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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(57)

その汽車にはその鉄路を
蒸気機関車

1961(昭和三六)年4月山岸巳代蔵は、「ヤマギシズム実顕地構想」について名古屋や岡山の地で時機到来とばかり語り始める。
各地の有力支部に自ら出向いては、一般社会通念・人生観から脱皮して実顕地という場づくりへの参画を呼びかけるのだった。
それまでにも前年10月6日、保釈中にもかかわらず和歌山県下六川地区の杉本雄治宅にまで出向いて「ヤマギシズム実顕地構想」について語る機会も一晩あったが当局からの指示で翌日三重に帰ったり、10月19日には「山岸会事件」についての疑いが起訴猶予処分になったことも背景にあった。

すでに1958(昭和三三)年の「百万羽養鶏構想」の発表があり、参画者第一号の明田さんに代表される多くの先進的な会員が家財産を売り払い、家族を連れて三重県春日山に参集していた。そこでは新しい社会形態への布石、試験場設立の意図が込められていた。
一方有田みかんの産地和歌山県の下六川地区や兵庫の荒瀬さんらに代表される、方法が分からないが地方でヤマギシの一体経営を模索する多くの先進的な会員もあった。
そんな各地の熱意ある人々の期待に応えたのが「ヤマギシズム実顕地構想」であった。

それは〝現状そのまま、その場〟で一体生活に融合できる〝実顕地〟を造成していこうという具現方式である。現状そのままでヤマギシズム生活が出来るという、イズム生活の普遍化へと一歩踏み出したのであった。
この間ずっと山岸巳代蔵は体調不良でほとんど寝ているのが一つの職場ともいえる状態だった。〝もう駄目かな〟と思う事態が何度もあり、その度に〝必要なものは、活かされる〟といった考えがよぎるのだった。
だからなおさらか寝ても覚めても浮かんでくる、どこまでいっても逃れられないものを受け取ってもらえる場、言える場所を切に求めていた。
真理探究の中から考案したもの、なかでも未公開の特別高度技術〝ヤマギシズム社会式養鶏法〟こそ心ある自分の財産だとか考えというものを固持しないみんなの幸せを願う人々に受け取って欲しかった。
それは一体の考え方での養鶏から〝一体生活の中で行う一体養鶏〟に発展したものだった。

思えば始めに山岸式養鶏法として農業養鶏という名称で出してきたのも、まず家庭が一つの単位になり経済をよくし生活を向上させるなかで、農作業や養鶏も人生の目的ではなく手段であることにお互いが気づくところにねらいがあった。
実際会の会報や研鑽会のなかで、「養鶏が目的でない」とか「技術のみ取り入れることはむしろ不幸である」とか「卵を産まぬのが幸福だ」といった発言が飛び交い、鶏飼うのもお金儲けが目的のつもりでいた会員の心を大いに揺さぶりつづけた。
そして餌や鶏種や設備や技術よりももっと大事なことは、飼う人、養鶏する人の問題へと絞られていった。その人が目的をハッキリ知る、それにはどうあるか――となってきた。
みんなが仲良く楽しく繁栄していくには、自分一家だけでなしに今度は社会周囲との繋がりの必要性ということも分かってきた。
だったらそんな目的にかなった社会をつくろうと。こういう気持ちの現れが先の先進的な会員たちの掛け値なしの実態だった。
そうした会員たちの気持ちの高まりを待っていたかのように呼応する山岸巳代蔵は次のようなメッセージを発したのだった。

社会式養鶏法発表会に寄せて
山岸式養鶏法は
山岸式養鶏は、(技術二〇+経営三〇)×精神五〇の切り離せない仕組みになっていることは、前から言い続けている通りです。
技術を離れた山岸養鶏はなく、精神のない技術は山岸養鶏技術でなく、またヤマギシズム精神のない経営は山岸式経営ではない。
山岸養鶏技術は、経営とヤマギシズム精神が組み合さって初めて技術となる。即ち、精神や経営を度外視した山岸養鶏技術はない。
すでに発表している山岸養鶏の中の農業養鶏においても、その農業養鶏の本質が、農業養鶏のあり方としてふさわしいものだと思う。
農業養鶏は、予て確約し、今回発表する「ヤマギシズム社会(ヤマギシズム実顕地)式養鶏法」の適合する、実施の絶対条件である「ヤマギシズム社会」誕生のための、前渉準備過程のものであった。

農業養鶏から実顕地養鶏へ
今日「ヤマギシズム実顕地」が誕生し、かつその経営の一環に「ヤマギシズム社会式養鶏法」を採り入れて、着々その計画が進捗、実施されつつある実顕地も各地に数多くなって、急速に拡大、充実しつつあるということは、農業養鶏の大きな功績であり、この情勢の推移に敏感な人達は、かつての農業養鶏に対して、旧殻を脱いだ実顕地誕生の今日、今は要らない過去のものとして、その功績を賞賛する自分に気づかれるであろう。
それは殿堂を築くための足場であり、仮屋根としての必要行程であったとも例えられようか。

力強い誕生とその成長
鶏業に携わる人達がはじめは非難、誹謗していた農業養鶏が、数年にして全国的に拡がり、養鶏王国愛知に一点を下してからの普及は目覚しく、まさに将来の養鶏形態の動向に大きな示唆を与えている今日、期待していた「ヤマギシズム実顕地」が各地に実現し、本年初の第一号が誕生後、数ヵ月ならずしてこの形相を見るに至った。
それにしたがって「ヤマギシズム社会式養鶏法」が方々の実顕地に採り入れられ、槌音高く建設に邁進している。
多数のヒナも入雛され、未だ四、五〇日だが、一般の養鶏法に比して、この実顕地養鶏法の想像も及ばぬ飼育法や、ヒナの伸長成績等を見ただけで、このヒナが先でどんな働きをするか、期して待つべきものがあると、その方の係の人が驚嘆している現況である。
そして今、地名・人名等を発表し、現場に案内、紹介したいが、訪問者が殺到されることは、建設の進捗を遅らすことや、諸種の理由で、それらの面については八月一五日に詳しく発表することになっている。
現在極秘に建設しているが、それではないかと何かを感じて訪問される方が、日増しに殖えている。公開発表の日まで訪問されない方が、より早く充実した建設を早めることになると思う。
こういう事実が養鶏界に起っている事態に対処して、今までの農業養鶏を考え、明日の事態に対処しつつ、引き続き経営されることだと思う。

無辺境で全世界に
「ヤマギシズム実顕地」は、イズムである無固定・無定見・無教典・無所有・無辺境の絶対愛の共活・共用による共栄を目指しての精神・行為の人達の、完全専門分業社会実顕地のことで、無辺境であるからやがて無辺境に全世界がこの社会になりつくす当然の顕れである。
したがって「ヤマギシズム実顕地養鶏法」は、そういう精神でなし得る経営形態の世界でこそ活用し得る養鶏技術であるから、そのいずれの条件が欠けても、それは「ヤマギシズム社会式養鶏法」ではない。

完全専門分業
普通の養鶏法は一家族でもやれないこともないようだが、この「実顕地養鶏」は、多数のそれぞれの特徴のある専門の人達で組み立てる完全分業一体で初めて、その素晴しい成果が上げられるものである。
農業養鶏でも、一つの組織がないと本当には成り立たないが、この「実顕地養鶏」は、大勢が寄って心一つにして、それぞれが専門の配置につく一体経営で、専門細分化してやらなければ出来ない養鶏法で、これによってこそ誰も真似られない成績が上がり、しかもそれにふさわしい養鶏法である。

誰が成すのか
農業養鶏を出してその時お約束して、この社会の出来ることを鶴首待望していたことで、人間が人間に命令できないし、命令では成らないものである。成るのはその人の成そうとする自ら発する意志・行為の集積であって、この日が今日見られるに至ったことは、早かったとも云えるし、遅かったとも云える。
成るべきものが当然成ったと云えばそれまでだが、成す人があって成された、成ったということであろう。
相共に各々のそれぞれ違う持ち味を、専門の持ち場に活かして、完全分業の精髄・精華を顕現しよう。

安全通行の時が来た
ジャングルを伐り拓いて鉄橋を架け、隧道をうがち、岩を崩して道路を固め、鉄路を敷いて、崩れない保線がそれぞれの人達によって確保されてこそ、偉大な運搬力を持った汽車を走らすことが出来る。
鉄路が敷設され、安全な保線の配置活用の場が出来てこそ、偉力を持った車輌は活用される。また正常な操縦士によって車輌も活かされる。未完成の鉄路の不安定な処に汽車を走らすことは出来ない。
その汽車にはその鉄路を。
少数の人では鉄道経営は成り立たない。
多数の人が渾然一体となってやるところに、初めて汽車は大変な偉力を発揮することが出来る。
どんな偉力のある汽車でも、多数の人と場・設備がなかったら無価値なばかりでなく、誤って動かせば破壊へ突入していくように、この偉力ある養鶏技術がその精神が抜けては大きな破壊力となり、経営規模形態が整わないと、偉力が発揮できないばかりか大失敗する。
試みにそこで作られた飼料を他の養鶏法で使った場合は、必ず失敗されることは火を見るよりも明らかです。
今や、その試運転の時が来たようだ。”(1961.4.16名古屋市半僧坊において)

一世を風靡した山岸会の〝農業養鶏〟は実顕地(理想社会)誕生への足場丸太であり〝今は要らない過去のもの〟となったと高らかに宣言するところから始まるこの一文は、自分らの世代には1848年2月にマルクスとエンゲルスが執筆した小冊子『共産党宣言』を彷彿とさせるかのようだ。

今までの農業養鶏は〝今は要らない過去のもの〟になったと言うからには、次はどんな画期的な新養鶏法なんだろうか? 
いや、そうではないだろう。今度の社会式(実顕地)養鶏法は今までの古い社会通念・常識観からは大きく離れていて、そうした古い殻を脱ぎ捨てない限り使いこなせず自分らには豚に真珠、猫に小判だというのだ?
農業養鶏が足場となって社会式養鶏に発展したのでなく、ヤマギシズム社会を造るための誘い水的役割であったのだという。
そういう社会が出来て、その社会の中でこそ活かされる養鶏法としての実顕地養鶏法。
農業養鶏は実顕地を造るためのものであったが、実顕地養鶏は実顕地を造るためのものではなく、実顕地を造ってからのものなのだという!?
本当はとても奇妙(?)な未知で未体験なことが言われているのではなかろうか。すぐにはこの一文に込められてあるにちがいない〝次元の転換〟をうながす真意までには思い至らなかった。

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鈍愚考(56)

タライの縁を回る
たらい

こうした方法が分からないが何かをやろうとする全国的な運動が、一体経営をやろうという形で各地で動き始めていた。
時あたかも日本農業の個々経営の行き詰まりの中で、政府も共同化、農業法人化を唱え始めていた頃である。

その代表的な一例が先の和歌山県金谷支部下六川部落での〝一体経営〟を目指した動きだった。また同じような動きが山口県の大島支部や京都でも、〝共同管理〟といった方向で踏み出していた。
折しも山口県の大島支部のメンバーによる「私たちの協同管理について」の発表が、全国柑橘研究大会(1957.9)で第一位となり農林大臣賞を受賞した。会の中でも一体の実践例として評判になったことがある。
ところが大島支部の世話係、河井登一さんの受賞後の感想記(会の機関紙「快適新聞」掲載)によると、今回の発表機会を得るまで周囲の「あんなものを代表に出すなんてもっての外だ」といった反ヤマギシ色の中で幾多の関門を乗り越える苦労があったらしい。
ヤマギシの一体経営を目指していた河井さんら五軒ほどのグループはしだいに孤立していき村八分にされていく。
周囲からは「山岸会という殻を取って来い」「山岸会と手を切ったのなら大いに受け入れる」と勧められる。県も力を入れているという。そんなみんなで手を取っていこうとする同調圧力が高まる。
とうとう河井さんも、「やっぱり村の人と手を繋いでいける方向へいかんと間違いだ」と思えてきた。みんなが来ても会もだし大島支部にも垣(囲い)があっては出来ない。山岸会には現実の生活にマッチしていこうとする大衆性が欠けていたと省みる。
そしてそこから農業普及員や県当局などとも、どのように同調してやっていくかの方法を考え、排他的でない合理化のため共同化・共同出資の配分をする方向にと光明を見出していく。
かくして山岸会を解散してみんなと話し合い出来るようになって一緒にやれるようになると、農協も「それならよい」になったという。

こうした動きをふり返って山岸巳代蔵はつぶやく。
“河井さんらも惜しいとこまでいってるの。「広く」と言ってるが、元の元、自分の心の中が先ず第一。先ず第一、一体になることや。”
“やっぱりなんぼタライの縁回って、「ここや、これ入ったら気持よい」と言ってもあかん。飛び込まなんだらあかん。実行やね。どれほど理念やっても、理念の実行せなんだら、本当の味は分からない。そうなれないものやね。
はじめ英清(山本英清、山岸巳代蔵を世に引き出した一人―引用者注)さんと回ってた時分、腹立たん人が夜明けまでに出来たが、それくらいでは、何ぼ腹立てん人を作っても、ホンマもんになれへん。中風治してもホンマもんになれへん。「鶏飼って卵たくさん産まして、田圃肥やして結構やな」という人を作るために始めたんと違うんやぜ。本心本底は、そういうものと違うのや。”(「第五回理念研」)

1961年1月末に第一号の実顕地を立ち上げた先の荒瀬さんもふり返る。
“その当時共同体というたら、四、五年でけんか別れになってうまいこといかへん。そういうことにならんように、「けんか別れにならんよう、うまい具合いくように、高研(高度研鑽会)やろうかい」ということになって、その年の12月の暮れに五日間の高研をやりたいと春日山へ係を頼んだら、その係に、もう亡くなられたけど、杉本利治さんが来てくれた。
「はじめからうまいこといかん、見え透いたことせんと、同じやるんやったら、一体でやったらどうや」というようなことから、「ほんならまあ、一体でやろう」ということになった。その時「いっぺんにせんと、ぼちぼちやってみて一体にしていったらええ」という意見もあったりしたが、なんぼ考えてみても、ぼちぼちやる方法が見つからなんだ。するんやったら、ぱっと一回にするか、せんのやったら、せん。ぼちぼち一体にするなんて、そんな方法ありませんやろ。結局、はじめ九人ほどあったんやけど、一体にしようということになると六人に減ってしもうた。”(「北条実顕地の始まりと山岸さん」『山岸巳代蔵全集4巻』所収)

ここでの二人の発言はなにを言わんとしているのだろうか? 例えば次のような一言。
「自分の心の中が先ず第一。先ず第一、一体になることや。」
「本心本底は、そういうものと違うのや」
「一体でやろう」
「するんやったら、ぱっと一回にする」

この間触れてきた〝何でも二つある〟とか〝二つの幸福 真の幸福と幸福感〟のテーマと通底しているようだ。いわば〝本物と偽物〟といった見分けをつけるテーマとも重なる。
例えば二つの幸福だったら、幸福にも二つあることを知らないとか、幸福感を本当の幸福だと感違いしていることをいうのだろう。
以前触れたフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』の中の一節、
“名前は同じであるが、根本的に別々のものである、ふたつの善がある。悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。”
の発言にも重なる。
そこでは続けて次のようにも記した。
「ここでのヴェイユの〝わたしたちが望んでいるのは、絶対的な善である。わたしたちにたどりつくことができるのは、悪と相関関係にある善である〟といった味わい深い一節から、この間自分らが直面してきた〝理想と現実の一致・一直線について〟の様々な取り組みがリアルに迫ってきて身につまされる思いが呼び起こされる。」(鈍愚考20)

というのもヴェイユの言う〝名前は同じであるが、根本的に別々のものである〟ものは、今の常識観念からは掴まえられない。そこを知らないでか、混線する様々な取り組みを省みて〝身につまされる思いが呼び起こされる〟とふり返ってみたのだった。
そこで自分らがまず試みたのは、〝根本的に別々のもの〟を〝共同と一体の異い〟というテーマとして分けて受けとめることだった。

よく「握り飯と餅」の譬えでも説明されてきた。
握り飯はなまじ丸く固まってはいるが、なにか条件が変わるとバラバラになってしまう危なさがある。対照的に餅は、皮をむき、蒸して、搗けば搗くほど光沢が出て来る。何か事が起った時に喧嘩別れすることがない〝一体〟をそこに観た。「我の皮をかぶっていて、それをむかんことには一体になれない」と。

例えば六川の〝一体さん〟がぶつかった壁は、本当の仲良しを目指して心を一つにするという人と人との繋がりに本当を置くことで気づかされた、〝元の元、自分の心の中〟に潜むなんぼ搗き上げても餅にならない〝皮〟=〝垣(囲い)〟の束縛だった。
またヤマギシの一体経営を目指していた大島支部の河井さんらのグループがぶつかった壁とは、財産を一つにする一体を否定するものではないが、まずは自己の経営や生活を良くするための共同利用や協力に重心を置きすぎていたのか周囲から〝孤立していき村八分〟にされることを真っ先に恐れてしまう壁だった。今も迫られる身につまされる話だ。

壁にも〝二つある〟のだ。しかもヴェイユの言うように、壁という名前は同じであるが、それは根本的に別々のものである。
一口に言うと、今まで通りの共同の道を歩くのか、一体観に立つ幸福社会実現の原理に従って行うかの異いである。
そこで山岸巳代蔵は、共同と一体の本質的な異いを頭の理解や心の世界でかれこれ言っているより、本筋的な異いとして現象に見せて誰もが気づいていくあり方の実行に踏み切ったのだった。
何とか早くホンマもんを一つ造らないと……。そんな切実に欲求される気持ちが日々高まってくるのだった。

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鈍愚考(55)

〝一体さん〟がぶつかった壁
六川みかん収穫

じつは先の和歌山県金屋町下六川地区の杉本雄治さんが特講に参加したきっかけは、息子杉本利治の「お父さん、何かええことあるみたいやから、行てこんか」の声かけからであった。
というのも村の青年たちで集まっていた農事研究会でただ一人の女性メンバーの亀井正子(参画者・故人 )から山岸会の特講の話、なかでも絶対腹の立たない人になれると聞いたからだった。するとそれまで出不精で、そんな会合などは嫌うはずの父親が何を思ったのかいともあっさり、
「ほな、わしが行って来てみちゃる」と昭和31年3月24日からの第三回特講に参加してしまった。
というのはたんに好奇心ばかりではなかった。のちに取材に訪れたアナウンサーの質問に答えて、こう語っている。

“昭和31年と申しますと、その当時は農村で一番重大な問題は、次男三男をどうするか――これはもう本当に痛切な問題であって、わたしらも、それでこの経営を多角経営農業へもって行かなんだら、もう解決がつかん、こう思いまして、一応その当時に山岸養鶏ちゅうものがありましたので、そういう意味で山岸会を知ったわけです”(毎日放送1964)

ところが特講では肝心の養鶏の技術はいっこうに出て来ないので腹が立ってしようがなく、四日目ぐらいでイライラしてきて、
「もう、こんなつまらん講習、わしゃ去ぬ」と帰ろうまでしたが、山岸さんに引き止められた。
ところがである。皆の体験発表を聞いているうちに急に泣けてきた。自分は借銭の中から生まれてきたようなもんだから、朝の三時から夏はみかん畑の草刈り、冬は糸野から下肥えを運んでの働きずくめやった。しかし、そんなふうにやってきたことが、苦労して働いても働いても儲からないような不幸になるような努力ではなかったのか……。
今までの金儲けも結局、幸福を得るためだった! 大発見だった。
受講後引き続き四日間の高度研鑽会を受けることを係から勧められたが、
「私がこれ以上研鑽を受けて深まったら、みんなと仲よく出来なくなりますからこのまま帰ってみんなを特講へ送ります」と挨拶して、引き止めも聞かずに帰った。
近くの部落から一緒に参加した農事研究会のメンバーである榎本信夫さんも、杉本雄治の妻よねに、
「おばチャン、お父さんノレンに腕押しになってしもうて、もう夫婦ゲンカできんね」
と言って帰ってきた。
先の映画『のぼうの城』での〝のぼう様〟の奇策と見える正攻法が彷彿される。

さてそんな六川の〝一体さん〟にも当の一体に生まれ変わる陣痛の苦しみが訪れる。
確かに一体経営・一体作業で能率も上がりゆとりができ、お互いの仲もよりいっそう深まった。しかし、
「みかんの収益は別々に家に入ったんよ。ほいで共同でね、薬剤撒布でもやで、雨降る時にかけられた家の人は機嫌が悪いしね、お天気の日にかけてもろた家は、もっとあんばいかけてくれとかね、ウルサかったんよ―。」
やはり自分の家を優先して考える気持ちがあり、その気持ちがなまじ特講を受けているがゆえにしんどく重荷にすら感じられた。
グループの中からも、

「一時、一体経営というて意気込んでやりかけたが、不平不満でやめたところもだいぶあったようだネ」
「先に立って一体経営をやってみたが、だいぶ自分の金を減らし、忙しいのに駈け回って、結局家の中からも苦情が出るし、近所からも笑われて、すっかりへこんでしまった人も知っている。なかなかあわててやっても、そうはうまくいくものではないですよ。」
「趣旨はいいが、現実はなかなかそうはいきませんネ」
「家のお父ちゃんなんか、よその仕事ばっかりして家の仕事は遅れるし、まだ何か外にうまいことしているように言いふらされて、未だに仲間からも嫌われている。そんな人やないのにエロウ人気が悪うなりましてな。それでもまだ懲りずに、お父ちゃんは遠いところまで手伝いに行ったりしますので、本家の姉さんから私いつも叱られていますワ」
「それよりも一般の人に好かれて、解るように.漸進的にいく方がいい。革命だとか、一体経営など刺激すること言わないで、農村改造とか、協同経営とか、今の時代のレベルに合わして、一般に融け込んでいった方がかえって早い。研鑽と言わずに研究と言い、山岸会の名も使わない方がいい。あんまりあせって失敗すると、良いことでも嫌われる。世のもの笑いになるだけだよ」
といった心の弱った意見も出た。

六川の〝一体さん〟がぶつかった壁は、本当に仲良く楽しく暮らすことを目的にすればするほど鮮明に浮かび上がってくる大きな壁であった。今まで誰も真正面から取り除こうとはしてこなかった壁である。
こうした問題の一時的解決に、宗教家は精神的転換を説いて久しい。しかしそれは観念の持ち替えにしかすぎない。観念でそれを理解しようとしたにすぎない。
六川の〝一体さん〟がとった解決のキメ手は、心が実践に結びつくことによって開けてくるという生き方である。つまり心をそのまま事実にまで現すことによって問題点を解消していくという方法であった?

一体作業を始めて間もない頃の、あの楽しいばかりの心境はどこから発していたのだろう。みかん園の収入はその所有者のものになるから、畑の面積の広い者は得で、少ない者は損であったはずなのに、本人の心の世界では誰よりも気楽であった。
そこになにか大きなヒントが秘められてあるはずなのだが……。

そんな六川の〝一体さん〟がぶつかった壁に先立つ第一回特講開催(1956.1)の秋に、これも一週間の第一回養鶏特別研鑽会(1956.10)が開催された。各地の支部養鶏世話係が参加して日中は山岸会式農業養鶏の標準二連式鶏舎を建て、夜は『山岸会養鶏法』の輪読研鑽会がもたれた。
その時の興味深いエピソードを杉本利治さんから聞いたことがある。

“第一回養鶏特別研鑚会に参加した時、金屋支部の報告をしたのを覚えていますが──精神的なことから山岸会を知ったので、養鶏のことはさっぱりわからないので御指導願いたい。養鶏以外のことで支部を組織しているが、養鶏をやるのならその中で一体養鶏をやりたい──という意味のことを話した所、寝ていた山岸さんがむくっと起きて、
みなさんどちらがいいですか、いいですかと連呼されて喜ばれた印象が残っています。その時その会合へ参加されていた人の中で、現在山岸会活動をやっている人は極めて少なく農業養鶏の消滅とともに去って行きました。”(「前渉行程論2」)

腹が立たない・悩みがなくなる・愉快に暮せるなど当たり前の精神的な面から会に入ったのがかえって幸いした。後に養鶏をやるようになったが、はっきりと〝養鶏は手段である〟としてやることが出来たのだという。
エッ、どういうこと?
杉本さんが〝一体養鶏をやりたい〟と言ったら、それまで寝ていた山岸さんがむくっと起き上がったという!?
なんで?
心の豊かな人に巡り会った瞬間だった。それはまた六川の〝一体さん〟がぶつかった壁を溶かしてしまうキメ手をも暗示しているかのようであった。

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鈍愚考(54)

タダの自然界の営み
ローレンツとハイイロガン

それにしても〝無所有〟とか〝自他一体観〟などのヤマギシズム理念が現象化したところの生活体が、自分らが今現に暮らす実顕地なのだと言われてもピンとこないのが正直なところ。そもそも何でもない事実から出発して、そこが汲めども尽きぬ泉なのだといわれる箇所にどのようにして辿っていけるのだろうか?

新しい社会形態、それは未知のものである。その世界を〝無所有〟とか〝自他一体観〟などのヤマギシズム理念に基づいて編み出された生活様式によって現してみようというのだ。そのためにはまず試験場を一番先に着手したのだという。
そこでは〝人は生まれてくれば生きる術(すべ)を知らねばならない〟。その〝術(すべ)〟を人間理・社会理・産業理と分けて、それぞれ理念を立案・立法して人間社会で如何に即応し活用するかを、“今、私たちがここに生きているという事実”からの“人生は一回限りの連続で、過ぎた毎日は取りかえすことも、やり直すことも出来ない貴重な”実験資料を通して実験するのだという?
例えば人間理では、人間自身の本来のあり方の究明つまり万人に共通する全人幸福基本概念の確立を目指すのだという。
また社会理では、我欲我執からの個別的な観方が横行して当の社会という用語自体も死語になっている中で、どんな社会に住みたいのかといった将来的にものを観たり、青写真を描けるような観方からの機構・制度を編み出すのだという。
こうした三者三様のヤマギシズムとは何かを知る場(研鑽学校)があり、その理念に基づく生活様式を編み出す場(試験場)があり、そうした生活を希望する人には実際に住める場(実顕地)の一環の運営によって為されるのがヤマギシズム社会なのだという。
他の研究のみの研究所や試験場と異い、実際生活の実顕地生活全体も含めての社会実験なのだ、と。

しかし今ひとつ日々の漫然としがちな暮らしと社会実験とがすんなり結び付かない。手がかりゼロの状態だった。
ところが1990年前後に毎年実施してきた〝ヤマギシのタダの祭り〟前後にくり返し為されてきた、〝無所有〟とか〝自他一体観〟などの理念を一言で表すタダについての研鑽が大きな転機になった。
ここでいうタダとは、一般で言っている金や代償を払わなくてもよい、いわば無料のタダとは異なる。全てタダやから金の要らないのが当たり前で、金が要らないからタダというのと異なる。
タダとはタダであって、タダ以外に発展しないタダそのままである。何も無いタダである。
もうここまで来ると禅問答になってくるのだが、ふと〝一般で言っている金や代償を払わなくてもよい〟無料のタダ観念とは別に〝何も無いタダ〟の実在に気づかされてくる。
自分らの日々の暮らしがそうだった!? 仕事の質も量も労働時間もみな異なるのに、それに比例した待遇でないばかりか、逆に夜遅くまで仕事をやったために夕食の珍味がなくなっている場合だって多々あるのに、不平不満が出ないばかりか仕事のやる気に影響しない場面に出くわしたことがある。まず個々人の家庭では起こり得ない考えられない事態であろう。ここからいわゆる社会主義国の何でも一律的にしがちになる弊害を指摘したくなるはずだ。だから言わんこっちゃない。
何でも二つあるのだ。
いつしか、働かなければ食べられない、食べるために働くという観念に縛られていないじぶん自身に気づかされてくる。
こんなことは当たり前のことであるのだが、言われてみないと気づかないらしい。
それって自然界の営みそのものではないのか? 自然界からは口銭は取れないのだ!

タダの祭りがまさに世紀の社会実験であるといわれる所以であった。数万人にも及ぶ不特定多数の人達の自由意志を尊重しながら、あの社会理的な誰の心の中にもあるタダの心を呼び覚まされるような気風の中で、何等制限を加えずして先陣争いや物の争奪もなしに一日を楽しむことができた。
はだで〝無所有〟とか〝自他一体観〟等の理念を感じることの出来た機会だった。散髪のお店を出した人は、一日中散髪しつづけ大満足されていた。子供達に何が良かったかと尋ねると、〝タダが良かった〟とすかさず返ってきた。
掛け値なしにいったい何がこんなにみんなを感激さすのだろう。
そこからまたタダの人間像が浮かび上がってくるようだった。
「自覚・納得の上で報酬を省みない(タダ働きになる)事を無上の喜びと感ずる人」
「自己を零にしてその活動に没頭している間の人」
「先の大きな楽しみに生きられる人」等。
そもそもタダの自然界の営みって、何なのだ?

生後まもないハイイロガン(渡り鳥)のヒナは、こちらをじっと見つめていた。そしてふと洩らした言葉に挨拶のひと鳴きを返した瞬間から、ヒナは自分を母親として認め、よちよち歩きでどこまでもついてくるようになる、という二度と後返ることがない”刷り込み”という過程に離れようのない一体の絆を見たのは動物行動学者コンラート・ローレンツ(1903-1989)だった。
ヒナは昼間は二分ごとに、夜は一時間ごとに母(保護者)がそこにいることを確かめる問いかけを発する。もしそれに応えてやらないと、ヒナはひどい神経症にかかり一緒に仲間たちと暮せなくなってしまう。ローレンツは、それが自分にとってどれほど重い義務を背負い込んだか知らされると同時に強い絆で結ばれて共にいることの喜びを分かちあう世界を、ガンと暮した最初の夏知るのだ。(『ソロモンの指環』)
彼らの幸福にとって心理的な保護ほど大切なものはない。母子のコミュニケーションは、ヒナが卵殻に最初の穴を開ける前からもう始まっているという。この母子のコミュニケーションの第1ラウンドは、刷り込みという重要な過程をなしている。これはくり返すことも、元に戻すことも出来ない過程なのだと。

こうした自然の習性というか自然界の営みを織り込んだのがヤマギシ養鶏であった。
ヒナに水に浸けない堅いままの屑米や繊維のある硬い雑草を与えたり、致死点近い寒冷にあてたりする。畜舎も吹きさらしの開放鶏舎だし、扱いにくそうな大群飼いで、糞掃除もしない。もし常識や先入知識・経験のある人だったら、こんな乱暴なやり方ではヒナを殺すと、不安に考えて実行をためらうだろう。
しかしそうした人間寄りの観方と逆に、自然はよく出来ているのか、堅いのを与えると、それに対して、又養分の少ないものを与えると、量を多く摂って栄養の均衡を図り、丈夫な容量の大きな消化器となるのだ。
そこにあるタダの自然界の営み(=理や生態)は、前向きに後返らないで動いているだけである。そこには整然とした厳粛な営みがあるだけだ。
こうした空気や水や草や塵芥が卵に変わる自然の根本妙手が先にあってはじめて、次に人間からの調和をはかる人為が生きて来るのだろうか。
この辺りの普段馴染んでいる人間観念と何も無いタダの世界との後先や混在からスッキリ脱却したい。

自分らの用語に〝Z革命〟なる仰々しい(?)言葉がある。
つまりZ革命は、再び革命する必要のない、最後の革命だという意味である。
試験だ、実験生活だ、社会実験だなどと言うのも、次の人が同じような実験生活を間違いをくり返すようでは惜しいといった〝やり直しのいらぬ実りの仕事〟を心から慮(おもんばか)っての世界急進Z革命の謂われであることが納得されてくる。

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「と」に立つ実践哲叢(59)


 あなたからのラブレター
ラブレター

先日ヤマギシズム東京案内所の松本さんのブログに紹介されていた短歌に、日頃探し求めていたものに出会った喜びを感じた。それは読売新聞の短歌の欄で歌人の俵万智さんが選んだ歌の一つだ。

“人生の目次は大方めくりきて妻と出会ったページに戻る”

万智さんは〝一生を一冊の本にたとえるとして、読み終えたときに再びめくるページは? なんて素敵でうらやましい下の句だろう〟と選評している。松本さんも〝「いい歌だなあ~」っと思う。 70歳を過ぎて、分かる感覚かもしれない〟と付け足す。

もう三十年以上前になるのか、万智さんの話し言葉を取り入れたデビュー作『サラダ記念日』の斬新さに一瞬にして心を掴まれた。
“「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの”
“「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ”等々。

それにしてもこの歌から滲み出る何かほのぼのとした温かさ・潤いはいったい何なんだろう。こんなものにずっとこれからも包まれて暮らせていけたらよいなあと心底願う。
しかもそれが、〝妻と出会ったページ〟に戻ることでもたらされるところがミソに違いない。そうなのだ。〝妻と出会ったページ〟にはきっと心ときめくようなものが滔々と流れているのだ! 妻(=あなた)が私の中にいて、私が妻(=あなた)の中にいるという全面一致から湧き出るものに触れるからではないだろうか。

かつて一週間の「特講」で輪読したテキストの中に次のような一文があった。アメリカとソ連の人類間対立が激化していた頃(1954年)に記されたものだ。

“それに愈々東と西の中間の、頭の上があぶなくなって、逃げ出そうにも大きな壁で越えられず、水爆実験の檻に入れられた兎の運命にあり、かなわぬ恋ではなかろうと、チョッピリ出した手がこの知的革命案です。”(「知的革命私案」)

一読しただけでは、〝知的革命案〟なるものと〝かなわぬ恋〟との結び付きがよく分からず唐突にさえ感じる一節だ。私の知的革命案があなたに受け取って貰えるようにと案じる気持からであろうか? だとしたら〝あなた〟とは誰?

ハッとした。そうか、〝知的革命案〟なるものは山岸さんから自分自身へのラブレターなのだ! 一気に視界が開ける思いがした。

たしかに今の世相は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、敵視、相反目し合っている。そのさなかにあって、果たして私の愛が愛としてあなたの愛を呼び起こし、私があなたから愛されている人間として貰えるかどうか……。どこまでいっても、本ものかどうかが試されるところだ。 
山岸さんの〝知的革命案〟とは、愛をただ愛とだけ贈り合う、そんな温かみと親しさが籠もる人情社会組織への改造にあった。

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鈍愚考(53)

哲学実践の場
桃源郷・陶淵明

もう半世紀も前になるだろうか、ヤマギシの村(実顕地)に参画してしばらくしたある日の研鑽会で、次のような研鑽資料をみなで読んだことがある。

ヤマギシズム試験場について 人間理・社会理の試験とは何か
春日山の入口の表看板に「ヤマギシズム世界実顕中央試験場」と示されています。この春日は、ヤマギシズム生活の試験場であることは春日に参画している人ならだれもが知っているはずです。しかし、ヤマギシズムの試験場とは何か、どんな試験をどんな方法でやっていく所か、ということについてはあまり知られていないようです。
鶏や豚の飼い方を試験しているらしいということは聞いているが、試験場の機構表にある人間理・社会理・産業理等、それらの試験は、どこで、どのような内容でやられているのか、また自分がその試験を希望する時、どのようにやったらよいのかわからない人もあるかと思います。そこで、試験場とは何か、どんな事をするのかということについて、初歩的な解説をしてみたいと思います。今、私たちがここに生きているという事実から先ず出発したいと思います。

今までどのように生きて来たかという事は別として、これからどのように生きたいかと尋ねつめると、残りの人生をと考える人、あるいはこれからの人生をと考える人、など、人それぞれいろいろの生き方への希望があると思いますが、せんじつめると、人間らしい本当の生き方がしたい、真の幸福に生きたいと念うのでないでしょうか。
人間らしい生き方とか、真の幸福とかいう目標でみながそう思ったとしても、それでは人間らしい生き方とはどんな生き方か、真の幸福とはどんな状態かとなってくると、いろいろの観方、考え方、生き方があって、おそらくその表現においても、あるいは生き方の行動面においても、一致する事が難しいと思います。

しかし私達は「真理は一つであり理想は必ず実現する」という考え方をもっています。この考え方のもとに、ヤマギシズム運動をやっているのですが、そこに方法が必要なわけです。理想は必ず「方法」によって実現する、この方法について、どのような方法が一番すぐれているのだろうか、正しいのだろうかとしていろいろの方法を試す場が試験場なのです。
鶏や豚をどのような飼い方をすれば健康で良く育ち、良く働くかという方法を実験しているのと同じく、人間生活にもどのような考え方で考え、どのような生き方の方法をとれば幸福に生きられるか、どのような社会機構や運営のあり方が、人間が人間らしく住むのにふさわしいのか等
 人間理 (人間自身の問題として考えねばならない事柄)
 社会理 (社会環境面として取り上げるべき事柄)
 産業理 (物資の生産関係)
等に試験課目を大別して、実際の生活面を通して試験しながら、その本当のあり方を探っていこうとしているのです。

ただやみくもに何が正しいのか探るのでなく、一定の方程式にしたがって試験するのです。即ち「理念と方法が一応成り立ったとして、実施した結果がそれにともなわない時は、その理念か方法に間違いがある」として原因を探るのです。ヤマギシズム理念ではっきりしている事の中にも、未だ方法面が確立出来てない事柄が沢山ありますし、理念そのものも正しいかどうか検べねばなりませんから、理念方法共に何回も反復試験して、確実な方法で世界に普及していこうとしているのが試験場の趣旨なのです。

このような実験は、やろうとして仕組まなくても、実は私達毎日の日常生活でやっている事なのです。人生は一回限りの連続で、過ぎた毎日は取りかえすことも、やり直すことも出来ない貴重な実験なのです。この貴重な実験生活をしかもヤマギシズムの仕組みの中で、実はやっていながら、その人の足あととしてしか残らないようでは、又次の人が同じような実験生活をくり返すようでは惜しいと思います。そこで、それらを試験的にみてとりまとめ、こんな場合はこうなる、あんな場合はああなる等、各人各様、様々の中から、共通点や相違点を発見し、万人共通でいけるのはこの線だ、この部分は各人各様でよいのだとか、一貫した生き方への方式を組んでいく参考にしようとするのです。

現在も、心ある異質的な試験場員がその気になって、その人の内面でいろいろの試験をしたり、また、周囲の出来事を試験的に観ていられるのですが、この際機構にも載せて、また、それ等に関心のなかった人も関心を持つようにして、最も初歩的な試験場活動をやっていったらどうだろうか。今後、試験場は、人間社会のあり方や生き方について、いろいろと試験を仕組んでいくだろうが、差し当たり、初歩的な試験活動として、調正機関参画者の夫々の生活について、試験的に観察するという事から始めてみてはどうだろうか。

例えば、食事についての試験課題で研鑽会を開きます。
○食の目的 ○食経済について ○食と人間心理関係 ○栄養関係 ○食と健康の関係 ○食の回数 ○味覚について ○食堂や食器の環境面 ○食習慣について ○料理法 ○料理人やサービス係のあり方 ○材料について ○好みの個人差 ○その他
このテーマで研鑽するだけでも、そこにいろいろの考え方や方法の違いのある事がわかると思います。そして、こんな大切なことが習慣的になってしまっている点や腹がへるから食べにいく、みなが食べに来るから食事を作るという、受け身からでなく、積極的姿勢で正常なあり方を見出すための研究や試験が始まると思います。そしたら、単なる飯炊き係やサービス係から、研究のための、試験のための係に発展することになり、仕事に対する意義、やり甲斐が増してきて、全人幸福につながる正しい食生活のあり方がここから産まれる源泉の場に、オンボロ食堂が生まれ変わるでしょう。

流行はパリから正しい食生活は春日の食堂から、というように、試験の場としての食堂には、「炊事係は女」という考えもなくなり、直接炊事係以外の大勢の研究員が取りまくことにもなり、そうした意味で全員食事係であり、毎日毎食が試食会であり、それこそこの食問題について、試験対象にならない人は生きている人では一人もなさそうです。
こんなことを書きたてると、きりのないことでどこの職場でもあてはまる事で、育児・学育についても、結婚・出産についても、衣料や住宅についても、機構や運営や各種社会環境についても、限りなく拡がる青写真と、その一角からでも実験する楽しさが充ちあふれる時、やりたいけれど材料がないから、人が少ないから出来ないという貧乏神が春日に住む人のだれの中からも霧散してしまうでしょう。

そして研鑽とは、自分を正すという事以外の一切の間違いを正し、低いものは高く、狭いものは広く、少ないものは多く、不味いものは美味しく、きたないものは美しくと、消極的内向性から「はたらきかけ」が活発となり、人生が運動的・活動的となって、その活気・熱気が春日山の外へあふれ出ていく時、それがヤマギシズム拡大であり、ヤマギシズム運動でないでしょうか?”

みなで輪読していて、〝全人幸福につながる正しい食生活のあり方がここから産まれる源泉の場に、オンボロ食堂が生まれ変わるでしょう〟の箇所で思わず笑いをさそわれた。
当時は昼の時間など長靴のまま立って素うどんをすすっていたから、文字通り飯場の食堂と変わらなかった。しかもそこから〝全人幸福につながる正しい食生活のあり方が産まれる〟というのだから……。つい昨日のことのように思い出される。
それにしてもとても不思議な文章だ。文脈を辿るだけで頭の中がスッキリ整理されてきて、しかも叡知の一端に触れ得たような喜びさえ感じた。心を鷲づかみにされた文言がある。

“今、私たちがここに生きているという事実から先ず出発したい”
“理想は必ず「方法」によって実現する”
“実際の生活面を通して試験しながら、その本当のあり方を探っていこうとしているのです”
“一定の方程式にしたがって試験する”
“人生は一回限りの連続で、過ぎた毎日は取りかえすことも、やり直すことも出来ない貴重な実験なのです”
“一貫した生き方への方式を組んでいく”
“研鑽とは、自分を正すという事以外の一切の間違いを正し”

等々。
そうか、何でもないと見過ごしている普段の事実から出発するのか……。そこが汲めども尽きぬ泉なのだと! しかもそこから外へ溢れ出ていくものがあるのだ、と。
当時は共同体=コミューン運動華やかなりし頃で、イスラエルの〝キブツ〟運動の興隆やアメリカの〝ウッドストック・フェスティバル〟が新しい世界の潮流を象徴する出来事として話題になっていた。
そんな時代の流れの一つに〝ヤマギシカイ〟もあるように見えて、そんな場で志を同じくする人達とそれなりに仲良く暮らせればそれで良いなぁと思って参画したのだ。
一読してどうもそんな程度の話ではないゾとすぐに感知された。静的な〝桃源郷〟のイメージが吹っ飛んだ瞬間だった。

参画する前に入学した二週間の研鑽学校では、〝ヤマギシズム〟なるものの概要を知らされた。〝無所有〟とか〝自他一体観〟というものだ。
そこから割り出されてくるもので、理念即応の方法・生活をやってみようとするいわば哲学実践の場であったのである?

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鈍愚考(52)

新しい社会形態への第一歩
六川実顕地

そもそもまず始まりの「百万羽構想」(昭和33年)の打ち出しの意図からしてちょっと変わっていた?
あの当時の100万羽って養鶏業界では無茶苦茶な数字だった。

“あれも「十万羽」と言って呼びかけたら恐らく出来なかった。”(「第五回理念研」1960.10)
と回想する。
“だが「そこへ行くためには」の順序的なもの、方便というものがある。詐欺師、ごまかしと違う。「こうすればこうなる」と、それが分からん人もあるから、そうしなければ出来上がらないから、夢から空想になり、理想になり、出来上がっていくもの。
新しいものを創り出していくのは、ないものが見える人達でやる。”(同上)

じつはこうした「百万羽構想」から発足した三重県春日山のように家・財産を売り払って一ヶ所に集合したヤマギシズム生活実践場が始まる前から、それとは違って、〝現状そのまま、その場〟で一体生活に融合できる〝実顕地〟を造成していこうという試みもあった。
この役割分担的な違いが意味するものに少し理解を加えてみたい。

1956年1月に一週間の第一回「特講」開催から二年有余、特講も五〇回を数え参加者も毎回百名を超えていた。
その頃に発表されたのが、「百万羽構想」である。多くの先進的な会員が参画者第一号の明田さんのように家財産を売り払い、家族を連れて三重県四日市にあった〝百万羽〟の集合拠点に参集したのである。
一方有田みかんの産地和歌山県の金屋町下六川地区、のちの実顕地造成世話係・杉本利治の部落ではその頃までには過半数が特講に参加していた。そして皆で寄っては、方法が分からないが何かをやろうとする熱い気持ちからの話し合いが続いていた。
「楽しく暮らそう」「仲良くやろう」「一体をやろうやないか」がその当時の合言葉だった。そこで手探りで始めてみたのが、みんなの共通のみかん作業を〝一体作業〟でやることだった?
幸い会の機関紙・快適新聞(1958.3.1発行)に当時27歳の杉本さんが〝下六川一体作業実践報告〟と題した一文を寄せている。一部を引用してみる。

“夜を徹し語り明かすことも幾日かあり、封建的な農村の数々な不合理、いや社会全般の矛盾等に対して、徹底的にその打解の道を考えました。家庭の円満を願いながら、家庭の不和のたえないこと、相助け合わねばならない隣人や同業者が反目し合っている事実などを研鑽し、その原因を突きとめていったのです。(略)
各自個別経営を営む以上、動力噴霧器、脱穀機、自動耕作機、あげくの果ては、三輪車まで購入するなど、文化的な経営がこれでやれると思ったところ、その維持費、古くなった機械の償却に、次の新しい機械を買うための重い苦しみに立ち至ったのであります。そればかりではなく、機械にまるで人間が使われているようなありさまです。
ご承知の方もありましょうが、当地方はみかんの旧産地で、山腹の急傾斜地を開拓し、その後の移動等で、各戸の園地は分散され、ほとんどの農家は、五ヵ所から十ヵ所と、あちら、こちらと、散在している現状で、各戸は山を上ったり下ったり、重い機械を運搬しつつ、疲れ切った顔をただ見合わすばかりでした。こうした実状を見ますと、各戸の耕地面積に照らし合わして、自家労力が合理的に配分されていず、たとえば甲の家では耕地不足で、二、三男対策に悩み、乙の家では耕地面積過剰で、管理が思うようにまかせない等々、問題は山積されたままであったが、この現実としっかりと取り組み、その矛盾・不合理性を根本的に解決すべく発足したのが、私たちの一体作業でした。”

しかも

“ありふれた共同作業とは違って、各戸何人ずつ、何時間働かねばならない規則もなく、すべてが自由であって、命令されてするのでなく、みな各人自発的に、その持ち味を発揮する働きに、楽しく次々と仕事を進めてゆき、現在では、自然と機構が組み立てられ、稲を刈る人、それを束ねていく人、稲架に掛ける人、乾燥したのを脱殻して回る脱殻班なども生まれ、持ち場のちがう方面では、早生みかんの採取に行く人、それぞれみな元気に働き、発動機の音もこころよいリズムを立てている。”

すると

“この部落も生き返ったようです。そこには、我利我欲の観念もどこかへ飛んでいった。作業の報酬や、収穫物に対する期待もない、みんな丸くなって研鑽し、仕事が快適な遊びです。休憩時には、よもやまの話が飛び出し、個人作業をしていた時の苦労話、特講を受けるまでの腹立ったこと、大酒飲んであばれた問題、夫婦げんか等々尽きぬ話題に大笑い。以前は水げんかをしたことのある田んぼの畔で、まったく驚くべき変わり方です。
山々はみかんが色づき始めた。一体鶏舎から澄み切った鶏の鳴き声が聞こえて、子供たちは嬉々として一体作業で作った丘の遊園地で遊んでいる。まさに天国です。何もかも忘れた作業に心地よく腹をすかして家へみんな連れ立って帰ると、知らぬまに、新鮮な野菜や、鶏の料理など食膳を賑わしてくれている。心のこもったものは、本当に美味しいですねー。
夕食が終ったら、隣の家から風呂がすいていると知らせにくる。明日の作業は作業係の人から聞かしてもらえばよい、一歩一歩と前進する計画にそって、真空地帯を埋め立てにゆけばよいのです。”

といった周囲からは〝一体さん〟と呼ばれる理想社会の縮図の一端が現れ出たのだ!
ところがそこへ舞い込んだのが「百万羽構想」なのだ。多くの先達的な会員には〝百万羽〟に参画するか、しないかの二者択一というかヤマギシへの本気度・踏み絵のようにも受け取られたのである。
金屋支部の方も六川の一体作業を拡大して金屋町全体でやろうということで希望者が十九戸程出来て盛んにその研鑚をしていた矢先だった。杉本さんは回想する。

“まもなく「百万羽構想」が発表されたので、金屋で始めかけている一体経営とどう調正していくかについて山岸さんに相談をもちかけた時も六川を潰さないように、百万羽の方へも是非来て欲しいが六川は残してくれ、百万羽計画が進む程地方でのそうした所があるのが大きいのだからと、言われました。
結局、金屋は金屋でやって、その中から百万羽へ代表を送ろうということになって代表を送り込んだのですが、その後そうした人が百万羽へ行くのなら私も行きたいとなったり、その人たちが抜けたら金屋でやっていけないとなってきて、元の六川だけ残して百万羽へ来る人と辞める人とに別れてしまいました。後日そういう話の出た時、山岸さんは金屋のあれをやっていたらもっとおもしろい運動の展開が出来ただろうねと残念がられました。”(「前渉行程論」1973)

今頃になってこの辺りの意図するところがじつに興味深く迫ってくる。
例えば先の杉本さんの一文にある、一体作業に踏み切ることで〝我利我欲の観念もどこかへ飛んでいった〟とか〝仕事が快適な遊びです〟とか〝まったく驚くべき変わり方です〟とか〝まさに天国です〟等々の表現から、美辞麗句を並べる眉つばの話として受け取られるかもしれない。
しかし今現在の自分らの生活実感に照らし合わせてみても遜色ないくらいに、よくもまあ経済が一つでない中途半端な一体作業ぐらい(?)でそこまで感じ取れるものだと感心してしまう。方法やかたちではなく〝ないものが見える人達でやる〟とはこういうことなのかと気づかされてくる。

そうした山岸巳代蔵の描く理想世界の実現や方法についての考察の深さには今さらながら驚かされるのだ。そこには人間が幸福生活を送るための普遍的な諸要素が織り込まれているように感じられるからである。
例えば理想世界、新しい社会形態、それは未知のものである。
また人は生まれてくれば生きるすべを知らねばならない。そのすべをみな自分で考えねばならないということになれば大変だ。一生研究ばかりでも追いつかないだろう。
また実顕地なるものは生活の場であって、勉学の場でも人づくりの場でもない。大いに生産をたかめ、生活を心から楽しむ場である。
そうだとしたらどうあるべきなのか、興味が尽きない所以である。 

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鈍愚考(51)

真理と人間の考え
ディオゲネスとアレクサンドロス大王

いつしかそうした古代のキュニコス的人物像にヤマギシズム人間群像を重ねている自分がいた。そうした試みがあながち的外れで思い過ごしでないことを先のフーコーの講義録から知らされたからだ。
ずっと自問自答してきた。
○ヤマギシズムとは何だろう?
○ヤマギシズムとは真理に即応しようとする思想であるという?
○「真の人間は、全行為真言真行」だともいう?
○自分の我をなくすることが、なぜ世界革命に繋がるのか?
これらの文言は、理念と今の自分の生き方や生活との関連を尋ねているのだが……。
自分が見たり感じたりしているものと事実そのものとは全く異なるもの。だとしたらそんな異質のものといったいどこで繋がり即応しようというのだろうか?

ヒントになったのはフーコーがキュニコス主義の、学説による媒介なしに直接的な実践に着目しているところだ。そんな雑念を介さない素直さは、書かれたものより目に見えるかたちでの言行の中でこそ明るみに出され多くの人に響いていく。その思想よりも逸話によって知られるディオゲネスの身振りが今に伝わるゆえんだ。
そうした自分が生きるやり方そのものによって〈真なることを語ること〉の表明。例えば泉で小さな男の子が両手をコップのかたちにして水を飲んでいるのを目にしたとき、自分のお椀を投げ捨てたという〝小さなお椀の逸話〟がある。それはまたとても純粋すぎて社会に受け入れ難いものでもあった。
そしてそこからフーコーは、

“真の生とはいったい何でしょうか。真であるという形容がどのようにして可能なのでしょうか。真の感情とは何でしょうか。真の愛とは何でしょうか。”

と、いわば哲学における伝統的な真正・正常健康といった概念の拡張を試みるのだ。真理を明るみに出すために「実は私はこれから、それとは逆のことをやるつもりです」として〝逆のこと〟を始めるのだ。
そうした観点からキュニコス主義の実践が引き起こすスキャンダルに着目する。
ところが〝真理本位の生〟を目に見える形で提示することが逆に人々の非難や嫌悪や嘲笑をも招くものだった。なぜなら真理を率直にむきだしに語るがゆえに、それは恥知らずな犬の生のような逆手になって現れ人々の非難を買ってしまい自らの生を危険に晒すものだからでもあるという。
それ以来、真理のテーマと哲学的実践との結び付きが歴史的にも消し去られなおざりにされていったのだという! というか本来の綜合哲学が、数理科学と宗教的体得へと枝分かれしていくのである。

“真理との関係が、今ではもはや科学的知の形式においてしか有効と認められえず表明されえないという事態が可能となったのです。”

そのゆえに真理本位の真の生を生きるという〝生の形式〟は、今では青臭い理想論どころか顧みられなくなって久しい。
ここでフーコーが言わんとして辺り、何となく他人事とは思えなく響いてくる。
例えばみんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していくといった理想を掲げ、しかも観念的理想論に終わらせずに日常化しようとする試みは、時には無謀で無鉄砲なドンキホーテ的試みにも見えてくることがあるからだ。
もちろんフーコーはキュニコス主義的な〝真理本位の生〟を通して、真の生が人々の普通な生とは全く別のものとして明るみに出されたと高く価値づけるのだ! もう一つ全く別の世界が出現すべきものだ、と。

“アレクサンドロス大王が町に訪れたが、ディオゲネスは日向ぼっこをしていて挨拶に来なかったので、大王から会いに行った。
大王が「何か望みはないか?」と質問すると、ディオゲネスは、
「そこに立たれると日陰になるからどいてくれ」とだけ望んだ。”

アレクサンドロス大王を前にして、政治的君主制を転倒させて自分こそが真の王であると言明する。ここでの自分とは自らが真理そのままの人に到達することを意味しているはずだ。また

“彼が広場で食事をしていると、それを見た人々が「まるで野良犬だ」と言う。そこでディオゲネスは「しかしお前たちもやはり犬だ、なぜなら食べている犬の周りに輪になって集まるのは犬だけだからだ」”

と切り返す。
自らのあけすけな身振りを見せることによって、一つのスキャンダルとして人々に非難させたり、軽蔑させたりする。人々に激しく動揺を与えて、考えを一気に変えさせることを目指すのだとフーコーは意味づける。

かつて第一回特別講習研鑽会(1956年)期間中に危篤状態に陥った時、三センチ幅のザラ紙に二Bの鉛筆で〝ボロと水でタダ働きの出来る士は来れ〟と書き記したとされる山岸巳代蔵もそうだったのではなかろうか。
髪の毛ボサボサ、髭は伸び放題、よれよれのジャンパー姿(山本作治郞談)で各地を巡り特講勧めに歩いた。
1959(昭和34)年七月、〝Xマン〟〝Z革命〟などの新流行語と共に一躍全国的に名をとどろかした「山岸会事件」で全国指名手配されていた山岸巳代蔵は、翌年四月逮捕という形で三重県の上野署へ自意出頭した。
そこでの上野留置場での看守とのやりとりが逸話として残されている。

山岸 寝床が敷いてないから寝れない。
 看守 自分の床ぐらい自分で敷け。
 山岸 そうかね、そうかね、自分のことはみな自分でするのかね。
 看守 そらそうだ、自分のことぐらい自分でしたらよい。
 山岸 そうかね、それじゃ君のそのメガネは自分で作ったかね。
 看守 そら眼鏡屋が作ったに決まっているじゃないですか。
 山岸 君は何でも自分のことは自分で出来ると言ったじゃないか。
等々で看守がカンカンになったという。”(福里柔和子談)

かのディオゲネスの再来といったところか。つい思わずふき出したくなるが、本人はいたって真面目なのだ。
それにしても山岸巳代蔵と看守とのかみ合わない〝やりとり〟はじつに興味深い。あの一週間の「特講」の一場面を彷彿とさせる。
これこそ、何も甘やかされて付け上がっているものではなく、かのキュニコス主義的生を特徴づけるずけずけと包み隠さず勇気をもって〈真なることを語ること〉の実践にも似て、ある意味スキャンダラスなやり方で他の人の生き方や周囲社会の欺瞞を明らかに示し反転させていき、真の人間性へと繋がる〝生の形式〟へと立ち返るように勧告するのだ。
まさに〝私が変われば世界が変わる〟に繋がる目に見える立振舞であったのではなかろうかと。

聴衆を前にしたフーコーの最後の言葉は、こうしたキュニコス主義において真理本位の真の生を生きる可能性を肯定していた古代の修練主義があったことを述べた後、

“もう遅いのでここまでにしましょう。どうもありがとうございました。”

で終えている。
キュニコス主義に自らの出発点と到達点を見出し裏づけてホッとする死を間近にしたフーコー。
真理のテーマと自分自身との結び付きを必死に追い求めて自問自答をくり返していた自分にとって、自己への配慮の中に〝別の生〟へと向かう新しい次元の〈自己〉像が見出されたことに心底驚かされた。
大それた真理とかあり方とかそれまで自分とは無関係で何の結び付きもないと決め込んでいたものが、〝自己への配慮〟を媒介とすることにより一気に身近に迫ってくるといった飛び上がるほどの衝撃を受けた。

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鈍愚考(50)

ひねくれ者・変り者・ほうけ者
誠実な人間を探すディオゲネス

あの時のジェーン台風でたまたま自分の稲作から養鶏を見付け出した人に引き出され、今や地軸を動かす事態に直面して二百年後が待ちきれず心を込めて書いた原稿「獣性より真の人間性へ」の表題を目にして、〝今の自分はケダモノなのか?〟とたじろいでしまった。何を言わんとしているのかサッパリ解らない。
そう言えばと古代ギリシアの樽を住居として犬のような生活を送ったところから犬儒派(キュニコス主義)と言われた哲学者ディオゲネスの数ある逸話の一つが思い浮かぶ。
彼は日中にランプを灯して歩き回った。人から「何をしているのだ」と聞かれ、「人の姿を見て犬と呼ぶ人がいる。では、人間はどこにいるのだろう?」と答えたという。

じつは山岸巳代蔵もそうだった。ヤマギシ会運動とは、物に乏しい人々を訪ね手を延べ誘うと同時に、心の豊かな人を探す旅の途上にも例えられるからである。
一般常識ではぼんやりした人、役に立たない人を例える言葉に〝昼行灯〟というのがある。先の「木偶の坊」を略した〝のぼう様〟などその最たるものだろう。
真昼間に懐中電灯であたりを照らしていたら、誰もが「なにやってんだろう」とそうした意味がない行為をあざけるだろう。ところがそうした常識外れの立振舞が、却って城下の皆の暮らしを救うのだ!
どうも〝本当の本当〟と言いたくなるものは、ムチャクチャと思える表現の中に逆さまになって隠されているらしい!
「稲の稔りは土中にかくれた根にあり」「鶏の産卵は腹中の消化器にあり、肉眼に見えぬ染色体にあります」(「稲と鶏一」)
というように、さしずめ真の人間の姿は目に見えない〝心の豊かさ〟にあるのだろうか。
今少しこのカラクリを追ってみる。

本ブログのタイトル「自己への配慮」は、フランスの哲学者・ミシェル・フーコー(1926~1984)のコレージュ・ド・フランスでの1982年の自己への配慮について論じた講義『主体の解釈学』から採ったものだった。
自己への配慮が転じて〝あなた〟への配慮に繋がるなんて青天の霹靂だった!
そのフーコー最後の講義(1984年2月~3月まで。6月には亡くなる)は、ほとんど哲学史でも顧みられることのない古代キュニコス主義を新しく独創的に照らし出した『真理の勇気 自己と他者の統治Ⅱ』だ。

紀元前4世紀ストア学派の母体とする犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して、私生活もなく秘密もなく、万人の視線のもとで生きるといった古代ギリシアの哲学者・ディオゲネス。
その外見は、垢にまみれ、着古した上着を二重折りにして着用し、粗末な頭陀袋を持ち、家もなく、日々の糧を物乞いして放浪する。
それはまさに〝野良犬〟の生きざまであったという。そんな〝変り者〟のディオゲネスの貧しさの身振りの逸話だけがくり返し語られ今に伝えられている。
いったいフーコーは、ストア派からより遡るキュニコス派に何を見て何に心惹かれたのだろうか?
この年体調はすぐれず最終回となる一週間前の講義(3月21日)では「ひどい風邪を引いてしまって、中断することになったらどうぞご容赦ください」と述べるところから始めている。
そんな状態のなかでキュニコス主義の実践について熱く語るフーコーの心の眼前はいかばかりであったろうか。
もちろんどこまでも〝群盲象を撫でる〟憶測の域を出ないことは重々承知の上で、きっと希望と歓喜に燦やき、求めたものが得られた幸福に充満していたのではなかろうかと、つい勝手に思い込みたくなる。

と言うのも1984年2月29日の講義で、「学説としてのキュニコス主義ではなく、態度および生き方としてのキュニコス主義」にここ数週間少々夢中になってしまったと語るフーコーは、真理を明るみに出すために「実は私はこれから、それとは逆のことをやるつもりです」と意味深な発言をしているからだ。
それとは〝逆のこと〟とは? 
それはキュニコス主義の核心を実際真理に即して生きてみようとしたところに見たところにある。それはまた必然社会のしきたり、習慣、価値と真っ向からぶつかる〝真理のスキャンダル〟を呼び起こす。そんな生の選択・実践に心惹かれてしまったのだ。
というか死を間近にしたフーコーは、なぜか粗野であけすけなディオゲネスのピュアで簡素な生き様に自分自身を重ね合わせようとしているのだ!
そこにはめくるめく壮大な知の遍歴を経た大知性人が〝自分はもっと賢い人間やと思っていたけど、なんとアホやった〟と気づいて、ホッと救われた息づかいさえ感じ取られる。

山岸巳代蔵も〝世は正に逆手なり〟とラディカルかつ逆説的に大言する。

“暑さに弱い鶏にトタンの一枚ぶき、屋根の軽い台風に弱い丸太の釘付、奥行の深い陰気な鶏舎に運動場もなく、冬風寒い金網の吹きさらし、早起き好みの鶏に朝日当らず、南のつまった北の空いた環境の悪い鶏舎で、卵のよく産む白レグ嫌って雑種を飼い、火力給温せずに消化の悪い固い小米に固い草、餌はやり放題で、水はドロドロでも取換えず、扱いにくい大群で、中雛時代に一ヵ所に群棲さす。
大雛ともなれば喰込み激しく、これはたまらんと一文惜しみの百知らず、これからという時に無茶な餌喰わし、卵よく産んで体のやせる時にこんな餌でも産むといって餌の質落とし、卵も産まず儲からない時に高い餌喰わし、百羽以上の大群に産卵箱は唯一つ、糞掃除せず積り積って悪臭紛々?
鶏舎とゴミ箱と間違えて、給餌は一日一回、それに二ヵ月に一回投込みが大技術とか、水鉢は糞と青モでドロドロ。これでは卵は産む筈もない。
然るに会は永久に責任を持ちます、最新の原子時代養鶏法だと威張り、技術はいりません、精神で飼えますよと神懸り的な世迷い事を並べたてています。またこれに同調の狂人共がどんどんと増して行くとは私もう頭が変になりました。何とかして頂戴。(ひねくれ者) ”(1956.8)

また会が発足した1953(昭和28)年3月以来、「五五会」と称して毎月五の付く日に寄っては研鑚会がもたれていた。なかでも毎月十五・十六日の研鑚会は夜明かしで〝幸福〟について話し合われていた。
その頃、京都府船井郡八木町諸畑部落の会員、明田正一が山岸巳代蔵宛に

“キチガイになれたのが嬉しい。キチガイが治らぬうちに来る気はないか”

との手紙を出したら、早速次のような葉書が届いた。

“前略 過日は五五会で忙しくしていましたので、お話も出来ず残念でした。
八木の支部にもそんな変り者がいたということは知らなかった。変り者を探している。変り者を探し合って、変り者でない人を変り者にしようじゃありませんか。そして世界中の人みな変り者に変えましょう。変り者を一六日に送って下さい。昼は向日町で養鶏。夜は当向島で変り者の変わった会をやります。”(1955.6.8)

無口だが時々奇抜なことを言う明田正一さんの人となりに心惹かれた山岸巳代蔵は次のような葉書も寄せている。

“あなたの業跡は全人に幸せを齎すものです。諸畑の革命は世界革命への第一発であり、これが決して誇張した言葉でなかったことを後日事実をもって証明するでしょう。
いかに叫んだところで、行う人がなかったならば、言わざるに如かず。
みんなで研鑽した理論が空論でなかったことにする手始めは、舞台一ぱいに踊るあなた方の、演出実技に俟ったもので、作者と役者と一体になって、出来るか出来ないか、世界の観衆の前で試演しましょう。熱演しましょう。あなたと私の繋がる全世界の人、その子孫永久の幸せのために、全力を傾けましょう。
(中略)
             山岸 巳
ほうけ者の親玉・子玉・孫玉各位
酒呑童子の世界相手の暴れ振りに期待しつつ”(1955.8.14)

現在の春日山実顕地(三重県)の前身「百万羽科学工業養鶏」創立への参画者第一号は明田正一さんだった。
そんな明田正一さんに限らず、先の荒瀬さん服部さんらのように〝「あれから仕事に手が付かない。Z革命の方が先だ」〟とするムチャクチャと思える訳のわからんことを言うひねくれ者・変り者・ほうけ者のヤマギシズム人間群像が立ち上がってくるのだ。

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鈍愚考(49)

ムチャクチャが本当?
のぼうの城

戦後いまだに関西の人達の語り草になっている1950年9月のジェーン台風で、大きな二階家屋が倒壊以来一年おいて地震に遇い、住家が約三十センチ沈下し土蔵も傾き、昨年秋の水害(台風十三号1954.9)で約三㍍の水に浸かり家は廃屋になり鶏も約一千羽水死。
自らも胃下垂で何一つ作業も出来ず、加えて税金・借金の督促状が相次ぐといった悪評と借財と病弱の今日この頃を山岸巳代蔵は『山岸会養鶏法』の中で次のように記している。

“私の今いる家が傾き、田が売られ、屋敷が草で荒れ果てる様を見て、貧乏して落ちぶれていくように誤解する人があります。見兼ねて忠告する人、おそれて寄りつかぬ人、嘲笑する人、非難する人等、その他各人・各様の観方をして、直接・間接に聞かされます。
常識観念の抜けない人には、絶対に正しい理解が出来ないことは当然で、中には私の精神状態の平静を疑い、噂する人もあります。”

実際その頃会員明田恵二が部落の知識人を連れて京都伏見の山岸巳代蔵の自宅を訪問した一文がある。

“山岸先生の屋敷へ一歩足を踏み入れたが、広い屋敷に丈なす荒地野菊が一面に生えていた。門口に立てば、家は三、四寸陥没して傾きかけている。畳は破れ、ござの程度。上がってみると座敷は根太は反り返り、床はぬけている。通された二階は十畳敷くらいの見晴らしのよい室であったが、蒲団が積んであり、掃除も行き届いていなかった。
連れてきた清源寺住職大島清音師は気を悪くし、「もう何も聞くに及ばん。これを見ただけでわかる。問答無用。こんなものが何を云おうと問題でない。自分はこれから帰る」と云い出し、いくら私がよく話し合って検べなくてはわからないからとなだめても聞かないで、そのまま席を立って帰ってしまった。
山岸先生は不在で今晩帰らないかもわからんとのことでしたので、三年ほど前から同居されていると云われる西辻誠二青年を囲んで今夜は語り合うことにきめた。”(『山岸会事件雑観』1960.4)

あの時のジェーン台風で一望倒伏田の中、一区画見事に立ち揃った稲の穂先に実がついている水田を当時京都府の農業改良普及員に発見されたのが、そもそも山岸式養鶏法が世に紹介されるきっかけになった。
また台風十三号では宇治川が決壊し耕地全部と住宅が3メートルの深さに浸水、鶏も約一千羽水死する中で、農業養鶏舎の鶏百五十羽の生存に一驚する。何と鶏糞を一回も取らずにその上に麦わらなどを投げ込んでおいたものが全部浮き上がり、その敷き藁の上で卵を産んでいたのだ。 
農業養鶏の良さがこんなところで奇跡的に発見されて「何が良いやら、分からへんわな」と愉快に思ったという。
しかもそんな悪評と借財と病弱の翌年1月には画期的な第一回「特講」が開催されるのである! そして

“見る人により不幸の連続ですが、見方によっては不幸の部類に入らない甘い不幸で、私の心の眼前は希望と歓喜に燦き、求めたものが得られた幸福に充満しているのです。私は二百年後を目指して、青年時より理想世界の実現を計画し、近年その方法について書き綴っておりましたところ、私の有形物の減耗するに反比例して四囲の状勢が好転、奇しきまでに刻々に、それを具現化するに即応する様相に展開し、その日の近いことと確実なことが明瞭となりました。”(「病災は内より」)

と言うのだ。〝私の有形物の減耗するに反比例して四囲の状勢が好転〟するという?
先の〝無茶苦茶〟の中に流れている筆法と同じものを感じる。武士は食わねど高楊枝といったやせ我慢にすぎないだろうか。
ふと以前にも触れた映画『のぼうの城』での暑さも吹き飛ぶ爽快感が思い浮ぶ。

戦国末期、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉の大軍二万人を前に、周囲を湖で囲まれた「浮き城」の異名をもつ小さな城・忍城(おしじょう)軍はたった五百人。勝ち目のないことは誰の目にも明らか。
しかも「でくのぼう」を略して〝のぼう様〟と皆から好かれる忍城の城代は、戦には最も不向きな臆病者。頼りなく、「俺たちがついてなきゃ、あののぼう様はなにもできゃしねえ」という気持ちにかき立てられる。何もできないことが、却って皆の心を一致団結させる。
そんな難攻不落な忍城は、とうとう城の周辺に巨大な人工の堤を築き、それを決壊させる豊臣軍の“水攻め”にあう。
そうした絶体絶命のさなか、〝のぼう様〟はなぜか「水攻めを破る」と公言する。そして一人で武器も持たずに小舟で豊臣軍が築いた堤へと向って大好きな田楽踊りを披露する!?
するとこの〝とんでもない奇策〟に、敵も味方も驚いて一斉に喝采の声を上げる。彼らの心を大いに突き動かすのだ。
なんとその田楽踊りをきっかけに、城に籠もるのを拒んだ百姓達が人工堤の土俵を引き抜くことで大量の湖水が逆に豊臣軍を襲う!
そんなことは〝のぼう様〟には先刻お見通しだった。城外の百姓たちも我らの味方であるとの確信があったからだ。
これが起死回生の妙手だった!?

思わずハッとさせられる。これこそ、その道を通る以外には到達できない唯一最善の方法なのだ。
理想社会を目指してその目的への出発点に立ち一歩踏み出すことを、自分らの用語で〝ゴールインスタート〟と解し、また〝自己革命〟とも呼び習わしている。
だとしたら映画での〝のぼう様〟が皆の前で披露する田楽踊りこそ、城を救うというゴールとスタート地点が一直線の立ち居振舞だったのではなかろうか。
豊臣軍の狙撃兵の的になり殺されるかもしれない。実際肩を撃ち砕かれるのだが、そうした〝結果〟は〝ゴールイン〟ではない。
戦う前から〝のぼう様〟は、「北条家にも関白にもつかず、皆で今までと同じように暮らせないかなあ~」と呑気なことを言っては皆を唖然とさせていた。この次元ですでにボールはゴールネットを揺らしていたのだ!

これが奇策と見えて実は理にかなった〝正攻法〟だった。その現れが田楽踊りである。
そんな意表を突く〝無茶苦茶〟と感じる中にいったいどんな理が働いているというのだろう。
先の実顕地づくりを始めた荒瀬さんは資金が底ついて鶏のエサ代にも事欠くようになった時、実顕地造成世話係から「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と言われて、「そんな無茶苦茶な。鶏を飼うとって、餌やらんでよかったらこんな苦労はしない」と思わず反発する。
いや実顕地造成世話係からは、エサ代、エサ代と言っているから問題が解決しないのだと見えるのだ!?

映画では石田三成率いる豊臣軍二万の軍勢と水攻めを、兵数たった五百人の小さな城・忍城の〝のぼう様〟の奇策と見える正攻法が功を奏してか最後まで落ちない。
とうとう開城に当たっては、〝のぼう様〟の方から豊臣軍総大将石田三成に開城の条件を何と〝悪びれずに〟に突きつけ飲ませてしまう! そう、「わがために乞うにあらず」ゆえ自ずと相手の心をも掴んでしまうのだ。〝のぼう様〟の中には最初から既成の価値観・常識観でいう敵味方勝ち負け勝利者慣例から放たれてあるのだ。

ある年の4月度テーマ
“全てを放して心開け 桜花と共に咲く”
がふと思い浮ぶ。自分の考えはもちろん全てを放して考えてみると、案外そこから光明が見出されてくるのに気づく。
訳のわからんムチャクチャ言われて、〝出来ないと思っていた私が、出来た!〟。これは面白いことだナ。要するにムチャクチャが本当らしい。
問題を問題として見ない〝本当〟のものが、ムチャクチャの中に逆さまになって隠されていたのだ。

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鈍愚考(48)

地軸を動かす事態
服部一馬103歳の誕生会(2013年4月22日)
 【服部一馬103歳の誕生会2013年4月22日】

かつて山岸巳代蔵は、山岸会が発足して一年後の1954(昭和29)年3月16日の定例研鑽会の場で自ら書いた「獣性より真の人間性へ」と題した原稿を読んだ。それは次のような書き出しから始まる。

“獣性より真の人間性へ(一)
万象悉く流れ、移りゆく。
一年前の春の一日、当向日町の一隅に触れ合う報謝の魂が火となって、全国到る地域に点ぜられました。
期せずして相寄る心の集いはあまりにも早く、鶏鳴によって平和日本の黎明を告ぐるに至りました。
今や地軸を動かす事態が発生しつつあるのであります。”

地軸って、地球が自転する際のあの軸のこと? その地軸を動かす事態が発生しつつあるって、そんな大げさな……。 いや、その前にある〝万象悉く流れ、移りゆく〟って、なぜこの文言がいの一番に登場するの? そもそも表題の〝獣性より真の人間性へ〟って、今の自分はケダモノだと言うのか?
もうスタート時点から剛速球を投げつけられて思わずのけぞってしまう。しかも何を言わんとしているのかサッパリ解らない。
いったい何がそれほどまでの〝事態〟なのか? 響いてこないのだ。
こうした問いかけがくすぶったまま今日まで来てしまった感がある。

重ねて同じ日付での「難解な私の言動」と題した一文では、解らなさ・通じ合わなさ・食い違いの原因を、
「我が田に水を入れようとしている人に、百里先の水源池工事に誘うので、カンが立つのでしょう」
といった例えで、目的の異うもの同士が寄っても価値観が異い一致点が見出せないのも当然だとふり返っている。
じっさい鶏を飼おうと思っても、何のために鶏を飼うのかとしつこく尋ねられて飼わしてくれないし、技術を求めれば精神の大事さを聞かされ、鶏が病気になっても直ちに治してくれないし、むしろ「家族中揃って弁当持ちで、遠足でもすることですな」と言ったり、技術は秘匿して公開しない等々、常識観では解らんことばかりで、こうした不可解から会を離れていった人も少なくなかった。
終いには単刀直入に〝卵を産まぬが幸福ですわ〟と養鶏で金儲けしたいとする気持ちを逆撫でしてニンマリする。

“999人が解らなく共、一人の人に解ろうとする端緒を掴んで貰えば、それで大成功と思って初めからそれ以上を期待しません。”(「難解な私の言動」)

この時期山岸巳代蔵は要請があれば積極的に自らの考えを、

“自分の無学を、博学者の如く見せかけるべく、ことさら難しく表現しているものでなく、如何にして一人でも多く、一語でも深く人々に伝え得るかに留意しているのです。”(同上)

と心しながらあちらこちらで積極的に発表している。
ある場では、私の拙い〝幸福世界実現のための一役としての養鶏法〟寸話を一億円のお土産と自ら勿体付けている。今の日本鶏種界に最大の贈り物として発表したものだとさえ言うのだ!
いったいどこが一億円なの? 贈り物なの?
こんな一言から先の千石さんならずとも、ちっとは真面目に〝ヤマギシ勉強せなあかんな〟と切羽詰まった気持ちに今頃になって迫られる所以だ。

昭和三十年前後というと山岸会というよりも、山岸式養鶏普及会が活発であった頃だ。会へ集まってくる殆どの人が養鶏だった。その養鶏も、養鶏の仕組みや目的への興味よりも結果の利益への期待で集まった人が大部分だった。養鶏がきっかけで山岸会運動やヤマギシズムに興味をもつ人も少数出来てくるわけなのだが、まだまだこの頃は鶏鶏儲け儲けで夢中の頃だった。
そこで養鶏するのも幸福社会実現のためなのに、みんな鶏の儲けだけで止まって欲のないこと浅いことだと自然と一見乱暴極まる文体や口調になりがちだった。

“智者・学者顔したさにゴチャゴチャ云って置くと、後でベソ掻きますよ”(『家畜界』1954.9.15)

相手に何とかして伝わるようにと、伝えたいそのものを逆さまにしてしかどうしても言うほかなかったのである。
観念動物とも云える人間の決めつける観念づけの〝恐ろしさ〟に気づいて欲しかったのだろうか。

ふと以前、服部の爺さんはよくオンボロ鶏舎の前で悪びれる風もなく「鶏舎は理想社会の縮図です」と見学者にニコニコ顔で参観案内されていた姿が懐かしく思い出されてきた。
あの時の服部さんの気持ちはどうだったのだろう? どんな境地におられたのだろう? 幸い『Z革命集団・山岸会』(ルック社1971)に、旅から旅の薬の行商をしていた服部さんの「ヤマギシズム生活十年の追想」と題した文章が掲載されている。その一部を紹介してみる。

“私は父業をついで30余年、旅から旅への旅烏、家庭薬の行商を続けていた。5千戸あまりの得意先を周期的に訪ねながら、幾千幾万の人達に接して教えられること多く、今なお私なりに社会勉強ができたことを嬉しく思っている。また、それらの人達に対して敬意を表しているとともに、懐かしさを覚えている。
しかしながら、正直者が馬鹿を見る、真面目な者ほど損をする社会実態を見、味わい、深く考えれば考えるほど不愉快で、人生とはあまり深く考えないで蓋をして通り過ぎるべきもの、というような人生観を持つようになっていた。
それが、特講の一週間にしてすべて一変したのである。見るもの聞くもの皆美しく、考えれば考えるほど楽しく面白く、これが真実の人生であり当然の姿であることに気づいて、ほとんど狂気のように走り回り、喜び、語ったものであった。事実、あまりの感激に狂っていたのかもしれない。周囲の人達からは狂人のように思われていたであろうことも知っている。”

以来家業も手につかず、旅に出ても商売は後回しで、特講への呼びかけに集中した。三人、五人、十人と送り出せばそれだけ喜びが深まり、自分の生涯賭けての仕事と決意し、あの〝山岸会事件〟の直後、周囲の大きな反対を押し切って過去の一切を整理し、家族共々春日山へ参画したのだという。

あの始まりの〝万象悉く流れているもの〟に触れているからこそ、オンボロ鶏舎が〝理想社会の縮図〟に見えるのだ! 〝無いものが、ある〟と見えるのだ!
特講の一週間で知った真実の人生を見届けるといった〝ものの観方〟(理念)でいこうとするものが、服部さんの天真爛漫なあのニコニコ顔に現れていたにちがいない。
お互いの価値観が異うからか、一致点が見出せない。だとしたらお互い〝あまり深く考えないで〟価値観が異って当たり前と割り切ればそれで済まされるものだろうか? 
今世界が直面する足下の緊急時だ。

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鈍愚考(47)

〝キモをつぶしておったまげた〟
マイロ

実顕地なるものを始めた当初、資金が底をついて実顕地造成の係の人に相談したら、「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と言われて、そんな無茶苦茶な、と思ったという荒瀬さんの体験談から、なるほど普段省みることのない自分の考えをせっぱ詰まって放さざるを得なくなって放して考えてみると、案外そこから光明が見出され、いろいろの方策があることに気づかされてくる。
だとしたらこうした〝無茶苦茶〟と思われる言葉にはいったいどんな不可思議が込められているのだろうか? 

かつて1980年に世間から中傷と非難を浴びた、いわゆるイエスの方舟事件の当事者、千石イエスこと千石剛賢(1923-2001)さんの語りの言葉に惹かれたことがある。何かしらまるで自分自身が辿ってきた心の軌跡をそこに見る思いがしたからだろうか。例えば次のような語りがある。

若き日、千石さんに聖書の指導をしてくれていた「聖書研究会」の主宰者がある時投げ出すように言うた言葉があった。
「あなた方はね、生きてないんじゃがね、死んどるんじゃがね」
「先生、それは無茶苦茶や。死んどるんじゃがねって、そんなに気安く言われたら困る。わし、まだ仏さんになっとらへんがな、さっき飯食ってきたとこや」と納得がいかないので食い下がった。
結局この言葉に引っかかって、どこぞで詳しい説明あるのかいな、と聖書に入り、「その人の言うとおりや、俺、やっぱり死んでんだ」と五十年近くその一つ聖書だけを見つめながら問い続けてきたという。(『宗教の解体学』)
もう一つある。

“いまから四〇年余りまえに、ある教会に行ってたとき、神が見えると言われたことに、強くひきつけられたんです。最初はもちろん、キモをつぶしておったまげました。それまでは、見えないから神だと言われ、また自分もそう思い込んでいたのですから。むろん、結果はさんざんでした。まるきり見えなかった。もちろん、私自身の求める姿勢がはなはだしく間違っていたし、導いてくれるその人も、話にならんデタラメを言うてたわけですから。(中略)
その教会の責任者にすれば、どうせこの男、何を言ったって金のほか関心も何も持つまいと思って、一発かましたれと。本当の話、この責任者自身も、ぜんぜん見てない、神なんか。だけど、さきほど言いましたが、こっちはキモをつぶしておったまげてしまいました。
そのときも「ほんまかい、それは」言うたら、「本当です」と。この責任者、たいがいの嘘つきや(いまはえらい人になっとるけど)。ふつうの人はそういうとき、たじたじするもんです、こっちは血相変えて真顔で、「ほんまかい」言うてんやからね。ところがそこは嘘なれしてて、大したもんやね、ケロッとしてる。「そら、ほんとや」と、なおひるまず言うからこっちがまいってもた。「それ本当やったら、聖書勉強せなあかんな」と。”(『隠されていた聖書―なるまえにあったもの』)

千石さんは、事実自分は生きているのにあなたは〝死んどるんじゃがね〟と無茶苦茶言われ尚且つこの言葉に心引かれてしまった。
またそれまで〝見えないから神だと思い込んでいた神が、見える〟と言われてビックリ尚且つ心引かれてしまった。
いったい何に心引かれてしまつたのだろう。
しかもここには〝五十年近くその一つだけでやってきた〟という、いわば〝主体的な判断というか、そんなものはわしには持ち合わせがねえ〟と言えるところまで底ついてしまった時の喜びが満ち溢れている! 

何を言わんとしているのだろうかと中途半端なところで終わらないどこまでも探し求める、自分の考えに疑問を持つ姿勢を見る思いがする。自分らの言葉ではまず話し合いのできる状態になる〝研鑽態度〟に当たるだろうか。
そうか、自分のみの考えを放してイズム(理念)を生きるとはこういうことか、といった気づきがここから読み取れるかもしれない。そういう態度で過ごしてきたからこそ、〝無いものが見える〟人に自ずと育つのだろうか。
しかもその始まりが〝キモをつぶしておったまげた〟他人事でない自分自身の中の体験にあったことがとても興味深いのだ。
始めはそんなバカな、と反発しつつ次に「ああそうか」とそれを分かろうとする生き方、あり方に転換している。思い当たるフシが次々と浮かんでくるようなのだ。

その昔養鶏部配置になった頃、夕方になるときまって大型車がやって来て積み荷の降ろし作業があった。海外から輸入されたマイロ(とうもろこしに次ぐ重要な飼料穀物で、粉砕・圧ぺんしたものが広く使用されている)のダメージ品だ。運転手が荷台から手かぎでドンゴロス(麻袋)を引き寄せては下で待つ自分らの肩に乗せてくれる。これが重い。ふらつきながらも配合所の外壁に段々と高く野積みしていく。ほとんどの袋は破れ欠けそこから白くカビた粒がこぼれ落ちていた。こんな代物が餌になるの? 大丈夫なの?
しかしマイロ粒を集卵時に鶏舎の床に撒いてやると鶏たちが一斉に飛びつき集卵がはかどり湿りがちな床管理にもなった。

後に飼料配合の実際に関わる中で、配合の急所は個々の単品の持つ持ち味を最大限組み合わせ(抱き合わせ)と比率によって活かすことを考え、ねらい、開発するにあることを知らされて、あの淡々と積み上げたドンゴロスの荷下ろし風景が思い起こされたことだった。
そこには平飼い養鶏での青草多食に馴れた鶏にとって、カビなど品質劣化の原因を取り除く方法や食べさせ方や餌負けしない体質づくりなどの研鑽・実践、実践・研鑽による立証があったのである。
例えば生大豆など植物には天敵から身を守るための有害物質が含まれている。だから餌として使えないと決めつけないで、あらかじめ発酵させること等で毒素を取り除いてみたことがある。商品価値は低いが、実質成分の高いそのものらしさを如何にして引き出すかが、毎回の研鑽課題だった。
決めつけない囚われないの一言で止めないで、事実の立証までもっていく面白みがあった。

こうした一般から見て関心の薄い鶏の餌づくりを通しても、先の〝無いものが見える〟といった理念(=理に立った観念)でいこうとするところから開けてくる観方考え方があったのである。
この理念の価値が観えてくると、社会問題での万般万事の解決に活かしていける具現方式が浮かんでくるようで胸ときめくのだ。

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鈍愚考(46)

〝実顕地〟誕生の物語
荒瀬崎次さん

山岸巳代蔵全集第四巻に「北条実顕地の始まりと山岸さん」と題して、昭和36年頃始めてヤマギシズム実顕地なるものを立ち上げた一人荒瀬崎次さんの談話が載っている。
スタートは六人だったが、始めて三年くらいの金のないどん底の時に、四家族はやめてしまって、弟の善次さんと二人になった。しかもニューカッスル病が見る間に広まってしまって、たいそう困った事態になった。
家も田圃も担保に入れて始めたが、にっちもさっちもいかない。農協からは特殊な思想団体を援助するところとは違うからと融資一切断られる。そんな最中

“始めた頃は、何かあると杉本さん(実顕地造成世話係―引用者注)に相談してたんや。山岸さんも北条実顕地に力を入れとってくれたんやろ、何かと気をかけてくれとったと思いますのや。杉本さんに相談したところ、「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と言われた。そんな無茶苦茶な。鶏を飼うとって、餌やらんでよかったらこんな苦労はしない。今でこそ笑い話やけど、借金は出来るだけしとるし、もう食うもんもなかった。
その頃、色物の廃鶏(ブロイラーや地鶏など採肉が目的でない採卵期間を終えた雌鶏―引用者注)が一羽三百円していた。鳥屋が「廃鶏おまへんか」と言ってまわってきよった。一日七羽~八羽集めてかしわ屋として成り立っていたんや。それで卵を産まん鶏を徹底的に探し、売ってしのいだり、なんやかんやできりぬけてきたんや。その頃命がけで見ていたから、すーっと鶏舎の前を通るだけで卵を産まん鶏は一目で分かるようになった。
理屈でなんぼ分かっていても実行せなんだら、効果は出ない、そのことが身にしみて分かった。そのことが分かりだしてから、なんぼか楽になった。”
そう、無茶苦茶なのだ! 「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」なのだ!?
元はといえば荒瀬さん自身戦後百姓をしていた頃、愛農会(戦後の食糧危機を克服するために生まれた農業者の全国組繊―引用者注)の機関誌に紹介されていたヤマギシ養鶏の「そんな奇想天外な。固い米を山のように積んどいて餌付けするなど、そんな無茶なことをして、雛が育つかいな」と思ったのがきっかけだった。当時の学説では、「柔らかいものを一日七~八回やらなあかん」と言われていた。とにかく、その当時の養鶏の常識とはまるでかけ離れたやり方だったのだ。
それで〝特講〟に参加した。

“特講は「この世の中にこんな考えがあったのか」と、わしにとってごっつい感動やった。養鶏が目的で来たのだが、養鶏の話など一つもなかったが、ものすごい感激やった。それまでの自分は金、金の世界にいたのに、予想もしない世界があるというのが分かったんやな。それで「こんな暮しが、もし、ほんまにできるもんやったら、世の中変わる」とみんなに勧めた”

その荒瀬さんが自分のこととして〝無茶苦茶〟に出会うのだ!
自分のこととして〝無茶苦茶〟に出会うとは何を意味しているのだろう。
それにつけても「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と言われて、いったんはそんな無茶苦茶な、と打ち消しながらもそのことをそのまま受け止めてみようとした荒瀬さんの態度の中にどんな心の変化があったのだろうか?
またそこまで言える杉本さんとは、いったい何者なのか?
そんなふうに想いをめぐらしていると、とても素敵な出来事というか出会いのようにも見えてくるところが面白い。

確か日本の神話にイザナギ・イザナミによる国生みの物語があったと記憶するが、荒瀬さんの談話はそのままヤマギシズムによるかつてない新しい社会を生み出す物語にもなぞらえることができようか。そんな突拍子もない唐突すぎる考えが浮かんでくる。
さしずめ先の実顕地造成世話係の杉本さんは、個人生活から慣れない実顕地生活に入るための手引きをするというか産婆役に当たるのだろうか。
それゆえの「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」というある意味理にかなった発言になる。当たり前のことを語っているのだ!? いったいどこが当たり前なのかが肝心要なのだが……。
ところがとっさに荒瀬さんの口から出たのは「そんな無茶苦茶な」だった。 
あの〝奇想天外な、固い米を山のように積んどいて餌付けするなど、そんな無茶なことをして、雛が育つかいな〟と思っていた考えがひっくり返り、予想もしない世界があるというのを知った。それで「こんな暮しが、もし、ほんまにできるもんやったら、世の中変わる」とまで思って実行に踏み切った荒瀬さんでさえもだ。
実顕地なるものを生む、そんな生みの苦しみに直面しているのだ。 
そしてそこで始めて荒瀬さんは、他人事でない自分のこととして〝無茶苦茶〟に出会うのだ。何かなしにいっぺんスーと聴くという〝放す〟実践に踏み切るのだ。するとそこから立ち現れてきたのは……。

こじつけになるだろうか? 
既に故人の二人とは毎月の定例研鑽会などで長い間接してきた自分らには、求めるものと応じるものとの全面一致を象徴する〝相棒〟関係の典型例をそこに見る思いがする。じっさい二人のちょっとしたやりとりから何か自分らの心をほのぼのとするものがいつも醸し出されていた。
実顕地造成は、人づくり、生活の物づくり、運営のための機構づくりから始まるといわれる。中でもイズム生活のできる人となるための、その方向へその方向へと研鑽を重ねていく人づくりが造成の一番の基本となる。
そして現状そのままの状態から出発し、その後、情勢の展開につれて内容を充実して、イズムの実顕地らしい実顕地へ移行進化していくものだとされる。
そうした〝実顕地〟なるものが生まれ出る源泉は、実顕地生活自体が母体となり〝本当はどうか〟という理念に基づく観方・考え方が父体となる、広い意味での私とあなたとの関わりや出会い、繋がりの不可思議なあの〝性〟の世界にも例えられるかもしれない。
どういうこと?
あの始まりの三者三様の思いがけない体験から溢れ出てくる〝じぶん自身に触れた〟世界のことだ。(鈍愚考45参照) 
そんな自然全人一体の産物「自個」が、共に生きられる仕組み・本当の仲良い姿になる場としての〝実顕地〟誕生の物語をつくってみることができないだろうか。

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 「と」に立つ実践哲叢(58)

 コロナ禍雑観
裸の王様

昨今の世界的なコロナ禍での社会不安にアンデルセン(1805-1875)童話「裸の王様(=皇帝の新しい着物)」を重ねて評するコメントが幾つか見られる。あの子どもが「王様は裸」ともらしてしまうよく知られた話だ。つかみどころのない流動的な変わりやすい人間観念の面白おかしき特質を寓意して今なお訴えてくるものがある。

例えばリーダーが思いつきで言ったことに周囲は反対できずマスコミもそのまま報じる。これが日本のコロナ敗戦の真相だとか、GoToトラベルなどと危機感の衣をまとわぬ「裸の王様」にあぜんとさせられるとか、悪いのは王様?それとも詐欺師? そもそも詐欺師とはだれだろうか?とか、等々。
そしてリーダーは謙虚であることが肝要で周囲の声に真摯に耳を傾ける必要性を説いたり、また騙される人々の自分の頭でしっかりと考えて判断することが出来ないことの愚かさを戒めたり、自分が裸とわかった後にもなおもったいぶるのは人のさがなのだろうかといったうがった見方もあった。

この話で興味深いのは、「このきれでつくった着物にはふしぎな特徴があって、じぶんの役目に向いていない者や、手におえないおろか者には、それが目に見えない」という嘘をペテン師が語り、その嘘に王様だけでなくほとんどの人が巻き込まれていくところにある。
当の王様にも「やや! これはどうしたことじゃ! わしにもなにも見えんぞ。わしは、おろか者なのか?」と心の中では思うのだが、「なるほど、たいへん美しいのう。大いに気にいったぞよ!」と口に出しては言うのだ。もう誰ひとり、何も見えないなどと人に気づかれてはならないのだ。
こうして皇帝はパレードで新しい衣装をお披露目することになる。ところが、

「『だけど、なんにも着てやしないじゃないの。』と、そのとき、ひとりの小さな子どもがいいました。
『これは、これは! 罪のない子供のいうことだよ。』と、その子の父親がいいました。それでも子供のいったことばが、それからそれへとひそひそ伝わっていきました。
『なんにも着ていらっしゃらないんだ。小さな子どもがなんにも着ていないっていっているよ。』」(「皇帝の新しい着物」大畑末吉訳)

こうして皆が「なんにも着ていらっしゃらないんだ」と叫び出す中、皇帝も皆の言う方が本当のように思われつつも「いっそう、威厳をはりつつ」パレードは続くのだった。

なるほどこの話を人間の共同観念(?)的な盲信のテーマとしても読み取れる。PCR検査に象徴される現代科学知の躍進に比べて肝心の人間自体の本当の正常健康なあり方の立ち遅れ、不調和が招いてしまう現象のことだ。
そんな思いで改めて読んでみたら、「罪のない子供のいうことだよ」と思わず護ってしまう父親の発言が目に飛び込んできた。子どものせいにすることで責任逃れしか考えてないそんな心底に潜む束縛に気づく思いがした。

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鈍愚考(45)

繋がりを生きる
飛ぶ鳥の群れ

先に〝みにくいアヒルの子〟が一羽のりっぱな白鳥であるじぶんじしんのすがたに出会うあたかも殻を破って飛び立つ蝉の喜びに輝く〝変容の瞬間〟にもなぞらえるくだりを次のように記した。

“ここに〝さあ、ぼくを殺してください〟と〝頭を水の上にたら〟す精神革命を必要とする所以があるのだ! 人と人との繋がりの中へ飛び込んでいく実践が待たれていたのだ。”

こうした止むに止まれぬ鮮烈な欲求の中へ、自分がじぶんに出会う感じの中へと今一歩踏み込むのだ。
ここでいう〝人と人との繋がり〟とは、

“自分独り立ちが出来ないという、自然、それから全部の人間との、繋がりなんです。”(「全人幸福のため―第一回山岸会特別講習研鑽会記念講演」)
という〝自然全人一体〟理念を指す訳なのだが、案外物に比べて自分自身を〝繋がり〟そのものの中へと入れにくいものだ。邪魔するものがある。自分、自分と自分の思い考えを優先・主張しがちなのだ。
その辺りのことをいうのだろうか?
“真理で既に結体しているものを、わざわざ自分自身でぶち毀そうと努力している知性人は誰か。(「思いごと叶えるにはまず零位になること」)”

この間の文脈での、〝繋がりを知る精神〟とか〝その繋がりさえ分かれば〟の一節に込められた〝繋がり〟をも指しているようだ。
こうした〝繋がりを知る〟精神のことを、「自個」という表現で捉えてみたことがある。
というのも今までの社会での「自己」は、自分という己があって自己主張するなど個体としての私以上のものがそこにある。そこで「個」」体としての「自」分、すなわち「自個」として、今までの「自己」と区分してみた。自然全人一体に繋がる「自個」である。
そして今までの自分を護り主張する自分と新しく見出された自分とでゴチャゴチャする頭の中を整理分類する意味あいで、

自分=【自己(己を主張する自分)+自個(個体としての自分)】

と分けて捉えてみるようになった。
あの幸福についても、真の幸福と幸福感との二つの幸福があるように……。何でも二つある、二つの事実、二つの心などの振幅のある観方考え方が浮かんでくる。
またそこから〝私はない身替わりの行為〟の概念的なイメージを例えば
○そうした力の源泉を、見田さんは〝〈性〉は自我を裂開する力である〟と言う。
○もう一人の〝〈性〉がもたらす〟〝もしかして何ものでもない自分?〟がいるのだ!?
○〝一体観が深まる〟
○それは人間の考えの〝前にあるもの〟といった知見の気づきにまで拡張させてきた。
自然全人一体の産物(繋がり)の中でこそ、各々の個性が発揮されて人がその人らしく活かされるのであろうか。だからこそ人がその人らしく生きてもらうために他のものが替ってやることがあるのだ!

そう言えばと、稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼり、鳥の群れの一団となって飛ぶ様子などに、〝万象に悉(ことごと)く流れているもの〟の繋がりにまで想いをはせてしまう。
その昔養鶏の一日の仕事の終いに薄暗くなった鶏舎を見回っていたとき、鶏舎の後方に置かれた横一列二十数羽の雄雌の鶏が縦に五列整然と止まり木にとまって休んでいる姿を目撃してハッとされられたことがある。いったいあの時の衝撃はなんだったのだろう。一羽一羽が治まる場に治まっている姿に感動したのだろうか。
もう少し丁寧に、あの始まりの〝じぶん自身に触れた〟世界に何度も戻りながら辿ってみよう。

〈先の島田裕巳さんの一週間の「特講」で触れた世界
“体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。”
また『納棺夫日記』の著者・青木新門さんの触れた世界
“澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の顔の汗を拭いていた。”
そして手記「ある愛の詩」でじぶん自身が触れた世界
“朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、『フフフッ』と微笑むだけだ。ちっとも非難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。
これら三者三様の思いがけない体験から溢れ出てくるものがある。なぜか自分の身体感覚に同調してくるような心地よい自分が自分を表現するくめども尽きぬ源泉を見つけた思いがするのだ。
これらの何となく共通的な似ている〝感じ〟をそのまま素直に感受・感知して、そこからもう一歩踏み出すことではないのか?〉(鈍愚考7)

こうした心の底から不思議とよろこびが沸きあがってくるようなこの〝感じ〟を逃がさないようにと、心のタメをつくるといった前向きの心の状態として捉えられるようになった。
すると解明への手がかり・ヒントは既に用意されていて、とっくに解決済みの案件だったことにも気づかされた。

“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、……”(「知的革命私案14.人情社会組織に改造」)

ここでの〝繋がり〟が〝永遠〟へと転位する自然的な事実を指して、きっと社会学者・見田さんは〝〈性〉は自我を裂開する力である〟とか〝〈性〉がもたらす〟ものだと言うのだろう。
自分らの文脈では、それは人間の考え(=自我)の〝前にあるもの〟で、そこから〝私はない身替わりの行為〟が現れたり〝仲良い楽しい〟情感に充たされたりする。それは自然全人一体に繋がる「自個」である! 自分の中にも誰の中にも、もちろん自然の中に流れてある「自個」である!
しかもそれは〝人と人によって生れ〟、文字通りの男・女性の繋がりから始まり、広い意味での不特定の私とあなたとの出会い、繋がりの実態をも示唆しているやに見える。

かつて実顕地養鶏の場でモミガラなど粗飼料を大量に給餌して、栄養失調などで痩せて卵を産まなくなった鶏と満足そうに卵を普通に産んでいる鶏に出くわした。そんな二つの事実(現象)に直面して初めて浅はか軽率な自分を思い知らされたことだった。
明と暗、成功と失敗の分かれ目はこちら側にあったのである。栄養価値がない繊維質の固まりのようなモミガラに非があるのではなく、粗食をももりもり食べてそこから栄養を摂ろうとする生活力の強い鶏に育ててなかった自分の考え方軽薄な態度にあったのである。
確かにこうした事実は、その何処かに必ずその原因があり、これを取り除く事が出来る筈ではあるのだが、何でも二つある理を知らなかったら安易に〝モミガラ〟が原因である如く決めつけてしまうのだ。もっともこうした他に原因を求める心(=狭い傲慢な考え)があるうちは気づきにくいのだが。
自然全人一体に繋がる「自個」から出発しないともうどうにもならない所以である。

白鳥の子は、〝さあ、ぼくを殺してください〟と湖面(現象)に映った姿を見ることで気づいた。
人の場合は、一週間の〝特別講習研鑽〟を共にすることではじめて見出された繋がりの実態を知ることができた。そしてそこから自然全人一体に繋がる「自個」が共に生きられる仕組み・場所としての〝実顕地〟なるものが誕生したのだった。
ここに理想実現の出発点を置かない全ての革命的な試みは、即挫折や敗北や悔恨に至るのは自明である気がしてならない。

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鈍愚考(44)

じぶんじしんのすがた
みにくいアヒルの子

また二週間の長期合宿研鑽会の終盤に「マッチ売りの少女」や「裸の王様(=皇帝の新しい着物)」などで知られるアンデルセン(1805-1875)童話の「みにくいアヒルの子」を皆で輪読する。
アヒルの群れの中で、他のアヒルと異なった姿のヒナが生まれた。アヒルの親は、七面鳥のヒナかもしれないと思うが、周りのアヒルから、あまりに辛く当たられることに耐えられなくなったアヒルの子は家族の元から逃げ出す。しかし他の群れでもやはりみにくいといじめられながら厳しい一冬を過ごす。
そんな生きることに希望が持てなくなったアヒルの子は、ある春の日なぜか本能的に白鳥のいる水辺へと吸い寄せられていく。

“そのとき、まっすぐまえの茂みから、三羽の美しいまっ白な白鳥が出てきました。白鳥たちは、つばさを、サアッ!となびかせて、水の上をかろやかにすべってきました。アヒルの子は、このすばらしい鳥に見おぼえがあって、なんともいえない悲しい気もちにおそわれました。
「あのりっぱな堂々とした鳥のところへ飛んでいってみたい。だけど、こんなぼくみたいなものがえんりょなく近づいていったら、殺されてしまうだろう。しかし、同じことだ! アヒルたちにこづかれたり、ニワトリにつっつかれたり養鶏場の番をしている女の子にけとばされたり、冬じゅうひどいめにあったりするよりは、いくらましだかしれやしない!」
 こう思って、アヒルの子は水の上におりていって、りっぱな白鳥たちのほうへ泳いでいきました。白鳥たちはそれを見ると、羽をサアッ!となびかせて近づいてきました。
「さあ、ぼくを殺してください。」と、あわれなアヒルの子はいって、頭を水の上にたらして、死を待っていました。――
 そのとき、すみきった水のおもてに、いったい、なにが見えたでしょう? それは、じぶんじしんのすがたでした。けれども、それは、もう、あのぶっかこうな灰色の、みんなにいやがられた、みにくいアヒルの子ではなくて、一羽のりっぱな白鳥でした。
 白鳥のたまごからかえったものならば、たとえ、アヒル邸でうまれようと、そんなことはたいしたことではありません。
 いままで、たえしのんできた、さまざまの悲しみや苦しみを思うにつけ、いまのじぶんの幸福を、しみじみと感じました。”(『アンデルセン童話集1』大畑末吉訳 岩波少年文庫)

自分がじぶんに出会うって、こんな感じなのだろうか。
白鳥の子は白鳥の子そのままの姿で、その通りの姿がパッと映っているにすぎない訳なのだが……。
ことわざに〝瓜の蔓に茄子は生らん〟とある。瓜の蔓にはやはり瓜しか生らない、形が似ていることがあっても茄子が生ることは決してない。
形(現象)の世界に自分らは生きている。ところが形(現象)にも、形が似ている瓜の現象と茄子の現象とがある。そう、現象にも二つあるのだ!
それは底(元)の方から伸びる蔓(筋)が異なるのだ! 底(元)の方から出てくる形(現象)が肝心なのだ。
ところが形が似ている瓜の現象に囚われている状態からは、蔓本来の筋が見えてこない。何か観念が入ったら見えてこない。
幸い白鳥の子は、湖面(現象)に映った姿を見ることで気づいた。そんな口で言い、文字で書いても伝わらなかったことが、ナント形(現象)に現れ出ると誰でも簡単に気づいていく!

童話を読み終わった後、毎回しばらく皆の沈黙が続く。今日まで研鑽してきたことの集大成を意味するとても貴重な豊かな時間が流れる。何かとても奥深いことが語られているのだなあと、各人の心の中でじっくり熟成されていくものがあるのだ。
それぐらいアヒル(=現代)社会の観念習性の中で扶植した〝自分はみにくい〟とする思い込み観念からの脱皮は容易ではない。
それは考えて分かるから、そのまま見る・映るへの一大転換なのだ! 自分を自分から放(=離)す実践テーマとして迫ってくる。

それにつけても、ぼくを殺してくださいと〝頭を水の上にたらし〟、何とそこに一羽のりっぱな白鳥であるじぶんじしんのすがたを見るくだりは、作者アンデルセン自身が味わった喜びの人生がリアルに体現されているようでいつまでも心に残る場面だ。
ネットの『ウィキペディア』によると、

“自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューしたこと、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。”

とも記されてあるが、さもありなんと思う。
それゆえアンデルセンは、あの暗い悲しいみじめな失恋体験を童話作品世界へと昇華したものともいえるだろう。
しかしこの間の研鑽の流れや文脈からして例えそうした現実体験がきっかけになったとしても、現れ出た現象は〝暗い悲しいみじめな失恋体験〟の昇華・延長線上に位置するものではないのでは……。そこでの次元の〝転換〟の機微こそはっきり掴まなければならないのではなかろうかとも思う。
つまりすでにこの作品には、〝失恋も面白いものやぜ〟といったほのぼのとしたもので包まれているそんな自分自身から出発した世界が表現されているはずなのだ!?
こういうことだろうか。
先のウィキペディアの解説にもあったように、愛を愛として届けられず、ラブレター代わりに〝初恋に敗れた悲しさなどを綿々と〟綴ってみたりして相手の女性にふられるといった滑稽で自己愛的なぶざまな自分を曝け出す体験って、アンデルセンならずとも誰にも多少は思いあたるフシがあるのではなかろうか。

事実そうした失恋体験がきっかけになったとしても、作品の中での〝いまのじぶんの幸福〟とは次元を異にするものだ。
そうなのだ。ここに〝さあ、ぼくを殺してください〟と〝頭を水の上にたら〟す精神革命を必要とする所以がある! 人と人との繋がりの中へ飛び込んでいく実践が待たれていたのだ。
そう言えば山岸巳代蔵もアヒルの子にならって家出した一人だった。

“家を飛び出し、ゆくえ定めぬ旅路の宿で、もやが晴れつつある今の私。
地虫が地殻を破って地上にはい出し、せみは飛び立つ。〝死は生〟だ。実行! 実行! まず実行。1957.6.15”(「出精平使より愛妻への手紙」)

山岸巳代蔵は殻を破って飛び立つ蝉の姿に、虫の世界の極楽境を見ている。固い固い醜い殻を破って現れ出たみずみずしい羽根に生の喜びに輝く姿を見ている。またそこに他に求めず自分が先に殻を脱ぐ(=自分の考えに疑問を持つ)だけで現れ出る、愛妻との喜びに満ちた世界を重ね合わせているようなのだ。

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鈍愚考(43)

私はない身替わりの行為
ハワイ

山岸巳代蔵の「知的革命私案」にある、〝アメリカに日本の心が掴めたら〟と題する一文は次のような一節から始まる。

“余剰小麦に剣を包まずに、サンタ爺さんに托したろうに。”

戦後世代にとっては懐かしいあの脱脂粉乳のミルクやコッペパンの学校給食のことを指しているのだろうか。後に脱脂粉乳や小麦粉は戦勝国アメリカが主導するユニセフなどからの援助物資であることを知った。
敗戦国日本の一人として身近に感じられたとても有り難い支援のようにも思える。
ところが山岸巳代蔵は、なぜ

“「日本は狭い、常夏のハワイを自由にお使いください」”

と来なかったのか、と言う? 
もし既成社会の常識観、つまり先の〝特講絵図〟の右側の社会を構成している強者・支配者・力の論理に囚われないで、純粋にあのクリスマスイブの夜に子供たちに贈り物を渡して回るとされるサンタクロースの、贈る心に托したら世界は一変したかもしれないというのだ!
そして続けて、何も甘やかされて付け上がっているものではない。下されと乞うているのでもない。次の時代に住む世界人としての批判から、物の道理・人の情の不可思議さをいったまでの「わがために乞うにあらず」を強調している。
すっかり度肝を抜かれた。こんなふうに悪びれずに発想できる考え方があるのだ! 敗者が強者に対してそこまで図々しく?なれるなんて! いや〝乞うている〟のではないというのだ? だとしたら、いったいどんな立場からそんな発想が湧いてくるのだろう?
一気に惹きつけられた。心を掴むとかその人の心になるとか心を調えるなどの言葉に秘められる深くて広い世界に興味の目が向かった。知的革命と呼ばれるものの計り知れない偉力の一端に触れた思いがした。しかもそれは〝次の時代に住む世界人〟としてのものの観方考え方でもあるという!? 俄然ヤマギシズム理念に興味が湧いてくるのだった。

二週間の合宿研鑽会も後半に入った頃、東京から参加されていた一人の女性がふと「今日までずっと研鑽してきたら、なぜかあの山手線新大久保駅での事故のことが思い浮かんできた」と呟いた。
ドキッとした。彼女が何を言わんとしているのか瞬時に伝わってきた。

山手線新大久保乗客転落事故とは、2001年1月26日泥酔した男性がプラットホームから線路に転落した。その男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンと韓国人留学生が、折から進入してきた列車にはねられ、3人とも死亡した人身事故のことだ。もちろん3人はたまたまその時ホームに居合わせたというだけの他人同士であり、人命救助のために自らの命を投げ出したこの出来事は二人の勇気ある行動・美談として大きく報道された。

そうか、自分らが今研鑽していることはこういうことだったのかと改めて思い知らされたことであった。
では〝こういうこと〟とはどういうこと?
ある参加者は次のような感想文を記していた。

「それと、一体の観え方が自分の中で変化したのが面白かった。私がいて、あなたがいてというようなそれが一体みたいな感覚から、私はあなた、あなたは私、身替わりという感覚になった。……
これは〝私の中のヤマギシズム〟のテーマで、ずーっと二週間皆で研鑽してきたから見えた世界だなぁとしみじみ感じます。こう気付くと、自分一人で、今ここに立っているわけじゃない自分が見えて、自分は何ものだろうと、もしかして何ものでもない自分?と思ってしまいます。」

ここでの〝私はあなた、あなたは私、身替わりという感覚〟や〝もしかして何ものでもない自分?〟といった気づきがとても興味深い。
先(鈍愚考38)に、

“そうした自然界の鮭も人も〝何かに突き動かされるように〟あたかも犠牲によく似た行為を指して、社会学者・真木悠介(見田宗介)さんは〝〈性〉は自我を裂開する力である〟と言っている。この考察はとても刺激的だ。”

と記した。
いわば立替えの形での犠牲によく似た行為、私はない身替わりの行為とは何なんだろうか?
そうした力の源泉を、見田さんは〝〈性〉は自我を裂開する力である〟と言う。
先の映画『おくりびと』の主人公のつぶやき

“「何か切ないですね死ぬためにのぼるなんて。どうせ死ぬなら、何もあんなに苦労しなくても」”

といった行為は、〈性〉がもたらす・現れる世界だというのだ。
もう一人の〝〈性〉がもたらす〟〝もしかして何ものでもない自分?〟がいるのだ!?
あのような状況下で自ずと助けようとして身が動いてしまう、そんな事実その中で誰もが生きているのかもしれない?
ふとある日の研鑽会での話が思い浮かぶ。

“一体観が深まったら、私は子供を産まなくてよいという線が出てくる。山岸さんが「自分はよくない血統だから子供は生まないんや」と言われた人をある席で激賞されたとか……。”

エッ、何を言わんとしているのだろう? そもそも〝一体観が深まる〟って?
人間も含めて宇宙自然界、森羅万象は全て何かで一つに繋がっているという理解程度で分かったつもりになっていた自分には衝撃的だった。
そもそも〝私はない身替わりの行為〟ってなに?

“そりゃあんた、道ででもねえ、どっか、まごついてうろうろしてたら、「あんた何してますか」と、こういうやつね。ねえ、ひもじい思いしてたら、やっぱり、あの、食べさせたいという気持が起るわね。下駄の鼻緒切れたら、挿(す)げてあげたいとかね、或いはめくらが弱ってたら、杖、貸してあげたい、手を引いてあげたいとかね、いざり(足が立たない人)がいったって、おったって、やっぱり紐を引っ張りますわね。そういうもの。ね、見て見ぬ振り出来ないもの。愛があるから、ないからって、そんなもんでない。もう既にそういう、ちゃんと行動に移ってるというかね、ちょうど目にこう、なんか飛んできたら、パッとこう追うようなもんで。そんなもんでしょう。”(「愛情研鑽会の記録」1958.12.9)

もう〝既にそういう、ちゃんと行動に移ってるという〟もんで、〝そんなもんでしょう〟と当たり前のことに過ぎないといった山岸巳代蔵の口ぶりである。
あの傷病の時の、治そうと意識しないでも本能的に自衛的にそれぞれの官能が防ぎ治そうと能(はたら)く〝自然治癒力〟に比するものが、人間の考えの〝前にあるもの〟だというのだ。
あの赤の他人との間に愛が生まれ、しかも遠く離れた人との結合ほど良縁で優秀な子孫が産まれる事実はなにを物語っているのだろうか。幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にあるのだ!?

“第一回特別講習研鑽を共にした、
わが一体の家族、なつかしの兄姉弟妹よ、
わが父・母・妻・子よ”(山岸巳代蔵1956.1.23)

血縁というよりも一週間の〝特別講習研鑽〟を共にした出会い、繋がりの実態に、〝わが一体の家族〟を見ているのだ。
それは例えばシカがライオンに喰われ続ける自然界の厳然たる事実・実態そのものから、本当は何を見ているのかと問われているようなものかもしれない。

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鈍愚考(42)

〝綠〟の産物からの出発
青くんと黄色ちゃん

また二週間の長期合宿研鑽会ではレオ・レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』を資料にして、二つの心・二つの幸福・二つの善はどんなふうに関連し合っているかを研鑽する機会を設けている。

あおくんときいろちゃんは一番の仲良し。ある日、あおくんはきいろちゃんと遊びたくなって、あちこち探し回ってようやく出会う。二人は、「もう うれしくて うれしくて」抱き合って喜ぶうちに、とうとう緑色になってしまう!?
でもそのままそれぞれの家に帰ると、パパとママに「うちの子じゃないよ」といわれてしまう。
二人は悲しくなって泣いて泣いて全部涙になってしまう。
すると青の涙はあおくんに、黄色の涙はきいろちゃんになる!
そこではじめて「ぱぱにも ままにも やっと わけが わかり」、「おやたちも うれしくて やっぱり みどりに なりました」といったストーリーだ。

日頃〝一体経営〟とか〝一体生活〟と呼び習わしては、〝一つ〟ってどんな感じなんだろうかと思いめぐらしているからか、この絵本の丸くちぎっただけの色紙で青と黄とが重なり合って緑になるという現象は、自分らにも人と人との繋がりに潜む世界を暗示する格好の研鑽資料になっている。
なかでもあおくんときいろちゃんの「もう うれしくて うれしくて」の心に想いをはせていると、〝第二の心〟が呼び覚まされるところがいちばんのミソだ。あの思わず琴線に触れる体験から溢れ出てくるもので胸が熱くなる、そんな自分を見た・知った時の嬉しさだ。
その〝うれしさ〟が天真爛漫で遊ぶ〝綠〟の明るい暖かな昼の世界なのだ!
ところが「うちの子じゃないよ」と言われて悲しくて泣いて全部涙になると、青い涙はあおくんに、黄色い涙はきいろちゃんに戻るところが〝第一の心〟を暗示しているようで自ずと二つの心の関連性がすんなり納得されてくるようなのだ。
つまり青くんは青くんのままで綠だし、黄色ちゃんは黄色ちゃんのままで綠なのだ!?
どういうこと?

言い換えれば、青くんも黄色ちゃんも各個性として別々に産まれてきているのも、〝綠〟の産物だからで、その事実から出発すると「もう うれしくて うれしくて」と各個性が合わさる喜びの世界が自ずと現れ出るのではなかろうか。
そこでの青くんと黄色ちゃんが自ずと現した〝綠〟で表現される世界を、自分らは〝自然全人一体〟とか〝人と人との繋がり〟と呼んでいるものだ。
そんな具合に〝あおくん〟や〝きいろちゃん〟に先だってある〝みどり〟の世界を、自分らは〝一体〟のイメージとしてつかまえることができるのではなかろうか?
そんな研鑽を通しての感想に次のような発言があった。

“あおくんときいろちゃんの絵本からの二つの心がある、という研鑽で、青と黄色が混ざって緑になることと青の自分にも琴線に触れる緑の心がある。それが全く別のもので、二つ両方あると研鑽した時に、初めて二つの両方を見ることができました。
これまでは、どこでそうなってしまっていたのか分かりませんが、青の下に心の奥底に緑の心はあると思っていて、いつも青から覗き込むので、その緑は、緑の心そのままには見えなくて、いつもどこまでいっても確信が持てませんでした。今は安心して、全く別の二つの心があるが、緑の心の感じたことを大事に育てていきたいと思っています。”

すごく大事で微妙なことが言われれている。この間の文脈に沿うならば、綠の心の青の自分の心への関連、関わり方についての重大なテーマが投げかけられている。発言に、

“いつも青から覗き込むので、その緑は、緑の心そのままには見えなくて、いつもどこまでいっても確信が持てませんでした。”

とあるように、きっと自分らは、自分主観(=利己意志)から綠の心を見ようとする観念習性のくびきから逃れられないでいるのではなかろうか。
きっとここで発言者が問うているのは、自分主体という〝青から覗き込〟まないで〝綠の心〟に〝一気に裸身で飛び込む〟テーマについてのことだ。先の参画者第一号の明田さんの心になるテーマなのだ。それは誰の心にもある〝綠の心〟を自分の心とするテーマでもあるに違いない。
先の〝第一の心〟(既成社会観念)しか知らない人から見ると、美し過ぎて、きれい事ばかりの歯の浮くような幼稚な考え方に見えるかもしれないといった箇所だ。

しかし未だに幸福感を本当の幸福なりと、悪の反対の善を絶対的な善と感違いしているからだろうか、本当の幸福を追い求めながらも上滑りして〝現実の世界と理想の世界の二分法〟的な考えに陥ってしまう。
先の右と左に分けて描かれてある〝特講絵図研鑽〟にならえば、右側の世界と左側の世界と二つあるを知るというか、二つあることが見えるという心の位置のことだ。
右側の現代社会を多少なりとも肯定のままでは、抜本的にその殻を破らずにいる限り、元の木阿弥に戻ること必至である。
参考までにそんな考え方の典型的事例を、ある絵本研究家のサイトから引用してみる。

“個性とは何か。自分の色なんてものが最初から決まっていて、それが永遠不滅のものだというふうにとらえるべきではありません。今回は緑色に変わったということだけが示されていますが、本来は、自分の個性と他人の個性とが重なり合って、新しい形を作り上げていくことが多いのです。
 さて、二人は自分の家に戻ろうとするのですが、青色の父母は、緑色が誰なのか分かりません。黄色の父母も分かりません。なぜ分からないのでしょうか。これも推察です。二人はもとの自分モードに戻すのを忘れてしまったのです。夢中で遊ぶと別人のようになってしまうことがあります。自分の子どもは本来おとなしい子であるのに、元気な子と一緒に遊んでいるうちにパワフルな雰囲気のまま帰ってくる、なんてことは起こりうることなのです。ですから緑のまま自宅に戻ったということは、すなわち二人は少し違った雰囲気のまま帰ってきたということなのです。
 二人は涙を流してもとのあおくんときいろちゃんに戻ります。それはなぜでしょうか。悲しくて涙を流して、青と黄色、すなわち素の自分に戻る。ちょっと落ち着いて冷静になれた、ということでしょうか。結局は全て変わってしまっていたわけではなく、重なって別の色を示していただけだったのです。「みどりくん」にはなっていないのです。”(「絵本の教育学的解釈」)

ここでは〝素の自分(=自分モード)〟としての個性から出発して、たまたま青くんと黄色ちゃんの個性が重なって仮の〝綠〟になっただけだと解釈されている。
この間自分らは青くんや黄色ちゃんなどの各個性として別々に産まれてきているのも、じつはその前にある〝綠〟というか〝自然全人一体〟の産物だからで、だからこそ二人が日々新しく出会うと「もう うれしくて うれしくて」抱き合って喜び合うそんな〝綠の自己〟を発見するのだと記してきた。
この異いにはたんに解釈の違いの一言で済まされないものを感じて、またくり返し言及してしまうのだ。

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鈍愚考(41)

〝絵図研鑽〟の今日的な意義
特講絵図

岡潔は、大自然からじかに人の真情に射す純粋直感の力、人の悲しみがわかる美しい情緒の流れである〝第二の心〟に想いをはせつつ、無私の心からの情緒と喜びを価値とする「新しい人間観と宇宙観の建設」を目指した。
それはまた人形の中からまた人形が出てくるロシアのマトリョーシカ人形のように、自然の深奥に向かって
“自然は映像である
 眞知の奥に眞情がある
 心情のおくに時がある
 時の奥に眞の自分がある
 私と彼女とがある”
とする見えない・無いものが、写し出されてくる世界の顕現でもあった。

自分らもまた第二の心の源泉を探る中で、何でも二つある具体例として「暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と、二つの逆の考え方がある」を知りつつ日々の仕事作業の中での出来事を通して〝二つの事実〟〝二つの心〟へと拡張してきた。
それでは〝二つの心〟での第一の心と第二の心はどんなふうに関連し合っているのだろうか。次元が異うとか、別の世界の出来事であるとはどんなことをいうのだろうか?
ヴェイユは人格と無人格的なものとの二つは〝深淵でもって距てられ〟ているとも言う。
しかし同時に人と人との切ることの出来ない繋がり(事実)から知る自分を実感すると、なぜか世界は一変するようなのだ。繋がりが自分に取って代わっているようなこの感じはいったい何なんだろうか?

ここで問いたいのは、例えば〝二つの幸福〟で言ったら真の幸福と幸福感での「―と―」といった関連性だ。ヴェイユの、

“悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。絶対的なものには、反対のものはない。相対的なものは、絶対的なものの反対ではない。それは、絶対的なものから出てきたのであるが、この関係は逆にはできない”(『重力と恩寵』)

と言う、絶対的な善と悪の反対のものとしての善での「○と△」という関連性だ。
ここでの○と△の二つが見渡せる場所を意味する〝と〟に立つというイメージをうまく掴んでみようというのだ。
未だに幸福感を本当の幸福なりと、悪の反対の善を絶対的な善と感違いしているからだろうか。本当の幸福を追い求めながらも、スルッと横滑りしてしまいがちなのだ。
例えば今コロナ禍のただなかにあって、「ウイルスは敵である」という「科学という名の宗教」に世界は覆いつくされているかのようだ。
いわば正義感の虜になっている。健康・衛生・防災・公害・差別・法・そこに通底する命……。そんな疑問の余地もない誰からも非難されない正義感に対して、〝正義を研鑽する〟足下の緊急時に迫られているのではなかろうか。単純に〝本当の正義と正義感〟を分離分析して、考える焦点を一つに簡素化して行くだけで不安や恐怖苦から随分と開放されるのではなかろうか。

まず手始めに、今回の本ブログでアイキャッチとして掲載した〝特講絵図〟で見てみる。
資料は『日本のユートピア』(水津彦雄著1971年)から要約して引用した。水津さんは1963年1月2日から一週間実態調査の目的をも兼ねて参加者40名の山岸会の「特講」に参加された。その一週間の記録から拾った。

“ここで〈絵図研鑽会〉といういかにも山岸会らしい場面が展開された。
山岸さんが存命中に、彼の長男の画家(山岸純1930-2000―引用者注)にアイディアを与えて描かせたものである。
右側の現実世界では、軍国調の政治家・経典や骸骨を下敷きにしている僧侶・書物をかかえて転落する学者・酒をくみかわす資本家・デモの労働者が描かれている。
左側の理想世界では、天翔ける裸体の聖女「零位のシンボル」・赤ん坊・少女・白鳥・デートする若い二人など描かれている。
全員が交替で、絵に対する自分の心境を述べることになった。
「右側は自分たちの世界で、左側は幸福の社会。僕の位置づけは誕生した赤ん坊くらいのところかな(元警官の青年)」等々。
ちなみに山岸会側の世話係の一人は次のように言う。
「これまでの暗黒の社会では闘争が絶えなかったし、地位や名誉にとらわれすぎていました。いまは池のそばの若い二人の気持で生活しています」……”

水津さんは言う。示された絵図について各人が感想を述べることによって、その心境変化がテストされるのだと。大学課程であれば、さしづめ学生の卒論に該当しようと。
確かに自分の中にあるものを通してしか見えないのだから……。そんな目に見える世界は、全部目に見えない世界の現れなのだ。
だとしたら尚のこと、〝絵図研鑽〟を通して現実世界から理想世界に転換し得る社会設計の鍵を修得する今日的な意義の大きさに気づかされる。
自分自身の心の奥行きの程度を試してみようではないか。

思いつくままに並べてみる。
何でも二つあるとは、右側の世界と左側の世界と二つあるを知るということか。二つあることが見えるという心の位置のことか。この間の〝二つの事実〟〝二つの心〟についても言えるだろう。
右側の地位や名誉に囚われたり暴力闘争等が絶えない上下・対立的な夜の世界として現れる事実は、その何処かに必ずその原因があるはずだ。
左側の世界には、先の山岸巳代蔵の発言にもあった、

“真理の前には、人間の知恵のきめつけ程無力のものはなさそうだ。知恵でも知識でも本当はわからない。本当の本当は分からない私になる。軽さ気楽さ子供の世界。子供子供して遊ボーヨ。天真爛漫で遊ボーヨ。それだけが願い。”(「会員への第二信」1959.10.10)
“レンゲ、スミレ、タンポポ咲き乱れる野原で、お花摘みして遊ぼうや”(1959.12頃の口述筆記から)

をそのまま絵にした明るい暖かな昼の世界が現れている。 
あの夜の世界で必要とした財産も名誉も地位も身に付けているさえ荷厄介になり身軽になると、「私はあなた、あなたは私」の〝二人の一人格〟なるものが自ずと目に見える現象として顕れるのだろうか。

いやその前に、水津さんのメモにある絵図中央の〝天翔ける裸体の聖女「零位のシンボル」〟についての言及が先かもしれない。
いつも思い浮かぶのは、「百万羽養鶏」(現在の春日山実顕地)への参画者第一号といわれている明田正一(1913-1964)さんの心の世界だ。

“私は絵を見て、右の方は現在の社会の世相を現わし、左は理想社会を現したものと分かった。私はこの絵のような花園が見つかれば、いつなりとも裸身で飛んでいきたい気持だった。”

と手記で回想されている。
あのヴェイユの言う人格と無人格的なものとの〝はるかかなたの、ひとつの深淵でもって距てられた〟領域を一気に裸身で飛んでいくのだという!?
事実1958(昭和33)年「百万羽養鶏」構想が発表されるや否や、二日目か三日目にもう荷物を積み出した。近親知人の猛反対を押し切っての財産整理だった。このことが呼び水となり今日の自分らがある。

とても見晴らしのいいおおらかな気分に満たされる。3D写真のように立体的に浮かび上がってくるそんな世界が確かにある。
しかし〝第一の心〟(既成社会観念)しか知らない人から見ると、美し過ぎて、きれい事ばかりの歯の浮くような幼稚な考え方に見えるかもしれない。

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鈍愚考(40)

自分の考えの前にあるもの
岡潔

その岡潔の数学上の業績を評価しかつ世界に引き出すのに一役買った一人が、

“僕のもの。君のもの。
「この犬は、僕のだ」と、あの坊やたちが言っていた。「これは、僕の日向(ひなた)ぼっこの場所だ」 ここに全地上の横領の始まりと、縮図がある。”(『パンセ』295)

などの警句で知られる天才パスカルに比肩される幼少期を送ったとされる数学者アンドレ・ヴェイユだ。その3歳年下の妹が以前にも触れたシモーヌ・ヴェイユだ。
しかもフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)こそ山岸巳代蔵と同じような精神、筆法で真なるものに迫っている独創的な女性思想家なのだ。

“名前は同じであるが、根本的に別々のものである、ふたつの善がある。悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。絶対的なものには、反対のものはない。相対的なものは、絶対的なものの反対ではない。それは、絶対的なものから出てきたのであるが、この関係は逆にはできない。わたしたちが望んでいるのは、絶対的な善である。わたしたちにたどりつくことができるのは、悪と相関関係にある善である。”(『重力と恩寵』)

ここでの〝善〟を〝幸福〟の文字に置き換えて読むと、『ヤマギシズム社会の実態』の第一章概要「8幸福一色 快適社会」での筆法と同じなのに幾度となく驚かされる。
あの〝二つの幸福〟での真の幸福と幸福感の次元の異いについてのことだ。
どこが凄いのかというと、シモーヌ・ヴェイユと山岸巳代蔵の〝本もの〟像がピタッと一致しているように見えるところだ。
今少し二人からの引用文を重ねてみる。

“人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない”(ヴェイユ『ロンドン論集と最後の手紙』1942年頃)

歴史上に名を残すような偉人たちの中に本ものはなく、名をもたないものの中にこそ本ものがあるというのだ? あの

“金も名も求めず、各自の身に合う仕事で世界中に踊り、天地に愧じない連中には、至る処家在り、食有り、友、吾が子ありです。”(『山岸会養鶏法』)

のくだりでの〝金も名も求めず世界中に踊る〟の中身についての話だ。金を求めない意味も実も日々の暮らしを通じて分かる気がするが、名を求めない領域についてはどうなのだろう? 
そこは〝本質的に名をもたない、もうひとつの領域〟なのだとヴェイユが言うあたりだ。

“他の人がどう思ったとしても、また自分がそうだと信じたとしても、どれほど多くの人がそうだと裏付けたとしても、それらはみな、人間がそう思い、信じたに過ぎず、真であるか、人間の仮想であるか、わからない。位人臣をきわめ、思いごと思い外れずして凡て成り、世のため人のために、われ、なすをなしたり、万民また、その徳を称え崇めたとしても、本当に幸福だったか、ひとびとを真に幸福になし得たと決定して間違いないものだろうか。
徹底究明を試みたいと思う。”(1960年前後の草稿から)

人間の考える前に理(=我の表現の起こらない世界)があって、人間の知恵でこれが理でなかろうかとしていくもので、これが理だと言い切れるものではないが、見つけ出し検べ出していこうとするのが人間の考えであり生き方ではなかろうかと。
そうした「物象面、金より前に、一つある」(「第一回理念研」)ものを基調とした生き様に〝本もの〟を感じ取っていたに違いない。
そこでのヴェイユの言う〝名をもたない領域〟を、自分のやったことに名札を付けて後世に残そうとしない、そんなその時その場で最高に活かされ、それ自体が歓びで、足跡を消して消え去っていく生き様に〝タダの人〟を見て、〝名を求めない領域〟として直感されたのだろうか。
釈迦やキリストやソクラテスや孔子といった多くの人に永く影響を及ぼすような思想や発言に対しても、

“実際はあんなもん出してくれたおかげで、えらいことになったんやで。それぞれの考えやろ?(略)
あれから宗教が出来、盲信が出来たんやでね。そのために人類がいつまででもこんな馬鹿なことやっているのやでね。”(「編輯計画について」)

と〝ヤマギシ大聖人〟が出ることを戒める。
自分らはそこに第二の心が湧いてくる源泉というか領域を見る思いにかられる。短絡的な飛躍になるだろうか?
こうして何でも二つあるから、「暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と、二つの逆の考え方がある」の気づきに驚愕し、〝二つの事実〟〝二つの心〟へと拡張してきた日々に感慨深いものがある。
なぜならこうした気づきの始まりが、
例えば鶏にモミガラや麦糠・粟・稗糠・焼酎粕のような牛も好まぬ粗飼料を与えて、鶏を痩せさせた事実と皆満腹し落ちついてよく肥り恥ずかしいのか真っ赤な顔して満足そうに卵を普通に産んでいるという二つの事実に直面するといった、日々の仕事作業の中にあったからだ。そんな足下に自分を夢中にさせる世界があったなんて、実に愉快でたまらない。
ここでのヴェイユの人格と無人格的なものは岡潔の〝第一の心〟と〝第二の心〟や山岸巳代蔵の〝何でも二つある〟にも重ね合わすことができそうだ。

思えば十七歳の頃、当時文化勲章を授与された直後に記された著書『春宵十話』を読み、そこに記されてあった数学的発見の鋭い喜びに興味を惹かれてか友人らと奈良の自宅まで押しかけたことがある。
その飄々とした語り口での毎日少しづつ数学上の気づきを書き留めておいて後で二年間に一つの割合で一気に百分の一ぐらいまでに濃縮するのだという論文のまとめ方の話が今でも印象深く残っている。

自然が内包する〝第二の心〟に象徴される無尽蔵の豊かさとは、岡潔も言うようにあのおびただしい蛙の卵からわずか一匹の蛙しか残らないように、とても贅沢なものらしい。ましてや人間の知恵で編みだしたものを百分の一ぐらいまでに濃縮するといってもたかが知れているのだと。
ヴェイユの言う
〝わたしたちにたどりつくことができるのは、悪と相関関係にある善である〟
とか自分らの文脈での
〝自然と人為の調和をはかる〟
といった一言に込められる、こうもあろうかと推して考える程度での、その可能性にかけるぐらいが唯一人間でできる、またしなければならない一つのことではないのかと思えてくる。
あのキュリー夫妻によるラジウム発見にしても、ことごとく失敗の末、何と8トンものウラン鉱からたった1gのラジウムを取り出したところにあったという!
そんな自分からの思い考え・知恵より前に、〝一つあるもの〟に想いをはせるのだ。

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