FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

 「と」に立つ実践哲叢(38)

ゴールインスタート考

今年の夏は記録的な猛暑が続き、連日テレビ等で「熱中症に警戒」「命にかかわる暑さ」「エアコンを我慢しないで使うように」等々とくり返し呼びかけていた。なんだか急かされているようでどうも落ち着かない。
そんな折、ネットで観た映画『のぼうの城』で暑さも吹き飛ぶ爽快感を味わった。

戦国末期、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉の大軍二万人を前に、周囲を湖で囲まれた「浮き城」の異名をもつ小さな城・忍城(おしじょう)軍はたった五百人。勝ち目のないことは誰の目にも明らか。
しかも「でくのぼう」を略して〝のぼう様〟と皆から好かれる忍城の城代は、戦には最も不向きな臆病者。頼りなく、「俺たちがついてなきゃ、あののぼう様はなにもできゃしねえ」という気持ちにかき立てられる。何もできないことが、却って皆の心を一致団結させる。

そんな難攻不落な忍城は、とうとう城の周辺に巨大な人工の堤を築き、それを決壊させる豊臣軍の“水攻め”にあう。
そうした絶体絶命のさなか、〝のぼう様〟はなぜか「水攻めを破る」と公言する。
そして一人で武器も持たずに小舟で豊臣軍が築いた堤へと向って大好きな田楽踊りを披露する!? 
のぼうの城

するとこの〝とんでもない奇策〟に、敵も味方も驚いて一斉に喝采の声を上げる。彼らの心を大いに揺さぶるのだ。
なんとその田楽踊りをきっかけに、城に籠もるのを拒んだ百姓達が人工堤の土俵を引き抜くことで大量の湖水が逆に豊臣軍を襲う!

そんなことは〝のぼう様〟には先刻お見通しだった。城外の百姓たちも我らの味方であるとの確信があったからだ。
これが起死回生の妙手だった。思わずハッとした。これこそ、その道を通る以外には到達できない唯一最善の方法なのだ。

ふと一週間の「特講」を終えた皆に寄せた山岸巳代蔵のメッセージ(「一粒万倍に」1961.3.15)の中の〝ゴールインスタート〟という言葉が思い浮かぶ。
ゴールインとは、スポーツでボールを相手のゴールに入れて得点したり、男女交際を終えて結婚というゴールに到達したというニュアンスで使われる。
だとしたら映画での〝のぼう様〟が皆の前で披露する田楽踊りこそ、〝ゴールイン〟と〝スタート〟が一直線の立ち居振舞だったのではなかろうか?

豊臣軍の狙撃兵の的になり殺されるかもしれない。実際肩を撃ち砕かれるのだが、そうした〝結果〟は〝ゴールイン〟ではない。
戦う前から〝のぼう様〟は、「北条家にも関白にもつかず、皆で今までと同じように暮らせないかなあ~」と呑気なことを言っては皆を唖然とさせていた。この次元ですでにボールはゴールネットを揺らしていたのだ!
これが奇策と見えて実は理にかなった〝正攻法〟だった。その顕れが田楽踊りである。
自分らの〝人生踊り〟とも重なってくる。

スポンサーサイト

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(37)

 〝わが一体の家族〟を思う

是枝裕和監督の映画「万引き家族」を観た。
万引き家族

万引きを生活の足しにして仲良く暮らすとある家族の姿を描いたものだ。しかも老女と中年夫婦と若い女、二人の子どもで形成されるこの家族には、血の繋がりがない!?
血縁のない家族、血縁に閉じていかない絆、そんな血縁を超えた支え合いの形がどう実現できるのか、そんな人と人との繋がりの可能性をテーマにしてみたのだという。

そう言えば映画の中で、絵本作家レオ・レオニの『スイミー』を男の子が朗読しているシーンが印象的だった。是枝監督の込めたものがそこに感じとられた。
というのもカンヌ映画祭で最高賞パルム・ドールを獲得した記者会見で、取材で行った親の虐待を受けていた子たちが暮らす施設で、女の子が国語の教科書を取り出して『スイミー』を読んでくれた。その朗読している女の子の嬉しそうな顔が頭から離れなくて、そうか自分は『スイミー』を読んでくれた女の子に向かってこの映画を作っているんだと、あらためて気づかせてくれたと監督自身が語っていたからだ。

あらすじはこうだ。
小さな赤い魚の兄弟たちの中で、一匹だけ真っ黒な魚の〝スイミー〟。大きなマグロがやって来て、兄弟の魚たちを飲み込んでしまう。逃げられたのはスイミーだけ。
そんな怖くて淋しくて悲しい失意のうちに暗い海の底をスイミーは泳ぎ続ける。
けれども、海の中のクラゲやイセエビやコンブやワカメ、うなぎやイソギンチャクなど面白いものに出会うたびに元気を取り戻す。
そんな中で見つけた、スイミーそっくりの小さな赤い魚たちに「遊ぼう」って誘っても「大きな魚に食べられるから」と岩陰から出て来ない。そこでスイミーは考えた。皆で大きな魚のふりをして泳ごう、と。そして皆が離ればなれにならず一匹の大きな魚になって、スイミーは目の役に就いて皆は泳ぎ、とうとう大きな魚を追い出した。
スイミー

映画では後半、老女の死や少年のとっさにあえてとった万引きから一気にそれまでの家族の時間が暴かれ、奪い去られる。だって血の繋がらない女の子を〝拾って〟形成された家族は、世間的に見ればその行為は〝誘拐〟にほかならない。家族は外からのバッシングと内からの疑心暗鬼で壊れていく……。

にもかかわらず、この家族に流れている〝共に過ごす〟時間や情に触れてか、今多くの人の心を揺さぶり続けているようなのだ。
じつは自分らもまた、ここ数年来是枝監督の初期作品、生のかけがえのなさを描いた『ワンダフルライフ』やレオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』等を研鑚資料にして、見も知らぬ〝わが一体の家族〟を研鑚会で思い描いてきた。

それは〝あおくん〟や〝きいろちゃん〟に先だって誰の心にもある見えない〝みどり〟の世界の発見から始まる。誰もが家族同然の繋がりを既に生きているという驚きだった。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(36)

 お金より前にあるもの

テクノロジーが自分らの暮らしを劇的に変えつつある実感が確かにある。
小学生の頃視力も良かったのか、日がな一日寝転んで天井板の木目を飽きずに眺めつつ木目の代わりに観たい映画が映し出されたら良いなあと夢見ていた記憶がある。それが今や当りまえに実現している! 

最近〝資本主義〟の先の世界を選ぶ時代がやってくるという驚きの書、『お金2・0 新しい経済のルールと生き方』(佐藤航陽 著) が若い世代に評判だという。
お金20

じつは自分らヤマギシストも、半世紀以上前から「金の要らない仲良い楽しい」をうたい文句に、〝働かなければ食べられない、食べるために働く〟という交換価値や所有欲から来る観念を放すテーマにこの間取り組んできた。そんなどこか肩に力が入りがちな試みに比べて、この書の筆者ら後の世代の人たちの、難なく自然に〝そんなことは当りまえ〟といった語調にすがすがしさを感じた。
例えばお金に対する見方もとても軽いのだ! 現状はお金がないことによって起きる困窮や不安からお金に感情をくっつけてしまい、道具以上の意味を感じてしまいがちだ。そこを〝お金は価値を資本主義経済の中で使える形に変換したものに過ぎず、価値を媒介する一つの選択肢に過ぎません〟として、お金と感情を分けて考えられる新しい「価値主義」を提唱する。

お金2・0とは、従来の資本主義の枠組みでは当てはまらない〝更新〟を意味する。例えば今や仮想通貨(ビットコイン)は既存の国がコントロールする法定通貨とは全く違う仕組みで動いている。あたかも自然界の生態系のように、それぞれが分散して自律的に価値がコントロールされるシステムとして捉えてみるべきだという。
しかもそこでは〝信頼や時間や個性のようなお金では買えないものの価値〟が台頭して、〝儲かることから情熱を傾けられること〟へと〝お金〟や〝経済〟のあり方や価値観が変わろうとしているのだ、と。

そう言えば「物の豊かさから心の豊かさへ」といわれて久しい。なるほどそれがテクノロジーの進化に伴って、共感や感謝などの内面的な価値が基準となる「価値主義」に移ることだったのかと思い知らされる。
また以前アジアの新興国でスマホなどの新サービスが一気に浸透している光景に驚いたことがある。実はこれこそ法規制などの社会基盤整備が進んでいないからこそ実現可能な、途中の発展段階を飛び越す〝蛙飛び現象〟なのだという。謎が解けたような気がした。
カエル跳び

筆者は人間の内面的な価値は現在の資本主義の枠組みでは認識しにくく、ここに新しい時代を創っていくチャンス・生き甲斐・面白みが見いだせるというのだ!
なるほどなあ。心あらばその心意気で「金の要らない仲良い楽しい」を基調にした、既存のしがらみに一切とらわれない〝贈り合いの経済〟まで見通せないものだろうか。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(35)

 コーヒーの〝美味しさ〟

最近の缶コーヒーのテレビCMがまったくもって心憎い演出だ。なかでも「世界は誰かの仕事でできている」シリーズの『つながっている』篇がとくに面白い。
世界は誰かの仕事でできている

道路作業員の一人が休息中に「便利になったよな」と、スマホアプリの便利さに感心する。→そのアプリを作った開発者が、コンビニの弁当の美味しさに「うま! この弁当企画した人、マジ神」と感動する。→コンビニの弁当を企画した企画者が、「お弁当は素材が命 生産農家様々ね」と野菜を作ってくれる生産農家に感謝する。→鮮度にこだわる生産農家は、「野菜は鮮度やけ、運んでくれる人に感謝やね」とトラックドライバーに感謝する。→新しく開通した道を通るトラックドライバーは、「この道完成したんだ、助かるわぁ」と道路作業員に感謝する。
そして再び、開通した道路で作業員二人の会話にもどる。
つながっている篇

「なんか他人とは思えないですね」
「つながっているのかもな」

これはスゴい! たったの30秒で缶コーヒーの〝美味しさ〟をここまで表現できるとは、と驚嘆した。きっと多くの視聴者の心に深く響いていくに違いない。
たしか宮沢賢治の言葉に「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とあったが、普段のたかがコーヒーの〝美味しさ〟にも通じるものがあるようなのだ?

ある日の研鑚会で、「本当にコーヒーを美味しく飲む秘訣は、例えば1日に三杯飲んでいたコーヒーを三人の人に飲んでもらった時のコーヒーの味、これは簡単な算数の問題です」と研鑽した。エッ!? 自分が飲まないのになぜ美味しいのだろうかと頭を悩ましたことが懐かしく思い出される。
人と人とが離れ、相反目している今の風潮の中で、くだんのCMでの「なんか他人とは思えないですね」と、うんと情が出て泣きたくなるような言葉が心に染み入るようだ。

そこにはよく考え抜かれた哲学が感じられる。するとやはり梅田悟司さんという制作スタッフの一人に『「言葉にできる」は武器になる。』という著書があった。

筆者は、相手に伝わり、胸に響く言葉を生み出したいとの強い思いから出発する。そこから言葉には、他人とコミュニケートするための〝外に向かう言葉〟と物事を考えたり、感じたりする時に無意識のうちに発している〝内なる言葉〟の二つの種類に気付く。〝外に向かう言葉〟を育てる〝内なる言葉〟の存在に気付いたのだ!
この〝内なる言葉〟の涵養こそ、相手の胸に響き、納得や共感を得られるようになるコツなのだと。そして今流行の「かわいい」や「ヤバい」で留めていると、いつしか自分の心の琴線を鈍らせてしまうことを危惧する。

要は〝たった一人のために言葉を生み出すこと〟にある!? まったく同感だ。自分の中のあなただけに通じればいい〝内なる言葉〟こそ誰の心にもあるあなたなのだから……。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(34)

 『天才を育てた女房』

先回ベストセラー『君たちはどう生きるか』の中の「石段の思い出」を紹介しつつ、

“ああ、自分にも思い当たるなあ。しかもそんな想いを繰り返しめぐらせていると、いつしか自責の気持ちも消えて心の中がジーンと熱くなってくるのを感じる。実は心の奥底では自分の喜びは他の喜びとなっているのだ!”

と記した。そして、その次に〝自分の喜びは他の喜びとなる〟心境って、こんな感じなのかなあといつか皆で研鑽した〝傘の例〟が思い起こされた。こんな話である。

“雨の日、向こうから傘なしで濡れてくる人がいたら、ふっと「この傘を使ったらいいよ」と差し出したい気持ちが浮かぶだろう。でも普通はそんな一瞬の気持ちが浮かぶか否かに(でも自分の方が濡れて困るな)といった様々な理由など何か観念づけたもので打ち消してしまう場合が多い。”

それでもなお、実際に最初に浮かんだ気持ちで傘を差し出してみたらどうだろう。きっと相手も困っていた時だから、差し出されたものへの喜びもひとしお増すのが人の情けではないだろうか。傘を差し出す方も嬉しいし、受ける方も嬉しい。
そんな気持ちのある心からの行為から、一気に与えて喜び、受けて喜ぶ世界が現れる! そこに喜びの自分を〝発見〟するのだ!

その矢先たんなる偶然か、数学者・岡潔とその妻・みちの人生を元に再構成したテレビドラマ『天才を育てた女房』を見た。
天才を育てた女房

世間から無視され数学三昧の発見の喜びのみに生きる変わり者の岡潔(佐々木蔵之介)を、あなたには〝頭の中にあるものを形にする責任がある〟と支える妻・みち(天海祐希)の夫婦愛に感動した。何せどんなにか素晴らしい画期的な論文を書き上げても、学会の誰からも理解されない!? 妄想に過ぎないと仲間外れにされて大学の職にも就けない。
それが戦後、論文を渡米する湯川秀樹に託し、シカゴ大の数学者アンドレ・ヴェイユを経由してフランスにわたり、はじめて第一級の成果として世界に受け入れられる。 

岡潔は若い頃フランスに留学していた。そこではじめて日本には空気や水のように絶えずふんだんにあるものが、ここには無いことに気付く。日本にあってフランスには無いその何かとは、人と人との間に、人と自然との間によく通い合う心、〝情〟であった。
数学上の発見においても、そんな〝情〟を基調にした温かいものに包まれている中に、なぜか突然難問が解けてしまった!
岡潔

魚が水の中に住んでいるように、人は〝情〟の中で暮らしている。だとしたら、人間観念界の空気や水に相当する部分についても、その清浄化復元に心すべきではないのか。
晩年の岡潔は、〝日本の国という水槽の水の入れ替え〟を本気で提唱しつつ人類滅亡への警鐘を鳴らし続けた。
改めて私の心の中にあるヤマギシズムを想う。 

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(33)

 『君たちはどう生きるか』
君たちはどう生きるか

昨年来新聞広告『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)を目にするたびに、戦前に書かれた題名からして倫理道徳の教科書を彷彿させるものが、なぜ今多くの人々に共感をもって読まれているのか不思議に思われた。
そんな折人から「面白いよ、〝粉ミルク〟の話なんて、まるで特講でやる〝一体〟のテーマそのものだよ」と勧められてようやく、少年「コペル君」と彼を亡き父親の代わりに見守る叔父さんとの心温まる物語を自分も読んでみた。

驚嘆した。青少年向けの啓蒙めいたものと見なしていた自分のキメつけが外れた爽快感があった。この間自分らが必死に追い求めているテーマがここで展開されている!

例えば先の〝粉ミルク〟の話。赤ん坊の時粉ミルクを飲んで育ったことを思い出したコペル君は、ミルク缶に画いてある地図からオーストラリアの牛を自分のお母さんに重ねて、そこから順々に自分の口に入るまで一つ一つ辿っていくと、たくさんの人が自分に繋がっている事実を寝床の中で発見して昂奮する。そう考えてみるとすべてそうで、先生の洋服も靴もやはり同じで大勢の人と網のように繋がっていることを実感するのだ。
ところがそこでコペル君は一つの疑問にぶつかる。大勢の人の中で、自分の知っている人は粉ミルクを売ってくれた薬屋の主人だけだ。後はみんな、見ず知らずの人ばかりでどんな顔しているんだか見当もつかない。コペル君はそのことが実に〝へんだ〟と思う。

そんな疑問を叔父さんに打ち明けると、どこまでも赤の他人だとしたら、その繋がりはまだ本当に人間らしい関係になっていないからだ。そして本当に人間らしい関係とは、人間同士が喜び、喜ばし合う世界ではないのかと叔父さんはコペル君に同意を求める。

またコペル君には何人かの指切りまでして約束し合う心を許せる友人がいる。
ところがある〝雪の日の出来事〟で自分の弱さに打ちのめされる。親友たちが殴られているのを黙って見ているだけで駆け寄ることが出来なかった。そんな卑怯者の自分についての悔恨に責められる。一人ぼっちの暗い暗い世界に落ちこみ、とうとう熱を出して寝込んでしまう。

事情を察してかある日、お母さんが女学生時代の妙に深く心に残った〝石段の思い出〟の話をしてくれる。
石段の思い出

学校の帰りに重そうな風呂敷包みを下げたおばあさんが、お母さんより五、六段先の石段を登っていた。その大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物を持ってあげようと思いながら、とうとう果たさないでしまった。大変悪いことをしたような気がしたけど、それからは人の親切がしみじみと感じられるようになったのだという。

ああ、自分にも思い当たるなあ。
しかもそんな想いを繰り返しめぐらせていると、いつしか自責の気持ちも消えて心の中がジーンと熱くなってくるのを感じる。実は心の奥底では自分の喜びは他の喜びとなっているのだ!

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(32)

 老いることは幸せ?

今年が運転免許証の更新時にあたるため、先日近くの自動車学校で高齢者講習なるものを受けた。
自動車学校

受講前にどうも実車による指導があるらしいと聞いていたから、安全確認やS字クランク走行や車庫入れ等うまくやれるかなぁと急に心配になってきた。
しかし当日は〝案ずるより産むがやすし〟で、助手席の講師の指導宜しきを得て「慎重な安全運転ですね」と一言添えられて無事何ごともなく済んだ。
ホッとした。そしてまた普段だれもが当りまえにやっていることを、自分もまたその通り身体の一部のようにやれていることに何だか嬉しい気持も湧いてきた。だって当りまえにやっている〝かもしれない運転〟でなく自分流にキメつけがちな〝だろう運転〟だったら、即事故につながりかねない。
これって普段の〝研鑚生活〟にもあてはまらないだろうか。研鑽のできる研鑽態度が身につくヒントが得られないだろうか。
例えば先回次のように記した。

“先の日馬富士の問題でも、対立・反目・確執・暴力等あり得ないのが本当なのに、「それは絵空事にすぎない。現にあるではないか」と〝混線〟しているところに間違いをみる”

いったい何と何とを〝混線〟しているのだろう。今まで食べたことのない新しいものだったら、先に味わった味を〝混入〟しないで素直に味わってみることに限る。考えられない頭で、二つの課題を同時に考えてしまう考え方に無理があるようなのだ。
今業として営んでいる農業でも、世間では「きつい・汚い・臭い・かっこ悪い・稼げない・結婚できない」の6K産業だと暗いイメージでずっと語られてきた。しかしやり方しだいでは、自分ら素人百姓でも高い経済性をあげているし、空気や水や草や塵芥が卵や肉や牛乳に変わる自然の根本妙手に感動しつつ老若男女みんなしてやる楽しい作業を満喫している実態がある。そこから本来の農業を見てとれないだろうか。
超・少子高齢社会が進展するなかで、先の安全運転もさることながら、経験や知識や身体的にくるもの等成人する程固くなっていく老化現象を防ぎ、時代の先端を行く若さを回復する機会が切実に求められている。

以前〝老いることは幸せ〟という言葉に出会って、ウソー!年を重ねて耄碌することのどこが幸せ? とビックリしたことがある。しかも現実、身近な周囲からも老いの嘆き節を日々聞かされると、自分がその境地に居らないとつい同調してしまいがちだ。
そう、ここでも本来の姿と常識・固定観念とを〝混線〟している。本来の姿と常識・固定観念の区別が解らないからなのだろう。常識・固定観念を本当の姿なりと感違いしているからではないだろうか。

じつは〝老いることは幸せ〟の出発点に立つことが容易ではないのだ。出発点は描くだけでなく、当りまえと為す〝実践〟だからだ。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(31)

 〝結びつける力〟の涵養

そもそもこの連載コラムの始まりは、ヤマギシ会が発足した翌1954年に山岸巳代蔵が某誌に寄稿した文章のタイトル「稲と鶏」の「と」の意味するものを探るところにあった。
そこには稲作は稲作として養鶏は養鶏として従来個々別々にあったのを、稲作があって養鶏が成り立ち養鶏があって稲作農業が成り立つよう〝一つ〟に結びつけた画期的な農業養鶏の誕生が記されてある。

それまで繋がりのなかったものを結びつけることによって打開されていく実践だった。それは「稲と鶏」の、稲の立場や鶏の立場を通さずに、両方の立場を離れた、いわば「と」からの観方であるとも言える。
そんな見晴るかす場所に立つことで見出される双方が溶け合う〝結びつける力〟を、もっと自分らの暮らしの中で涵養(かんよう)していきたい念いから出発したのだった。

例えばこの間マスコミが連日報じる角界を揺るがす横綱日馬富士の暴行問題も、当事者が一堂に会しての〝研鑽があったら〟とっくに解決済みの一件にすぎないのでは?
貴乃花VS白鳳

加害者と被害者の相矛盾、貴乃花と白鵬の確執、モンゴル横綱と相撲道のねじれ等などに加えて、協会関係者からの横槍から警察当局へと問題はますます複雑化されていく。
暴行問題一つとっても、なぜもっと楽な方法で仲良く溶け合っていけなかったものか。
今の社会の法律ではどうしても物理的暴力だけがクローズアップされて、なぜそこまでの行為に至ってしまうかの真意・遠因等が消されてしまいがちだ。その原因を取り除いたらよいだけのことなのに……。

よく「千貫匁(3750㎏)の石を動かせ」と言われた時に、僕はいったいどうしたらいいんだろうかという例題が思い浮かぶ。
普通は「そんなもの動かせるかい」と言って拒むか、動かす気になってすぐ石に飛びついてしまいやすい。
幸い自分らは、ふだん〝研鑽態度〟の研鑽の必要性に迫られる暮らし方をしている。
「そんなこと出来るか」と一方的にキメつけるのでなく、「どうしたらそんなこと出来るのか聴いてみよう」と相手の身になって何を言わんとするかの研鑽態度がなかったら話が一歩も進まないのだ。
すると「そんなに言うなら、どうしたらよいのや」、「石にもこそばゆいところあるし、下の方掘ってみるか」、「そうか、こうするのか」となって研鑽が進み出す。
やる気になって研鑽したら活発に意見が次々と出てくるところが面白い。
研鑽態度こそ凡てが納得解決されていく鍵なのだ!

日常的に「本当はどうか」という研鑽態度でやってみようとすることを、「と」に立つ実践とも言うのだろう。
先の日馬富士の問題でも、対立・反目・確執・暴力等あり得ないのが本当なのに、「それは絵空事にすぎない。現にあるではないか」と〝混線〟しているところに間違いをみる。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(30)

みんなの心を受けて 

先頃二週間の研鑽学校Ⅲに参加された高橋タカ(80歳)さんの言動に、自分ら参加者は圧倒される思いだった。何人もの人が「自分もタカさんのような心境になってみたい」とも発言されていた。
まず参加の動機からして劇的だ。日頃旦那さんの介護をしていくうちに、研鑽学校に行きたい気持ちが湧いてきてそのまま素直に出してみた。でもいざ行くとなると、ご飯の世話、風呂入れ、泊まり役、デイサービスに行く準備、訪問リハビリの付き添い、と次から次に引き継ぐことが出てきて、途中で「やはり無理かもしれない」とあきらめかけた。
すると世話係の人から、「こういうことはこれからの実顕地のやりどころだよ。タカさん一人のことじゃないよ」と言ってくれて、その心が入ってきて、そこから行ってみようと気持ちがどんどん前向きに変わってきた。それからはいろんな人が部屋に「具体的にどうしたら良いか」と訪ねてきて〝美里「チーム高橋」〟が結成されたのだという。

無理だったら仕方ないなと止めることは簡単にできる中で、「一人のことじゃないよ」と声をかけ一緒に考えていく人が居る! その心を受けて、やってみようとする私が居る! しかもそんな仲良い姿を現す場が有る! これって凄いことではないのか?

日々の何気なく通りすぎ、どちらにでもなり得る状態の時にこそ、その都度どちらの方向に向かうかの分岐点に立たされている事態に気づかされる。日頃自分らは何に価値を置いて過ごしているのだろうかと。
そんなみんなの心を受けてのタカさんだからか、出されるテーマを体中で受けとめ、そこから湧き上がる〝うれしいばっかり〟での軽妙なやりとりが印象的だった。

後半アンデルセン童話『みにくいあひるの子』を研鑽した。タカさんの感想だ。
みにくいあひるの子

「あのみにくいあひるの子のずーっといじめられてきたにも関わらず、最後にはもうどんなにいじめられても本当に自分の心が素直に出せて、あの二羽の白鳥の所に行きたい、その心が通じたように二羽の白鳥が自分に寄って来てくれた。
その時その二羽に首を下げたその瞬間、下の氷に映った自分の姿が白鳥に映った。
まわりの子どもの声が聞こえる。『いちばんきれいな白鳥がいる』 うれしかった……パッと声を上げて飛び立った。
いまだにその姿が私の頭に残っている。私の心もうれしくて両手を上げて声になった」
そして旦那さんに対しても
「美里実顕地の一人ひとりの顔が浮かんでくる。父さんの顔も……淡々とみんなの心を受けて動いてくれたんだなー」と、体中でヤマギシの心を感じた気がすると語っていた。

みんなの心が自分の中に入ってくると、全てのことが自分のこととして観えてくる。すると自分の心からの行いがみんなの心に響いていく。ああなるほどこうして実顕地がつくられ人が育っていくのかとうなずけた。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(29)

 〝共に〟を地で行く

先回「では〝虚構〟に代わる〝信じない〟でやる生き方は可能だろうか? 時の最先端〝金の要らない仲良い楽しい〟の真価が問われる」と記した。
でもいったい〝信じない〟でやる生き方ってどんなこと何だろう? ただ口先だけの言葉ではなかろうかとだんだん心許なく感じてくる。きっとその先の描きが足りないからだ。
かつてない現実を創るビジョンが切に求められている。それには〝信じない〟でやる我執のない自分を発見して、〝金の要らない仲良い楽しい〟をそのまま現していくことだ。そんな内実が問われているのだと。 

確か1970年代の始め頃、本紙『けんさん』の発行費用の一部は、種鶏場で生産された種卵をヒヨコに孵化する各地の会員でもある孵卵場からの広告収入に負っていた。
その中の「トモニヒヨコ」という種鶏場さんの名前が今も強く印象に残っている。というのもずっと後で、あっ、トモニって山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の〝共に〟のことだったんだ!と今頃気づくうかつな自分にあきれ果てたことがあるからだ。
と同時に、自分の中に〝共に〟がストンと肚に落ちたような爽快感もあった。なぜか嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

日頃大勢で暮らす暮らしの中で、つい気の合う人、苦手な人といった人間関係面で気持が揺らぎがちだ。でも今日までやれてきた秘訣は何だろうかと想いを馳せると、個々人の取り組みもさることながら、「それは共にやってきたから」としか応えようがない感慨に打たれずにはいられない。
そうなのだ。山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の主体は、われにも、ひとにもなく、〝共に〟にあるのだ!? 

オーケストラの例えが分かりやすい。
オーケストラ

下手な指揮棒にも合わし、合奏しながら、全体を向上させていく上手な楽士が本当の楽士だ。めいめい思い思いだったら、その楽団はどうだろう? また一人の異端者が、ブカブカドンドンやってもどうだろう? またその曲調に最も堪能な人であっても、他の未熟な連中には付いていけないと独奏・独走したなればどうなるだろうか? 

主体は〝共に〟にある。〝共に〟の心にある! 一人ひとりの〝共に〟の自己が合わされてこの上ない感動を生み出すオーケストラの合奏が実現する。
この〝合わす〟という能動的な自己って、ひょっとしたら先の「〝信じない〟でやる我執のない自分」のことではないだろうか。
大発見だった。我執まみれの自分が、〝我執のない自分〟に出会えるなんてもうビックリ。それまでのばらばらに抽象的に散らかっていた言葉の概念が一つに繋がって生き生きとイメージされてくるのだった。

最近とみに盛んな実顕地間交流も、農繁期の労務調正を兼ねつつ〝至る処家在り、食有り、友、吾が子あり〟の世界を実現している。〝共に〟を地で行く楽しさを味わいつつ。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(28)

実顕地は虚構の存在か

先月の「みんなが気になる実顕地運営(8)」(8月1日付〝むら―net.参照)のテーマの一つに、
○産業をするための実顕地からの脱却
 農事組合法人は対外的な方便

とあり、テーマ解説〝農事組合法人等は実顕地の暮らしの中では、虚構の存在で、「ない」といっても良いものです〟との一文を多分受けて、次のような投稿がコメント欄に寄せられていた。
「農事組合法人は虚構の存在。同様にヤマギシズム実顕地も虚構の存在」
なるほど実顕地も無形のものという面ではそういえるかも。

〝虚構〟で思い出すのはその昔農事組合法人の仕事に就いた時、法人に〝法人格〟という資格があることが不思議でならなかった。確かに人間が生み出した制度ではあるが、あたかもヒトとしての法人がいないと契約を結んだり、登記を行ったりすることが出来ないという事実に、戸惑ったのだ。

そもそも虚構とは事実ではないことを事実らしく作り上げることだとされるが、世界的ベストセラー『サピエンス全史』の著者、イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、「虚構を信じる力」こそ人類ホモ・サピエンスの力を飛躍的に増大させた源泉だと指摘していて実に興味深い。
ユヴァル・ノア・ハラリ

それが約7万年前に人類の脳内で発生した〝認知革命〟だ。この結果人類は神話など虚構の事物を想像し、仲間に語ることが出来るようになり、かつ共通の神話を信じることで初めて大勢の赤の他人と柔軟に協力することが可能になったという。
宗教、国家、法律、法人企業、貨幣など現代文明を動かすこれらの概念も、すべて実体としては存在しない虚構の作り物だが、みなが信じることで複雑で高度な社会を営むことができるようになったのだと。
想像上の現実は嘘とは違う。誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続する限り、主観的でも客観的でもないその想像上の現実は社会の中で力を振るい続ける。中でも貨幣こそすべての人と人との間を繋ぐ虚構なのだという。
あのめいめい自分の信じる神様が本当だと主張し突っ張り合う宗教徒達でさえも、喜んで同一の貨幣を使う。筆者はいう。

「なぜなら、宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ」

実に痛快極まる洞察だ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できるのだと。そこまで何重にも固く信じ持つ、放そうとしない虚構の極みを貨幣に見てとるのだ!
そして筆者は今日までのすべて虚構に属するサピエンス〝文明は人間を幸福にしたのか〟と、幸せの定義を終わりに問いかける。

では〝虚構〟に代わる〝信じない〟でやる生き方は可能だろうか? 時の最先端〝金の要らない仲良い楽しい〟の真価が問われる。 

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(27)

〝村のお母さん〟の力

「今度お母さん研をやるんだけど、何か資料ないですか」と尋ねられて、「こんなのどうかなぁ。検討してみてくださいね」と山岸巳代蔵さんの発言集からの抜粋を差し出したら、しばらくして「あの資料でやりますから、ついでにゲストで出席してください」と言い渡される。
えーっ、子育て真っ最中の若いお母さんたちの中に一点の男性!? まいったなあ…と感じつつも、どんなふうに受け取られるのかと興味津々たる気持の方が勝ってしまう。

そんな日々のやることで一杯のお母さんたちと共に資料研鑽を始めて何回目かになる。
四年ぐらい前の夏、北海道・別海実顕地に全国から一堂に会した三泊四日のお母さん研も思い出深い。その時始めて、日頃は各地に散らばっているお母さんたちが研鑚会という場に一堂に会することから生まれ出る、いわば〝群像としてのお母さん〟を垣間見た思いがして、俄然実顕地の将来像が開けてきたことがあった。 

今回も資料研鑽を通して、道に迷ってうろうろしている人を見たり、ひもじい思いをしている人を見かけたら、見て見ぬ振りできなく放っておかない気持が自ずと湧いてくる。この気持っていったい何なんだろう? 日頃の喜怒哀楽の感情と同じものなんだろうか?……と問いかけてみた。

ちょっと理屈っぽく何のことだか訳の分からないところもあるかもなぁとは案じつつ、研鑚会はしばしの沈黙の中からお母さんたちの実顕地での暮らしで何となく身に付けているところからの発言が切れ切れながらも続いていく。なるほどなー。
そんな別段答えを見いだす訳でもない研鑚会から立ち現れる〝村のお母さん〟はじつに頼もしいのだ。願わくば、こうした研鑽機会が〝本当の食べ物〟になることを……。

ふと鶴見俊輔さんの小杉放庵画「天のうずめの命」を表紙カバーにした著書『アメノウズメ伝』を思った。
小杉放庵 『天のうずめの命』

神話『古事記』等に描かれた、アマテラスオオミカミが洞穴の中に籠もってしまい太陽が沈んで暗くなった時、アメノウズメの胸あらわの踊りでアマテラスを誘い出し、再び世界をあたたかく明るく照らし始めた話だ。
鶴見さんはそこに、対立的・権威的に陥りやすい世界を和らげ、溶かし包み込む神話からのびてくる女性、性、裸、踊り、笑い……に秘められた力を見てとるのだ。

なかでも「日本がハダカになった日」の章では、1945年終戦時、この日が来るまでに別の道はないかと、ニワトリの育て方から最小限の言葉をみつける研鑽方式を編みだし、農業共同体を発足させた山岸巳代蔵に触れ、

「この人たちの思索のあとは、戦後の一流行に終らず、肉体をもつ言葉を求める運動として高度成長下の経済大国の内部に根をおろしている」

とアメノウズメの振舞いに重ねる。
あらためて〝肉体をもつ言葉〟とか理想を描き実現させる力について思いをはせる。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(26)

仲良い楽しい大家族

今日は伊勢志摩の磯部農場へジャガイモ収穫に行ってきた。トラクターで畝に掘り起こされたジャガイモを大まかに大小二種類に分けてコンテナに入れていくごく簡単な作業。しかし中腰になってより分けているとすぐに腰が痛くなってくるし、さりとて腰を下ろして膝をつくと今度は立ち上がるのが億劫。そんなこんなで汗が噴き出してくる。
向こうの畝では幼年さん達がカラフルな砂遊び用のバケツ(?)にジャガイモを入れていたり、久しぶりに再会した者同士で写真を撮ったりしている。

こうした老若男女入り混じっての光景に、ふと先月の本紙「広場」欄にあった河合さをりさんの〝御浜の甘夏収穫に行ってきました〟の一文が重なった。そっくりそのまま再現されているさまにビックリ。
四月の下旬「地域の会員さんも一緒にどうですか」と声かけてもらって参加した大満足の南紀御浜での甘夏収穫体験記だ。

「手の届くところを採る人、とった甘夏をまずは食べ始める人、力のない人は二人でコンテナ運びを楽しんでます。木に登る人、そのうち私も、上から落としてもらった甘夏を受け取るのが面白くなり、いろんな人と組んでみると個性豊か!」

今日のジャガイモ収穫でも、韓国実顕地から研鑽学校に参加されている趙貞姫さん(80歳)がニコニコした表情で次のような感想をもらされていた。

「幼年さんから自分のようなお婆ちゃんまでまるで大家族のようでした!」

大家族? そんなのどこかの組織体の企画行事にすぎず嘘っぽいヨ、といった冷めた観方や考え方もある。そうだろうか。
 というのも最近事あるごとに
「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、……」(『実践の書』)という一節に思いを巡らしていると、資金があり、ジャガイモ畑があり、作る人が大勢居ても、それだけでは実現しないことがあるのではと気づかされるからだ。
そうしたことが普通に和気藹々のうちにやれているのは、そこの場所や人達そのものでなく、人の心の中にある「と」において繋がっているものに後押しされてのことではなかろうか、と。

例えていうなら、身体の病傷の時、意識あるなしに関わらず全身心が動員してそれを取り除き正常の方向へと合わせていこうとする力が働いているようなものだろうか。
しかも〝人と人によって生れ〟から親が子を愛する親愛の情が溢れ、〝人と人との繋がり〟によることで、人は自分以外の他の人と出会うことで、幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にある〝家族〟に象徴される繋がりを明示しているようだ。
そうした何だか身内ゆえのほのぼのとした温かいものが紐帯となることで、〝大家族〟もあながち嘘にはならないであろう。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(25)

移りゆく季節の中で

春4月に入ってすぐ1日~4日まで毎年2回8年間続いている恒例のサッカーをしないで〝自主、自立。チームワーク。コミュニケーション。食事〟を目的とした地域のサッカーチーム110名ほどの子供達の合宿がはじまった。畑の堆肥まきや牛舎や豚舎での元気なかけ声や振る舞いを通じて村は一気に春の息吹に満ちる。

続いて桜がちょうど満開になった頃には、一年間親から離れ仲間たちと過ごす幼年さんの入学式があった。早速次の日からカモの親子が一列に並んで歩いている光景そっくりに、村のいたるところで幼年さんに出会うことになる!
そうしたいつの間にか見慣れた風景になっているけれど、ちょうど十年前久しぶりに村で幼年さんの受け入れを再開した頃が思い浮かぶ。村の空気が一変したのだ! 神出鬼没する幼年さんの無心の振る舞いにどれほど心が和み励まされたことか。加えて以前からの養護部の子らの日々の散歩や職場の行き帰りの姿とも重なり合って、どんなにか豊かな村づくり像が皆の心に刻まれたことだろう。

今年は遅咲きの桜並木の開花と共に、梅林や桃園やぶどう棚や木蓮や菜の花々がほぼ時を同じくして咲き揃う絶景の中を、地域の老人ホームのお年寄りを乗せた車がひっきりなしに行き交っている。
そんなある日ふと見上げると、青空に尾ひれを豊かに振るう鯉のぼりが踊っていた。そういえば今朝学育の子らが、以前5月の春まつりに向けて設置した高さ33メートルの鯉のぼりの支柱の下に集まっていたっけ? もうそんな木々の若葉の緑が一斉に目に飛び込んでくる季節に移っていたのだった。
柿の木の若芽

なかでも道端の柿の老木の新芽は若芽色が鮮やかで、それがひび割れ白茶けた木肌から出ているのが何とも不思議でならない。だって老木だから、多少は赤茶けた新芽であってもよいはずなのに、といった滑稽な思いに囚われる。
人為の如何に関わらず自然界では若木、老木を問わず若葉の芽生えは緑色なのだ!

年を重ねた今、今が一番新しく、新しさが若さであり、今の自分がそうである。そこには一切のキメツケは要らない! それなのに先にあるものをだんだん古くなっていくようにキメツケて考えがちな人の哀しさよ。
しかしもうそんな心配は要らない。じつは自分らの村づくりはそんな矛盾をも包み込んだ上で構想されているからだ。
つまり我執がなくなったら理想郷を造ろうでなしに、まず仮の理想郷を造って、本当に仲良く暮らして行くには自分の引っかかりを放す以外にどうにもならないという、方法を以てすれば解消されていく仕組みなのだ。

そんな理想を求める自分らが本当の仲良い姿になる場、方法が必要なのだ。豊かな村づくりの秘鍵もどうもその辺りにありそう。どんな人もどんな難問題もみな溶かしてしまう親しい温かい空気のような気風から……。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(24)

繋がりの中でこそ

先の書『半世紀を超えてなお息吹くヤマギシの村―そこには何の心配もない暮らしがあった』にも紹介されていたが、北海道の別海実顕地、三重県の春日山実顕地、豊里実顕地で連鎖反応的に進められている酪農部門でのバイオガス発電や「自動搾乳ロボットシステム」の稼働は、著者・辻さんならずとも自分らにとっても実顕地の新しい息吹きを感じさせて余りあるものがある。そうした高度な技術とそれらを活かす循環経営環境との組み合わせに新しい芽をみるからである。
新牛舎

自分自身も毎日一定時間「自動搾乳ロボットシステム」が稼働する新牛舎の床管理というか床の端についた牛糞を自動式スクレーパの方に落としてやる作業についている。そうしてやると後はバイオガス発電プラントへと糞尿が自動的に送られて、発電や副産物のお湯がいちごハウスの熱源になっていく。

当初はオランダやドイツの高度な機械技術と自らの手足の四本との組み合わせにミスマッチのおかしみを感じていた。
ところがいつしかヤマギシ養鶏でいう「(技術20+経営30)×精神50=幸福」の方程式に照らしたら、さてこの事態はどのように映るのだろうかと自問している自分に気づいてきた。

またここでの精神とは、
「鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋がりを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです」(山岸会養鶏法)

とある。このことから高度な機械技術と自らの手足の四本(資本)や牛等を共に活かしていく経営環境に×繋がりを知る精神50の相乗積で、はたしていったい何が産み出されてくるのだろうか。こんなことを頭に留めておきながらの毎日は飽きないのである。

そういえばこの間ずっと〝繋がりを知る精神〟って、〝活かす〟ってどんなことなんだろう? とよくぞ何度もくり返し皆で研鑽してきたものだ。
その中でしだいに空気・水・太陽・土・緑・各種物質の原料等地球資源を儲けを得るための〝資本〟と見るか、活用する〝価値〟と見るかで、現れる現象は丸っきり異なる事実を知らされてきた。
また自分といっても、今までの自分一人よくなろうとの自己からなっているだけでなく、繋がりの中の片割れとしての自個からもなっているのでは、といった皆と共にある「自分」にも出会った。

例えばこのところ大手電機メーカーの経営破綻が続いている。そこには儲けるためにと最先端の技術設備に巨額な資金を投じることだけが経営だとする偏狭な精神しか見当たらない。
それ故ここで強調しておきたいのは、そうした設備を全人幸福の方へと活かしていく一人ひとりの自発力の涵養にあるはずだ。しかもその自発力は繋がりの中でこそ培われ掛け算的に発揮されていく!

農業や貨幣交換経済の前にある〝農〟や〝タダ〟の世界。そこに立ってこそ観えてくる豊かな世界がたしかにある。

PageTop

 「と」に立つ実践哲叢(23)

 “奇跡の村”のときめき

先頃刊行された辻秀雄さんの『半世紀を超えてなお息吹くヤマギシの村―そこには何の心配もない暮らしがあった』(牧野出版)の本の帯のキャッチコピーに「ここは、本当に“奇跡の村”なのか」とあった。
奇跡の村

えっ!奇跡の村?、大げさだなぁ……と思いつつ、何かが突然呼び覚まされるような衝撃を感じた。
ひょっとしたら本当はそうなのかもしれない。“奇跡の村”ってまんざら根拠のない話ではないのではないか? 日々の暮らしのここにもあそこにも奇跡が顕在しているではないか。そんなふうに想いを馳せると胸がときめいてくる。
例えば以前「週に一度ぐらいは各家庭でも食事ができるように、村の一体食堂“愛和館”に休館日を設けたい」といった提案が研鑽されたことがあった。

研鑚会ではもちろん各家庭での食事云々はとがめる何ものもないのだが、それと共に「常夜灯」としての一体食堂“愛和館”の存在価値について皆で研鑽できたことが今も心に焼き付いている。いつも身近に感じられて自分らの歩む道を照らしてくれるような道しるべとしての「常夜灯」についてだ。そんな「常夜灯」の灯明と年中無休の一体食堂“愛和館”が重なってきたのだった。
常夜灯

その頃か、どうも皆となじめなく沈んだ気分のまま一体食堂“愛和館”へ普段よりも早めの時間帯に行ったことがある。すると“愛和館”の光景が一斉に自分の心の中へ飛び込んできたのだ。子供たちから老蘇さんまでみんなが耀いて見えた! 

こんな時だ。その時その場に座る人同士で一家族を形成する「十人のテーブル」の仕組みからの無言の催促や力づけに触れるのは。何かほのぼのとした温かいものに包み込まれる“奇跡”に気づかされるのは。

また例えば、自分の人生の大きな転機にかかわる人との出会いや結婚の経緯なども“奇跡”としか名づけられないものだ。
自分はそのことを臆面もなく“ある愛の詩”と勝手に名づけて機会あるごとにみんなの前でおおっぴらに言い続けてきた。
だってそれ以外に堂々と胸を張って自分の言葉で語れる何ものもないからだ。あのときめく恋に落ちたような琴線に触れる体験というか「私はあなた、あなたは私」の親愛の世界との出会いこそ“奇跡”ではないのか。他になにも要らない。もうそれで満喫謳歌。
そういえば自分らの全人幸福運動も、「かなわぬ恋ではなかろうと、チョッピリ出した手がこの知的革命案です」(『ヤマギシズム社会の実態』)だった。

そんな誰のなかにも眠っているその人なりの“奇跡”が日々新たに呼び覚まされ、ときめく最適な場として“奇跡の村”がある!
この書には、実顕地という共に働き、共に暮らす場からおのずと浮かび上がってきた、一人ひとりの“奇跡”が綴られている。何気なく、当たり前なこととして、それはある。
    

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(22)

ふとした心の転換から

今もスペインのサグラダ・ファミリア教会でガウディの遺志を継ぐ彫刻家・外尾悦郎さんのことが以前新聞で紹介されていた。石を彫りたい自分に気づいて、若き日偶然スペインで石の教会の工事現場に飛び込んで以来、今日までやってこれた理由に、ふとした心の転換があったからだという。
サグラダ・ファミリア教会

それはガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ、と気づいたとき、ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えたというのだ!
あ、これだ。こんな感じかなあ、と思わずうれしくなった。自分にも思いあたる節があったからだ。

久しぶりに入学したヤマギシズム研鑽学校でのことだ。
ボードに記されたある日のテーマ「無我執研鑽」についてのくだりの一言、「異い」の文字をじっと眺めていたとき、そうだ自分がヤマギシズムになったらいいんだ! という思いがふと湧いた。
でもその直後、そんなバカな! と即座に打ち消す自分がいた。だって我執の塊のような自分がヤマギシズムそのものになれるなんて金輪際あり得ないからだ。その慌てっぷりといったら、思い出すたびにおかしくてたまらない。

がしかしそれで話は終わらなかった。研鑽学校を終えてからも、なぜか我執っぽくない心の琴線に触れるような名状し難い温かいものが何度も湧いてきては、そのものに癒やされている自分がいた。

あれっ、この繰り返し湧いてくる温かいものって何なんだろう? 不思議と疑問が深まるばかりなのだけれども、一方で「自分がヤマギシズムになる」という突拍子もない思いを解いていく糸口がそこから見いだされていくような予感もあった。

たしかに「無所有」とか「無我執」とか「一体」といううかがい知ることのできない理念と今のみじめな自分とが一つに溶け合えるなんて絶対にあり得ない。でも何処かにきっとあるはずだ、と心が奮い立った。
糸口は先の外尾さんの「ガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ」といった気づきにあった。
我執っぽい自分の思いや考えから近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点(=位置)に立つというか、ガウディが込めた思い(=心)になることにあった?

自分の思いや考えでは正しく相手の心情を推し量れないが、「その人の心と一つになる」ことはできるかもしれない。これまた目からうろこの大発見だった。するとあの「我執の塊のような自分」などを後生大事に持ち続けなくてもいいんだ、という突き上げるような歓びが実感されてきた。
個々別々に離れてお互い対立し合う自己のことを唯一の自分であるかのように固く思い込んできた。
でもこの間自分らは「と」に立つ実践を通して、一体観に立って見るとこんなにも仲良くなれることを実感するのだ。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(21)

ヤマギシズムの醍醐味

池に氷がうっすらと張る季節がくる頃、いつも思い浮かぶ一句がある。

「凍る池 藻は青鯉の泳ぎ居り(鬼面子)」
凍る池

この句は昭和三一年一月、第一回「特講」が開催された頃、会機関紙のコラム「立卵鑽」に山岸さんが記したものらしい。要旨は―
鶏を見ればそこの家の様子がすっかりわかるとは真実である。和やかなニコニコの家かトゲトゲしい争いの家か……。なぜなら鶏はそこの家の人によって育てられているからで、子を見れば親がわかるのと同じである。
しかしそれも「見る眼」が出来ていなければ見えないので、「見る眼」は正しく見られる心が出来たか出来ぬかによって定まる。
今回の「特講」参加者の第一の獲物は、この「正しく見る眼」の出来たことであった。そして結びの一節にこの句が置かれる。

ある日の研鑚会で皆で侃々諤々この句を鑑賞し合ったことがある。
「これは見えないとアカン。考えてワカラン」
「もし辞書引くこと知らないなら、どう考えるだろう?」
「青い鯉と書いてあるから青い鯉はあるものだと、そんな見方で見たら鯉も青く見えてくるかもしれない」
「しかし辞書引いても青鯉は出てこないから、これは他に意味がありそうだ、そんなことあり得ないと考えがち」
「そのままでええんよ、考えなくてそのまま」
「やっぱり赤いものは赤いし、白いものは白いかね?」
「この俳号の鬼面子って?」
「ほら、怒り狂った眼でいると人間の顔してても鬼に見えるというじゃない。だから形よりも実質を観て下さいと……」(ちなみに後年、山岸さんは自らを未熟未熟の鈍愚生とも名付けていた)
「特にヤマギシズムでは一般にないものがある。そこを発見していくところに醍醐味があるのではなかろうか」
ここでも目からうろこだった。パーッと世界が開けた。

その後有精卵の供給活動が始まった頃、卵の黄身が白っぽいとのクレームが活用者から多く寄せられたことがある。そこで自分らは困ったことになったとみっともなく動揺した。ふだん「一個の卵に心を托す」とか「込める」と口先だけで言っているのか、それとも真実なのかを試されているのであった。
またそうした場面に直面するにつけ、あの「やっぱり赤いものは赤いし、白いものは白いかね?」の問いが迫ってきた。自分らヤマギシストは、白でもない赤でもない「真っ白な赤」を発見する日々ではなかったのかと。
本稿のタイトル〝「と」に立つ実践哲叢〟には、そんな一致とか重なるとか合わすとかの表現でイメージされてくる「仲良し」の本当の実態が込められてあるようだ。
こうした「仲良し」とか「楽しい」といつた簡単な言葉に秘められてある奥深さのようなものをもっと味わい尽くしてみたいものだ。
 

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(20)

自然界の歪みの良さ

最近の実顕地づくりのテーマに「先を見通し、実顕地の将来像を描く」がある。だとしたらその先が見えてくる描きの底辺となるものは何だろうかと思いをはせてみる。
ふだん研鑚会などで取り上げられるテーマは常に何か問題事が生じ、その問題をどう解決するかといったそこからの抜け道を見つけようとするような対応策にとどまる場合が多い。
当事者であるがゆえの自分らの置かれている立場からの利害・損得に走り、それはこうしたら良い、ああしたらといった狭い袋小路に入り込む意見のやりとりになっていく。
なかでも公意と私意、皆の考えと自分の考え、全体の意志と個人の意志との間で、提案する人と調正される人という相対関係や矛盾をどうしたら解消することができるかといった問題に日々迫られている感がする。
こうした当事者であるがゆえの先入観で変形された近視眼的な自分らであることを痛感し、そうした立場や問題から離れて物事を見ていく観方の難しさにぶつかる。

そしてふと気づく。相対関係や矛盾をどうしたら解消できるかといった考え方の中にこそ、間違いが潜んでいるのではないかと。あたかも金を儲けようという考え方からは、金の要る社会しか見えてこないように……。しかも問題は常に暗い否定的なイメージで問題化されがちだ。
まずは暗い人生観を転換せねばならない。このことは、すべてを放して考えてみるという次元の〈転換〉を意味している。「明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの」とする出発点に戻るべきだ。
かって詩人・谷川俊太郎は、第一詩集『二十億光年の孤独』でうたった。

「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」
「宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」
アインシュタイン

アインシュタインによれば、万有引力とは時空の歪みのことだそうだ。宇宙がひずんでいるからこそ、みんなが切実に心の手を差し延べ合う衝動にかられるのだろうか?
つられて次のような一節が浮かんでくる。

「私の性格は、実はそうではないのですが、事に当たると数理的に走り、自然界の歪みの良さを容れないために、殺風景で味がありません」(山岸会養鶏法)

そうか!「自然界の歪みの良さを容れる」って、当事者であるがゆえの様々な相対関係や矛盾を「歪みの良さ」へと転じるというか包み溶かし込んでしまうことなのだ?

心は宇宙自然の歪みから齎される! 歪んでいるからこそ、不調和状態の中で調和状態を保とうとする働きが生まれて世界を潤いで満たす。しかしその調和を満たした時、必然また矛盾が生まれ、次の調和を目指す。
そんな自然と人為の調和をはかるという生き方で、問題(=矛盾)がないのではなく、次々問題を問題と見做さない汲めども尽きぬ味わい潤いで溶かし込んでしまおう。
 

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(19)

自分がいる実顕地づくり(下)

かつて日本列島が石油ショック・パニックにおちいり、連日のように「地球上の資源には限りがあります。限りある資源を大切にしましょう」とテレビのCMが流れていた頃、限りある資源を大切にすると同時に限りない資源の開発にもっと力を注ぎたいといった研鑽をしたことがある。

限りない資源って何のことだろうと思ったら、それは誰の中にも無限大に潜在して、開発さえすればどんどん湧き出てくる「自発力」とでもいうべき強力なエネルギー源、それは生きる力のもと太陽エネルギーにまでさかのぼれることにビックリした。

人からいわれてやっと動き出す自分。仕組みや制度にそっているだけの自分。やらねばならんと思っているだけで手出し足出ししないでいる自分。生まれてきたから仕方なく生きているという無気力な惰性の毎日を送っている自分、等々があぶり出されてきた。
しかもこんな自分でも自発力はないのでなく、開発したりないだけのことだと思い知らされて、目からウロコ。そんな各自の自発的自由意志だけで成り立つ社会って、どんなにか素晴らしいだろうかと胸ふくらんだ。

例えば時々一体食堂愛和館での「食器洗浄」の話が持ちあがる。一応公平にという意味での当番制で運営されているが、都合で入れなくなる人も出て食器洗浄の担当者が負担に感じられてくる場合がある。メニューによっては、食器が山のようにたまってくるし、食器が欠けたり割れたりもする。
たしかに家事仕事といえどもやりたいからやるので、やりたくない時はやらなくてよいのではあるが、誰かがやらなくては進まない。その辺り各自の自発的自由意志だけで成り立つ社会ではどのようになるのだろうかと。

いろんな思いが湧いてくる。
○こんなことで頭を悩ませなくてもよいように、もっと機械化を推し進めてはどうか。
○サボる人には罰をと非難したくなる。
○一人ひとりが少しずつでも入れば、こんなふうにはならないのでは?
○このしんどい実状を、もっと全員が知るべきだ等々。

でもどこか変だなあと感じる。皆と共に暮らしをつくっていくことは本当は皆が望み・楽しいはずのことなのに……。
じつはここからが食器洗浄の例に限らず自分らの研鑽がはじまる出発点なのだ!

誰かがひょいという。「でも、今日まで遅れることはあったけど食器洗浄ができなかったという日はなかったなあ」「そういえばそうだねえ」「最後は自分がやるという人がきっといるんだろうねえ……」「そうか!」

するとそんな「ラストマン」の気配を感じてかふうっと心が温かくなる。それまで頭の片隅に隠し持つ「自分で飯食ったんだから、自分の茶碗ぐらい洗ったらよい」といった傲慢な自分に気づいて恥ずかしくなる。
そんな時だ。責め合いなく責任感も義務感も超えた世界に住む自分を発見するのは。 

PageTop