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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(182)

人生踊りの踊り場
鶏舎の止まり木

それにつけても〝質の異う本当の仕事〟の内実に迫っていくならば、どこから入っていけばよいのだろうか。そもそもここでの〝本当〟とか〝生(活)かす〟とは何を指しているのだろう?

この間の今や一般から見て関心は薄く、顧みられない〝本来ある男らしさと女らしさ〟といった記述にどんな意義があるのだろう?
そうした自問自答をくり返していると、あの煉獄の苦しみに象徴される〝一人ぼっちのさびしいもの〟とあの通じ合わなさが溶けた時のなんとも言えん〝喜び〟の気持ちの二つの場面がありありと浮かんでくる。
なぜかそこに本当の幸せ・仕事というか宇宙自然に繋がっているものの中の人間で出来る、人間だけしか出来ない、またしなければならないものが浮かび上がってくるようなのだ。
振り返るとずっと、〝ヤマギシの村づくり〟と称しては、

○らしさ――村の男 村の女 村の子供 村の青年 村の娘 村の老人等、各位で村人らしさに治まる。
○我執が無くなれば、その人はその人なりに素晴らしくなれるもの。

等々といったテーマで研鑽してきた。
しかも普段の仕事・作業は養鶏が主だったからか、鶏が夜眠る場所である止まり木の例えで〝理想社会〟の仕組みをイメージすることが多かった。曰く

○中高・後高の止まり木には一羽一羽の適応・好みの場が得られるような環境で、一つの場を何羽かで争うことはない。
だから鶏が止まり木に上がり始めた時、蹴落としと見るか、それとも自分の場を見つけるまでの間と見るか。
○そんな観点で一人ひとりが無理をしない理想社会の一面を描くと、人間も一人ひとり治まる場に治まっていく・治めていく、そんな姿があるはず。相手の場に押し入らないような……。
だとしたら一人ひとりのどこに焦点を当てていくのか?
○鶏が100羽居れば100羽の空間が等しくある。偏っていない。鶏の居る空間を観れば、その鶏の正常健康な状態がわかる(配置がよい)等々。

どうも、〝調和(相合う)を図る〟とか〝組み合わせ〟とか〝配置(場所)〟とか〝らしさ(らしく)〟等々に込められてあるものの探求が理想実現への急所らしいのだ!?
そう言えばよくネズミの被害が話題にあがった。鶏の餌が原因で極端に異常繁殖したりして、日々その対応策に追われがちになる。
ネズミにしてみたら食物があるから繁殖して子を産んで、嫌われて毒なんか盛られて殺されるのはよい迷惑かもしれない。
だとしたらすでに産まれたものを殺すのでなく、前もって住めないように人為を講ずる事が求められる。
つまりは共生共活・調和・適材適所というか、それぞれの場に就いて、活かされる場所に生きたらよいだけなのだが、そんなネズミ退治(?)の話から理想社会づくりまでに即飛躍して繋げてしまえるところに日々の面白さを実感してきた。

ネズミにはネズミの住むところ、人間には人間の在り場所があり、宇宙自然に繋がっている自分に最適の位置があるはず。仕事でも自分に最も合うところがあるはず。そこには他のものを侵すこともないし、仕事がイヤだと思うこともない。
そうした相合うというか調和をどこまで図れるか、その組み合わせを研鑽でやっていこうとするところに〝ヤマギシの村づくり〟の醍醐味があるのだろう。

先の作家・村田沙耶香さんは本当の本当を求めて思考実験小説『消滅世界』(わが一体の家族考179)を表現されたように、ヤマギシズム理念実顕生活というか、
「共存共生の世界
 たれのものでもない
 たれが用いてもよい
 最も相合うお互いを生かし合う世界」(1960.1.13)
観に立って見ると、

○その人なりの範囲を尊重しつつ、
○その人らしく生きてもらうために他のものが替わってやることもあり、
○そんなお互いがらしく生きる世界には、機構・制度・法律や警察などは余り要らなくなってくる。むろん皆の目につく所に貼りつける張り紙も要らなくなる。

といった理念が生きてくる人生踊りの踊り場、即ち生きている間の慰みにもなるような場づくりが渇望されてくるようなのだ。

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「と」に立つ実践哲叢(47)

ポンとそれに飛び込む
雪の崖を登る熊の母子

以前、雪の崖を登る熊の母子の動画が話題になっていた。
斜面の上から母熊が心配そうに見守る中、子熊は必死によじ登ってくるがもう少しのところで滑り落ちてしまう。それも急斜面のかなり下の方まで滑り落ちるが、子熊はあきらめず再び斜面をよじ登り始める。そしてついに子熊が何とか母熊の元にたどり着くと、何事もなかったようにまた一緒に雪の道を跳ねながら去っていく。
その元気よく嬉しそうに走り去っていく後ろ姿に〝よかったね!〟と誰もの心をグッと掴むものがあったのではないだろうか。

わずか3分に満たない映像に、〝ガンバレ〟と滑り落ちる子熊を応援せずにはいられなかったり、無事お母さんと一緒に嬉しそうに走り去るしぐさに、なぜこんなにも胸の中が熱くなるのだろうか。
たんなる人間の側からの勝手な思い入れに過ぎないのだろうか。そして心温まる情景の一つとしていずれ忘れ去られていく。

しかし、それにつけても、熊の母子の姿におぼえるこの心のときめきの正体はいったい何だろうと想いを馳せていると、何か不思議な感情が充ちてくる。
自然と人は一体のもので、人は自然から産まれたもの。この事実はそのまま熊の母子にも当てはまるだろう。そうなのだ。自分らはあの熊の母子の姿に、きっと熊の〝こころ〟を見ているのだ!

そんな事実その中での新鮮な気づきを、本紙四月号に載っていた研鑽学校に参加してのIさんの手記からも感じとれた。
研鑽会でテーマ〝私の原風景〟を出し合った。要約してみる。 
 
父は私が五歳の時に病死。母は父の死後一年ぐらいで働きに出て、私は弟妹の母親代わりをしていた。
そういう日々の中で、夕暮れになると母が恋しくて、五歳、二歳の弟妹の手を引いて母の働いている所へ行くのだが、「帰りな!!」と言われる中で「今日は迎えに来てもいいよ!!」という日があって、その日はお菓子かりんごを買って貰える日で、朝から嬉しくて、早く暗くならないかなあとワクワクしながら暗くなるのを待ち、ようやく母の顔が見えた時の嬉しかったこと。
そのことが、悲しくて辛くて苦しいことと思っていたことが、その時の自分と向き合った時に、嬉しいことだったんだと思え、切なかったり苦しかったりばかりだと思っていた母の人生が、一瞬のうちに、明るい楽しいことのようにキラキラと光るものに見えたというのだ。

その時のお母さんの眼に映っていたものはそのまま今のIさんの目に映っているものだ。それは懐かしい思い出では決してなかった。何ともいえない嬉しい気持ちがとめどなく溢れてきて、今の私に会いにやってきたのだ!

前述(本稿44)の山岸さんの弁を借りれば、ポンと〝それに飛び込んでゆける私〟って、こんな感じなのだろうか。

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わが一体の家族考(181)

全人幸福いずこにありや
歯車の組み合わせ

ともあれここまでヤマギシズム恋愛・結婚観に基づいて「最も相合うお互い」を見出し「生かし合う」というのも、人間として何をどう考えて、どのように行なうかと云うあたりにつきるのだろう。山岸巳代蔵はいう。

“人生最大の意義は「結婚の華」と「よりよき創造の実」の歓びであろう。”

すなわち、「素晴しきは、真の結婚と生涯かけての行蹟」であるとしている。
夫だけでも、妻だけでも、何もなし得ない。夫は夫として生きない、妻は妻として生きない。それでは男でないもの女でないもの。男女寄って初めて、男の、女の、持ち味が本当に生かされるもの。まして気持ちの離れた夫婦では、絶対に本当の仕事は出来ないとするのだ。
では〝歓び〟や〝素晴しき〟に通底する本当の仕事とは? 次のような発言もある。

“そこにちょっと、昔の出家はあれで本当の仕事が出来たかどうかを考えてみたい。あれが自然の姿かと、それでは本当の仕事になったかどうか、ということ。これが健康、幸福な条件と言えない。その人は仕事が出来たと思っても、逆なことになってたかもしれん。
そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。”(第四回理念研鑚会 1960.9.10)

こうした観点から無固定の結婚形式とか男女の組み合わせ一つ採り上げても、お互い好き同士の〝お似合いのカップル〟にとどまらず、〝最も一番相合う〟夫婦の繋がりでいこうとする方へと掘り下げられていく。
例えば次のような発言もある。

“仕事しようって、そんなものでないね。そんなもんじゃないね。僕はね、こういうこと言えると思うの。ずーっと一貫してんのね。この、固定のない結婚観ね。固定のない、誰だ彼だっていう、こりゃちょっと、一端聞いたらまたどういうふうにとられるか分からんけども、固定のない結婚観。だからもう大村公才っていう、誰かにもっとも適当な人達に利用してもらったらいい。活用、活用というかね、いろいろ相合う人があると思うの。
僕の、またこんな話入っていいか知らん。これを間違っているか検べてもらったらいいと思うけども、僕のその考え方では、女は、女性と男性と違った部分がたくさんあると思うの。女性は、「こんな男」と思ったら、もうイヤになってくるの。また男も、女に対して劣等感感じた時には、とても重荷感じるの。いろいろの、こらあの、要素があると思うけども。女の場合と男の場合は一応これ掴まえ、違うかも分からんと、どういう点が違うかと、これの検べも必要やと思えるの。やはり心から尊敬する人でなかったらっていうかね、そうでなかったら肉体も、むろん精神的が肝心で、肉体も、あの、どうしたって汚れるような気がするのだと思う、女の場合ね。その反対に、男は、男よりも劣った女性というか、なんかこう、劣ったってというたら、これは劣等感とか優越感とか、そういうもんでなしに能力的に劣ったとか、いろいろな点であると思うの。でまあ、その男を、やはり心から尊敬できる女性というのは、その男が、「物足らんな、こんなくだらんな」と思ったら、これはもう、それこそもう堪らんだろうと思うの、女の場合に。そういうのが多いというかね、そんなもんやないかなと僕には思えるの。”(「徹夜研鑚会の記録」1960.3.27)

きっと山岸巳代蔵の胸中を、〝これはどう考えても、これじゃなかったら、うまくいかん。世の中うまくいかん。これじゃなかったら、うまくいかんものやと、こう思ってきた〟と何度も何度も普遍性・真理性に照らした場合どうなのだろうかとよぎるものがあったにちがいない。たえず〝本当はどうだろうか〟の知性が働いていたのである。
そこには全人の優れた公器をあたら傷つけ汚したくない気持ちがあった。それゆえ組み合わせに於いて将来もっと良いのがあった場合等々に備えて、

“お前が相合う者できたら、そちらへ行くこともあるし、私も最も相合う者ができたら、そちらに行くこともある”

という自由の〝観念〟をはじめに入れておくことの大切さをもダメ押しする。
最も知性的に、効果的に、人間に与えられた最大の贈り物というか、恩典に浴し得るよう方向に全てを賭けて生き貫いてきた。
ただそれを実証づけるものは、〝先ず夫婦一つだとの観方に立って〟の〝ポンと外し、ポンと夫婦の本質の中へ飛び込む〟実践だった。
ここにおいてはじめて〝零位よりの理解を〟の真骨頂が発揮されていく。

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わが一体の家族考(180)

零位よりの理解を
人間そのものの革命

先の〝AI化した結婚調正機関〟

“ボタン押したら人工頭脳でポンと出て来る。好きになる前に調べる。キスも握手もない中に、純処女・童貞でいける。一人一人のカードが出来る。それで鑑定したら、一○○%近く一生いける程度のものは出来ると思う。実験しつつ、そういう機関を作ることに、今すぐ自分のこととして踏み入れることよ。”

と提言する山岸巳代蔵の先見の明はたんに現状からの精神革命に留まらず、〝人は自然から産まれた〟とするその〝自然〟に対しても自然概念の変更を迫っていく大胆な知性(考え方)にまで及んでいる。
そのことに今頃になって驚かされる。最近のバイオテクノロジーとコンピューターサイエンスが融合する「クリスパー・キャス・ナイン」(CRISPR−Cas9)というゲノム(遺伝子)編集技術を使って人間の遺伝子を自由に編集できるようになってきたニュースを通して、人間そのものの心身のあり方が根本的に書き換えられようとしている世界の潮流を知らされてからだ。
山岸巳代蔵の理論はちっとも奇想天外・突飛ではなかった!?
ここへ来て全世界の頭脳・科学技術は、ヒトゲノムが解明された事によって、ゲノムを編集することで難病を治し、食糧問題を解決し、〝デザイナーベイビー〟を現実化する方向へと集注している。
あの山岸会趣意の中に盛られた一節、山岸会の目指す理想社会の内容を指し示す

“4 学問と実験を基として体質を改造し、疾病を排除し、外観実質共に優秀なる子孫が生まれ
5 自己の延長である同属子孫の幸福と繁栄を招来せん、との目標を同じくする全世界の人類間に、提携と同属愛の優美な心境を造り
6 物心両面共に他を侵す必要なき、協力社会を指向する。”

世界へと世界の潮流は急接近しているかのようにも見える。
加えて1954(昭和29)年に記された「知的革命私案」では次のような見出しを掲げて、
○人種改良と体質改造を
○百万人のエジソンを
○女性は300人近くの直子を遺す
○体質改造 等々。
愛児に先天的に、生まれながらにして不幸の原因を背負わせてはならないとすることと、頭脳及び体質などの悪性遺伝は子孫に不幸を齎すものであるからと、

“かような重要問題を自然にまかせ、等閑に過ごし、偶然変異の僥倖を期待せず、知性による積極的方策を断行します。”

と自信(?)のほどをのぞかせるのだ。
要するに、優秀な先天的遺伝形質を持って産まれた上に、環境適応変化性や、人為所作によって、人間の幸福条件を完全ならしめるのだというのだ!
参考までに1959(昭和34)年頃、全国指名手配されていた山岸巳代蔵が潜伏先で書き綴っていた「繁殖について」の一文を挙げてみる。

“キリストは無精子繁殖の奇蹟を敢行されたのか、信ずる人は信じている。しかも、女性マリヤが男性キリスト分裂とは、奇蹟の奇蹟たるところ。その事実を知らない者はとやかく論ずる資格もなかろう。
創世紀の事はわからないが、現在までにキリスト以外の人は全部異性細胞核交合による繁殖をしてきたようだ。
即ち、植物が開花して雌雄両性の結合による種実繁殖をしている方式の方の繁殖法を採用している。今一つの繁殖法としては、体の分裂による無異性自家繁殖法が、種族により、動・植物、微生物に行われている。
この方法も人間の繁殖に取り入れられないこともなかろう。体細胞を子宮構造内で養育するだけのことで、この方法によると、一人の人体から異性なしで幾億人かの同性・同形質の人が増殖できる。
甘薯の根茎を適宜の単位に分けて、環境条件を備えれば、同種繁殖が無限大的に出来る。菊・柳・その他も、寸断して挿木繁殖が容易で、ヒトデもバラバラにして海に戻せば、個々に体を構成する。
人間実験では指を切り落した跡へ、生理条件の適切な場合は、爪を具備した新しい指を形成する。
切り落した指も適切に養育すれば、切り口からその残された指に、無い部分の体が新成されて、指一本から一人ずつ同形質の人が出来る理。これは挿木式ではあるが、人間の場合、今の科学技術ではかえっていろいろの障害もあり、実用的には単一細胞増殖法の方が効率が高いと思う。求める男女、憧れの異性が、型に嵌めたように同じ顔して頭して、要求数だけ満たされるわけで、心に染まぬ人と結婚の真似事をし、下手に交配して似ても似つかぬ醜女・愚息を産まねばならぬ心配がない。
優秀な人が突然変異で出現した場合などの用意に、今から、物理科学者の月界旅行の準備と併行して、世界の生物科学者の真摯な研究と実現を期待する。
次は、精子・卵子の結合した受精卵子の他床養育法で、排卵に対し、排卵主、または受卵主の体内で、或いは体外で、受精した卵子を養育、受卵主の体内、または他の子宮構造に着床さして胎生を遂げ、嬰児期まで生育さす方法である。
この方法は、女性が類例少ない優秀な遺伝形質を持っている場合、一個の卵子をも廃棄せないで、劣悪遺伝因子に対して優生交代の目的でするものである。
普通、一人の優秀女子は一代に二百~三百人の直子を出生することが出来る理である。これの結合精子は優生遺伝繁殖学的に精子に伏在する形質遺伝因子の特長を精密に調査し、卵子に最も適合する優秀な交合を行なうもので、優秀精子は無計数的に他の卵子と交合できる理である。”

今日までの因習・道徳・宗教観に捉われがちな非理念観念から見たら、あのナチスドイツにおける優生政策に通じる優性思想として誤解や曲解をされ、危険視・糾弾されるに違いない主張・理論だ。
いつ警察に踏み込まれるか分からない不安な追いつめられた心境からの、とんでもない妄想に過ぎなかったのだろうか。

しかし山岸巳代蔵には、〝鶏の産卵は腹中の消化器にあり、目に見えぬ染色体にあります〟として実際に自ら交配に取り組み、環境適応性や抵抗性の高い交配種「山岸三号種」を作出し、その育雛が質的に広く受け入れられた業績があった。
そこには幾多の形質遺伝因子の組み合わせ所謂〝合性〟についての、30年を超える寡黙裡の地道な実験と観察・研究があった。
時流に乗った場当り的な軽薄なもので絶対ないとするヤマギシズム理念の実践による立証があったのである。

こうしてみてくると、〝幸福〟とか〝健全な心身〟とか〝相合う〟といった言い古された言葉の底知れぬ奥深さに圧倒される思いがしてくる。
もうここまで来ると、今世界で起きていることは〝零位よりの理解を〟といった理解の仕方を俟ってはじめて理解されるべきことなのかもしれない。

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 「と」に立つ実践哲叢(46)

喜び、喜ばし合いの世界
伊勢エビ

実顕地というとき、その外形や建物を実顕地と考えたり、集団で生活しているのを実顕地と思ったりしがちだ。いやそうではなく、一人ひとりがイズム生活をしている実態が実顕地といえるはずだといわれて久しい。
もう十年以上も前のこと、〝伊勢エビ〟の話題で盛りあがったことがある。

ある日伊勢エビ五匹が頂き物で食生活部に届いた。困ってしまった。皆で200人いるのだから、どうやって分けたらよいのか?
研鑚会に出してみたら、「なんで困るの? この人にどうぞと丸ごと一匹出してみたら」「えっ、食べれない人が多くなる」「それでいいんじゃないの」
そこでやってみることにした。夕食に色鮮やかに焼き上がった伊勢エビが四匹並び、そこに四組の名前が書かれていた。

その日食卓で食べた人は、抽選に当たったのかなあと気楽に食べた人、私は70歳以上だから貰えたと思った人、皆の目が気になってさっさと食べて片づけよう、殻なんか付いてなかったらよいのにと思った人、とても美味しく食べさせて貰えたという人等々。
食べなかった人は、どうして俺にはないんだ? どういう人が選ばれたのかな? 誰が四組を選んだのか? 食べている人を見て嬉しく思えた等々。 
残りの一匹は、やっぱり出すからには味見をしなきゃね、と食生活の人で美味しく食べたとのこと。

この〝伊勢エビ〟の話がいろんな場で話題になった。各実顕地から寄ってくる研鑚会では、「うちは考えている中に腐っちゃう」「うちはえびせんにして皆に出すかなあ」「うちは老蘇さんにあげる」「この前、和菓子を四個貰ったんだけど、20人でどう分けたらいいの? 一つを五等分に切るか?」等々と大笑いしたことがある。

今から振り返ると、この頃から実顕地の日々の暮らしが研鑽に軽く出されるようになってきたのではないだろうか。
もちろんヤマギシズムでの研鑽はそれをいくら上手に解説できても何の効果も出ないことぐらいは誰もが知っている。ではどうしたらけんさん理念が暮らしの端々にまで浸透していけるのだろうか。ずっと普段着としてのけんさんを着こなしたいと夢見てきた。
そういえば実顕地構想の中身を実践する研鑽資料に次のような一節があった。

「今度提案しようと思ったが、酒瓶を中央に置いて、みんなが喜んで、飲む人で飲んで、喜べるようにやってみたらと思ってる。菓子でもよいし。子供に食べさして嬉しい、おじいさん、おばあさんに飲まして嬉しい状態。みんなが喜びの中で、こんなもんいけると思うの」

あれっ〝あなたを喜ばして私も嬉しい〟って、普段の暮らしそのものでは!? 
そうか、〝ヤマギシズム理念を生きる〟ってこんな感じなのだろうか。〝美味しい〟〝嬉しい〟という感覚が湧き出る源泉に触れた思いがした。

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わが一体の家族考(179)

思考実験小説『消滅世界』
レオナルド・ダ・ビンチ『受胎告知』

禁断の果実を食べたせい(原罪を犯す)で快楽とか恥じらいを知って楽園(エデン)から追放された聖書の〝アダムとイブの話〟から、だとしたら皆が楽園に帰っていく〝アダムとイブの逆〟をいく世界はどのようにイメージされてくるのだろう? 
セックスも家族も男女の差も、もちろん恋愛も世界から消える……!?
そんな奇想天外、荒唐無稽、SF的な思考実験小説『消滅世界』(村田沙耶香)に触発された。
一読して、さもありなんと思った。この間の自分らの〝理想実現〟と称しての様々な取り組みを通して思い当たるふしに触れるのか、他人事ではないリアルさで迫ってくる。

主人公雨音(あまね)は、今では時代錯誤の両親が好きな人と愛し合って、結婚して、産まれた子だ。時代は人工授精で子を授かるのが一般的になり、人工子宮の研究から男性でも妊娠・出産が出来る研究も進み、誰でも一人で妊娠できるようになって、わざわざ家族をつくる必要もなくなってきている。
むしろ家族は、恋やセックスをしないでいられる清潔な唯一の安らぎの場所なのだ。というのも、昔の交尾の名残で恋愛状態になることもあり、それをアニメのキャラクターでのマスターベーションや性器を結合させるやり方(セックス)で処理する場合もある。恋愛は下半身の娯楽と見なされ、よりによって奥さんと性行為するなんて考えられないからだ。恋と性欲は、家の外でする排泄物のようなものと見なされている。
夫婦間のセックスなんて近親相姦と忌み嫌われ、原始的で動物みたいで、気分が悪くなる、ぞっとする、不潔で不衛生で変質者と見なされている。
そこで古風な時代遅れの恋とセックスの真似事を続けていることに耐えられなくなった主人公夫婦は、〝恋のない世界〟へ逃げようと決心する。
そして家族というシステムによらないで、子どもを育て、命を繋いでいくという人間の一番大切な目的を果たす千葉の実験都市『楽園(エデン)システム』へ移住する。
そこでは男性も人工子宮によって妊娠ができる、家族によらない新たな繁殖システムが試みられていた。
人工授精で人口もコントロールされて、生まれた子どもは住民全員で育てる。みんなの子どもは『子供ちゃん』と呼ばれ、『子供ちゃん』は大人たちを(男女関係なく)『おかあさん』と呼ぶ。
夫も人工子宮の手術をして、出産する。そして雨音に呼びかける。
「僕たちはついに楽園に帰ってきたんだ。子どもを産みおとし、すべての子どもの『おかあさん』になる。僕たちはたぶんずっと、間違えてきたんだよ。セックスをしなければ子どもが生まれなかった時代の風習を捨てきれずにさまよっていた。ここはなんて懐かしい世界なんだろう。そう思わない?」
するとすべてが私の子供だ、という想いが雨音の中から沸きあがる。だったら私が「本能」とか「生理的」などと言って信じていた感情や衝動と、まったく違うものが身体の中に芽吹いてくるのだ。

読者の感想もとても興味深い。
○SMAPの「世界に一つだけの花」には共感するのに、現実には個性なんてものは排除し、シカトし、隣と同じであれば安心する日本社会への作家さんの叫びを感じられる作品です。
○ラストは、伊藤計劃の名作「ハーモニー」の結末のような虚無感が漂うが、後味はかなり悪い。妊娠している方、これから予定の方にはお勧めしません。
とはいえ、最近「除菌」や「無臭」を売りにする商品が多いが、世の中、「清潔社会・無痛社会」へと確実に移行していることは間違いない。
○文中の交尾・欲望処理、、という言葉を、愛、恋、あこがれ、ということばに、子供ちゃん、ということばを、「子供は社会の宝です」に置き換えてみると、これは別に不思議な世界や未来世界の話ではないのではないかと思えてきます。
○本作で描かれるパラレルワールドは、ソクラテス/プラトンが思い描いた哲人統治の基盤とそっくり。「国家」を読んで「非現実的だけど、確かに社会の理想の姿だ!」と胸熱だった人は、読んで寒気を覚えること請け合いです。
○SFなんだろうけど、思考実験というか、最近セックスレスについて考えていたので、その先にくるものとしてこうなるのか、あるいはセックスというものは、人生とか人間関係とか、はたまた生物的にどういう意味をもつのかと考察できて、とても勉強になった。
○家族、恋愛感情、母性、その他もろもろ人間の根底の大切なものを無くすとこう言う世界になるのだろうかと怖くなる。しかも、生産されてくる子供が全て画一で同じ無個性なもの。それがさらに怖い。(Amazonカスタマーレビュー)

執筆の動機を著者は語る。
「『本当の本当』という言葉が私の小さいころからの口癖。本当の家族や愛って何?って」
「現実の足かせがあって見えにくい丸裸の、真実の人間の姿を探したいという希望があって、小説で実験を繰り返しているんです」

それにしても著者の〝アダムとイブの逆〟を遡っていくイメージはとても刺激的だ。
ふと聖書のマリアの処女懐胎が思い浮かぶ。

“見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(ヘブライ語で「神われらと共にいます」の意―引用者注)と呼ばれる”(マタイ伝 1章23節)

ひょっとしたら女性マリアが男性キリスト分裂の奇蹟を連鎖関連的に呼び起こすといった、人間の〝本質改良〟まで視野に入れて探求されていくのがヤマギシズム恋愛・結婚観の秘められた真意かもしれない!? 

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わが一体の家族考(178)

〝結婚調正機関〟に?
『ホモ・デウス』

そうした夫婦二人の一体からはじまる世界に向けて、必然夫婦の〝最も相合う〟繋がりが大きな要素として浮かび上がってくる。
それにしても遠く離れた人との結合ほど良縁で、優秀な子孫が産まれる事実から、幾千里離れていても夫であり妻であるという〝人と人との繋がり〟の計り知れない実態には驚かされる。

そこからの、全人残らずただ一人の不幸な人もあってはならぬとして、誰にでもその人に最も相合う組み合わせがあり幸福な人生があるはずだ、というやむにやまれぬ人間至情のあらわれが伝わってくる。
一例として、古くから男女の間で〝運命の赤い糸〟の仲立ちをする仲人(なこうど)の仕組みを備えた〝結婚調正機関〟なるものについての発言がある。
その知的な緻密さや描きの半端なさに圧倒される。

“実際問題になると、いい加減なことで、「高砂や」になり、「仲人が入ったから大丈夫」などしていても、選定法そのものが、一番重要な条件からいかんならんのに、範囲狭く、機会も少なく結んだり、肝腎な条件を見忘れていることも多い。
インチや太さは少々違うけど、かなり合うのが見つかったら、十分の調査機関を通した方が高い訳で、誰とでもいいが、二人が最も相合う度合いの高い純処女・童貞状態で結婚する。
恋愛も、そういう知的な面でも相合う面を調べて、最も良い状態ですれば、そこに公意行が出てくる。最上とはいかなくても、それに近いもので、恋愛に入り、見合いの場、出会いの場を、デートする。
心の動きを、男は男の調正係、女には女の係が見る。そしてAとBはいけるなあとかどうとか見て、むしろ引き離すようにしたり、揺さ振ってみたり、それでも深くなるか、離れるか、全然反応ないか、片方が焦げついて片想いになるような殺生なとこまで進行させないで、最上に良いのを狙っているが、絶えず変わるかも知れないという観念を入れとく。
男に女の係、女に男の係など入って、その係との間に妙な関係になってしまったり、仲人が味見るというようなことになっては、何のための調正機関になるか分からぬ。
深まらないうちに状況観察すること。くっつくようになったら離そうとして、待て待て、待て待てとして、寄ろうとすると寄せないようにして、試験の期間を持つ。恋愛が寄って肉体にすぐ入るというようなことないようにして、清潔な交際をして、最高潮に来るまではなかなかにして、そういう状態を楽しむ訳。すると相手の欠陥もみな分かってきて、一生一緒にいきたいというとこまで、堰が切って外れるとこまできて、その時初めて調正機関の断を下す。これは親、本人の意見も入るし、親だけの見る目より確か。これは難しくない。銀行や造幣局は要らぬから、彼等をみんな調正機関に振り向けてやれる。”(研鑚会記録「無固定結婚観について」1960.7.4)

なんと〝銀行や造幣局は要らぬから、彼等をみんな調正機関に振り向けてやれる〟というのだ!? 
ヤマギシズムでいう理想社会とはお金の要らない贈り合いの世界を指すのだから、必然銀行や造幣局は要らなくなる。その余った人員を結婚調正機関員に振り向ける? 
だんだん深入りしていくと荒唐無稽な話になって訳が分からなくなってくるようだ。しかも初夜から幸福になんて、いかにも古くさい時代に乗り遅れた感じがしないでもない。

ところが、なんとテクノロジーとサピエンスの未来を予測して世界中で話題のユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』では今世界で起きていることの一つ〝親身のカウンセリングサービス〟について言及されている。
すでに自分らはIT企業GoogleやAmazonに検索や買い物でお世話になっている。ユヴァルは記す。そのうち〝私たちの多くは、自分の意志決定の過程をそのようなシステムに喜んで委ねるのではないか〟と。そのようなシステムとは例えばこんな具合だ。
ジョンとポールに言い寄られて心を決めかねている女性に対して、グーグルは答える。

“そうですね、あなたのことは生まれた日からずっと知っています。あなたのメールは全部読んできたし、電話もすべて録音してきたし、お気に入りの映画も、DNAも、心臓のバイオメトリックの経歴も全部知っています。あなたがしたデートについても一つ残らず正確なデータを取ってあります。お望みなら,ジョンあるいはポールとしたデートのどれについても、心拍数と血圧と血糖値を秒単位で示すグラフをお目せすることもできます。……これら一切の情報と、私の優秀なアルゴリズムと、何百万もの人間関係に関する数十年分の統計に基づくと、ジョンを選ぶことをお勧めします。長期的には、彼のほうが、より満足できる確率が87パーセントありますから。……”

これって、AI化した結婚調正機関のこと?
たしか研鑚会(1960.7.3)の発言の中でもいう。

“ボタン押したら人工頭脳でポンと出て来る。好きになる前に調べる。キスも握手もない中に、純処女・童貞でいける。一人一人のカードが出来る。それで鑑定したら、一○○%近く一生いける程度のものは出来ると思う。実験しつつ、そういう機関を作ることに、今すぐ自分のこととして踏み入れることよ。”

あらためて山岸巳代蔵の先見の明に驚かされる。
幾千里離れていても夫であり妻であるという〝人と人との繋がり〟の計り知れない実態に立って、いっとうはじめに〝結婚調正機関〟なるものをつくり〝夫婦二人で一つ〟から、自ずとこの世の仕組みを変えていこうというのだ!


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わが一体の家族考(177)

知的革命たるゆえん
おむつセンサー

ちなみに現代社会では、〝男らしさ・女らしさ〟についてはどのように受けとられているのだろうか。
たまたまネットで「日本青少年研究所」による日本・米国・韓国・中国の高校生各千人を対象にした〝男らしさ、女らしさに関する高校生の意識調査〟(2004年発表)を見つけた。
総じて男女とも日本の高校生の、男らしさ女らしさに対する意識が薄い傾向が見てとれる。
読売新聞の社説でも、「女は女らしくすべきだ」を肯定した日本の生徒が少なかった事などにもとづき、「教育界で流行している『ジェンダーフリー』思想の影響を見て取ることができる」とし、その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している」と結論づけている。

しかし当の若者達は、ジェンダーという男女の区別を示す社会的・文化的概念にこだわるよりも、むしろ「らしさからの解放」とか「その人の個性を尊重」とかにAIを基にしたグローバル経済社会に適応した自由で快適な感じ方や行動を無意識に感じとっているのだろう。日本には古くから「男は度胸、女は愛嬌」といった男女の〝らしさ〟の妙を伝えることわざも、今や色褪せた死語になりつつある。曰く

○男女の別にとらわれることなく、自分らしく生きるべきだ。
○あなたは、男である前に、女である前に、一人の人間です。
○私が考える理想の社会は、男女の差別も性的マイノリティーに対する偏見も無く、誰もが自分らしく生きる事が出来る社会です。
○自分が着たい服を着て、自分がやりたい髪型にして、自分がしたいメイクをしていいんだよね。
他人が決めた あなたらしい・・・
と言われる姿になろうとしなくていい。
自分が自分でいたい姿でいいんだと思いますね。
○茨城県古河市の平成30年度一行詩「男女の詩(ひとのうた)」最優秀賞作品に、
「男らしさ 女らしさ 重要ですか? 大切なのは自分らしさ」(30代・女性)とあった。

いったい今何が起こっているのだろうか?
本当は男女の〝らしさ〟も〝自分らしさ〟の追求・発揮も同じ質のものなのに、いろんな観念が邪魔してか二つの課題を同時に考える時に複雑になるのだろう。
しかも肝心の〝自分らしさ〟も、〝AIを基にしたグローバル経済社会に適応した〟自分に特化されている。
先の「卵の価値は〝生きる力〟だ」と聴いた場合、素直に「ああそうかな」となるのと、「何も形してたら、売れたらよいやないか」と二つあるようなものだ。
金の要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば到底不可能だと頭ごなしに否定するようなものだ。
これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているにちがいないのだ。

一事が万事で例えば今、赤ちゃんがおしめを濡らすと音がなって知らす〝おむつセンサー〟がある。
紙おむつにセンサーを付けることで、周囲の温度と湿度の変化を即座に把握。赤ちゃんがおしっこをしたことを、仕事や家事で忙しいパパ、ママに代わってスマホに通知してくれるという。しかもおむつの交換回数、おしっこの回数をクラウド上に記録できるため、赤ちゃんの体調管理を簡単に行えるという。
たしかにおしっこで冷えたおむつが体温を下げたり不衛生になり体調を悪化させる原因にもなる。
なるほど人工知能AIを基にしたグローバル経済社会に見合った〝赤ちゃんに優しい〟開発技術なのだろう。
人と人とが離れ、相反目するタコツボ化した高度専門化社会ならではのスグレモノだ。

しかし一方では、本来赤ちゃんは自分が意識しないのにおしめが汚れた時、不快感でむずかる。
しかもそのことに無識に応じるお母さんがいる! そんな母子の求めるものと応じるものとの全面一致する正常健康な姿も、今や色褪せた光景になっていく!?

おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時、素直にむずかれるような感受性(〝情感〟という心情の営み)の涵養策こそ今直ちに着手しなければならない最重大方策ではないだろうか。もちろん大人の私たちに向けての話である。本稿を書き継いでいる意図も、じつはここにあったのだとあらためて思い知らされる。
本質(本来・理念)と現状とを一緒くたに混同してはならない。まず本質(本来・理念)に当たりをつけてから、現状を考えていくのが順序だろう。どちらが先かの後先ちょっとのことで、現象のあらわれがまるで異なるのだ。

山岸巳代蔵は、誰もが欲求する本当にお互いが自分らしく生きる・生きられるには、先の「仰慕←→愛撫」に象徴される二人で一つの謂わば真の夫婦から始まるのだとした。
相合うお互いを生かし合う世界へまず〝ポンと飛び込む〟ところから理想社会実現(=自分らしさ)へと繋がる本筋が見えてくるのだとした。
ここでの〝ポンと先に楽になって、それから考える〟考え方の飛躍・次元の転換に知的革命たるゆえんを見る。

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わが一体の家族考(176)

普遍性への通路
上野・「アメ横」

たしか学生時代だったと思う。ある日の新聞の日曜版に大きく載っていた一枚の写真に魅せられたことがある。東京・上野の「アメ横」の雑踏の中で、幼児を片手で抱きかかえる夫に寄り添いながら見上げる妻の姿が写真の中心に浮かび上がっていた。
思わず「こんな夫婦っていいなあ」と心に焼き付いてしまった。

後年、ヤマギシズム研鑽学校などで「仰慕←→愛撫」といったテーマを研鑽した時、すぐに思い浮かんだのはくだんの写真〝アメ横の夫婦〟だった。もつとも自分だけの何の深い根拠もないたまたまそう感じただけにすぎないありふれた光景にすぎないのだが。
しかしこの間ヤマギシズム恋愛・結婚観を探ねてここまで辿りついて、たまたまではない運命的なものをなぜか感じるのだ。
あの思わず「こんな夫婦っていいなあ」とふと心に焼き付いてしまった光景がきっかけとなって、その先の誰の心にもある真実に繋がる〝普遍性への通路〟ともなすことができるのではなかろうか、と心ときめかせるものがあるからだ。
謂わば「自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいと振り返ると」(山岸巳代蔵)といった具合に、一つの実感を求めて行きつ戻りつしながら醸成されてくるものがあるようなのだ。
そんな軽く聞き流し見過ごしがちな、ひょっとしたら〝それがあれば他に何も要らない宝〟を山岸巳代蔵は断片的に振り返る。

子どもの時から、その当時の社会に対して、おかしいと思っていた。親達は「分からん。この子の言うことは分からん」と言う。また友達ともどうしても妥協がなかった。それで、むろん友達もなかった。で、何が友達かというと、本当の世界の究明をやっていた。
本読むのでも、〝ああ、これでいいのかな、いいのかな〟という読み方で、それに入り込めなかった。それで良しとしなかった。
もう自転車乗るのでも、それこそ石踏まないようにゆっくり用心深く乗った。

ハッキリ線が出たのは青年時代、19、20,21歳の頃だった。それは〝真理は一つであり理想は方法に依って必ず実現する〟という考え方だった。
養鶏も百姓も、信じてやらないで、信じないでやった。
山岸会と標榜して全人幸福運動を始めた際にも、古い元のままの自分は再び生きて帰らないものと覚悟する〝出精平使より愛妻への手紙〟を記して、〝死にきる〟から出発すべく流浪の旅人に自分を託した。
すると、私はまいた覚えのないのに、行く所、いたる所に、麦、菜種が色づき、うれている。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが麦の収穫を始めていた。私は、

“私の田んぼの広さに驚いた。”

〝特講〟でも「特講の目的は自分の一つの確信をなくするところや」でやってきた。
名前も今までの私心のワタシを瀬戸内海に捨てて、「全人に適当に使われたらいいんだ」との気持から出た〝大村公夫(才)〟で通した。
理想社会は「私はあなた、あなたは私」の体認から出発せねばならないと確信したからだ。

ところが恋愛・結婚問題で大変なことになった。予期もしないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、ヤマギシズム結婚理念は何の役にも立たなかった。理論と実際とのジレンマで苦しみ、苦しめた。
理念通りの結婚をしようと無理をした。ところが柔和子との煉獄の試練を経てもうどうにもならなくなった途端、絶望の底板が抜けた!
互いの通じ合わないもどかしさからか、押し通そうとする執念深い我執から真の結婚へ入ろうとする無理にはじめて気づかされた。
一足飛びには行かない不思議な謎も解けた!

思えば恋愛巡礼、結婚巡礼というか、本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるようだ。すべてに本当の結婚を求めている私だった。
休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように感じられるのだ。
私の朝は情感に明け、夜は情感に暮れ、夜中も日中も情感多事、私は多情者にちがいなさそうだともいう。

ここで山岸巳代蔵のいう〝情感〟という心情の営みこそ、人と人との繋がりの、切ることの出来ない紐帯となすものではなかろうか。そこに触れるところからはじまるものがある。

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わが一体の家族考(175)

〝鬼の褌を洗う女〟
坂口安吾

次のような昔話がある。
“鬼の褌を洗う女
仲の良い若い夫婦が野良仕事をしていたところ、突然、女房が鬼にさらわれた。
男は女房を助け出すために何年も何年も諦めず探し続け、ついに山奥の河原で、鬼の褌を洗わされている恋女房の姿を見つけた。
しかしよくよく見ると女房は、鎖で繋がれているふうでもなく、近くで鬼が見張っている様子もなく、簡単に逃げ出せる状況だった。
結局、男は女房に声を掛けることなく、一人で山を下りた。”

この間の男らしさ・女らしさのテーマをうまく言い当てているような話にも感じる。しかしいったいこのどこに〝男らしさ・女らしさ〟から出発するかつてない〝理想社会づくりの急所〟が秘められてあるのだと問われれば、未だ未知の雲を掴むような話でもある。
しかし山岸巳代蔵には差し迫る課題に見えていた。こんな証言がある。
山岸会事件直後の伊勢湾台風や飼料倉庫火災等々で春日山の家計がひっ迫し、現金収入を求めて京都府船井郡(現在の南丹市)八木町の会員宅を拠点に〝ヤマギシズム生活八木移動労務班〟二十数名が土方工事に出向いた昭和三十六年頃である。山岸巳代蔵はその年の五月に亡くなった。

“最後にお会いしたのはこの三月だった。八木の実践地へ行く時、「では行ってきます」とご挨拶したら、「ああ体を大事にね、みんなに会いたくてたまらないが、その時間も惜しいからみんなによろしくね。どこにいても心はいつも通っているね」と別れたのが最後であった。
またこんなことも言われた。「女は女らしい女になればいいんだ。親は女に生んであるのだから女になればいいのだ。いつのまにか女が男になろうとするから社会はうまく行かないね。女は女らしく、男は男らしくね」
それを聴いているうち泪(なみだ)が出て止まらなかった。”(『ヤマギシズム』紙昭和36年6月15日 土居タカエ)

そこであえてその昔話に題材を取ったとみられる作家・坂口安吾(1906~1955)の短編小説『青鬼の褌を洗う女』[1947(昭和22)年]からその糸口を探ってみる。

妾の子であるサチ子は概ねウカツでボンヤリして暮らしてはいるが、知らない男の人でもタバコを欲しがっていることが分ると本能的に黙ってニュウと突きだしてあげるような分け隔てない親切な女性だ。
別に好きでもなかったが出征前になると男が近寄ってくるので、六人の男にからだを許していた。
その内に空襲で母が亡くなり、サチ子は勤めていた会社の老人(56歳)で醜男の専務、久須美の妾になる。彼はサチ子のためにを妻も娘も息子もすてたようなものだった。彼はサチ子を愛しながらも、サチ子をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それからサチ子を現実をとらえているようなところがあった。
久須美がサチ子から引き出したものは、天然自然の媚態だった。サチ子自身が自然の媚態と化した。

“私はどんなに快い眠りのさなかでもふと目ざめて久須美を見ると、モーローたる嗜眠状態のなかでニッコリ笑い両腕をのばして彼を待ち彼の首ににじりよる。
私は病気の時ですら、そうだった。”

サチ子の〝まごころの優しさ〟は、

“もはや私の腕でも笑顔でもなく、私自身の意志によって動くものではなく、おのずから私のすべてにこもり、私はもはや私のやさしい心の精であるにすぎなかった。”

そうした日頃から媚をふくめていつもニッコリ笑いながら彼を見つめているだけでウットリさせられるサチ子は、遠く想いをはせる。

“私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。”

ここに安吾が理想とした女性像が描かれているのだろうか。終戦直後「国破れて山河あり」のアナーキーなただ中で一瞬〝ニュウと突きだ〟された光景だったのだろうか。
この小説は妻の三千代を主人公のモデルにしたことでも知られる。夫人の手記(『クラクラ日記』)によると、めったに自作を読み返さなかった安吾がこの作品だけは何度となく読み返していたという。
ともあれ山岸巳代蔵が直覚した
“男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。”(『ヤマギシズム社会の実態』)
の中へともうひとつ入っていこう。

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わが一体の家族考(174)

情感溢れる世界
あおくんときいろちゃん

先にも述べたように山岸巳代蔵が〝ヤマギシズム理念徹底研鑚会〟を始めた意図の一つに、〝信じる〟〝執われる〟という人間観念の慣性、あやふやさ・いい加減さ・危なさが如何に人間の幸せを邪魔するものであるかの認識にあった。この間の夫婦間の苦しみを通しても、如何に先ず自分が不愉快に暮らす時間をたとえ一瞬でも少なくしてといった身につまされる思いがあった。

観念はいい加減なもので、妻が密通してても、知らない間はかえって低姿勢な妻に喜んでいても、事実を聞いたら、既にあったのに、瞬間カッとなる危なさがある。それでは一生暮らしていく上にもったいなさ、惜しさを考えるのだった。
しかも観念の中では、自分だけ「これで愉快だ、楽しい」と思っていても、なんとなく「もう一つそれでは」というあやふやなものが出てくる。
だとしたら、不愉快にならないようにするために……。なった時はどうするか……。
よく〝ほんとのほんと〟というが、そう言いたくなるものがある。そんな生来の物事を深く考える〝求真性格〟のたちから究めていくと
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」
にどうしても辿りつく。
誰もが切実に欲求しているものだ。だとしたら今のリアルな苦しみと本当だとする究明との関係は? 砂上の楼閣、絵に描いた餅にすぎないのだろうか?
何度も根本にまでさかのぼっての自問自答がくり返されたに違いない。
ふだんは「良いと思ったら良い」として暮らしているわけだが、体験的に「良いと思うことでも、正常でない場合もある」にぶつかることがある。だとしたら「良いということは、悪いに対してでなく、当たり前」のことであるような、そんな良いことづくめの世界はないのだろうか。
そして近頃体験を通して出てきたのは、ひっかかった時は、いったん〝外す〟と仲良い状態になって、スッスッと溶けていくものがあったのだ!
しかも柔和子の「オホホ……」によぎられることによって問答無用〝骨なしにされる〟自分がいた!
すると心一つの一体の中へ飛び込んだような情感に包まれた。ほのぼのとした満たされた思いの喜びがわき起こった。なぜかそこからすべてのことが始まるような心のときめきをも感じた。
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」だとするリアルな実感が湧いた。驚きだった。
その後も難しい理屈・知恵抜きに、自分からひっかかってもポンと外す、を真面目にやってみることで、今すぐにも情感溢れる世界が立ち現れてきた。

男女・夫婦のあり方も、「結婚、恋愛は楽しいのが本当」とする理念からいった方が早いのではないだろうか。いや、どんなことがあっても楽しいの連続かということ。そこから出発して、これが本当に出来るかどうか検べて事実を積み増していかないと本末転倒になる。そこに観念なんかが邪魔して、悩み苦しむことになってくるのだろうか。

“本当に仕合せな社会に立って生きていこうとする毎日かどうか振り返ってみると、いろいろもっともっと究明しなければ、人の中へ行けないと思う。
信仰と研鑽、共同と一体、男女・夫婦のあり方など。
宗教の問題も、この理念からいった方が早いと思う。どれほど早く真理即応の、仲良く楽しい、より良く、より正しい生活が出来るか考えていったら、難しくないと思うの。いきにくいと思う、そこに観念なんかが邪魔してね。「いけるかい」と、そんな観念からひとごとになってくるもの。
真理に即応する現在只今、それの連続かと思う。
社会に拡げる前に、自分自身が間違った生き方で苦しみ、路頭に迷わすことになっても大変だし。
案外この真理即応でいけば、簡単にいける。いけるのが当り前や。”

一転して、それまで〝ひとごと〟になっていた理念というか理に立った観念が身近に感じられてきたのが嬉しかった。形の無いものが、自分の心の中に飛び込んできたような喜びだった。
ふとレオ・レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』で、青くんは一番の仲良しの黄色ちゃんと遊びたくなって、あちこち探し回ってようやく出会い、二人とも嬉しくて嬉しくて、とうとう〝みどり〟になってしまう話が思い浮かんできた。

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わが一体の家族考(173)

男が男になり、女が女になる 
『アダムとイブ』デューラー

以前次のように記したことがある。
“ある日の研鑚会で次のようなことを研鑽した。
「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」
エッ、どんなこと?
〝無い要素をはっきり自覚したら〟とか〝お互いに立ち入らない〟って、どんなことなんだろう?
普段は生理身体的な凹凸の違いぐらいに思っていたからか面食らってしまった。
研鑚会は、男らしさとしての意志の強さとか貫徹や剛直をあらわす〈剛〉、女らしさとしてのすべてを包み溶かしてしまう〈やさしさ〉の世界について未知のことを知っていく楽しさに満ち溢れた。”(わが一体の家族考76)

たしか以前のヤマギシズム生活法テーマにも
「分類の極めつけ男らしさ女らしさ
 男は剛 女はやさしさ」
とあり、皆で研鑽したことがある。
まずは思いつくまま挙げてみる。
○やさしさは女の人なら誰でも本来持ち合わせている。
○男とまったく逆で、鍛えるという要素は一切不要で、途中でいろいろ付かないほうがよい。
○柔らかく、まろやかで、どんな固いものがきても溶かし包み込んでしまうやさしさ。
○特に自身が逆境や病身になった時こそ変わらぬやさしさがあることが、女性の絶対条件。
○どんな時でも、いかなる場合でも、女がやさしく出ること。
○男が男に惚れられるような立派な男。女に女が惚れるようなやさしい女になったら、混線は起こらない。
○女の頭の高いのは、カシコのアホよ。

なかでもこの〝カシコとアホ談義〟はとても面白い。山岸巳代蔵は次のように定義している。

“知恵があり、それを上手に使うのが「カシコ」で、知識の多いのは「ものしり」で、間違ったことでもたくさん知って覚えて、それを得意になって振り廻すのが高慢で、喋りまくるのが能弁・饒舌屋で、「カシコぶるアホ」の部類だと思っています。
理屈をこね廻すのも、この分類の理屈屋の部に属し、こんなのが多いでしょう。理屈で云いまかし得々としてる。(略)
カシコのアホ、アホのカシコ、カシコのカシコ、アホのアホ、とあるそうですから、各々どれにあて嵌るか、別の自分、自分の物指しを持たない自分を見物席に立たせて、現在世に踊っているピエロの自分を観察さして見ようかね。”(「知恵・知識・良識・常識・非常識について」)

そして、次のような感想をもらす。

“カシコのカシコはよいが、カシコのアホがほとんどやから、「アホのアホの方がましや」と言うの。賢いほどやりにくいね。知恵、経験があればあるほど、それが出てきてね。せめてアホのアホくらいまでいけるといいけど。私の考えをいい加減にしとけんところね。「私の考えは一つの考えに過ぎん」というのが、カシコのカシコかと思うが、「どうも納得できん」、「釈然とせん」となる。すると、つい押しつけようとするもの。”

山岸巳代蔵は今の恋愛・結婚等も含む社会的欠陥の最大なる原因(=悲劇)を、「カシコのアホ」同士の〝突っ張り合い〟に見ている。そしてそこからの〝この革命が出来た〟とまで言わしめる理想社会改造への鍵を、山岸巳代蔵をして〝最も知性的で、「納得しなかったら」という女性〟が〝納得して楽になれた〟り〝ポンと夫婦の本質の中へ入る〟実績・事実に見出すのだ。自分らのように死線を越えたところまでいかなくとも、誰でも和気藹々でいけるという確信が持てたというのだ。

○男と女の異いが際立てば際立つほど、男と女の本当の仲良しが生まれてくる。
○女の仕事を男がやってもあかん、持ち味を活かさな。
○女のことは女でないと分からない。
○女の本質を活かすことだ。女が女の姿に還ることだ。

いったいここで〝男〟とか〝女〟とかの異いを次々言い連ねながら、何を言おうとしているのだろうか。なぜそんな脳天気な〝性〟の分類ぐらい(?)で世の中が革まるとまで言えるのだろうか? 
しかもその区分けそれ自体が、〝真理だと思う〟とまで言い切るのだ! ”ここがロドスだ、ここで跳べ!”

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わが一体の家族考(172)

秘匿技術の秘匿たるゆえん
夫婦の真字・ふさい

しかもこの“秘匿技術”は、男女夫婦の場合に限らずお母さんと子ども、長幼などの差がある場合にもいえると拡張されていく。
例えば親子の場合、お母さんが優しいから素直にうまいこと子供がいってる、では大変なことになる。甘やかしは、一回、二回はいいが、これが連続になるとどんどん不良を作っていく。それゆえ先ず子ども(幼)がお母さん(長)に下手に柔らかくいくことだという。
そんな夫婦のあり方、親が子供に対するあり方にも絶対に外せない、いわば真理に即応したといえる生き方があるのだという。
しかし下手に出るとか、女の方から強く出ない云々から、昔の封建社会家父長制や軍隊での差別・服従を連想されがちだ。妻でも服従で家庭などうまくいっているとする道徳的な教えとどこが異なるのか?

ところがこの間の山岸巳代蔵は、〝最も知性的で〟〝何でも理知で割り切らねば承知せん〟といった女性が自らポンと外して〝楽になれた〟という〝事実〟に、と同時に自身も〝骨なしにされる〟喜びに包まれた〝事実〟に、

“放したら、澄んだままでありのまま見える。(略)ありのままいったらよいのよ。難しい知恵要らんのよ。勉強した知識要らんのよ”

という〝真理に即応している姿〟を見てとるのだ!
こうした〝こんな人さえ、なれた〟という事実に、誰でも楽にそうなれるという〝発見〟にも似た感動を覚えたに違いない。
研鑚会では、〝下手に出る〟とか〝差別・服従〟についても、

“僕は「女が男に絶対服従や」とはちっとも言ってない。そこ混線するのよ。絶対服従は僕は絶対反対よ。「言うこと聴け」は、「聴け」やわね。そこからが問題や。”

としながら、主観の多い人間の〝聴く態度〟の問題に触れていく。
要は〝絶対服従〟にも、言いなりにその通り何でも行う〝ハイ即実行〟とアホの言うことでも気狂いの言うことでも聴く〝ハイ即研鑽、実行〟の二つがあり、その区分けの大事さが強調されるのだが、参加者の一人が次のように発言する。

“僕はその解釈で一貫してきたのに、一年前では山(春日山―引用者注)の空気は「ハイ即実行」が行われていたようで、そこに未だに溶けぬ疑問がある。”

すると山岸巳代蔵はいう。

“問題はここや。大事なとこで、ゆっくりやろう”

と謎めいた発言をする。なぜなら常識的に考えても「ハイ即実行」には危ない盲信を感じて、即バツ印(×)をつけたい気持ちにかられるところだ。ではどこが問題で、大事なとこなんだろうか。
どうもはじめから〝ハイ即研鑽、実行〟としてしまうと、そうだ、その通りと無意識の「自分の判断」が安易に忍び込んでしまいがちだ。これでは出来るか出来んか分からない自分になって聴くとか、〝零位〟になって聴くには程遠い。
「まあ聞いてみてよかったら」は、やっぱり自分の物差しで聞くから聴いたことにはならないと、今までの常識的な甘い分かり方を思い知らされるところだ。
ここでもあのどこまでいっても通じ合わない〝もどかしさ〟しか残らない、そんな今までの自分ら夫婦のテーマにぶつかるのだった。

例えば〝絶対服従〟にも二つあるといった区分けが、今もって解明されていなく見過ごされている個所だ。
むしろ現代社会の潮流は、そのもの〝らしさ〟を消してフラット化していく方向に時代の〝進歩〟を見てとっている。
その代表的なものに、人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものを混線して、何もかも性の異いまでヒューマニズムや民主主義で一律に律していこうとする考え方がある。
じつは戦争なんか誰もしたくないのに戦争に突入していく根がここでいう〝甘い分かり方〟に潜んでいるはずだ。
そうした近頃の自分ら夫婦の〝外し〟体験から、夫婦のあり方・無理のない夫婦像としてフェミニストが聞いたら目をむく発言をする。

“夫婦は段があったらうまくいく。奥さんの良い(腕達者、利巧なの)のは有り難くない。奥さんが上なのは絶対うまくいかん。”

との内実を伴って立ち現れてくるものがあった。しかもそのことが絶対服従と違うことを研鑽しながら、この間苦しんできた〝もどかしさ〟の真因が研鑽の光に照らし出されて来るのだった。
ここに幸せに暮らす秘匿技術の秘匿たるゆえんを見るのだが、ここは一つ様々な角度から、ゆっくり検べていきたいところだ。

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わが一体の家族考(171)

“秘匿技術”の公開
ヤマギシズム恋愛・結婚についての草稿

そしてそこから、
“一つ秘匿技術言うわ”
と前置きしておいて、次のように言う。

“あのね、夫婦で対抗した時は、女の方から必ず和らげて出ること。下手に出ること。こいつはキメつけておいたらよいもの。これを男の方からやったら、これは駄目よ。”

身近な夫婦の中で意見が違うために、固くなり、不愉快になり、「まあ俺はよいわ。俺は俺の考えでやる」と対抗的になる時、女の方からそうした不愉快な状態を一掃する雰囲気を作ることが肝腎なのだという。
しかも〝キメつけない〟をもって本領とするヤマギシズムで、このことは〝キメつけておいたらよい〟ものだという!?

“これは女の方からとキメつけておいたらよいの。これは男のためばかりでなく、女のためよ。これでなかなか手間取ってね……。
とにかく問答無用で、女の方から優しく出るのよ。こんなに楽な、楽しくいけるのないわ。「こんなに落ち込んでいる時、男の方から優しく出てくれたら」と言うのに、私は逆よ。「女の方が和らぐのが先やというのが、これ真理や」と言うの。”

なんと、〝女の方からとキメつけておいたらよい〟が〝真理〟にまで拡張される! 
これぞ〝血みどろの愛欲〟に翻弄された男の立場からの妄言に過ぎないのではないか。なぜ男の方から優しく出たらアカンのか?

“これから世の中の夫婦で問題が起った時、自分達はこういう考え方をしてるんだと、これをキメてかかったら、なんと楽だ。そしてそれを真理と比べてみると、何でもないこと。男が男になり、女が女になるだけ。女が女のそのまま地金を出したらよいのよ。”

これを実行したら、女が楽なのだという。男がやると〝逆さ歩き〟になるのだという。これが真理に即応している姿なのだという?

“最も知性的で、「納得しなかったら」という女性が、それを実行して、自ら人に言える実験を経て、みなさんにこうして言えるわけです。前もって言うが、これは秘匿技術やから。「何でも理智で割り切らねば承知せん」といった、こんな女が納得して楽になれたということは、大きな人類幸福への貢献だと思うの。”

いったいどこが〝秘匿技術〟で〝大きな人類幸福への貢献〟なんだろうか?
ことわざにも「夫婦喧嘩は犬も食わない」とあるように、世にごまんとあるそれぞれの夫婦の形の一つから、真理とか大きな人類幸福への貢献とまで言えるその道筋がよく見えてこないのだ。あまりにも独断的・飛躍しすぎる誇大妄想狂の食言(嘘つき)にすぎないのではなかろうか?
あの夫婦が一つのものだということを示す山岸巳代蔵の造字(写真参照・「ふさい」と読む)に、〝女の方から必ず和らげて出ること。下手に出ること。〟を象形する〝真理に即応している姿〟を見てとるのだ!
なぜそんな大それた飛躍したことが言えるのだろう?

いや、ひょっとしたら飛躍にならないのかもしれない。 
この間〝ポンと外す〟実体験から来る不可思議な転換に何度もくり返しアタックしてきたのも、一人の希有な理念実践家・山岸巳代蔵の〝血みどろの愛欲史〟といった特殊体験としてしりぞけ見過ごすべきものではないといった思いからだった。
なぜかそこに誰の心にも響いていく質のほのぼのとした満たされる心地よささえ覚えるからだ。これってなんだろう。
それは自分自身の身に起こった実体験から来る観方考え方の変化とも重なるようなのだ。山岸巳代蔵の辿りついた〝真理だと思う、それの連続〟の世界に何度も何度もトライし続けているゆえんである。

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「と」に立つ実践哲叢(45)

「理想社会はここにある」

呼び水(よびみず)という言葉がある。ポンプから水が出ない時に、水を引き出すために新たに外から入れる水のことで、誘い水とも迎え水ともいう。またよく〝呼び水になる〟といって、ある物事を引き起こすきっかけとなる意味にも用いられる。
本紙(『けんさん』)の前身『ヤマギシズム』(1962.6.5発行)の〝山岸先生一周紀によせて〟に、先に紹介した明田正一(1913-1964)さん
明田正一

(写真右から3人目、山岸巳代蔵の隣、第一回特別講習研鑚会会場1956.1にて)の手記「無駄にはしないむかえ水」が載っている。
筆者の明田さんは「百万羽養鶏」(現在の春日山実顕地)への参画者第一号といわれているが、その参画前後の背景がじつに興味深い。

1958(昭和33)年の「百万羽養鶏」構想が発表される前、当時四日市に住む山岸さんに呼ばれて行くと、
「むかえ水があれば水はいくらでもあがってくる。水は無尽蔵にあるが……そのむかえ水がない」と山岸さんは言う。なるほどそのとおりなので、自分はむかえ水になりたいと思いながら聞いていると、
「正一さんがむかえ水になっても水があがってこず、世のすべての人に見捨てられたら、どうするかネ」と言われた。「その時は死にます。死ねばよいでしよう」と言った。ごく簡単に言った。実際そのつもりであったから気軽に言えた。すると、「そうだ。それだ……そこだ……」と言われた。
しばらくして、「あんた一人は死なしはせん」と一言。胸に込み上げてくるものがあった。それと同時に先生の瞳が光っていた。この一言は終生忘れることのできないものとなった。実顕地も皆この一言からの出発でなければなるまいと記されている。

そしてその年の四月「百万羽養鶏」構想が発表され、そこでの研鑚会で明田さんが一番に参画すると言い出した。
そしたら参加者の一人が、「まだ決まったものでもないのに、それに海のものとも山のものとも分からないのに、全財産をつぎ込むのはどうか。半分残しておいて失敗した時に備えておいたら」と言った。
すると山岸さんがすかさず、「それはとんでもないことで、全人幸福運動への反逆である。常識観念はすべて反逆である」と言ったとされる。

その時に出た話が伝え聞く〝肥柄杓(こえひしゃく)一本に至るまで処分して持って来い〟とか〝かまどの灰までも〟とか〝墓石一つ残すな〟といった発言だった。
そして明田さんは二日目か三日目にもう荷物を積み出した。もちろん近親知人の猛反対を押し切っての財産整理だった。

一人の心からの行いが万人の心に響くものだなあと、今頃になってつくづくそんな感慨に打たれる。以前は〝かまどの灰までも〟とかの話を聞き及んだ時、〝そこまで言うか〟とその過激(?)な発言に驚いたものだ。
明田さんに代表される人に〝神心〟を感じてか思わず「後光が射している」と手を合わしたり、「理想社会はここにある」と公言してはばからない山岸さんの真意はどこに? 

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わが一体の家族考(170)

〝ポンと外す〟

その後1960(昭和35)年6月、三重県津市阿漕の「三眺荘」という借家に山岸巳代蔵は居を定め、福里柔和子との新たな生活を始めた。
三眺荘

またこの「三眺荘」で翌年五月に岡山で逝去するまで毎月、計九回の「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」がもたれた。
ともすればそれまでは〝養鶏〟というキーワードで語られることの多かった山岸会活動が、思想的に或いは社会活動の一環として大きく転回していく真っただ中にあった。

それまでの〝オヤジ(山岸巳代蔵)が言ったから〟とか自分だけの観念で〝幸せだ・愉快だ・良かった〟とする言動も、それでよいとしないで、本当かどうか理念、真理の世界までいって見極めてこそ社会一般に拡がる質のものが見出されるはずだとした。
なかでも〝信じる〟〝執われる〟という人間観念のあやふやさ・いい加減さ・危なさを、もっとも警戒する山岸巳代蔵だった。

それゆえ自分の発言も一介のおばさんの言と同じ比重で採り上げられるような宗教形態に陥らない研鑚会の実現を強く念願した。参加メンバーも覚悟をもって臨んだ研鑚会であったにちがいない。
さて第一回のヤマギシズム理念徹底研鑽会」は1960年7月20日夜~23日まで、三重県津市の「三眺荘」でもたれた。
ここで興味深いのは、先の自意出頭(4月12日)前の研鑚会「編輯計画について」(1960.3.6)での山岸巳代蔵の発言
〝理屈抜きで、ポンと夫婦の本質の中へ入る〟に応じるかのように、冒頭から

“相手が何を言ってこようが、どう出てこようが、執われない自分になること。これは練習していると、わりあい早く出来る。”

として、〝外しの練習〟について言及している箇所だ。しかも、

“それを知恵で、自分の判断で、理解納得して外そうとしても、なかなかなれへんのよ。ポンと外すのよ。”
“長いこと苦しむことがあったが、この頃では早いこと外して、朗らかに楽しくなる。それだけでよいとすればおかしなもので、それから研鑽していくと、今までおかしかったものが快く見えていく、この頃のうちの実態です。”
“突っ張る前の、意見の対抗的、不愉快になった時に、その状態をたとえ一瞬でも少なくしてと、ここを言ってるの。
不愉快にならないようにするために……。なった時はどうするか……。”
“ひっかかった時は、我であろうと何であろうと、いったん〝外す〟ことで、それを理でいこうとすると、なおさら物分りが悪くなってね。”
“一体を望みながら、意見が違うために、固くなり、不愉快になり、「まあ俺はよいわ」と対抗的になることがある。”

他の人とはいっぺんも喧嘩しないけれど、夫婦の中ではややもするとそうはいかない辺りの体験談から始めるのだ。身近な夫婦の間の普段気がつかない領域に研鑽の光が当てられる。〝長いこと苦しむことがあった〟との言葉に万感の思いがこめられている。
しかもその外し方が特異なのだ。問答無用で〝ポンと外す〟ところから始まるのだという? 〝ポンと夫婦の本質の中へ入る〟とは、そういう外し方なのだという?

戎井 外す方法として、私は自分を別に置いてみて、案外楽にいけてね。
山岸 うちの方はもっと早い、「オホホ……」で外す。問答無用で、その手にかかったら、僕も骨なしや。
(略)
柔和子 私の場合はものすごく、病的とも言える熾烈なものよ。外しの一番初めの稽古は、「ウソでもいいから『ホホ……』と言ってみよう」から入った。ところがウソで外してたのが、だんだん本物になってしまった。”

ここでの〝外し問答〟はまるで禅問答のようにも聞こえる。しかし「問答無用で、その手にかかったら、僕も骨なしや」という発言にハッとさせられる。〝そうかあ、なるほどな〟と思いあたる節がある。
よく異性などの魅力に惹きつけられるさまを、〝骨抜きにされる〟という。この間の文脈に沿えば、我執というか〝固いものが溶けて〟しまう状態にされることだろうか。
しかも先の発言にもあるように、

“それを知恵で、自分の判断で、理解納得して外そうとしても、なかなかなれへん”

ものが、異性などからの「オホホ……」によぎられることによって問答無用〝骨なしにされる〟のだ! 煩悩を取り払おうと、もはや寒夜に滝に打たれる必要がないというのだ!
えっ、どういうこと? ともあれ山岸巳代蔵は、

“これからは二人の一体で、同じ二人が一つになれてから、仲よくほのぼのの気分で問題を解いてゆきたい”(わが一体の家族考166)

とする〝一つ〟を実感するのだ。ヤマギシズム恋愛・結婚観の秘められたヴェールがしだいに上がるようなときめきを覚える。

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わが一体の家族考(169)

研鑽へのスタート

当時滋賀県堅田に住む全国指名手配中の山岸巳代蔵は、1960(昭和35)年4月12日に大阪松坂屋デパートで羽織袴の姿で柔和子と買い物を終えた後、自意出頭という形で逮捕され三重県の上野署へ連行される。
自意出頭

そこで出頭直前3月27日の徹夜研鑚会の記録を少し辿ってみる。
研鑚会は出頭に向けての具体的な打合せをも兼ねて持たれたものだったが、始めからただならぬ二人の対抗的な気配に満ちていた。
この間何度もくり返された二人の間の通じ合わなさが、ここでも浮かび上がる。もちろんこのような気持ちの齟齬や相反目する関係は現代の社会的欠陥そのものを象徴するものであり、今なお解けない難題として立ちはだかっている。一人ひとりの心の浄化や善行の積み重ねや多数決による民主主義や運営で果たしてより良くなっていくものかどうか本当のところ誰もが確信を持てないでいる。
そこから二人の会話を聞いていた杉本利治が次のような趣旨の発言をする。

今度の出頭につけても、お互い得心して、納得して、喜んで行ってもらいたい。そのためにも突っ張り合ってたら話にならない。研鑽が進まない。なんとかここで一致点を見出したい。
ここでの一致点の問題とは、山岸巳代蔵の今夜はこっちの部屋に泊まって欲しいとの発言に対して、柔和子には頑とした理由があるのかそこの部屋で泊まりたくないという。
山岸巳代蔵にしてみたら、そんな柔和子の一言一言にどこまででも自分本位でいこうとする愛情の絶望感さえ感じ、安心して出頭させて欲しいという強い願いがある。一方柔和子にも根強く〝私の心の安まるようなこともして欲しい〟といった気持ちがあるのだった。
そんな〝寝間一つの話〟から今日唯今の全人幸福のテーマにまで繋がっていくにちがいない興味深いやり取りが展開されてくる。


柔和子 私は私の考えを言う。あなたはあなたの考えをで、一歩も譲らないもの、これが突っ張りだと思うけど。
山岸 そうそう、そうそう。これが解消しない限り、どんな例外はないと思うの。話し合いつかんと思う。

山岸 主張し合ってたらやね、これは永久に解決できないと。これはどうですの。
通哉 主張し合って、突っ張り合ってたらね。一致点はちょっと出そうにないな。
山岸 どんな強い研鑽であろうが、どんな柔らかい研鑽であろうが、無理やと思うの。ほんなもん、例外なしやと思うけど、どうですか。これは。
柔和子 うん、そうだと思えるということ、さっきから同じこと言ってんと違うかな。
山岸 みなさん、どうですか。
杉本 そやな、そう思うな。

山岸 あんた、どう思う。
柔和子 ほう、そう、その通り。(笑)
山岸 これはねえ、笑い話やないの。
杉本 ほんまにそうやな。
柔和子 ほんまに、何回も言っているから。
杉本 何回やっても、徹底していないのやと思う。
山岸 何回言うてもこれはね……
杉本 徹底せんでね。
山岸 徹底する必要があるの。……徹底する必要があるの。そんなことっていうんでなしにね。研鑽の基本やと思うけどね。そしたらどうしたらええの。そうした場合に、どうしたらええの……。僕が進行係みたいになってしまいよる、言うてよ。
柔和子 ほしたらどうしたらええのかは、あなたの意見を聞かせてほしいですな。
山岸 こうした時には僕の意見通りにしてもらったらええのか知らんと思うんやけど、どうやろ。
柔和子 ふふん、イヤなれば、なおさらか。ハハハハ。
通哉 誰が突っ張りしててもか。
山岸 誰が突っ張りしてても。
通哉 山岸さんの意見通りしたらええか。
山岸 そうそう、そうしたらええと思うが、どうやろ。
杉本 そら合点がいかんな。
山岸 え、
杉本 合点いかんな。
山岸 なんでいかんのや。一番楽なやないかいな。
杉本 先生の言うことやったら間違い……。
山岸 間違いあっても、もう僕の言うことやったら。そしたらいっぺんにピシャーっと、みんながその気になったら、線がまとまるやろ。

和子 そら、その意見にみんなが納得したらな、反対やけどその意見に納得します。
山岸 納得したら、反対かなんか知らんけども、どんなこと言われても僕の意見に、私は分からないんだから、山岸さんの言うことをね、その通りやろうって、そういう気になったら、ピシャーと一致するね。
通哉 先生のやることに、先生の言うこと、することに絶対間違いなかったら任す。
山岸 間違いあるかも分からん。
兵衛 間違いあるかも分からんでも、やろ。
山岸 最も間違いかも分からん。
通哉 そうそう、すると任せる……。
山岸 え?

山岸 納得したら実行やね。実行するための研鑽やから……。僕はそんなに思うけど。僕の言う通りにみんな従うたら、ピシャーとして、言葉もなしに解決するのと違うかいな。俺そう思うけど、どうやろ。
柔和子 あなたはそう思うのやね。

山岸 笑うとるわ。
柔和子 これ研鑽遊戯というのや。
山岸 そんなんじゃないと思うの。なかなか、なかなかもって、遊戯くらいやない。これが、これが今まで非常に変なことになった原因。
柔和子 意見も聞かずに、相手の意見も聞かないで、山岸さんの言われることやから、或いは福里さんの言われることやから、そんなことでみんなが、一致をこう、もうとにかくあの人の言う通りにしてみようと、これやったら盲信やと思うねえ。
兵衛 いや、そらそやけど盲信でもなんでもねえ、それで出来たらそれでええのやと思うけどよ。
山岸 納得できたら。
兵衛 納得できたら。
柔和子 え、盲信でもなんでも、という言葉は納得はもう……
兵衛 その場合盲信とね、盲信と納得とをごっちゃにせんとよ。
杉本 間違いやら分からんとしといて、納得して出来たらよ、間違いやら分からんけども一応やってみようという線で、一致……
柔和子 それだったら盲信でないと思うねえ。
杉本 それで出来たらなあ。

柔和子 フフフフフ。今笑うたら叱られるか知らんけど、おかしいわ。ハハハハ。
山岸 おかしいと言うけど、これがね、案外おろそかになっていると思う、このことが。そんな、知性人同士が二人寄ってやね、グルグルグルグルこんなこと、回りくどいことやってね、寝間一つでって、ね、寝間一つ大変やで、そやけど寝間のことで、グルグルグルグルやってやね、そういうことやっているより、やっぱりこっちの打ち出しが大事やと思うてね。

ヤマギシズムの研鑽〝らしさ〟(本来の姿)がうまく表現されている一例であろうか。自己主張する意見の前にある、〝突っ張らないお互いになる〟ことが研鑽へのスタートだとされる。
自分の考えを放す方が先だとされる。
この何度もくり返し強調される後先の転換がじつは容易ではなく、ほとんどの場合ここのところが混線して〝グルグル〟やっていつまでも解決しない修羅葛藤の世界を現出させているのだ。

そこでの意見が一致しない固いものを、〝真の結婚・真の夫婦〟の場に立って生きていこうとする日々からまるごと包み溶かし込んでしまおうというのが本稿に一貫するテーマである。またそこからしか固いものが溶けて真に人と人とが繋がる、そんな繋がりを生きる世界は現出しないものであることの究明・実証である。

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わが一体の家族考(168)

呪縛からの開放

こういうことだろうか。
例えば一週間の「特講」の終わり頃に、〝絵図研鑽〟をやる。
特講絵図

この絵図は、第一回特講(1956.1.12)開催日の明け方までかかって山岸巳代蔵が息子の純(日本画家1930-2000年)に描かせたものだ。左側に理想社会を現し、右側に現実社会を現すような政治家や僧侶や学者や酒を酌み交わす人らが描かれている。当日までかかったのも女の人が全てを放して〝ポンと飛び込む〟姿が思うように描けない。とうとうそこだけ山岸巳代蔵が描いてやっと間に合わせたのだという。
いわゆる理想と現実の世界をありのままに対照的に描いたものなのだろうが、皆で一週間の研鑽を経ての〝絵図研鑽〟の段階では、左側の花園での男女の語らいの姿などが妙に生々しく感じられるのか今すぐにも裸身で飛び込んでいきたい気持ちの自分に気づかされる。きっと誰もがそう感じるにちがいない。
現実よりも理想の世界の方がリアルに感じられた不思議な体験だった。

自問自答の始まりだった。その後、しばしばヤマギシズム(理念)と現実との相一致しない様々な矛盾に直面するにつけ、理念と現実の世界とはどんな関係にあるのかと考え込まずにはいられなかった。

○そもそも理想を描き、その理想実現に生きがいを感じるとは? 
○心底面白いからやっているだろうか?
○理想を唱え、追い求めることはただの幻想やロマンにすぎないのではないのか。なぜならこれまでのすべての理想実現の試みは、愚劣な失敗例と挫折例しか生まなかったではないか。
○理想を追い求めることが、何時しか日常行動からくる環境に押し流されてか観念的理想論に終わるのはなぜなのか?
○ヤマギシズム(理念)に即応するというか直結する生き方(生活)はどうしたら可能なのだろうか?
○理想を自己の生活に日常化しない限り、押し流されるだけだ。つまりそこでの生活・経済・生産活動その他が理想と直結した生活体とすることだ。
○そんなことが現実的に可能なのか? 窮屈で息苦しいだけではないのか?
○では〝理想は方法に依って実現し得る〟ならば、その最善の方法とは何のことを指すのだろうか? 
○その理想への出発点に立つとは?
○センジつめると、ヤマギシズム(理念)を生きるということになるのだろうか。
○そこまで行かねばならないのか? 凡人の自分には絶対無理な話ではないのか。

ふと以前実施されていた「ヤマギシズム無期研鑽学校」のことが思い出される。
当然無期というからには、何時実顕地に帰れるか決まっていない。なかには数ヶ月にも及ぶ人もいる。そこでの上昇点となる目安は「もうだいぶ研鑽して深まったなあ」という自信めいた気持ちから「自分はもうちょいと賢いと思っていたが、まだまだ。容易でないなあ」という謙虚な気持ちに切り替わったその時にあった。なぜか不思議とそんな頃合いに実顕地に戻されるのだった。
その絶妙のタイミングに人智を越えたものを感じてしまうのだ。

そこからあの理念と現実とのズレ“理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……”のそうもいかない不思議な謎を解明する手がかりが見つかりそうなのだ。そうした呪縛からの開放のヒントになるものが。
なぜあえて自分は、ヤマギシズム(理念)と現実を無理やり結びつけようと悪戦苦闘しているのだろうか? 本来良い悪いなどと比べられるものだろうか?

そうか、ふと自分が理想そのもの・〝ヤマギシズム〟になったらいい? との思いがわいた。自分が〝ヤマギシズム〟を勉強したり近づこうとしないで、理想・〝ヤマギシズム〟と同じ位置に立つというか、そこを生きることだ! 
するとあの絵図が、これまでとは違った生き生きとした姿で目に映り始めてきた。

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わが一体の家族考(167)

捨身飼虎(しゃしんしこ)
玉虫厨子 捨身飼虎図(部分)

先の山岸巳代蔵の〝我執の前の我〟の気づきから、〝理屈抜きで、ポンと夫婦の本質の中へ入る〟即断即決の次元の〈転換〉という出来事にもっともっと近づいてみよう。
このことは恋愛・結婚観にとどまらず、政治・経済・社会・人生問題及びその他凡てに相共通していく質のものにちがいない。あらゆる難問題を解く方程式がここにあると直覚するのだ。
今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目していることにある。それゆえ謂わば〝平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む〟呪縛から逃れられないでいる。
この間山岸巳代蔵は自らをまな板に乗せて、血みどろになって本当の恋愛・結婚の実践の場で邪道へ落ち込みながらも、よく逃げ出さず、ヘトヘトになりながらも、理論と実際とのジレンマを脱け出す、すなわち誰でも容易く真の結婚の楽園へ入れる鍵を発見したのだった! 
理論と実際とのジレンマ、それは

“真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当だと思う。ヤマギシズムにこうした苦しみがあるということはなぜだろうか。”

といった、ヤマギシズム(理念)と現実との相一致しない矛盾に宿る〝割り切れなさ〟の究明から始まった。
それが〝割り切れた〟のだった! 
その時の発見の歓びを、結婚資格のなかった自らに疎(おろそ)かであった反省の意味を込めて、あの釈迦が前世に飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせ、虎の母子(生後間もない子7頭)を救う話に重ねる。

“ついに発見されたキー。理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……”(「結婚を研鑽(真の科学)する」)

それがなんと〝理屈抜きで、ポンと夫婦の本質の中へ入る〟いや〝意識なくして入っているもの〟からもたらされる境地を如実に実感するのだった。そこへ、もういよいよ入れる段階にきたというのだ。
いったいここのどこに難問題を解く方程式が秘められてあるというのだろうか?
まず一つ言えることは、難問題を解く鍵を〝恋愛・結婚問題〟に見出したところにある。本人の弁を借りれば、怒りの発生しない方法を考案したりして大抵の悩みや心の苦しみは起こらないから問題にならなかったが、予期しないのに起こった本当の恋愛の実践の場では何の役にも立たなかったからである。
こうした〝煉獄の試練〟をくぐり抜けない限りホンモノは姿を現さないものらしい。
かつてマルクスは『経哲草稿』(1844年)で、〝人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である〟と書いている。本稿のメインテーマ「イェニーさん問題」(わが一体の家族考133)にも通底しているはずだ。
自分らの身替わりとなった山岸巳代蔵のぎりぎりの体験から見出された問答無用の次元の〈転換〉ともいうべき出来事にここまで心惹かれるゆえんである。

あの〝我執の前の我〟の段階での柔和子をなんとかしてやろうとする取り組みと、夫婦は一つのものやから、一つになって解決することやし、楽しい状態で解決するのが本当だとする世界は本来まったく別の世界の出来事であるらしい。
現実とヤマギシズムとの相一致しない矛盾に宿る〝割り切れなさ〟とは、そこを無理やり一足飛びに行こうとする自己盲信的な混線から来るものだった。
それが〝割り切れた〟とは、私が見た、私が聞いた、私がこう思ったなどの中に潜在する危ない我の段階のテーマと

“「私の考えは、これ盲信やないやろかな」、「いや、盲信やと決めておいてもいいくらいやけども、そこ決めるのがまた、盲信からくるのやろうかな」と思ったら、あまり突っ張らないわね。どっちもすると本当に検べてみようと、どちらも盲信かも分からない人同士がね。そうなってくるから楽になって、一体になって話が出来る。”

テーマとに截然と区別されるようになったからなのだ。ホンモノ・本質・本当のものというのは比較しようもないもの。目が覚める思いだった。パッと胸に灯が点った。見るもの聞く声皆快く飛び込んできた。

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わが一体の家族考(166)

その我執の前の我
ポンと飛び込む

いったい山岸巳代蔵の中での気づき〝夫婦は一つのものだから楽しい状態で一つになって解決するのが本当〟だとする、どんな心境の大転回があったのだろうか。いったい何によぎられることで〝どっちにあるとかでなしに、至らないのは二人のもの〟のままに、問答無用サッと飛び込むだけのことで、するともう問題ないのだといえるのだろうか?
ここでの飛躍・転換の機微こそまさにヤマギシズムの真骨頂だ。のちの〝現状そのまま、その場で一体生活に融合できる〟ヤマギシズム生活実見地構想の具現方式につながっていく。
幸いにも先の研鑚会記録「編輯計画打合せ」(1960.3.6)の直前に山岸巳代蔵の口述筆記とテープ起こしで構成された文章「喜びの感想」(1960.2.27)が遺されている。
そこでは、ここ二、三日来「盲信」のことについて書きかけていて、今朝も夜明け四、五枚書いた時も、深い深いどっしりとした大きな海のような喜びが湧いてきたから始まり、

“もう、盲信さえなくなったら、みんな盲信やないやろかと、こう思った途端にやね、パッと胸に灯が点ったんや。『えらいことや』、『こら、大発見やな』と言うてもよいの。盲信という言葉は昔からあるのよ。けども、こんなことに使われ、研鑽に盲信という言葉使った時に、こんなにも人を幸いにするもんかと思ったらね。もうそら、そんなん嬉しいというような程度のものでない。
全人世界のね、底なる、目に見えない、心の底なる、目に見えない、一番肝腎の部分のね、これは剔り出しやと思うの、閉め出し、盲信の。もう、みんな仕合せ、ここから来るのやと思うの。みんな仲良うなれる、ウン、そう思ってね”

と発見の喜びの感想が記されている。
いったいどこが大発見なのか?
この間の柔和子との際限ない〝通じ合えない〟やり取りが続いた。人間仲良く暮らすには、我執があったらアカンとして、あの強硬な我抜き研鑽で柔和子を苦しめた。もう命がなくなるほど苦しめた。なぜなら、最も近い、最も可愛い愛するからこそ、早くあの固い固い自信を拭いてもらおうと。そしたら柔和子は楽になると。柔和子さえ分かってくれたらとの強い願いからだった。こう言い続けてやってきた自分があった。

たしか昨年(1959年)9月末頃、ようやく潜伏先として滋賀県堅田の「引揚者」住宅四軒長屋の続きの二軒を購入して落ち着いたばかりのしかし何時逮捕されるか分からない不安な日々の中で、自らを省みるような手紙を柔和子に寄せている。要約してみる。

この間の随分むごい剛我抜き、私の愛情の混乱から起こる狂態等で、すまないことをしてきた。そんな今までの自分を恥じる・詫びたい・それらの償いをしなければ、死ぬに死ねない衝動にかり立てられている。
話せば分かる。僕も柔和子になりきって聞くから、本当の僕になりきって聞いて欲しい、知って欲しい。
これからは二人の一体で、同じ二人が一つになれてから、仲よくほのぼのの気分で問題を解いてゆきたい。僕の苦しみは柔和子に原因があったのでなく、僕自身の心の世界にあったわけで、自分は本当に我執が抜けていない証拠だった。そんな未熟な自分を痛感している……云々。

それが今、盲信を研鑽することで、我執抜きは一切せんでもよいこと分かったのだ!

“わあー、なんとねー。安心したんよ。もうこれでね、柔和子ともね、ピッタリいける。ウン、盲信研鑽さえやったらね。けんかも全部、笑いながら、「それ、盲信やないやろか」、「ああ、あんたの言うてんの、盲信違うやろか」、「ああなるほど、あんたこない言うてたけど、これ何やったやろ」、こうやれるわね。すると、「ほんなら検べてみよう」って、「ワシの方も盲信か分からん」、「あんたのも盲信か分からん」、「そんなら検べてみよう」と、こうなるからね。もう笑い話で溶けるということ。仲良う楽しいいけるということが分かってきたのよ。”

その我執の前の我、「自分の考えは」というその中に、柔和子の自信を拭いてもらおうとする固い固い自己信念が宿っていたことに気づいたのだ。

“「これは我でありませんよ」と、すぐ引っこめるものね、突っ張らないもの。「私はこう思う。だが、これをこうだと信じておりませんよ」と言いながらでも、発言する中に、何か人から受けたか、何かから受けた、自分の考えからね、考える中にね、盲信したものから来ているものが相当あるということ。”

この発見は、山岸巳代蔵一流の大げさに飛躍した発言に過ぎないものだろうか。
その〝我執の前の我〟というか、我執が抜けたすぐそこへ「分かった」とする自分の考えがふと入る、そんな盲信を研鑽することによって浮かび上がって来た観念の前の、

“えらい段階へポンと来た、入った。これならもう、本当に楽しい話し合いが出来る。”

とする、〝もう笑い話で溶ける〟世界からもたらされる境地を実感するのだった。
難問題を解く方程式を発見したのだ!

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