自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(81)

嬉しさを基盤とする〝あり方〟

それではここでヤマギシズム恋愛・結婚観の俯瞰図というかイメージ像を、山岸巳代蔵が亡くなる二ヶ月ほど前に公開された一文から見ていくことにする。
1961(昭和36)年3月18日~24日に三重県津市に於いて〝ヤマギシズム法政産経Z革命特講〟が開催された。
34年夏の「山岸会事件」の判決公判(4月27日、全員執行猶予)を控えての何が起こるかとの関心は高まり、新聞、ラジオ、テレビ等にも取材されて様々に報道された。会でも日本各地の県庁所在地に於いて会員有志がポスターを電柱に貼ったり、新聞紙1ページ大のチラシを配布したりした。その中の一文である。

“結婚革命
男女・夫婦の愛情の不安定が、いかに多くの社会問題を惹き起しているか? 失恋も無く、寡婦も無い、絶対愛に基づく男女間の真の愛和の世界に革命する。
結婚は社会の単位をなすもので、実に重大な根本問題である。現在までのほとんどの男女のあり方は、無智・蒙昧、暗夜を無灯火で手探りするような行き当りばったりのものである。葛藤・混乱の起るのは当然で、起らないなれば、無智・宗教観念に縛られ、あきらめて、真の結婚をしていない人達ばかりだからと言える。
結婚してると思っている人でも、本当の結婚をしている人はほとんど無いであろう。
吾々は、真の結婚理論を徹底的に究明し、無固定・無定数の基盤の上に、最も相合う男女の精神的・肉体的結合を実行に移している。
多角関係の葛藤などは全然解消していくものである。恋愛・結婚専門研鑽会で最高結婚理念を検討し、事実を通して、一糸乱れない、理路整然とした結婚体系を打ち樹てている。
結婚調正機関は心理科学・現象科学的に人間を解明し、人間にふさわしい円滑なる結婚操作を有機的に実施している。
詳細について研究したい人や、自ら真の結婚を進んで求められる人は、率先して世人のために、家族・周囲の人のために、自分の幸福のために、寄って検べられよ。”

もし街角で、こんなチラシを配られたら自分らはどう反応するだろうか?
いきなり〝自分の幸福のために、寄って検べられよ〟と呼びかけられても荒唐無稽すぎて思わず引いてしまいそう。
子どもの頃のお祭りや縁日でのバナナの叩き売りとかガマの油売りの香具師の口上を連想してしまう。それとも露店での男女の相性診断を占う高島易断か。
ガマの油売り

世はまさに逆手なのだ。もちろん山岸巳代蔵もその辺りは重々承知の上だった。

“人は皆それぞれに忙しく営んでいますから、しかも直に目に見えない、或いは直接腹の太らない事には寄り難いものです。利害が直接影響することは、小さい事でも、重大関心を以て目を光らせて臨みますが、間接的なことや、無形的なこととなると、何倍か大きな酬いのあることでも、案外他人事のように自分に不親切で、誰かがやって呉れる位に冷淡で、欲の無い事、浅い事、そしてつまらん、忙しいと、一日を惜しみます。”(『ヤマギシズム社会の実態』)

しかし、これが自分ら今の社会普通人の考えであって見れば今の処仕方ないから、せめて〝人と人とが溶け合っていく、今まで反発し合っていた仲が、ふとした心の転換から仲良くなれる〟その嬉しさを基盤とする〝あり方〟の実践による立証をする必要があった。
ごく小さい部分からでも実践することであり、しかもその小さい部分で止めるなれば、これまた受け入れられることは難しい。この〝あり方〟を実践し、拡大して、証明することでその正否の課題を提起し、大いなる世論を喚起することに托したいものがあった。
次のような発言も残されている。

“夫婦仲良くなる具現方式を出したいのよ。それを最近まで言わさないのよ。言おうと思っても、誤解ばかりするので言わさないのよ。だが、もうじき出しますよ。これは、人間幸福の基本やから。絶対波立たんやつを。早く出したいし、公開しますから。
僕がポロッと死んだらもう、いろいろ検べてもこれほど究明した人は見当たらんわ。何しろ、寝ても覚めてもこういうことばかり考えているのやから。一度そういう研究発表させて欲しいわ。”

呼びかけられて真面目に素直に応える人は少ない。そこから展開するかつてない世界があるというのに……。

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わが一体の家族考(80)

今の私に、〝キメつけは要らない〟

愛情研鑚会の中で、複数の女性をめぐって激しく山岸巳代蔵を追求する柔和子と、そのことの善し悪しでなく、一切のキメつけを外して研鑽できる真の夫婦としてのあり方を願う山岸巳代蔵との間で激しいやりとりが繰り返される。
そうした〝通じないもどかしさ〟を解消したいと山岸巳代蔵は、おたまじゃくしからカエルへの〝成長への脱皮〟の例えで語る次のような場面がある。
おたまじゃくしからカエル

山岸 おたまじゃくしなるがゆえに、陸上のことは分からなかった。だがそれなりに、おたまじゃくしとして、水があって水の中で生長しておったということは言えると思う。だから、おたまじゃくしの時出来なかったから今も出来ない、或いは出来るとか、やらねばならないとか、こういうキメつけは要らないと思う。ね、「私には出来ない」と、こういうキメつけは要らないと思う。そんなに一つの枠を設けて、ね、型を作って、それに当て嵌めようとする必要ないと思う。出来なくってもよし、出来たらなおよしの、あれでいいと思う。出来ること結構だ、なれば、わざわざ「出来ない」と自分をキメつける必要ないと思う。
柔和子 だからといって、今のままで、このような状態では生きていけないし、またそれを知ったからにはなおさらのこと。今までの、あなたの言葉自体、この……
山岸 「私は出来ない」という、こういうキメつけは要らないと思う。
柔和子 今の私には。そりゃ先ではそうなれるかも分からない。
山岸 いや、今の私がと、そこだと思う。今の私が、キメつけは要らないと。
柔和子 キメつけは要らない……
山岸 「なれない」というキメつけのない……”

ここでの〝出来る〟とか〝出来ない〟というのは、いわゆる「複数」とか「別れる」とか「結婚する」といった〝要らない言葉〟・観念に縛られない〝結婚形態〟を指してのことであろう。
もちろん今の私に、〝キメつけは要らない〟と。
あたかも拠り所のない月や星や地球が、間違いなしに律動しておる状態。人間同士の結婚に於いても、山岸巳代蔵にはそういうものがあるとの直覚があった。
そんな心から楽しめる、本当に嬉しい、そういう愛が欲しかったにも関わらず、現実は三人三つどもえの苦しみに悶絶しそうだった。

“柔和子に対して、俺はやっぱり好きで好きで堪らん、今でも好き。だが、窮屈な、窮屈な思いすることが、また堪らない。”
“ここに、せめて、自由にいつでも頼子を訪ねられるし、頼子が来られる、そういう世界が欲しいと思った。”
“柔和子の場合に、頼子がいる所へ自由に行けない不自由さ、これを感じてきた。四日市を通る時、特に恐れてきた。それは、どういうことか。頼子が、柔和子と僕と一緒に連れだっている姿を見た時に起す気持を感じる、その愛情から出た感じ方、それが耐えられないもの。”
“頼子は頼子で自分流な観方して、それを感じて、行動とらねばならない、その不自由さ”

こうした当事者ゆえの煉獄の試練は、すべて誤解から来るものであり、誤解というものは必ずいろいろの方法を以てすれば解けるはずだ。そうして本質だけ残ってくる。そうすれば、
「なんと素晴しい世の中だったんだ」
「こういう世界があったんだ」
「何であの時はあんなに苦しんでおったか、悲しんでおったか、目が見えなかった」
そんな日が必ずあるっていうことは、これはもう信じて疑わないと言っていい。それが本当だとする決意ともいえる確信があった。
山岸巳代蔵の目には、今日の形ではなく、カレンダーを数枚めくった日本晴れの明るい世界が展開していた。やがて必ず成ることを見極めての発言だった。

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わが一体の家族考(79)

愛に飢えた者の末路

ヤマギシ会を最初に知ったのはたしか、高校生の頃当時体験記『何でも見てやろう』で一躍有名になった小田実の〝ヤマギシ会訪問記〟(『日本を考える』所収)からだった。
幾つかの軽妙なフレーズが今も新鮮に蘇ってくる。面白いところだなぁと、思い立つとすぐに関西線新堂という駅名を頼りに訪ねて行った。例えば

“「学育係」の女の子の努力は大変とみえた。「でも、面白いねんよ、人間改造やもん」彼女はまたもや、そう大きなことをこともなげにいい放った。
「子どものノート代やP・T・Aの会費はどうする」
「私が払いますねん。その予算とってあるさかい。お父さんとこへ行ったかて、お父さんは一円も持ってはらへん」彼女はケラケラ笑った。”

“半年ごとかに、部屋の交代をやるとか聞いた。
「こうやって、自分のものとか他人のものとかの区別をなくして行くんでっせ」”

“「我」をなくすことが根本である――オバチャンの一人が、まじめくさった顔で、しかも相変わらず笑顔で言った。
「いちばんやっかいなのは、物ではあらしまへん。自分の心が自分のものであると思っている、そのことでんな」”

“「あんた、何をしたはるねん」オバチャンの一人が、草を刈っている男に呼びかけた。
「『我』を刈ってますんや」彼はとっさにそう応じた”

あれから半世紀以上過ぎて姿形は大きく変われど、軽妙に〝大きなことをこともなげにいい放つ〟気風はちっとも変わっていないことにビックリした。

ここでの〝我〟とは、自分の考えは良い正しいとして動かさない頑固さ・〝我執〟観念のことをいうのだろう。古くから宗教などでも使われている言葉であるが、あの無心の童子の表情に大洋を湛える大らかさを表現した横山大観の日本画「無我」などはさしずめその対極に位置する世界だろうか。
横山大観 無我

この自分の寄って立つ観念に執着するがゆえに、基の心にある束縛に気付かない観念我に対して、山岸巳代蔵は居ても立ってもいられない「もう自分のいる場所がない」というもどかしさの極地に追いつめられる。
その辺りの心境を振り返っていう。

“これはね、私心とかね、人間の傲慢さに押し潰されるっていうことね。ね、私の私心、及びこの社会の私心やね、或いは人間の傲慢さやね。人間があまりにもこう、自分の考え方をやね、信じてやね、行動とろうとする、融通のつかないものね。
私がないと言いながら、私があるわね、自分の考えが入るわね。そういうもので行動する、その行動に対し、行動によってね、押し潰される、傲慢によって殺されるっていうかね、ね、そういうようなね、立場に立たされた自分っていうようなもの考えてみたりね。また、この、愛を、愛に飢えた者の末路っていうかね、こういうものや”

自分の力ではどうにもならない、もう天命を待つ、というような心理だった。自分のいる場所がない、我と我に責められたものの心理だった。
人間から我執を取り除いたら仲良くやっていけると思うけれど、本当に人間から我執は取り除けるものだろうか?
ある意味愛情研鑽会の場は、無我執とはこういうものだと当の柔和子に伝える場であり、柔和子もまたしっかり受け止める場であったのではなかろうか。

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わが一体の家族考(78)

流れ雲のような状態

先の山岸巳代蔵の発言に、

“発作が起らないから、それでその、もう発作が起らない人間になったかと言うと、そうやないの。発作が起る前に、もう一応そらすから、そうなっていくわけで、やっぱりまだまだ発作起きるかもしれないと、発作が起らなくなったという立証にはならない、”

といったくだりがある。
ここでの〝もう一応そらすから〟というのは、理性が働いて発作が起こるのを避けたり、妥協してその場を糊塗しておこうとする状態をいうのだろう。しかし自分自身にも重々分かりながら、避けたいのだが、発作が出て狂乱状態になることがある。
この事実はいったい何なのだろうか? 修養が足らないからか、性格なのか、こういうものが人間の本質にあるのか、何かしらんものから山岸巳代蔵は逃れられなかった。
ここを掘り下げつけ抜ける以外に為す術がないところまで追い詰められていた。愛情が通じないもどかしさが昂じてくると〝もう自分自身がそういう愛情が通じない世界では生きていられない〟といった苦しみの分析・分離、及び原因究明が冷静に出来ない状態に翻弄されるのだった。
しかもだからといって

“こういう世界のことは立証するために実験できる性質のものでなく、実験のための形だけのものなれば、出来てもそれはホンマものではなく、わざわざ実例を作ろうと思って作れるものではない。”(『恋愛と結婚』の前書き)

だがしかし、もう立っても居てもいられなくなった場面で、たとえば「エエイ、面倒くさい」と二階から飛び降りようとしたまさにその時、クッと止める人が現れた! 
何とかして燃やしてやろうとアパートの台所に灯油をこぼして、マッチを擦って、擦って投げるのだがなぜか火が飛び火しなかった!

そういう不思議なことが性懲りもなしに何回もあった。危ないとこだった。
と同時に〝天佑〟なんだろうか、何か明るい見通しが立ってきたような、正しいことなれば生かされるというようなものを感じるのだった。生きていたいこともないし、死にたいこともないと。全人幸福のためなれば、役立つなれば生かされるだろうといった自分の考えや力の入らない流れ雲のような心持ちが湧いてくるのだった。
浮き雲

そういう場に立たされて、そう仕向けられたらそう言わざるをせざるを得ない自分を批判的に振り返えりながらも、荒縄で縛ってでも腕づくででもお互い止め合うといった謂わば〝一体の繋がりの中で放っておかないもの〟に自分が吹っ飛んで無くなるくらいリアルに出会ったのだった!
そんな心境を浮き雲に托して〝天佑〟を齎してくれるものを次のように表現する。

“で、自分でなしに、傍から受けるものでね、どっちでもこう、ね、やっぱり雲のようなものやね、ファーッと風が来たらファーッと、フウーッと来たらスウーッと行くね。どこへ行くか分からへん。”

この間の愛情研鑚会の〝にわ〟(柔和子)と〝みよ〟(山岸巳代蔵)のいつ終わるともなく続く修羅葛藤の愛情劇の最中でこんな発言に出会うと、ホッと救われるような気がしてくると共にファーッと何か温かいものに包まれてくるようなのだ。

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わが一体の家族考(77)

妥協の世界に生きていない

また「愛情研鑽会」の背景については、次のような出来事があった。
そもそも「百万羽科学工業養鶏(百万羽)」構想は、先の会員・岡本善衛から「輸出用の卵粉工場をやらないか」という話が発端だった。1958年の春先のことだ。
卵を卵粉に加工して輸出すれば、国内の鶏卵市場を圧迫しない上、輸出の見返りに飼料を豊富に輸入することで、国内の畜産界にプラスをもたらすことが出来できる。それならば、会員の養鶏場を一カ所に集めて、生活の不安の一切ない、真の楽園工場を建設しようという話にどんどん発展していく。
しかも構想の発表から、実際に「財産や命までも」と多くの参画者が四日市に参集してくるようになった原動力の一つに、柔和子の果たした役割は大きかった。呼びかけや資金づくりもあったが、何よりも『百万羽』構想実現への妙案が、山岸と柔和子の二人の話し合いの中で次々と湧きだ出しては、具現化していったのである。
そうした中、三月末には二人の婚約発表がなされ、二人の住む小林宅の離れで、有志による『百万羽』の計画書づくりが進められたりするなど、『百万羽』運動は、俄然、活気づいていった。

ところが、柔和子は頼子の感情的に不安定な姿を目の当たりにして、改めて頼子の存在を強く意識するようになる。柔和子は、当然頼子の存在は知っていた。だが、結婚を申し込まれた時も、はっきりと自分には複数婚の意志がないと伝えてあり、山岸からも、「その通りでいいのです」という回答をもらっていた。にもかかわらず、こうして現実に、頼子が、「先生が離れた」と言いって泣き騒いでいるのを知って、若い彼女が愛情の問題でそんなにも苦しんでいることがショックであった。

事態はその後も一向に変わらない。頼子が死を口走っては家を飛び出せば、その後を護衛役がついていく毎日がくり返される。
柔和子が、「そんなに頼子が頼子がと言わなくとも、彼女は大丈夫ですよ」と言うと、山岸は顔色変えて、「お前という奴は何という薄情な奴だ」と罵り、そこらのものを手当たり次第にぶつけて壊したりする。そして、柔和子に対しての我抜き、剛研鑽やら、奇異な振舞いへと、まさしく君子豹変するのだった。

複数の女性をめぐって激しく山岸巳代蔵を追求する柔和子と、そのことの善し悪しでなく、一切のキメつけを外して研鑽できる真の夫婦としてのあり方を願う山岸巳代蔵との間で激しいやりとりが際限なくくり返される。
研鑚会の中で、山岸巳代蔵は愛に飢えた状態の、狂乱状態かも分からない、常軌を逸する、正常な考えがそこに働かない自らの発作状態を振り返っている。

“だが、その時はもう何もね、もう考慮のうちに入らない状態というか、その純粋さを、言うてるわけやね、そこをね。私自身から出てる場合もあるやろ、ね、大いにあるやろ。
間違いを通そうとして、それが通じない場合にな、そういう場合にも起ってくるやろ。
何とも言えんもどかしいものね。
ええこととは思うてへん。ああ、そんなこと避けたいのやけど。まあ、見せ掛けではない。もう自分自身にも、重々分かりながら、まあそういう状態になって、まあ発作的と言われても、やむを得ないかも分からん……。”

“もっと子どもの時にね、自分のね、自分の正しいと思っていることがね、通じないとね、もう、居てもいられんもんやね。”

“いやいや、そうやなしに、通じないと、通じないものに対してやね、妥協ででもその場を糊塗しておこうと、糊塗しておけば、それでいいわけや、自分にな、ね。”

“妥協できないと思います。純粋に生きようと、純粋に生きようということは、もう、それはもう妥協の世界に生きておらないということ。おらない、おられないということになる。”

“発作が起らないから、それでその、もう発作が起らない人間になったかと言うと、そうやないの。発作が起る前に、もう一応そらすから、そうなっていくわけで、やっぱりまだまだ発作起きるかもしれないと、発作が起らなくなったという立証にはならない、現在起らないから。(略)
そういうわけで、もうそういう状態でね、いつまでも生きておられない。いよいよもう追い詰められた。ここで、じゃあどうするか、やっぱりこの、発作が起らない、起るということは、ちょっと棚上げにしてでもやね、それよりも生きておれない、おられない状態をやね、何とかこの、打開していきたいと。”

かくして愛情研鑚会は山岸巳代蔵にとって切実な欲求でもあったのだが、いったいここで何に直面して何が問われているのだろう? 
別段複数婚といった結婚形態を新しく打ち立てようとした訳ではなく、そうした渦中にあるとき、真面目に心底から念じてやまない〝全人真の幸福〟理念から逸らさないで逃げないでいると、自分で自分をどうすることも出来ない、本人の弁によれば〝血みどろの愛欲史〟とか〝煉獄の試練続きの受難史〟に身を置く羽目に陥ったというのである。

なぜこのような事態に陥ったのだろうか? 
じつは自分自身ここで起こったことの真意の一端に触れたくてここまで書き継いできたようなものだ。
愛情研鑚会から〝山岸会事件〟を超えたほぼ一年後に語られた「『恋愛と結婚』の前書き」に次のようなくだりがある。

“そこにヤマギシズムと現実との、どうも相一致しない矛盾に割り切れないものがあった。真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当だと思う。ヤマギシズムにこうした苦しみがあるということはなぜだろうか。”

ふと以前劇作家の北村想さんが朝日新聞のコラム「出会いの風景」に書かれた一文を思う。
18歳の時ヤマギシ会の特講に参加した北村さんは、そこでその後の彼の人生に大きな影響をおよぼす男・クラモチ君に出会う。
ある日生きるか死ぬかと真剣に煩悶していた時クラモチ君の下宿に行くと、B全紙が壁にはってあり、「真なるものは蹉跌(さてつ)する」……と大書されてあった。思わず頭を垂れた、といった内容だ。

ホント、なぜだろうか?
〈理念〉と〈現実〉との矛盾の一切が解消される世界についてのはなしなのだ。

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わが一体の家族考(76)

男らしさ女らしさ

ある日の研鑚会で次のようなことを研鑽した。
「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」
エッ、どんなこと?
〝無い要素をはっきり自覚したら〟とか〝お互いに立ち入らない〟って、どんなことなんだろう?
普段は生理身体的な凹凸の違いぐらいに思っていたからか面食らってしまった。
研鑚会は、男らしさとしての意志の強さとか貫徹や剛直をあらわす〈剛〉、女らしさとしてのすべてを包み溶かしてしまう〈やさしさ〉の世界について未知のことを知っていく楽しさに満ち溢れた。

今の社会では、差のあるものの差を認めないで、画一的にしてしまわないと差別のように思い違いしている事柄が相当あって、そのことと人間的平等や同権等と混同して、社会秩序を混乱させているきらいがある。
その代表的なものに、人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものを混線して、何もかも性の異いまで、人間的平等や同権論で男女共通に律していこうとする無理があり、現在の進歩したといわれる良識の男女差別論などにそうした矛盾がみられる。
男は抑圧者であり女は被抑圧者であると対立としてとらえて、〝男らしさ〟や〝女らしさ〟というものは後天的につくられたものと主張するフェミニストもいる。
たしかに射精欲だけの男の女性への関わり方などは、一方的に立ち入った欲望の論理、強者の論理、力の論理、支配者の論理、闘争の論理などに塗り固められた勝利者慣例の域を出ることはなかった。後年女性たちから〝粗大ゴミ〟とか〝濡れ落ち葉〟として反発・見限られて当然かもしれない。
エロスの最も美しい発露としての男女の愛など未だ絵空事の世界だ。

男と女はまこと異質なもの。他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くことだというのだ?!
〝女は男を知らず、男は女を知らない〟ともいうが、だからといってお互い相手を知ることでもなさそうだ。
『ヤマギシズム社会の実態』にある、
“男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。”
に通じる世界なのだろうか。

そういえば若かりし青年マルクスも、男性の女性に対する関係は、人と人とのもっとも自然な繋がりなのだから、そこにおいてこそどこまで自然と人為の調和がはかれているかの人類発展史のバロメーターになると洞察した一人だった。
若かりしマルクス

“女性を共同体的な肉欲の餌食ないし下女と見なす、という女性との関係のうちに、人間が自分と向き合う際の無限の堕落のさまが語られている。というのも、人間が自分と向き合う関係の秘密は、男性と女性とのうちに―直接的で自然な類的関係のとらえかたのうちに―明瞭な、断固とした、あからさまな形で示されているからだ。
人間と人間との直接的で、自然で、必然的な関係が、女に対する男の関係だ。”(『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

男性の女性に対する関係は、マルクスの時代から創造性・能動性においてそんなに進化していなく未だ未知で未開拓なまま残されてあるようなのだ。
なぜ今愛情研鑽なのか、なぜヤマギシズム恋愛・結婚観なのかがしだいに明らかになってくるような気がしてならない。
あえて的を絞った考え方に立つことで、複雑に考えすぎないで人間が男ないし女としてしか存在し得ない世界即ち男らしさ女らしさの本質追究の先にひらかれる世界のみに焦点を絞っていこうというのだ。

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「と」に立つ実践哲叢(27)

〝村のお母さん〟の力

「今度お母さん研をやるんだけど、何か資料ないですか」と尋ねられて、「こんなのどうかなぁ。検討してみてくださいね」と山岸巳代蔵さんの発言集からの抜粋を差し出したら、しばらくして「あの資料でやりますから、ついでにゲストで出席してください」と言い渡される。
えーっ、子育て真っ最中の若いお母さんたちの中に一点の男性!? まいったなあ…と感じつつも、どんなふうに受け取られるのかと興味津々たる気持の方が勝ってしまう。

そんな日々のやることで一杯のお母さんたちと共に資料研鑽を始めて何回目かになる。
四年ぐらい前の夏、北海道・別海実顕地に全国から一堂に会した三泊四日のお母さん研も思い出深い。その時始めて、日頃は各地に散らばっているお母さんたちが研鑚会という場に一堂に会することから生まれ出る、いわば〝群像としてのお母さん〟を垣間見た思いがして、俄然実顕地の将来像が開けてきたことがあった。 

今回も資料研鑽を通して、道に迷ってうろうろしている人を見たり、ひもじい思いをしている人を見かけたら、見て見ぬ振りできなく放っておかない気持が自ずと湧いてくる。この気持っていったい何なんだろう? 日頃の喜怒哀楽の感情と同じものなんだろうか?……と問いかけてみた。

ちょっと理屈っぽく何のことだか訳の分からないところもあるかもなぁとは案じつつ、研鑚会はしばしの沈黙の中からお母さんたちの実顕地での暮らしで何となく身に付けているところからの発言が切れ切れながらも続いていく。なるほどなー。
そんな別段答えを見いだす訳でもない研鑚会から立ち現れる〝村のお母さん〟はじつに頼もしいのだ。願わくば、こうした研鑽機会が〝本当の食べ物〟になることを……。

ふと鶴見俊輔さんの小杉放庵画「天のうずめの命」を表紙カバーにした著書『アメノウズメ伝』を思った。
小杉放庵 『天のうずめの命』

神話『古事記』等に描かれた、アマテラスオオミカミが洞穴の中に籠もってしまい太陽が沈んで暗くなった時、アメノウズメの胸あらわの踊りでアマテラスを誘い出し、再び世界をあたたかく明るく照らし始めた話だ。
鶴見さんはそこに、対立的・権威的に陥りやすい世界を和らげ、溶かし包み込む神話からのびてくる女性、性、裸、踊り、笑い……に秘められた力を見てとるのだ。

なかでも「日本がハダカになった日」の章では、1945年終戦時、この日が来るまでに別の道はないかと、ニワトリの育て方から最小限の言葉をみつける研鑽方式を編みだし、農業共同体を発足させた山岸巳代蔵に触れ、

「この人たちの思索のあとは、戦後の一流行に終らず、肉体をもつ言葉を求める運動として高度成長下の経済大国の内部に根をおろしている」

とアメノウズメの振舞いに重ねる。
あらためて〝肉体をもつ言葉〟とか理想を描き実現させる力について思いをはせる。

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わが一体の家族考(75)

情感溢れる〝幸せの原風景〟

人間平穏の時は底が見えないが、何か事が起こった時、地金を出すものといわれる。先の〝自分にも思いあたる節〟にも通じるかと思うが、自分自身にもにっちもさっちもいかない状況に追いつめられたことがある。
そんなときに唐突に思いもよらない光景がくり返し自分の中から湧き上がってきた。初めのうちは難関難局にぶつかって、自分は甘い世界に逃げ込んでいるのかなぁといぶかっていた。

それにしても不意に現れるそうした情動的な世界に浸っているとなぜか心地よかった。何時しか自分の中で〝幸せの原風景〟とも呼べるものになった。その時の感受をずっと以前自分でも思いがけなく言葉にしてみたことがある。

“そうした他を思いやるYさん夫妻のさりげなく差し伸べられる心の手の恩恵を一番たくさん被ったのは実際ぼく自身ではなかったのか。朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも批難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。休憩時のおやつ作りの時もそうだ。どうしてあんなに素早く用意できるのか、ぼくたち若い飼育係にとっては毎日驚異のマトであった。自分が作って自分で食べるよりも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べるのを眺めているさまが、その場での奥さんにとっては最も似つかわしかった。”(ある愛の詩)

それからはこうした〝幸せの原風景〟って、自分にとってその正体はいったい何だろうと思いを巡らす日々が続いた。そうした問いかけ自体とても心充たされる時間だった。しかも行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められてあたかも自分だけの〝秘密の場所〟のようになってしまった。

今にして思えば、そうした情感が呼び覚まされたのは、この世界のそこはかとなく広がっている〈性〉の琴線に触れたからではなかろうか? 
そんな心当たりのようなものが芽生えてくるのだ。
父や母を始めとする繋がりの中で〝その蜜を吸って私は育った〟と感じる作家、詩人の森﨑和江さんは、そうした感受を〝エロス〟と名づける。
森﨑和江

“私は身近かで接したこの多くの人びとの、いのちのぬくもりにふれることによって、いつしか、私のからだと折合いがつけられるようになったのではないかと思う。ほんとうに、いつということなく、十余年たってみると心身にエロスがごく自然に流れているのを知った。うれしかった。
そんな挫折を経ていながら、それでも私は思うのである。一人ひとりの人間は、思春期になって性にめざめるとみえるけれど、でも、もっと早くから、ほとんど外界を唇や手足で感じとる赤ん坊のころから、原初のエロスは自他のかかわりの知覚の中に芽生えているのだ、と。そして、社会の性観念が人びとのセクシュアリティを大自然との呼応のまにまに開花させていたとしたなら、性暴力よりも性愛を主体とする観念へと、人間の性は様式化したのではあるまいか、と。”(『いのちの素顔』)

そんな情感溢れる〝性愛を主体とする観念〟世界に強く惹かれる。どんなことなんだろうか、と。

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わが一体の家族考(74)

〝二つの私〟を知る

その頃山岸巳代蔵は、山岸会全國大会や「百万羽科学工業養鶏」構想の講演時に本名とは別の〝大村公才〟なる名を自称していた。その謂われを愛情研鑚会の中で次のように語っている。

“私は大村キミオっていう名をつけた、あれはね、ねえ、「全人に適当に使われたらいいんだ」っていう、そこから出た、あの夫(オット)っていう字を書いたんですわ。夫(オ)は、それではやはり一般を刺激するから、才(サイ)という字を書いてますけどね、夫(オット)という字、大村公夫って。
一旦あのねえ、瀬戸内海でねえ、ねえ、私はもう、ワタシは捨てたんですわ、ね。私を必要としやね、ねえ、相合う人あるなれば自由に使ったらいいじゃないかって、大村公才(キミオ)。そういう私の観念を象徴する意味で大村公才とつけたんです。
大村は世界っていう意味ですわ。ねえ、世界っていうことは、今の世界じゃない、永久の世界ですがね。世界の中で、ねえ、それで公才とつけたのはね、私のまあ才能って、そんなおこがましいもんじゃございませんよ、ねえ、能力そのものをやね、世界中の人のために役立つものがあるなればですよ、はっ、使われたらいいんだって、この気持なんですわ。で、いずれもこれは通じる「オ」なんですわ。”

ここで瀬戸内海に捨てたワタシの「私」、私心のワタシと「全人に適当に使われたらいいんだ」との気持から出たキミオ〝公才〟を二つに分けているところがじつに興味深い。
例えば幸福と云う言葉でも、一時的の満足感を幸福だと思い込んでいる〝幸福感〟と何時になっても変わらない〝真の幸福〟との二つの場合に使われるように……。
全てのことは〝何でも二つある〟ことを知るところから始まるのかも知れない。

長年認知症のケアに携わってこられた精神科医・小澤勲さんが辿りついた〝二つの私〟に分けての考察も興味深い。
「認知症体験の語り部」として知られるクリスティーン・ブライデンの著書(『私は私になっていく』等)に刺激を受け、かつ自身のがん告知を受けた体験を重ねつつ、そこから感じとられる人と人との繋がりの結び目としての〝自分〟という感覚に着目し、その繋がりにこそ自分を支え充実したものにしてくれる〝光明に至る道〟を見いだされていく。
小澤勲

“知的「私」、情動的「私」
知的な「私」の壊れに比して、情動領域の「私」(情動的自己)はあまり崩れないということについて、このようなことを書いたことがある。
私は、情動的「私」という言い方はあまりしてこなかった。それは、認知する「私」はどこまで行っても自分が認知している、という感覚から抜け出ることはないだろうが、情動を持つ私は確かに私なのだろうが、ともに喜び合い、いっしょに悲しんでいるうちに、それらは人と人とのつながりのなかにとけ込んでゆき、私たちの喜び、私たちの悲しみになり、「私の情動」という感覚を超えるのではなかろうか。
桜や紅葉を見て、最初は自分がうつくしいと感じているのだが、そのうちに対象と自分との境が消えて浮遊しているような、不思議な感覚にとらわれることがある。
私はかつて山登りをしていたが、ご来迎の瞬間、期せずして「おーっ」というどよめきが周囲に起こる。ところが、しばらくするとしーんと静まりかえって、恍惚としたというのだろうか、自分がご来迎を見ているという感覚を失い、自然に包まれ、自然と一体となって、自分がなくなってしまったような感覚に陥ったものである。性の世界を考えるともっとわかりやすいかもしれない。”(岩波新書『認知症とは何か』)

認知症とは悲しく恐ろしい自我の崩壊のようにいわれるが、一方では自分が自分であるといった執拗な〝自己同一性へのこだわりが解け〟て、〝世の規範、常識から少し自由で、世間体など気にする必要のない、暖かく豊かな人と人とのつながりがあふれている場〟にもなっているはずだというのだ?!

自分にも思いあたる節があったからか、我がことのように嬉しかった。しかもそうした情動的な世界が〝性の世界〟に通底している云々の個所はとても示唆的ですぐに納得できた。
この辺りを行きつ戻りつもっと丁寧に辿ってみることから、必ずやヤマギシズム恋愛・結婚観が開かれてくるような予感に心充たされる。

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わが一体の家族考(73)

私の自己弁明

それでは次に山岸巳代蔵からの自己弁明をテープの中から幾つか拾ってみる。

“私にしてみるとまた、生きるか死ぬかの問題やと思ってるの。ね、愛情問題ね。もう本当は、柔和子が言った如くね、ワタシの「私」やね、この、私心のワタシっていうものはね、もう、なんらこの世に未練がないと思うの。”
“やはりこの問題解決しなかったら、私はね、生きた仕事が出来ないと思うんです。”
“本当の自由の世界は、そこからでなかったら生まれてこないと思うんですね。”
“この間も三田さんが来て、「もう、ほんな愛情研みたいなもん、どうでもええ。『百万羽』が肝心や。『百万羽』を成功さすことに全部を賭けよ」と、えらいお叱りを受けたんや。そやけど私らにしてみたら、『百万羽』くらい、そんなん軽いもんや。これこそ絶対もう捨ておけん大事業や。”
“「現在の結婚観というものは、私はメチャメチャだ」と。
「結婚しておると思っておることは、メチャメチャだ」と、「危ない」。「だからこそ、いろんな、嫉妬とか、憎しみとか、ねえ、或いはあの、葛藤、ね、混乱、こういうものが起るんじゃないか」と。
「そういうものの起らない社会が本当の社会、それが、この恋愛・結婚問題、これの根本解決が大事じゃないか」と、私はこう言ったんですわ。”

いったい愛情問題即ち恋愛・結婚問題がなぜ根本解決されることが〝絶対もう捨ておけん大事業〟だと言い切れるのだろうか?
生きた仕事が出来ないからだろうか?
本当の自由の世界が生まれてこないからだろうか?
嫉妬・憎しみ・葛藤・混乱など起らない社会が本当だからだろうか?
しかしそうだとしても、さきの奥村和雄さんや岡本善衛さんに代表される一般世人から見たら、ひどく唐突・飛躍・短絡的な発言に聞こえるかもしれない。
いや、ヤマギシズム提案創設者・山岸巳代蔵の中には一貫して次のような〝ヤマギシズム社会の実態〟がしっかりと焼き付けてあった。

“ヤマギシズム社会構成の重大要素は、親愛の情によって、全人類間の紐帯となすことで、怒りや疑いが少しでも介在しては、不完全なものです。
誰とも喧嘩しない、仲よし一家の寄り集まりです。”

理想社会には、「親愛の情が絶対条件」だというのだ。しかし今迄も云い尽くされた言葉であるからか、

“これも既成社会観念から見ると美し過ぎて、婦人会の乗車風景の外麗のみを見た、歯の浮くような幼稚な考え方に見えましょうが”

と、予想される反応にも配慮しつつくり返し人情の滲み出る気風の大事さを強調する。

“又道を尋ねられても自分は自分、ひとはひとと、他に関せずの個人主義も、実は社会が自分一人限りのものでなく、必ず何かで他の人との関連があり、人間は相対的であって、吾一人行かんも程度の差こそあれ、帰結する処、他との保ち合いで人生が有意義になります。
本当に人間は一人になり切れるものでなく、そこに人の情が自ずと湧いて来るものです。
道連れ話相手があると、遠路も忘れて愉快に過ごし、汽車や船で長旅すると、未知の人とも何時か言葉を交わし親しくなり、路傍で見かけた丈の間柄でも、遠い他国で相会うと、近親感を覚え語り合うようになり、純な子供達が、特に早く馴染むのは自然の人の姿でしょう。
世の鬼のように云われる冷血漢でも、家庭ではよき夫であったり、やさしい父として心中に涙することもあります。“

しかしホント、かんで含めるように説明されるこうした〝美しすぎる言葉〟ゆえか逆に遠く他人事に感じられるのはなぜなんだろうか。〝自分の言葉〟にならないもどかしさを感じるのは、はたして自分だけだろうか。
何が邪魔しているのだろうか? なぜ今愛情研鑽なのだろうかというのが大方の見方であるにちがいない。

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わが一体の家族考(72)

愛情徹底研鑽会

昭和三十三(1958)年夏、三重県阿山郡春日村(現在の三重県伊賀市)の春日神社の裏山の松林を切り拓いて、「山岸会式百万羽科学工業養鶏」構想に参画した人々の理想顕現の場づくり(現在の春日山実顕地)が始まった。
百万羽杭打ち

当時としては他に類を見ない百万羽の養鶏工場を創り上げるのだということもあったが、やはり一番の魅力は心一つの人たちと共に考え行う一体生活なるものを一ヶ所に寄ってそれぞれ専門分業の一員としてやっていく、そんな生活がどんなにか素晴らしいことだろうかと夢膨らんだからに他ならない。
仕組みとしては、〝ヤマギシズム生活調正機関〟なる任意の組織を設けて、その機関に参集者一人一人の生活の総てを全委任して、同じ思いで何もかも委した人達全員の意志で調正運営していく方式である。
生活の総てを全委任するとは、身、財、命までを意味した。智恵も、考えも、能力も、体力も、総ての物も、お互いに持たないで自由に使い合う仕組みにすることで、皆と共に〝ゆりかごの前から墓場の後まで〟安心して仲良く暮らしていこうとするまさに〝自己より発し、自己に還る〟ヤマギシズムの実践であり、そうした社会のあり方を世に問うためにも参集したのだった。
こうして老人・幼児を含め二百名近い人たちの〝一体生活〟が始まった。
しかし個人生活から、慣れない〝一体生活〟に入るわけだけだから、最初のうちはとまどいの連続である。いや、今尚過度期のとまどいの連続かも知れないが……。
例えば経理部では、皆の財産整理からの出資金は数千万程度に上ったがすぐに底がつき始める。宿舎でも基礎がしていなく細い杭を打ち込んでその上に乗せる簡易な建て方だったが、鶏糞乾燥場、育雛舎、大雛舎、成鶏舎、研鑽会場建設が目白押しに続いた。
また人事部では、各部門の最低必要人員決定と現金収入を得るために一般労務員(土方仕事など)の捻出が急がれた。
日々の労務配置で、各部からは気づかぬまま自己本位的に「新人は困る。もっと慣れた人に来て欲しい」という気持が出てくるからだ。
一人ひとりが本当に楽しい場に就き、またそれを活かすことが楽しいという〝一体の妙味〟をいかに生み出すかが日々直面する切実な課題だった。

ではその頃、山岸巳代蔵は何をしていたのだろうか?
山岸巳代蔵全集所収の年譜には、

“1958(昭和三十三)年 57歳
八月十二日 起工式を挙行。この頃、春日村の元村長中林宅の離れに柔和子と共に移る。その一方で頼子のいる四日市のアパートへも通う。“

と記されている。
そしてそこから春日山に出向いては、養鶏の飼料設計や消毒方法や鶏どうしの尻つつきや羽食いなどを防ぐ手立てについての飼育係からの相談に乗ったりはしていたが、実際のところ愛情問題の解明にほとんど占められていた。

柔和子とは第三九回特講(京都、三鈷寺)で出会った福里柔和子(当時38歳)のことであり、頼子とは第四回特講(京都、三鈷寺)で出会った井上頼子(当時19歳)のことである。
その頃山岸巳代蔵は、京都向島に住む妻・志津子とは別居して、昭和三十一年秋頃から三重、四日市市の会員井上与男宅で井上頼子と住んでいて、昭和三十三年三月末には福里柔和子との婚約発表をすませている。
これには四日市支部の会員も動揺したらしい。そうした山岸巳代蔵の行動が四日市支部の研鑽会でも話題になったが、本人は一切弁解をしなかったので並みいる人々は二の句がつけなかったという。
かくして、三重県菰野の見性寺に関係者(頼子や柔和子らも参加)が一堂に集まって持たれたのが、暮れも間近い一一月の末から一二月の初めにかけての愛情徹底研鑽会だった。

山岸巳代蔵にとっては、愛情に関する問題は、非常に大きな課題であり、一体世界における、無固定の結婚はどうあったらよいのか、これの究明・解明・実証こそ、その本願とする全人幸福への最大不可欠の課題とみなしていたようである。
一方、『百万羽』構想や会活動を現に進めている当事者らにとってみたら、またとない山岸巳代蔵の真意を問いただす場でもあった。
その一部がテープに収められて保存されている。引用してみる。

“奥村和雄(『百万羽』参画者) まあしかし、この、愛情問題ちゅうか、これはもう、みなが非常に関心持ち、また、今の社会には受け入れられないと、二百年後の社会であればいざしらず、これが山岸会の進展に大きなマイナスになっておると、今としても『百万羽』の進展に非常に影響しているということも事実。また参画しておる人も、これがために非常に不安な気持になっている。本当の腹の底から力が入らないということ、これはまあ事実、私みたいなものでもそうなんですけどね。”

“岡本善衛(会員・三重県県会議員) またあの、おそらくねえ、そりゃあ、あなたのような心境になったらどうか知らんけどね、しかし現実社会に生きる人間がね、そういうことなんかあり得ない。わしゃあ一番困るのはね、東京で、
「山岸さんっていうのはそういう状態で、山岸会はそういう問題、非常にルーズらしい。どういう考え方だ?」
と、こう訊かれる、わしゃあ、当然困る。
でね、「そりゃね、恋愛の我々の旧道徳というものよりも、もう少し高い所でね、見てると。だから恋愛の問題だけはね、たまたま旧道徳を超える場合があると思うんだ」と。
「しかし、山岸さんの現実の問題は僕は知らんのや」と、こう言うて逃げとるんですがね、しかし、これは私は一ぺんはあなたに訊きたいと。”

“奥村和雄  エー、親父さんのその気持、よく分かっておるんですわ、それで根本的なものを解決せずして仕事が出来ないとね、これもごもっともなんですがね、それはもう別に言う必要ないんですし、春日や『百万羽』の事情を別に一応言う必要もないんだけれどもですね、やはり、この二七日からのこの研鑽会が非常に大きく響いておるということ、周囲に大きな反響を及ぼしておる、この解決を皆ですね、首を伸ばして嘆願しておるような形で待っておると、
「今にまだそれが解決せないのか」という、皆のですね、気持ですね、非常に混沌たるものが流れておるようです。
「それがあるから解決せよ」と言うんではないけれども、これをですね、最も効果的に焦点を絞ってね、一時も早く解決しなかったらね、まあそりゃ一歩一歩前進しておるとはいうものの、ね、堂々巡りばかりやっておっちゃね、これで、エー、に終始してしまってね、エー、ま、これも一つの仕事の内だと言えば、それは当然のことでもありますけどね、そこを銘々しっかり銘記して、真剣にこれを推し進めていってもらいたいと思いますな。”

『百万羽』という偉大な事業を進めるにあたって、それに先立って私的な個人的なプライベートに属しているはずの〝愛情問題〟の真の解決がなぜ求められるのか?
未だ誰も解いたことのない常識(良識)外れの世界をひらくのだ。そしてそこからの自分から、今日の自分を思い起こして見ようというのである。

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わが一体の家族考(71)

真に〝分かり合う〟の源泉

さき(わが一体の家族考66)でフーコー最後の講義の一節にふれたが、講義では〝しかしもう遅いので〟として取り上げられずに終わった草稿の最後は、次のように記されている。

“最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。”

すごく難解なことが云われているように感じる。なかでも〝真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ〟という一節などチンプンカンプン。
そもそも〝他性〟って何なんだ?

たぶんフーコーが〝他性の本質的な措定〟という表現で言いたかったのは、真なるものが現象化されるとは現実世界(既成)の常識価値観、例えば強者の論理・力の論理・支配者の論理等を肯定・固定してその枠内で幾ら改良を重ねても絶対到達し得ない質のものであり、本物を本当に乗せておく〝他性の本質的な措定〟なるものからしか真実は姿を顕さないという本筋的な異いについてのことだったのではないか?
ここを何とか自分らの文脈で解読していきたいのだ。

1959(昭和34)年七月、〝Xマン〟〝Z革命〟などの新流行語と共に一躍全国的に名をとどろかした「山岸会事件」で全国指名手配されていた山岸巳代蔵は、翌年四月逮捕という形で三重県の上野署へ自意出頭した。
そこでの上野留置場での看守とのやりとりの逸話が残されている。

“山岸 寝床が敷いてないから寝れない。
 看守 自分の床ぐらい自分で敷け。
 山岸 そうかね、そうかね、自分のことは皆自分でするのかね。
 看守 そらそうだ、自分のことぐらい自分でしたらよい。
 山岸 そうかね、それじゃ君のそのメガネは自分で作ったかね。
 看守 そら眼鏡屋が作ったに決まっているじゃないですか。
 山岸 君は何でも自分のことは自分で出来ると言ったじゃないか。
等々で看守がカンカンになったという。”

かのディオゲネスの再来といったところか。つい思わずふき出したくなるが、本人はいたって何時如何なる場においても真面目なのだ。
それにしても山岸巳代蔵と看守とのかみ合わない〝やりとり〟はじつに興味深い。
これこそ、何も甘やかされて付け上がっているものではなく、かのキュニコス主義的生を特徴づけるずけずけと包み隠さず勇気をもって〈真なることを語ること〉の実践にも似て、ある意味スキャンダラスなやり方で他の人の生き方や周囲社会を明るみに出して反転させていく逆説的な実践であり、まさに〝私が変われば世界が変わる〟目に見える振る舞いであったのではなかろうか。
そしてそこから始まる次のような山岸巳代蔵の発言が思い浮かぶ。

“真に分かり合うには、夜を徹して語り合うことである。万象眠る。ただ二人のみ、その中に覚めて語る。真に分からぬということはない。”
万象

万象眠る夜の沈黙の中で、私とあなたとの語り合いのうちにお互いの主張や考えを強行し合う誤解の急所が次々とほぐれ、談笑のうちに溶けていくものがあるというのだ。
ただ二人のみ共に向かい合い、それぞれの眼に相手が映るのみだ。あなたの目に映っている私、私の目に映っているあなた。そこに〝他性〟になることで〝他性〟の心になることではじめて〝一つ〟なるものが浮かび上がってくるとでもいうのだろうか?
こうした〝分かり合う〟とか〝一致〟とかの源泉について思いめぐらしていくと、

自分が生きているとは相手があるからで、相手は自分の中にある。自分だけでは自分はあり得ない。自分が生きているのはみんながあるという事実に思い至る。

そうした自分以外の他の個との関わり、結び付きの成り立ちを、男女とか夫婦として現れる「性」を基盤とする恋愛結婚観から訪ねてみようというのだ。「性」の琴線に触れてみようというのだ。そこからしか展開されない世界を指して〝理想社会〟と名づけているのだ?!
理想社会への道程は、「性」を基盤とする恋愛結婚観を抜きにしては語れないし成就しないという後先の話についてだ。
もちろんそのことの気づきは、自分にとっても青天の霹靂だった。

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 「と」に立つ実践哲叢(26)

仲良い楽しい大家族

今日は伊勢志摩の磯部農場へジャガイモ収穫に行ってきた。トラクターで畝に掘り起こされたジャガイモを大まかに大小二種類に分けてコンテナに入れていくごく簡単な作業。しかし中腰になってより分けているとすぐに腰が痛くなってくるし、さりとて腰を下ろして膝をつくと今度は立ち上がるのが億劫。そんなこんなで汗が噴き出してくる。
向こうの畝では幼年さん達がカラフルな砂遊び用のバケツ(?)にジャガイモを入れていたり、久しぶりに再会した者同士で写真を撮ったりしている。

こうした老若男女入り混じっての光景に、ふと先月の本紙「広場」欄にあった河合さをりさんの〝御浜の甘夏収穫に行ってきました〟の一文が重なった。そっくりそのまま再現されているさまにビックリ。
四月の下旬「地域の会員さんも一緒にどうですか」と声かけてもらって参加した大満足の南紀御浜での甘夏収穫体験記だ。

「手の届くところを採る人、とった甘夏をまずは食べ始める人、力のない人は二人でコンテナ運びを楽しんでます。木に登る人、そのうち私も、上から落としてもらった甘夏を受け取るのが面白くなり、いろんな人と組んでみると個性豊か!」

今日のジャガイモ収穫でも、韓国実顕地から研鑽学校に参加されている趙貞姫さん(80歳)がニコニコした表情で次のような感想をもらされていた。

「幼年さんから自分のようなお婆ちゃんまでまるで大家族のようでした!」

大家族? そんなのどこかの組織体の企画行事にすぎず嘘っぽいヨ、といった冷めた観方や考え方もある。そうだろうか。
 というのも最近事あるごとに
「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、……」(『実践の書』)という一節に思いを巡らしていると、資金があり、ジャガイモ畑があり、作る人が大勢居ても、それだけでは実現しないことがあるのではと気づかされるからだ。
そうしたことが普通に和気藹々のうちにやれているのは、そこの場所や人達そのものでなく、人の心の中にある「と」において繋がっているものに後押しされてのことではなかろうか、と。

例えていうなら、身体の病傷の時、意識あるなしに関わらず全身心が動員してそれを取り除き正常の方向へと合わせていこうとする力が働いているようなものだろうか。
しかも〝人と人によって生れ〟から親が子を愛する親愛の情が溢れ、〝人と人との繋がり〟によることで、人は自分以外の他の人と出会うことで、幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にある〝家族〟に象徴される繋がりを明示しているようだ。
そうした何だか身内ゆえのほのぼのとした温かいものが紐帯となることで、〝大家族〟もあながち嘘にはならないであろう。

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わが一体の家族考(70)

〝母子系図〟の繋がり

人の母子に限らず親鳥が雛に餌を与えている姿や動物の赤ちゃんが一心不乱におっぱいを飲む姿を見つめていると、衝動的にいつまでも眺めていたい気持ちにかられる。

赤ちゃんが生まれてすぐしたいのは、おっぱいを飲むことだ。おそらく匂いを頼りに乳首を探りあてる。そして満ち足りるとまたうとうととうたた寝をくり返す。それと同時に母親も赤ちゃんにおっぱいを吸われる喜びが齎される。
求める(受ける)ものと応える(与える)ものとが全面一致している喜びの姿であろう。
そんな喜びの姿に、母親も〝かつて自分が受けたように〟吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのだ。
自分の持っているなけなしのものも、早く貰って欲しい。貰って怪我や食傷せないよう、真の人間らしく早く成長して欲しい、と。

そんな受けるばかりの自分らは、生涯母体に抱かれ母乳を飲んで暮らしているようなものだ。肉体を受け、生命を受け、豊富な物質や健康を受け、温かみと親しさが籠る親愛の情に充つる世界までが一方的に齎されている!
こうした齎す人は既に齎される恩恵に浴しているという〝与えて喜び受けて喜ぶ〟実態についてもっと想いを馳せてみたい。
あの母と子の間を繋いでいる、赤ちゃんが母親のおっぱいを吸う喜びと母親が赤ちゃんにおっぱいを吸われる喜びとの一致には、どんな実態が秘められているのだろうか、と。

例えば鹿など動物の授乳では、子鹿は前から首を入れて、母親の後ろ脚間にある乳首をくわえて乳を飲む。その間母親は子鹿の尻をなめてやったりする。
子鹿の授乳光景

赤ちゃんは唇と舌を使ってただひたすら匂いと温かさを頼りに乳首を探し求め乳を吸い取り乳房の肌触りの感触を味わいつくす。そして満ち足りると安らかな眠りや排便などがくり返される。一方母親は、おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時に、不快でむずからないようにと忙しくても、労れても、自分の生命を削ってでも〝与える喜びに生きる〟世話が連綿とくり返される。
というのも既に母親も〝かつて自分が受けたように〟与えて貰った恩恵に浴しているからに他ならない。
しかもこの食(授乳)を介しての母と子の繋がりの喜びは、自ずと性(対)を介しての母(女)と父(男)、夫婦の繋がりの喜び(快楽)を抜きにしては生まれようがない。

それゆえ次の、
「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、……」(『ヤマギシズム社会の実態』)
といった一節から、永遠に生きたいとする本能的欲求の現れでもある自己なる主体は、両親を親の親の親を辿っていけば……子孫の行く末の、末の結合を考えれば……幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にあり皆血の繫がる人類全体の繋がりの結び目の一つだと知らされる。

主体は自分にもひと(他人)にもないのだ!?
こうした〝母子系図〟の繋がりのことを、この間自分らは
○私の倫理「親は飽くまで子に資するもの」
○私の社会倫理「自己より発し、自己に還る」
と呼んできたのだと思う。また
“理想社会にはこの温かみと親しさが籠っていて、人情の滲み出る気風を添えてこそ、完全なものです。”
ともあるが、こうした倫理観の発露が主体となって始めて〝わが一体の家族〟が立ち現れてくるにちがいない。

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わが一体の家族考(69)

ヤマギシズム人間像

そんな古代のキュニコス的人間像にヤマギシズム人間像を重ねてみたい。

“ある時、ディオゲネスは、
「人の姿を見て犬と呼ぶ人がいる。では、人間はどこにいるのだろう?」
と言って、昼間にランプの火をつけて人間探しをした”
真っ昼間にランプを灯して人探しするディオゲネス

という。じつは山岸巳代蔵もそうだった。ヤマギシ会運動とは、物に乏しい人々を訪ね、心の豊かな人を探す旅の途上にも例えられるだろうか。
会が発足したのは1953(昭和28)年3月。以来「五五会」と称して、毎月五の付く日に京都市内の会員有志宅に養鶏支部会員の代表が寄っては、運営面等の研鑚会が開催されていた。なかでも毎月十五・十六日の研鑚会は夜明かしで〝幸福〟についての話し合いももたれていた。
その頃、京都府船井郡八木町諸畑部落の会員、明田正一が山岸巳代蔵宛に

“キチガイになれたのが嬉しい。キチガイが治らぬうちに来る気はないか”

との手紙を出したら、早速次のような葉書が届いた。

“前略 過日は五五会で忙しくしていましたので、お話も出来ず残念でした。
八木の支部にもそんな変り者がいたということは知らなかった。
変り者を探している。変り者を探し合って、変り者でない人を変り者にしようじゃありませんか。そして世界中の人みな変り者に変えましょう。
変り者を一六日に送って下さい。昼は向日町で養鶏。夜は当向島で変り者の変わった会をやります。”(一九五五年六月八日付)

そして七月から山岸巳代蔵自ら諸畑の地にヤマギシズム社会のモデルを造りたいと、
“掘立小屋を建てて、藁の上で筵(むしろ)をかぶってでもやっていく。私は諸畑の土になりたい”
といって、自分で育雛も始めたと伝えられる。
無口だが時々奇抜なことを云う明田正一さんの人となりに惹かれた山岸巳代蔵は次のような葉書も寄せている。

“あなたの業跡は全人に幸せを齎すものです。諸畑の革命は世界革命への第一発であり、これが決して誇張した言葉でなかったことを後日事実をもって証明するでしょう。
いかに叫んだところで、行う人がなかったならば、言わざるに如かず。
みんなで研鑽した理論が空論でなかったことにする手始めは、舞台一ぱいに踊るあなた方の、演出実技に俟ったもので、作者と役者と一体になって、出来るか出来ないか、世界の観衆の前で試演しましょう。熱演しましょう。あなたと私の繋がる全世界の人、その子孫永久の幸せのために、全力を傾けましょう。
(中略)
             山岸 巳
ほうけ者の親玉・子玉・孫玉各位
酒呑童子の世界相手の暴れ振りに期待しつつ
(一九五五年八月一四日付)

事実現在の春日山実顕地(三重県)の前身、「百万羽科学工業養鶏」創立への参画者第一号は明田正一さんだった。
そんな明田正一さんに限らず、たくさんの後光が射して見えるヤマギシズム人間像との出会いが思い浮かんでくる。

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「と」に立つ実践哲叢(25)

移りゆく季節の中で

春4月に入ってすぐ1日~4日まで毎年2回8年間続いている恒例のサッカーをしないで〝自主、自立。チームワーク。コミュニケーション。食事〟を目的とした地域のサッカーチーム110名ほどの子供達の合宿がはじまった。畑の堆肥まきや牛舎や豚舎での元気なかけ声や振る舞いを通じて村は一気に春の息吹に満ちる。

続いて桜がちょうど満開になった頃には、一年間親から離れ仲間たちと過ごす幼年さんの入学式があった。早速次の日からカモの親子が一列に並んで歩いている光景そっくりに、村のいたるところで幼年さんに出会うことになる!
そうしたいつの間にか見慣れた風景になっているけれど、ちょうど十年前久しぶりに村で幼年さんの受け入れを再開した頃が思い浮かぶ。村の空気が一変したのだ! 神出鬼没する幼年さんの無心の振る舞いにどれほど心が和み励まされたことか。加えて以前からの養護部の子らの日々の散歩や職場の行き帰りの姿とも重なり合って、どんなにか豊かな村づくり像が皆の心に刻まれたことだろう。

今年は遅咲きの桜並木の開花と共に、梅林や桃園やぶどう棚や木蓮や菜の花々がほぼ時を同じくして咲き揃う絶景の中を、地域の老人ホームのお年寄りを乗せた車がひっきりなしに行き交っている。
そんなある日ふと見上げると、青空に尾ひれを豊かに振るう鯉のぼりが踊っていた。そういえば今朝学育の子らが、以前5月の春まつりに向けて設置した高さ33メートルの鯉のぼりの支柱の下に集まっていたっけ? もうそんな木々の若葉の緑が一斉に目に飛び込んでくる季節に移っていたのだった。
柿の木の若芽

なかでも道端の柿の老木の新芽は若芽色が鮮やかで、それがひび割れ白茶けた木肌から出ているのが何とも不思議でならない。だって老木だから、多少は赤茶けた新芽であってもよいはずなのに、といった滑稽な思いに囚われる。
人為の如何に関わらず自然界では若木、老木を問わず若葉の芽生えは緑色なのだ!

年を重ねた今、今が一番新しく、新しさが若さであり、今の自分がそうである。そこには一切のキメツケは要らない! それなのに先にあるものをだんだん古くなっていくようにキメツケて考えがちな人の哀しさよ。
しかしもうそんな心配は要らない。じつは自分らの村づくりはそんな矛盾をも包み込んだ上で構想されているからだ。
つまり我執がなくなったら理想郷を造ろうでなしに、まず仮の理想郷を造って、本当に仲良く暮らして行くには自分の引っかかりを放す以外にどうにもならないという、方法を以てすれば解消されていく仕組みなのだ。

そんな理想を求める自分らが本当の仲良い姿になる場、方法が必要なのだ。豊かな村づくりの秘鍵もどうもその辺りにありそう。どんな人もどんな難問題もみな溶かしてしまう親しい温かい空気のような気風から……。

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わが一体の家族考(68)

ディオゲネスの身振り

フーコーによれば、キュニコス主義は生の様式と〈真なることを語ること〉とが互いに直接的に、無媒介に結びついた哲学の一形態であるという。
要は余り複雑に考えすぎない、むしろ常識や先入知識・経験にも無頓着な良い悪いを考えないで無批判的にまず〝やってみよう〟とするイズムだというのだ。
この一言からでも深く根本理論を追究し、自分の判断を織り込んでいく伝統的な堅実・賢人型の哲学のイメージと大きく異なる。
そんな雑念を介さない素直さは、書かれたものより可視的に顕れる〝振る舞い〟の中でこそ明るみに出され多くの人々の心に響いていく。
その思想よりも逸話によって知られるディオゲネスの身振りが今に伝わる。講義録の中などからさもありなん、とうなづける幾つかを並べてみる。
樽の中のディオゲネス

○衣服をほとんど身につけなかった。
○最後は眠っている物乞いのようにマントに包まれて死を迎えた。
○公の場で食事をし、おおっぴらに公衆の面前で自慰にふけった。
○クセニアデスによって奴隷として買い取られたとき、「何ができるか」と問われて「私は指図することができる」と応じた。それでクセニアデスの子供たちを教育することになったが、その内容は従僕や奴隷に頼らない非依存の習得を教えた。
○両替商の息子だったディオゲネスは貨幣変造の疑いで追放されたが、そこから「貨幣を変質させよ」というデルポイの神託を受けたとされる。つまりそこに規則、習慣、しきたり、法と共にある〝貨幣〟よりも、自分自身の存在こそ価値ある〝真の貨幣〟だとした。
○金に困ると友人達に「貸してくれ」と言わないで「返してくれ」と言った。なぜなら、すべては神々のものであり、自分こそ神々の友だからだ。
○アレクサンドロス大王が町に訪れたが、ディオゲネスは日向ぼっこをしていて挨拶に来なかったので、大王から会いに行った。
大王が「何か望みはないか?」と質問すると、ディオゲネスは、
「そこに立たれると日陰になるからどいてくれ」とだけ望んだ。
帰途、大王は「私がもしアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と言った。するとディオゲネスは主張する。
「しかし真の王はこのわたしである」と。
○ある時まで小さなお椀で水を飲んでいたが、泉で子供が両手をコップのかたちにして水を飲んでいるのを目にして、自分のお椀を投げ捨てた。
○彼が奴隷として市に売りに出されているとき、座った方が楽なのでそうしていたら奴隷商人にとがめられた。そこで彼は言った。
「どうでもよいではないか、腹ばいで横になっている魚だってちゃんと売れるのだから」
○彼が広場で食事をしていると、それを見た人々が「まるで野良犬だ」と言う。そこでディオゲネスは「しかしお前たちもやはり犬だ、なぜなら食べている犬の周りに輪になって集まるのは犬だけだからだ」と切り返す。
○広場で真剣に大事なことを話していたとき誰も耳を傾けなかったが、鳥のように口笛を吹き始めたら人々が集まってきたという。
その他諸々。

こうした古代の人々の間で興味深く面白がられたであろう逸話にフーコーは、この間の〝自己への配慮〟に関する研究のいちだんの深まり・広がりを見てとったのではなかろうか。
粗野なこの生き方、貧窮し放浪する姿に、それゆえ却って〈真なるもの〉を観たのだ。
そこには私生活もなく、秘密もなく、公開されざるものもなかった。
こうした慎みを欠いた生、ある面横柄で不潔で挑発的で恥知らずの生。荒削りなやり方ながらも不純物の混じらないピュアで簡素で能動的な貧しさの顕現に、いわば〈真なるもの〉におのれの生の様式を即応させていくイズムなのだ。〝直接的に無媒介に〟世間体を省みずに。
そうした目に見えるかたちでの身振りは、古代の人々にも少なからず心当たりがあるのか、顰蹙を買いあざけり笑われる一方で身近な逸話としてくり返し語り継がれた。それは大方の一般社会通念や人生観を揺さぶることを意味した。それは必然スキャンダラスなやり方(名声を汚すような不祥事)で価値観を反転させ、転倒させるのだ。
それはまたラディカルに別の生の必要性の主張および肯定へと導くのだ。
まさに犬儒派(キュニコス派)よろしく番犬のように暴力的に既成の価値観に噛みつく。
ここに実践の中で誇大化し、反転させることによって、一気に世界を変えようとする〝戦闘性〟、いわば全人に差し向けられた開かれた場における戦闘性という考えが浮上してくる。普通の人々の生が、真の生とは全く別のものとして明るみに出されるからだ。
フーコーは自己への配慮から出発しながらも、自己に配慮すると称する生とは何なのかと問い、そこに倫理的主体としての配慮する生のかたち、それは別の世界への移行を誘い立ち返る謂わば全人に配慮することに繫がる一つの道筋をキュニコス主義に見てとるのだ。

自分らの文脈での「私が変われば世界が変わる」一粒万倍思想の始まりである。

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わが一体の家族考(67)

フーコーが問いかけるもの

ヤマギシ用語にさきの「ボロと水でタダ働きの出来る士は来たれ」と共に「私が変われば世界が変わる」というのもある。
言う人が百人出来ても効果がないが、一人の心からの行いが百人の心に響くものだという意味だろうか。
次のような逸話が語り継がれている。

“かつてA、B二つの養鶏家達のグループがあった。Aは物が平等に満ちたグループ。Bは物に於て不平等のグループであったが、
Aは絶えず猜疑し合い、争い合った。
Bは常に信じ合い、むつみ助け合った。
これは、
Aは普通の人々の集合に過ぎなんだが、
Bにはたった一人、謙虚で神の如き人があったからである。”

今ではこんな話何だか短絡的で宗教っぽい話に聞こえてくるのか小馬鹿にされるのがオチであろう。
しかしさきのフーコーが自分のこととして取り組んだテーマが、あえて平たく言えば「私が変われば世界が変わる」だったのではなかろうか。
もっともここでの「私が変わる」とは〈私〉というものの次元の〈転換〉を意味している。
最後の講義で〝こうした分析の一般的枠組みについて〟話さずに終わった草稿には、次のような趣旨のことが書きとめられている。もちろん自分寄りの文脈に引き寄せつつ、そこに次元の〈転換〉のイメージを重ね合わせてみる。
講義中のフーコー

○ソクラテスなど古代哲学にまで遡り、主体と真理との諸関係についてを「自己の実践」という観点から研究しようと試みた。
○それも自己との関係を「魂」との関係だけに単純化しないで
○つまり「自己への配慮」を〝実践〟のテーマとすることで、自分自身の振る舞いや行動の仕方を倫理的に構成することにあった。
○それは自己自身の変化を目指す修練・陶冶・訓練・点検を意味するだけにとどまらない。
○つまり次元の〈転換〉を意味する「私が変わる」の実態がここで明らかにされる。
ふとした機縁から私を考え、私を改め、私を深める実践を通して、「自己への配慮」と「自己の認識」とを同一視しない主体自身の移動というか心の〈転換〉がここで為されるのだ?
今までの自己とは次元を異にする、自分らの言葉でいうならば「われ、ひとと共に」の〈自己〉が構成されるのだ。
○そうした〈自己〉とは、真理を自分のものにする実践の数々を踏んだ倫理的な自己ともいえる。それは抽象的でなく真理を語る勇気を実際に持つということであり、必然自己も含めた〈全人〉と共に行い生きる関係に基づかなければならない。
○つまりそうした〝振る舞い〟のなかに、〈真なることを語ること〉と〈よく統治すること〉との一致像が見いだされてくる。
○ここにキュニコス派が現れる。自己への配慮と真理を語り表明する勇気の要請が結びつく数々の実践例である。
等々。

〝真理〟とは客観的で解釈すべきものというよりも、生きるものであり、自ら発するものであり、そこから齎される恩恵に浴する実動行為であるというのだ。 
たしか亡くなる直前に刊行された『快楽の活用』への序文の一節に

“私を駆りたてた動機はというと、(中略)それは好奇心だ。(中略)つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。”

とあった。
そう、自我という自己からの〝開放〟なのだ。〝真理を生きる〟ことで「自己への配慮」と「自己の認識」とを同一視しない主体自身の新しい次元の〈転換〉像がそこに現れ出たのだ、と。
もう少し踏みこんでみる。

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わが一体の家族考(66)

真実、それに自己を生かす

一九七〇年代の初め頃、〝ボロと水〟と書かれた車に乗って、ときには両手に風呂敷包みを提げながら、『ボロと水』という名のヤマギシズム運動誌を全国のミニコミ誌を扱う書店に行商して歩いていたことがある。
当時の時代背景もあったのか、自分なりにこの〝ボロと水〟という名が実に気に入っていた。天下に響く名だと確信していた。その第3号に、今は亡き亀井のおばあちゃんの第一回特別講習研鑽会(一九五六年)に参加したときの手記が載っている。
その中に講習期間中に危篤状態に陥った山岸巳代蔵が三センチ幅のザラ紙に二Bの鉛筆で「ボロと水でタダ働きの出来る士は来たれ」との遺言状を書き付けた経緯が記されている。

何を言わんとしているのだろう? こういうことだろうか、ああいうことだろうかとその真意を探ねて今日まで来たようなものだ。

さきのフーコー最後の講義(1984年2月~3月までで6月には亡くなる)は、ほとんど哲学史でも顧みられることの少ない古代キュニコス主義を新しく独創的に照らし出した『真理の勇気 自己と他者の統治Ⅱ』だった。

紀元前4世紀ストア学派の母体とする犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、大樽を住処にするといった粗雑で粗野な哲学者・ディオゲネスなどを取り上げるのだ?!
その外見は、垢にまみれ、着古した上着を二重折りにして着用し、粗末な頭陀袋を持ち、家もなく、日々の糧を物乞いして放浪する。
それはまさに〝野良犬〟の生きざまであったという。
そんな〝変わり者〟のディオゲネスの身振りの数々の逸話だけがくり返し語られ今に残っている。

いったいフーコーは、ストア派からより遡るキュニコス派に何を見て何に心惹かれたのだろうか?
毎回フーコーの講義は、途中休憩を挟んで約二時間電気スタンドの明かりを灯し準備した原稿をトップスピードで読み上げるのだが、
この年体調はすぐれず最終回となる一週間前の講義(3月21日)では「ひどい風邪を引いてしまって、中断することになったらどうぞご容赦ください」と述べるところから始めている。
そんな状態のなかでキュニコス主義の実践について語るフーコーの心の眼前はいかばかりであったろうか。

もちろんどこまでも〝群盲象を撫でる〟憶測の域を出ないことは重々承知の上で、きっと希望と歓喜に燦やき、求めたものが得られた幸福に充満していたのではなかろうかと、つい勝手に思い込みたくなる。
群盲象を撫でる

自分自身を省みても、もし自分が曲がりなりにもヤマギシズムでいう「ボロと水でタダ働き」の一端に触れていなければキュニコス主義の〝持たない〟実践の豊かさについて興味を持つきっかけもなかっただろう。
フーコーは最後の講義を次のような言葉で締めくくる。

“この世において自己の真理を解読すること。自己および世界に対する不信、神に対する恐れとおののきのなかで、自己自身を解読すること。これが、そしてこれのみが、我々が真の生に到達することを可能にしてくれるものとなります。真の生以前の生の真理。この逆転のなかでこそ、真の生と真理本位の生とを同時に生きようと常に熱望していた古代の修練主義、そして少なくともキュニコス主義においてはそうした真理本位の真の生を生きる可能性を肯定していた古代の修練主義が、キリスト教的修徳主義によって根本的に変容させられたのです。
以上です。こうした分析の一般的な枠組みについてみなさんにお話しすべきことがあったのですが、しかしもう遅いのでここまでにしましょう。どうもありがとうございました。”

かつて今も真理を語ろうとすることで〝真理本位の真の生を生きる〟自己を本気に真面目に生きてみようとした時代があった、人々がいた、いることに驚かされると同時に親しみも感じ心底励まされる気がしてくるのだ。

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わが一体の家族考(65)

〝自己への配慮〟に遡る

本ブログのタイトル「自己への配慮」は、フランスの哲学者・ミシェル・フーコー(1926~1984)のコレージュ・ド・フランスでの1982年の自己への配慮について論じた講義『主体の解釈学』から取ったものだった。

そこでフーコーは近代からキリスト教を通り抜けて古代ギリシア・ローマ時代まで遡ることによって、プラトン、ソクラテス、ストア派のセネカなど古代哲学が取り組んだより良く生きるための〈生存の技法〉とも呼べるものを見直し再発見するのだった。
それは近・現代において教育など一般社会通念の中で利己主義、ナルシシズム、快楽主義として歪められ糾弾されるようになってしまった、本来は自由で生きた実践哲学としての〝自己への配慮〟という倫理的な主題であるとされる。
晩年のフーコーは自らがそうした実践哲学を〈生の様式〉として生きようとしたかのように、セネカの言葉を心の支えにして日々を過ごしたと伝えられる。

例えば〝自己への配慮〟という言葉でいわんとするところは、ただ単に揺るぎないアイデンティティを持つという意味でなく、各々が真実の自分を知ることでそれぞれが真実の生き方が出来たり楽しみや快楽を享受できるような〝生存の美学〟にまで繫がるところにある。
そのことはまた信じるとか自己主張するなど自分という確固たるものがあっての自我や主観や主体ではない、別次元の自由な真理即応の〝自己〟の可能性を探る試みともいえようか。
それは例えば次のようなセネカの発言からも窺い知れる。
セネカ

○誰ひとり自分自身を耕すものはない。
○いつ自分を自由に使うことができたか。
○いつ心が泰然自若としていたか。
○あなた自身のものが、いかに僅かしかご自身に残っていないか。
○心が雑事に追われている。
○ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた。
○自己にたいする不満、このような心は自己のうちに慰めをもつことが少ないのである。
○結局その心は自己嫌悪に陥り、不愉快になる。
○いつも自分自身から逃げようとする。
○第一に吟味すべきは自分自身である。
○とにかく、心はあらゆる外的なことから、再び自己に呼び戻されねばならない。
○たびたび自己のうちにも戻らねばならぬ。
○真剣な絶え間のない気遣いをもって動揺する心を包んでやらねばならぬ。

なかでもセネカの
“ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた”
との発言と、
山岸巳代蔵の
“ここへ来る途中で花束を下げた中年の婦人とその娘らしい若い女の二人連れに出会ったが……人間は生まれて死ぬまで何をするのだろう。墓石になりにきたのだろうか……やがて地球上は墓石で埋まるだろう”
との特講開講式での発言と
フーコーの
“すべての個人の生は一つの芸術作品であり得るのではないでしょうか。いったいなぜ、画布や家は芸術の対象であって、われわれの生はそうでないのでしょうか?”(『倫理の系譜学について』)
との発言が一つに重なり、
そこに共通して流れる真なるものを自分のこととして為すその熱い魂にふれた思いで心が奮い立つのだ。
ヤマギシズム恋愛・結婚観とか人間倫理のはじまりとかそうしたテーマの出発点にある〈性〉そのものにふれていこうとするとき、フーコーの考え方には大いに力づけられる。

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