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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

22  真理と人間の考えと現象

「人はみな、それぞれに個性なり、我がある。自然はうまく仕組まれて、親子でも兄弟でもみなどこか、何かが異う。一人一人にいろいろな考え方や、異った特色があってこそ、人生に妙味がある。そして一人一人に頭や手足や口を具えて、各々自分自分で呼吸し、食を消化し、一応はそれぞれに個人個人の形で生きている。
したがって、一人一人、考え方も行為も異う部分が相当あるだろうし、自我観、私心、個人意志、それぞれの生活行動等、自我を立てた一つの単位をなしている。
これを個人とか、自己・我・私などと呼んでいるが、その個人個人が自分を護って最も巧妙に生きようとしている。
そして、自分の観念や設計や形体が出来ると、愛着を覚え、手放したくないようになる。なんとかして、それを持ち続け、育てて大きく伸ばしたいものがある。頑としてかばい、正当づけようとし、崩れることを怖れ、嫌い、惜しむ。ますます頑丈堅固に防壁を築き、安全を期する。それは生物の自己保全、拡大、繁栄の自然欲求として、当然だと思う。
しかし、ここに問題がある。
その当然の理、自己繁栄を希求しながら、案外それに逆行しているのが現状で、個人の生活が決して健全安康を保っていないことである。
人間は、他の動植物に比べると抜きん出て高い能らきを具え、霊妙歓喜で暮らせる筈にかかわらず、病気になったり、病身になり、精神的に、肉体的に、苦悩・不安・不健康な人が多い。
禽獣、虫、魚、草木よりも、悩み多い。同族相食む抗争が後を断たず、拙劣な生活を今なお続けている」(山岸巳代蔵)

ここでは「万象悉く流れ、移りゆく」ものがなぜ現在までの人間社会だけにスムーズに流れていないのかの問題提起がなされている。
何が流れを堰き止めているのだろうか?

たとえば、水は液体だという考え方がある。それで何ら日常的には困らないが、正確には液体の状態の時は水だといえる。つまり受けたものがあって、水になったり、氷になったり、水蒸気に変わったりする。だとしたら、水の本体は何か? 

人間の本体を検べる場合でも、「あの人は悪い人」と見る観方がある。「物」を商品と見なすお金の要る社会がある。働かなければ食べられない、食べるために働くという観念の人もいる。他にも、

「金、物欲、知識欲、名誉欲に取り憑かれている人。
山の頂上を目指して、道を求め、生涯トボトボと山すそを横歩みするカニのような人。
堅い約束さえしておけば大丈夫、安心と、結納や神前の誓いの要る人。
それは結構な理想ではあるが、現実はどうですか、何も無くなったらどうします? という人」(山岸巳代蔵)

元々そうでない、本体と周囲環境、いろいろなものから受けたものによって「作られたもの」がある。

つまりその人自体、そのもの本体と何かから受けたものでキメつけられた人(もの)とは関係無いのだ!
単純に分離分析して正しく見ようとする「研鑚力」が必要とされるゆえんだ。

たとえそれが現実(現象)とか事実であっても、はたして真理に合った事実であるのか否か?
バイ菌が着くべくして病気になったとしても、つまり原因があって結果こうなったとしても、だから医者が要るとはキメつけられるだろうかというのだ!?
医者が要るという現象がはたして本当の生き方からのものなのかと。

見えなくさせられ、格下げ、抹消され、排除、闇の中に消えてしまった「秘められた実態」=事実がある!

手段が目的にすり替わってしまうという逆転現象の中で、本当の世界にはあり得ないものに振りまわされているだけかもしれない。
ほとんどすべての人間生活を観念で片づけて、不合理な生き方をしていることを知らされる。

しかしまた一方、何を話し合っても受けつけない頑固な人でも、死んでも行かないよ、と云い切っている頑固な人でも、一通の急信によって、どんな忙しい中でも、遠隔の地からでも、取るものも取りあえず、頑張っていた頑固さをサッと抜いて、自分ではそれを意識しないで、兄弟・近親の元へ馳せつけてくる。

ここでも如何様にも変わり易い人間観念の特質を思い知らされる。

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