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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

30 山本哲士さんの仕事から学ぶ

「それより医者の要らない身体になろうとするのはどうか。医者の要る間は要る、要らんようになったら要らんのよ。今でも金の要る間は要る、要らんようになったら要らん」
「要らなくてよいものがあるというのは、死んだもの、生かされないものと思うね。今の金が要らんようになったら、何でもタダになる。通貨が要らんようになるが、『それでも通貨を作らんならんか』と言うの」
「『必要なものは必要。要らんものは必要ない』とする考え方よ。そこに自分が狙ってるのは、必要がなくなるのに、それの究明がないために、いつまでも必要としてる無駄をなくしていこうとしているの。科学・究明して、要らないとこへもっていこうとするのを、真の科学とか、研鑽とか言ってるわけやね」(山岸巳代蔵)

昨年11月の豊里実顕地での「会員の集い」でタダ働きによる即ちタダの経済を基盤にした「実顕地資本主義」の可能性について触れた。ヤマギシズム実顕地という仕組み・場でこそ実現できる世界についてである。

「自力でやり出したらよい。助成金をもらってやるのは弱いものや。良い仕事が出来へん。金より手足の四本(資本)は大したものや」から展開する世界についてである。

さて、どこから手がけようかと思案していた矢先、YouTubeで山本哲士さんが「『資本論第三巻』を読む」でマルクスの『資本論』第三巻全五二章を毎回一章づつ読み込んでいく試みを始められているのを知った。

これがじつに面白いのだ。一人で読み始めると五、六行でもう投げ出してしまう書が、山本さんの手引きで読んでいくと何故か知的興奮に満たされるから不思議だ。
出だしから、たとえば医者がいないと病気が治らないといった転倒した今の社会での物象化の現実と全く次元を異にする世界とに分けていく方法的観点が示される。
本質的に「必要なものは必要。要らんものは必要ない」とする根底からの割り切りで、マルクスが生涯をかけて挑んだ「資本」実態を読み込んでいこうというのである。即ち自分のものにして映し行うのだ。
これは私たちの「実顕地資本主義」に通底する研鑚態度ではなかろうかとワクワクしてくるのだ。

私たちの実顕地の入り口に立つ標柱には「金の要らない仲良い楽しい村」と記されている。あまりにも簡単な言葉で表現されているためか、私たち自身が当たり前にしてふだん通りすぎている。そして外に何か青い鳥を求めようとする嫌いがある。そこに秘められてある奥深さ、実態にこそ本当の味わいがあるというのに……。

以前も山本さんから、現在研鑚資料として活用しているアンデルセン童話「みにくいアヒルの子」の読み方を学んだことがある。まだまだ山本さんの一連の仕事から学ぶことがたくさんある。 

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29 多田富雄の叡智(下)

著者の晩年の作品に、「ニコデモ新生」(『残務整理―昭和の青春』所収)がある。
大学の医学部に入って郷里の医者の家を継ぐつもりだった。しかしそのまま田舎の開業医になるのも何だからと、自分をモノトリアムな状態にしたいと思って大学院の病理学の教室に入った。そこで毎日岡林先生の指示で、二十羽の兎の鼻に開けた穴に卵の白身を1㏄ずつ注入していった。異物である卵白に対しての免疫反応の実験だった。実験といってもそれだけで、あとは暇だから昼寝したり小説を読んだりしていた。
そんな風変わりな実験を始めてから一年以上たって、一匹の兎に自己免疫疾患の典型が現れた。実験は成功に帰した。
先生は、こんな無謀な実験に没入することができたのも筆者がほんの腰掛けのつもりだからで、知恵がないからできたんだと褒めたような貶したような評価を下した。
ところが次の成功例が現れない。筆者は思い余って、先生にあの実験に再現性がないと告げると、先生から聖書のニコデモのキリストとの問答(ヨハネ福音書三章)を読むことを勧められた。
キリストがニコデモに向かっていう、
「肉から生れるものは肉であり、霊から生れるものは霊である」 
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」
そこでニコデモが「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と疑いを抱くのに対して、
「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」
と諭す場面だ。
先生がどうしてこれを言ったのか、そのときには分からなかった。それに気づいたのは、先生が亡くなってからのことであった。
その後筆者は、胸腺の細胞に免疫反応を抑える働きがあることを発見し、免疫学の世界的権威になっていく。
先生は私に何を伝えたかったのか?
「そうやすやすとわかってもらっては困る」
「いいか。何かを発見しようとするなら、文献なんか読むな。そんなものにはなにも書いてない。自分の目で見たことだけを信じろ。わしの言うことを、ゆめゆめ疑うことなかれ」
「科学論文だって、書いた者の個性が出るように、一言一句真剣に書かなければいけない」
こうした先生の一言が、ニコデモへのキリストの説教とダブって今でも私を鼓舞しているように感じられる。

あれは1970年代の末だったか、ヤマギシの有精卵など実顕地生産物の供給活動が始まった頃の研鑚テーマに次のような一節があった。
「実顕地生産物 肉より産れるものは肉 霊より産れるものは霊」

出典はニコデモの新生問答だったのだ! 当時はチンプンカンプンの思い出しかないが、はたして今はどうだろうか? 
ここでの「肉」を形ある物、「霊」を形のない心に分けるならば、ここから二つの考え方が引き出される。一つは、物が豊富になれば礼節を知り幸福になるといった物が先だとの考え方。もう一つは、心の方から解決すればやがて正しい物の考え方が出来て本当の現象となってくるという考え方。要は、形ある物からの出発か目に見えない心からの出発かのあとさきのテーマである。

ヤマギシズム理念からすべてをいとも簡単に「割り切る」実践を、次元の転換をじつは迫られていた!?

振り返れば、肉の観点に立ったまま、肉を現実、霊を抽象的観念と見なして、混線・混同しつつ自他を傷つけ合う自己欺瞞の渦中に追いこまれてきた。霊は肉の対句ではなく、異質なものだった!

それはさておき、多田さんは科学における創造性を、階層や境界を越えた真理の感動的な発見に見ておられる。
このことは専門分業化した社会についてもいえると思う。現代では高度に細分化専門分業化した各部門間の調整ぐらい難しいものはない。何よりもまず自分の権益を守り優先する考え方で社会が構成されているからである。
だとしたら、階層や境界間の臨界条件を越えた事実の実証は如何にして可能なのか?

免疫学の泰斗多田さんはいう。生物学の特質は、生命という全体にどこかで繋がっているという認識にある。小部分の研究が、小部分だけで完結しないのが生物学だからだ。すべての発見は全体の問題に「参照」される。
これこそかつて恩師・岡林先生の疾病観でもあった。「病変の局所だけ見るな。背後にある全体を見よ」

理想社会、ヤマギシズムでの多数のそれぞれの特徴のある専門の人たちで組み立てる完全分業一体社会で、私たちが今まさに取り組んでいるテーマ、「一体」から出発して「一体」の実態を創り上げていくという日々の実践に通じていくものがある。
そこでの「一体」と「分業」を越えた真理の感動的な発見こそ、私たちの「と」に立つ思想から産まれてくるものだ。このテーマの追究と顕現こそ、心と物、目的と手段等々に繋がるもっとも切実に欲求されている今日的課題として私たちの前にあり続ける。

というのも、多田さんは一貫して「生物の階層性」という概念で近代科学の方法を批判されている。たとえば人間は細胞からなっている。それ故人間やその病気を理解するためには、細胞の性質を知らなければならない。どのようにして知るのか? 細胞機能を受け持つ分子の構造を解明すること、そしてそれを操る遺伝子のしくみを理解することが必要とされる。こうして階層をより低いものに還元することによって、上の階層の現象を説明していくのが近代科学の方法だ。
しかし、下の階層に還元しただけでは、ものを科学的に理解したことにはならない。細胞をどんなに微細な分子に還元しても、細胞の意味は分からない。つまり細胞は分子の機能の単純な総和ではない。細胞になってはじめて現れる機能があるのだと。上の階層は、下の階層のルールに拘束されてはいるが、新しい固有のルールをもっている。還元主義では、この新しいルールは理解できない。

だとしたら、階層や境界を越えた全体を貫いているものとは何か?

さきに紹介した山岸巳代蔵のいう、
「人間とは、いわゆる個人を指すものか、結合夫妻を単位とするか、人間社会を指すものか、宇宙全体を指すものか、或いは基本単位の人間細胞を指すものか、それが結合した受精細胞か、それとも細胞を合成している元の物質及び機能を単位とするか」に重なる個所だ。そこを貫くものは、
「宇宙万事万物健康でない限り、人間も健康でない」とする「健康」概念である。

私たち「と」に立つ観点からは、
「人間も自然と一体のもので、個人とか、夫婦とか、社会とか、全人類とか、自然とかいうのは、みなその一体の中の一つの単位の呼称であり、個人をなすものに、物もまた身体各部それぞれのものが寄って個人単位の一体を形成し、その各部もまた各々の細胞や血液、或いは体液その他の一体で形成され、細胞そのものも、いろいろの要素によって細胞一体単位を形成している。生命・感覚・記憶・思考・各種機能等もそれぞれの要素として各単位を構成しているもので、絶えず要素は離合集散し、活動し、或いは停止したりする」
という正常・健康な状態についての観方だ。

そうした自然全人一体観からおのずと湧いてくる親愛の情によって全人類間の紐帯となすことで現れる個体としての自己を、理想社会とも呼んでいる。

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28 多田富雄の叡智(中)

まず多田富雄の代表作『免疫の意味論』から、赤線を引いたところを順番に並べてみる。

「伝染病から身を守るしくみという程度に考えられてきた免疫」
「免疫は、病原性の微生物のみならず、あらゆる『自己でないもの』から『自己』を区別し、個体のアイデンティティを決定する」
「個体の行動様式、いわば『自己』を支配している脳が、もうひとつの『自己』を規定する免疫系によって、いともやすやすと『非自己』として排除されてしまうことである。つまり、身体的に『自己』を規定しているのは免疫系であって、脳ではないのである」
「『胸腺』こそ、『自己』と『非自己』を識別する能力を決定する免疫の中枢臓器なのである」
「『胸腺』は文字通り胸の中にある軟らかい白っぽい臓器である。若い動物では心臓の全面を覆うようにかなり大きな面積を占めている。人間では十代前半で最大となり、約三十五グラムに達する。性成熟後は急速に小さくなるのも特徴である」
「この『胸腺』からサプライされる細胞が、Thymus(胸腺)のTをとったT細胞と呼ばれるリンパ球である。T細胞は、いろいろな免疫細胞に参加し、ことに『自己』と『非自己』を識別し、『非自己』を強力に排除するための免疫反応の主役となる」
「T細胞は、直接的には『非自己』なるものを発見し、それと反応することはできないのである。『非自己』そのものには見向きもしない。『非自己』はまず『自己』の中に入り込み、『自己』を『非自己』化するらしい。それがT細胞によって認識されるのである」
「T細胞の『非自己』の認識は、もともとは『自己』の認識の副産物であることが、こうして明らかになってきた。まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる」
「『非自己』の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は『自己』の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、『非自己』に対する反応系として捉えるよりは、『自己』の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる」

ここには細胞から始まり分子や遺伝子の解析をすすめながら、つまり物質の構造をどこまでも精緻に突きとめながらも、同時に絶えずそのことが意味するものへと綜合哲学的に物を観ていくというか、生命を全体として考えていこうと試みられる。それはあたかも天幕ばりのサーカス小屋でのブランコ乗りのひとつのブランコから他のブランコに飛び移るスリルと緊張感に満ちた冒険でもある。

「身体にばかり使う言葉ではなく、心も生命も、有無現象、能も、諸事万物凡てがそれぞれに、及び一連として、真理に即応した正しい状態を指し」(山岸巳代蔵)て、そこに向かって多田富雄の叡智は輝く。

「免疫学が金科玉条としてきた『特異性』を超えてしまったインターロイキンによる運営。これが1980年代に免疫学者に突きつけられた現実であった。伝染病の治療や予防という、目的にかなった免疫反応から想像されていた免疫系とは、なんとかけ離れていたことであろうか。そして、なんと不気味に、さまざまな危険を内包している不明確なシステムであったことか。『自己』と『非自己』を識別し、『自己』を『非自己』から守る、などという原則は本当は存在しない」
「免疫系における『自己』と『非自己』の識別能力は、環境に応じた可塑性を示すのである」
「私は、ここに見られるような、変容する『自己』に言及しながら自己組織化をしていくような動的システムを、超システムと呼びたいと思う」
「人間の免疫系を構成しているリンパ球系細胞の総数は約二兆個、その約70パーセントがT細胞、残りの30パーセントが、B細胞およびそのほかの細胞である。重量にすると約一キログラム」
「超システムとしての免疫系に、老化はどのように現れるのだろうか」
「免疫系の老化は、胸腺という臓器の,加齢による退縮に依存している」
「個体の老化には、まるで入れ子型のロシア人形のように、神経系や免疫系などの超システムの老化が入り込んでいる」
「『非自己』が侵入すれば、免疫系はいつでもアプリオリに反応するなどというのは幻想であったことがわかる。そのすきをついて、癌は免疫から限りなく逃走する」
「『自己』と『非自己』の境界にある癌」
「その曖昧な『自己』を保証するものは何だろうか」
「昨日まで『自己』であったものが、今日は『非自己』となり得る」
「そうすると、『自己』というのは、『自己』の行為そのものであって、『自己』という固定したものではないことになる」
「『自己』と『非自己』は先見的には区別されない」
「免疫系は、この危険なバランスの上に成立している」

無限小から無限大までの範囲での階層性、段階性、重層性、境界性とそれらを超えた全体性、一体性、そして相互関係を一体に結びつける創造性などを踏まえないと開けてこない世界についてあらためて想う。

「自己」と「非自己」の境界に立つとは?
「と」に立つ思想。生命にとっての「自己」は、たえず調和をはかりつつ身替わり(立替え)の形である時期生きて、消え去っていく。

さてここまでは、専門家・多田富雄による生命にとって「自己」とは何かの、移りゆくスリリングな考察史だ。ここで繰り広げられる人間叡智の輝きは、花粉症や各種アレルギーやエイズや老化や癌や自己免疫病やインフルエンザウイルスなどの免疫学の一分野に留まるものだろうか。著者は真底自覚的なのだ。何に対して? 科学(科学者)は今生命の細分化という問題に直面してドツボにはまっているかのようなのだ。生命を全体として考えることが如何に困難になりつつあるかを痛感するのだ。そこからの脱皮、飛躍、革命の瞬間を、そして「無いものが見える」世界を一貫して追い求めてやまない。どこかで専門ならではの目先の堅固な重箱の隅をつつくやり方を超えたいという解放された大胆かつ乱暴なやり方を心底に秘めているかのような……。

これこそ私たちの「と」に立つ思想、生き方そのものでないのか! 他人事ではなかったのだ! もう少し私たちの身近な例を通して多田富雄の叡智を人間知、私たちの叡智にまで引きよせてみよう。

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27 多田富雄の叡智(上)

「人間とは、いわゆる個人を指すものか、結合夫妻を単位とするか、人間社会を指すものか、宇宙全体を指すものか、或いは基本単位の人間細胞を指すものか、それが結合した受精細胞か、それとも細胞を合成している元の物質及び機能を単位とするか。
人間を構成している物質及びいろいろの機能をどう見るか。個々に生を営む細胞の代謝及び体組織のほか、体液、栄養分は何か。体外へ排した作品・行蹟は人間の一部ではないのか。生命、呼吸、消化行為、微生物共生等の生存行為、電気的・放射能的思意、エネルギー行為、それらの一つを欠如して人間の構成されるはないだろう。
とにかく、一単位だけ離れて単独には考えられない。人間の呼称も、無限小・一・十・百・千・万・億・無限大のいずれかの単位を、人とか、人間と云い、人間の細胞、或いは人間社会と呼んでいることだと思う。人間の酸素、水素、窒素、カルシウム段階の単位称はないだろうか。厳密・正確に云うなれば、無限小より無限大の無限小によってなる凡てに人間のある単位の人間があるが、これらは別に論ずるとして、ここでは人間細胞より人間社会までくらいの単位を簡単に検討しておこう。
だから、細胞を組み立てている条件の一つでも真正でない場合は、細胞は不健康であり、細胞群で構成されている身体は、不健康な細胞が一個でも部分を占めておれば、その体は健全でない。
身体が不健康と云うことは、細胞が不健康なことで、即ち不健康な細胞は不健康な体を成している。この健康と云うのは、身体にばかり使う言葉ではなく、心も生命も、有無現象、能も、諸事万物凡てがそれぞれに、及び一連として、真理に即応した正しい状態を指し、真の幸福とも云いかえてもよい。
皮膚そのものもそうであるが、その皮膚で囲まれた内も人間、外も人間、内外の有形・無形も人間の構成存在条件の段階的単位に過ぎない。
太陽も空気も水も皮膚の内外にある。皮膚の内側にあると思っていても、位置的ではそうでも、実質的には細胞膜の外にある物質・能等はどう見るか。
社会・宇宙の段階単位が不健康なと云うことは、人・人間段階が不健康で、人間や諸事・諸物が不健康では、人間が健康に存在している社会ではない、宇宙でもない。
要するに、宇宙万事万物健康でない限り、人間も健康でない」(山岸巳代蔵)

すでに私たちは、この間ここでいわんとされている含意を、「と」からの出発、「と」に立つ精神、自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)等々の概念を着想することで対比検討を試みてきた。そうした再検討の機会として、いま少し触手を伸ばしてみよう。

免疫学の世界的権威であり先年亡くなられた多田富雄の代表作『免疫の意味論』で展開された「自己」とは何か、「非自己」とは何かについての考察である。全くの門外漢の筆者でさえも、「繋がりそのものの自己」にこれからも触れていく以上、避けて通れない知恵の鉱脈道としてそびえ立っている。

無限小から無限大までの範囲での階層性、段階性、重層性、境界性とそれらを超えた全体性、一体性、そして相互関係を一体に結びつける創造性などを踏まえないと開けてこない世界についてだ。

たとえば多田さんが脳梗塞で倒れられてから後の考察に、「『自己』は生物の全体と部分をつなぐ結節点だと思う」とあった。どういうことなんだろうか。とても素人では手に負えない世界概念なのだが、なぜかとても大切なメッセージを私たちに残してくれているように感じるのだ。
 

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「と」に立つ実践哲叢(1)

稲と鶏(上)
 一体に結びつけた形態に改組

ここでの表題「と」は、山岸巳代蔵が第一回「特講」開催に先立つ約2年前に、愛善みずほ会発行『みづほ日本』に山岸式養鶏法の実際を連載した文章の題名「稲と鶏」から採った。

その趣意は、稲麦作その他に鶏糞を施すことの良いことは、過去幾十年幾多の人々によって唱道され実施されてはきたが、如何せん一般普遍化しなかった。その最大原因は、鶏糞生産量が少なく果樹等に振り向けられていたり、使用した経験が無いが故に効果を知らない農家も多かった。また自身、戦後の芋と水の生活の中で心ならずも自活農業をはじめてみて、春秋の農繁期の忙しさの中でいくら副業養鶏を奨励されても長続きしない実態を思い知らされた。しかしまた、稲作農業の経営を良くするために養鶏の必要なことも痛感した。

そこで編みだされたのが、それまでの「農業」と「養鶏」との相互関係を、一体に結びつけた形態に改組した「農業養鶏」の確立だった。

ではどのように改組されたのか?

まず当時の世界標準労働時間一週45時間勤労で成り立つ省力農法を、四五(よんご)農法として組み立てた。
そのために「鶏卵肉は田畑から」の一貫生産機構を整えた。たとえばそれまで田畑に肥料として施されていた魚粕や大豆粕等鶏の飼料となるものは鶏に給与し、鶏の腹中で配合された生産鶏糞を自家耕地に施して土壌の肥沃化をはかった。また作物も鶏に不向きな里芋等を減じて葉菜類を多くしたりと養鶏に合わした作付けを考えていった。もちろん養鶏法自体も、農家の実際に合わせた技術・経験の要らない方法に改めた。

かくしておけば米の増収と相俟って、農家及び一般消費者の食生活と家計を豊かにし、健康を増進し、それと共に養鶏を通して心のあり方、幸福の正体を見付けることができるところに農業養鶏の真髄があった。

また相互関係とは、双方の有利な関係を成立させていこうと片方の態度出方如何で、もう片方の反応が大きく変わることをいう。ある場合は離れ、相反目したり、相対立していくものが一般社会通念に多く見られる。

そこで山岸巳代蔵が為したのは、そうした相互関係を一体に結びつけた形態に改組するという「実践」だった。それは「稲と鶏」の、稲の立場や鶏の立場を通さずに、両方の立場を離れて、放した、いわば「零位」よりの観方であるともいえようか。

本当の本当を探し求めて、ひとつの立場を固執しない、未だ手つかずの「と」という場所に立つことで見えてくるものがある!

興味深い題材が幾つか思い浮かぶ。自然と人為、わたしとあなた、私意と公意行、一体と完全専門分業等々。そんな場所に立つことで見出される、双方が溶け合った一つのものを自分なりの実感としたいのだが……。

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新年にあたって 本旨 心あらば愛児に楽園を

観光道路・レインボーラインの山頂公園からは、日本海・若狭湾の入り組んだリアス式海岸に面した若狭湾国定公園を代表する景勝地、三方五湖(みかたごこ)が一望できた。しかも正面の水月湖には何度目かのボーリング調査やぐらも遠望できた。

この水月湖から1991年七万年間におよぶ年縞(ねんこう)が発見された。年縞とは、木の年輪にも似て春先に大発生するプランクトンの死骸(白い縞)と秋から冬にかけて積もる粘土(黒い縞)とが織りなす縞模様で、過去の気候変動や植生変化などに関わる重要な情報が含まれているという。何万年にもおよぶ泥の堆積が奇跡的に維持されていたのだ!

麓の若狭三方縄文博物館には、湖底から採取されたボーリングコア試料の一部が展示されている。年縞の一年あたりの厚さは約0、7ミリ。その中に中国大陸からの黄砂,火山灰、珪藻、花粉、葉っぱの化石等々が分析解明されて、地震や大洪水の年も正確に復元されているという。

驚きだった。それまでわたしの中では地・水・火・風など無生物界の現象は、時の流れとともに跡をとどめないものという先入観があった。しかし泥の堆積物が語る事実に触れて、人間を含む動植物の生き様と変わらないのではという思いに打たれたのだ。数万年前までさかのぼれる黒っぽい縞と白っぽい縞の交替のくり返しに、無生物界の意志というか「こころ」を見たかのような……。

稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく。そして吸収生長の期と後の世への生命の繁栄を、劃然と区分する。

わたしたち人間もまた、生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬ世代交替を代々くり返している。そんな不断の前進一路・無停頓の律動(リズム)を生きるわたしたちがいる! そうした交替の律動(リズム)現象に、なぜか名状し難い興奮を覚え、体の奥からなにか心温まるものがこみ上げてくるのだ。

『ヤマギシズム社会の実態』の書に「本旨 心あらば愛児に楽園を」とある。ここでの「心」とは、あたかも無停頓の律動(リズム)に惹きつけられるわたしたちの自然全人一体に繋がる「こころ」をいうのだろうか。
そんな大自然の「こころ」に共感する心から、吾が児に楽園を贈る実践幸福運動を今年もみんなと共にやっていきたいと思う。

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