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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

5 〝ない〟からの絶対線

「ものの観方がそうするもの。自分がどこにいて見るか、ということを考えたい。こうして人間があり、『理想社会を築きたい』とか、『物がなかったら』の線を自分に持っていて、それに達しないものは足りないと思うもの。『あって当り前』の線が一本入るのと思う。そこに一線置くと、するとそれに及ばんのは、足りない、乏しく見えるのよ。自分の作った線から見るから。
反対に、〝ない〟というのをコモトにして見ると、生命でも、身体でも、借金でも、〝ある〟のよ。ないから見たら、あるわね。
まだある。こんなにある。豊かに見えるものよ。自分で見る一線の問題よ」(山岸巳代蔵)

さきの〝ない〟ものが〝ある〟を自分なりの実感でつかんで、しかも実感信仰に陥らない道筋をたどっていきたのだ。

自分よりの好みやセンスがあり、それを肯定も否定もしないで、自分の鶴嘴(実感)に頼りながら一体の鉱脈を掘り当てるのだ。

従来の対象を限定して、一つの部分だけ掘り下げる部分科学に捉われないで、進んで止まぬ綜合哲学的に心理学的分野まで入れて検べていくのだ。

それがさきの自分だけの秘密の場所から、琴線に触れるという「共感・実感」を通して、世界中の人の心に繋がっていく「一体の鉱脈」に至る道筋である。

心理学的分野、即ち「心の琴線に触れるもの」を絶対線と見なして、ものの観方に織り込んでいくところがミソなのだ。

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4 放し切った中に〝ある〟もの

「物がなくなって、まだ私というものがある。外を見んと、こいつ(自分)を考えてみると、まだ私というものがある。私の考えも、肉体も、生命も、放したらどういうことになるか。よく考えてみると、何か持っているということね。そうすると、分からんの。放し切った中に、『こういうものがある』でいいと思うの。どうやろ。

なくなっても、もともと。〝ない〟ものが〝ある〟。〝ない〟のが、〝ある〟やわね。もともとなかったのが、〝ある〟やわね。だが、それは〝ない〟やわね。春日山でも、もともとなかったのが、〝ある〟やわね。だが、あれは、〝ない〟やわね。〝ある〟ということは〝ない〟。〝ない〟ということは〝ある〟。みんな〝ない〟からいくとね……。(略)

まあ、ないのが本当で、なくなるのが本当で、そういうものだから、何もないとこから、ものを観るの。もともと雲はないの。だがもくもくと出来る。だが、ある間は……。このくらいのことで人間生きていないと、うっとうしいてかなわんやろと思うの」(山岸巳代蔵)

〝ない〟ものが〝ある〟という?
ここを自分なりの実感でつかもうとしなかったら、その先が開いていかないのだ。
ここが急所・分かれ目なのだ。
だがしかしここに現状肯定を象徴する「客観的」「科学的」立場の錦の御旗を掲げる大きな壁が立ちはだかる。自分なりの実感なんて、「観念・固執・きめつけ・主観」の最たるもの。当てにならない。実感信仰、宗教にすぎないと。

それゆえほとんどの人は〝ある〟しか知らない。というか体験的にも〝ある〟としてのみ感じられる世界に住んでいる。

「主観性」と「客観性」を超えた了解性にまでたどりつくのだ。「と」からの出発に賭けるゆえんである。

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3 「と」という場所

「それは彼がいつも好んで思い出す地点であり、まだスイスに住んでいた頃、好んでそこまで散歩に行っては、その地点から眼下の村を、下のほうにわずかにほの見える真っ白な滝の白糸を、白い雲を、打ち捨てられた古い城を、眺めたものであった。ああ、いま彼があの場所にいて、そしてひとつのことだけを考えていられたら、どんなにかいいことだろう。そう、一生そのことばかりを考え続けて、そのまま千年だって過ごすことができただろう!」(『白痴』ドストエフスキー)

ここがムイシュキン公爵の秘密の場所だ。「ただ自分の思いだけを抱いて一人きりになり、誰にも自分の居場所を知られないような場所」なのだ。自分だけにしか通じないそんな原風景とも呼べるものがある。

「幼い頃、大きな魚をさばいている母の様子を見るのが大好きでその母をいつまでも見ていたくて、もう少しもう少しと母の側から離れられなかった私とピタッと重なって見えた時に、私が見ていたのは私の中の私を見ていたの? と思えました。何か不思議な感じがしました」(『実顕地研鑽会記録集』より)

「それが私の、『類』の記憶の目覚めだった」(森崎和江『いのちの素顔』)

そんな場所へもっともっと深く入っていくのだ。そしてそんな場で生きている強い自分を見出すところまでいくのだ。そこでの実感的な感触というか手触り感に思いをはせる。

「一人ひとり異う私たちの中にある、同質の『もの』に共感するという実感」(『実顕地研鑽会記録集』より)にゆきあたるまで……。

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2 そこに立って見ると

以前次のようにも記した。
「3.11の震災後、私たちの心に『絆』という言葉が棲みついてしまった。未曾有の窮地に立たされてはじめて、それは自ずと誰の心からも浮かびあがってきた人情の通い合う頼みの綱とでも呼べるものだった。(略)
しかし、そのための『絆』がない。今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあるのだから、結び直したいと思うのだが、そのための『絆』が私たちの手中にないのだ」

自然と人為を、全人類間を一つに結びつける紐帯を見出す必要に迫られている。
「その繋りさえ分かれば」

「と」に立つ精神。「繋がりを知る精神」がそれである。そこに立って見ると、即ち自分自身が繋がりそのものになると、容易に理解し、全てが解けていく。
「見ずして行うなかれ、行わずして云うことなかれ」

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1 「と」からの出発に際して

 
今度の著書のあとがきに、「『と』に立つ生き方、『と』からの出発に人間社会の未来を託していきたい」と記した。

ここでの「と」とは、『知的革命 私案(一)』の一節「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく」にみる繋がりの、切ることの出来ない「と」のことである。しかも「と」に立つとは「その関連を知るなれば」とあるように、知ることと実践とが結びつく「繋がりそのものの自己」に出会うことでもある。

その辺りをかつて「今までの社会での『自己』は、自分という己があって、自己主張するなど、個体としての私以上のものがそこにあるようだ。ここでは『個』体としての『自』分、『自個』という捉え方はどうか」とも表現してみた。

自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)=二つの心として現れる
それゆえ自個の自己への関わり方が、自己への配慮即ち「真剣な絶え間のない気遣いをもって動揺する心を包んでやらねばならぬ」(セネカ)となるのだ。  

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この著書で言いたかったこと               

本書は自分が現在住んでいるヤマギシズム生活実顕地で日々話題にされてきた話をもとに出来上がったものだ。そこで話題にされたテーマや心にひびいた発言、不消化のまま疑問として残ったわだかまりや自分なりの理解などを、忘れないうちにそのつど書きとめておいた。
 そのことが一冊の書に結晶するまでに至る心当たりの一つを紹介したい。

 40年近く前本紙『けんさん』に「適正規模実顕地構想」と題して、当時のヤマギシ有精卵の増産要請の高まりの中で今後の展開を探る記事を編集したことがある。そこで今でも忘れがたい一節に出会った。
「現状での実顕地は養鶏及びそれに関連する事柄を多く採用している関係から、一般的な事業としてやっている養鶏家等と同次元での生産手段の差異位に混同、同一視されることがしばしばあります。『供給所通信』にももらしていたように「卵やさんではありません」「その実は養鶏ではないのです」と内心叫びながら、又自分を見直す場面に直面するにつけ思うのです。
 大切なことは表現され理解されることもなくて終わるか知れない秘められた実態の把握で、ないかと」
 心が呼び醒まされた。「秘められた実態の把握」? これっていったい何なんだ? しかも「表現され理解されることもなくて終わるか知れない」なんて、面白いこと言うなぁ。ヤマギシへの尽きせぬ興味を抱いた始まりだった。
 普段の実顕地生活の日々での時にはブツブツ愚痴をこぼしながらの漫然とした暮らしが、ひょっとしたらとてつもなくすごいことの連続ではないのか、との予感がしたのだ。
 そんな無いものが見える人になりたいなぁとの思いが湧きあがってきたのだ。
 それはまた本書の中にも出てくる次のような逸話にも重なりあっていく。

「先生とあちらこちら廻っていた頃、大阪のどこかのうどん屋に入って、そこを出がけにうどん屋の裏手に熱い湯が流れている溝に二匹のけったいな虫を見つけて、『ほれ見なさい。あんなやで。あんなやろ。あんな中にいても二人で居る。そういうものや』と言わはった」(奥村きみゑ談)
 どこにでも見られるありふれた光景の、ここのどこがスゴイのか?
 きっと山岸巳代蔵は生涯幾度となく、「そういうものや」の一言からおのずと立ちあらわれてくるものに琴線を揺るがしたにちがいない。というのもヤマギシ会が発足した直後に記した一文にも、同じような光景について触れている箇所に出会えるからだ。
「あなたまかせの生活史です。今日はうどんの煮汁か米とぎ水か、魚の臓物の饗宴にありつけるかと、あわれうたかたに望みをつなぐ生涯でしょう。しかし、また案外数少ないであろう彼等にも、配偶者に会う仕組みは、うまく与えられてあるのか、種の絶滅もなきまま、こうして産み付けられた吾が身の不運をかこっているかどうか、詮索したくなります」(『獣性より真の人間性へ』)

 「あなたまかせ」で「あわれうたかた」のしかし「うまく与えられてある」「もの」が在る。まさにその中で生きている自分を見出すと、そこから全てが解けていくのだ!
 どこにでも見られるありふれた光景。ほとんど何でもないものとして見過ごされているものに、一瞬にして「秘められた実態」が大きな感動と共に立ちあらわれてくるのだ! その光景を見ただけで「全人幸福親愛社会」実現の方法を掴むことができるのだと!
 あたかも空気や水の「有りがたみ」を「知る」ようなものだろうか。

 そんな、一つの観方に立ったら容易に3D写真のように立ちあらわれてくる誰の心にもある「もの」について、精一杯実感的に触れてみようとしたのが本書なのだ。
 願わくばこの書を通して、多くの人が何でもない普段の生活「現状そのまま」、その場で無いものが見える人に融合できる一助となれれば、こんなに愉快で嬉しいことはない。  

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著書を刊行しました                         

新刊内容紹介
佐川清和著 贈り合いの経済──私のなかのヤマギシ会
贈り合いの経済

A5版 並製 284頁 定価 本体2500円+税 ロゴス
山岸巳代蔵が掲げた「金の要らない仲良い楽しい村」の実現をめざしたヤマギシ会に参画して44年。
その経験を通して〈贈り合いの経済〉を構想する。

贈り合いの経済──私のなかのヤマギシ会 目 次

序 章 『社会と自分──漱石自選講演集』から

第1章 贈り合いの経済・序
 一 自然と人為
 二 贈り合いの経済

第2章 個と全体(組織)との背反をこえて
 一 機構・制度としてのイズム
 二 吉本隆明氏との対話
 三 「怒り」と「研鑽」

第3章 山岸会との出会い
 一 参画の動機
 二 思慮ある真の百姓──杉本さんの思い出
 三 雑 感

付章 試論  報道にみる山岸会事件
参照文献一覧
あとがき

カバー写真:井口義友(別海実顕地)

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