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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(190)

探求をふり返って
壁穴から青空をのぞき見る

ふり返れば予期しないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、特に苦しみの分析・分離、及び原因究明が出来ない状態になり、なかなかその苦しみから脱却でき得なかった。それまでの研究するための科学実験や怒りなどのように材料を持って来たり、場を造ることも出来ない事態に直面したのだった。
それは理論・理念を論じる前に在るもの、予期しないのに起こった事実それ自体からの、山岸巳代蔵に対してのある意味真なるものからの警鐘であったとも言える。

○鬼畜のような形相で〝即実行や〟とグングンやったもの。
○命がけ、血みどろの愛欲史。
○生来の求真性格に煉獄の試練を。
○死よりもつらい数々の責め手,受難史。
○常識世界は冷たく酷だった。
○課せられた運命か、あまりにもヒニク。
○「一回の私心(自殺)が欲しい」と何回思ったかしれない。自己愛とでもいうのかね、
○他の数々の探究と、あらゆる天災・人災・病苦等での身心の試練で打ちひしがれて、生来弱体で気弱の幼柔な重圧の僕を、なぜまたゆるさないで……。

これこそ旧約聖書ヨブ記でのヨブの叫びにも重なる〝理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……〟の自画像だった。
こうした段階を経てはじめて〝理論・理念を論じる前に在るもの〟が、〝頼子さんの2の世界〟に想いを馳せることで〝死んでも死に切れないもの〟として迫ってきたのではなかろうか。
この間柿谷さんの探求課程を追いかけながら、よくぞここまで掘り下げられたものだと驚嘆する。
山岸巳代蔵の〝「理想社会」が浮かんできて、そうなるために具現方式もひらめいて、夫婦で縮図として成せる、となった時の感激〟とそうした世界を綴られる柿谷さんの勇躍歓喜の心境とそうした文言を書き写しているだけの筆者自身の心持ちが重なるようにも感じてしまう。
例えば次のような一節など、大きな気づき・発見ではないだろうか。

○〝表すものでなく表れるもの〟から〝表れるもの〟が、〝頼子さんの2〟か……。もちろんここでの〝頼子さんの2〟は2でない、全部に生きる2なのだ。
○しかもこの〝頼子さんの2〟は、あらゆる問題に連動するように思う。
○今日までの長い歴史の中で、一人の個人として引き継がれて来ていて、真の夫婦、夫婦一体で一人格、夫婦一体で一業理想、夫婦二人で一人格の持ち味という視点は無かったのではないだろうか。
○妻の前に女性としての出発点から出発して妻になる順序ではないか。つまり、まずは女の持ち味があって妻になるのではないか、と少々踏み込んでみました。(2004.9.11)

ふと山岸巳代蔵の発言が浮かぶ。

“自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいとふり返ると……”(第1回ヤマギシズム理念徹底研鑽会)

あまりにも身近にありすぎて、ふだんは軽く聞き流してしまったり見過ごしているようなものがある!? その〝宝〟を〝前向きに見ていて、ちょいとふり返ると……〟いったいどんな世界が開けてくるのだろうか? 
その〝宝〟とは、柿谷さんがはっきりと見出された〝頼子さんの2〟ではないだろうか?
もちろん次のような山岸巳代蔵の発言とも重なってのことだ。

“本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるように思う。すべてに本当の結婚を求めている私だったと言えよう。休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。”(『恋愛と結婚』の前書き)

こうした〝頼子さんの2〟から始まる世界について書き綴ることこそ柿谷さんの意図を引き継ぐ自分らの一番の願いだ。
また同時にこうした世界と現状の実顕地を対比的に重ねての苦言も頂戴している。曰く

○研鑽学校開校と実顕地の出発は同時進行したが、真の夫婦が抜け落ちて進められてきた。
○夫婦で世話係をやることだ。
○ダシの抜けたダシガラにも似たように思う。
○無感無識界研は無くて、我執ばかりが推進されてきた。
○愛情研鑽後まわしを憂える。
○我々の頭には、生活を支える産業を優先して考え行う習性があって、多忙とか、失敗とか、競争とかに追い回されることが当たり前になっている。
○世間では欠陥車について大きな話題になるが、ヤマギシ欠陥車は放置されたままである。
○振り出しに戻して、出直すことが、成功の秘訣だと思います。などなど。

はたしてそうだろうか。見出されたあるべき姿とそこに至らない現状との〝すきまの部分〟はどうしたら埋められていくのだろうか。理想を描き実現しようと試みるとき、誰もが直面する切実な問いであろう。そしてそこからこんなはずではなかったと後悔する底知れない落とし穴にはまっていく例が後を絶たない。
いや、こうした二元論的に理想と現実を取り分けていく考え方じたいが却って躓きの石になっているのかもしれない。たしかに次元の異なる場合はそれをいくら進めても異いがはっきりしてくるだけで同質のものには発展しない。しかし同次元での未熟には成長という可能性がある。それゆえたえず問われるのは理想に直結する次元の転換がはたして為されているか否かであろう。もとの考え方にある束縛に気付いて理想に合う原点的考え方に立つことが容易ではないのだ。振り出しに戻って考えてみるしかない。
柿谷さんもそうした混線する観方にはまっているようにも見えて仕方ない。
この間のヤマギシズムの恋愛・結婚観の文脈に沿えば、山岸巳代蔵と柔和子との果てしない愛情劇問答からふと浮かび出た山岸巳代蔵の発言がヒントになるのではなかろうか。

山岸 そこんとこ、双方から起ったもので、双方のものだと思う。そこに本当の夫婦の良さがあるんだと思うが。
「ここからよう言わない私や」とね、そういう考え方に入らずに、やはり二人のものや、二人一つのものや、どっちのと言うより、二つの入れ物に入れた水がつながっているように、「僕が至らぬ、あんたが出来てる」と言っても、それは、至らん、出来てる、二つで一つのものと思うの。
柔和子 そらそう言えると思うわね、そういう具合に言ったら。
山岸 それやと思うの。あっちやこっちと言ってるより、同じものをやね、ちょっとこっちに水が多いとか、そっちが少ないとか言うよりね。同じものやと思うの。
柔和子 そりゃ大乗的観方からすれば、そう言えるわね。
山岸 いや、これはホントやと思うの、それをかれこれとそういう観方をするところに、いろんなもんが出てくるのやなかろうかと。なかろうかやぜ。”(「編輯計画について」)

ふと壁穴から青空をのぞき見たようなハッとする驚きがあった。〝そういう考え方に入らずに、やはり二人のものや、二人一つのものや〟というのだ! 
至らないのは二人のものやともいう。相手が至らないなれば、至らないなりにそれは自分と同じもの。また自分も至らないからといって自分を責めないもの。理屈ではない。そこから他が全部健康正常になってくる根本なのだという!
そこへポンと飛び込むのが先なのだという。そことは〝二人一つのもの〟であり、〝頼子さんの2〟から始まる世界のことであるにちがいない。ここから出発しようというのだ!

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わが一体の家族考(189)

探求7 理想実現の絶好の舞台
小倉百人一首

前記の「柔和子に寄せた書簡」〝私はこの世に思い残すことがある。死んでも死に切れないものがある。〟の全文掲載(2004.5.22頃)から〝頼子さんの2〟解明が始まり、その後亡くなるまで(2016年)〝死んでも死に切れない〟真意の探求と自らもそこを生きようとする日々が続く。そこから柿谷さんは次のような新しい気づき・発見を記している。

○例えば〝よい年して孫みたいな小娘に惚れてうつつをぬかして云っているのかどうか、私の身になって聞いて頂き、頼子を理解してほしいのです〟とは、〝頼子さんの2〟を理解してほしいと云っているのではないか。
○柔和子さんの2と頼子さんの2が、一人の女性に存在しにくくて片寄っていることが多く真の夫婦に成り得ないところから、山岸さんは具現方式として〝固定のない結婚〟を編み出し、探求して来たのでしょう。
○すべての調和の崩れる元は、女性の持ち味2の軽視から。
○頼子さんの2は全てを生かすという。
理想社会実現に向けた仕事。それには三つの要素、発明力・実具現力・生かす力の実現が不可欠。
○発明力(男)、実具現力(女)、頼子さんの2の力(女)=生かし合う世界
○また頼子さんの2は、〝妻の一体〟にあると思う。
○夫と妻の持ち味を生かす〝妻の一体〟によって〝成るもの〟とは、〝和らげる、下手に出る〟といった女の人の心の状態が優しくなることではないのか。
○無我執も自然界では、保ち合う理として存在。夫婦の持ち味を生かし合うということが、我執を無くしていくエネルギー源である。
としながら、真の夫婦つまり〝男と女の持ち味を生かし合う生き方〟のねばり強い探求を通して、〝頼子さんの2の世界〟の拡張がはかられていく。
○〝頼子さんの2の世界〟は、零位に立てば見えるのではないか。
○女の人は元々、身も心も優しい。優しい美。
〝美しさを美しきで隠されて漂う美しさ、素直さ〟
〝忍ぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思うと 人の問うまで〟(平兼盛・小倉百人一首)
〝表すものでなく表れるもの〟という。その〝表れるもの〟こそ、〝頼子さんの2の世界〟か……。
として、次のような山岸巳代蔵の発言に重ねられていく。

“日本キモノも衣装を見せるためだったら本末転倒。目に見える姿だけなれば惜しいもの。本当は衣装を通して、人間を隠して、人間が表現される面白さと調和美にあると思う。その人のさわやかで高尚な芸術的個性美、ゆかしさと温かい情緒、凡てと溶けあい生かしあう、あいの象徴、或いは内在する柔らかい曲線美、まかり出(い)でないしとやかさ、嗜み・趣味に楽しむ人柄のよさなど、みせようとせない、つつましい内からこぼれて匂う、心根の美しさ。”(「正解ヤマギシズム第二輯」刊行に当たりて)

全てを生かすというほどのものが、女性に存在している。
しかもそういうものが〝二人で一つ〟という真の夫婦の基本条件からいつでも、どこにいても、生き生きと発せられているのだという。
なぜなら人は〝自然全人一体〟の産物だからで、しかも一体の夫婦の資格条件を調えることで自ずから、もっとも直接的で本質的な〝自然全人一体〟の姿が現象として顕れ出るのだとしている。
そえゆえそこはまた理想社会の縮図として最小単位の理想実現の絶好の舞台・出発点であるとされる!?
そこに充満しているのが頼子さんの〝2〟であり、女性の持ち味その〝2〟であり、「女性の心の美」であり、「心の優しさ」であり、「つましい内からこぼれて匂うこころねの美しさ」であり、この美は「夫の行為は妻の一体によってなるもの」によって生まれるものであるとされる。
いったいここで何のことが言われているのだろうか。

一体の夫婦の資格条件を調えることで、自ずともたらされる豊かさのようなものが表現されているようだ。
受け身の奥ゆかしさ、滲み出る情愛の香りや潤い。
以前〝食べたいから食べるのと食べなくてもよいが食べるのと、何でも二つある〟を研鑽したことがあった。あの〝食べなくてもよいが〟と受け身的に〝食べたいから〟という自らの要求を放したときに湧いてくる豊かさのようなものと重なる思いがする。そこが一体に合適していく資格のベースになるのだろうか。
たしかに頼子さんの〝2〟のようなものが自然から贈られ、人から発せられる美しさ・豊かさ・温かさの源が、そこはかとなく広がっているのがこの世界のようなのだとイメージされてくる。

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わが一体の家族考(188)

探求6 死んでも死に切れないもの
宇宙自然界

例えば先の「頼子は全部に生きるわけよ」の真意について、あえて数字で表して言っている〝2〟についての探求を次のような山岸巳代蔵の発言をくり返し吟味するところから取り上げられる。
直筆での原稿は、

“私はこの世に思い残すことがある。死んでも死に切れないものがある。”

との一文から始まる。たしかに私は、

“どうしても全人幸福研鑽一体社会の峠を越すまでは、この世へ生まれ、養って頂いたお返しとしてでも死ねないのだが、時の流れと云うか、自我世界の流れに力及ばず、死んで行くのかも知れない。”

しかし、これも時代であり、別段私がやらなくても、いつかたれかがやるから、残念は残念だがニッコリ笑いながら死ねそうだ。
ただ、もし私心が許されるなれば、本心はどうかと尋ねられるなれば、この間少しも生への執着も残さなかった頼子と死にたい。
しかしまた、私をして死んでも死に切れない絶対のものがある。これを抱いたままでは、どうしても死に切れない一つのものが残されているのだという。それは、

“頼子を柔和子たちに理解ささずに、誤解さしたままでは、如何に苦しくとも、死にたくても、死に切れないのである。”

のだという? なぜなら、

“柔和子を最も愛しているが故に、本当の頼子を理解してほしいのである。また誤解され、世人から、家族から、一人ぽっちにされている頼子のためにも、柔和子たちに正しく頼子を見てやってほしいのです。この世の中にこんな愚かなことがまたとあるだろうか。その原因の殆どを私がつくっただけに、私は死んでも死に切れないのである。
これについて私の云いたい事を、私になって聞いてほしいのである。本当の研鑽がしてほしいのです。批判者でなく、苦しみ悶え抜いている私は何を云わんと、くりかえしくりかえしするのか、なぜ、どういう点を苦しんでいるのか、一方的とり方できめつけないで、苦しんでいる私になって聞いてほしいのです。
先ず私の欠点であった、感情もあり、我もある相手に、相手の気持にもならず、云い度い本心を聞かないで、筋ばかり通そうと理責めを相手に感ぜさす理詰め、検事、裁判官態度でなく、私もその身になって聞くけいこをしますから、私の身にもなって、感情に走らないで聞いてほしいのです。この世で、私としての最大の念願は、柔和子や、自分では気がつかないが、頼子を誤解し、頼子を苦しめ、私を苦しめ、息の根を止めようとしている人達に、私が死ぬに死ねん、死よりもつらい思いで、何を苦しんでいるのか、云わんとしているのか、よい年して孫みたいな小娘に惚れてうつつをぬかして云っているのかどうか、私の身になって聞いて頂き、頼子を理解してほしいのです。
頼子も憐れですが、そうゆう心の世界に平然としている人、こういう世界が私に堪えられないのです。本当の研鑽が出来るお互いになり度いです。そうなれないために、苦しみ苦しめ合って下手ばかりしているのです。
間違いばかりで勝手に苦しんでいる私でしょうが、その間違いばかりで苦しんでいる私になって聞き考えて下さいね。”(1959.9月頃か、柔和子に寄せた書簡より)

この一文は、この年の七月山岸会は一週間の特講受講者を軟禁した疑いで上野署の捜索を受け(世に謂う山岸会事件)、幹部と見なされた人々が逮捕され、山岸巳代蔵も全国指名手配中の潜伏先で記されたものだ。共同謀議の疑いも晴れていなく非常に逼迫した状況にあった。今度は死刑になるかも分からん、せめて息のある間になんとかこの結婚観を、といった焦りをも感じていた。
柿谷さんは、頼子さんの〝2〟という持ち味は「接着剤同士の一体」の妻の側から夫に対する接着剤に当たるという。妻の一体が、頼子さんの〝2〟の焦点だというのだ。
例えば約束と云う強い接着剤で密着さした合板は、両面別々で、両者の間に糊の隔てがある。雨や嵐や、割り込む金や何かの、他からの梃入れのヘラや鋸で引き割かれもする。 そんな約束と云う接着剤なしで一つになってしまっているものだ。男には女の要素が無い、女には男の要素が無い。そんな無いもの同士の一体なのだという? いわば餅と餅を搗き合わしたようなものだともいう? 
先の柿谷さんの推理(わが一体の家族考186)を再度記しておく。

“○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
から、男を一極、女を二極、三極と表現するなら、三極に当たる世界が、女の人に存在する!?”

つまり山岸巳代蔵が叫んでいる〝死んでも死にきれない〟というのは、三極に当たる世界、〝AもBも生かす2―女〟があることを聞いて欲しい、本当の頼子を理解して欲しい、というのであると。
この間何度も〝男が男になり、女が女になる〟主題に触れてきた。例えば次のような発言もあった。

“「女は女らしい女になればいいんだ。親は女に生んであるのだから女になればいいのだ。いつのまにか女が男になろうとするから社会はうまく行かないね。女は女らしく、男は男らしくね」”(わが一体の家族考175)

しかし今の自我欲、自我観の染みこんだ世界の流れの中では、三極に当たる世界、〝AもBも生かす2―女〟そのものが無視・否定されている。その点を強調し続けても却って嫌われ、憎まれる。〝そうゆう心の世界に平然としている人、こういう世界が私に堪えられないのです。〟とも言っているのだ。人間の傲慢さが、宇宙自然界の現象に反する行為に及んでいるのだという緊迫感に満ちていた。他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付いてたった一人目覚めているじぶん自身がいた。

それにしても、〝全てを生かす〟というほどのものが女性に存在しているということは凄いことではなかろうか。
そういうものが〝二人で一つ〟という真の夫婦の基本条件からいつでも、どこにいても、生き生きと発せられているのだという。

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わが一体の家族考(187)

探求5 接着剤同士の一体
月界への通路

柿谷さんの探求は続く。しかもその道中での心境は以前(わが一体の家族考150)で柿谷さんに宛てた手紙で紹介した

“○「夫の行為は妻の一体によってなるもの」 先生の発見であろうが、自然界のことで、世の男、女の実態を数字で顕したもの。
○「理想社会」が浮かんできて、そうなるために具現方式もひらめいて、夫婦で縮図として成せる、となった時、感激だったであろうと想像できる。
こうした世界を綴られる柿谷さんの世界も、勇躍歓喜の心境で満たされているであろうと推察されます。この世界はまた私自身の目指す世界だと知らされます。”

といった〝勇躍歓喜〟の日々でもあったにちがいない。
なかでも、山岸巳代蔵の発言
「頼子は全部に生きるわけよ」
「夫の行為は妻の一体によってなるもの」
という表現から、
○「もの」が付くと、宇宙自然界の現象といったものを感じる。
○先生が(山岸巳代蔵のこと―引用者注)勝手に云っているように受け取れない。
として、〝宇宙自然界そのものだといわんばかり〟へと探求のツルハシをがちりと掘り当てるところまで粘り強く考えを進めていく熱意には驚かされる。
○先生の論として片づけてしまうと、世の男、女は無いもの同士であの世に行くことになるのではないか、と私は思って、「妻の一体によってなるもの」という一節は、どういうことか、と先生の残した資料を読みあさり、はっきり決着しなくて〈どういうことか〉が、日々あって年月が経っている。(2004年5月22日)
ともふり返る。そしてついに、
○男も女も生かす持ち味が闇の中から出現するためにも、男と女が混線しないこと。
つまり、
「発明と実具現化の二極によって物事が進行して、二極を生かす三極は無視同然。闇の中にある。今日までは二極が最優先でした。そこから二極と一極の混線が、最優先は、三極です。」
と〝三極から出発する生き方〟即ち男も女も生かす、女にある持ち味の発見にたどり着く。
こうした宇宙自然界の「無感無識界」にまで拡張されてはじめて、次のような一節が解読されてくるのだろうか。

“真の夫婦は、夫婦そのものが接着剤同士の一体で、約束と云う接着剤なしで一つになってしまっているから、考え方から行為から凡てが一致し、夫の考えは妻の考えであり、妻の願いは夫の願いで、妻行うところ夫の行いであり、夫の行業は妻の一体によって成るもの。裏も表もなく、食い違い、波乱の起る隙もなく、他からどんなに手荒い邪魔だてされようと、水をさされ、火で炙られようとも、別れようのないもの。”(「真の自由結婚―真の結婚には契約がない」1959.12頃)

もうここまでくると、そんなに容易く分かってもらっては困るといった不思議な感慨が自戒の念を込めて沸き上がってくる。
そんな個人的な経験から普遍的な月界へと至る通路を辿ろうとしてついに、自分のツルハシをがちりと鉱脈に掘り当てたかつての夏目漱石の発見の喜びとも重ねてみたくなる。

“ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずることができるのでしょう。”(講演「私の個人主義」)

しかしそれにしても〝接着剤同士の一体〟とか〝無感無識界〟とか言われても、全くイメージが湧かない。いやなんとか空間的に掴もうとして、かえって無形・無感であるものをそのまま素直に受け取れないのかもしれない。
ここは柿谷さんも言われるように、早わかりしないでヤマギシズム研鑽学校の予科、本科、専科の指し示す真意に思いを致したい。

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わが一体の家族考(186)

探求4 数字に秘められた愛情世界
空気とタイヤとハンドル

そして第6信(2004.4.20)頃から、以前(わが一体の家族考149)で軽く触れた〝数字に秘められた愛情世界の解読〟が登場する。
愛情の複数形態に至った経緯を振り返る山岸巳代蔵自ら仁和子や頼子が参加しての〝愛情研鑽会〟(1958.12.9)での発言である。
本稿では次のように記した。抜き書きしてみる。

『さっき言ったね、「これも五つのうちの、まあ、柔和子が五つ」と、それで、「頼子と僕で五つ」と、こういうことは。「三は柔和子と同じような、こう、能力、そのかわりに柔和子にない二つの能力が僕にはある」と、こう言ったわけですな。
まあこれも、数字で言うと非常にややこしいから、言い直しておかんといかんからね。そうするとやね、二つが頼子かというと、そうやないのよ。頼子に、いや、柔和子にない二つが僕にあると、そうして柔和子と同じ、柔和子の持っておるもので太刀打ちしたらやね、どっちがどうって言うたら、そりゃもう柔和子の方がガーンとやりますよ。ね、ある能力っていうかね、そういうもので、ね。そういうような意味のことね。
そりゃ、僕の3より柔和子の5の方がっていうかね――もう、ちょっと、数字で言わんと分かりにくいから、ちょっと例えて言うんですけどな――こういう非常に素晴しい能力持ってるっていうことやね。
そういうことでね、ところがこの、この僕には5、寄せての5がある、柔和子にないもの2寄せて頼子と同じもの3が、あの、柔和子に……ややこしいね、今の。
あの柔和子に3ね、柔和子と同じ3と、柔和子にない2寄せて5として、ここに頼子が入ることによって全部これが生きるということね、ね。
ここや、ここんとこね。頼子が2でないの、頼子が2でないわけよ、頼子は全部に生きるわけよ。この3だけも、この3の柔和子と同じ3もやね、頼子が入らなかったらやね、3も生かされない。むろんこの2もやね、働かないと、こういうものを僕は感じるの。そういうものを感じる。
ところがこれだけあってもやね、柔和子の、この5があってこそやね。』

要するに柔和子は、〝5〟ともいえるこの間の〝百万羽〟構想を実現していく力を備えている女性。一方頼子は、ただ愛一筋、愛だけでもう生きているような女性。そうした皆それぞれの持ち味の異いが次のような発言からもうかがえる。

“頼子と二人っきりだった当時を思うと、省みるとね、頼子によってね、この生きる力やね、生かされていたと思うの。やっぱり米とか空気とか水とかいろいろのものでこう、人間生かされているわね。周囲の愛情とかこういうもので生かされておるけどね、それはね、頼子によってね、生かされていると。”
“あの、どんな場合にでもよ、僕が頼子に愛しておられると思っておるなればよ、そして愛しているという頼子を感じておる場合にやね、そういう場合にはこの、非常にこの、生きる喜びっていうかね、なんか知らんが、まあ生きる力もらっている。”
“もう頼子を知ってからっていうものはね、もう他には要らないの。ニコニコ、話がふわーっと明るい、こういう感じやね。そうすると、生き生きした仕事が出来るの。”
“私の考える働きを持つところへやね、ちょうどエンジンがあってやね、そこへこの、あれが送られるというかね、ガソリンが送られると、まあこう考えてもええと思うね、”
“頼子と一緒にいるっていうことは、自分が生かされるのやと、頼子と僕と結び付いて、そういうことになるのやと、こう思うね。これは、こんなのこじつけやないと思います。何回考えても、そういうふうに思われます。”
“私は頼子によってよ、そういう若い働き(19,20、21、22、23、24、25のその時分の考え―引用者注)があるので、その働きを生かすものが柔和子やったと、ね、実、具現化していくものね、実現していくものは柔和子やと思う。”
“柔和子一人では仕事にならないものがね。”
“頼子と僕と二人寄ってよ、ね、の力と、柔和子の一人の力とね、同じやと言えると思うの。頼子を取った僕はもう全然ダメやと。ね、頼子と僕とね、こう結び付いたものやね、それがもう今度はまた柔和子と結び付くことによってやけど、これ、こうやと思うわ。”

何となくヤマギシズムの恋愛・結婚観に於ける〝人生最大の意義は、結婚の華と、よりよき創造の実の歓びであろう。〟の世界がイメージされてくる。〝こんなのこじつけやないと思います。何回考えても、そういうふうに思われます〟という発言に、未知で未然な愛情世界実践へと一歩踏み出した山岸巳代蔵の肉声を聞くおもいがする。
自転車の例えで云ったら、空気の抜けたタイヤが山岸巳代蔵で、頼子という空気が入って、柔和子という車体、ハンドルのついたものに組み込んでこそ、そんな複数形態でこそ本当の仕事が出来ることを言いたかったのだろうと。

しかしそれ以上は柿谷さんの解読に出会うまでそのまま見過ごしていた。当時愛情研鑚会の周辺に居合わせ、その渦中にあった柿谷さんにしてみたら、そんな程度のものとして理解されるべきものではなかった。
“寒い寒い夜でした。今夜は危険だからといって8名で頼子さんのアパートのまわりを寒空の下で夜明けまで夜番をしました。心の芯まで凍るようでした。死んでも忘却し得ないほど寒い夜でした。春日山から四日市まで、8人で飛ぶようにして行きました。”(2004.5.22記)
そうした長い年月を重ねてようやくたどり着き、そこで内心歓喜している柿谷さんの探求過程を並べてみる。

○三人三様に他の二人に共通しない単独の持ち味がある。
○女の人にある持ち味は2種類ある。女の人は、2種類の持ち味が発揮されないと成り立たない。
○妻の2種類の持ち味が、夫の持ち味を生かす。女が女を生かす、そして男も生かす。
○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
○男にあって、女にない持ち味
女にあって、男にない持ち味
女にあって、男も女も生かす持ち味
○それぞれにある2と女にあって男をも女をも生かす2とが、一体になると(接着剤同士)2+2=5になって、夫婦お互いが5になるという。
○ひらめきの男+実具現化の女+ひらめきの男と実具現化の女を生かす女の2を頼子さんの例で言っている。
○男も女も生かす持ち味が闇の中から出現するためにも、男と女が混線しないこと。「角を生やすから男心は去りゆくのです」。男の目で女を見、女の目で男を見るという混線。
○〝夫の行為は妻の一体によってなるもの〟の「妻の一体」とは? 
○先生の論と言うより、宇宙自然界のことか……。
○実具現力の高い女性、いわば生活力、所帯持ちの良い女性(妻)は、女性本来の魅力、心の優しさからの2+2の5になりにくい。真の夫婦には成り得ないところからの、具現方式としての複数形態。
○三人で一体の場合も二人で一体の場合も、頼子さんの2は欠かせない。
○頼子さんは2以外の表現がない。
○柔和子さんが、頼子さんの2を生かすことが愛研のテーマではなかったのか……。
○頼子さんと離れて、柔和子さんと二人の中で、三つの要素の実現に向けて2の生かす力を柔和子さんに期待したのでは……。通じなかった?
○発明力、実具現力、生かす力=接着剤。
○夫の持ち味は発明創造にある、「柔和子さんにない、先生にある2」
妻の持ち味 その1(実具現力)「先生にない、柔和子さんにある2」
妻の持ち味 その2 「先生も柔和子さんも生かす頼子さんの2」
○頼子さんの2を、〈その2の持ち味〉と私は呼ぶ。夫も妻も生かす。接着剤同士の一体。
「心の状態が優しくなること」を失わないように。
「妻の一体によってなるもの」とは、
〝もの〟という字句は、宇宙自然界そのものだといわんばかり。
無我執も自然界(無感の世界)では、保ち合う理として存在する。感化力、零位に立つ、研鑽も無感無識界に存在する理だと思う。

そして次のような真理像が柿谷さんの中から浮かび上がってくる。たとえば先に記した、
○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
から、男を一極、女を二極、三極と表現するなら、三極に当たる世界が、女の人に存在する!?
一極と二極は男と女が無い者同士。お互いに無い者同士だと思うだけで、謙虚になる。
だとしたら、男も女も生かす、女にある持ち味三極とは? 一極と二極とで生かし合えるのではなく、三極の存在によって一も二も三も生きることになる!
では、三は……何? いよいよ佳境に入ってくる。

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わが一体の家族考(185)

探求3 夫婦一体単位からの〝私〟
天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん

第3信で展開される「持ち味を活かす」テーマの考察はじつに味わい深い。

○ヤマギシズム研鑽学校へは何回も行ったが、無我執人を目指して来たけれど、自分の持ち味について探求する研鑽はしてこなかった。今頃になって、こんなことに気づくとは愚かな人生よ、と痛切に感じる。
○テーマ表に、〝私意尊重公意行による運営と行動〟とか〝自発的自由意志〟とある。しかし自分で自分を尊重していたか、となると軽率の一文字です。他の人に対しても尊重できていないのでしょう。
○その原因の一つに、自発的自由意志による行動の不備。二つ目は、自発的自由意志による〝自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方〟、持ち味の探求がある。
○持ち味は生きる力であり、原動力である。その探求の過程では、自発的自由意志は泉の如く湧いてくるようだ。
○持ち味を活かすということでは、〝夫婦の真字〟は、男と女の持ち味の異いを指しているように思えるが、では〝夫婦の真字〟での持ち味とは?
○それは夫婦一体単位、つまり〝夫婦の真字〟の単位に成る、人種がちがうほど変身した活かし合う夫婦(男女)に生まれ変わることを意味するのではないか! 例えば次のように書かれてある現象が起こり得るのでは……

“従って何時か其のいずれか(両方にありそう)にある我執が消えた場合、心も現象も完全無欠の完全夫婦と必ずなるであろう。
過渡期に如何なる波乱万丈の混乱事象が起ころうとも、末は必ず真なるものに落ちつくもの。”(「真の結婚について」)

○また〝私意尊重〟についても、「百万羽養鶏」発足時に〝一羽の鶏が完全に飼い得たら、百万羽の鶏も完全に飼い得て当然だ。ただ一羽の場合と十羽百羽百万羽の場合とで適当する様式を異にするだけ〟と云われていたが、一人の人間に置き換えることを指している。
○とすれば〝自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方〟の探求は、私の中に存在する持ち味の探求ですから〝私意尊重〟そのものでなければならない道理。
この自分一人に任された、自分に最も適した生き方が、無我執体得に不可欠要素として組み込まれた探求をしてこなかったことを痛感している。
○研鑽学校に、〝真実、それに自己を生かす〟という具現方式が組み込まれていた!
〝生きる力〟も、これだけ切り離して存在していない。全人の幸念う者に湧いてくる力であろう。〝真実〟の究明。やりたい。死の直前まで。
第4信(2003.12.20)での〝真〟についての感慨も興味深い。

“真の夫婦等々、真のつくものには、ヤマギシズムを知ってからは随分接して来ているが何故かまた遠のいてしまう。
研鑽不足か、日常の暮らしの中にある常識観念が強く、それに押し流されてしまうからか、と思うが、この常識を根底から脱却して零位に立って考える研鑽になりにくい、研鑽不足から来る日々の考え、研鑽が、日々目の前の差し迫った事柄の引力に引き込まれて、それが当然と思っていないながらも、当然の様相に明け暮れて来たのだと振り返って見ています。”

として、〝真理実践のための真理探求こそが急所だ〟とする柿谷さんの覚悟のこもった思いが吐露される。人間にとって一番切実なテーマは、真の夫婦になることではないか、と。
まったく共感する。
そしていう。

“個人は個の主張を止めて、夫婦単位の個、つまり夫婦の真字が一人格で一人前だとする提案に対して取り組まないと、従来の個々に留まっていては、世界革命も自己革命も人間復帰も成らないと思う。”(2003.7.1)

そうだと思う。ここに柿谷さんの大発見というか本ブログのタイトル「自己への配慮」と重なるモチーフを見る思いがする。
そうなのだ! ここで云われている〝私意尊重〟、私が主役なのだ!? ここでの〝夫婦一体単位〟からの出発が迫られているのだ。
別段今から、私と全く別の私を生み出そうとかでなく、我を捨て白紙になる実践を通して本来の自己へと返るだけである。
即ちあの〝夫婦の真字〟の中から必然現れる〝私〟の持ち味がそれである。俗にいう私が、私がという個々人主義の世界とは次元を全く異にする〝私〟をそこに見いだすのだ。男は男になり、女は女になることは、誰でもが目指している理想である。この理想は、〝夫婦の真字〟の中から必然現れる〝気づかなくても多い方がよい〟無意識の世界状態の実践によって実現する理を、山岸巳代蔵の文言に重ねつつ述べられていく。
しかもここでの〝私意尊重〟の私とは夫婦一体単位からの〝私〟であるという柿谷さんの洞察は、本稿ヤマギシズム恋愛・結婚観の探求にしっかと引き継いでいきたい箇所だ。

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わが一体の家族考(184)

探求2 〝感化力〟と〝感応力〟
電磁石

柿谷さんの問題意識の始まりはたとえば次のような一節に集約されるだろうか。
○「金の要らない仲良い楽しい村」と云う名称が残されています。
お金を採るか、仲良しを採るか(原点は夫婦一体)と云うと、極論に思われるかも知れませんが、今日までは、仲良しが二の次に扱われているのではないでしょうか。つまり「金の要らない」と心からそう思うほどには。「仲が良ければ金は要らない」、というほど仲良しに重点を置いて来てはいないように思う、と。

そして夫婦のテーマから、男女問題や、人と人との対人的心の持ち方をも左右する、糸口のあることを見出されていく。
○家庭を軽視している。生活が保障されているので、大事なテーマが浮き彫りになりにくい。真の夫婦への欲求度が低い。
○夫婦一体は、家庭の仲良し、子育ての柱だと思う。家庭に焦点を当てて、夫婦父母のあり方から世界中へ仲良しを発信。夫婦父母のテーマは、人みな求めているもの。そこからの感化、感化力(観念の入らない感、崇高な本能の働く世界)が働きやすい。
○真なるもの、というのか、真実の働きには感化力が働き、感受性も働く。これを実証したい。
感化力は、国境を越え、海も渡り、空を飛ぶだろう。例えば、世界急進革命の〝急進〟は感化力ではなかろうか。
山岸先生に惹かれるのは、先生の感化力にあったのではないか。感は感でも感人種の感ではなく、私やあなたも持って生まれた感応、感化力に依るところにこの運動の成否があるのだとされる。
それも夫婦というものにおいてこそ、強力な感化力、感応力がある、と推理される。感化力と云うものは発信受信により起こる力だともいう。この間見てきたように、真の夫婦とはどんな場合でも発するものと応じるものとの全面一致して仲良く暮らしている実態をいうのだろうから。
こうした感化力、感応力に着目する柿谷さんに大きな気づきを見る思いがする。

また次のような一節
○“「こんな人さえ、なれた」という実証と方法と理念を打ち出せば、今まで分からないと言われていたことが早いと思う。”(「第一回ヤマギシズム理念研鑽会」1960.7.21)
から、〝こんな人〟とは柔和子さんのことで、なぜ柔和子さんと結婚したのかと云うことも、〝こんな人〟だから結婚したのか、と推理できる。
〝こんな人さえ、なれた〟という実証が、方法に依って成立した。これが理念だ、と理念が実証される方法。この方法こそ具現方式であり、具現方式の実証と、こんな人と云っている妻と自分が、目指している理想社会になった、という実証と方法に依り、実現した、ということだろうかと。
そして夫婦二人で一業に就く、これは真の夫婦になる具現方式、方法だと考察される。

またあの〝ポンと外す〟テーマ(わが一体の家族考168)についても柿谷さんは、
○〝オホホ……〟で外す、というのは零位に立つということか。「骨なしや」とは、夫も妻に一体になるということではないかという。
そして「相手がどうあろうとも門答無用で自分が外す」 パッと外す、このパッというところが具現方式では? と強調される。

また次のような発言
○“後から後から研鑽上手の人が現れるのに、考案した自転車に乗る方が未熟で、坂道やぬかるみ、人混み道路を、荷物積んで自分で走る日には、事故・故障の繰り返しです。
ひとの研鑽に急で、自分の研鑽態度は疎かで恥ずかしいかぎりです。”(『愛和 ― 山岸巳氏よりの第一信集 』1959.10〝後の鴉が先にたつ〟より)
からは、考案した自転車(ヤマギシズム)を乗り回せるようになったこととようやく60歳にして結婚資格ができた山岸巳代蔵を重ねている。
いや、考案した自転車は考案者でなくとも、自転車を知ったら乗り回せるように取り組むのが人生のようで、死ぬまでと云うか、死の前つまり死期を知ってからが深まるようになっているのだろうかと自分自身を重ねられていく。

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わが一体の家族考(183)

探求1 共通するモチーフ
ヤマギシ鶏舎

さて、この間のヤマギシズム恋愛・結婚観の今一歩踏みこんでの展開を試みていこうと思う。
参考資料としては、以前(わが一体の家族考150)で紹介した柿谷喜一郎さんの『遺言』を採り上げてみることにする。

時々思う。何も無いところから出発した柿谷さんをはじめ多くのヤマギシズム運動の先人達は、何を糧にこの実顕地なるものを築いてこられたのだろうかと。紙に書かれた文字からだろうか、人から発せられた熱い言葉からだろうか、何れにしても、形なきものにその真価を見出し、自らの幸福の糧にしてこられたにちがいない。
例えば次のような『遺言』からの一節を先に紹介してみたのだった。

○「夫の行為は妻の一体によってなるもの」 先生の発見であろうが、自然界のことで、世の男、女の実態を数字で顕したもの。
○「理想社会」が浮かんできて、そうなるために具現方式もひらめいて、夫婦で縮図として成せる、となった時、感激だったであろうと想像できる。

こうした感慨を抱かれるまでになった柿谷さんの探求、『遺言』の第一信(2002.1.3)から第十六信(2006.12.5)頃までの経緯をふり返りながら見ていくことにする。
柿谷さんは記す。
七十歳を過ぎた2001年頃、普段の果樹作りを通して発想の転換を余儀なくさせられた新技術に出会った。その頃から〝大転換〟というテーマが自分の中に生まれた。
そこからまた残された資料の中にある「夫婦二人で一業に就く」「夫婦二人で一人前」「夫婦二人で一人格」という一節が気になり始めた。
つまりこの一節というか、そこに込められた〝理念〟と呼びたいものこそ、〝本当の仲良しの源泉ではないか〟と思われてきた。ここに「男は男として生き、女は女に適した生き方」の最短コースを見る思いがしてきた。

○山の木も草たちも、動物も、生きている姿を見ると、女に当たる者たちの意に反して、男に当たる者たちが一方的に幅ることは絶対にない。
○有精卵生産の鶏たちを見ても、オスとメスの生き様におけるオスの生き方は、メスを尊重することに尽きるようであることがクッキリと目に映るようになってきた。

また〝研鑽〟についても、「相手がどうあろうとも問答無用で自分が外す」 パッと外す、このパッというところが〝具現方式〟ではないのか?
○我執が男女いずれにもあることは、誰も異論はない。だからと云って男も女も同じ筆法で我執を無くしていこうということにはならないと気づいた。
○自分は女の人を女性として観ないで、男並みに扱ってきたのではなかろうか。私の人生の今日まで(70年間)を省みて、「しまった!」という思いを抱く。
そして「男は男として生き、女は女に適した生き方」が軌道に乗っていく時代になれば、このような夫婦が10組もできれば日本ぐらいはヒックリ返せるということではないかという。

かつて思想家・マルクスは『経済学・哲学草稿』で、男性の女性にたいする関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係があらわれると書いていた。そしてそのことを自分らはカール・マルクスの妻、イェニーさんになぞらえてこの間〝イェニーさん問題〟と呼んできた。(わが一体の家族考132) 
しかもその〝イェニーさん問題〟が指し示す未知で未体験のテーマに惹かれて始めたのが本ブログであった。
そうした同じようなモチーフを柿谷さんの『遺言』にも見いだして驚かされる。
それではいったい〝男性の女性にたいする関係のなかにもっとも本質的なことがある〟とする本質的なことって何だろうか? 

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わが一体の家族考(182)

人生踊りの踊り場
鶏舎の止まり木

それにつけても〝質の異う本当の仕事〟の内実に迫っていくならば、どこから入っていけばよいのだろうか。そもそもここでの〝本当〟とか〝生(活)かす〟とは何を指しているのだろう?

この間の今や一般から見て関心は薄く、顧みられない〝本来ある男らしさと女らしさ〟といった記述にどんな意義があるのだろう?
そうした自問自答をくり返していると、あの煉獄の苦しみに象徴される〝一人ぼっちのさびしいもの〟とあの通じ合わなさが溶けた時のなんとも言えん〝喜び〟の気持ちの二つの場面がありありと浮かんでくる。
なぜかそこに本当の幸せ・仕事というか宇宙自然に繋がっているものの中の人間で出来る、人間だけしか出来ない、またしなければならないものが浮かび上がってくるようなのだ。
振り返るとずっと、〝ヤマギシの村づくり〟と称しては、

○らしさ――村の男 村の女 村の子供 村の青年 村の娘 村の老人等、各位で村人らしさに治まる。
○我執が無くなれば、その人はその人なりに素晴らしくなれるもの。

等々といったテーマで研鑽してきた。
しかも普段の仕事・作業は養鶏が主だったからか、鶏が夜眠る場所である止まり木の例えで〝理想社会〟の仕組みをイメージすることが多かった。曰く

○中高・後高の止まり木には一羽一羽の適応・好みの場が得られるような環境で、一つの場を何羽かで争うことはない。
だから鶏が止まり木に上がり始めた時、蹴落としと見るか、それとも自分の場を見つけるまでの間と見るか。
○そんな観点で一人ひとりが無理をしない理想社会の一面を描くと、人間も一人ひとり治まる場に治まっていく・治めていく、そんな姿があるはず。相手の場に押し入らないような……。
だとしたら一人ひとりのどこに焦点を当てていくのか?
○鶏が100羽居れば100羽の空間が等しくある。偏っていない。鶏の居る空間を観れば、その鶏の正常健康な状態がわかる(配置がよい)等々。

どうも、〝調和(相合う)を図る〟とか〝組み合わせ〟とか〝配置(場所)〟とか〝らしさ(らしく)〟等々に込められてあるものの探求が理想実現への急所らしいのだ!?
そう言えばよくネズミの被害が話題にあがった。鶏の餌が原因で極端に異常繁殖したりして、日々その対応策に追われがちになる。
ネズミにしてみたら食物があるから繁殖して子を産んで、嫌われて毒なんか盛られて殺されるのはよい迷惑かもしれない。
だとしたらすでに産まれたものを殺すのでなく、前もって住めないように人為を講ずる事が求められる。
つまりは共生共活・調和・適材適所というか、それぞれの場に就いて、活かされる場所に生きたらよいだけなのだが、そんなネズミ退治(?)の話から理想社会づくりまでに即飛躍して繋げてしまえるところに日々の面白さを実感してきた。

ネズミにはネズミの住むところ、人間には人間の在り場所があり、宇宙自然に繋がっている自分に最適の位置があるはず。仕事でも自分に最も合うところがあるはず。そこには他のものを侵すこともないし、仕事がイヤだと思うこともない。
そうした相合うというか調和をどこまで図れるか、その組み合わせを研鑽でやっていこうとするところに〝ヤマギシの村づくり〟の醍醐味があるのだろう。

先の作家・村田沙耶香さんは本当の本当を求めて思考実験小説『消滅世界』(わが一体の家族考179)を表現されたように、ヤマギシズム理念実顕生活というか、
「共存共生の世界
 たれのものでもない
 たれが用いてもよい
 最も相合うお互いを生かし合う世界」(1960.1.13)
観に立って見ると、

○その人なりの範囲を尊重しつつ、
○その人らしく生きてもらうために他のものが替わってやることもあり、
○そんなお互いがらしく生きる世界には、機構・制度・法律や警察などは余り要らなくなってくる。むろん皆の目につく所に貼りつける張り紙も要らなくなる。

といった理念が生きてくる人生踊りの踊り場、即ち生きている間の慰みにもなるような場づくりが渇望されてくるようなのだ。

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わが一体の家族考(181)

全人幸福いずこにありや
歯車の組み合わせ

ともあれここまでヤマギシズム恋愛・結婚観に基づいて「最も相合うお互い」を見出し「生かし合う」というのも、人間として何をどう考えて、どのように行なうかと云うあたりにつきるのだろう。山岸巳代蔵はいう。

“人生最大の意義は「結婚の華」と「よりよき創造の実」の歓びであろう。”

すなわち、「素晴しきは、真の結婚と生涯かけての行蹟」であるとしている。
夫だけでも、妻だけでも、何もなし得ない。夫は夫として生きない、妻は妻として生きない。それでは男でないもの女でないもの。男女寄って初めて、男の、女の、持ち味が本当に生かされるもの。まして気持ちの離れた夫婦では、絶対に本当の仕事は出来ないとするのだ。
では〝歓び〟や〝素晴しき〟に通底する本当の仕事とは? 次のような発言もある。

“そこにちょっと、昔の出家はあれで本当の仕事が出来たかどうかを考えてみたい。あれが自然の姿かと、それでは本当の仕事になったかどうか、ということ。これが健康、幸福な条件と言えない。その人は仕事が出来たと思っても、逆なことになってたかもしれん。
そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。”(第四回理念研鑚会 1960.9.10)

こうした観点から無固定の結婚形式とか男女の組み合わせ一つ採り上げても、お互い好き同士の〝お似合いのカップル〟にとどまらず、〝最も一番相合う〟夫婦の繋がりでいこうとする方へと掘り下げられていく。
例えば次のような発言もある。

“仕事しようって、そんなものでないね。そんなもんじゃないね。僕はね、こういうこと言えると思うの。ずーっと一貫してんのね。この、固定のない結婚観ね。固定のない、誰だ彼だっていう、こりゃちょっと、一端聞いたらまたどういうふうにとられるか分からんけども、固定のない結婚観。だからもう大村公才っていう、誰かにもっとも適当な人達に利用してもらったらいい。活用、活用というかね、いろいろ相合う人があると思うの。
僕の、またこんな話入っていいか知らん。これを間違っているか検べてもらったらいいと思うけども、僕のその考え方では、女は、女性と男性と違った部分がたくさんあると思うの。女性は、「こんな男」と思ったら、もうイヤになってくるの。また男も、女に対して劣等感感じた時には、とても重荷感じるの。いろいろの、こらあの、要素があると思うけども。女の場合と男の場合は一応これ掴まえ、違うかも分からんと、どういう点が違うかと、これの検べも必要やと思えるの。やはり心から尊敬する人でなかったらっていうかね、そうでなかったら肉体も、むろん精神的が肝心で、肉体も、あの、どうしたって汚れるような気がするのだと思う、女の場合ね。その反対に、男は、男よりも劣った女性というか、なんかこう、劣ったってというたら、これは劣等感とか優越感とか、そういうもんでなしに能力的に劣ったとか、いろいろな点であると思うの。でまあ、その男を、やはり心から尊敬できる女性というのは、その男が、「物足らんな、こんなくだらんな」と思ったら、これはもう、それこそもう堪らんだろうと思うの、女の場合に。そういうのが多いというかね、そんなもんやないかなと僕には思えるの。”(「徹夜研鑚会の記録」1960.3.27)

きっと山岸巳代蔵の胸中を、〝これはどう考えても、これじゃなかったら、うまくいかん。世の中うまくいかん。これじゃなかったら、うまくいかんものやと、こう思ってきた〟と何度も何度も普遍性・真理性に照らした場合どうなのだろうかとよぎるものがあったにちがいない。たえず〝本当はどうだろうか〟の知性が働いていたのである。
そこには全人の優れた公器をあたら傷つけ汚したくない気持ちがあった。それゆえ組み合わせに於いて将来もっと良いのがあった場合等々に備えて、

“お前が相合う者できたら、そちらへ行くこともあるし、私も最も相合う者ができたら、そちらに行くこともある”

という自由の〝観念〟をはじめに入れておくことの大切さをもダメ押しする。
最も知性的に、効果的に、人間に与えられた最大の贈り物というか、恩典に浴し得るよう方向に全てを賭けて生き貫いてきた。
ただそれを実証づけるものは、〝先ず夫婦一つだとの観方に立って〟の〝ポンと外し、ポンと夫婦の本質の中へ飛び込む〟実践だった。
ここにおいてはじめて〝零位よりの理解を〟の真骨頂が発揮されていく。

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わが一体の家族考(180)

零位よりの理解を
人間そのものの革命

先の〝AI化した結婚調正機関〟

“ボタン押したら人工頭脳でポンと出て来る。好きになる前に調べる。キスも握手もない中に、純処女・童貞でいける。一人一人のカードが出来る。それで鑑定したら、一○○%近く一生いける程度のものは出来ると思う。実験しつつ、そういう機関を作ることに、今すぐ自分のこととして踏み入れることよ。”

と提言する山岸巳代蔵の先見の明はたんに現状からの精神革命に留まらず、〝人は自然から産まれた〟とするその〝自然〟に対しても自然概念の変更を迫っていく大胆な知性(考え方)にまで及んでいる。
そのことに今頃になって驚かされる。最近のバイオテクノロジーとコンピューターサイエンスが融合する「クリスパー・キャス・ナイン」(CRISPR−Cas9)というゲノム(遺伝子)編集技術を使って人間の遺伝子を自由に編集できるようになってきたニュースを通して、人間そのものの心身のあり方が根本的に書き換えられようとしている世界の潮流を知らされてからだ。
山岸巳代蔵の理論はちっとも奇想天外・突飛ではなかった!?
ここへ来て全世界の頭脳・科学技術は、ヒトゲノムが解明された事によって、ゲノムを編集することで難病を治し、食糧問題を解決し、〝デザイナーベイビー〟を現実化する方向へと集注している。
あの山岸会趣意の中に盛られた一節、山岸会の目指す理想社会の内容を指し示す

“4 学問と実験を基として体質を改造し、疾病を排除し、外観実質共に優秀なる子孫が生まれ
5 自己の延長である同属子孫の幸福と繁栄を招来せん、との目標を同じくする全世界の人類間に、提携と同属愛の優美な心境を造り
6 物心両面共に他を侵す必要なき、協力社会を指向する。”

世界へと世界の潮流は急接近しているかのようにも見える。
加えて1954(昭和29)年に記された「知的革命私案」では次のような見出しを掲げて、
○人種改良と体質改造を
○百万人のエジソンを
○女性は300人近くの直子を遺す
○体質改造 等々。
愛児に先天的に、生まれながらにして不幸の原因を背負わせてはならないとすることと、頭脳及び体質などの悪性遺伝は子孫に不幸を齎すものであるからと、

“かような重要問題を自然にまかせ、等閑に過ごし、偶然変異の僥倖を期待せず、知性による積極的方策を断行します。”

と自信(?)のほどをのぞかせるのだ。
要するに、優秀な先天的遺伝形質を持って産まれた上に、環境適応変化性や、人為所作によって、人間の幸福条件を完全ならしめるのだというのだ!
参考までに1959(昭和34)年頃、全国指名手配されていた山岸巳代蔵が潜伏先で書き綴っていた「繁殖について」の一文を挙げてみる。

“キリストは無精子繁殖の奇蹟を敢行されたのか、信ずる人は信じている。しかも、女性マリヤが男性キリスト分裂とは、奇蹟の奇蹟たるところ。その事実を知らない者はとやかく論ずる資格もなかろう。
創世紀の事はわからないが、現在までにキリスト以外の人は全部異性細胞核交合による繁殖をしてきたようだ。
即ち、植物が開花して雌雄両性の結合による種実繁殖をしている方式の方の繁殖法を採用している。今一つの繁殖法としては、体の分裂による無異性自家繁殖法が、種族により、動・植物、微生物に行われている。
この方法も人間の繁殖に取り入れられないこともなかろう。体細胞を子宮構造内で養育するだけのことで、この方法によると、一人の人体から異性なしで幾億人かの同性・同形質の人が増殖できる。
甘薯の根茎を適宜の単位に分けて、環境条件を備えれば、同種繁殖が無限大的に出来る。菊・柳・その他も、寸断して挿木繁殖が容易で、ヒトデもバラバラにして海に戻せば、個々に体を構成する。
人間実験では指を切り落した跡へ、生理条件の適切な場合は、爪を具備した新しい指を形成する。
切り落した指も適切に養育すれば、切り口からその残された指に、無い部分の体が新成されて、指一本から一人ずつ同形質の人が出来る理。これは挿木式ではあるが、人間の場合、今の科学技術ではかえっていろいろの障害もあり、実用的には単一細胞増殖法の方が効率が高いと思う。求める男女、憧れの異性が、型に嵌めたように同じ顔して頭して、要求数だけ満たされるわけで、心に染まぬ人と結婚の真似事をし、下手に交配して似ても似つかぬ醜女・愚息を産まねばならぬ心配がない。
優秀な人が突然変異で出現した場合などの用意に、今から、物理科学者の月界旅行の準備と併行して、世界の生物科学者の真摯な研究と実現を期待する。
次は、精子・卵子の結合した受精卵子の他床養育法で、排卵に対し、排卵主、または受卵主の体内で、或いは体外で、受精した卵子を養育、受卵主の体内、または他の子宮構造に着床さして胎生を遂げ、嬰児期まで生育さす方法である。
この方法は、女性が類例少ない優秀な遺伝形質を持っている場合、一個の卵子をも廃棄せないで、劣悪遺伝因子に対して優生交代の目的でするものである。
普通、一人の優秀女子は一代に二百~三百人の直子を出生することが出来る理である。これの結合精子は優生遺伝繁殖学的に精子に伏在する形質遺伝因子の特長を精密に調査し、卵子に最も適合する優秀な交合を行なうもので、優秀精子は無計数的に他の卵子と交合できる理である。”

今日までの因習・道徳・宗教観に捉われがちな非理念観念から見たら、あのナチスドイツにおける優生政策に通じる優性思想として誤解や曲解をされ、危険視・糾弾されるに違いない主張・理論だ。
いつ警察に踏み込まれるか分からない不安な追いつめられた心境からの、とんでもない妄想に過ぎなかったのだろうか。

しかし山岸巳代蔵には、〝鶏の産卵は腹中の消化器にあり、目に見えぬ染色体にあります〟として実際に自ら交配に取り組み、環境適応性や抵抗性の高い交配種「山岸三号種」を作出し、その育雛が質的に広く受け入れられた業績があった。
そこには幾多の形質遺伝因子の組み合わせ所謂〝合性〟についての、30年を超える寡黙裡の地道な実験と観察・研究があった。
時流に乗った場当り的な軽薄なもので絶対ないとするヤマギシズム理念の実践による立証があったのである。

こうしてみてくると、〝幸福〟とか〝健全な心身〟とか〝相合う〟といった言い古された言葉の底知れぬ奥深さに圧倒される思いがしてくる。
もうここまで来ると、今世界で起きていることは〝零位よりの理解を〟といった理解の仕方を俟ってはじめて理解されるべきことなのかもしれない。

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わが一体の家族考(179)

思考実験小説『消滅世界』
レオナルド・ダ・ビンチ『受胎告知』

禁断の果実を食べたせい(原罪を犯す)で快楽とか恥じらいを知って楽園(エデン)から追放された聖書の〝アダムとイブの話〟から、だとしたら皆が楽園に帰っていく〝アダムとイブの逆〟をいく世界はどのようにイメージされてくるのだろう? 
セックスも家族も男女の差も、もちろん恋愛も世界から消える……!?
そんな奇想天外、荒唐無稽、SF的な思考実験小説『消滅世界』(村田沙耶香)に触発された。
一読して、さもありなんと思った。この間の自分らの〝理想実現〟と称しての様々な取り組みを通して思い当たるふしに触れるのか、他人事ではないリアルさで迫ってくる。

主人公雨音(あまね)は、今では時代錯誤の両親が好きな人と愛し合って、結婚して、産まれた子だ。時代は人工授精で子を授かるのが一般的になり、人工子宮の研究から男性でも妊娠・出産が出来る研究も進み、誰でも一人で妊娠できるようになって、わざわざ家族をつくる必要もなくなってきている。
むしろ家族は、恋やセックスをしないでいられる清潔な唯一の安らぎの場所なのだ。というのも、昔の交尾の名残で恋愛状態になることもあり、それをアニメのキャラクターでのマスターベーションや性器を結合させるやり方(セックス)で処理する場合もある。恋愛は下半身の娯楽と見なされ、よりによって奥さんと性行為するなんて考えられないからだ。恋と性欲は、家の外でする排泄物のようなものと見なされている。
夫婦間のセックスなんて近親相姦と忌み嫌われ、原始的で動物みたいで、気分が悪くなる、ぞっとする、不潔で不衛生で変質者と見なされている。
そこで古風な時代遅れの恋とセックスの真似事を続けていることに耐えられなくなった主人公夫婦は、〝恋のない世界〟へ逃げようと決心する。
そして家族というシステムによらないで、子どもを育て、命を繋いでいくという人間の一番大切な目的を果たす千葉の実験都市『楽園(エデン)システム』へ移住する。
そこでは男性も人工子宮によって妊娠ができる、家族によらない新たな繁殖システムが試みられていた。
人工授精で人口もコントロールされて、生まれた子どもは住民全員で育てる。みんなの子どもは『子供ちゃん』と呼ばれ、『子供ちゃん』は大人たちを(男女関係なく)『おかあさん』と呼ぶ。
夫も人工子宮の手術をして、出産する。そして雨音に呼びかける。
「僕たちはついに楽園に帰ってきたんだ。子どもを産みおとし、すべての子どもの『おかあさん』になる。僕たちはたぶんずっと、間違えてきたんだよ。セックスをしなければ子どもが生まれなかった時代の風習を捨てきれずにさまよっていた。ここはなんて懐かしい世界なんだろう。そう思わない?」
するとすべてが私の子供だ、という想いが雨音の中から沸きあがる。だったら私が「本能」とか「生理的」などと言って信じていた感情や衝動と、まったく違うものが身体の中に芽吹いてくるのだ。

読者の感想もとても興味深い。
○SMAPの「世界に一つだけの花」には共感するのに、現実には個性なんてものは排除し、シカトし、隣と同じであれば安心する日本社会への作家さんの叫びを感じられる作品です。
○ラストは、伊藤計劃の名作「ハーモニー」の結末のような虚無感が漂うが、後味はかなり悪い。妊娠している方、これから予定の方にはお勧めしません。
とはいえ、最近「除菌」や「無臭」を売りにする商品が多いが、世の中、「清潔社会・無痛社会」へと確実に移行していることは間違いない。
○文中の交尾・欲望処理、、という言葉を、愛、恋、あこがれ、ということばに、子供ちゃん、ということばを、「子供は社会の宝です」に置き換えてみると、これは別に不思議な世界や未来世界の話ではないのではないかと思えてきます。
○本作で描かれるパラレルワールドは、ソクラテス/プラトンが思い描いた哲人統治の基盤とそっくり。「国家」を読んで「非現実的だけど、確かに社会の理想の姿だ!」と胸熱だった人は、読んで寒気を覚えること請け合いです。
○SFなんだろうけど、思考実験というか、最近セックスレスについて考えていたので、その先にくるものとしてこうなるのか、あるいはセックスというものは、人生とか人間関係とか、はたまた生物的にどういう意味をもつのかと考察できて、とても勉強になった。
○家族、恋愛感情、母性、その他もろもろ人間の根底の大切なものを無くすとこう言う世界になるのだろうかと怖くなる。しかも、生産されてくる子供が全て画一で同じ無個性なもの。それがさらに怖い。(Amazonカスタマーレビュー)

執筆の動機を著者は語る。
「『本当の本当』という言葉が私の小さいころからの口癖。本当の家族や愛って何?って」
「現実の足かせがあって見えにくい丸裸の、真実の人間の姿を探したいという希望があって、小説で実験を繰り返しているんです」

それにしても著者の〝アダムとイブの逆〟を遡っていくイメージはとても刺激的だ。
ふと聖書のマリアの処女懐胎が思い浮かぶ。

“見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(ヘブライ語で「神われらと共にいます」の意―引用者注)と呼ばれる”(マタイ伝 1章23節)

ひょっとしたら女性マリアが男性キリスト分裂の奇蹟を連鎖関連的に呼び起こすといった、人間の〝本質改良〟まで視野に入れて探求されていくのがヤマギシズム恋愛・結婚観の秘められた真意かもしれない!? 

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わが一体の家族考(178)

〝結婚調正機関〟に?
『ホモ・デウス』

そうした夫婦二人の一体からはじまる世界に向けて、必然夫婦の〝最も相合う〟繋がりが大きな要素として浮かび上がってくる。
それにしても遠く離れた人との結合ほど良縁で、優秀な子孫が産まれる事実から、幾千里離れていても夫であり妻であるという〝人と人との繋がり〟の計り知れない実態には驚かされる。

そこからの、全人残らずただ一人の不幸な人もあってはならぬとして、誰にでもその人に最も相合う組み合わせがあり幸福な人生があるはずだ、というやむにやまれぬ人間至情のあらわれが伝わってくる。
一例として、古くから男女の間で〝運命の赤い糸〟の仲立ちをする仲人(なこうど)の仕組みを備えた〝結婚調正機関〟なるものについての発言がある。
その知的な緻密さや描きの半端なさに圧倒される。

“実際問題になると、いい加減なことで、「高砂や」になり、「仲人が入ったから大丈夫」などしていても、選定法そのものが、一番重要な条件からいかんならんのに、範囲狭く、機会も少なく結んだり、肝腎な条件を見忘れていることも多い。
インチや太さは少々違うけど、かなり合うのが見つかったら、十分の調査機関を通した方が高い訳で、誰とでもいいが、二人が最も相合う度合いの高い純処女・童貞状態で結婚する。
恋愛も、そういう知的な面でも相合う面を調べて、最も良い状態ですれば、そこに公意行が出てくる。最上とはいかなくても、それに近いもので、恋愛に入り、見合いの場、出会いの場を、デートする。
心の動きを、男は男の調正係、女には女の係が見る。そしてAとBはいけるなあとかどうとか見て、むしろ引き離すようにしたり、揺さ振ってみたり、それでも深くなるか、離れるか、全然反応ないか、片方が焦げついて片想いになるような殺生なとこまで進行させないで、最上に良いのを狙っているが、絶えず変わるかも知れないという観念を入れとく。
男に女の係、女に男の係など入って、その係との間に妙な関係になってしまったり、仲人が味見るというようなことになっては、何のための調正機関になるか分からぬ。
深まらないうちに状況観察すること。くっつくようになったら離そうとして、待て待て、待て待てとして、寄ろうとすると寄せないようにして、試験の期間を持つ。恋愛が寄って肉体にすぐ入るというようなことないようにして、清潔な交際をして、最高潮に来るまではなかなかにして、そういう状態を楽しむ訳。すると相手の欠陥もみな分かってきて、一生一緒にいきたいというとこまで、堰が切って外れるとこまできて、その時初めて調正機関の断を下す。これは親、本人の意見も入るし、親だけの見る目より確か。これは難しくない。銀行や造幣局は要らぬから、彼等をみんな調正機関に振り向けてやれる。”(研鑚会記録「無固定結婚観について」1960.7.4)

なんと〝銀行や造幣局は要らぬから、彼等をみんな調正機関に振り向けてやれる〟というのだ!? 
ヤマギシズムでいう理想社会とはお金の要らない贈り合いの世界を指すのだから、必然銀行や造幣局は要らなくなる。その余った人員を結婚調正機関員に振り向ける? 
だんだん深入りしていくと荒唐無稽な話になって訳が分からなくなってくるようだ。しかも初夜から幸福になんて、いかにも古くさい時代に乗り遅れた感じがしないでもない。

ところが、なんとテクノロジーとサピエンスの未来を予測して世界中で話題のユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』では今世界で起きていることの一つ〝親身のカウンセリングサービス〟について言及されている。
すでに自分らはIT企業GoogleやAmazonに検索や買い物でお世話になっている。ユヴァルは記す。そのうち〝私たちの多くは、自分の意志決定の過程をそのようなシステムに喜んで委ねるのではないか〟と。そのようなシステムとは例えばこんな具合だ。
ジョンとポールに言い寄られて心を決めかねている女性に対して、グーグルは答える。

“そうですね、あなたのことは生まれた日からずっと知っています。あなたのメールは全部読んできたし、電話もすべて録音してきたし、お気に入りの映画も、DNAも、心臓のバイオメトリックの経歴も全部知っています。あなたがしたデートについても一つ残らず正確なデータを取ってあります。お望みなら,ジョンあるいはポールとしたデートのどれについても、心拍数と血圧と血糖値を秒単位で示すグラフをお目せすることもできます。……これら一切の情報と、私の優秀なアルゴリズムと、何百万もの人間関係に関する数十年分の統計に基づくと、ジョンを選ぶことをお勧めします。長期的には、彼のほうが、より満足できる確率が87パーセントありますから。……”

これって、AI化した結婚調正機関のこと?
たしか研鑚会(1960.7.3)の発言の中でもいう。

“ボタン押したら人工頭脳でポンと出て来る。好きになる前に調べる。キスも握手もない中に、純処女・童貞でいける。一人一人のカードが出来る。それで鑑定したら、一○○%近く一生いける程度のものは出来ると思う。実験しつつ、そういう機関を作ることに、今すぐ自分のこととして踏み入れることよ。”

あらためて山岸巳代蔵の先見の明に驚かされる。
幾千里離れていても夫であり妻であるという〝人と人との繋がり〟の計り知れない実態に立って、いっとうはじめに〝結婚調正機関〟なるものをつくり〝夫婦二人で一つ〟から、自ずとこの世の仕組みを変えていこうというのだ!


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わが一体の家族考(177)

知的革命たるゆえん
おむつセンサー

ちなみに現代社会では、〝男らしさ・女らしさ〟についてはどのように受けとられているのだろうか。
たまたまネットで「日本青少年研究所」による日本・米国・韓国・中国の高校生各千人を対象にした〝男らしさ、女らしさに関する高校生の意識調査〟(2004年発表)を見つけた。
総じて男女とも日本の高校生の、男らしさ女らしさに対する意識が薄い傾向が見てとれる。
読売新聞の社説でも、「女は女らしくすべきだ」を肯定した日本の生徒が少なかった事などにもとづき、「教育界で流行している『ジェンダーフリー』思想の影響を見て取ることができる」とし、その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している」と結論づけている。

しかし当の若者達は、ジェンダーという男女の区別を示す社会的・文化的概念にこだわるよりも、むしろ「らしさからの解放」とか「その人の個性を尊重」とかにAIを基にしたグローバル経済社会に適応した自由で快適な感じ方や行動を無意識に感じとっているのだろう。日本には古くから「男は度胸、女は愛嬌」といった男女の〝らしさ〟の妙を伝えることわざも、今や色褪せた死語になりつつある。曰く

○男女の別にとらわれることなく、自分らしく生きるべきだ。
○あなたは、男である前に、女である前に、一人の人間です。
○私が考える理想の社会は、男女の差別も性的マイノリティーに対する偏見も無く、誰もが自分らしく生きる事が出来る社会です。
○自分が着たい服を着て、自分がやりたい髪型にして、自分がしたいメイクをしていいんだよね。
他人が決めた あなたらしい・・・
と言われる姿になろうとしなくていい。
自分が自分でいたい姿でいいんだと思いますね。
○茨城県古河市の平成30年度一行詩「男女の詩(ひとのうた)」最優秀賞作品に、
「男らしさ 女らしさ 重要ですか? 大切なのは自分らしさ」(30代・女性)とあった。

いったい今何が起こっているのだろうか?
本当は男女の〝らしさ〟も〝自分らしさ〟の追求・発揮も同じ質のものなのに、いろんな観念が邪魔してか二つの課題を同時に考える時に複雑になるのだろう。
しかも肝心の〝自分らしさ〟も、〝AIを基にしたグローバル経済社会に適応した〟自分に特化されている。
先の「卵の価値は〝生きる力〟だ」と聴いた場合、素直に「ああそうかな」となるのと、「何も形してたら、売れたらよいやないか」と二つあるようなものだ。
金の要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば到底不可能だと頭ごなしに否定するようなものだ。
これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているにちがいないのだ。

一事が万事で例えば今、赤ちゃんがおしめを濡らすと音がなって知らす〝おむつセンサー〟がある。
紙おむつにセンサーを付けることで、周囲の温度と湿度の変化を即座に把握。赤ちゃんがおしっこをしたことを、仕事や家事で忙しいパパ、ママに代わってスマホに通知してくれるという。しかもおむつの交換回数、おしっこの回数をクラウド上に記録できるため、赤ちゃんの体調管理を簡単に行えるという。
たしかにおしっこで冷えたおむつが体温を下げたり不衛生になり体調を悪化させる原因にもなる。
なるほど人工知能AIを基にしたグローバル経済社会に見合った〝赤ちゃんに優しい〟開発技術なのだろう。
人と人とが離れ、相反目するタコツボ化した高度専門化社会ならではのスグレモノだ。

しかし一方では、本来赤ちゃんは自分が意識しないのにおしめが汚れた時、不快感でむずかる。
しかもそのことに無識に応じるお母さんがいる! そんな母子の求めるものと応じるものとの全面一致する正常健康な姿も、今や色褪せた光景になっていく!?

おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時、素直にむずかれるような感受性(〝情感〟という心情の営み)の涵養策こそ今直ちに着手しなければならない最重大方策ではないだろうか。もちろん大人の私たちに向けての話である。本稿を書き継いでいる意図も、じつはここにあったのだとあらためて思い知らされる。
本質(本来・理念)と現状とを一緒くたに混同してはならない。まず本質(本来・理念)に当たりをつけてから、現状を考えていくのが順序だろう。どちらが先かの後先ちょっとのことで、現象のあらわれがまるで異なるのだ。

山岸巳代蔵は、誰もが欲求する本当にお互いが自分らしく生きる・生きられるには、先の「仰慕←→愛撫」に象徴される二人で一つの謂わば真の夫婦から始まるのだとした。
相合うお互いを生かし合う世界へまず〝ポンと飛び込む〟ところから理想社会実現(=自分らしさ)へと繋がる本筋が見えてくるのだとした。
ここでの〝ポンと先に楽になって、それから考える〟考え方の飛躍・次元の転換に知的革命たるゆえんを見る。

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わが一体の家族考(176)

普遍性への通路
上野・「アメ横」

たしか学生時代だったと思う。ある日の新聞の日曜版に大きく載っていた一枚の写真に魅せられたことがある。東京・上野の「アメ横」の雑踏の中で、幼児を片手で抱きかかえる夫に寄り添いながら見上げる妻の姿が写真の中心に浮かび上がっていた。
思わず「こんな夫婦っていいなあ」と心に焼き付いてしまった。

後年、ヤマギシズム研鑽学校などで「仰慕←→愛撫」といったテーマを研鑽した時、すぐに思い浮かんだのはくだんの写真〝アメ横の夫婦〟だった。もつとも自分だけの何の深い根拠もないたまたまそう感じただけにすぎないありふれた光景にすぎないのだが。
しかしこの間ヤマギシズム恋愛・結婚観を探ねてここまで辿りついて、たまたまではない運命的なものをなぜか感じるのだ。
あの思わず「こんな夫婦っていいなあ」とふと心に焼き付いてしまった光景がきっかけとなって、その先の誰の心にもある真実に繋がる〝普遍性への通路〟ともなすことができるのではなかろうか、と心ときめかせるものがあるからだ。
謂わば「自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいと振り返ると」(山岸巳代蔵)といった具合に、一つの実感を求めて行きつ戻りつしながら醸成されてくるものがあるようなのだ。
そんな軽く聞き流し見過ごしがちな、ひょっとしたら〝それがあれば他に何も要らない宝〟を山岸巳代蔵は断片的に振り返る。

子どもの時から、その当時の社会に対して、おかしいと思っていた。親達は「分からん。この子の言うことは分からん」と言う。また友達ともどうしても妥協がなかった。それで、むろん友達もなかった。で、何が友達かというと、本当の世界の究明をやっていた。
本読むのでも、〝ああ、これでいいのかな、いいのかな〟という読み方で、それに入り込めなかった。それで良しとしなかった。
もう自転車乗るのでも、それこそ石踏まないようにゆっくり用心深く乗った。

ハッキリ線が出たのは青年時代、19、20,21歳の頃だった。それは〝真理は一つであり理想は方法に依って必ず実現する〟という考え方だった。
養鶏も百姓も、信じてやらないで、信じないでやった。
山岸会と標榜して全人幸福運動を始めた際にも、古い元のままの自分は再び生きて帰らないものと覚悟する〝出精平使より愛妻への手紙〟を記して、〝死にきる〟から出発すべく流浪の旅人に自分を託した。
すると、私はまいた覚えのないのに、行く所、いたる所に、麦、菜種が色づき、うれている。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが麦の収穫を始めていた。私は、

“私の田んぼの広さに驚いた。”

〝特講〟でも「特講の目的は自分の一つの確信をなくするところや」でやってきた。
名前も今までの私心のワタシを瀬戸内海に捨てて、「全人に適当に使われたらいいんだ」との気持から出た〝大村公夫(才)〟で通した。
理想社会は「私はあなた、あなたは私」の体認から出発せねばならないと確信したからだ。

ところが恋愛・結婚問題で大変なことになった。予期もしないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、ヤマギシズム結婚理念は何の役にも立たなかった。理論と実際とのジレンマで苦しみ、苦しめた。
理念通りの結婚をしようと無理をした。ところが柔和子との煉獄の試練を経てもうどうにもならなくなった途端、絶望の底板が抜けた!
互いの通じ合わないもどかしさからか、押し通そうとする執念深い我執から真の結婚へ入ろうとする無理にはじめて気づかされた。
一足飛びには行かない不思議な謎も解けた!

思えば恋愛巡礼、結婚巡礼というか、本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるようだ。すべてに本当の結婚を求めている私だった。
休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように感じられるのだ。
私の朝は情感に明け、夜は情感に暮れ、夜中も日中も情感多事、私は多情者にちがいなさそうだともいう。

ここで山岸巳代蔵のいう〝情感〟という心情の営みこそ、人と人との繋がりの、切ることの出来ない紐帯となすものではなかろうか。そこに触れるところからはじまるものがある。

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わが一体の家族考(175)

〝鬼の褌を洗う女〟
坂口安吾

次のような昔話がある。
“鬼の褌を洗う女
仲の良い若い夫婦が野良仕事をしていたところ、突然、女房が鬼にさらわれた。
男は女房を助け出すために何年も何年も諦めず探し続け、ついに山奥の河原で、鬼の褌を洗わされている恋女房の姿を見つけた。
しかしよくよく見ると女房は、鎖で繋がれているふうでもなく、近くで鬼が見張っている様子もなく、簡単に逃げ出せる状況だった。
結局、男は女房に声を掛けることなく、一人で山を下りた。”

この間の男らしさ・女らしさのテーマをうまく言い当てているような話にも感じる。しかしいったいこのどこに〝男らしさ・女らしさ〟から出発するかつてない〝理想社会づくりの急所〟が秘められてあるのだと問われれば、未だ未知の雲を掴むような話でもある。
しかし山岸巳代蔵には差し迫る課題に見えていた。こんな証言がある。
山岸会事件直後の伊勢湾台風や飼料倉庫火災等々で春日山の家計がひっ迫し、現金収入を求めて京都府船井郡(現在の南丹市)八木町の会員宅を拠点に〝ヤマギシズム生活八木移動労務班〟二十数名が土方工事に出向いた昭和三十六年頃である。山岸巳代蔵はその年の五月に亡くなった。

“最後にお会いしたのはこの三月だった。八木の実践地へ行く時、「では行ってきます」とご挨拶したら、「ああ体を大事にね、みんなに会いたくてたまらないが、その時間も惜しいからみんなによろしくね。どこにいても心はいつも通っているね」と別れたのが最後であった。
またこんなことも言われた。「女は女らしい女になればいいんだ。親は女に生んであるのだから女になればいいのだ。いつのまにか女が男になろうとするから社会はうまく行かないね。女は女らしく、男は男らしくね」
それを聴いているうち泪(なみだ)が出て止まらなかった。”(『ヤマギシズム』紙昭和36年6月15日 土居タカエ)

そこであえてその昔話に題材を取ったとみられる作家・坂口安吾(1906~1955)の短編小説『青鬼の褌を洗う女』[1947(昭和22)年]からその糸口を探ってみる。

妾の子であるサチ子は概ねウカツでボンヤリして暮らしてはいるが、知らない男の人でもタバコを欲しがっていることが分ると本能的に黙ってニュウと突きだしてあげるような分け隔てない親切な女性だ。
別に好きでもなかったが出征前になると男が近寄ってくるので、六人の男にからだを許していた。
その内に空襲で母が亡くなり、サチ子は勤めていた会社の老人(56歳)で醜男の専務、久須美の妾になる。彼はサチ子のためにを妻も娘も息子もすてたようなものだった。彼はサチ子を愛しながらも、サチ子をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それからサチ子を現実をとらえているようなところがあった。
久須美がサチ子から引き出したものは、天然自然の媚態だった。サチ子自身が自然の媚態と化した。

“私はどんなに快い眠りのさなかでもふと目ざめて久須美を見ると、モーローたる嗜眠状態のなかでニッコリ笑い両腕をのばして彼を待ち彼の首ににじりよる。
私は病気の時ですら、そうだった。”

サチ子の〝まごころの優しさ〟は、

“もはや私の腕でも笑顔でもなく、私自身の意志によって動くものではなく、おのずから私のすべてにこもり、私はもはや私のやさしい心の精であるにすぎなかった。”

そうした日頃から媚をふくめていつもニッコリ笑いながら彼を見つめているだけでウットリさせられるサチ子は、遠く想いをはせる。

“私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。”

ここに安吾が理想とした女性像が描かれているのだろうか。終戦直後「国破れて山河あり」のアナーキーなただ中で一瞬〝ニュウと突きだ〟された光景だったのだろうか。
この小説は妻の三千代を主人公のモデルにしたことでも知られる。夫人の手記(『クラクラ日記』)によると、めったに自作を読み返さなかった安吾がこの作品だけは何度となく読み返していたという。
ともあれ山岸巳代蔵が直覚した
“男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。”(『ヤマギシズム社会の実態』)
の中へともうひとつ入っていこう。

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わが一体の家族考(174)

情感溢れる世界
あおくんときいろちゃん

先にも述べたように山岸巳代蔵が〝ヤマギシズム理念徹底研鑚会〟を始めた意図の一つに、〝信じる〟〝執われる〟という人間観念の慣性、あやふやさ・いい加減さ・危なさが如何に人間の幸せを邪魔するものであるかの認識にあった。この間の夫婦間の苦しみを通しても、如何に先ず自分が不愉快に暮らす時間をたとえ一瞬でも少なくしてといった身につまされる思いがあった。

観念はいい加減なもので、妻が密通してても、知らない間はかえって低姿勢な妻に喜んでいても、事実を聞いたら、既にあったのに、瞬間カッとなる危なさがある。それでは一生暮らしていく上にもったいなさ、惜しさを考えるのだった。
しかも観念の中では、自分だけ「これで愉快だ、楽しい」と思っていても、なんとなく「もう一つそれでは」というあやふやなものが出てくる。
だとしたら、不愉快にならないようにするために……。なった時はどうするか……。
よく〝ほんとのほんと〟というが、そう言いたくなるものがある。そんな生来の物事を深く考える〝求真性格〟のたちから究めていくと
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」
にどうしても辿りつく。
誰もが切実に欲求しているものだ。だとしたら今のリアルな苦しみと本当だとする究明との関係は? 砂上の楼閣、絵に描いた餅にすぎないのだろうか?
何度も根本にまでさかのぼっての自問自答がくり返されたに違いない。
ふだんは「良いと思ったら良い」として暮らしているわけだが、体験的に「良いと思うことでも、正常でない場合もある」にぶつかることがある。だとしたら「良いということは、悪いに対してでなく、当たり前」のことであるような、そんな良いことづくめの世界はないのだろうか。
そして近頃体験を通して出てきたのは、ひっかかった時は、いったん〝外す〟と仲良い状態になって、スッスッと溶けていくものがあったのだ!
しかも柔和子の「オホホ……」によぎられることによって問答無用〝骨なしにされる〟自分がいた!
すると心一つの一体の中へ飛び込んだような情感に包まれた。ほのぼのとした満たされた思いの喜びがわき起こった。なぜかそこからすべてのことが始まるような心のときめきをも感じた。
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」だとするリアルな実感が湧いた。驚きだった。
その後も難しい理屈・知恵抜きに、自分からひっかかってもポンと外す、を真面目にやってみることで、今すぐにも情感溢れる世界が立ち現れてきた。

男女・夫婦のあり方も、「結婚、恋愛は楽しいのが本当」とする理念からいった方が早いのではないだろうか。いや、どんなことがあっても楽しいの連続かということ。そこから出発して、これが本当に出来るかどうか検べて事実を積み増していかないと本末転倒になる。そこに観念なんかが邪魔して、悩み苦しむことになってくるのだろうか。

“本当に仕合せな社会に立って生きていこうとする毎日かどうか振り返ってみると、いろいろもっともっと究明しなければ、人の中へ行けないと思う。
信仰と研鑽、共同と一体、男女・夫婦のあり方など。
宗教の問題も、この理念からいった方が早いと思う。どれほど早く真理即応の、仲良く楽しい、より良く、より正しい生活が出来るか考えていったら、難しくないと思うの。いきにくいと思う、そこに観念なんかが邪魔してね。「いけるかい」と、そんな観念からひとごとになってくるもの。
真理に即応する現在只今、それの連続かと思う。
社会に拡げる前に、自分自身が間違った生き方で苦しみ、路頭に迷わすことになっても大変だし。
案外この真理即応でいけば、簡単にいける。いけるのが当り前や。”

一転して、それまで〝ひとごと〟になっていた理念というか理に立った観念が身近に感じられてきたのが嬉しかった。形の無いものが、自分の心の中に飛び込んできたような喜びだった。
ふとレオ・レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』で、青くんは一番の仲良しの黄色ちゃんと遊びたくなって、あちこち探し回ってようやく出会い、二人とも嬉しくて嬉しくて、とうとう〝みどり〟になってしまう話が思い浮かんできた。

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わが一体の家族考(173)

男が男になり、女が女になる 
『アダムとイブ』デューラー

以前次のように記したことがある。
“ある日の研鑚会で次のようなことを研鑽した。
「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」
エッ、どんなこと?
〝無い要素をはっきり自覚したら〟とか〝お互いに立ち入らない〟って、どんなことなんだろう?
普段は生理身体的な凹凸の違いぐらいに思っていたからか面食らってしまった。
研鑚会は、男らしさとしての意志の強さとか貫徹や剛直をあらわす〈剛〉、女らしさとしてのすべてを包み溶かしてしまう〈やさしさ〉の世界について未知のことを知っていく楽しさに満ち溢れた。”(わが一体の家族考76)

たしか以前のヤマギシズム生活法テーマにも
「分類の極めつけ男らしさ女らしさ
 男は剛 女はやさしさ」
とあり、皆で研鑽したことがある。
まずは思いつくまま挙げてみる。
○やさしさは女の人なら誰でも本来持ち合わせている。
○男とまったく逆で、鍛えるという要素は一切不要で、途中でいろいろ付かないほうがよい。
○柔らかく、まろやかで、どんな固いものがきても溶かし包み込んでしまうやさしさ。
○特に自身が逆境や病身になった時こそ変わらぬやさしさがあることが、女性の絶対条件。
○どんな時でも、いかなる場合でも、女がやさしく出ること。
○男が男に惚れられるような立派な男。女に女が惚れるようなやさしい女になったら、混線は起こらない。
○女の頭の高いのは、カシコのアホよ。

なかでもこの〝カシコとアホ談義〟はとても面白い。山岸巳代蔵は次のように定義している。

“知恵があり、それを上手に使うのが「カシコ」で、知識の多いのは「ものしり」で、間違ったことでもたくさん知って覚えて、それを得意になって振り廻すのが高慢で、喋りまくるのが能弁・饒舌屋で、「カシコぶるアホ」の部類だと思っています。
理屈をこね廻すのも、この分類の理屈屋の部に属し、こんなのが多いでしょう。理屈で云いまかし得々としてる。(略)
カシコのアホ、アホのカシコ、カシコのカシコ、アホのアホ、とあるそうですから、各々どれにあて嵌るか、別の自分、自分の物指しを持たない自分を見物席に立たせて、現在世に踊っているピエロの自分を観察さして見ようかね。”(「知恵・知識・良識・常識・非常識について」)

そして、次のような感想をもらす。

“カシコのカシコはよいが、カシコのアホがほとんどやから、「アホのアホの方がましや」と言うの。賢いほどやりにくいね。知恵、経験があればあるほど、それが出てきてね。せめてアホのアホくらいまでいけるといいけど。私の考えをいい加減にしとけんところね。「私の考えは一つの考えに過ぎん」というのが、カシコのカシコかと思うが、「どうも納得できん」、「釈然とせん」となる。すると、つい押しつけようとするもの。”

山岸巳代蔵は今の恋愛・結婚等も含む社会的欠陥の最大なる原因(=悲劇)を、「カシコのアホ」同士の〝突っ張り合い〟に見ている。そしてそこからの〝この革命が出来た〟とまで言わしめる理想社会改造への鍵を、山岸巳代蔵をして〝最も知性的で、「納得しなかったら」という女性〟が〝納得して楽になれた〟り〝ポンと夫婦の本質の中へ入る〟実績・事実に見出すのだ。自分らのように死線を越えたところまでいかなくとも、誰でも和気藹々でいけるという確信が持てたというのだ。

○男と女の異いが際立てば際立つほど、男と女の本当の仲良しが生まれてくる。
○女の仕事を男がやってもあかん、持ち味を活かさな。
○女のことは女でないと分からない。
○女の本質を活かすことだ。女が女の姿に還ることだ。

いったいここで〝男〟とか〝女〟とかの異いを次々言い連ねながら、何を言おうとしているのだろうか。なぜそんな脳天気な〝性〟の分類ぐらい(?)で世の中が革まるとまで言えるのだろうか? 
しかもその区分けそれ自体が、〝真理だと思う〟とまで言い切るのだ! ”ここがロドスだ、ここで跳べ!”

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わが一体の家族考(172)

秘匿技術の秘匿たるゆえん
夫婦の真字・ふさい

しかもこの“秘匿技術”は、男女夫婦の場合に限らずお母さんと子ども、長幼などの差がある場合にもいえると拡張されていく。
例えば親子の場合、お母さんが優しいから素直にうまいこと子供がいってる、では大変なことになる。甘やかしは、一回、二回はいいが、これが連続になるとどんどん不良を作っていく。それゆえ先ず子ども(幼)がお母さん(長)に下手に柔らかくいくことだという。
そんな夫婦のあり方、親が子供に対するあり方にも絶対に外せない、いわば真理に即応したといえる生き方があるのだという。
しかし下手に出るとか、女の方から強く出ない云々から、昔の封建社会家父長制や軍隊での差別・服従を連想されがちだ。妻でも服従で家庭などうまくいっているとする道徳的な教えとどこが異なるのか?

ところがこの間の山岸巳代蔵は、〝最も知性的で〟〝何でも理知で割り切らねば承知せん〟といった女性が自らポンと外して〝楽になれた〟という〝事実〟に、と同時に自身も〝骨なしにされる〟喜びに包まれた〝事実〟に、

“放したら、澄んだままでありのまま見える。(略)ありのままいったらよいのよ。難しい知恵要らんのよ。勉強した知識要らんのよ”

という〝真理に即応している姿〟を見てとるのだ!
こうした〝こんな人さえ、なれた〟という事実に、誰でも楽にそうなれるという〝発見〟にも似た感動を覚えたに違いない。
研鑚会では、〝下手に出る〟とか〝差別・服従〟についても、

“僕は「女が男に絶対服従や」とはちっとも言ってない。そこ混線するのよ。絶対服従は僕は絶対反対よ。「言うこと聴け」は、「聴け」やわね。そこからが問題や。”

としながら、主観の多い人間の〝聴く態度〟の問題に触れていく。
要は〝絶対服従〟にも、言いなりにその通り何でも行う〝ハイ即実行〟とアホの言うことでも気狂いの言うことでも聴く〝ハイ即研鑽、実行〟の二つがあり、その区分けの大事さが強調されるのだが、参加者の一人が次のように発言する。

“僕はその解釈で一貫してきたのに、一年前では山(春日山―引用者注)の空気は「ハイ即実行」が行われていたようで、そこに未だに溶けぬ疑問がある。”

すると山岸巳代蔵はいう。

“問題はここや。大事なとこで、ゆっくりやろう”

と謎めいた発言をする。なぜなら常識的に考えても「ハイ即実行」には危ない盲信を感じて、即バツ印(×)をつけたい気持ちにかられるところだ。ではどこが問題で、大事なとこなんだろうか。
どうもはじめから〝ハイ即研鑽、実行〟としてしまうと、そうだ、その通りと無意識の「自分の判断」が安易に忍び込んでしまいがちだ。これでは出来るか出来んか分からない自分になって聴くとか、〝零位〟になって聴くには程遠い。
「まあ聞いてみてよかったら」は、やっぱり自分の物差しで聞くから聴いたことにはならないと、今までの常識的な甘い分かり方を思い知らされるところだ。
ここでもあのどこまでいっても通じ合わない〝もどかしさ〟しか残らない、そんな今までの自分ら夫婦のテーマにぶつかるのだった。

例えば〝絶対服従〟にも二つあるといった区分けが、今もって解明されていなく見過ごされている個所だ。
むしろ現代社会の潮流は、そのもの〝らしさ〟を消してフラット化していく方向に時代の〝進歩〟を見てとっている。
その代表的なものに、人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものを混線して、何もかも性の異いまでヒューマニズムや民主主義で一律に律していこうとする考え方がある。
じつは戦争なんか誰もしたくないのに戦争に突入していく根がここでいう〝甘い分かり方〟に潜んでいるはずだ。
そうした近頃の自分ら夫婦の〝外し〟体験から、夫婦のあり方・無理のない夫婦像としてフェミニストが聞いたら目をむく発言をする。

“夫婦は段があったらうまくいく。奥さんの良い(腕達者、利巧なの)のは有り難くない。奥さんが上なのは絶対うまくいかん。”

との内実を伴って立ち現れてくるものがあった。しかもそのことが絶対服従と違うことを研鑽しながら、この間苦しんできた〝もどかしさ〟の真因が研鑽の光に照らし出されて来るのだった。
ここに幸せに暮らす秘匿技術の秘匿たるゆえんを見るのだが、ここは一つ様々な角度から、ゆっくり検べていきたいところだ。

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わが一体の家族考(171)

“秘匿技術”の公開
ヤマギシズム恋愛・結婚についての草稿

そしてそこから、
“一つ秘匿技術言うわ”
と前置きしておいて、次のように言う。

“あのね、夫婦で対抗した時は、女の方から必ず和らげて出ること。下手に出ること。こいつはキメつけておいたらよいもの。これを男の方からやったら、これは駄目よ。”

身近な夫婦の中で意見が違うために、固くなり、不愉快になり、「まあ俺はよいわ。俺は俺の考えでやる」と対抗的になる時、女の方からそうした不愉快な状態を一掃する雰囲気を作ることが肝腎なのだという。
しかも〝キメつけない〟をもって本領とするヤマギシズムで、このことは〝キメつけておいたらよい〟ものだという!?

“これは女の方からとキメつけておいたらよいの。これは男のためばかりでなく、女のためよ。これでなかなか手間取ってね……。
とにかく問答無用で、女の方から優しく出るのよ。こんなに楽な、楽しくいけるのないわ。「こんなに落ち込んでいる時、男の方から優しく出てくれたら」と言うのに、私は逆よ。「女の方が和らぐのが先やというのが、これ真理や」と言うの。”

なんと、〝女の方からとキメつけておいたらよい〟が〝真理〟にまで拡張される! 
これぞ〝血みどろの愛欲〟に翻弄された男の立場からの妄言に過ぎないのではないか。なぜ男の方から優しく出たらアカンのか?

“これから世の中の夫婦で問題が起った時、自分達はこういう考え方をしてるんだと、これをキメてかかったら、なんと楽だ。そしてそれを真理と比べてみると、何でもないこと。男が男になり、女が女になるだけ。女が女のそのまま地金を出したらよいのよ。”

これを実行したら、女が楽なのだという。男がやると〝逆さ歩き〟になるのだという。これが真理に即応している姿なのだという?

“最も知性的で、「納得しなかったら」という女性が、それを実行して、自ら人に言える実験を経て、みなさんにこうして言えるわけです。前もって言うが、これは秘匿技術やから。「何でも理智で割り切らねば承知せん」といった、こんな女が納得して楽になれたということは、大きな人類幸福への貢献だと思うの。”

いったいどこが〝秘匿技術〟で〝大きな人類幸福への貢献〟なんだろうか?
ことわざにも「夫婦喧嘩は犬も食わない」とあるように、世にごまんとあるそれぞれの夫婦の形の一つから、真理とか大きな人類幸福への貢献とまで言えるその道筋がよく見えてこないのだ。あまりにも独断的・飛躍しすぎる誇大妄想狂の食言(嘘つき)にすぎないのではなかろうか?
あの夫婦が一つのものだということを示す山岸巳代蔵の造字(写真参照・「ふさい」と読む)に、〝女の方から必ず和らげて出ること。下手に出ること。〟を象形する〝真理に即応している姿〟を見てとるのだ!
なぜそんな大それた飛躍したことが言えるのだろう?

いや、ひょっとしたら飛躍にならないのかもしれない。 
この間〝ポンと外す〟実体験から来る不可思議な転換に何度もくり返しアタックしてきたのも、一人の希有な理念実践家・山岸巳代蔵の〝血みどろの愛欲史〟といった特殊体験としてしりぞけ見過ごすべきものではないといった思いからだった。
なぜかそこに誰の心にも響いていく質のほのぼのとした満たされる心地よささえ覚えるからだ。これってなんだろう。
それは自分自身の身に起こった実体験から来る観方考え方の変化とも重なるようなのだ。山岸巳代蔵の辿りついた〝真理だと思う、それの連続〟の世界に何度も何度もトライし続けているゆえんである。

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