
こうした〝われわれの感覚〟こそ今本当にそうかどうかが問われているのだ。自分らがやりたいのは、個と集団の矛盾や対立や背反を抱擁(つつ)み込んで解消、乗り越えていくような道筋の開拓なのだ。

それはむしろ〈性〉を媒介にした〈一体理念〉を基盤というか〝主体〟に、自己の生き方そのものを配慮し陶冶(怒りを取り去る実践等々―引用者注)していくことで、真理に即応しようとする思想でもあるのだ! 

“真理主義、真理即応主義、合真理主義”(「ヤマギシズムについて」山岸巳代蔵)

“現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実に私は驚いています。技芸が芸術家という専門家だけがつくる一つの専門領域になっているということにも驚きます。しかし個人の人生は一個の芸術作品になりえないのでしょうか。なぜ一つのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、私たちの人生がそうではないのでしょうか。”(『倫理の系譜学について』フーコー)

それは吉本幻想論の拡張、即ち幻想論に先だってある〈性〉=〈ヤマギシズム恋愛結婚観〉から出発することを意味するはずだ。
これで少しは恩返しができるかもしれない。

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「と」に立つ実践哲叢(37)

 〝わが一体の家族〟を思う

是枝裕和監督の映画「万引き家族」を観た。
万引き家族

万引きを生活の足しにして仲良く暮らすとある家族の姿を描いたものだ。しかも老女と中年夫婦と若い女、二人の子どもで形成されるこの家族には、血の繋がりがない!?
血縁のない家族、血縁に閉じていかない絆、そんな血縁を超えた支え合いの形がどう実現できるのか、そんな人と人との繋がりの可能性をテーマにしてみたのだという。

そう言えば映画の中で、絵本作家レオ・レオニの『スイミー』を男の子が朗読しているシーンが印象的だった。是枝監督の込めたものがそこに感じとられた。
というのもカンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した記者会見で、取材で行った親の虐待を受けていた子たちが暮らす施設で、女の子が国語の教科書を取り出して『スイミー』を読んでくれた。その朗読している女の子の嬉しそうな顔が頭から離れなくて、そうか自分は『スイミー』を読んでくれた女の子に向かってこの映画を作っているんだと、あらためて気づかせてくれたと監督自身が語っていたからだ。

あらすじはこうだ。
小さな赤い魚の兄弟たちの中で、一匹だけ真っ黒な魚の〝スイミー〟。大きなマグロがやって来て、兄弟の魚たちを飲み込んでしまう。逃げられたのはスイミーだけ。
そんな怖くて淋しくて悲しい失意のうちに暗い海の底をスイミーは泳ぎ続ける。
けれども、海の中のクラゲやイセエビやコンブやワカメ、うなぎやイソギンチャクなど面白いものに出会うたびに元気を取り戻す。
そんな中で見つけた、スイミーそっくりの小さな赤い魚たちに「遊ぼう」って誘っても「大きな魚に食べられるから」と岩陰から出て来ない。そこでスイミーは考えた。皆で大きな魚のふりをして泳ごう、と。そして皆が離ればなれにならず一匹の大きな魚になって、スイミーは目の役に就いて皆は泳ぎ、とうとう大きな魚を追い出した。
スイミー

映画では後半、老女の死や少年のとっさにあえてとった万引きから一気にそれまでの家族の時間が暴かれ、奪い去られる。だって血の繋がらない女の子を〝拾って〟形成された家族は、世間的に見ればその行為は〝誘拐〟にほかならない。家族は外からのバッシングと内からの疑心暗鬼で壊れていく……。

にもかかわらず、この家族に流れている〝共に過ごす〟時間や情に触れてか、今多くの人の心を揺さぶり続けているようなのだ。
じつは自分らもまた、ここ数年来是枝監督の初期作品、生のかけがえのなさを描いた『ワンダフルライフ』やレオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』等を研鑚資料にして、見も知らぬ〝わが一体の家族〟を研鑚会で思い描いてきた。

それは〝あおくん〟や〝きいろちゃん〟に先だって誰の心にもある見えない〝みどり〟の世界の発見から始まる。誰もが家族同然の繋がりを既に生きているという驚きだった。

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わが一体の家族考(125)

フーコーの中での〝転換〟

否、世界は広い。もう一人あのフランスの思想家ミシェル・フーコー(1926-1984)がいた。
ミシェル・フーコー

そう言えば本稿のタイトル「自己への配慮」も、近・現代では自己中心主義とか引きこもりを意味するものになっている〝自己への配慮〟という概念をヒックリ返して、むしろ肯定的な価値を持つものとして新たな命を吹きこんだフーコーの講義録から採ったものだった。
晩年の山岸巳代蔵が無固定の〝愛情問題〟に没入したように、かのフーコーも真理に即応する自己は、自己主張するなど自分という己にはなく、〝自己自身への配慮という愛情〟(「倫理の系譜学について」)それ自体にあるのではないかとキリスト教以前の古代ギリシア・ローマまでさかのぼっていく。
亡くなる三ヶ月前の最後の講義のための草稿の締め括りに次のような言葉を遺している。

“最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。”(『真理の勇気』)

ここでの〝措定〟の意味を、欠かせないものとして定めること、それ無しではあり得ないと定めることをいうなら、〝必ず他性の本質的な措定〟とは、山岸会会旨=「われ、ひとと共に繁栄せん」の精神に重なるにちがいない。主体はわれにも、ひとにもなく、「共に」にあるのだから……。
山岸養鶏でいう〝鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋がりを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。〟
の〝繋がりを知る精神〟にも重なるにちがいない。

第一巻『知への意志』の刊行から八年が過ぎ去っていた。こうしたフーコーの沈黙に、「彼はもうおしまいだ」「行き詰まっている」といった数々の噂が流れたという。
それが死の直前に刊行された第二巻『快楽の活用』、第三巻『自己への配慮』の中で、真っ向から〝性〟と〝倫理〟と〝真理〟の問題に向かい合うのだ。
いったいフーコーの中でどんな〝転換〟があったのだろうか。
晩年のインタビューで次のように語る。

“うまくいかないと気づいたのは、その仕事(『知への意志』)をしながらでした。重要な問題が残っていたのです。
すなわちなぜわれわれが性から道徳的な経験を作り上げたかということです。そこでわたしは十七世紀についての仕事ここからを放棄し、閉じこもって時を遡り始めました。
キリスト教の初期の経験を調べるためにまず五世紀に、それからその直前の古代の末期に。最後に三年間に、紀元前四世紀と五世紀の性についての研究で締めくくりました。”

そこから近代のキリスト教の道徳とは対照的なギリシャ・ローマにおける性道徳の形成を見出す。それは、

“性行動はギリシア人の思索のなかでは、愛欲の営みという形式、つまり統御しがたい力の闘争の場に属する快楽行為という形式のもと、道徳的な実践の領域として組立てられている。”

そしてそこからさらに、近代的な主体概念とは全く異質な主体概念を発掘する。
それは自己との関係はまさに性において創出され、実現されるという新しい生き方、新しい道徳がそこに展開されているのを見たのだ!
この性の道徳では、文字通りの〝快楽〟の活用やコントロールなどの様々な実践と鍛錬を通して、自分が道徳的な主体であることを確認し、自分の生き方そのものを〝生の一つの美学〟として顕現することにあった!
ここから欲望をもつ人間が〝性〟を通して真理にまで結び付く道筋を辿っていくのだ。
要は真理とか自己は認識したり描いたり解釈するものに留まらず、実践する・生きるべき・顕す・もたらされるものへと転回させたのだ。

それは人間の恋愛・結婚観の底に流れる〈性〉の問題は、快感、快楽、習慣、家族制度、風俗、禁忌と侵犯の問題にとどまらず〝真理の問題〟に入っていくものだという発見だった。

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わが一体の家族考(124)

他はもう枝葉末端の問題

またこんなこともあった。
昭和三三(1958)年夏、三重県阿山郡春日村(現在の三重県伊賀市)の春日神社の裏山の松林を切りひらき、「山岸会式百万羽科学工業養鶏」構想に命ぐるみ、財産ぐるみ投げ出して理想顕現に賭ける熱願行為湧き上がる中で、同時に〝愛情研鑚会〟なるものが開催されたのであった。
当時そうした事態の推移を見守る参画者や会員の〝混沌たる動揺〟の気持ちに以前触れたことがあった。

“山岸巳代蔵全集所収の年譜には、1958(昭和三十三)年 57歳
八月十二日 起工式を挙行。この頃、春日村の元村長中林宅の離れに柔和子と共に移る。その一方で頼子のいる四日市のアパートへも通う。
と記されている。
そしてそこから春日山に出向いては、養鶏の飼料設計や消毒方法や鶏どうしの尻つつきや羽食いなどを防ぐ手立てについての飼育係からの相談に乗ったりはしていたが、実際のところ愛情問題の解明にほとんど占められていた。
柔和子とは第三九回特講(京都、三鈷寺)で出会った福里柔和子(当時38歳)のことであり、頼子とは第四回特講(京都、三鈷寺)で出会った井上頼子(当時19歳)のことである。
その頃山岸巳代蔵は、京都向島に住む妻・志津子とは別居して、昭和三十一年秋頃から三重、四日市市の会員井上与男宅で井上頼子と住んでいて、昭和三十三年三月末には福里柔和子との婚約発表をすませている。
これには四日市支部の会員も動揺したらしい。そうした山岸巳代蔵の行動が四日市支部の研鑽会でも話題になったが、本人は一切弁解をしなかったので並みいる人々は二の句がつけなかったという。
かくして、三重県菰野の見性寺に関係者(頼子や柔和子らも参加)が一堂に集まって持たれたのが、暮れも間近い十一月の末から十二月の初めにかけての愛情徹底研鑽会だった。
菰野の見性寺

山岸巳代蔵にとっては、愛情に関する問題は、非常に大きな課題であり、一体世界における、無固定の結婚はどうあったらよいのか、これの究明・解明・実証こそ、その本願とする全人幸福への最大不可欠の課題とみなしていたようである。
一方、『百万羽』構想や会活動を現に進めている当事者らにとってみたら、またとない山岸巳代蔵の真意を問いただす場でもあった。
その一部がテープに収められて保存されている。引用してみる。

奥村和雄(『百万羽』参画者) まあしかし、この、愛情問題ちゅうか、これはもう、みなが非常に関心持ち、また、今の社会には受け入れられないと、二百年後の社会であればいざしらず、これが山岸会の進展に大きなマイナスになっておると、今としても『百万羽』の進展に非常に影響しているということも事実。また参画しておる人も、これがために非常に不安な気持になっている。本当の腹の底から力が入らないということ、これはまあ事実、私みたいなものでもそうなんですけどね。”

岡本善衛(会員・三重県県会議員) またあの、おそらくねえ、そりゃあ、あなたのような心境になったらどうか知らんけどね、しかし現実社会に生きる人間がね、そういうことなんかあり得ない。わしゃあ一番困るのはね、東京で、
「山岸さんっていうのはそういう状態で、山岸会はそういう問題、非常にルーズらしい。どういう考え方だ?」
と、こう訊かれる、わしゃあ、当然困る。
でね、「そりゃね、恋愛の我々の旧道徳というものよりも、もう少し高い所でね、見てると。だから恋愛の問題だけはね、たまたま旧道徳を超える場合があると思うんだ」と。
「しかし、山岸さんの現実の問題は僕は知らんのや」と、こう言うて逃げとるんですがね、しかし、これは私は一ぺんはあなたに訊きたいと。”

奥村和雄  エー、親父さんのその気持、よく分かっておるんですわ、それで根本的なものを解決せずして仕事が出来ないとね、これもごもっともなんですがね、それはもう別に言う必要ないんですし、春日や『百万羽』の事情を別に一応言う必要もないんだけれどもですね、やはり、この二七日からのこの研鑽会が非常に大きく響いておるということ、周囲に大きな反響を及ぼしておる、この解決を皆ですね、首を伸ばして嘆願しておるような形で待っておると、
「今にまだそれが解決せないのか」という、皆のですね、気持ですね、非常に混沌たるものが流れておるようです。
「それがあるから解決せよ」と言うんではないけれども、これをですね、最も効果的に焦点を絞ってね、一時も早く解決しなかったらね、まあそりゃ一歩一歩前進しておるとはいうものの、ね、堂々巡りばかりやっておっちゃね、これで、エー、に終始してしまってね、エー、ま、これも一つの仕事の内だと言えば、それは当然のことでもありますけどね、そこを銘々しっかり銘記して、真剣にこれを推し進めていってもらいたいと思いますな。”

『百万羽』という偉大な事業を進めるにあたって、それに先立って私的な個人的なプライベートに属しているはずの〝愛情問題〟の真の解決がなぜ求められるのか?”(わが一体の家族考72)

関係者は皆、戦々恐々として研鑚会の行方を見守っていたにちがいない。
本稿「わが一体の家族考」を始めた動機の一つに、じつはこうしたある意味狂ったような山岸巳代蔵の〝愛情問題〟への取り組みの真意を探るためでもあった。
この〝愛情問題〟こそ、幸福への根本問題で、他はもう枝葉末端の問題だという。
こんなこと公言する人は、自分の知る限り山岸巳代蔵と千石剛賢さんの二人だけだ。
ここで自分らがやりたいのは、「なぜ〝愛情問題〟こそ幸福への根本問題で、他はもう枝葉末端の問題にすぎない」とハッキリ言い切れるその糸口をしっかりと掴むことにある。
ここが〝なかなか容易ではない〟などとつい弱音を吐きそうになると、それは〝自己革命が為されていない〟からだといった笑い声がどこからか聞こえてくる。

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わが一体の家族考(123)

何しにこの世へ出て来たものか

それにしても〝二人一人格〟のイメージが今一つリアルに膨らんでこない。
そこには根強い頑固観念の中にどっぷり浸かって暮らしてきた自分らがいる。
〝恋愛〟といい〝結婚〟といい〝夫婦〟という世界は、人生のある一時期直面する人間社会生活のホンの一部にすぎないという頑固観念だ。何しろ他に社会、政治、法律、産業、経済、教育、宗教等々の分野で取り組むことはたくさんあるのだから、いつまでもたわいもない〝真の幸福結婚〟などにかかずらっているわけにはいかないのであると。
以前にも紹介した「イエスの方舟」の千石剛賢さんは、そんな現状の結婚を

“結婚ってなんだ、良心を麻痺させる淫行の場ではないのか。”

と言い切って、

“男は女を愛することを、大げさでなく、人生最大の意義、ただ一つの価値というふうに分かっとらないかん。”
“夫と妻の素晴らしさは、一体の人格を発見するところにある”(『隠されていた聖書』)
千石剛賢

と強調する。随分こうした飾らない千石剛賢さんの語りに刺激された。
山岸巳代蔵もいう。

“人生最大の意義は「結婚の華」と「よりよき創造の実」の歓びであろう。”
“一体でない結婚など、
夫婦の真字・ふさい

(ふさい)などあり得るものだろうか。
何も出来なくとも、先ず我執をなくして一体に。
知恵、知識、能力、容姿に先んずるもの。”

他はみな真の結婚の何たるかさえもわきまえないニセモノなのだという。だから、

“五十歳、七十歳になった人も、今からでもやり直して、決して遅くはないと思う。
他を責め、批難している自分自らの結婚が偽物だったり、不徹底・不完全なものだったでは、ひと事をかまってるヒマもなかろうし、ただ一日でも真の結婚の妙境に浸ってから逝かないと、何しにこの世へ出て来たものか、人生の意義も覚らず、うとましい限りではある。”

として、諦めないで、

“人間社会を幸福の花園に飾る一番大切なことだけに、五十、六十、七十歳に歳をとろうとも、資格の揃うまでは結婚を焦らないことだと思う。”

と、〝真の結婚の妙境に浸って〟から逝けという!?
自分らは根本的な大思い違いをしているのかもしれない。ヤマギシズムの出発点に未だ立っていないのかもしれない。
共に真面目に考えてみよう。

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わが一体の家族考(122)

二人一人格

毎朝見上げるメタセコイヤの大きな樹がある。最近はもう初夏の若葉から深緑へと移りゆく一本の円錐形の樹形としか見えない。が、しかしそれまでの冬枯れのメタセコイヤはさまざまな想念が去来する実に味わい深い一本の木だ。
というのも写真を見てもらえば分かるように、上部できれいに幹が〝二股〟に分かれているのだ。一本の木が二本に、二本の木が一本に……。
メタセコイアの樹

先の〝二人の一人格〟がイメージされてきて、なにか飽きることのない姿とでもいうか秘められた実態を垣間見たようなドキドキ感を毎度覚えるのだ。
晩年の山岸巳代蔵がいっていた、

“〝同じ二人が一つになれてから〟、そんな〝二人の一体〟から始まるものがある”

これってどんなこと何だろうと思いをめぐらす。たしか〝一つが二つ〟にも二つあったはずだ。ここでは〝不幸との対句ではない〟本来の姿からの一つから発する二つのことだ!
あの旧約聖書の中の一節

“そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”(創世記2:21~2:25)

に重なるのだろうか。
一体の夫婦から始まる本当の仕事があるのだという!?

“そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。
〝一つ〟というのは、離れていようが〝一つ〟が先ず根本になるが、肉体も言葉のやりとりもあるから、出来れば、現象界でも、心の世界でも、〝一つ〟がなおよいのだろう。心が〝一つ〟なれば、離れていても相当良い仕事が出来ようが、もう一つ、〝一つ〟に仕事すればなお良い仕事が出来るだろう。そういう状態にもっていく今の段階。〝一つ〟になって仕事した方が、二人がこっちの持ち味、こっちの持ち味といってやるより、質の異う本当の仕事が出来ると思う。”(第四回ヤマギシズム理念徹底研鑚会)

〝質の異う本当の仕事〟って、どんなこと何だろうと興味は尽きない。
そう言えば次のようなやり取りも興味深い。

山岸 山のあり方なんかだいぶ変わってきて、炊事へ夫婦で行き、人事も夫婦で、と何でも夫婦でいくと、今までゴテてたことが具合よくいくらしい。そういうふうにだんだん変わってきて、やってみると、だんだん能率が上がってきた。また楽しいという。研鑽会も夫婦で出る。総務も夫婦で一役だから、奥さんも一緒に出てるから話もみな通ずる。主人が留守の時も代理でなく、総務として来ているとなっている。総務も十人で十夫婦で二十人。
雄治 船頭が多すぎるのと違うか。
山岸 それが育児、文書、教育となっているので、出てくるとみんな関連があって出来る、といった便利。
雄治 「その人でなければ」と、まごつくことないしな。
山岸 寝てる間でも、夫婦で相談できるらしい。なかなか賑やかになってきたし、物事が簡単に済んでいくらしい。子どもの係でも、最も適当な人が、大事なことやから、しかも夫婦でいく。”(ヤマギシズム生活実顕地について1960.10.6)

そこまで行くの?
二人、即ち〈と共に〉からひらけてくる世界があるというのだ?

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「と」に立つ実践哲叢(36)

 お金より前にあるもの

テクノロジーが自分らの暮らしを劇的に変えつつある実感が確かにある。
小学生の頃視力も良かったのか、日がな一日寝転んで天井板の木目を飽きずに眺めつつ木目の代わりに観たい映画が映し出されたら良いなあと夢見ていた記憶がある。それが今や当りまえに実現している! 

最近〝資本主義〟の先の世界を選ぶ時代がやってくるという驚きの書、『お金2・0 新しい経済のルールと生き方』(佐藤航陽 著) が若い世代に評判だという。
お金20

じつは自分らヤマギシストも、半世紀以上前から「金の要らない仲良い楽しい」をうたい文句に、〝働かなければ食べられない、食べるために働く〟という交換価値や所有欲から来る観念を放すテーマにこの間取り組んできた。そんなどこか肩に力が入りがちな試みに比べて、この書の筆者ら後の世代の人たちの、難なく自然に〝そんなことは当りまえ〟といった語調にすがすがしさを感じた。
例えばお金に対する見方もとても軽いのだ! 現状はお金がないことによって起きる困窮や不安からお金に感情をくっつけてしまい、道具以上の意味を感じてしまいがちだ。そこを〝お金は価値を資本主義経済の中で使える形に変換したものに過ぎず、価値を媒介する一つの選択肢に過ぎません〟として、お金と感情を分けて考えられる新しい「価値主義」を提唱する。

お金2・0とは、従来の資本主義の枠組みでは当てはまらない〝更新〟を意味する。例えば今や仮想通貨(ビットコイン)は既存の国がコントロールする法定通貨とは全く違う仕組みで動いている。あたかも自然界の生態系のように、それぞれが分散して自律的に価値がコントロールされるシステムとして捉えてみるべきだという。
しかもそこでは〝信頼や時間や個性のようなお金では買えないものの価値〟が台頭して、〝儲かることから情熱を傾けられること〟へと〝お金〟や〝経済〟のあり方や価値観が変わろうとしているのだ、と。

そう言えば「物の豊かさから心の豊かさへ」といわれて久しい。なるほどそれがテクノロジーの進化に伴って、共感や感謝などの内面的な価値が基準となる「価値主義」に移ることだったのかと思い知らされる。
また以前アジアの新興国でスマホなどの新サービスが一気に浸透している光景に驚いたことがある。実はこれこそ法規制などの社会基盤整備が進んでいないからこそ実現可能な、途中の発展段階を飛び越す〝蛙飛び現象〟なのだという。謎が解けたような気がした。
カエル跳び

筆者は人間の内面的な価値は現在の資本主義の枠組みでは認識しにくく、ここに新しい時代を創っていくチャンス・生き甲斐・面白みが見いだせるというのだ!
なるほどなあ。心あらばその心意気で「金の要らない仲良い楽しい」を基調にした、既存のしがらみに一切とらわれない〝贈り合いの経済〟まで見通せないものだろうか。

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わが一体の家族考(121)

〝にわにおさまるみよ〟

それでは〝「永遠の母性」への回帰〟の辺りを、山岸巳代蔵はどのように語っているのだろうか。たんにゲーテ一人の人間の特殊な創作として見過ごすべき性質のものではないとしたら……。
例えば次のような箇所だろうか。

“夫だけでも、妻だけでも、何もなし得ない。夫は夫として生きない、妻は妻として生きない。男でないもの、女でないもの。男女寄って初めて、男の、女の、持ち味が本当に生かされるもの。”(柔和子に宛て 1960・2・29)

“僕はママとの、もう一対一で、一対一というより、二人の一人格。これでこそね、生きた仕事も出来るし、もうご飯もおいしいし、生活そのものもいきいきしてくるし、文章も生き生きしてくるし、著書もね。こういうね、こういうあの、結婚様式を、ね、こういうものがあると。相合うもの、最も相合うもの、こういうものがね、結婚できると、で、それでこうなるんだと。”(山岸夫妻を囲む徹夜研鑽会の記録 1960・3・27)
山岸巳代蔵と柔和子

これらの発言は、山岸会事件後指名手配された山岸巳代蔵が滋賀県大津市堅田での潜伏期間中に福里柔和子に宛てた手紙や研鑚会の発言である。なかでも4月12日に警察に出頭する前のこの時期、結婚観についての二人の不一致を解消して愛情の不安定に区切りを付けたいと、山岸巳代蔵は夫婦、真の一致一体により、真の世界へ脱皮することができた実態を次のようにも表現するのだった。

“○にわの、おさまる、みよ(1960.2.26)
○みよは、にわに完全に納まった。(1960.2.26)
○にわにおさまるみよ、オメデトー。(1960.2.27)
○柔らかく和やかな、夫を思い、全人を思う真の愛の女神に温かく抱擁されて、さすがのみよも、にわにおさまる。(1960.2.29)
○にわおさまるみよの初春(1960.3.11)”

これぞゲーテの「神秘の合唱」の詩句

〝とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこそひすも〟

そのものではなかろうか?
あえてヤマギシズム恋愛・結婚観の姿を〝「永遠の母性」への回帰〟に重ねてみた。
それにしても〝二人の一人格〟とは面白い表現だなあと次々と興味をそそられる。

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わが一体の家族考(120)

「永遠の母性」への回帰

いったいどんな意図があってゲーテ(1749-1832)は、『ファウスト』の結末「神秘の合唱」で「永遠の女性」への回帰で締めくくったのだろう。
ファウスト・山本容子画

まるで〝鮭の母川回帰〟と同じではないのか? 鮭の一生は、初期には淡水の清流にすみ、中期は大海に出て大きくたくましく成長する。時がくれば、あらゆる危険を乗り越えて川をさかのぼり、自分が卵からかえった場所にもどる。
しかしものの本によれば、〝サケはなぜ生まれ故郷の河川に戻ることができるのでしょうか?〟といった驚くべき〝母川回帰〟のメカニズムの方に関心が向けられている。
問いたいのは、なぜ〝母〟なのか、なのだが……。

幸いゲーテ晩年の10年間秘書をつとめたエッカーマンにゲーテの談話を記録した『ゲーテとの対話』がある。
その中の1980年1月10日付に、
ゲーテが食事の後、ファウストが母たちのもとへ赴く場面を読んで聞かせてくれて、ゲーテから「これ以上君に明かすわけはいかない。ただギリシャの古代では、母たちが神として語られていたということを見つけた。後は自分で工夫して創った。どこまで掴めるものか、ひとつやってみたまえ」と励まされる箇所が出てくる。
そこでエッカーマンは次のような見解に達している。
○母たちは時空の外に生きている。
○地表に形態と生命をもつものはすべて、創造する存在である母たちから発生する。
○この地上の存在の、発生、成長、破滅、再生という永遠の変態は、母たちの片時も絶えることのない営みなのだ。
○この地上で止むことのない生殖によって新しい生命を得るすべてのものに、女性的なものが主として働いているのであるから、あの創造する神々は当然女性的なものと考えられるであろう。
○もちろん、これはすべて詩的な創作にすぎない。しかも限りある人間の知恵を以てしては、これから先へは進めない。推測はするが、分からない、としている。
ここでエッカーマンは、断定・断言を避けているところが興味深い。きっとそれに先立つ1829年2月18日の次のようなゲーテの発言を受けての見解にちがいない。

“人間の到達できる最高のものは、脅威を感じるということだよ。根源現象に出会って驚いたら、そのことに満足すべきだね。それ以上高望みをしても、人間に叶えられることではないから、それより奥深く探求してみたところで、なんにもならない。そこに限界があるのさ。
しかし、人間はある根源現象を見ただけではなかなか満足しないもので、まだもっと奥へ進めるにちがいない、と考える。”

そう言えば自分らもいつも研鑚会で、
「すぐに当たり前のことにしてしまう」
「持って生まれた感応能力を磨かないと」
「知識や体験からは本質は見えない」
「目の前の事実そのものから、もっと新鮮な驚きを」
「ただ感心するだけでなしに……」
「知者の振る舞いをせずして、唯一向に念仏すべしと。ただそれだけ」
と諭されたものだ。

ともあれエッカーマンは、この不思議な場面を何度も繰り返し静かに味わいながら読んでみて、喜びをおぼえたと記している。同感だ。〝温かく包み込む母性〟にひかれる自分らがたしかにいる。

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わが一体の家族考(119)

『ファウスト』〝神秘の合唱〟

また三木成夫は学生時代から在野の哲学者・冨永半次郎(1883―1965年)に師事していた。そして文豪ゲーテが生涯を賭けて完成させた戯曲『ファウスト』の結末「神秘の合唱」の富永半次郎自筆の七五調の訳を研究室に掲げていたという。
富永半次郎自筆

“神秘の合唱
ものみなのうつろふからに
さながらに色とりとりにうつるなり
かけてしも思はぬことの
こゝに起き
ことはにも筆にも堪へぬこと
こゝになる
とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこそひすも”

1行目の〝うつろふ〟は移ろふか。2行目の〝うつる〟は映るか。〝とこおとめ〟は永遠の女性か。
なかでも最後の〝とこおとめおとめさひすとなよよかに われらひかれてをとこさひすも〟との訳がじつに味わい深い。ちなみに森鴎外は「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ」と、高橋義孝は「永遠にして女性的なるもの、われらを引きて昇らしむ」と、池内紀は「くおんのおんなが、われらをみちびく」と訳している。
三木成夫は次のように記している。

“ひとびとはこの宇宙の原形を在る時は「kosmos」と呼び、また在る時は「天」と呼ぶ。ファウストを完結させる〝Das Ewigweibliche(永遠の女性)〟の表現は、まさしく、こうした万物生成の天然の姿を、いわゆる大地母Magna Materのそれに託して披露した、それは文字通り〝根原秘奥への賛歌〟と見られるものであろうか……”(『人間生命の誕生』)

いったいなにをゲーテは、三木茂夫は言おうとしているのだろう? 当てずっぽうな物言いになるかも知れないが、かのゲーテが〝永遠の女性〟という表現に託した生涯とらえて離すことのなかった世界、山岸巳代蔵の「万象悉く流れ、移り行く」と呼べる世界、の解明にこそ、自分らがこの間追い求めてきた「秘められた実態の把握」に繋がるものがあるのではなかろうかと、ひどく好奇心をそそられるのだ。
山岸巳代蔵を始めこれら先達諸氏の未だ自分には謎めいたコトバは、共通して人間の中の「男と女」に、「人間」であるという本質的なものと「異性」であるという本質的なものとの両方を見極めようとしているかのようだ。
どういうこと?
一言でいうと、未だ生きられていない「男女の性」の世界を基調とした本質的な人と人との繋がりの世界で生きようというのだろうか……。
こんな自問自答が繰り返し脳裏に浮かんでくる。

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