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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

新年にあたって

特講絵図原画(部分)山岸純 作

つい2、3年前まで、自分がスマホを持つなんて考えられなかった。ノートパソコンと携帯があり、時々音楽CDや映画DVDをレンタルするだけで充分に満たされていた。今更この歳になって、複雑そうに見える操作を習得するのかと想像するだけで腰が引けた。

ところがLINEで連絡し合う必要に迫られ持つことになってビックリ。何だ、これはポケットに入るコンピューターではないのか!?
ニュースも天気予報もテレビ番組も時刻表もすぐ知れる! 大部の『山岸巳代蔵全集』全7巻がいつでも、どこででも読める! 最近はアメリカTVドラマ視聴にハマっている。なかでも生まれつき弱視の自分の妻など一番の恩恵を受けている。それまで読めなかったヤマギシの〝むらーnet.〟も読み上げてくれるし、連絡のやり取りも音声入力で超簡単! その昔、冬の夜始めて自販機でカップヌードルを食べた時の文明の利器の有り難み、温もりと重なってくるようだ。

そうしたあらゆるモノがネットに繋がるIoTや人工知能(AI)の目覚ましい外なる物質進化と共に、内なる人間自体のヒトが人になる豊かさ、広さ、徳性のようなものがどこまで備わってきただろうか? むしろ末梢神経的に偏向し、〝先ず自分が食えて、安定してから〟と自分の立場を頑として自分で護り主張することで自ら苦しい立場に立たされ苦悩し、他にも大きな害毒を及ぼしている思い違いの観念習性に慄然とする。
今ほど外なる創造に見られる積極的能動の成果顕著なるものが、内なる人間自体の開発・創造面においてもどれほど能動効果の足跡を残せたかを問われる時代はない。即ち―

 戦争のない世界を実現することにある。
 自己の延長である愛児に、楽園を贈ることにある。
 宗教の要らない真理即身の人間に、医者の要らない身体になることにある。
 金の要らない仲良い楽しい譲り合い贈り合いの世の中にヒックリ返す大仕事がある。

幸いにも自分らは「真理は一つであり、理想は方法に依って実現し得る」という考え方を持っている。
明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの。
この考え方を元に、もし、今日只今が正常・健康でないなれば、速やかにそれの原因を検究して、その間違いの部分を発見し、実際にそうなるようにしていくことだ。
悲しい今日の中から楽しい明日は生まれない。

そして〝その間違いの部分〟とは〝自分の立場を頑として自分で護り主張する〟、これこそ我執であった。だがしかし自分の我執に気づき、無くすると一気に世界が開け、仲良く溶け合う中で、誰の中にも潜在して自ずと湧いてくる親愛の情に触れられた!
そんな各々真実の自分を知り、自分の我執はむろん、世界の我執を無くすることを、総てのものの始めとしよう。

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「九龍城砦」

かつて香港に「九龍城砦」と呼ばれる十階から十四、五階建ての約500棟にものぼるビルの集合体があった。
大小のビルは建物を建てる際に杭打ちをしないから、外壁をくっつき合い寄り合うことでバランスを保っていた。しかも廊下同士が空中でつながっているために、立体迷路を形づくっていた。1970年代後半には、最盛期五万人が約100×200メートルの敷地の中に暮らしていたという。
九龍城砦

歴史的には、そこはアヘン戦争後の清・英両政府の間に結ばれた南京条約によって香港島が英国に割譲されると、清朝は1847年、戦略拠点として対岸のこの地を本格的に城砦化した。
その後、イギリスの植民地だった香港の中で「九龍城砦」は中国の飛び地ながら清国の管轄権が及ぶとされて、名実ともに中国・英国両政府も手をつけられない治外法権の空間が生まれた。
1949年中華人民共和国が成立すると、香港には多くの難民が流入した。
以後そこは、税金、法律等々の行政権が及ばない「無法地帯」として「悪の巣窟」「伝説のスラム街」「東洋の魔窟」などの異名を持つようになった。そこはまた1990年代前半に取り壊されるまで、職場と住まいと地域が渾然一体となっての、子供が産まれ、育ち、家族が増えていく人々のリアルなまでの生活の場所でもあった。

なぜか妙にそんな高密度に凝縮された特異なコミュニティに惹かれる自分がいる。
夜眠れない時など、そこの一室に住む自分自身をさまざまに空想しては楽しんでいる。
だから何時かその地を訪れてみたいとひそかに願望していた。
それが今回なんと実現した!

今は「九龍寨城(きゅうりゅうさいじょう)公園」に生まれ変わり、一角に「九龍城砦」の暮らしぶりを紹介する展覧館や模型が設けられていた。
九龍寨城公園
九龍寨城模型


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新年にあたって

「僕らはもう一週間も輪になって座っていた。ときおり天井から吊してある白い垂れ幕が真夏の午後特有の涼風に逆らわず大きく形を崩し、そのたび輪の誰かが口を開けると、僕らは一斉に声のする方へ顔を向けるのだった。しかしそれも、輪の中心に控えている男にあっさり『もう少しや、よーく考えて見たら』という声で軽くいなされると、先ほどの誰かの発言も色合いを失いまた元の沈黙が訪れるのだった。(……)
とにかく僕らはもう一週間も男が時々くり出すテーマを切れ目なく考えてきた。それは長い間に洗練されたと思える単純で短い言葉だった。それもきまって思ってもよらない意表を突くものだから、その言葉を発した男の口と顔をまじまじと見つめざるを得なかった。しかしその後はただ男のキセルからの紫煙だけがゆらめいていた」

十八歳の頃に「特講」を受講して少し時が経ってから、あの一週間の体験はいったい何だったのだろうかと、確かめたくてノートに書きちらしたものだ。
以来半世紀「もう少しや、よーく考えて見たら」という問いかけが心に焼き付いている。その後もいろんな形で現れてくる問題についても、自分の心からの実感にかなうところまで行きつ戻りつ再三再四考え続けてきた。人に対して問うのではなく、自分に対してくり返し問うてきた。
するときまってそんな自問自答のくり返しが「底つく」と、あの「特講」体験と同じく一気に視界が開けて、それまでの自分が押し隠していた傲慢さまでが明らかになってくるのだ! 思わず「やったぁ」と心踊る瞬間だ。

反面今の社会には、本音で考えなくてもよい、単純な、損得・善悪・0と1の二分的思考や「目には目を」の反射的行為がしっかり根付いている。まさに「平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む」(「知的革命私案」山岸巳代蔵)といった内在する矛盾・社会我で混乱している。また急速に「高齢社会」に入った自分らの暮らしの周囲では、介護疲れによる心中事件や殺人事件が連日報じられる切実な問題として迫ってきた。

ではこうした「パリ同時多発テロ」や「介護家族の悲劇と苦悩」などの諸問題を、自分らはどのように受け止め、どのように対処しようとしているのだろうか。

やはりあの「底ついて」通じ合うところから出発したい。自分が自分に対してものを問うやり方で、どんなことでも自分が心からそうしているという「生き方」の確立からはじめたいと思う。自分を考え、自分を改め、自分を深める。自分が変われば世界が変わる。自分の心からの行いが世界の心に響くもの。

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養鶏サミット開催

8月23日から25日まで春日山実顕地で、ブラジル、オーストラリア、スイス、タイ、韓国、日本と全実顕地が一堂に会しての養鶏サミットが開催された。
ヤマギシズム養鶏が誕生して60年近く経ち、その過程に於いて培ってきた技術や精神を寄って出し合い、ヤマギシズム養鶏の本質を見極めていく中で、次世代の養鶏、実顕地を共に描く機会にしていこうとする趣旨からだ。

参加者は、農業養鶏の時代に直接山岸巳代蔵から指導を受けた世代、養鶏法研鑽を通して社会式養鶏を実施してきた世代、直接養鶏には接していない世代など多岐にわたった。
まさに時と、空間と、熱意の相乗積に満たされた画期的な研鑚会だった。

「餌袋が重くてしんどいから、自動給餌にできないものか?」「否、それはヤマギシ養鶏ではない」として、そこでとどまるのではなく、自分の思っているヤマギシ養鶏にとらわれる事なく、具体的にも学理的にもそれを研鑽できる場がここに誕生したのだ!

しかも今、ブラジル、オーストラリア、韓国等の諸国では、ヤマギシの平飼い卵が広く求められている動きを直に知らされた。
世界の養鶏産業の流れは動物愛護などの観点から、ケージ飼いは禁止、弱い鶏のお尻をつつく「尻つつき」を防ぐためのデビーク(くちばし先端のカット)や強制換羽の禁止の方向へ動いている。必然鶏の品種改良も、デビークしなくても良いおとなしい鶏つくりに向かっているという。

こうした流れの中で、今こそヤマギシ養鶏の出番、チャンス到来だと当初から関わってこられた中西喜一さんや杉本健三さんが熱く語ってくれた。
中西喜一さんは、雛の育て方、飼い方しだいで健康正常な鶏つくりが可能なことを世界に打ち出したい、と。
杉本健三さんは、皆が求めている安くて美味しい質の良い卵を評価してもらえる「一卵革命」こそ実践したい、と。

『山岸会養鶏法』の一節に
「如何に天才でも、自分がその境地におらないと、現実、目のあたり草茫々の破れ世帯を見てからでは、観察が曇るらしいです」

とある。ホント、日本に居て日々目のあたりに空の鶏舎群を見てからでは観察が曇るらしい、とはこのことだった。そんな愉快な発見もあった。

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鶴見俊輔氏を悼む

7月24日付けの新聞は哲学者・鶴見俊輔さん(1963年・第一七九回特講受講)の死去を伝えていた。

先年(2012年4月)会の機関紙『けんさん』に「吉本隆明氏を悼む」と題して次のように記したことがある。
「おもえば京都の鶴見俊輔氏と共に東京の吉本隆明氏は、理想を追い求めてやまない山岸会の試みをこの間一貫して温かく見守ってくれていた両翼だった」
その片翼までも今失ってしまった。

養鶏の儲けを人寄せの餌に寄ってきたどこの馬の骨かわからない百姓上がりの「運動体」から、人類の思想が未だ一番肝心で未解決のまま残している世界性とか普遍性に繋がる道筋へのたくさんのヒントや励ましを何十年にもわたって両氏から受けてきたのだった。その一端を鶴見さんの発言から拾ってみる。

「ヤマギシ会が中心の観念として『ダレノモノデモナイ』という考えを置いたってことは、なるほどと思いましたね。いま新しく開拓されている日本史の道と響き合うものがある。まったく前衛的な道なんですよ」

「ヤマギシ会の研鑽方式というのは論争って形じゃないんですよ。(論争とは)別のゲームのルールで、ろくろがぐるぐる回っている形なんですね。その中にいろいろなものを投げ入れていくでしょ。そこに面白みがあるんですよ」

「人類は絶滅すると思うんですよ。二〇世紀の現実というのは進歩なんていうものじゃないですよ。有史以来、人間が同種の人間をこれだけたくさん殺してきたというのは、二〇世紀までなかったでしょうね。これから長い衰亡期に向かっていくでしょう。その準備、してないと思うんですよ。テレビとかインターネットとか言ってるけれども、電力は使えなくなるし。そして文字もせっかく作ったけれど文字を伝える能力がなくなって、ふたたび無文字社会として長くやっていく。その間には、蟻でも蜂でもやっているような助け合いということが、人間も動物なんだから起こるでしょう。
私はヤマギシ会はその助け合いの原則を先取りしてそれによって生きていると思いますよ。そしたら人類の衰亡期とヤマギシ会がつくってきたものがあるとき出会うでしょう。絶滅にむかう道で導きの星になる」

「今、ヤマギシ会は着実にいくつか成功を収めている。だけどね、成功は失敗の母。逆手をとられないように注意しなくては。ヤマギシ会がここまで来たのは、最初に頓挫してほとんど潰れかけたからでしょう。それを噛みしめることが重大なことで、あの大失敗が私をヤマギシ会へ引き寄せたのであって、成功が私を引き寄せたわけではない。それぞれの失敗は必ずきっかけになる。全体の成功したものの上にのっかってやったとしたら、これはまずいんじゃない?」(「ヤマギシズムの可能性」1996.11『けんさん』)

今自分らは微力ながら両氏の励ましを受けて、どんな主義主張にも拠らない、牆壁を越えてまじりあう、山岸会養鶏法の出発点「稲と鶏」での「と」に立つというか、そういう場所に立つことではじめて展開する世界について想いをめぐらしている。「と」に立つ実践哲叢のようなものを描きつつ愉しんでいる。

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全国実顕地づくり研鑚会

先日の全国実顕地づくり研鑚会(9~10日豊里にて)は産業編だった。研鑽資料も使った。
例題の一つに、最近O実顕地が韓国からのテレビ取材を断ったあたりが取り上げられた。韓国では家畜伝染性疾病の発生が今も続いているという。万が一国内で発生させて近隣・地域の同業者に迷惑をかけないようにするのが家畜で産業を営んでいるものの勤めであり心情でもあるからだと。

そうだろうか、本当にそうだろうかと、研鑽は続く。そこのどこが「どうだったのかなあ?」。これからの実顕地づくりの方向性を明らかにしたい象徴的なテーマのようにも感じられた。
どのあたり?

研鑚会の翌日、ふと青木新門さんの日記が目に入った。

7月11日(土) 晴れ
昨夜から徹夜して中外日報の原稿(一回四枚)4回分を一気に書き上げた。既存仏教界に剣を投げ込むような文になった。ふと、イエスの言葉が浮かんだ。
「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和でなく、剣(つるぎ)を投げ込むために来たのだ」(マタイによる福音書第10章34)とイエス・キリストは言う。こんな過激なことを言うイエスを為政者はほっておかない。十字架にかけるのは当然であろう。南都や比叡山の旧仏教界に法剣を投げ込んだ法然を社会秩序を乱すものとして流罪にした時の為政者の行為も頷ける。親鸞は「主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ』とその無理解を憤慨したが、当時の為政者は法然の説く仏法がわからなかったのである。中には理解していた関白九条兼実のような人物もいたので、その配慮で死刑から流罪になったのかもしれない。とかく古池に飛び込んで波音を立てる蛙は危険な目にあう。しかし私のような者が何を書いても、曳かれ者の小唄ぐらいにしか思われないから心配は無用である。しかし今日は真実を述べようとする時は為政者よりマスコミの方が恐ろしい。活字になる前に編集者によってボツにされる。そんなことを思いながら、仕上げた原稿を再読していた。明日改めて推敲して送ることにして、昼食か朝飯かわからないような食事をして、ベッドへもぐりこんだ。

そうそう、このあたりもっともっと研鑽したかったのだなあと思い至った。
続けてイエスは核心にふれていく。

「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書第10章35~37)

そうなのだ。一般社会通念・常識から眺めたら、ひょつとしたら通称「金のいらない仲良い楽しい村」づくりほど常識外れで危険なとんだはた迷惑な行為に他ならないかもしれない!? このあたり山岸巳代蔵は

「一般の逆を言うから、近所の噂も悪いですからと言っておくと、近所でなんぼ聞かれてもよい」

とさらりと受け流している。 
ゆめゆめ「良いことをやっている」と思うなかれ、といった感慨があふれた。

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チューリヒ美術館展

5月10日まで神戸市立博物館で開催されていたチューリヒ美術館展にようやく間に合った。
お目当ては、モネが晩年に手掛けた幅6メートルの大作「睡蓮の池、夕暮れ」と
睡蓮の池、夕暮れ

「陽のあたる積み藁」、
日のあたる積み藁

カンディンスキーの「黒い斑点」。
黒い色班


そのカンディンスキーに、若き日モネの「積み藁」を見た最初の衝撃を語る一文がある。

「私は、私の全生涯に一つの印を押し、当時私の心底を揺さぶった、二つの事件を体験した。それは、モスクワでのフランス印象派展――第一にクロード・モネの〈積み藁〉……であった。……
私は、積み藁であることが識別できなかった。この識別できぬという点、私は困った。……私は漠然と、この絵の中には対象が欠けている、と感じた。……
これらのことがすべてどうして起こるのか私には判然とせず、したがってこの体験から生ずる簡単な結論すら描き出すことができなかった。それでも徹底的に明らかになったこと――それは、私のありとあらゆる夢を超えていく、以前は私に隠されていた、予想だにしないパレットの力であった。絵画は童話的な力と華麗さを獲得したのだ。他面、知らず知らずに対象も、絵の不可欠な要素としての信用を失ってしまっていたのだ」(『回想録』)

ここでの対象(客観的なもの)が欠けている、とか対象(客観的なもの)が信用(価値)を失う、とかはどんな状態のことをいうのだろう?
この間「イズム実顕地づくり考」を書き継ぐなかで、真なるものは「資本主義的影響を受けた発想の一切の削除」からしか立ち現れてこないのではなかろうかと思いあぐねていたからか、対象(客観的なもの)を全面的に除去して抽象絵画にたどりつくカンディンスキーの生涯かけての行蹟が今じつに興味深い。

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青木新門さんの講演会

3月6日(金)夜七時から『納棺夫日記』の著者、青木新門さんの講演が自分の住む実顕地内で実現した! 今日の青木新門さん自身のブログにもそのことがくわしく書かれている。
そのなかにマハトマ・ガンジーの言葉が引用されていた。

「目的が崇高であればあるほど、その手段も崇高でなければならない。なぜならば手段の集大成が目的であるのだから」

そうなのだ。目的と手段が「一つ」の実顕でもあるのだ! それには自分自身の生き様がいっとう最初に問われてこざるを得ない。しかもそのことを、晴れの日も雨の日もあるふだんの日々のなかで寒夜に滝に打たれるような荒修行を通してでなく、和気藹々のうちにどうやって成し遂げることができるか? ここにおのずと私たちの実顕地生活の面白味、やり甲斐・生き甲斐・存在価値が見出されてくる。

以前にも書きとめたことがあるが、2000年前後自分も自分が属する組織体も混迷状態に陥っていた時に、ふと手にした一冊の文庫本『納棺夫日記』。そのなかの納棺の現場で出遇った元「恋人の瞳」の一節。自分の琴線に触れた一瞬だった。その後幾度となくそのシーンが思い浮かんでは癒やされたことか!

ついにはその瞳の奥にある「何か」と自分自身のリアルな一つの体験が重なり合い溶け合った。その時全体総てを見渡せる明るい世界が見えてきたのだった。ヤマギシズム研鑚学校Ⅲの課程が誕生した瞬間だった。

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島田裕巳さんに托すもの

先日、宗教学者・島田裕巳さんのブログ
「そのあと、ヤマギシ会のメンバーがきて、編集者と顔合わせをする。ヤマギシ会の隠れたリーダー、杉本利治氏の思想を紹介する本を考えている」(2月17日)と記されていたが、私の方から幾らかの背景をつけ足してみたい。

というのは私にはふだん事ある事に頁をめくってみる三冊の書がある。通称青本(『ヤマギシズム社会の実態』) と赤本(『山岸会養鶏法』)と私の方で勝手に緑本と呼んでいる小冊子である。

そして密かにこの三冊を読み解くことで、これからの世界政治・経済・社会・人生問題及びその他凡てに相共通し、応用して万事を解決する具体的な提案をいつでも出すことができるのだと確信している。

しかもこの「研鑚資料1976年編」と題された小冊子は、主にそれまでの私と杉本さんとの往復書簡を「前涉行程論」「適正規模実顕地構想」と題してまとめたものが収録されている。そしてこの小冊子を作成したのが、当時の島田さん本人なのだ!

1970年代に参画した私たちは、杉本さんを通したヤマギシズムに関する言説から鮮烈な印象を受けた。私にとっては今なお続いているが……。それはいったい何だったのか? かつそれは現在もなお検討に値するものだろうか?

じつは本ブログでの、連載〈「と」に立つ実践哲叢〉もそうした問いからの試みの一つである。

島田さんの時代の空気を読む感性は、ひょっとしたら「杉本利治氏の思想」に今を切りひらく可能性をとらえているのかもしれない。

その時その場で最高に活かされ、それ自体が歓びで、足跡を消して消え去っていくものがある。だからこそなおのこと、そのものをしっかりと心に刻んでおきたい欲求がつのるのだ。

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青木新門さんとの出遇い

二三日前からニュースの天気予報は、2月9日(月)にこの冬最強の寒波が到来し、日本海側での大雪を警戒する。じつは心待ちにしていた映画「おくりびと」誕生のきっかけになった『納棺夫日記』の作者、青木新門さんの講演が新潟県南魚沼市浦佐の地域交流伝承館「夢草堂」にて開催される日なのだ。

浦佐といったら有数の豪雪地帯だ。よりにもよって当日なのだ! 講演日があと一日前後していたら良かったものを、といった弱音な気持ちがわいてくる。しかも、三重から出発して途中で富山に寄って当の青木さんを乗せて講演が始まる夕方六時までには辿り着かねばならないのだ。不安だなあ。

幸い、何年か前に雄物川など雪国の実顕地の屋根の雪下ろしなどに行けるようにと購入した雪道に強い10人乗りのトヨタハイエースの四駆にスタッドレスタイヤを装備した車があった。(結局この車の偉力に助けられたのだが)

案の定北陸道は吹雪の中での走行になるが、想定時間内で富山インターを降りる。青木さんはJR富山駅北口のホテルで待っているという。しかしその立派なホテルを目印に一周するが見つからない。思い切ってホテルのエントランスへ車を横付けすると、中から長靴姿の青木さんが出てこられた。そうだった、このホテルも青木さんが今も関わる会社の事業の一つだったのだ。

車は北陸道から関越道へと入る。道路事情は一変する。走行車線と追い越し車線は踏み固められた雪で見分けられない。前方視界は真っ白。案内板は積み上げられた除雪の壁でほとんど隠れている。時折追い越し車線を大型トラックがばく進していく。信じられないけれど、前へ進むしかない。

それでも開演時間に間に合ったのは、奇跡としか言いようがない。

講演の内容はみな著書に書かれてある話なのだが、語りそのものが一つの哲学思想にまで結実していく様に感動した。

たとえば、葬式の現場で納棺夫として毎日死者に接してきた。そんな日々からおのずと「死とは何か、往生とはどういうことなのか」といった疑問が生まれてきた。そこで死について書かれたいろんな書を読んでみる。しかし腑に落ちるところまではいかない。実感としてわからない。
ところがある時から、死者の顔のほとんどが安らかな顔をしている事実に気づいた。よくできた仏像とそっくりだ。「これって一体何なのだろうか」
そんなことをくり返しくり返し考えていると、ふと生と死や善と悪を超えたところ、双方とも見えるそんなところがあるのではなかろうか。釈迦や親鸞も、そんなところから言葉を発しているのではないか! そんな気づきも生まれてきて心躍った。
ある時宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩に出遇った。
「あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです」
なんだ、そうゆうことだったのかと思った。腑に落ちた瞬間だった。
親鸞が断言する「仏は不可思議光如来なり、如来は光なり」が、そのまま飛び込んできた。親鸞もまた「ひかり」との出遇いを体験し、「ひかり」を垣間見たのだ! 
その体験こそ、まさにじぶん自身の体験でもあった! 相反すると見なされてきた生と死が一つになる世界であり、「永遠に生きる」いのちの輝きとしか言いようのないものだ。
こうした語りを、今度の東日本大震災の後、被災者の前でする機会があった。みなさん、亡くなった人たちに「寒かっただろう」「痛かっただろう」との思いが胸につかえておいでだった。だから「きっと青空を見ておられたのですよ。そして『いままで、ありがとう』と言いながら逝かれたと信じています」と伝えた。そしたら、一番前にいたおばあちゃんが「やっと、こころが救われました」と話しかけられてこられた。
うれしかった。

ともあれ、いろんな必然が重なり合い豪雪という試練も受けて実現した一生の思い出になりそうな一泊二日の青木さんとの出遇いだった。

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新年にあたって 本旨 心あらば愛児に楽園を

観光道路・レインボーラインの山頂公園からは、日本海・若狭湾の入り組んだリアス式海岸に面した若狭湾国定公園を代表する景勝地、三方五湖(みかたごこ)が一望できた。しかも正面の水月湖には何度目かのボーリング調査やぐらも遠望できた。

この水月湖から1991年七万年間におよぶ年縞(ねんこう)が発見された。年縞とは、木の年輪にも似て春先に大発生するプランクトンの死骸(白い縞)と秋から冬にかけて積もる粘土(黒い縞)とが織りなす縞模様で、過去の気候変動や植生変化などに関わる重要な情報が含まれているという。何万年にもおよぶ泥の堆積が奇跡的に維持されていたのだ!

麓の若狭三方縄文博物館には、湖底から採取されたボーリングコア試料の一部が展示されている。年縞の一年あたりの厚さは約0、7ミリ。その中に中国大陸からの黄砂,火山灰、珪藻、花粉、葉っぱの化石等々が分析解明されて、地震や大洪水の年も正確に復元されているという。

驚きだった。それまでわたしの中では地・水・火・風など無生物界の現象は、時の流れとともに跡をとどめないものという先入観があった。しかし泥の堆積物が語る事実に触れて、人間を含む動植物の生き様と変わらないのではという思いに打たれたのだ。数万年前までさかのぼれる黒っぽい縞と白っぽい縞の交替のくり返しに、無生物界の意志というか「こころ」を見たかのような……。

稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく。そして吸収生長の期と後の世への生命の繁栄を、劃然と区分する。

わたしたち人間もまた、生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬ世代交替を代々くり返している。そんな不断の前進一路・無停頓の律動(リズム)を生きるわたしたちがいる! そうした交替の律動(リズム)現象に、なぜか名状し難い興奮を覚え、体の奥からなにか心温まるものがこみ上げてくるのだ。

『ヤマギシズム社会の実態』の書に「本旨 心あらば愛児に楽園を」とある。ここでの「心」とは、あたかも無停頓の律動(リズム)に惹きつけられるわたしたちの自然全人一体に繋がる「こころ」をいうのだろうか。
そんな大自然の「こころ」に共感する心から、吾が児に楽園を贈る実践幸福運動を今年もみんなと共にやっていきたいと思う。

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パネルフォーラム「私のなかのヤマギシ会」

進行 先日の島田裕巳さんとの出版記念対談の感想から
佐川 先月末、島田裕巳さんと出版記念対談をしてその後何人かの人から「もっと話を聴きたい」と言われ、僕の話を聴きたいなんて滅多にないことでそらそうだなぁと思って、自分が日頃考えていること、感じていることをもう一歩踏み込んで話できたらいいなぁと思って、今日この場に来ました。島田裕巳さんは宗教学者で、ずっと一貫して「自分はヤマギシ会の体験があったからこそ、宗教学者に成れた」とか「自分の人生の出発点は特講だった」と云う風に公言されている方なんです。もう100冊以上、毎月の様に本を出版されて今もっとも学者として旬の人です。どういう風に記念対談できるかなとこの間も大分一所懸命考えて、やっぱり僕が日頃実顕地の中で考えていること感じていることとか、ずっと一貫して追求しているテーマと島田さんの世界がどこかで重なるところがあったらいいなぁと思って、島田さんのどこで、僕の一貫して考えているテーマと重なるんだろうかなぁと思っていたら、やっぱり島田さんの特講体験がすごく僕の中では印象が深くて、特に特講の怒り研の体験が25年位前に書かれた文章にあるのですが、僕らはなんか暗黙のうちに特講の1週間の内容と云うのはあんまりしゃべったらあかんとか、表現したらあかんという感じが固定観念のようにあったけど、島田さんはそれを1週間の特講のプロセスとか世話係の問いかけとかそれに対する自分の心境とかをきっちり、何回か書かれている。その中で特講は2つの型があると島田さんは分析されていて、「解説型の特講」と「発見型の特講」島田さんは当時、日光で特講を受けられたけど自分は発見型の特講だったという感じをされていて、へぇそうか、発見型か、そんな風に特講の怒り研の体験を書かれているんだなぁと思った。その島田さんの怒り研の体験を読んだ時、えぇここまで表現できるのか、ここまで言葉できっちり特講の中身を表現できるのかと思って嬉しかったことがあって、この世界と自分が実顕地でやっている世界とが重なるんだなぁと思って、それを当日島田さんの前で僕読ませて頂いたのです。そしたら後でそのことをすごく喜んでくれて「自分はあんな素直な文章はもう書けないよ」って、ここで重なった、一つに成れたと自分自身嬉しかった体験がありました。

進行 「イニシエーションとしての宗教学」という本の中から島田さんの文章を紹介します。

「私は次第に答える言葉を失っていった。それは他の参加者の場合も同じだった。誰の答えも係りを満足させず、即座に切り替えされた。参加者の発言が少なくなるにつれて、係りの問い詰め方はキツイものになって行った。会場の空気は重苦しいものに代わり、沈黙が続くことが多くなった。すでに時刻は真夜中になっていた。おそらく他の参加者も同じように考えていたことだろうが、私は自分がなぜこんな目に合わねばならないのか理解に苦しんでいた。こんな事になるのならやはり参加しない方が良かったのではないだろうか、一刻も早くこの状態から逃れたかった。しかし脱出のための糸口はなかなか見えて来なかったのである。ところが参加者の中に自力で脱出口を見出した人間がいた。それは早稲田大学に通っている私と同じ学生の女子学生だった。彼女は「今自分が腹を立てた時のことを考えてみると、腹が立たないような気がする。今度そういうことがあっても腹は立たない」という発言をしたのだった。この発言は意表を突くものであったが私には納得することができた。彼女の発言を聞いて体の奥から何かあたたかいものが込み上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。係りの発する何で腹が立つのかという言葉も怒りの原因を尋ねているのではなく、腹を立てる事など無いではないかと反語的な表現として聞こえてくるようになった。その瞬間から私にとって特講は苦しいものではなく楽しいものに変わって行ったのだった。」

佐川 自分自身が今日まで追求してきたというか求めてきた自分のテーマを紹介して、今回贈り合いの経済という本を出した辺りのきっかけを紹介してみたい
自分は1970年に春日山に参画した。76年位に豊里実顕地を訪れた時に、11号の宿舎の辺りが当時は小高いミカン畑になっていたところを、亡くなられた佐久間さんらがブルで地ならしを毎日のようにやられていた。豊里実顕地の新しい展開が始まるのかなぁと感じて、それを実顕地造成の世話係をやっていた杉本さんに「実顕地はこれからどんな風に展開していくのですか?」ということを往復書簡の形で作成した適正規模実顕地構想として編集して当時のけんさん紙に出した。その当時は、多摩で供給活動も始まっていた頃で供給所通信が出ていてその通信の中で配送の人たちの感想文が書かれていた。その中の一節を杉本さんが引用されていて「配送に行くとちょっとたまご屋さんと声かけられる。配送の人は自分はたまご屋さんじゃないんだけどなぁと心の中で思っていた」と。杉本さんの方からは「大切なことは表現され理解されることもなく終わるかもしれない秘められた実態の把握ではないか」とそういう一節を書かれていた。「表現され理解されることもなく終わるかもしれない秘められた実態の把握」、なんかすごくその一節に僕はしびれたというか、大切なことがあって、それが表現され理解されることもなく終わってもよしというか、なおかつそれが把握できたらもっとよい、そういう含みのある表現というか言葉で、自分も「秘められた実態それを把握したいなぁ」というのが動機だったんです。それ以来ことあるごとに秘められた実態の把握ってあんなことかなぁこんなことかなぁと自分の中で問い続けて、今日まで来たのかなぁと思っています。それを実際にもっと確かめようと思って、研鑽学校Ⅲを設けてもらって2週間の合宿生活の中でも秘められた実態の把握をメインテーマにしてずっと30回以上になりますけどやっています。

進行 第2の特講といわれていますが
佐川 毎回なんですけど研鑽学校Ⅲを終わった人の感想がまるで、第2の特講のようだと感想をもらされるんですね。ああそうか、特講なんか。自分がもう一人の自分に出会う感じだから、そういう意味では特講なんかなぁと云う位にしかその時は認識していなかったけど、2年位前から実顕地メンバーだけでなく、会員の人たちにも特講さえ受講した方なら誰でも研鑽学校Ⅲに入れるようになるという感じで門戸を広げた。ある時、山形から小関さんという50歳ぐらいの方が参加された。ずっと以前に子供を幼年部に送って、その時に特講を受けられた。それでしばらくヤマギシとの関係はなく、勤めていた会社を辞めて実家に帰って新しく第2の人生を歩む変わり目の時に研鑽学校に初めてきた。研鑽学校Ⅲの13日目位かな? 急に小関さんが自分の特講のことを語り始めた。残れますかの研鑽で自分は絶対に残れるはずはないと思っていたのが、突然研鑽の中で座布団から1メートル飛び上がったような感じではっとした。涙があふれて自分はそこで生まれ変わったという体験をされたという。研学Ⅲの13日目で、そういうところでみんなが第2の特講とみなさん言われるんだなぁと、それ以降、何人かが怒り研の事で終盤に語られる方がいたりして、あぁそうか、怒り研でさっきの島田さんの感想のあったかいものが込み上げてきたとか、涙が出て止まらなかった小関さんのそれと、自分がずっと問い続けてきた秘められた実態の把握というのが重なって、自分の中で昨今、ますますこんなことかなという感じでいます。

進行 研学Ⅲで映画「おくりびと」を取り上げた動機は?
佐川 8年前の6月に研学Ⅲを始めて、2回目を10月にやって2回目が終わった頃に、映画おくりびとを見た人が「面白いよ」と言われて、封切されていたがらがらの映画館で見た。鮭が遡上してくるシーンで、主人公が見ていて通りかかったおじさんに「むなしいですね、死にに帰るなんて」と言ったらおじさんが「帰りたいんでしょう、故郷に」という会話をしますよね。これは研学Ⅲでやる鮭の遡上の姿を研鑽するのと同じことを言っているじゃないかと思って、3回目の研鑽学校から研鑽資料で使おうと単純な動機で始めた。毎回みんなで観て研鑽するのをずっとやっていたら、ある時期、関東の方から参加された会員で、映画の見方がするどいというか深い人がいて、全く違う場面のことでずっと語ってくれた。それを聞いて僕はこれって、こういう場面でこんな風に読めるというか見れるのかと感動して次の回から今日までその場面で研鑽しています。

進行 おくりびとの原作者である青木新門さんのことは?
佐川 僕は原作になった「納棺夫日記」を、私と同じ郷里富山の人が書いていると近しい感じがして、文庫本で10何年前から読んでいた。中でも自分の中で鮮明に浮かび上がるシーンがあって、青木新門さんも1000回以上やった講演の中で毎回その体験を語られると聞いてなるほどなぁと思った。感動したシーンの一つに納棺夫になられて、ある程度仕事に慣れてきた時にある家に行った途端、ここって昔別れた彼女の家だとびっくりしたそうです。かなわんなぁ、今日はこれで帰ろうと思った位吃驚したけどそんな訳にもいかず、別れた彼女は横浜の方で結婚していて、彼女に会うのつらいなぁとの思いで思い切って入ったら彼女の姿が見えなくてほっとして、亡くなったお父さんの湯灌の仕事をしていたら、ものすごく汗が出てきて、その時隣に座っていた彼女がすっと額の汗を拭いてくれたそうで、その時青木さんビックリされて、その頃まだ青木さん納棺の仕事に劣等感というかいい仕事じゃないと思っていたけど、そういう自分を全部丸ごと受け止めて認めてくれるような感じで彼女がずっと傍で最後まで寄り添ってくれていたそうです。そのことが青木さん嬉しくて、次の日からガラッと行動を変えて、行くときはちゃんと白衣を着てきちんとした服装で納棺の仕事をどうどうと一つの仕事としてやれるようになったという体験をされている。もう一つ、こういうことはよくあるなぁ、自分の中でもあるなぁと思ったのは、そういう仕事をしているから親族の方からお前のやっている仕事は親族の恥さらしだ位に言われていて、特におじさんが急先鋒で一貫して自分の事を罵っていた、そのおじさんが病気になって、青木さんとしては見舞いに行く気はさらさらなかったけど、おじさんの奥さんから青木さんのお母さんに「会いたいと言っているから会いに行ってよ」と連絡が入って、青木さんとしてもしぶしぶ、いやいや行ったそうです。おじさんはにっこりとして「ありがとう、よく来てくれた」と言ってくれたそうです。青木さんはその時思わずおじさんの手を握り土下座をしたそうです。本当に一瞬のうちに自分の中からおじさんへの憎しみが吹っ飛び消えたという話をされているんです。僕なんかそんなの聞いていて青木さんの体験の話の中身も、自分らの特講の怒り研とか残れますかの気持ちとか自分が一貫して考えている秘められた実態の把握とか全部一つに重なってくるように思えてきた。

進行 研学Ⅲは自分が自分に出会う2週間と言われていますが
佐川 今日来た本題というか、一番僕が今思っていることに入っていくのですが、自分自身一番ずっとこの間考えてきたことの一つに、皆さんも殆んど体験されていると思うのですが、例の実顕地運動とかヤマギシ会の活動の中での2000年前後のマスコミバッシングとか、そういう中での実顕地の中でのいろんな心の動揺とかその辺の原因がどこにあったのか、そこを乗り越えたい思いがずっとありました。特講のテキストにも書いてありますが「今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・人と人とが離れ、相反目している」ところにあると言われている。別にこれは今の社会というより、自分の心の中があの当時を振り返ってみたら自分の心の中がそうだった。すごく人と人が自分が離れていてお互いが相反目しているような状態。そんな心境で自分だったなぁと思うんです。この先ヤマギシ会の運動はどんな風になるのか実顕地はどうなるんだろうか、すごく自分自身不安な日々があって、どう乗り越えて行ったらいいのだろうかと大分考えました。そういう中で答えというかヒントというかは、実践の書・特講のテキスト青本の中に、絶対あるはずだという気もして一生懸命青本を読んで、その中で自分の中でこの辺かなとみつかった一節がテキストの中にある人情社会組織に改造の一節「人は、人と人によって生まれ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に繋ぎ、永遠に生きることは絶対不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく」、真理に相違なくとまで言っているこの一節をどう自分たちがどう理解するか、この一節の中に乗り越えるヒントが込められている気がして、これってどういうことかなぁと一生懸命考えた時期があります。当時不安の一番の原因、実顕地の運営の仕方が、私意尊重公意行でやっていたら自分の私意がなんか尊重されていない、こういう一体生活という組織の中で公意行だけが優先して自分が置き去りになっているような、不安感というか不満感みたいのが当時自分だけでなくいろんな人にもあったのじゃないかなと思います。例えば研鑽学校のボード、無我執研鑽の中で、真理・真実・事実実態と自分の思い考えとは次元が違うとボードで研鑽したことがあるのですが、上の段と下の段があって、それが違う、それの異いというのを大分研鑽したことがあるのですが、その辺の所の自分の中での考えの思い違いが、混乱の原因というかあったんじゃないかと思えて来て、人は人と人によって生まれたという世界の世界と、人と人との繋がりの世界をいっしょくたにしているところがあって、その混同その辺に自分らが混乱したもとがあるのではと思ってきて、自分の思い考えの延長で人と人の繋がりの世界を見てしまう。そこのところで混乱しているのではと思えて来て、じゃぁその関連を知るなればとか人と人との繋がりというのはどういうことなのかな?それって自分ら養鶏書でも繋がりを知る精神が一番元で、この精神から出発するんだという風に何度も何度も研鑽した覚えがあって、繋がりを知る精神とかその関連を知るという、知るというのはどういうことか、頭では簡単に理解できる、自然全人全部繋がっているという感じでの知る知り方というのは出来るんですが、なんぼでもそれで知ったとしても、なんか人情社会組織というかうるおいが自分の中から湧いて来ないというか・・親兄弟全部繋がっている、自然全人、人類皆兄弟なんて当たり前じゃないかと云う位の理解の仕方でしか自分自身も無かったし、それでどうなの、どうしたのって感じで、それがどうして人情社会組織になって行くのか変わって行くのか、全く自分自身その時点でもピンとこないというか、繋がりを知る精神、その辺のそこの実感が欲しいというか、大分そこで迷った時期が続きました。その文章で、山岸巳代蔵さんも、だからこそ精神革命を必要とする所以ですとも書かれてあるのですけど、精神革命、どうすることが知的革命になるのか、そこで何か革命、知的に変わらないとその繋がりを知る精神が関連を知ることで、人情社会組織に変わって行くそのターニングポイント変わり目がまだそこが自分の中で見えて来ない、来なかった、どういう精神革命が必要とされるのかが分からなくて、その辺思い悩んだ時期がありました。その時すごくヒントになったのが、島田さんとの座談会でチラッと出したフランスの思想家のミシェル・フーコという「自己への配慮」という概念だったのです。なんでここで横文字のフーコという人を出すのかというと、フーコという人は20世紀の世界の知性を代表する人の一人と言われている思想家だそうです。僕の中には一流というか世界的な人の中には必ずヤマギシズムと一致する知恵の鉱脈が絶対あるはずだという思いがあって、だったらフーコさんのどこに自分らの考えと一致するところがあるのかなぁという興味があって、ずっとミシェル・フーコさんの書いた本を読んで、沢山あの人書かれているのですけど、2、3ページ読むともうその先読めない、難解というか全然解らない、ところが1981年位にその人の講義録、1984年に亡くなっているのですが、晩年、コレージュ・ド・フランスという場で講義された、週に1回90分が2単位、3か月間、パリ市民が誰でも参加できる講義で、講堂がいっぱいになって入れ切れない人がいっぱいいたという3か月間の講義録が翻訳されている。厚さが4センチぐらいある分厚い本なんですけど、その本だけはなぜか知らないけど、最初から終わりまですらすらとまるで、実顕地で普段生活していて考えていることが、そのまま文章になったような、すごく不思議なことで、その中でフーコさんは、自己への配慮とはどういうことかっていうことを1冊の本で、それだけで語っているんですね。だからそんなに簡単には説明できないのですけど、単純に端折って紹介しますと、自己への配慮という概念がこれは紀元前の話でギリシャ時代の話で、自己への配慮という概念の考え方があったそうです。でもこの2000年間で自己への配慮という自分が自分を配慮するという見方考え方は消えてしまった。みんなが良く知るソクラテスの汝自身を知れとか、そういう言葉はずっと残っていて、2000年人間の一つの知的な考え方知的行為の対象として、自分というものを対象にしてしらべるという考え方とか、紀元始まってすぐに西洋の方ではキリストなんかが広がって、自分自身の罪を告白するそういう形で自分というものを見る捉える歴史が続いたけど、自己への配慮はこの2000年間やられていない。それでもう一度フーコさんはギリシャ時代の自己への配慮ということを延々とこういうことじゃないだろうかということを、ずっと1冊の本で述べられているんですね。

進行 ギリシャ時代のセネカという人の文章「人生の短さについて」があるので紹介したいと思います。

「誰ひとり自分自身を耕すものはない。
いつ自分を自由に使うことができたか。
いつ心が泰然自若としていたか。
あなた自身のものが、いかに僅かしかご自身に残っていないか。
心が雑事に追われている。
ふと、自分は今まで墓碑銘のために苦労してきたのか、という惨めな思いに襲われた。
自己に対する不満。
このような心は自己のうちに慰めをもつことが少ないのである。
結局その心は自己嫌悪に陥り、不愉快になる。
いつも自分自身から逃げようとする。
第一に吟味すべきは自分自身である。
とにかく、心はあらゆる外的なことから、再び自己に呼び戻されねばならない。
たびたび自己のうちにも戻らねばならぬ。
真剣な絶え間のない気遣いをもって動揺する心を包んでやらねばならぬ。」

佐川 こういう感じでフーコさんは自己への配慮を解説してくれていて、セネカという人ギリシャ時代の哲学者だと思うのですけど、「真剣な絶え間のない気遣いをもって動揺する心を包んでやらねばならぬ」という、心を包んでやるというのは面白い表現だなぁと思って、これってどんなことかなって思った時に、先ほどの繋がりを知る精神とか人と人との繋がりの世界、その関連を知るなれば、その辺となんか自分の中で結び付いて来て、なんか、その繋がりを知る精神、その繋がりの中にいる生きているそこにいる自分がもう一人の自分をあたたかく包んでやる、そういうイメージがしてきて、そんなことが自分の中でヒントになって、繋がりの中にいる自分がもう一人の自分に配慮するというか気遣ってやるっていう自分の中に二人の自分というか、二つの心があって、ひとつの繋がりの関連の中の自分がもう一人の自分、喜怒哀楽とかいろんなことで動揺したり、思い考えたりする自分をいつもあったかく包み込んでやる、そういうイメージと人情社会組織が重なってきて、秘められた実態の把握、秘められた実態というのは自分の中にあるというよりも、人と人の繋がりの中にあるというか、それも自分というか、繋がりの中にいる自分を見たような気がしたんです。その時自分の中にあったかいものが湧いてきた、実感があって、人と人との繋がり、繋がりの方に、そこから出発する生き方、社会というのが見えてくる。自分の私意と公意がひとつに重なるような、矛盾がない、そういう世界が、繋がりの方からもう一人の自分を配慮する、見ていく、そういう観方考え方はなんか知的革命、そこで転換できた時に全く新しい世界というか人情社会組織がみえてきたような気がしたんです。1年ぐらい前かな春日でそういう話をみんなで研鑽していた時、川村優君という若い子がいて、彼がそんな話聞いていたら、こんなことかなと言ってくれたことがあるんです。昨年の今頃春日山村人総出で運動会やったんですね。優君が言うには「運動会なんて出るの、一緒にやるのは嫌だなぁ」と、すごく思ったそうです。まぁ総出なんだからみんな参加するから出てみたら、最初は嫌な気持ちだったけど、実際運動会に参加したら、そこでそこの運動会を楽しんでいる自分を見たと、言うんですよね。あっこの感覚っていうか、こんなん誰でもが普段体験していて、そんな事は当たり前みたいな感じで案外素通りしているんだけど、なんか嫌だなぁって思っている自分がいて、それでもみんなと一緒に運動会参加していたら楽しんでいる自分がいたという発見、それはすごい発見というか、人と人との繋がりの中で楽しくやれている自分を発見できた、そこから次が拓けるような、わかりやすい具体例だなぁと思って聞いた覚えがあるんですよね。その辺を自分の中に、真目的とか、真の幸福とか、真理とか、自分の中に見出したとか、自分のモノにしてそこから色んなことを見たり考えたり行動していけるような、逆転、ひっくり返してみるというか、繋がりの中に自分を見出す、そこからやると色んなことが全部ひとつに繋がってきて、矛盾とか色んなことで思い悩むことは解消されるような気がしています。その辺を一番僕としては言いたくて今日は来ました。
2014.11.15 「会員の集い」豊里村人涵養所(村人ロビー)に於いて

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