
出発点に立つ

ちなみにこの「金の要らない楽しい村 ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況(具体例その1)」は、以下のような章立てや見出しで構成されている。
◆金の要らない楽しい村
ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況
1 小さな研究会
ある日の農事研究会 大波にのまれる運命
2 方向転換
何か希望の道が…… 八木さんの話から
3 新機軸への展望
全員が寄って 会長の真摯な挨拶 何が未解決なのか
4 村造りの研究
楽しい村造りの相談
5 世界革命の口火
どこよりも先に 趣旨はいいが現実は 一つの試みとして
先の〝あの思い出の丘〟の箇所は、〝2 方向転換の、何か希望の道が……〟にあたる。
今度あらためて全文を読み直してみた。そして、理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、その理想実現に生きがいを感じる生き方は、〝あの思い出の丘〟での〝何か希望の道〟が自ずと開けてくる場所を出発点としない限り不可能ではないのかという思いを新たにした。
あえて先回りして言うならば、理想実現への道とはその都度〝あの思い出の丘〟から発して、〝あの思い出の丘〟に還る道筋をたどることではないのだろうか?
こうした自問自答をくり返していると、ここでの始まりの〝出発点〟に立つことの大切さがますます膨らんでくる。
なぜなら人はお互い問題意識がほぼ重なっているように見えても、それだけではいつしか次元の異なる方向へと別れてしまう場合が多々あるからである。
よく皆で研鑽したテーマがある。
“「今が苦しいから楽をしよう」というのと、「今でもちっとも苦しくないが、骨惜しみはしないがもっと合理化しよう」というのと、同じ楽の方向だが内容が異う。
「もっとラクにラクに」と言っていて何時まで経っても楽にならない。遊んでいてもえらい。
どういう状態でも愉しめる心からの現象面解決”
例えば次のような証言もある。
“昭和三十年頃というと山岸会というよりも、山岸式養鶏普及会が活発であった頃だと思います。会へ集まってくる殆どの人が養鶏のようでした。その養鶏も、養鶏の仕組みや目的への興味よりも結果の利益への期待で集まった人が大部分でした。
養鶏がきっかけで山岸会運動やヤマギシズムに興味をもつ人も少数出来てくるわけですが、まだまだこの頃は鶏鶏儲け儲けで夢中の頃で、その間、山岸さんは「どうすれば私の言うことが分って頂けるのでしょう」と題して、養鶏するのも幸福社会実現のためなのに、みんな鶏の儲けだけでとどまって、欲のないこと浅いことですと話されていました。
私達の支部の方へ山岸会が紹介されたのは、腹が立たない・悩みがなくなる・愉快に暮せる等精神的な面からで、養鶏からでなかったことがかえって幸いでした。
後に養鶏をやるようになりましたが、はっきりと〈養鶏は手段である〉としてやることが出来ました。
第一回養鶏特別研鑚会に参加した時、金屋支部の報告をしたのを覚えていますが──精神的なことから山岸会を知ったので、養鶏のことはさっぱりわからないので御指導願いたい。養鶏以外のことで支部を組織しているが、養鶏をやるのならその中で一体養鶏をやりたい──という意味のことを話した所、寝ていた山岸さんがむくっと起きて、
「みなさんどちらがいいですか、いいですか」と連呼されて喜ばれた印象が残っています。
その時その会合へ参加されていた人の中で、現在山岸会活動をやっている人は極めて少なく農業養鶏の消滅とともに去って行きました。”(「前渉行程論2」1973)
いったいどこに原因があるのだろう。人と人とが真に分かり合うことは本当に可能なのだろうか。こうした問いがいつも頭の片隅から離れない。
養鶏するのも幸福社会実現のためだと口にするわりには、鶏の儲けだけでとどまってしまいがちだ。省みてどれだけ養鶏の研鑽会で〝皮だけ持っていく人は実に欲の浅い人で、中味が肝腎であり、その栄養と味が真価です〟と諭されてきたことだろう。
どこが焦点なのだろう。自分は何を感違いしているのだろう。
一つ言えることがある。
理想(目的)に到達するのが難しいのでなく、その理想(目的)への出発点に立つことが容易ではないのだ。つくづくそう思う。
その都度〝あの思い出の丘〟に立ち還ってみよう。
ふとした機縁だった。
妻の初江から〝なつかしい丘へ行きましょうよ。サ、行きましょうよ。〟と強くせがまれて、「よし、行こう」と腹を決めたトタンに心境が変わる新吾。
いつしか身も心も軽やかに数年前の男女青年団長になってしまう!
そして二人は手をたずさえ丘の上に立って大気を胸一杯に深く吸い込むのだ。やる気が湧いてきた。
この〝身も心も軽やかに数年前の男女青年団長〟になりきっての一歩の踏み出しをいうのだ。
ここに起こった見過ごしがちなある微妙な転換、不可思議な機微に、ひょっとしたら理想実現への汲めども尽きぬ源泉があるように感じられて仕方ない。

ちなみにこの「金の要らない楽しい村 ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況(具体例その1)」は、以下のような章立てや見出しで構成されている。
◆金の要らない楽しい村
ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況
1 小さな研究会
ある日の農事研究会 大波にのまれる運命
2 方向転換
何か希望の道が…… 八木さんの話から
3 新機軸への展望
全員が寄って 会長の真摯な挨拶 何が未解決なのか
4 村造りの研究
楽しい村造りの相談
5 世界革命の口火
どこよりも先に 趣旨はいいが現実は 一つの試みとして
先の〝あの思い出の丘〟の箇所は、〝2 方向転換の、何か希望の道が……〟にあたる。
今度あらためて全文を読み直してみた。そして、理想を描き、理想は必ず実現し得る信念の下に、その理想実現に生きがいを感じる生き方は、〝あの思い出の丘〟での〝何か希望の道〟が自ずと開けてくる場所を出発点としない限り不可能ではないのかという思いを新たにした。
あえて先回りして言うならば、理想実現への道とはその都度〝あの思い出の丘〟から発して、〝あの思い出の丘〟に還る道筋をたどることではないのだろうか?
こうした自問自答をくり返していると、ここでの始まりの〝出発点〟に立つことの大切さがますます膨らんでくる。
なぜなら人はお互い問題意識がほぼ重なっているように見えても、それだけではいつしか次元の異なる方向へと別れてしまう場合が多々あるからである。
よく皆で研鑽したテーマがある。
“「今が苦しいから楽をしよう」というのと、「今でもちっとも苦しくないが、骨惜しみはしないがもっと合理化しよう」というのと、同じ楽の方向だが内容が異う。
「もっとラクにラクに」と言っていて何時まで経っても楽にならない。遊んでいてもえらい。
どういう状態でも愉しめる心からの現象面解決”
例えば次のような証言もある。
“昭和三十年頃というと山岸会というよりも、山岸式養鶏普及会が活発であった頃だと思います。会へ集まってくる殆どの人が養鶏のようでした。その養鶏も、養鶏の仕組みや目的への興味よりも結果の利益への期待で集まった人が大部分でした。
養鶏がきっかけで山岸会運動やヤマギシズムに興味をもつ人も少数出来てくるわけですが、まだまだこの頃は鶏鶏儲け儲けで夢中の頃で、その間、山岸さんは「どうすれば私の言うことが分って頂けるのでしょう」と題して、養鶏するのも幸福社会実現のためなのに、みんな鶏の儲けだけでとどまって、欲のないこと浅いことですと話されていました。
私達の支部の方へ山岸会が紹介されたのは、腹が立たない・悩みがなくなる・愉快に暮せる等精神的な面からで、養鶏からでなかったことがかえって幸いでした。
後に養鶏をやるようになりましたが、はっきりと〈養鶏は手段である〉としてやることが出来ました。
第一回養鶏特別研鑚会に参加した時、金屋支部の報告をしたのを覚えていますが──精神的なことから山岸会を知ったので、養鶏のことはさっぱりわからないので御指導願いたい。養鶏以外のことで支部を組織しているが、養鶏をやるのならその中で一体養鶏をやりたい──という意味のことを話した所、寝ていた山岸さんがむくっと起きて、
「みなさんどちらがいいですか、いいですか」と連呼されて喜ばれた印象が残っています。
その時その会合へ参加されていた人の中で、現在山岸会活動をやっている人は極めて少なく農業養鶏の消滅とともに去って行きました。”(「前渉行程論2」1973)
いったいどこに原因があるのだろう。人と人とが真に分かり合うことは本当に可能なのだろうか。こうした問いがいつも頭の片隅から離れない。
養鶏するのも幸福社会実現のためだと口にするわりには、鶏の儲けだけでとどまってしまいがちだ。省みてどれだけ養鶏の研鑽会で〝皮だけ持っていく人は実に欲の浅い人で、中味が肝腎であり、その栄養と味が真価です〟と諭されてきたことだろう。
どこが焦点なのだろう。自分は何を感違いしているのだろう。
一つ言えることがある。
理想(目的)に到達するのが難しいのでなく、その理想(目的)への出発点に立つことが容易ではないのだ。つくづくそう思う。
その都度〝あの思い出の丘〟に立ち還ってみよう。
ふとした機縁だった。
妻の初江から〝なつかしい丘へ行きましょうよ。サ、行きましょうよ。〟と強くせがまれて、「よし、行こう」と腹を決めたトタンに心境が変わる新吾。
いつしか身も心も軽やかに数年前の男女青年団長になってしまう!
そして二人は手をたずさえ丘の上に立って大気を胸一杯に深く吸い込むのだ。やる気が湧いてきた。
この〝身も心も軽やかに数年前の男女青年団長〟になりきっての一歩の踏み出しをいうのだ。
ここに起こった見過ごしがちなある微妙な転換、不可思議な機微に、ひょっとしたら理想実現への汲めども尽きぬ源泉があるように感じられて仕方ない。
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