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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

16 無言の催促・力づけ

「例えば“心配する”という言葉を取りあげてみると、“子供の病気を心配する”とか“入学を心配する”とかといった“気にする”場合に使われたり“人に心配してもらって”というように“気を配って世話”する場合や両方の混じった意味にとれることもある。
子供の病気を心配する場合に“どうなるだろう”“ひょっとしたら助からないかも”とか“死ぬようなことになったら”と云った憂慮する事が多いが、一方積極的に対策を考え手当を講じるように配慮することこそ本当に心配することではなかろうか。
案ずるということも気にするばかりでなくそれこそ名案を考えるのが本当の案じ方ではなかろうか。こうした一寸したことに気づくだけでも、見方、考え方がコロッと変わることも多い」(山岸巳代蔵)

何かに思い悩んでいた自分が、研鑽会で皆の発言を聞いているうちにパッと開けて、見方、考え方がコロッと変わることがよくある。

以前ある研鑽会でK君の「運動会に参加したくなかったけど、やってみたら楽しかった」という発言から、やりたくない自分と、その隣にもう一人の自分がいて、「心の繋がる繋がりそのものの自己」というのは、みんなと繋がってやっていきたいと思っている自分のことではないのかと盛り上がったことがある。

ふだんの何でもない一場面での自分を、研鑽会という場に置くことで「もう一人の自分」がくっきりと浮かびあがってくるのだ。

研鑽会という参加者がすべて同一の平面で、人と人との繋がりの一環の人情の輪から醸しだされるものがある。
それは「共に」の精神からを願っていながらも、心ならずも心足りない一面を足さねば次へ進めないことを、繋がりの方から無言の催促され、力づけをしてくれるのだ。

思いもしないところから、そっと心の手が差し延べられる。
そんな「共に」の世界から語りかけてくるものを、「繋がりそのものの自己」でもっと感じとりたい。

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