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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

解題の愉しみ(2)

出発点に立つ
子ども子どもして遊ぼーよ

ちなみにこの「金の要らない楽しい村 ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況(具体例その1)」は、以下のような章立てや見出しで構成されている。
◆金の要らない楽しい村
ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況
1 小さな研究会
ある日の農事研究会  大波にのまれる運命
2 方向転換
何か希望の道が……  八木さんの話から
3 新機軸への展望
全員が寄って  会長の真摯な挨拶  何が未解決なのか
4 村造りの研究
楽しい村造りの相談
5 世界革命の口火
どこよりも先に  趣旨はいいが現実は  一つの試みとして

先の〝あの思い出の丘〟の箇所は、〝2 方向転換の、何か希望の道が……〟にあたる。
今度あらためて全文を読み直してみた。そして、理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、その理想実現に生きがいを感じる生き方は、〝あの思い出の丘〟での〝何か希望の道〟が自ずと開けてくる場所を出発点としない限り不可能ではないのかという思いを新たにした。
あえて先回りして言うならば、理想実現への道とはその都度〝あの思い出の丘〟から発して、〝あの思い出の丘〟に還る道筋をたどることではないのだろうか?
こうした自問自答をくり返していると、ここでの始まりの〝出発点〟に立つことの大切さがますます膨らんでくる。
なぜなら人はお互い問題意識がほぼ重なっているように見えても、それだけではいつしか次元の異なる方向へと別れてしまう場合が多々あるからである。
よく皆で研鑽したテーマがある。

“「今が苦しいから楽をしよう」というのと、「今でもちっとも苦しくないが、骨惜しみはしないがもっと合理化しよう」というのと、同じ楽の方向だが内容が異う。
「もっとラクにラクに」と言っていて何時まで経っても楽にならない。遊んでいてもえらい。
どういう状態でも愉しめる心からの現象面解決”

例えば次のような証言もある。

“昭和三十年頃というと山岸会というよりも、山岸式養鶏普及会が活発であった頃だと思います。会へ集まってくる殆どの人が養鶏のようでした。その養鶏も、養鶏の仕組みや目的への興味よりも結果の利益への期待で集まった人が大部分でした。
養鶏がきっかけで山岸会運動やヤマギシズムに興味をもつ人も少数出来てくるわけですが、まだまだこの頃は鶏鶏儲け儲けで夢中の頃で、その間、山岸さんは「どうすれば私の言うことが分って頂けるのでしょう」と題して、養鶏するのも幸福社会実現のためなのに、みんな鶏の儲けだけでとどまって、欲のないこと浅いことですと話されていました。
私達の支部の方へ山岸会が紹介されたのは、腹が立たない・悩みがなくなる・愉快に暮せる等精神的な面からで、養鶏からでなかったことがかえって幸いでした。
後に養鶏をやるようになりましたが、はっきりと〈養鶏は手段である〉としてやることが出来ました。
第一回養鶏特別研鑚会に参加した時、金屋支部の報告をしたのを覚えていますが──精神的なことから山岸会を知ったので、養鶏のことはさっぱりわからないので御指導願いたい。養鶏以外のことで支部を組織しているが、養鶏をやるのならその中で一体養鶏をやりたい──という意味のことを話した所、寝ていた山岸さんがむくっと起きて、
「みなさんどちらがいいですか、いいですか」と連呼されて喜ばれた印象が残っています。
その時その会合へ参加されていた人の中で、現在山岸会活動をやっている人は極めて少なく農業養鶏の消滅とともに去って行きました。”(「前渉行程論2」1973)

いったいどこに原因があるのだろう。人と人とが真に分かり合うことは本当に可能なのだろうか。こうした問いがいつも頭の片隅から離れない。
養鶏するのも幸福社会実現のためだと口にするわりには、鶏の儲けだけでとどまってしまいがちだ。省みてどれだけ養鶏の研鑽会で〝皮だけ持っていく人は実に欲の浅い人で、中味が肝腎であり、その栄養と味が真価です〟と諭されてきたことだろう。
どこが焦点なのだろう。自分は何を感違いしているのだろう。

一つ言えることがある。
理想(目的)に到達するのが難しいのでなく、その理想(目的)への出発点に立つことが容易ではないのだ。つくづくそう思う。
その都度〝あの思い出の丘〟に立ち還ってみよう。

ふとした機縁だった。
妻の初江から〝なつかしい丘へ行きましょうよ。サ、行きましょうよ。〟と強くせがまれて、「よし、行こう」と腹を決めたトタンに心境が変わる新吾。
いつしか身も心も軽やかに数年前の男女青年団長になってしまう!

そして二人は手をたずさえ丘の上に立って大気を胸一杯に深く吸い込むのだ。やる気が湧いてきた。
この〝身も心も軽やかに数年前の男女青年団長〟になりきっての一歩の踏み出しをいうのだ。
ここに起こった見過ごしがちなある微妙な転換、不可思議な機微に、ひょっとしたら理想実現への汲めども尽きぬ源泉があるように感じられて仕方ない。

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解題の愉しみ(1)

あの思い出の丘へ
思い出の丘

1960(昭和35)年4月山岸巳代蔵は昨年7月の山岸会事件に関して〝容疑があるやに聴いて出頭します〟という内容の自意出頭届を出した上で逮捕された。その後津市の旅館で身柄不拘束のまま取り調べを受ける。
ひとまずこれで一件落着かと思いきや、じつはその頃すでにヤマギシ会運動の次への描きがあった。「金の要らない仲良い楽しい村」づくり構想である。
物語風に書かれた口述原稿「金の要らない楽しい村 ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況(具体例その1)」(1960.5)がそれである。

そこには、実顕地なるものはこのような過程を経て生み出されていくであろうとする具体的な実証を、架空の村を舞台にして描き出すと同時に現実も無いはずの〝山田村〟が具現化していくという摩訶不思議な物語である。
当時、和歌山県有田郡金屋町下六川においてはヤマギシ会会員の八軒のみかん農家がかつてない一体経営を目指していた。
その年の10月、保釈中にも関わらず自らあえて下六川の部落(現在の六川実顕地)へ出向いて〝ヤマギシズム生活実顕地〟なるものをこの地上の一角に一点打ち立ててみようではないかと呼びかけてもいた。
そうした「金の要らない仲良い楽しい村」づくり構想とその描きをその通り顕してみようとする現実の動きとが一つに溶け合う、まさに文字通りの進んで止まない〝山田村の実況〟だった。
理想と現実とが一つの直線コースという他に類を見ない興味深い物語である。
この物語は『山岸巳代蔵全集第三巻』に所収されてはいるが、通読された人は少ないのではなかろうか。
それは忘れ去られたからでなく、先(鈍愚考100)に

“物々交換から始まり、貨幣交換経済でのお金を中心に考える考え方からそのむこう側にいる人のことを考えるタダの贈り合いの経済は、お金の存在を取り払ってはじめて浮かび上がる最も進歩した社会(人)でこそ為せる経済革命ではないだろうか。”

と記したように、今後心ある人に読まれるのを俟っている物語であるからだ。
そこで一足先に、心に飛び込んできた場面を軸に金の要らない仲良い楽しい村づくりを解題する愉しみを気ままに試みてみたい。
舞台となる村は

“〈我執旧村勢〉
総面積 長径 八㌔ 短径 六㌔
三方を山に囲まれた純農村地帯。村の中央を国道が東西に縦貫し、五つの小字に区分けされている。中の丸、東口、西口、南出、北出の五つの字よりなり、多い字は125戸、少ない字で55戸。合計 375戸 総人口 1.525人
田 25町歩 畑 32町歩 山林雑地 15町歩 宅地 6町2反歩
中流農家 約60% 商業 35戸 俸給生活者 50戸 富農、貧農 各30戸程度の比較的平和な村であった。”

とされる。
出だしから〈我執旧村勢〉ときた。既に山岸巳代蔵の中には、金の要らない楽しい村の地図が描かれてあるようなのだ。人の心の中にはびこっている我執のジャングルを開拓する道路づくりである。
実際その頃、和歌山県有田群の丹生、糸野、下六川、上六川、黒松、釜中、西村の各部落からなる生石村(後の金屋町、現在は有田川町)の農協の二階では、村の青年たちが毎月集まっては農事研究会が開かれていた。
物語〝山田村の実況〟の冒頭も、〝ある日の農事研究会〟での話題からはじまる。要約してみる。

“誰かが、
「今年こそ五石穫りで、みんなの鼻をあかしてやるよ」というようなことを言った。
「お前は毎年同じようなことを言っているが、それは何年先の今年の秋のことかね?」
「増産、増産といって、そんなにたくさん穫るようになったら、どんなになるかね。人間の方は産児制限や、中絶やといって殖やさないようにすすめているのに、その米は誰が食べるのかね」
「そらそうやな。外国からは安い米が入ってくる。増産すれば売れなくなり安くなる」
「増産増産と一心不乱にたった一つの目標にとらわれいると、増産飢饉の恐ろしさが迫ってくるよ」
「ううん、そうか。食糧増産に牛や豚や鶏をたくさん飼って、肉や乳や卵をたくさん増産したとしても、またそれを食べんならんことになるし、余るものはどこまでもダブついてくる。
米はだんだん要らなくなるか。今でも世界中の人が充分食っている証拠に、みんな生きている。それに二倍、三倍増収したら大変なことになるなあ。しかしおいらが四石や五石、六石に眼を光らせている間に、外国では何十倍、何百倍穫れるようになっている。これではとっても追っつけないなあ」
「自分は前から増産よりも生産費の切り下げを言い続けてきたが、この方でもとても追っつかない。えらいことになっていたのに気がつかなんだなあ」
研究会の人達は呆然とした。何だか絶望感に包まれた。
今まで張りつめていた研究意欲もガラリ地に落ちて、みんな暗い表情で解散して、それぞれ我が家へ帰っていった。”

世界の農業事情は大きく変化していた。日本農業も昭和28年頃を境として食糧危機時代は大きく変化していく。稲の早期栽培の普及、化成肥料、農薬の導入、そして機械化などで昭和三十年以降五年連続の大豊作になる。
一方、農村における農家の次・三男の労働力過剰化問題が社会化していたが、これも豚・牛など畜産を導入する多角農業が推進されていた。

物語〝山田村の実況〟では、研究会のリーダー光村新吾は床に入っても口惜しくて寝つかれなかった。
いつもの研究会は、明るい話題でみんなが研究意欲に燃えてハツラツとした愉快な座談会に終始していたのに、今晩の研究会は変な方向に話題が入ってしまったからだ。
今までみんなを引き立て引き立て、ここまで研究会を盛り立ててきたのに、いっぺんに打ちこわされたような、悲しさと悔しさをどうすることも出来なかった。

“高田のヤツが外国雑誌などを生かじりして、知ったかぶりであんなことを言いよるから、みんなの意気が消沈してしまったのだ。ヤツはいつものように本さえ読んでいたらよいものを、今夜に限ってなぜあんなことをしゃべりよったんだろう。これでは研究会のぶちこわしになる。”

と他をうらむ愚痴がこぼれるのだった。

今日も良い天気のなか考え込んでいる新吾は、考え込んだまま動かない。
そんな夫を気づかった妻の初江は傍に寄りそって、腰をおろした。

“「後生。わたしのお願い。麦も硫安も放ってあの丘へ行きましょうよ。あの思い出の丘ではじめてあなたと語り合ったわネ。楽しかった。将来へのハツラツとしたあなたの抱負、うっとりと聞いていたわたし。愛の囁き。あの広い海の見える、なつかしい丘へ行きましょうよ。サ、行きましょうよ。サ、行きましょう。何か希望の道が展ける……」”

「よし、行こう」と腹を決めると、いつしか身も心も軽やかな足どりで、数年前の男女青年団長になった二人は手をたずさえて丘の上に立って大気を胸一杯に深く吸い込んだ。
すると新吾は「アッ、そうだ」と、頓狂なほど大声を出す。
パッと頭に閃くものがあった。

ここがハイライトシーンだ。ここに山岸巳代蔵自身の万感の思いが込められているはずだ。この間何度も人をうらみ、世をはかなみ、みすぼらしく落ちぶれた自分自身の姿をその都度こうした観念転換で切り開いてきたことだろう。
「金の要らない仲良い楽しい村」づくりは〝あの思い出の丘〟が出発点なのだ!

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鈍愚考(100)

理想と現実は一つ
手渡し

生きる力の元は太陽エネルギーにあり、人間の富の源泉と本質は日光の中で与えられるが、太陽は与えるだけでけっして受けとらない。
そんな与えて与え尽くすだけの太陽に象徴される宇宙自然界の成り立ちに、豊かさの源(みなもと)を見ていこうとする〝普遍的観点〟即ち〝宇宙自然界はみなタダだった〟を知らされた。

あのまつりの一日、例えば
小さな子らが大事そうに一個の卵やプチパンなどを「ハイ、どうぞ」と両手を差し出し、それを微笑んで受けとる心満ち足りた光景。
すべてタダによって誰の心の中にもある〝タダの心〟が呼び覚まされるからだろうか。
心の琴線に触れるものがあった。そんな純粋な気持ちが自分の心の底に息づいていた!
そしてそこからタダの研鑽などを通して
経済用語のいわゆる無料のタダとは次元を異にする〝タダ〟の世界。あの太陽、空気、水をはじめとする自然界の一方的なタダの営みそのものが浮かび上がって来たのだった。

あたかも一切の見返りを求めない、一方的な贈り合いだけで成り立っているような……。
すべてのものを活かそうとする生命力・豊かさだろうか、そこには〝タダの心〟が満ち満ちた世界を実感する思いだ。
タダだからこそ、自然から贈られ、人から発せられる本当の温かさに触れられる。
タダだからこそ、報酬を省みない(タダ働きになる)事を当たり前のことだとするタダの世界に活かされる〝タダの人間〟の姿を見る思いがする。
そんな〝金の要らない〟とか〝タダ〟とか〝放す〟といった簡単な言葉に秘められている奥深さの一端に触れていく驚きがあった。
また同時に人間の観念習性になっている〝個人的、個的観点〟の元の心にある囚われ、つまりお礼や感謝やお金などの見返りで事足れりと平然と人の心からの行為を帳消しにしてしまう、そんな甘い考えにも気づかされた。

先の『お金のむこうに人がいる』の著者・田内学さんも言う。
○経済を考えるときには、お金の存在を取り払って、そのむこう側にいる人のことを考える。
お金の存在を取り払ってはじめて浮かび上がるものがある。

実顕地立ち上げの頃、資金繰りに行き詰まり世話係に相談したら「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と無茶苦茶言われたが、ハッとしてそこから打開策が見えてきたという荒瀬崎次さんの談話が思い浮かぶ。(鈍愚考46)
そう言えば山本作治郎さんも回想していた。
春日山実顕地の初期、やはり資金繰りに行き詰まっていた時に明田正一さんから
「まだ金あるのか、そんなんあるからやりにくいのや。わしは革命をやりに来たんが面白いのや」と言われて、考えたという。(「第一回理念研」)

それにしても経済とお金はつきものなのに、〝経済を考えるときには、お金の存在を取り払って〟単純に〝分けて考える〟なんて、無茶苦茶なこと言っているように聞こえる。ところがそこから開かれる世界があった!

ふと「壺から手が抜けなくなった猿」の寓話を思い出す。
金平糖が入っている壺があった。この壺を見つけた猿が壺の中に手を突っ込んで中の金平糖を取り出そうとするが、金平糖を握りしめたままでは壺から手を抜くことができない。金平糖を手放せば手を抜くことができるのだが、食い意地の張った猿は金平糖を手放すことができない。
あのまつりのテーマ〝放してこそ豊か〟のいったい何を放すのか……?のヒントを、滑稽で愚かな猿の姿を通して知らされる。

今の自分を支える観念に立脚している限り、自らの観念を検べることは出来ない。自分の乗っている羽目板を踏んだままで、取り外そうと苦労するようなものであろうか。
要は〝タダ〟の出発点に立ち、そこからの一歩の踏み出しにある!?

もちろんこれって経済だけの話にとどまらないだろう。
その頃いや現在も続くいちばんのテーマは、理想と現実との相容れない〝二つ〟を自分の中でどう捉えるかにあった。
理想を掲げるほとんどの運動がいつしか観念的理想論に終わってしまい、いつの間にか忘れ去られてしまう。
当初は理想を語ってもすぐには実現しないからと現状を考慮するあまり無理のない段階法でやろうとしたことがあるが、実際はその段階でとどまってしまい次の段階へ入っていけないことが多々あった。曰く
〝まあ将来はそうなるにしても、今現実にはこうしないと困る。まあしばらくの辛抱だ。理想実現への一つの段階としてやむを得ない。なにせ過渡期なんだから……。〟
やはり本来の目的が自己の生活に結び付かない限り、目的そのものがぼやけてしまうばかりか、手段が目的にすり替わってしまうという逆転現象を起こしてしまう。
なぜなら現実的傾向として目的そのものよりも、日々の事柄対応からくる感化の方が影響が大きいからだろう。

とすれば自分らの「真理は一つであり、理想は方法によって必ず実現する」という考え方を元にしたらどうなるのだろう。
理想の日常化が欠かせないのではなかろうか。現実の中に理想と直結するような道筋を見出すことではないのか。
理想を実現する最善の方法はそんな一つの道を歩むことではないだろうか。
つまり〝タダ〟を実行していくために、金の要る社会でのやり方と金の要らない社会でのやり方の〝二本立て〟で行けないものか、と考えていった。

例えば自分らで手がけた卵や肉など生産物を活用者に届けている生産物供給活動は、
○生産物を小さな子らが大事そうに一個の卵やプチパンなどを「ハイ、どうぞ」と手渡しで贈るようなタダで届ける次元
○とりあえずお金を渡すことしか知らない社会でのお金を回収する次元
の二つに単純に〝分けて考える〟ことはできないだろうか、といった具合に。

しかし本来相容れることのない次元の異う世界をその都度どうやって区別していくというのか。つまり理念と観念を分けていくとは実際面でどうすることなのだろうか。
そんなのこじつけにしか過ぎないのではないか?

いや、先の田内さんは言う。
○コンビニのおにぎりが100円で、家族が作るおにぎりがタダなのは、効用の差ではない。家族が作るおにぎりは、まずいからタダなのではなく、お金を払わなくても働いてくれるからタダなのだ。
こうした金の要らない社会と金の要る社会の〝二本立て〟としてあるのだという気づき!

物々交換から始まり、貨幣交換経済でのお金を中心に考える考え方からそのむこう側にいる人のことを考えるタダの贈り合いの経済は、お金の存在を取り払ってはじめて浮かび上がる最も進歩した社会(人)でこそ為せる経済革命ではないだろうか。
急所は、一緒に考えたいと田内さんも問いかける〝みんなの幸せを増やす〟を目的とする道筋は、その目的と出発点が一つの道を歩むところにあるのではなかろうか。
その目的への出発点に立つということ。
こういうことだろうか。

“農業養鶏やる場合にでも、何やる場合にでも、百姓するのでも、商売するのでも、教育でも、子供を育てる場合でも、どんな場合にでも、寝る場合にも、また食べる場合にも、或いは映画を見る場合にでも、散歩する時でも、やはり、すべてが、みんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していく、と、この目的のために、またそういうあり方で進むこと以外にないと思うの、道はね。”(ヤマギシズム社会式養鶏法について1961.4)

そうしたみんなの幸せを心底願ってという、そういう気持ちに想いを馳せる。

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鈍愚考(99)

コロンブスの卵
ステーキの原価は0円

先頃田内学さんという人の著書『お金のむこうに人がいる』を読んでとても愉快な気持ちになった。
というのも毎年の〝タダのまつり〟などの企画・運営やタダの研鑽を通して、そもそもタダとは、お金の要らないとはいったい何ぞやと考えをめぐらす中でやっとたどり着いた一つの気づきに、この若い田内さんは軽々と触れているように思えたからだ。
まずはその辺りの〝気づき〟の一端を並べてみる。

○自然界で生み出された子牛の原価はゼロで人件費と利益以外は何も残らない。
100g500円のステーキ肉の元をすべてたどると、0円の自然資源と、合計500円の人件費や利益に行き着く。
○僕たちはつい、お金を使ってモノが手に入ると感じてしまう。
蛇口をひねるだけで水を飲めるのは、水道代を払っているからではない。見えないところで多くの人が働いているからだ。
○お金のむこうには必ず「人」がいる。あなたのために働く人がいる。
○極端な話をすると、みんなが他の人のために喜んで働くなら、価格は存在しなくなる。
○お金は交渉に使われるだけで、必要不可欠ではない。家の外では必要なことも多いが、家の中では普通は必要ない。
○社会は、あなたの財布の外側に広がっている。僕たち一人ひとりは助け合っている社会の一員だ。ところが、自分の財布の中のお金だけを見て暮らしていると、登場人物が自分だけになる。社会の話が、自分と切り離された話になる。だから「お金さえあれば生きていける」と錯覚してしまうのだ。
○僕たちはつい、お金を使ってモノが手に入ると感じてしまう。
しかし、このときの「使う」は、「消費」ではない。自分の財布の外を見れば、お金は他の財布へ流れていることに気づく。あなたが消費しているのは、お金ではなく、誰かの労働だ。
○働く人がいなければ、お金の力は消えるのだ。
○財布の中だけを見ていると、身の回りの問題から社会問題に至るまで、お金が問題を解決していると信じて疑わなくなる。
○かつて地域社会には、お金を使わずに支え合う経済が存在していた。それはタダの労働だ。自分がタダの労働を提供する時代なら、その目的はお金ではなく相手の幸せだった。
ところが現代社会においてのお金は、他の人の存在を隠す「壁」のような存在になってしまった。
○少子化問題は、助け合いという経済の目的を忘れた現代社会を象徴している。人々が助け合って生活するために経済が存在していて、お金は助け合う手段の1つに過ぎないということを思い出さないといけない、等々。

田内さんはゴールドマン・サックスという会社で働いていた。そこでは、日本政府の借金である日本国債などを扱う金利トレーディングという仕事をしてきた。取引相手は、銀行や保険会社などの金融機関や、世界中のヘッジファンドだった。
2010年、ギリシャ政府が財政赤字の統計を過少に公表していたことが発覚。国の借金である国債を買っていた投資家の信頼を失って、金融市場で国債価格が暴落。ギリシャは国債を新たに発行できなくなり、資金繰りに行き詰まった。この〝ギリシア危機〟がゴールドマン・サックスの内部でも大きな問題になった。紙クズ同然になるかもしれない日本国債を取引し続けていて大丈夫か、と。
田内さんがたどり着いたのは「日本は破産しないし、国債が暴落することはない」という結論だった。
事実、暴落は起きず、ヘッジファンドのほとんどが大損して去って行った。そのときに「お金とは何か」、「借金とは何か」をとことん考えたことが本書の原点だという。

純粋に経済を突き詰めて考えたときに見えてきたのは、お金ではなく「人」だった。
お金を取っ払って「人」を見ようとする、そんな当たり前のことを考えると経済はシンプルで直感的になるという!
こうして田内さんは社会人として直面した「日本政府の1000兆円もの借金の謎」や子ども時代の「ざるそばの謎」を、他人事ではなく自分事として考える考え方で解明していく。
「ざるそばの謎」とは、そば屋を営む両親が作ってくれたざるそばはタダで、お客さんは一盛り400円だ。中には「金を払っているのは俺だぞ」と言わんばかりに偉そうにする人もいた。お金がそんなに偉いのかと理不尽に感じたという話である。

○コンビニのおにぎりが100円で、家族が作るおにぎりがタダなのは、効用の差ではない。家族が作るおにぎりは、まずいからタダなのではなく、お金を払わなくても働いてくれるからタダなのだ。

そうなのだ。あなたのためにタダで働く人がいる! それが

○お金を中心に経済を捉えていると、手段と目的が逆転してしまう。
「働いてくれた人」ではなく「お金を払ってくれた人」になりがちだ。

そんなお金のむこう側にいる「人」の存在に気づくことで、どんな新しい景色が見えてくるのだろう。
お金が無力になり、存在が消え、替わって「人」そのものが浮かび上がる。協力して働くことで問題を解決していることに気づく。みんなが働くことで、みんなが幸せになる。それは家の中でも外でも変わらない。これこそ本来の「経済」の目的なのだ、と。

これぞあのコロンブスがアメリカ新大陸発見後、その歓迎の宴席で貴顕淑女達に囲まれ、「西へ西へと大西洋に船をやれば、陸に着くのは当然だ」と揶揄されて、卓上のゆで卵を取り上げ「この卵を立てることが出来ますか」と尋ねたが、もちろん誰一人立て得る者はない。彼はやおらその一個をとって、一端をコツンとへこまし難なく卓上に立て「やってしまった後では、どんなことでも平凡なことでしょう」とニッコリしたというコロンブスの卵の逸話と同じで、言われてみればなーんだ、と思うかもしれない。誰でも思いつく〝当たり前のこと〟に過ぎない。
お金のむこうに「人」がいるのは〝当たり前のこと〟だ。
そのモノは今でもタダであるのは〝当たり前のこと〟だ。
ところがその何でもない〝当たり前のこと〟を当たり前のこととして、そのまま取り出してみる、考えてみる、あらわしてみることがじつは容易ではないのだ!?

試しにじぶん自身をふり返ってみる。
ちょっとした心の動き、ふっと湧いてくる気持ちがある。でもたいていの場合そんな気持ちなんて人に言うのも気恥ずかしく、〝まあ、いいか〟と自分ですぐ打ち消してしまいがちだ。
そして代わって「それは結構であるが、こちらはそのつもりでも、先方がその気にならないよ」「現実はそんな簡単な話ではない」など自分の身を守るような理由づけなどに置き換えてしまう。

ところが田内さんは、
○経済の目的が、お金や仕事を増やすことから、みんなの幸せを増やすことに感じ方が変わっていく。
と、単純に〝分けて考える〟という知的な観念作業一つで最初に浮かんだ気持ちをそのまま鮮やかに浮き上がらせた。

ふいに視界がひらけ、見晴らしの良い明るさに包まれる。
まさにコロンブスの卵たるゆえんだ。
最後に、そんな〝みんなの幸せを増やす〟目的を共有する「僕たちの輪」はどうすれば広がるのかを一緒に考えたいと田内さんは問いかけるのだ。

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鈍愚考(98)

そのモノは今でもタダ!?
タダのまつり

毎年まつりの前後には〝タダ〟についての研鑽が為されてきた。
すると金が要らないからタダというのと異なる従来の常識観・経済学の枠を越えたタダの用語の意味するものが現れてきたのだった。
一般でタダと言っている金や代償を払わなくてもよい、いわゆる無料のタダとの区分けもできるもう一つのタダが見えてきた。
しかもすでにやってきていることの研鑽だから、実感もともなった発見の連続だった。

はじめて参加した子らに「何がよかったか」と尋ねると「タダがよかった!」と即座に応えた。ある子は「食べるのも美味しかったが、手渡しするのも楽しかった」という。
何か霊感のようなものがひらめくのだろう。ある年の雨降りの中で、帰りがけスリップして動けないでいる車を「お父さん、僕らも散財しよう」と言って後押しする通りがかりの親子姿も見られた。
朝から土砂降りの雨の中でのんびりと憩う姿も見られず、今年のまつりはイマイチだなぁと憂えていた会場設営係の自分には、衝撃の一言だった。

なかでもいちばん人々の心を魅了したは、小さな子らが大事そうに一個の卵やプチパンなどを「ハイ、どうぞ」と両手を差し出し、それを微笑んで受けとる心満ち足りた光景だったのではなかろうか。
ある中学生の感想に「何かあげるんじゃなくて、貰って下さいという気持ちになった」ともあった。
すべてタダによって誰の心の中にもある〝タダの心〟が呼び覚まされるからであろうか。〝放してこそ豊か〟の実際例をここに見る思いがした。
あのまつりのテーマ「散財」とか「タダ」に付けられた
○放してこそ豊か
○宇宙自然界はみなタダだった
○金の要らないすべてタダの社会を一日つくってみませんか
といった一見常識外れな文言に、政治・経済・社会・人生問題及びその他凡てに相共通する理想実現への普遍性が内包されているようにも感じられた。
すべてタダのまつり社会の気風の中で、口で言い文字で書いてもなかなか通じなかったことが、まつりの一日を通して誰の心にも響いていくようにも思えた。

毎年のタダの研鑽は続いた。例えば
○〝買ってきた〟とよく言うが、そのモノは今でもタダ。自然界から口銭は取れないヨ。
だとしたら、いったい誰に代価としてお金を支払っているのだろう?
タダの世界では真価が浮かび上がってくる。代価と真価?
そのモノと観念は本来別物で関係ないのではなかろうか? 
一般通念での人間関係とか交際とかいわれている、交換条件的や報酬期待的な人間の観念界だけで永年通用させてきた観念がある。
この間の「観念と理念を分けて下さいね」とは、そうした混在からの区分けをいっていたのだろう。

それにしても〝そのモノは今でもタダ〟!? 目からウロコだった。金の要らないすべてタダの社会は、お祭りの一日だから実現できたのだろうといった安易な思いが吹っ飛んだ。しかし、とてもすんなりとは受け入れがたい事実でもあった。
というのもむしろ時代は真逆の方向に進んでいるからか、とても見えにくい話だ。
例えば〝宇宙自然界はみなタダだった〟を代表する〝空気や水はタダ〟について山岸巳代蔵はかつて次のように語っていた。

“空気や水を囲って持とうとするのはおかしな話である。
最も大切な水にしても、心なしに軽々しく思っているが、それよりも何よりも生きていく上にも大切な空気はタダである。これが自分の空気だなどと持っていないが、各自の必要に応じて、自由に欲しいだけ使っている。大切なものは、こんなに豊満にあっても飽きがこない。
最も大切な空気よりお金などを大切に思うとは、事の矛盾に気がつかないだろうか?”(1961年)

しかし今や水は、商品としての天然水として当たり前に受け入れられている。代価(お金)で容易に手に入る暮らしの一助になっている。
事の矛盾に気づきにくい社会へと進んでいる。
金の要らないすべてタダの社会は、絵空事に過ぎないのだろうか。あのすべてタダによって誰の心の中にもある〝タダの心〟が呼び覚まされたのは、幻想に過ぎなかったのだろうか。
今ひとつ〝空気や水はタダ〟のもつ深奥に迫れないもどかしさが感じられた。やはりまだまだ〝心なしに軽々しく思っている〟からであろうか。

先のお米の例で、〝自然界の繋がりや心ある人があってはじめてお米が食べられるのではなかろうか〟とも記した。
稲があり、田圃があり、資金があり、作る人があって、果たしてそれだけで食べられるものだろうかという問いかけである。
言い換えれば、本当にお金でお米が買えるものだろうかと。
いったい何の代価を自分らはお金で支払おうとしているのだろうか?

ある日の研鑽会で、
“報酬を省みない(タダ働きになる)事を無上の喜びと感ずる人”
を研鑽した。
タダ働きがなぜ無上の喜びとなるのだろうか、実感が今ひとつ湧かない。続けて

“次の社会には屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等は絶対にありませんし、そんな言葉も要らなくなりますから、他人のお蔭に甘えるわけには参りません。”(『ヤマギシズム社会の実態』)

との一節があった。
そして、甘えるとは人の心からの親切などに対して〝ありがとう〟と感謝したり、お礼の品を届けたり、お金などの見返りで、それで事足れりと平然とその行為を帳消しにしてしまうことだと研鑽した。
ギクッとした。
これこそふだんの自分の考え方であり立振舞ではないのか? なんとうかつにも甘い考えで人の心からの行為を無造作に〝帳消し〟にしてきたことだろうか。
経済用語のいわゆる無料のタダとは次元を異にする〝タダ〟の世界。あの空気や水や草や塵芥が、卵に変わる自然界の一方的なタダの営みそのもの。
無くなってはじめて〝空気よりお金などを大切に思う事の矛盾〟に気づかされるものなのだろうか。


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鈍愚考(97)

かつてない稲田の光景
稲穂の波

そもそもヤマギシ会発足のきっかけになったのは、1950(昭和25)年9月京阪神を中心に猛威をふるったジェーン台風で一望倒伏田の中、一区画見事に立ち揃った山岸巳代蔵の栽培した田の稲の度肝を抜いたかつてない光景にあった!
当時台風被害の実地踏査をしていた農業改良普及員の和田儀一さんのびっくり仰天した顔が目に浮かぶ。早速心進まぬ山岸巳代蔵を口説いて講演会などに引っ張り出した。
また京都地方の孵卵業者の得意先回り中に風変わりな養鶏の不思議な男の話から、名古屋の養鶏専門誌『家禽界』の記者大鹿富彦さんは山岸巳代蔵を三日三晩旅館で缶詰にして小冊子『山岸式養鶏法 農業養鶏篇 前編』を発行した。
巻末は次のような一節で閉じられている。

“〝見ずして行うなかれ! 行わずして云うことなかれ!〟の数語に尽きるものを。ではまた。”

水害で腐っても未だ立っている自分の栽培した田の稲がある。その見たままを、そのままなるほどと受け取って、その現象の奥にあるものに気づいて欲しいとの強い願いが込められていた。
戦後生活がきびしく芋と水の生活さえも続かず、心ならずも自活農業を始めた時期だった。

“これは結構な職業で、反復作業が多く、体さえ動かしておれば、頭はかえって思考が纏まり、好都合なことを発見しました。
なお経営を良くするために鶏の必要なことも解りました。
そこで過去専業時代の養鶏法を、農業に織り込んで、相互関係を一体に結びつけた形態に改組したものを、農業養鶏と名付けたのです。”(『山岸会養鶏法』)

こうして二百羽から三百羽程度の鶏を飼って一町六反歩の小農を営んでいた。
なかでも稲麦作その他に鶏糞を施すことの良いことは周知の事実だった。しかし副業的に鶏を飼いながらの稲作は、その手間や技術などで二兎を追う者一兎をも得ずで永続きしなかった。
だからこそなのか〝相互関係を一体に結びつけた〟手間も技術も要らない農業養鶏が一世を風靡したのである。

後年こうした農業養鶏の〝結びつき〟の良さを改めて知らされたニュースに接して、なるほどなぁと愉快に思ったことがある。
かつて記録的な冷夏による米不足現象から平成の米騒動(1993年)と呼ばれた時があった。
そして米の記録的な生育不良から生じた市場の混乱で、米屋の店頭から米が消える事態まで発展した。この年の全国の作況指数が七四となり、東北地方ではそれを更に下回った。しかも世論はこうした米凶作の原因を冷害を齎した天災に求めて疑わなかった。
ところが、収穫がほとんど皆無に陥った青森県南部地方で、一カ所だけ反当り八俵を超えた農家があった。当時のある農業系新聞は、官民挙げてその原因を品種選定、栽培方法、水管理などの技術問題にあるとしていることを伝えていた。
しかし、テレビで当の農家のKさんは次のように話していた。

“有機質肥料(鶏糞――引用者注)を根に与えるよりも肥料分のあるところへ根が伸びていくように、しかも足りなめに施しています。あとは、稲も家族の一員と思って愛情をかけて暑い日は冷たい水を流すとか寒い日は水を深めに入れてやります”

これは子育てにも通じるなぁとなにか温かなものが伝わってきた。
ずっと農業養鶏をやってこられたヤマギシの会員さんなのだろうか?
今度の凶作は、現象に現れてはじめて気づかされる自然からの警告と思ったものだ。
ヤマギシズム農法では、毎年冬期に反当り五〇〇キロの鶏糞を施し、収穫期に五〇〇キロのお米を受取る。またその副産物の米糠・屑米・モミガラ・藁などはすべて鶏の餌や敷料に活かしている。
そうした稲作があって養鶏が良くなり、養鶏を織り込んだために稲作もなお増収するといった自然の繋がりや心ある人があってはじめてお米が食べられるのではなかろうかと。

ここで興味深いのは、農業養鶏そのものが先のバタイユのいう〝普遍的観点〟即ち〝宇宙自然界はみなタダだった〟という日光・空気・水・土など自然そのものを活かす考え方から組み立てられている諸事実に気づかされることだ。例えば
○タダの日光を活かす
“梅雨期は特に床を絶対湿らさぬよう、かつ引開け天窓等から直射日光を充分取り入れて、鶏体に当てるよう力めます。日光が不足した鶏は、盛夏に影響が現れ、骨格の構成、耐病性等、鶏一生に関係があります。”
“日光なしでも鶏は飼えるが、「どんな時代にも採算とれるように」となると、日光・空気のようなタダの、効果の確かなものが必要になる。”
などと、無料の日光の恵みを遠慮しないで充分頂戴して下さいと強調する。
○土に貯金する
また農地の肥沃化をねらって生産鶏糞全部を自家耕地に施して、地力の繰り越し赤字を黒字に置き換え土地力貯蓄に努めて、稲の根に銀行の役目を托している。
○〝鶏卵肉は田畑から〟の循環関連性
自然界の一体循環の組み合わせを考えて養鶏に合わした、つまり鶏の好む作付けをする。
かくして原価で使用できる〝自家生産・自家消費〟の強みを活かす。
○心の開拓
戦後日本の米不足の事態に直面して、日本農民の仕事は米を豊満にして輸入を止め、価格を引き下げることで、そのために大きな役割を持つのが養鶏だとした。具体的には今の物価指数をこのままにしておいての、卵を5円に引き下げましょうと提案する。続けて
“広い面積と、そこに受ける太陽光熱と水を専用している限り、自分一人の力で収穫したものでない理が判れば、同じ土地に住み、それ丈土地を狭められている商工業者や他の人に、その徳を頒つことは当然で、農産物が豊富に安価に得られ、生活が安定するなれば、安い工業生産品も出来て、農家の必需品を安価に充たし、国外市場も拓け、それ等の人々の生活をも豊かにします。”

と、鶏を飼う身の立場から皆が豊かに仲よくなる社会を齎そうとする意図を明らかにするのだ。
それにしても面白いこと言うなぁ。農家は仕事上〝太陽光熱と水〟のタダの独り占めしているから、〝その徳を頒つことは当然〟だという!? 
自然界から齎される豊かな恵みを自分一人の力で収穫したものだと思い違いしていませんか? 幅(はば)る辱(はずか)しさに気づきませんか、と。
ここで突然の思ってもみなかった精神革命!

ふり返れば口で言い、文字で書いてもなかなか通じないものを、かつてない稲田の光景から〝なるほど、これだったのか〟と気づいて、そうなろうとやってきた運動史でもあった。
知れば知るほどはなはだ奥深く感じられてきて興味が尽きない。

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鈍愚考(96)

初歩的な事実からの出発
チベットの若者

ある年の散財まつりの後その余韻に浸っていた頃だろうか、雑誌で見つけた一枚の写真に魅せられたことがある。そこには「祭りに参加した後、野宿するチベット人の若者たち」とキャプションが添えられていた。
すぐにバタイユの次のような発言が思い浮かんで〝そうか、そういうことなのか〟と得心がいった思いがしたものである。

“今日の社会は途方もない偽物であり、そこでは富(豊かさ―引用者注)のこうした真理がひそかに貧困の手に移し変えられている。……すなわち地面を寝ぐらにして何物にも目をくれぬ人間の手に帰している。”(『呪われた部分』)

文字どおり写真に写し出された〝地面を寝ぐらに〟した満面の笑みは、その時その場で活かされ、それ自体が歓びであるような輝きさえも現しているように見られた。
この間の文脈に副えば
“ボロと水でタダ働きの出来る士は来たれ”(『ヤマギシズム社会の実態』)とか“金も名も求めず世界中に踊る”(『山岸会養鶏法』)を地で行くような姿に映ったのだ。

ここでの〝偽物の社会〟とは、実質物量が豊満な中にあり、豊かさを求めながらも生活感覚では豊かさの実感に乏しい既成の経済・物質価値観に囚われている実態をいうのだろう。大量にあるほど価値観が下がったり、持てば持つほどなお欲しくなる欲望や錯覚観念や損得計算など、この矛盾する観念を一掃しない限り豊かさを享受できないのでは……。

しかも興味深いことに、バタイユはチベット仏教の生産に従事しない僧侶を増やす特異な政策の実施に余分なエネルギーを蓄積や戦争なしに使い尽くす活用の方向性を見てとっているのだ。
そのわけを具体的に数字をあげて論証を試みている。
例えば3人の成年男性の内1人が聖職者であり、7000から8000の僧侶を収容する僧院がいくつもあり、300万から400万の総人口の内25万から50万人の聖職者がいた。したがって聖職者組織の予算総額は国家予算の予算総額を概ね二倍、軍隊の予算総額の八倍を上回っていた。僧侶を中心にしてすべてが回っていた。チベットという国自体が本質的に僧院のようなものだった!
僧院制度は、〝余分なエネルギー〟の一つの活かし方だった。風土の貧しさ、広大さ、起伏、寒冷さが、ここでは侵略はされるが統治されない軍事力なき平和な社会の可能性を開いているのではなかろうかと考察するのだった。

“イスラムは超過分を残らず戦争に、近代世界は産業施設に充てた。同様にチベット仏教は瞑想生活に、この世における感性的人間の自由な遊びに充てたのである。”(同上)

もう一つは当時アメリカの病弊したヨーロッパ諸国への見返りなしの無償援助(マーシャル・プラン1948~51年)に戦争の無い世界実現の方向を指し示している。
こうした見返りなしの〝贈与〟や〝感性的人間の自由な遊び〟が生産に先だって人間社会に課せられているのだというバタイユの言説は、あまりにも逆説的であり突拍子もない事実を人間のあり方に突きつけようとしている。
ある意味痴人の夢、戯れ言、空論高慢な言説ではないのか?
文中での「初歩的な事実から出発しよう」の一節が何度も新鮮な驚きをともなって迫ってくる。

例えばバタイユには太陽エネルギーを源泉とする地球上全体のエネルギーの〝流動〟という普遍的な視点に立って見ると、人間の経済活動はもちろん心理学も哲学もさらに芸術活動も凡て生命の沸騰として表出された余分なエネルギーの運動の現れであると理解されてくる。
いや、人間そのものが火が燃えているのと同じだ。そしてローソク燃え尽きる時、自然になくなるように。科学するとそこまで分析された。
ではなぜ人は、欠乏感や不安から他の人と資源の奪い合いに終始するのだろうか。多くあるが故に守らんと戦争に駆り立てられるのだろうか?
それは〝個人的、個的観点〟から出発しているからだ。孤立的存在に閉じこもっているからだという。

“個的観点から出発すれば、問題は第一に資源不足によって提起される。もしも普遍的観点から出発するならば、問題は第一に資源過剰によって提起される。”(同上)

この間のあり方、理念から入るという小難しい概念が一気に身近に感じられてくる。
しかしそんな〝個人的、個的観点〟から〝普遍的観点〟のそれへ移行することは、まさしくコペルニクス的転回を実現するに等しい。すなわち思考の―そして倫理の裏返しを実現することだとバタイユはいう。それは人間の生そのものと宇宙の存在が結びつかなければ実現されない! 

“即座に、一切が解決され、一切が豊かになる、宇宙の尺度に合致した、精神の自由のかたちをとる行き方”(同上)

〝精神の自由のかたち〟? それは〝何一つ持たない意識〟なのだという?
これまでの生産への専念が戦争に行き着くという視点。却って戦争なしに消尽すること、つまり見返りなしの〝贈与〟や〝感性的人間の自由な遊び〟など、こうした大胆なエネルギーの使い道を人は重視してしすぎることはないだろうとくり返す。

使っても使っても減っていかない宇宙自然界から注がれている豊かさをそのまま享受出来ず、逆に不合理な非生産的消費や無益な損失として呪ってきた近代人。エネルギーの余剰は、一般社会常識では邪悪な部分、罪ある浪費、無益な部分を作りだしているように見える。それは嫌悪感をも催させることである。
そんな生産と蓄積に専念する個的観点からの呪うあり方が、余剰を悲劇(戦争)へと駆り立ててきたのではないのかと。
言い換えれば、支配欲・所有欲に導かれてのみみっちい消費を自分の中で意識できていない人々の中に、持つ意識(所有)の害毒を見てとっているのだ。
というかバタイユ自身が切実に欲求したのが、この私を燃え上がらせている〝呪われた部分〟の害毒からのコペルニクス的転回だった。
はげしくこみ上げてくるものがあった。

“私というこの自我 こんなものは何でもありはしない”
“私を私から解放してくれ、私はもうこんな存在を望んではいないのだ”(『内的体験』)

事実太陽エネルギーを源泉とする地球上全体のエネルギーの〝流動〟という普遍的な視点に立って見ると、私もまたエネルギーの〝流動〟の一部であるのだから。
こうしたバタイユのチベット仏教などを「歴史的な資料」として取り上げながら人間にとっての〝本当の豊かさの源(みなもと)〟を究めようと果敢に挑む姿勢から熱く喚起されるものがある。〝個人的、個的観点〟の元の心にあるものを問い続けてやまないゆえんだ。
戦争が無くなる道がここから始まる。

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鈍愚考(95)

戦争が無くなる道
散財まつり

チベット高原の過酷な自然の中に突如出現する光景に何故ここまで惹きつけられるのだろう?
あの、自分の先入観が吹っ飛んだ感じ。信じられない光景を目の当たりにして次元の異う世界に一気に飛び込んだ感じだろうか。
そうか! これって自分らの〝ヤマギシズム散財まつり〟(1986~1997)の光景なのだ! 一瞬にして万を超える人々の心の琴線を揺すった数々の光景が昨日のよう甦ってくる。
たしかテーマは「散財」とか「タダ」とかだった。
○放してこそ豊か
○宇宙自然界はみなタダだった
○金の要らないすべてタダの社会を一日つくってみませんか
まつり当日は目前に、十万個の卵を富士山に見立てて積み上げた「卵富士」や紀州みかんで財を築いた紀伊国屋門左衛門のみかん船を模して夏みかんを積み上げた「梵天丸」等々で、まるでお伽の国のようだと参加者を魅了した。

しかし単純に考えて、散財して放したら、後は何も残らず貧しいだけではないのか?
どう考えても腑に落ちない。何で放したら豊かなのだろう? 今ひとつ実感が……。
いったい何を放すのか……?
その頃出会った書が、フランスの哲学者、思想家、作家ジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の『呪われた部分―普遍経済学の試み』(生田耕作訳)だ。まるで自分らのまつりの一日を考えてもみなかった視点からうまく言い当ててくれているようで実に痛快だった。
バタイユは〝宇宙エネルギーの流通の表れ〟つまり〝生命の沸騰として表出された、過剰エネルギーの運動〟の観点から人間社会のあるべき姿を描こうと試みている。どんなことなんだろう?

その聞き慣れない言葉からはじまる考察は、貨幣経済から贈与経済への移行を提案したとされるフランスの文化人類学者マルセル・モースの『贈与論』(1925年)からの影響や友人の物理学者からの当時最新の研究成果に拠りながら編み出されたものだという。
それは宇宙自然界の生命現象=生きる力のもとは太陽エネルギーにあり、人間の富の源泉と本質は日光の中で与えられるが、太陽は与えるだけでけっして受けとらない。しかもその生命の維持に要する以上のエネルギーを〝生命体〟は受け取る。つまり
○人間という存在自体が最も豪奢な燃焼そのものだ。
○太陽がエネルギーを獲得することなくエネルギーを放出し続ける条件を、私たちは理解していない。
それゆえ問われるのは絶えず
“存続するエネルギーの沸騰をどう始末すればよいのか?”という〝普遍的観点〟からのテーマのみであるというのだ。

バタイユが生きた20世紀前半は、まさにそのことが明らかになる量子力学の黎明期、物理学史の大きな転換点でもあった。
文中での「初歩的な事実から出発しよう」との一節が新鮮に響いた。
事実そうした生命の維持に要する以上の余分なエネルギーの活かし方は、古代社会は〝人身御供〟など祭礼のなかに見出した。また有用性を持たぬ見事な公共建物を建立した。我々近代人は、超過エネルギーをサービス産業の多様化や無為の時間を拡大することでその一部を消費する方向に向かっている。
だがこうした回避策はいつも不十分だった。それゆえにいつの時代も、多数の人間と大量の有用資材を戦争という破壊行為に投じてきたのではなかろうかとバタイユは考察するのだ。

この書が刊行されたのは第二次世界大戦直後の1949年だ。バタイユはこの著作に18年の歳月をかけた。時代は米ソ東西の冷戦から核戦争に突入する前夜の危機感に満ちていた。
そしてこの間の戦争(第一次、第二次)とは、戦争をただ批判したり人間の道徳・倫理観を正すだけでなく、〝余分なエネルギー〟の活かし方を間違えた結果生じたのだと指摘する。
地表上は〝余分なエネルギー〟で満ち溢れている。それを戦争とは異なるやり方で解放せねばならないと強調するのだ。
こうした宇宙自然界の理を無視して、多くあるが故に守らんとする人間に〝災いあれ〟と〝思考の――そして倫理の裏返しを実現する〟ことが要請されているのだという?
ああ、それで必然

“いっぺん戦争でもして生産を減らし、焼き合い殺し合いでもしない限り物が多くなりすぎて人間の住む場が狭くなる”(『金の要らない楽しい村―ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況』1960.5)

と物が多くなる前にやることがあると山岸巳代蔵も言い続けたのだと納得されてくる。
かく言う山岸巳代蔵も、ときあたかも人類間対立の最後的氷解をうかがった米ソ巨頭会談(1959.9)が実現し、東西冷戦が緩和される雪どけ気運の中で、〝明暗二道への岐路に立つ危機〟と強い警告の意味を込めて事件後の潜伏先で次のように書き綴る。

“一人で持つか、みんなで持つか、きめつけを持つ両陣営。ともに、持つ世界肯定ではないだろうか。いずれも持つ観念の者が同調した、頑迷の世界に統一された時のことを真剣に考えよう。”(1960.1)

と持つ世界(所有)と持たない世界(無所有)、何れが本当に正しいだろうかと焦眉の急を告げるのだった。
心の解決をしないまま物が豊かになることの危なさを強調するのだった。豊かになると〝これでよいのや〟と信仰的なものに入りやすい。〝持っていなかったら〟、という観念から解放された豊かさ・楽さを言わんとしているのだろうか。

ともあれまつり当日当たり前のように飛び交った〝タダ〟とか〝放す〟とか〝持たない〟とか〝譲り合い贈り合い〟といった言葉が毎年のまつりの一日を通して、上辺だけの言葉でなく実態そのものとして感じられてきた。
バタイユは言う。

“もしわれわれが余分なエネルギーを自分の手で破壊できなければ、それは活用されようがないからだ”(『呪われた部分』)

このくだりでの〝自分の手で破壊〟って、ひょっとしたら自分らの用語でいう〝放す〟実践のことではないのかとイメージされてきて気持ちが高ぶった。
こうした〝持つ〟とか〝放す〟とかいう言葉の奥にあるものに触れているうちに、そこに戦争が無くなる道が指し示されているような予感さえしてきて胸高鳴るのだった。

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鈍愚考(94)

一つの夢を共に追う
ラルンガル・ゴンパ

今年のゴールデンウイークにテレビで中国・四川省の山奥で1万人以上が修行するというチベット仏教僧院ラルンガルの今を放映(再放送)していた。
何だ、これは!? 標高4千メートルのチベット高原の広大な斜面に修行僧が住む何千もの赤い木造の小屋(僧坊)がぎっしり埋め尽くしている光景には度肝を抜かれた。
こんな凍てつく高原に、ここまで惹きつける引力のようなものはいったい何なのだ?
時空を越えた人間観念の集積! その熱意・熱願精神の内実は何なんだろうか?
強い興味にかられてWebで検索していたらアジアのドキュメンタリー映画を配信する動画サイトで、同じラルンガル僧院の近くにあるヤチェン僧院でも1万人以上の尼僧が修行に励んでいる姿を追ったドキュメンタリー映画「仄暗く赤い森」(原題:Dark Red Forest 2021年製作)に辿りついた。
仄暗く赤い森

ここでは厳冬期の100日間は、各自屋外に建てた半畳くらいの掘っ立て小屋で隠遁生活を送る。導師に心を委ね、内省と瞑想を繰り返す日々。経典を学び、どこまで勉強したかを試される。
祈りを捧げる尼僧たち、互いに励まし合い、共同生活を送り、マニ車を回し続けながら尼僧たちはここで生涯を終えるという。
次のような導師とのやりとりがあった。
「私は遅すぎるかもしれません。修行しても〝私〟というものが何なのか分からないのです」
「修行とは唱えるだけではありません。行動に移すことが大事です。自分が生きる意味を理解することです」
他にも導師からの
「先入観を捨てなさい」「理解が深まるようにさらに励みなさい」「焦りや怒りを乗り越えるのです。命尽きるその日まで」「あきらめないで」……
といったメッセージが続く。なかでもいちばん心に残ったのは、冒頭でのある一人の尼僧の声で発せられた次のような発言だ。
「この世に本物の苦しみは存在しない。心が囚われるからこそ苦しんでいる」
そうなんだよなあと、他人ごとではなく身につまされる思いがした。同時にまた、一つの夢を共に追っているような近親感を覚えた。

またネットではこれら僧院への現在外国人立ち入り禁止やチベット族の遊牧民の移住・集約・観光地化が進められるなど、中国政府の宗教活動への監視が強まっていると伝える。
心の平安を切実に欲求する尼僧たちの生き方を追ったこのドキュメンタリーでも、2018年冬多くの尼僧たちは夏までに僧院を去るよう政府から勧告を受け、故郷へ帰れない行き先のない尼僧たちがそれぞれ仲間たちと別の地で暮らしを始める様子が記録されている。
濃い赤のローブをまとった尼僧が小鳥にエサを与えながら「逆境を受け入れることで、はじめて思いやりが持てるようになった」とつぶやくシーンもあった。

もっとも政府からの介入は今に限らず文化大革命時(1966~1969年)も、全チベット六千余の寺院で日々燈明をあげるために何トンものバターが燃やされていることが槍玉にあげられ、貴重な栄養源を煤にしまっていると激しく攻撃されたという。
人々は家で食べるバターを減らしてでも仏に供えようとしていたのだ。だが政府は目に見えない心の平安という価値観には全く耳を貸そうとはしなかった。
そう言えば以前中国河南省の洛陽・龍門石窟を訪れたとき、多くの石仏の顔や手がそぎ取られていた。

ふと〝心の解決できた人〟の心ってどんな?といった思いが湧いてくる。
一般には〝物の豊かさ〟〝心の豊かさ〟などで表現される心の世界のことだ。その心の面の解決のことだ。

“投機やバクチまでやった人はちょっとおもしろい。肚が出来てるというか……。誰でも底にあるから、そういう体験――そこから気づいていけるものだが――それのある人は話が通じる。早い。破産して立ち上がった人は強い、絶対線を持っている。まず心が出来てからは強い、安心。安心から出るものは軌道に乗っていく。よし失敗しても、それを体験として生かしていける。”(「ヤマギシズム生活実顕地について」 1960.10)

ここでの〝心が出来て〟からの心についてのことだ。しかし今ひとつ頭の上の理解に止まって、肚というか実感が伴ってこない。今さら〝心の豊かさ〟なんて、と小バカにしていることが多いからだろうか。
先述の荒瀬さんも次のようにふり返る。

“山岸さんから聞いた話だけど、「山本英清さんが、ワシはもっと賢い人間やと思っていたけど、なんとアホやったと、この頃わかったといってたが、そんなふうになったら本物だ」といっておられました。私も昔は、口では自分はバ力な人間だといってましたけど、本当は心の底からは……。”(『ボロと水』第4号1972年)

ここで山岸巳代蔵は、〝心の友〟山本英清さんに自分自身の心の世界の体験を見ているにちがいない。
〝誰でも底にある〟ものからハッと呼び覚まされた。それまで邪魔していたものがスカッと溶けてしまった。あれから楽やったわ、と。
さきの尼僧の言葉
「この世に本物の苦しみは存在しない。心が囚われるからこそ苦しんでいる」
が響き合って聞こえてくるようだ。

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鈍愚考(93)

理念から入る観念?
越冬した渡り鳥

先の荒瀬さんの体験談にもあったように、自分らの来し方を振り返ってみても無茶苦茶、奇想天外と思われること言われて、一度は否定しつつ、いや、そういうことも事実できるなればやってみよう、やろう、どうするか、の連続だったような気がする。
そんな意表を突く〝無茶苦茶〟と感じる中にいったいどんなドラマが展開していたというのだろうか。
幸いにも山岸会誕生(昭和28年)以前に出会い山岸巳代蔵に〝心の友を得た感じ〟と言わせた山本英清さんとの〝真理問答〟が交わされている記録(「第一回理念徹底研鑽会」1960.7)が残っている。要約紹介してみる。

山本 あなたは観念で「愉快だ、楽しい」と言ってても、理念で検べると自分だけのあやふやなものが出てくる。だから理念からいった方が、つまり真理即応でいけば簡単にいけると言う。しかし真理だと言うのも私の考え(判断)ではないのか? そう思うと私の把握している真理があやふやになってきてね。
山岸 真理だと思う段階ね。絶対真理だと決めて動かさない、そこが違うと思う。
「これが真理だ」なんて、キメつけられないものと前提して、より良く、より正しくの連続かと思う。何百代人間が代わっても、それかと思うけど。
山本 あなたは著書で
「人は、人と人によって生まれ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一代限りとの考えは間違いなることが解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ真理に相違なく」(『ヤマギシズム社会の実態』)
としているが、そこに一種の〝信〟という気持ちが……、信仰に関連する確信があるのと違うか?
山岸 断定している、確信している。ところが「絶対変わらない」と固定して動かないものを持つ自分と、「或いは変わるかも分からない」とする、一応の断定・確信を持つのと違うと思う。
固定がないかも分からないとする、それの連続。
山本 でも私の言行に発する時、力強いものを持とうとする時、「どうかこうか分からない」ではあやふやで、「そうかどうか」でなく、実行する時はやはり、「そうだろう」が強いと思うが。
山岸 それはそうでしょう。ずるいのと違って、正直、本当のところ、そうしか自分の心が言えない。「こうだ」と言えないから強い。「思う」から強いの。
「間違いないかも分からん」という時は、うんと強く出られる。
山本 これを人に言っても、なかなか……。
山岸 そうそう。今はほとんどキメつけの世の人に、おそらく、「つまらん、あやふやなもの」ととられる恐れは十分あると思う。
じっさい汽車に乗る時の、あの不安定の安定状態なのかな。(命をかけたつもりでいるのに案外かけていない場合が多い。汽車に乗る時の、命をかけたと思わんでも命のかかっている時が多いといった意味か――引用者注)
正しく見られるか見られんかは別として、「正しく見ようとする」に立ったらよいという程度かとも思う。”

よくぞ「真理だと言うのも私の考え(判断)ではないのか?」と、突っ込んだ質問をぶつけてくれたものだ。英清さんありがとう。
ここでの理念とは「真理に基づいた考え方、即ち真理に即応した観念」とも定義される。この間の〝暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と二つの逆な考え方〟があるように、人間の観念にも二つあるというのだ!?

観念(理を忘れた観念)と理念(理に立った観念)だ。
同じ仲良しでも、事柄だけの仲良しでなく〝真理だと思う〟との理念から入っていく本当の実態といえる仲良しでこそ、本当に楽に暮らせるのではないかというのだ。
エッ、どういうこと?
ただもう〝仲良かったらよい〟〝健康だったらよい〟だったら危ない。生産物でも〝葉や実があったらよい〟では大変だと言う。
いったいどこがどう大変なの? 分からないことばかり。「観念と理念を分けて下さいね」と言われても……。
一例として山岸巳代蔵は、山本英清さんとの〝心の友を得た感じ〟を英清さん自身に語らせる興味深い記録(「第六回理念徹底研鑽会」1960.10)がある。

山岸 もうちょっと端的で分かりやすい例、実話、感想を言ってもらったらと思うけど。英清さんが、今は知らんが、前に何回か行った時分、畳が破れ床が落ちるといった状態やったね。着物引っかけて破る便所だった。あの時の英清さんの気持がどうだったか。奥さん、息子さんの気持はあろうが、ああいう状態の時、英清さん自身は心の状態がどうだったか言ってもらったら。
英清 そう言われると、細かく分析して言えんが、心にかからなんだのは事実だった。あの時分、収入ないし、子供も家内も苦情言うたりしたけど。
山岸 借金もあるし、親戚も反対の中でのあんた自身の気持は?
英清 希望持って、「これが立派になるから」のそれもなかったが、面白かった。
山岸 世評も悪かったで。”

英清 ある時、客が来てる時、電灯切られて真っ暗だった。客は憤慨してたけど、子供も平気だった。ローソクで客に飯食わしてた。電灯切った時、私はむしろ愉快やった。
山岸 本当に面白いのやろと思う。その気持よく分かる。”

同じ体験をしても二通りあって、それはどういう訳で分かれるか、とふり返る。そして

山岸 同じこと何回もいろいろの例を言ってても、同じこと言ってんのやけど……。
これは、希望が持てたから、或いは生活水準が良くなったから、或いはそれが見えてきたから楽しい、そんならそれが崩れたら暗くなる、苦になるのと、どんな事態がきても苦にならない状態にあるのと、全然異うと思うの。「希望が、或いは財物があるから」というのと、「どんなに条件が悪くても、現象面の如何にかかわらず、心は……」という、それの体得というやつが、もう一つこの、「なるほどそうやな」と頭の上のと非常に異うと思う。
面白いことに、特講へ来て、くすんで暗いことばかり見ている人が、借金なしにしたわけでないのに、カラッと明るくなる、とたんに身体も健康になる。明るく見えるのもどうかしらんが、暗く見える、それは何がそうさすものかというものね。何でしょうな、それは。同じ事態なのに、瞬間で明るく見えたり暗く見えたりする状態ね。ま、肉体は疲れなどあろうが、ちょっと観念の転換でパッとそうさすもの。その観念は、どういうものがそうもっていくものか、と考えたいの。(……)
そら毎日変化し、進歩・発展していくのは大きな喜びだが、崩れる時もあり得るということで、その時に失望・落胆しない。〝山〟(山岸会事件の舞台となった現在の春日山実顕地―引用者注)のあの中で、状態が同じの中で、「つまらん、つまらん」と言う人と、あの中めがけて、「この中こそ、喜び感じてやれる」と、何も暗く見ない人が何人かあったと思う。それがなかったらあの〝山〟はおそらく目茶目茶になったと思う。そこで暗く見る人と、そこのとこやと思う。”

と山岸会事件のその後の切り抜け方にも言及されていく。
あの事件後経済的に困って芋蔓を食べる耐乏生活をしてきた。そこでの忍耐力は身についたであろうが、それだけに止まらず白眼視された中でも、やっぱり自分らの初志貫徹で、ああいった事態を切り抜けたという実感を伴うところまで大勢の人が味わった。先述の荒瀬さんの切羽詰まった時になり、そこから行き詰まりを切り抜けたというあの実感を伴った体験にも重なるようだ。
そこには〝それだけに止まらず〟、もう一つそこから開けてくる〝面白かった 愉快やった〟世界があった。
いったい〝どういうものがそうもっていくものか、と考えたい〟というのだ。

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鈍愚考(92)

〝そんな無茶苦茶な〟
自由なる生活

こうした〝心の世界の体験〟を通して成功型と失敗型に別れる〝二つの事実〟を明示しつつ、二つの事実の意味するものを尋ねる日々が続く。
しかももう一つの〝私の鶏舎〟のよく産む事実は、常識的には考えられない飼養法から生まれたものだった。

“暑さに弱い鶏にトタンの一枚ぶき、屋根の軽い台風に弱い丸太の釘付、奥行の深い陰気な鶏舎に運動場もなく、冬風寒い金網の吹きさらし、早起き好みの鶏に朝日当らず、南のつまった北の空いた環境の悪い鶏舎で、卵のよく産む白レグ嫌って雑種を飼い、火力給温せずに消化の悪い固い小米に固い草、餌はやり放題で、水はドロドロでも取換えず、扱いにくい大群で、中雛時代に一ヵ所に群棲さす。
 大雛ともなれば喰込み激しく、これはたまらんと一文惜しみの百知らず、これからという時に無茶な餌喰わし、卵よく産んで体のやせる時にこんな餌でも産むといって餌の質落とし、卵も産まず儲からない時に高い餌喰わし、百羽以上の大群に産卵箱は唯一つ、糞掃除せず積り積って悪臭紛々?
 鶏舎をゴミ箱と間違えて、給餌は一日一回、それに二ヵ月に一回投込みが大技術とか、水鉢は糞と青モでドロドロ。これでは卵は産む筈もない。
 然るに会は永久に責任を持ちます、最新の原子時代養鶏法だと威張り、技術はいりません、精神で飼えますよと神懸り的な世迷い事を並べたてています。またこれに同調の狂人共がどんどんと増して行くとは私もう頭が変になりました。何とかして頂戴。(ひねくれ者) ”(「世は正に逆手なり」1956.8.5 農工産業新聞)

この年の一月、一週間の第1回「特講」が開催されて以来毎回の参加者は百名を越える盛況ぶりだった。
そうした中で掲載されたコラム記事だった。一読してこの〝ひねくれ者〟氏の独特のリズミカルな言い回しに強く惹きつけられた。
そうか、そうなのか。オレも気狂いの一人なのかと、とても愉快な気分になった。後に養鶏の研鑽会で一句一節づつに込められた計り知れない〝自然〟の妙を知らされた。自然はよく出来てるなぁ。
しかしなにかもう無茶苦茶な言動ではある。

ふと北条実顕地の荒瀬さんの体験談(『山岸巳代蔵全集』第四巻(「北条実顕地の始まりと山岸さん」)が思い浮かんでくる。
実顕地を始めた当初、資金が底をついて係の人に相談したら「鶏に餌をやらんならんということを頭から外して考えたら」と言われて、そんな無茶苦茶な、鶏を飼うとって餌やらんでよかったらこんな苦労はしないと思った。
でもそこで腹がすわった。ハッと気づくものがあった。そこでその気になってやってみようと、卵を産まん鶏を探し売ってしのいだりして何とか切り抜けてきたという。
そんな〝心の解決できた人〟、貧乏しても何ら動揺しない心になってこそ成せる世界があったのである。

また一週間の「特講」が開催されてしばらくして「私の旅日記」と題する一文が機関紙『快適新聞』に掲載された。妻子も家も財産も顧みず、新しい世界に一歩踏み出した山岸巳代蔵自身を始めとする会員らの心の世界の体験をそのまま写し現したものとして読める。例えば次のような一節。

“×月×日
私の田んぼの広さに驚いた。私はまいた覚えのないのに、行く所、いたる所に、麦、菜種が色づき、うれている。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが、麦の収穫を始めていた。私は突然麦刈りがしたくなった。畔端にあった鎌を手にして黙って刈り始めた。叱られるかな、と思っていたところ、〝すみませんね〟とニコニコしている。「昼食を食べよ!」と強要される。「助かりました」、「ありがとう、ありがとう」と、また夕飯を強要され、風呂と座敷と、柔かい夜具と、寝泊りまで強要される始末。(略)
いたるところにわが家あり、田あり、山あり、畑あり、工場・商店・倉庫あり、倉には米・金無尽蔵。(略)
全人の幸、思うものにゆき詰りなし。
はてしなく広がるわが世界。人生これ快適──。(私心がケシ粒ほどあっても、必ず下界へまっしぐら)
ゆめゆめ疑うなかれかし。1957・7”

きっと誰もが感じるであろう、あの「特講」受講直後の何とも言えない晴れ晴れとした心境が、事実そのまま〝私の田んぼ〟の無限大的な広さや豊かさにまで拡張されている! 
しかしどこへ行っても、我が家ありの、タダ泊まりタダ食いの寝ぐら定めぬ旅ガラスなんて、これまた荒唐無稽、無茶苦茶な話ではないだろうか。
またある日(1977.3頃)の研鑽会で、

“古諺より
実顕地生産物
 肉より産れるものは肉 霊より産れるものは霊”

という一節を研鑽した。
食品公害が社会問題になる中で、安心安全な卵や肉を食べたいという消費者の求めに応えるようにヤマギシの生産物が注目されつつあった時期のことだ。
例えば卵一個は一個だという考えで一円でも安い方がという世相から、質に皆が関心が持ちだした頃だった。
それだったら、まず食卵よりも孵化すればヒナが正直に一番良く証明してくれる種卵、ヤマギシの有精卵としての供給活動が始まった頃である。
そうした生産物の持つ価値を、肉と霊の異いとして知る研鑽機会でもあったのだろうか。曰く
○今の社会にとって玉子より何よりさきに生産し増産し活用者に届けたい〝われ、ひとと共に繁栄せん〟とする心の含まれる魂子
○商品価値は低くても、心も技も初心者のうぶさ故に又純粋の心が一杯つまった有精卵(有精神卵)等など。
ここでもいったい〝魂子〟とか〝有精神卵〟とか何をいわんとしているのか狐につままれた気分だった。
研鑽会では次のような資料の一節も研鑽した。

“有精神卵は、活用者の手元でなく心元へと今日も届けられますが、手元でとどまらないでこの有精卵、果して活用者の体温でヒヨコに孵えして貰えるかどうか……イヤきっと受精さえしておれば孵えるはずだと真理がこたえる。”

〝受精〟って何のこと? 〝真理〟がこたえる?
こうした自分にとってはちんぷんかんぷんに聞こえる言説を日々反芻していると、ふとした機縁から納得されてくるものがあったりして勇気づけられている。

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鈍愚考(91)

もう一つの考え方、事実
満足そうに卵を産む

こうした二つの逆の考え方から〝二つの逆な事実〟にまで拡張された山岸巳代蔵の身に起きた実例を見てきた。
ところが今度はまさか自分自身が、鶏を〝風船鶏や飛行機鶏〟にする張本人になってしまうとは予想だにしなかった。
実学の場でもある養鶏の場で軽はずみな自分を晒してしまった。
養鶏のエサづくりを担当していた頃だ。

八十年代ヤマギシの有精卵の増産要請が一気に高まり、暑さや産み疲れや病気に負けない頑健な消化器の鶏体造りをねらって大量の青草やモミガラや焼酎粕のような食品副産物・廃物の未利用資源活用もかねた給与がはじまった。
例えば献立を決めてスーパーへ行くとバーゲンセールのものが山積み。そこでセールのものに合わせるように、飼料配合設計も刻々と日々変更された。そんな食品副産物・廃物が大量に流通する時代背景もあった。
海水をかぶった輸入穀類
ポテトチップス製造時の塩や油
米から糖を採った粕
馬鈴薯の芽
トウモロコシからグルテンを採った粕
ウイスキー粕 フィッシュソリュブル等々。

ある日の研鑽会で〝月給鶏(取り)〟が話題になった。人間の月給も誰でもそれなりに上がっている。しかしそれだけでは……。適当に食べて適当に産むような鶏にさせないような急所があるのではなかろうか。
人手がないから、忙しいからと手を抜くことをやっていないだろうかと。
なるほどそうかと思った。何でもよく食べる→大きくなる→大きいからよく食べるといった正常健康な循環がイメージされた。
加えて次のような発言にも後押しされた。

“また、高い餌を多く与えたところで多産するものでなく、特別経済飼料に切り変えれば、安い餌代でかえってよく産むことも知らねばなりません。
人間でも、心に不満・不安があれば、いかに贅沢と思われる珍味も口に不味く、栄養が摂れない如く、鶏にも快適な管理と環境を与え、美味しく食べさすなれば、粗食でもよく食べ、健康でよく産むものです。”(「山岸養鶏の真髄」1956.2)

そうか、「餌代が安いほど鶏が健康に育つ」のかと聞いたのだ。
そこである時単価の安い粗飼料を一度に多く給餌してみたのだ。
すると案の定「獣性より真の人間性へ」に記されてある逸話のように鶏を痩せさせて皆の顰蹙をかってしまった。

“こんな主人に飼われた鶏も多分不足顔でハンストしたのでしょう。餌があり余っても不足に思います。”

の主人とは、まさに自分自身のことだった! この一節がそのまま自分に突き刺さってきた。
いったい自分の何が間違っていたのか?
二つの事実がある。
エサを与えて、エサを残す事実。
エサを与えて、エサをよく食べる事実。
えさ箱にエサがあるのに食べない→食べないから産卵しない→産まないから食べない→体重が落ちる→病気がちになる……。
この循環は、粗食にすると食べない→栄養が足りない→栄養不足で健康を害する悪習慣にもっていく典型例である。
ところが逆に何でもよく食べるから出発すると、粗食であればそれを消化しそれから栄養を摂ろうとする消化機能が助長し、かつ量を多く摂って必要栄養量を摂るような消化機能に増加されていく。そこからよく食べる→よく産む→よく食べる循環が立ち現れてくる。

ここでの卵を産まなくなった事実と満足そうに卵を普通に産んでいる事実の分かれ目に、そこに至るまでの二つの事実にいったい何が秘められているのだろうか? くり返しくり返し反芻した。
またそんな体験を通して、「安い餌代で却って卵をよく産むことも知らねばなりません」の安い餌代だからこそ〝却って〟といえるものの一端に触れたい、知りたい意欲をも逆にかきたてられた。
というのも組合員の多くの鶏と異なって、〝私の鶏舎〟のよく産む事実は常識的には考えられないことだったからである。
ここに二つの事実の意味するものの肝腎なところをみる思いがする。
そういうことか! 先の山岸巳代蔵の総入れ歯に象徴される〝この日のために、十五年程前から先の先まで見通して〟今日手をうって置こうとする非常識な(?)転ばぬ先の杖的な考え方に通じるものがあるように思えてきたのだ。

自分らのヤマギシ用語に〝二つの幸福 真の幸福と幸福感〟がある。そしてここでの二つの幸福を二つの事実に重ね合わせてみれば、前者と後者は同次元で考えることができないことに気づかされてくる。
真の幸福の意味は、不幸に対しての対句である幸福感ではないように、二つの事実もよく産む・産まないといった対句ではないのではないのか!? だとしたら、〝真の幸福〟とは〝よく産む事実〟とは?
この理解というか区別がとても解りづらいのだ。それゆえ幸福感を本当の幸福なりと感違いをしているのだろう。もっとも知ろうともしないでいるが。
かつてフランスの真なるものを求めてやまない女性思想家シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)も〝ふたつの善〟という概念で迫っている箇所だ。

“名前は同じであるが、根本的に別々のものである、ふたつの善がある。悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。”(『重力と恩寵』)

対句でなく〝根本的に別々のもの〟といった辺りがうまくイメージできないもどかしさ。
それはともあれ、〝よく食べる〟から出発する養鶏の実際の例えは、そのまま自分自身の考え方や生き方の見直しとして迫ってきた。
例えば〝この鶏はダメな鶏〟とか〝モミガラは栄養価値がない〟とか〝繊維は不消化だ〟とか〝こんなものは食わない〟とか〝こういう飼い方はいけない〟などといったその一部分・現象のみを見て決めつけてしまう考え方からの脱皮をも意味したからである。
自分の思い込みを唯一の事実だとキメつけているだけかもしれない。
また二つの事実を目前にして、自分は何を基準にして生きるのかを問われているようにも感じた。
私が変われば世界(事実)が変わる!
こうした二つの逆の考え方から二つの事実の提示は、そのまま凡てに共通する現状からの脱皮の可能性をも示唆しているようにも感じられて大いに高揚した。
これの探究こそ、今なお飯より好きな仕事・やり甲斐になっている。

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「と」に立つ実践哲叢(66)

私のなかの「特講」
「特講」受入研

高校3年の夏休みに入ったばかりの時だ。やることもなく毎日腹這いになって本を読んでいた。当時のベストセラー『何でも見てやろう』(小田実著)の日本版と銘打たれた同じ著者の『日本を考える』という題名のルポ記事を読んでいた時のことだ。突然、ここに書かれている関西線新堂駅近くにあるヤマギシを訪ねてみようと思い立った。
それまでの出不精の自分がなぜ急にそんな気になったのだろう。琴線に触れた心当たりのある場面は今も息づいている。

“「お酒がのみたくなったら?」「それも同じことです。係に言う。なければお金をもらう」「酒のみがいて、そいつが毎日、毎日、お酒をのみたいと言ったら?」「それも同じことです。うちでは、ああしたらいかん、こうしたらいかん、と命令はしません。命令は上の人と下の人の区別があるときにできてくるもんです。うちにはそんな区別あらへん」「そやけど、オッチャンよ、わが敬愛する集団農場員よ。(私はなんだかユカイになって勢いこんで言った)たとえばおれみたいな怠け者で酒のみがいて、毎日、毎日、グータラグータラと酒をのんで何もしなかったらどうするんや。困るやないか」
「べつに困りまへんで。あんたも入れて、みんなで話し合いしますのや。そうすると、あんたもお酒をそないにのまんようになる」
「すると、説得されるわけやな」
「説得やおまへん。人を説得すると、必ずカドがたちます。あんたの心に、畜生、うまいこと言いまかされてしもた、という気持が残ります。それが、あんた、この世界の争いのもとですで。『説得』とちごうて、わてらのは『納得』です。話し合っているうちに、(もちろん、あんたの意見もちゃんときくんでっせ)あんたもフウーンとうなずくようになる、それでっせ、わてらのヤマギシズムの根本は」”

即断即行だった。そのうち何時かとか、もっと詳しく調べてからとかいった気持ちが一切浮かばなかった。すぐに母親から旅費をもらい、夜行列車に乗り込み、翌朝ヤマギシを訪ねた。すると応接の人から開口一番、「遅かったね」と言われた。何のこと?と尋ねると、「特講」が昨日から始まっていて途中からでは参加できないから、次回8月15日に間に合うように出直してくださいとのこと。はい、そうしますと子どもの使いよろしく引き返し、15日からの研鑽会に参加したのだった。

今にして思えば、この一週間が人生の分岐点となった。ただ暑かったのと、安普請の部屋での寝起き、そしてラジオ体操を律儀にくり返す生活だけなのに……。

ある時、昨日まで講習会の隣で事務をとっていた女性を茄子紺のもんぺ姿でふと見かけた。その変身ぶりに目を見張った。帰ってから友人に、もんぺ姿が美しく見える村を発見したゾ、と話しかけて苦笑いされた。でも…、もしかしたらヤマギシの村でこそ生涯を託せる仕事と素晴らしい女性とに二つながら出会えるかも知れないという予感めいた思いがしきりにした。

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鈍愚考(90)

心の世界の体験
鯉のぼり

二つの逆の考え方から〝二つの逆な事実〟にまで拡張されていくもう一つの実例を見てみよう。
先の“心の解決できた人は、やがてそれが明るい豊かな世界が来ることが見えている”との文言は、当時「山岸会事件」で津地検から取り調べを受けていたが本人が心筋梗塞症を訴えているため身柄不拘束のまま釈放中での発言であった。ちなみに二週間後(1960.10.19)には起訴猶予処分になっている。
じつは全国指名手配されていた山岸巳代蔵が潜伏先から近況を会員に向けて伝えた書簡「第二信 柔和子に寄せて」(1959.10.10)の中で、〝心の解決できた人〟についてより詳しく語っている箇所がある。

“思えば一年前、春日村繁栄建設速進会発会式、ならびに百万羽養鶏会社春日テスト農場雛入式に賑わった記念の日、一〇月一五日の日も数日後に迎えますが、わずか一年有余、小松林だった春日山での出来事のかずかずが実にめざましい前進ぶりを示し、その初志の基盤が予想以上に着々と確立してきましたね。
みなさん一人一人の気負いと、実行力の結晶ですね。
それらと併行して本部も移り、それらを成すお互いの真目的、本当の人間社会完成のためZ革命の火蓋を切り、精巧な機械の歯車のように刻々に時をきざんでいますね。人の心の中にはびこっている我執のジャングルを開拓する主幹道路建設にも、幾多の難所のあることは当然で、春日山の人達はどうかわかりませんが、難所に直面した時に、こんなはずでなかった、えらいことになったと、出発の喜びをどこへやら、他をうらみ、ののしり去って行こうとする失敗型の人の出るのは世の常、しかしまた難関にぶつかるほど情熱と知恵が湧き出てくる成功型の人も、そういう機会に見分けがつくわけで、会の本部も春日山へ来てだいぶ賑やかになって、それらの人を含め、自分自分がふるいの目からふるい落ちて逝こうとされる方も少々出られるかもしれませんね。やりましょうと、かたく手をにぎり合って誓ったのは、誰に誓ったものか、人に誓ったものか、自分に誓ったものか。いかに小心者、臆病者と自認している君子にも、大うそつきの大胆なところもあるやもわかりません。どこまでが本当で、どこからがうそか。ひとに目を向けて、だまされた、うそつきだとぶつぶつ暗い顔している人が、もし一人でもあるなれば、ひとにも、自分にも、大うそつきの自分に気がついてもらえたら、少しでも楽になっていただけると思いますね。
人を責め、うらんでいるのは、他人事でなく、自分自身不快なこと。そういう思いをさした人はむろんいけないが、責めている自分が苦しいものです。僕も山の人々の気持や実状が詳しく知りたいです。
ああいう出来事があると、人の心はいろいろと変わりやすいもので、その人の思惑どおりいかん時は、その人は失敗だと思うだろうし、どうなるかわからんとしている人には、また別の見方があり、百万羽になるまでにはまだ日もありましょうから、基礎を充分かためるのが今日の仕事で、百万羽実現を早める近道、堅実な方法でしょうね。
失敗だなどという言葉が出るかもしれませんが、言葉はとにかくとして、そういう考え方の人が万一出た場合は、本当に失敗か、真相はどうかを、研鑽してみて下さい。(略)
自転車の乗り初めに事故が出たからやめたでは、何のためにケイコしたか、水はつめたい─やめた、湯は熱い─やめたの人間は、一生を台なしにし、他をムダにしないだろうか、母がよく独り言を言って僕をつくってくれた。
柔和子と僕の目には、今日の形でなく、カレンダーを数枚めくった日本晴の明るい世界が展開していますね。前進前進の現段階や、これからの見通しがついているわね。一周紀か一周忌かが、一人一人の思い思いの心の中での行事としてとり行われていることでしょう。自分自身が毎日を楽しく暮らすために静かに研鑽しましょうよ。”

あの事件の真っ只中で、今後どのように事態が展開されていくか全く見えない強い不安と恐怖で押しつぶされそうな中で、冷静に過渡期の混乱として捉えて〝人の心はいろいろと変わりやすいもので〟と心理分析してみたり、〝自転車の乗り初め〟の事故に例えてみたり、〝日本晴の明るい世界が展開〟していますとも言う!? 
自暴自棄の負け惜しみか強がりの言動だろうか。詐欺師、ごまかしとどこがどう違うのか?
一読して気づくのは、あの事件が人ごとになっていないところだ。そりゃあ、まさに関係者だからと思うのだが、それだけにとどまらないものを言葉の端々から感じるのだ。

加えて次のような〝総入れ歯〟の逸話も残されている。
あの事件の最中、山岸巳代蔵はひそかに春日山を離れる。そして名古屋で孵卵場を営む会員の加藤巷二さんに電話を入れる。名古屋駅の出口辺りにいるから迎えに来てほしいとの事!? 奥さんが出向くが見あたらない。突然後ろからポンと肩を叩かれた。そこには鳥打ち帽で髭はなく入れ歯を外した見ず知らずの一人の男が立っていた。一瞬声も出ない程だったという。(『小説 山岸巳代蔵』加藤巷二)
この日のために、十五年程前から先の先まで見通して準備していたのだった!? 計算に入っていたのだ?
そうでないとあの不安と混乱の渦中にありながら〝他をうらみ、ののしり去って行こうとする失敗型の人の出るのは世の常、しかしまた難関にぶつかるほど情熱と知恵が湧き出てくる成功型の人〟と、まさに二つの逆の考え方をまるで人ごと(?)のように並べる理由がよく見えてこない。
つまり〝今日の形でなく、カレンダーを数枚めくった日本晴の明るい世界〟について負け惜しみや強がりでなく確信的に語れる出どころである。
しかもそんな今日の自分をつくってくれたという、読む者の心にほっと明るい灯火を点すようなお母さんの独り言をも暗示的に添えて……。

そうか! この辺りにあの事件がじつは人ごとになっていない本当の理由が潜んでいるはずではなかろうか。
周囲から詐欺師、ごまかしだと白眼視にさらされる中で、山岸巳代蔵自身が事実その中で生きていく強い自分をそこに見出していたからではないのか。
そこからの関係者だけにとどまらない、いわば当事者ゆえの心の世界の内実が立ち現れているからではなかろうか。
そしてこの書簡の末尾は次のようなフレーズで閉じられている。

“月界への通路、開設着工
 地獄の八丁目、即極楽の八丁目
 きわまる所 必ず展ける。 
           霊人より”

ここでの〝地獄の八丁目、即極楽の八丁目〟とはどんなことなのかとつい問いたくなるが、イヤそんな考える考え方では味わえない、心の世界の体験がそのまま吐露されているように思えてくる。
新しいものを創り出していくということは、ないものが見える心の解決できた人達から始まるものだろうか。
背筋が伸びる思いがする。

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鈍愚考(89)

ある発見の喜び
ある発見の喜び

こうした〝二つの逆の考え方〟とか〝心の解決できた人〟といった自分の心を揺さぶる言葉に出会って以来、その意味するものを何かにつけてたずねる日々が今も続いている。
例えば次のような興味深い逸話が山岸会の会報創刊号に掲載されている。1954(昭和29)年、山岸巳代蔵53歳の時である。

“私は飼料欠乏時代に京都専業養鶏組合の責任者としてその鶏を維持するために、麦糠・粟・稗糠・焼酎粕のような牛も好まぬ粗飼料を多量入荷して分配しました。組合員の多くはそれを鶏に与えて鶏を痩せさせました。卵を産まなくなったと不足を云って来ました。人が鶏舎へ近づくと、餌を求めて一斉に鳩のように飛んで来るそうで、餌が足りないかと給餌器を見ると殆ど食べずに残ってあり、風船鶏や飛行機鶏が続出で、冥土とやらへ毎日飛んでいくそうで、散々迷惑を相掛けました。給飼係の先走りとして一人の従業員が給餌器の残餌を捨てて回り、無理して手に入れた餌を捨てるために人手が要り、忙しそうでした。
強硬派は私の鶏舎へ押しかけます。私の鶏舎へ案内しますと鶏は静かなものです。皆満腹し、落ちついてよく肥っています。恥ずかしいのか真っ赤な顔して、満足そうに卵を普通に産んでいるのです。”(「獣性より真の人間性へ一」1954.3)

会が発足して一年後、山岸式養鶏法が燎原の火のごとく広がっていた最中で記した戦時中40歳過ぎの体験談である。
ここでは〝二つの逆な事実〟の実例が報告されている。そう、二つの逆の考え方から拡張された〝二つの事実〟について語られている!
そんなふうに今の自分には受け取れる。
二十歳過ぎにふとした機縁で養鶏に出会い、郷里(滋賀)に帰って養鶏(始めは人工孵化)から始めた。三十歳で妻子を連れて京都に進出。昭和19年(四十三歳)統制経済で面白みがなくなり廃業するまでの間、一通りの鶏の病気やら台風などで養鶏を捨てかけたり、数多くの失敗を重ねる中からにじみ出た体験談だった。なかでも約2年間は総ての作業一切を自身で片づけ、養鶏に心身共に打ち込んで働いたという。
またこの逸話には次のような発言も続く。

“こんな主人に飼われた鶏も多分不足顔でハンストしたのでしょう。餌があり余っても不足に思います。
財産が積まれてもなお欲しい人もあります。学者はこの現象を経済学の原則だと決めています。私達の鶏は魚気なしの麦糠主体で、粒餌も皆無で、満足して個々に持っている能力一杯に稼ごうとします。私達は体を損ねてまでも稼がさないように「鶏を走らすな」と注意して、決して鞭を当てないのです。走り過ぎ(産み労れ)倒れる鶏や、何万羽の中に一羽も他の鶏の羽を食う追剥も、食い過ぎも、脱腔症も出来ませんから、医者も薬も警察官も無用です。鶏の国も様々です。”

そして次のような一節で閉じられている。

“私の飼料栄養論に心理学的分野の甚だ多いのは、その間の必須条件としてそれをも採り上げている所以です。かくして鶏を鳩や飛行機にせないようによく検べましょう。
而して鶏や他の動物を通じて真の人間を発見してみましょう。人間社会のあり方に関しても。”

ここでの〝心理学的分野〟という表現も、先の〝心の解決できた人〟に重なる言葉であろうか。
当初は面白いことを題材にするなぁぐらいの感想しか浮かばなかった。しかし初っぱなから養鶏で儲けて何とか暮らしを楽にしたいと望む農家の人々を前にして、〝真の人間を発見〟とか〝医者も薬も警察官も無用〟とかあまりに飛躍過ぎるというかくそ真面目な山岸巳代蔵の発言には驚かされる。いや、何か押さえきれない熱い思いが、一刻も早く皆に伝えたいものが溢れ出していたのだ!
今ふり返ると〝ヤマギシズム〟なるものの原点を知らされる思いがする。
またその頃他の農業組織から求められるままに記した文面にも、

“私は永遠不変の理想社会を実現さすための決定的方法を知っています。総てに具体的であらねばなりません。また暴力・破壊等があってはなりませんし、犠牲を出してはなおいけないです。総ての人が納得出来る方法で、総ての人が望む社会を一年でも早く招くために努めているのです。”(『愛農養鶏』)

とある。
〝私は永遠不変の理想社会を実現さすための決定的方法を知っています〟という!?
あまりに唐突・性急すぎる発言ではないのか? いったいここまで突き動かすものは何なのか?
ここに一つのものを見極めたある〝発見の喜び〟のようなものさえ感じられる。
満足した鶏とハンストした鶏。鶏の国も様々だと対比しつつ、人間社会も〝心理学的分野〟の解決から理想社会に直接繋がる道筋が見えてきたと言っているのだ!
しかもそれは、真実の人生(?)を見届けるところから出発するという考え方によって可能なのだと。
二つの考え方の次元の異いをここに見る思いがする。

あえて自分の吃音体験に引き寄せてみたくなった。
その時は何とかして吃るまいと必死の覚悟・意志力を以てしても、やはり吃る時は吃ってしまう自身のふがいなさに打ちひしがれる劣等感からの→消極的→迷い→マイナスの結果→劣等感へと循環する日々から逃れられなかった。
こうしたそれまでのマイナス思考からプラス思考へといった思考の切り替えでなく、〝二つの逆の考え方〟があるという〝考え方〟の転換で観ていこうとしているのだ?
つまり同じ事態なのに、心理的出発点の相違で明るく見えたり暗く見えたりする状態があるといっているのではなかろうか。
そこでの観念の転換でパッとそうさせるもの、その観念とはどういうものか、と問うているのだ。どういう観念がそのようにさせるものなのか、と。
そんなこんなで、事実その中で生きていく自分をそのまま見てみようとしていると、
○吃るという事実は、吃るようなあり方で吃っている。
○吃らないという事実は、吃らないあり方で吃らない。
のだなぁと、そんなふっと肩の荷を下ろした自分が映ってきたのだった。

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「と」に立つ実践哲叢(65)

〝連れもて行こら〟再考
又兵衛桜

先日「新型コロナの脅威、今年中にインフルエンザ並みに WHO」とのニュースが流れていた。ようやく世界的なコロナ禍からふだんの日常にもどれる兆しが見えてきたようだ。
ちょうど三年前の緊急事態宣言が発出された今頃、本稿で〝連れもて行こら〟と題した一文を記したことがある。和歌山県の方言で〝つれもて〟は連れて・一緒に、〝いこら〟は行きましょう・行こうというような意味だろうか。そのほのぼのとした紀州弁の響きに魅せられているのは筆者一人ではないだろう。いつしか〝つれもていこら〟と呟いていると不思議と勇気が湧いてくるお守り言葉になっている。
そしてそこから一方的に敵視・排他してウイルスをなくそうとするのではなくて、ウイルスによる被害をなくしていこうとする肝腎の〝人間問題〟が未解決で残されているとした、いわばWithコロナ(コロナと仲良し)を思い描いてみたのだった。
いったい〝人間問題〟のなにが未解決で残されているのだろう? 

指標となったのは例えば次のような山岸巳代蔵さんの発言だ。
“「人間、腹立つのが当り前」と思ってる間は、怒りすら取れなんだ。本当に真なるものが見える立場から見たら、「絶対立たん立場に立てる」というところからきての究明で、怒りは取れるし、我のあった人が我が取れて楽になれる。そういう目標に立って究明せんと。
「そうか、原因は我か」、「それなら、それを取って」となって楽になれる。哲学はそこにあると思う。現状肯定でなしに、そうなる元を検べていく。一つの部分だけ掘り下げないで、森羅万象よ、感・無感の世界まで検べていく。本当の学問というか、哲学の真髄というか。”(「第七回理念研」1960.12)

この間の証明や証拠やデータなど〝エビデンス〟を以て結論づける現代科学知を目の当たりにして、改めて〝心を調える〟といった考え方・生き方の大切さを痛感させられた。
こういうことだろうか。

人間はウイルスに冒され、病気起こすことがある。ウイルスと共に生きていながらウイルスに冒される。だからウイルスを除去すべき原因だと一概にキメつけられるだろうか?
たしかに様々な原因があってこうなったとしても、それも事実ではあるけれど、人間の生き方として「本当の正常健康な姿はどういうものか」といった観点を見落とすと、元の原因にまで辿り着けないのではなかろうか。そしてそこから他の条件をその原因であるかの如く思い違いしてしまう。

物事の原因と結果を軽率に結びつけるような考え方に気づきにくい。しかもそんな軽率な自分を省みないで、きまって原因の矢印を他に向けて非難しがちだ。このへんの究明が、理解が足りないからだろうか。
本当にそうだろうか。本当の本当はどうだろうかと、どこまでも謙虚な科学・研鑽態度が今ほど切実に俟(ま)たれている時はない。

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鈍愚考(88)

人間固有の観念の問題
ピエロの自分

『渡辺京二対談集 近代をどう超えるか』のなかで渡辺さんの〝怒りは事実だ〟という考え方に対して森崎さんは、人間的な価値ってそんな程度のものだろうか、そもそも腹が立たない考え方があるはずだ、作れないものだろうかという意味合いを込めて〝人間固有の観念の問題〟としてとらえる見方を提起する箇所があった。そもそもそんなことを思いつかないような〝観念の場所〟が……と。
渡辺さんからは、それは観念論だ、倫理主義だ、宗教だ、魂の問題に過ぎなく人類史の課題への応答にはなり得ないと否定されるのだが……。
もっともこうした発言の背景には、「人間の心の一番底に残っている純粋な感情によって人は他者とつながり得る。その能力をどう培えばいいか」とあるべき共同的な関係を模索し続ける水俣病闘争の中で〝低い次元での対立や不和〟に直面した自身の苦い経験があったにちがいない。
なぜ「よきものを目指す共同性がとんでもない悲惨を生んできたのか」という残された課題とともに……。

ふと渡辺さんが〝特殊な共同体〟の一例として匂わせたヤマギシ会の一週間の「特講」での〝怒り研鑽〟が思い浮かぶ。
以前にも触れた、一週間の「特講」を「自分の人生の出発点は特講だった」と公言する宗教学者・島田裕巳さんの手記を引用してみたい。

“ところが参加者のなかに、自力で脱出口を見い出した人間がいた。それは早稲田大学に通っている、私と同じ学生の女子学生だった。彼女は、「いま自分が腹を立てたときのことを考えてみると、腹が立たないような気がする。今度、そういうことがあっても腹は立たない」という発言をしたのだった。
この発言は意表をつくものであったが、私には納得することができた。彼女の発言を聞いて、体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。係の発する「なんで腹が立つのか」ということばも、怒りの原因を尋ねているのではなく、「腹を立てることなどないではないか」という反語的な表現として聞こえてくるようになった。その瞬間から、私にとって特講は苦しいものではなく、楽しいものに変わっていったのだった。”(『イニシエーションとしての宗教学』1993.1)

言い得て妙だと思う。
係の発する「なんで腹が立つのか」ということばを自分の心の中で何度も何度も転がしていた。ふとした機縁だった。参加者の一人の意表をつく発言が自分を揺さぶった。
ハッとする気づきがあった。ずっと自分の心の奥底で眠っていたものが呼び覚まされたような……。
するとなぜか体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられた。「あっ、そやったんか」という何とも言えん解放感とともに嬉しい気持ちが湧いてくるのだ。

きっと森崎さんの〝そもそも腹が立たない考え方があるはずだ、作れないものだろうか〟といった真意は、このあたりにあったのではなかろうか。そこまで〝人間固有の観念の問題〟を知的なるものによってどこまでも究明することが可能なのではないのかと。
再度森崎さんの発言を吟味してみる。

“今ある「人間」の概念の作り方は、意識の自家中毒、渡辺さんの言われる魂の飢えを引き起こすようにできていると思う。「自己」とか「他者」とか「社会」とかの概念が変わることで、世界が丸ごと裏返るようなことが起こるんじゃないか、と。”

概念が変わる? 概念という幻想に囚われているのだろうか。いや人間は永久にこんなものとあきらめ・キメつけないで、底をつくまでの究明・研鑽の余地がまだまだある、というのだ!
こうした人間観念に内在する豊かさの機微にふれる機会があの「特講」という〝観念転換の場所〟かもしれない。キメつけないで主観を捨てての一言で済まされないものがギュッと濃縮されてあるのを今頃になって気づかされる。

ヤマギシズム実顕地に住み始めてしばらくの頃、次のような山岸巳代蔵の発言にはじめて自分を見たような、そんな嬉しさに包まれたことがある。それまでうまく言葉にならないでいたことが、見事に言い当てられたようにも感じた。

“暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と、二つの逆の考え方がある。暗く見える人はそればかり見える。心の解決できた人は、やがてそれが明るい豊かな世界が来ることが見えている。暗い思いでやる人は、やることなすこと、みなマイナスになっている。そういう人は、身体は一緒でも、心は離れて一体でない。”(「ヤマギシズム生活実顕地について」1960.10) 

ここでの〝事実その中で生きていく強い自分を見出している人〟という一節が、まるで自分のために用意されたことばとして飛び込んできたのだ!
そうか、そういう体験だったのか。あの学生時代吃りで深刻に悩み、やることなすこと、みな暗い思いでやってきた自分自身のことだ。

当時は何とかして吃るまいと必死の覚悟・意志力を以てしても、やはり吃る時は吃ってしまう自身のふがいなさにいつも打ちひしがれていた。
そんな吃りの苦痛(劣等感情)を避けるには黙っていることが一番だ。それでも日々どうしても避けられないのは山手線の切符の購入だ。当時は切符の自動券売機などなかったから、どうしても窓口で行き先を告げなければならない。行き先は「高田馬場」駅なのだが、自分にはタ行、ラ行が言いづらいのだ。そこで十円高いのを承知で、その先の言い易い「目白」駅までの切符をいつも購入していた。
ばかみたいだった。オレは現実から逃げているな。いつまでこんな事を続けるつもり? いったい自分に何が欠けているのか? といった後向きの自問自答ばかりがくり返しおそってきた。
まさに〝暗く見える人はそればかり見える〟とは厳然たる事実だ。

それが二つの逆の考え方か……。
もう一つの考え方がある!? 衝撃だった! 目からウロコだった。
もう一つあることの驚き。それはどういうものかは分からないけれど、ずっと心の奥底で眠っていたものが呼び覚まされたような嬉しさも込み上げてきた。
しかもそうした事実その中での悪戦苦闘ぶりの滑稽なピエロの自分が自分なりに見えてきて、なぜか愛おしく映ってきたのだ。

それにしても〝心の解決できた人は、やがてそれが明るい豊かな世界が来ることが見えている〟って、どういうこと?
今度はこうした前向きの自問自答のくり返しから自ずと浮かび上がる、いわば〝魂のモチーフ〟が自分の生きる支えにもなってきた。

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鈍愚考(87)

魂の問題
一分八間

先の森崎さんと同じ熊本県在住の『逝きし世の面影』などの著書で知られる思想史家・渡辺京二(1930-2022)さんも昨年の暮れに亡くなられたが、『渡辺京二対談集 近代をどう超えるか』(2003.8)所収の二人の対談「魂の飢えこそ思想の課題」がじつに興味深い。

対談は、二人の水俣病や部落解放運動への体験から政治や社会問題のレベルでの解決では根底にある人間の魂の問題は解決されない、そこに思想の課題があるとする辺りからテーマが絞られていく。
そして渡辺さんの古今変わらぬ真善美といった価値観、人間がよきものへと向かう傾向は生物進化の過程に基礎づけられているという考えに対して、森崎さんは人間的な価値をいきなり自然過程や生物過程に結び付けるのではなく、人間固有の観念の問題として考えてゆきたいという発言からしだいに白熱化していく。
森崎さんは言う。

“人間は「よきもの」を求めるようにできているとお考えになる、その考え自体に私は共感しているのであって、そうお考えになることに必然や根拠があることによって共感しているわけではないからです。”

なぜならまだまだ人間という概念の本来の豊かさは究め尽くされていないのでは? 
だからこそ渡辺さんと同じことを〝根拠なし〟に言いたいという気持ちが強くあるのだと。
対して渡辺さんは、あなたは観念論的というか意識の問題を重視されると応じる。
すると森崎さんも私は人間の考えることはすべて観念論だ。唯物論も唯物論という観念論でしかないと。
人間にとって「よきもの」は確かにある。しかしそのことに根拠はない。だから思想が必要なんだと。
森崎さんは、人間にとっての「よきもの」は生物進化の過程でそういう感覚を持つ生物として形成されたという事実に求める渡辺さんの考えに不満なのだ。
とうとう渡辺さんはそんなあなたの考えは非常にラジカルな倫理主義のようで、私の考えとは全く違う。攻撃の衝動を全くもたぬ存在に人間を改造するには特殊な共同体ないし教団を作るしかないとまで言わしめるほどであった。

森崎 人間を改造するというのとは違うんです。おのずから、人間がそうならないではおられなくなるような考え方を作れないか、ということなんです。こうあらねばならない、ではなく、おのずからそうなる、ということで、倫理主義とは違うんです。
渡辺 攻撃の衝動とは怒りであり、怒りを失うとき愛も失われるというのは「説」ではなくて事実です。人を攻撃しない人間なんて考えられません。ピースとラブなんてスローガンはまやかしです。”

と渡辺さんは、『攻撃』を著したコンラート・ローレンツ(オーストリアの動物行動学者)の説をも援用して応じる。
対して森崎さんも答える。
今ある「人間」の概念の作り方は、意識の自家中毒、渡辺さんの言われる魂の飢えを引き起こすようにできていると思う。「自己」とか「他者」とか「社会」とかの概念が変わることで、世界が丸ごと裏返るようなことが起こるんじゃないか、と。
渡辺さんは「何か、宗教のようですね」とつぶやく。
今読み直してみて、じつにスリリングで面白い。

例えて言えば渡辺さんの〝怒りは事実だ〟という考え方に対して、森崎さんは人間的な価値ってそんな程度のものだろうか、そもそも腹が立つなんてことを思いつかないような考え方を作れないものだろうかと〝人間固有の観念の問題〟としてあくまでとらえる見方を提起するのだ。どこまでも観念動物としての人間自体の可能性にかけるのだ。

なかでも渡辺さんは怒りが取れるなんて、それは自分の鋭敏な痛みの感覚を証明する〝魂の問題〟にはなり得ても、人類史の課題にはならない。それは「何か、宗教のようですね」と、言外に〝魂の問題〟の解決から出発する例えばヤマギシ会のような〝特殊な共同体〟を匂わせつつ、それは一般的でない恣意的な観念論としてしりぞける。
このようにして二人の問題意識へのモチーフはほぼ重なっているように見えて、じつは次元の異なる方向へと向かう。

二人のモチーフ、それは次のようにもいえるだろうか。
人間は、暮らしを楽にしたい、貧しさから抜け出したいと願いつつ、こんな〝魂の飢えを引き起こす〟ような社会を選んできた。
一方、世の中をよくしたいという、よき動機から出た社会変革の運動はことごとく途方もない厄災を生んだ。
ではどうすればこの難所(人類史の課題)を乗り越えられるだろうか。
対談の末尾で二人の発言内容は大きく離れる。

渡辺 私はこの世で他者と合一するような関係はあり得ないと思っているんです。あり得ない中で、お互いおおらかな関係をどう作っていくか。(略)
森崎 私は石牟礼道子さんの言われる「もう一つのこの世」を現実のものにできると思っています。”

弓道で使われる言葉に〝一分八間〟がある。手元で一分の狂いがあると的にとどくときには八間もの誤差が出るという。最初が肝心で些細な事の違いが後々大きな誤差を生じるということか。
一番コモトの一点だけ、最初のちょっと向きを一分だけ変える違いなのだが……。
もう二十年も前の対談だが、今まさに世界が直面している時代の課題、そもそも〝魂の問題〟とは何なのか? 人間同士の〝通じ合い〟は可能なのか?、といった問いがあらためて新鮮に迫ってくる。

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鈍愚考(86)

森崎茂さんとの対話
「イェニーさん問題」のこと

イェニー・マルクス

先日作家・片山恭一さんのツイートで、

“大切な友人である森崎茂さんが亡くなった。覚悟していたとはいえ残念でならない。ご冥福を祈るとは言わない。死は生の一部であるというのが、森崎さんの思想の核心だったからだ。これからも新しいかたちで対話がつづいていく。深い悲しみは、森崎さんからの贈り物なのだろう。”(2023/01/09)

と、自分にとっても心の友である森崎茂さんの死を知らされた。
ふと、思わず森崎さんのブログのコメント欄に書き込んでしまった、あの出会いの始まりがよみがえってきた。

“森崎茂 様
公式サイトの開設、お祝い申し上げます。
今年の初め、偶然森崎さんのブログに出合えて、本当に嬉しかったです。
可能なかぎり、森崎さんの発言をすべて追い続けている者です。同世代の一人として、日々たくさんの示唆と刺激を受け続けています。有り難うございます。恩恵を受けるばかりですが……。
これからも、キーワード「言葉が始まる場所」からの「内包論」の展開を楽しみにしつつ、共にみずからの「言葉が始まる場所」を切り拓いていきたいと願っています。
どうかお体を大切にしてください。
これからもよろしくお願いいたします。
2016.8.18
佐川清和 拝 ”

すると思いがけず返事が返ってきた。

“佐川清和様
ブログを読んでいるとのコメントをいただき恐懼しました。
読んでくれている人は皆無だと思っていたのでびっくりでした。
歩く浄土のブログで未知の人からのはじめてのコメントで、しみいるほどにうれしかったです。
だれのものでもないじぶんになじむ世界認識の方法をすこしずつつくっています。
じぶんの身に起こったことしか書いていません。体験の固有性を普遍として語りたいと思って書いています。
書いてあることがわかりにくいのでわかりやすく書いてほしいとまわりの友人知人からいつも言われます。
ブログでも書いていることですが、じぶんが抱え込んだ、考えるしかないことを、当事者性において考えることを書くことの原則としています。影響をうけた思想家の考えでは抱え込んだことを解くことができなかったので、じぶんでひとつずつ概念をつくりながら考えて書いています。
〈共にみずからの「言葉が始まる場所」を切り拓いていきたいと願っています。〉
おっしゃるとおりで、みずからの言葉の始まる場所なくして言葉は立ち上がらないと思います。なにかを持続的に考えておられる方ですね。
じぶんが考えてきたことや、これから考えていきたいことはシンプルです。
生の原像を還相の性として生きるということだけです。
じぶんを生きることといってもいいかと思います。
いまある既存の表現のシステムではじぶんもこの世のしくみも変わらないと若い頃から感じてきました。
いまは総表現者という概念を強いものにしたいと考えています。
すでに滅んだ知識人と大衆という世界認識は論外として、いま世界を覆いつつある総アスリートというむきだしの生存競争を受容するのでもなく、それらをすべてをつつむ総表現者という概念をつくりたいと思っています。この概念があれば生活と表現という分離はなくなり、表現が生活をつつむようになります。
なにか特別のことではなく、だれにでも可能なことだと思います。またそれが可能だと思うから書いています。この概念の場所で歴史としてはじめて〔主体〕というものが登場し、一人ひとりにとっての生の固有性が実現できると思います。
考えることを持続するなかで市民主義の理念の向こうにあるものがすこしずつ輪郭を描き始めた気がしています。
のこされた時間でどこまで書けるかはわかりませんが、できるだけ考えたことをブログにのこしていきたいと思っています。
こちらこそこれからもよろしくお願いいたします。
2016年8月27日
森崎茂 拝”

衝撃的だった! ヘェー俺と同じこと考え続けている人いるよ。しかも俺より徹底的にしかも深く。すごいなあ。そんな感慨が湧き出した。嬉しかった。何だか救われた思いもした。
しばらくして森崎さんのブログ『日々愚案』に次のような一節が見られた。

“佐川さんの気づきを「イェニーさん問題」(「歩く浄土200」)と呼んでみる。”(2017年10月8日)

「イェニーさん問題」? あのマルクス夫人? 夫人の何が問題なの?
その頃も、いや今も事あるごとに〝心の琴線に触れるものがある。それはどういうものだろうか〟と自問自答をくり返している自分がいる。
あの芥川龍之介『蜜柑』での弟たちに向けてミカンを放る小娘のふるまい、社会学者・真木悠介(見田宗介)さんが著書『自我の起源』の中で記した、奪い取った一本のバナナを妹に与えて法悦のような目つきで女の子を見つづけている少年、鮭の母川回帰に見られる産卵死する一対の鮭のふるまい……。
すると不思議とこうした光景に象徴されるものが自分の胸の中に充満して熱くなるのだ。
森崎さんは語る。

“マルクスさんの思想のなかでもっとも可能性があるのは、男性の女性に対する関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係があらわれると言っておられるところです。マルクスさんのこの直感のことを「イェニーさん」問題と呼んできました。『経済学・哲学手稿』のなかでもっとも音色のいい言葉はここです。イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。
それにもかかわらずこの大いなる気づきをマルクスさんは部分化し外延化してしまいました。男性の女性にたいする関係、あるいは女性の男性にたいするる関係と、人間の人間に対する関係はまったくちがいます。ちがうにもかかわらわず、マルクスさんは性の関係を社会関係に外延しています。そしてその外延関係を人間と自然の関係までさらに外延しています。(略)
わたしが「イェニーさん」問題と呼んできたところのものをそれ自体としてつかみださずに、性の世界を社会への媒介とみなしたからです。”(歩く浄土200:親鸞・マルクスとの架空座談2017年9月28日)

とても大切なものに気づきながら、〝それ自体としてつかみださず〟そこから社会化の方へと大きく逸れてしまったがゆえの、その後の共産・社会主義の社会実験の厄災……。
どこでどう間違えてしまったのか?
理想実現に生きがいを感じる自分にも他人事ではない思いがした。

そうか、そういうことか! それまで何となく自分の中で抱え込んでいたものを「イェニーさん問題」だと指摘されたことでハッとしたのだ。自分の中で長くかかずらっていたものが何であるのかを霧が晴れるように掴むことができた。
例えば人を見れば、自分と思える境地に立つことを条件としたことばに、
「私はあなた、あなたは私」
がある。
あなたを私のうちに認めるという琴線に触れて熱くなる時から始まる世界がある。
もっともっと〝二人で一つ〟の世界の本質へ。そこからの一歩の踏み出しを……。
これからも森崎茂さんとの対話はつづく。

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鈍愚考(85)

夫婦の真字と「仰慕←→愛撫」
夫婦の真字

二週間の合宿研鑽会「ヤマギシズム研鑽学校」の何日目かに〝愛情研鑽〟をやる。テーマは〝夫婦のあり方 夫婦の真字〟とあった。
夫婦にあり方ってあるんかい? 真字とは何や? 面食らった記憶しか残ってない。
後年次のような一節に出会ってギョッとした。

“ただ一日でも真の結婚の妙境に浸ってから逝かないと、何しにこの世へ出て来たものか、人生の意義も覚らず、うとましい限りではある。”(真の結婚を探ねて)

この自分自身が〝うとましい限り〟だというのだ!?
そこで知らされたのは、真字とは夫婦が一つのものだということを示す山岸巳代蔵の造字で〝ふさい〟と読んだり、また相合う夫婦像として「仰慕←→愛撫」という表現で現されるものだということだった。
この間の〝女の方が和らぐのが先やというのが、これ真理や〟という理念観念がそのままの姿容(すがたかたち)となって迫ってくるようなとても味わい深い夫婦像なのだ。

夫婦のあり方は、女性の持ち味をそのまま出して作っていくのが自然本来のあり方・姿であるとでも言いたげだ。あの頼子さんの2から醸し出されてくるものが思い起こされる。
その時男の側から作っていく時は知性人として思慮あるとしても、絶対〝逆さ歩き〟になる。なぜなら女の良さを出さないで収めるもので、それで収まったとしても本当の収まりでないからだ。これは昔からの夫唱婦随・服従・盲従とは違う。態度がやさしさを失ったら、女は女じゃなくなるからだと。
それゆえ夫婦は段があったらうまくいく。奥さんの良い(腕達者、利巧な)のは有り難くない。カシコのアホや。奥さんが上なのは絶対うまくいかん、とキメツケておいて良いぐらいだ、といった発言が次々飛び出す。
しかもそれに輪をかけて次のような発言もある。

“妻の条件として、ボサーと抜けているくらいの人がいい。何事も「どうでしょう」とやられると、かなわない。ハイハイと言われると、わが家に帰ったようでうれしい。明るく、ほがらかで、無邪気で。”(『快適新聞』〝ひとことずつ〟より1959.3.10)

こうした発言の真偽や前後の事情があるにしても、世の知性人・フェミニストからは、けしからん、女性蔑視の手前勝手な男の弁にすぎないと猛反発食らう発言には変わらない。 なぜそこまで言えるのだろう?
恋愛・結婚観についての草稿の中に次のような一文がある。

“僕は幼少の頃から物事を深く考えるたちで、昔からみんなの人があたりまえのこととして信じ切っていることでも、どこか間違っていないか、または、もっと優れた方法がないかと、根本にまでさかのぼって徹底的に考え直し、疑問や間違いや欠陥に気付いた時は、そのことがいつも頭のどこかに残って、解決の時を待っている。そして、その必要に迫られた時は、それの究明に集注する。熱中して何時間か、幾日かの後には、たいてい解決する。
このごろでは喋り過ぎて、ひとの気分を損ねるほどだが、以前は全く無口で、いつでも何かを考え、今でも何か話したり、聞いたり、見たり、書いたり、食べる時も、散歩や旅行中も、別の何かを、夜も眠りながら、半ばは何かを究明している。”(「結婚を研鑽(真の科学)する」)

いったい何を究明していたのだろう。
ふと勝手に自分の方へ引き寄せてみたくなった。
作家・島尾敏雄の初期作品集『幼年記』に今なお心に残る次のような表現がある。
夕飯前の黄昏の原っぱで日頃思慕を寄せている少女が縄跳びに興じている。ふと少女は櫛を落とす。それを告げた少年は櫛を遊びが終わるまで持っている光栄に預かるのだけれど、汚れた手できれいな少女の櫛を持ち続けるのは彼女を冒とくしているみたいで自分が卑屈に見えてしようがない。そこで戻ってくるまで遊びが続いていることを願いながら、手洗い場に駆け込む。
が、少年が見たのは少女らが帰り支度にかかっている光景ではないか。

“「何してたの、貫ちゃん、嫌よ人の物を持って何処かへ行っちゃ」
 貫太郎は黙っていた。万年房江の前では何も言えやしない。
 「御免なさいね、万年さん」
 自分でも情けないような声を出した。
 夕飯もまずかった。もう万年房江には可愛がってもらえる事はなかろう。”(原っぱ)

ああ、こんな感じって自分にもあったなあ、同じような思いをしている人に出会った親近感がこみ上げてくる。
好きな女の子が気になり始めて自分の心の中で何かが動いている。それはとても大切なものらしく、〝夕飯〟の味にも入り込んでくる! これって何?
そんな〝ひどく幼い気づき〟から、山岸巳代蔵のいつも〝何かを究明している〟中身にこれまた勝手に分け入ってみる。

“私は女好きだという定評が立てられているようですが、その通りだと思います。男の人も、年寄りも子供も、草木も花も、みな好きです。大好きです。そういう好きさの外に、女性に対しては、また異性としての好きさが重なり、年頃の女性に対しては、また年頃の女性としての好きさがなおその上に加わります。その上何かの機会に、心か、容姿か、能力か、相合うもの、求めるものに触れた場合、好きさが一層つのる。それだと気がつかないのに感じてか好きになってしまっていることに後で気がつく。相当長い期間気がつかないで、「あの時から好きになっていたのだな」と思い当たることがある。「私は、結婚対象としてこういう型の人がどうだろう。ああいうふうな人がどうだろう。あの人はどうか。この人はどうか」と思いめぐらしたこともある。口にしたことがある。また、そういうことを考えないのに好きになっていることが多かった。女の人みな好きです。そして、最も相合う人を意識して、或いは無意識の中に、求め求めての今日まで一貫していたと思う。
恋愛巡礼、結婚巡礼というか、本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるように思う。すべてに本当の結婚を求めている私だったと言えよう。休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。”(『恋愛と結婚』の前書き1959.10~12)

ここでの〝求め求めての今日〟というフレーズに心ひそかに共感する自分がいる。
そこまで本当の姿を求めて気持ちが集中するのは、きっとそうすることが心地よかったからではなかろうか。
ここから〝愛(愛の繋がり)は観念だけではないものがある〟とか〝特に二人が結婚したについて、観念の前のものを考える〟という世界がひらかれてくるのではなかろうか。
ここから〝女は自分と対等以上のものを求めている〟のではなかろうかと〝女の方が和らぐのが先やというのが、これ真理や〟という理念観念が、ほのぼのとした気持ちと共に夫婦の真字や「仰慕←→愛撫」といった形や姿として立ち現れてきたのではなかろうか。
直筆草稿の右上端に、著者は二人で一つの意味を込めたものか、妻の字を夫の字が抱擁(つつ)み込むように重ねた〝夫婦(ふさい)の真字〟をイメージしたものが遺っている。

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