自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

38私の原風景と「軒遊び」

「真理の前には、人間の知恵のきめつけ程無力のものはなさそうだ。知恵でも知識でも本当はわからない。本当の本当は分からない私になる。軽さ気楽さ子供の世界。子供子供して遊ボーヨ」
「レンゲ、スミレ、タンポポ咲き乱れる野原で、お花摘みして遊ぼうや」(山岸巳代蔵)

八年前から始めた研鑽会で、毎回「私の原風景」を出し合う機会を設けている。「原風景って、何や?」から始まり、だんだんと童心に還るような笑いあり涙ありの各自の体験発表がくり広げられる。きっかけはたまたまそんな話になっただけなのだが、繰り返すうちに自らの原風景をいまに甦らすことができることの大切さに気づかされてきた。何はともあれいまを幸せに生きるカギがそこに秘められてあるように感じられるからだ。

そこでいつも浮かび上がるのは、原風景とはいったい何歳ぐらいの記憶やあざやかな情景のことなんだろうか、といった問いだ。うまく確定できないもどかしさが残っていた。

研鑽会中に皆で観賞する映画「ワンダフルライフ」の監督・是枝裕和さんは、映画でのモチーフをさらに深めた『小説ワンダフルライフ』で読む者の共感を誘うような記憶の一例をうまく掴みだしている。

「三歳ぐらいだと思うんだけど、夏で、お庭にヒマワリの花と、白い洗濯物が揺れてて、それでお母さんの膝まくらで耳掃除をしてもらってて。『じゃ反対』って言われて身体の向きを変えて、おなかのほうに顔を向けた時のお母さんの匂いとか、自分のほっぺがお母さんの腿のところに当たっている感じとか覚えてて。柔らかくって、あったかくって、幸せだなぁってその時思ったわけじゃないんだけど、なんだかすごく懐かしい感じがしたから」

多分このへんなんだろうなぁとイメージをダブらせて毎回皆の話を聴かせてもらいながら、ふと柳田国男の「軒遊び」の世界が浮かんできた。なぜあえて内でもないし外でもないとするたかが子供の遊びの時期にこれほど言及するのか? そうした柳田国男の心が今頃になって何となく自分のなかに映し出されてきたのだ。

「軒遊びという語は私の新たに設けた名称であるが、聞けば誰にもこの心持ちは呑み込めることと思う。一言でいえば、次の外遊びと対立し、また親の傍での生活と外の生活との、ちょうど中間にあるものともみられる。小児が次第に保育者の注意から外へ出て行く一つの順序として、おりおりは何をしているかを知らずにいる場合、すなわちそこいらにいるはずだというような際には、多くはこの遊びに携わっているので、家に手があり愛情が豊富なれば、たいていは誰かがそれとなく見ている。そうしてどんな綿密な家庭でも、これだけには行って参りますや、ただ今帰りましたを告げよとは教えない。眼に見えぬ長い紐のようなものが、まだ小児の腰のあたりには付いているのである。男の児と女の児との遊びが分岐するのもこの時期であって、女の児はやや大きくなっても遠くへ出て行くことが少ないから、後には軒遊びがただ女の児のもののようになってくるのだが、これは古くからの両性の育成法の差異から起こっている。男の児には環境によってこの期間の非常に短かいものもあるけれど、長かれ短かかれ、兄が多かろうと一人子であろうと、一ぺんはこの過程を通らぬものはないのである。農家の建築に改良が起こって、明り障子が立ち、縁側というものが広く長く、表口に付くようになってから、この軒遊びは著しく発達しまた複雑になった」(『改訂分類児童語彙』)

ここに家の中でおもちゃなどで遊ぶ内遊びでもないし鬼ごっこなどの外遊びでもない、小学校に入る手前までの「眼に見えぬ長い紐のようなものが、まだ小児の腰のあたりには付いている」ような親の目がそれとなく見守っている軒端で遊ぶ時期の世界がはっきりと掴みだされている。

これってこの間考察してきた「内と外」での「と」の世界のことではないのか!? そんな具合に重なってきたのだ。今迄見過ごされてきた「と」の世界に着目し、「と」に立つ生き方、「と」からの出発に人間社会の未来を託していきたいとする自分らの実践に力強い励ましをまた一つ得た思いがした。

「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能」(山岸巳代蔵)だとするならば、「人」と「人と人との繋がり」の中間にある「人と人によって生れ」の場所こそ「と」の世界にあたるはずだ。つまり「と」に立つ生き方とは、いつでも親子の情感の源泉に触れられることを意味する。

「恐るべき転落の道をたどるのも、この源泉をくみとる事を忘れた一点にかかっているのであります」(『山岸会養鶏法』)

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37 安藤昌益の実践(下)

「人間はややもすると、無形・無感のものでも文字や言葉や形にして掴まえないと不安定のように錯覚しやすいものだが、それは出来ない相談で、文字や言葉や形を示し、これこれのようなものだ、と連想資料として云うと、形のあるものかのように、また文字や言葉で云い表せるものかのように思い過ごして、かえって無形・無感であるものをそのまま素直に受けとれない。形象知覚外のものは知覚できない、知覚外のものだと知覚した方がわかりやすいと思うのだが、形のないものを形のあるものかのように思い込んで、形を追い求めても、徒労に帰し、結局掴めないことになる。
そこに間違いの原因があり、いつまでたっても、物にならないのである」(山岸巳代蔵)

ここで自分らのいう実践概念について一言触れておきたい。つまり実行とは実際にからだを動かすというよりも、それだけではややもすると目先の「意味的な」ものに拘泥して手段と目的との取り違えてしまいがちなのだが、この世界はそうした勘違いの「やる」ことで満ち溢れているが、そうではなくて、目的と手段が一つに繋がるような概念をここでは指している。そのためには真目的を「知る」ことと「やる」ことが結びついていなければならない。「心的な」理念に裏打ちされた回路が見出されるべきなのだ。ここがミソなのだ! つまり「知る」機会が日常的に設営されていなければならない。私たちのいう「研鑚」がそれである。研鑚の「場」があることで、真目的実現へと「やる」ことが調正されていく。どんな「場」に創り上げるか。そこに自分らの言葉でいうところの「公意行」の実践の「場」が立ちあらわれてくるゆえんだ。

かくして安藤昌益は、当時の国内外の学、思想、宗教のほとんどを否定の対象とする。曰く――
「文字で書かれた書物のことごとくは、天真の妙道を盗むための私作だ」
「わが身を離れた遠くに思案工夫を求めるべきものではないのだ」
「すべて古聖人・釈迦・老荘・聖徳太子などの万巻の書にある言葉は、明徳・明心・明知ばかりを語って互性の備わりを知らない。だからみな横気(邪汚の気)の誤りであり、人が罪に落ちる根源である」
「鳥の世には、金銀の通用がないので、欲も迷いも盗みも乱兵も、たえてないのである」
「人間に病気があることはなかった。活真には病気というものがないからである」等々。(「自然真営道」野口武彦現代語訳 )

こうした一見荒唐無稽のような言説がえんえんと続く。ここまで徹底されると小気味よいくらいだ。その通り、その通りと借りものの受け売りの知識をふりまわしたくなるわが身を振りかえざるを得なくなってくる。

そして自分らの「金の要らない仲良い楽しい」実顕地づくりでの、医者の要る間は要る、金の要る間は要る、しかし要らんようになったら要らん。病気なければ病気治す医者は要らんように、真に科学究明して「要るものは要る、要らないものは要らない」世界の顕現へとおのずとみちびかれていく。

「軒端のスズメや、菜の花に舞う胡蝶でさえも、金を持たないで、何らの境界も設けないで、自由に楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。
能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか」(山岸巳代蔵)

安藤昌益のそこまでいえるモトは何だろうか? それは「直耕」概念だ。あるのは直耕のみ。ただ「直耕」それ自体を生きるべきだ、と。この「直耕」という概念は、「春には植え、夏には草を刈り、秋には収穫し、冬には蔵し、他人からむさぼらずに」みずから生産するといった生き方を意味するにとどまらず、宇宙自然の営み自体が万物(穀物)を生みだす直耕と、穀物の精である男女(ひと)の直耕が人間の身体や心を作るのだから、「天と人とが同じ一つの直耕をし、一つに和合」するところに「真人」のあるべき至上の道を見定める思想にまで煎じつめられている。

こうした「直耕」概念は、一つから発し一つになり合っていく実顕地づくりを実践する自分らの、「と」の世界の考察と重なってくるのが興味深い。

かつて山岸巳代蔵が稲でもないし鶏でもない稲も鶏も否定した「稲と鶏」の「と」から出発して、「農業養鶏」を生みだし、それがきっかけで「一体養鶏」が誕生し現在のヤマギシズム生活実顕地に至る経緯がある。あるのは「と」のみ。「真の人間は、全行為真言真行」なのだから。 というのも「真理」に即応するとは、どちらの立場も通さない「と」の位置に立つことを意味するからだ。

安藤昌益は繰り返す。「一切の書説、皆偏惑なり」「悉く偏惑なり」「偏偏・惑惑なり」「偏惑の甚だしきなり」と畳みかける。
歴代の聖人君子らの思想は皆バカで間違っている。なぜなら一つなる「直耕」に照らすと、みな惑わされて「偏り」「囚われ」「キメつけ」の観念づけが見られその分本当(「直」)からそれているからだという。明暗・善悪の本質を知り尽くさないで、明や善ばかりを偏って唱えつづけて「直耕の衆人」を惑わしている。つまり内と外の「互性」という観点、自分らのいう「活かし合い」の実態を見落としているからだという。

そこまで言い切っている!

この辺りさきの山岸巳代蔵の弁を借りれば、「形のないものを形のあるものかのように思い込」むところに、「間違いの原因があ」るという個所だろうか。この間の自分らの文脈でいえば、「稲と鶏」の「と」の世界にあるものを、「稲」だ「鶏」だと追い求めているから、いつまでたっても、物にならないのである、と。だとしたら「と」の世界の正体は何なのか?

ともあれ安藤昌益は熱心な弟子たちに囲まれながら、無形・無感の「無停頓の律動」(山岸巳代蔵)から湧きだしてくる汲めども尽きぬ源泉に触れようと、「直耕」・「互性」・「自然の世」・「法の世」・「転地」・「活真」・「無始無終」・「真人」・「進退」等々の独自の概念を造語しつつ踏み込んでいった、いまの自分らに繋がる研究家・実行家であった。
とりわけ、きっぱりと当時の徳川封建社会の「私法盗乱」的影響を受けた発想の一切の削除から出発する究明態度こそは、そのままいまに生きる自分らの「と」に立つ思想展開の要といえるであろう。真価をそこに見る。

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36 安藤昌益の実践(中)

「私に一回くらい私心(自殺)を許されてもよさそうなものだと思うことが、時々頭をかすめる。私心の生活なんか、どん底から、まあ贅沢の極致まで味わってきて、これ以上何を求めようというものはない。ただこの面倒くさいシャバから早く解放されて、安らかな極楽熟睡に入り込んでしまいたいのは、私心としてたった一つの残された願いだが、自分で勝手に全人の枠から追い落すことも出来ないし、やはり今日まで天・地・人・宇宙から注がれた愛護を受けた物心に対しての、何かなすなく逃避でき難いもの。せめて数々の失敗の記録を留め、それらに対して浅いながらも反省・考慮を書き留めてでもおくことは、僕の宇宙・全人に対してのせめてもの所業の一端とも言えようか。それさえもなさないで、自分勝手に私心のおもむくままに消滅することは、人間の姿態を許されたものとして、成し得て恥じないものだろうか」(山岸巳代蔵)

安藤昌益の存在は文豪・夏目漱石とも深い親交があった教育者・狩野亨吉が明治32年に稿本『自然真営道』を入手することで発見された。しかし当時の検閲制度を懸念する中で狩野亨吉による「安藤昌益」と題する一文が発表されたのは30年もたった後だった。

そこで安藤昌益の「自然」観を、狩野亨吉は次のように読み込んでいる。
「かうして何も彼も棄て去った安藤に、ただ一つ、どうしても棄てられないものが残った。曰く自然。
自然は最後の事実である。それは一切の思慮分別を離れてそのままに存在する。その一切を許容し包容し成立せしめて、さらに是非曲直美醜善悪を問わない所に測り知れぬ偉大さがある。かうした自然そのままを直観しようとした態度は実によく科学者に近かった。……
すなわち彼は自然を処理するコツを悟ったのである。一切の迷妄煩悩はそこで一瞬に消え失せる」(『狩野亨吉の生涯』より)

しかもここまで安藤昌益に深入りした狩野亨吉はみずから生き方を変えて、京大文科大学長を辞し野に下ってしまった。

そういえば以前ある研鑽会で、当たり前にすぐしてしまう自分らの当たり前観を見直す話題から
「もって生まれた感応能力を磨く」
「知識や体験からは本質は見えない」
「豚や鶏の中に、素晴らしい事実があるのに見ようともしない。眼が外に向いている」
「事実そのものからもっと新鮮な驚きを。ただ感心するだけでなしに……」などといった発言がつづき、ピンと張り詰めた空気の中でのそんな一言一言が心にしみたことが思い起こされる。

また戦後になって岩波新書で出版されたカナダ政府の外交官・E・H・ノーマンによる『忘れられた思想家―安藤昌益のこと―』も安藤昌益の「自然」観を的確に捉えている。例えば

「昌益の書いたものには、人間は自然に対して永遠無限の負い目があることを悟らねばならないという熱烈な関心がいたるところに現れている」といった個所だ。

この辺り次のような個所にあたるだろうか。
「天地が穀物や万物を生ずる。人がこれを取って食べるのは、天が人に与えるのか、それとも、人がこれを天からもらうのか。もし天が一方的にこれを人に与えるとすると、天は人に、(無償で)恩恵を受ける罪を負わせることになる。もし天が与えないのに、人がこれを勝手に天からもらうとすると、人は天のものを盗むことになる。(略)わたしはこの難問をとき明かすことができない。良中師はご存じかどうか」
わたしは答える。「天が万物を生じるのは、これを人に与えるのではない、また生じて捨てさるのでもない、ただ直耕して生じつづけるだけだ。人がこれを取って食に供するのは、これをもらうのではない、これを盗むのではない、ただ直耕し、自分で食べて着るだけである。だから、天と人とが同じように直耕することにより、和して一体となるのであり、そのことは、とりもなおさず、活真の始めなく終りのない自発・自生の運行にほかならない」(安藤昌益『自然真営道』安永寿延 現代語訳)

山岸巳代蔵もまた、
「私が今日まで受けた過去、現在の人達、及び大自然に応える日の遅れることに重荷を感じ、無為に生命の燃焼し終る時に近づきつつあることを惜しむ。(略)
私を生み、育み、注ぎ込まれたものが活かされるのは、これからだと思う。
もし世に何ほどか役立つなれば、私を活かし、使われた方がいいと思う」

などと、「天・地・人・宇宙から注がれた愛護」にとうてい釣り合わない自分じしんをどこまでも羞じた一人だった。それゆえ「せめて」に込めたいもの托したいものがあった。

安藤昌益のいう「天と人とが同じように直耕することにより」とはどんなことなんだろうか?

ヤマギシ会の趣旨、「自然と人為、即ち天・地・人の調和をはかる」、即ち一つから発し、一つになり合っていく「即応」概念やそうした世界に住める資格を身につけるという実践から照らし合わせると、「和して一体となる」という「直」の実践概念が一段とふくらんでくるようなのだ。

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35 安藤昌益の実践(上)

「現在の国境は夜の囲いであり、あまりにも厳めしく、やがては唯の地域名程度の昼の画線になり、今の経済機構も、政治及び社会組織も、人の心も皆、明るい昼の姿に変ります。政庁・官職にあるもの、手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します」(山岸巳代蔵)

一昨年『農業が創る未来―ヤマギシズム農法から』(村岡到編 ロゴス)の書に「『自然と人為の調和』とは何か」と題した一文を寄せたことがある。その中で次のような一節などを書き記して結文とした。

「このようにヤマギシ会の農業――「自然と人為との調和」とは、貨幣経済の中の業態としての農業とは全く次元を異にする。
始まりは人間生存の源泉、衣食を、人為を尽くして自然にもとめるところにあった。そこに本来の農業を見ることができる。農業の前にある農の世界。そんな位置にある農の世界に立ち帰るところから出発している。そこに立って始めて観えてくる農の豊かさの世界がたしかにあるようなのだ」

ここでの「本来の農業」とか「農業の前にある農の世界」と表現されるものについてのイメージを、もっともっと鮮明にふくらませていきたいのだ。自分のものにしていきたいのだ。あの時点での「そこに立って始めて観えてくる農の豊かさの世界がたしかにあるようなのだ」ではなく、確かに「有る」といえるところまでいくのだ。

先の「『自然と人為の調和』とは何か」と題した一文を記した時点では、『「自然」概念の形成史』(寺尾五郎著)を通じて知らされた江戸中期の思想家・安藤昌益の「直耕」概念での「直」に興味をもったが、如何せんその先がふくらまなかった。
しかしこの間、「と」に立つという「実践」概念をあたためているとナント安藤昌益の「直耕」概念がぼんやりとだが浮かんできたのだ! 

寺尾五郎氏によれば、日本において対象的世界を「自然」と呼んだのは、安藤昌益が初めてであるという。それまでの「自然」の語は、すべて「自(おのずか)ラ然(しか)リ」の意であり、自然界のことではなかった。省益は「自然」の語を、「自(ひと)リ然(す)ル」と訓ませ、人も含んだ全自然は永遠の自己運動の過程にあるという哲学思想を独創的に編みだしたのだという。それゆえ「直耕」とは、自然も「ヒトリスル」し、もちろん認識者である私(人)も「ヒトリスル」のであるという謂わば「自然全人一体」理念に繋がる内実をともなっているのだ。何をもって「ヒトリスル」のか? このように問うてみるだけでも、「直」のイメージがふくらんでくるようなのだ!

こうした自然哲学を基盤に著されたのが主著『自然真営道』である。その中の第二五「良演哲論」巻に「私法盗乱の世に在りながら自然活真の世に契(かな)う論」という一章が設けられている。社会思想家としても面目約如たるところだ。しかもこれがまさに私たちが今直面している「資本制社会の中に理想的な社会を創る」課題とピッタシ重なるのだ!

だとするならば、安藤昌益のいう「契(かな)う」と先の山岸巳代蔵のいう「益々伸展合適する自由」の本意は何なのだろうか?
こうした「契(かな)う」も「伸展合適する自由」も同じく「直」に通じていく実践概念にちがいない。今少し「忘れられた」思想家・安藤昌益の世界に踏み込んでみよう。

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青木新門さんの講演会

3月6日(金)夜七時から『納棺夫日記』の著者、青木新門さんの講演が自分の住む実顕地内で実現した! 今日の青木新門さん自身のブログにもそのことがくわしく書かれている。
そのなかにマハトマ・ガンジーの言葉が引用されていた。

「目的が崇高であればあるほど、その手段も崇高でなければならない。なぜならば手段の集大成が目的であるのだから」

そうなのだ。目的と手段が「一つ」の実顕でもあるのだ! それには自分自身の生き様がいっとう最初に問われてこざるを得ない。しかもそのことを、晴れの日も雨の日もあるふだんの日々のなかで寒夜に滝に打たれるような荒修行を通してでなく、和気藹々のうちにどうやって成し遂げることができるか? ここにおのずと私たちの実顕地生活の面白味、やり甲斐・生き甲斐・存在価値が見出されてくる。

以前にも書きとめたことがあるが、2000年前後自分も自分が属する組織体も混迷状態に陥っていた時に、ふと手にした一冊の文庫本『納棺夫日記』。そのなかの納棺の現場で出遇った元「恋人の瞳」の一節。自分の琴線に触れた一瞬だった。その後幾度となくそのシーンが思い浮かんでは癒やされたことか!

ついにはその瞳の奥にある「何か」と自分自身のリアルな一つの体験が重なり合い溶け合った。その時全体総てを見渡せる明るい世界が見えてきたのだった。ヤマギシズム研鑚学校Ⅲの課程が誕生した瞬間だった。

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「と」に立つ実践哲叢 (3)

稲と鶏(下)
農業養鶏から一体養鶏へ

こうして山岸式養鶏法の急速な普及にともない各地方支部などが続々結成され、そこから代表で送り出されたメンバーでの「本部研鑽会」や「五五会」が盛り上がる中で、昭和三十一年一月には一週間の「特別講習研鑽会」(略称、特講)開催に至る。

その前年十二月の幸福研鑽会の席上で山岸さんは、今も特講で使用される『ヤマギシズム社会の実態』の書の原稿の一部をみずから読みあげて、山岸会が目指すものとは何か、鶏は手段でみんなの幸福が目的であること、鶏を通じて人間社会が良くなる道筋などを噛んで含めるように説明したのであった。

またその年の秋には京都府向日町で、第一回の支部養鶏係の特別講習研鑽会が一週間開催されて、養鶏書の輪読研鑚と共に山岸会式標準二連式鶏舎を実地に建てたのだった。このように農業と養鶏を一体に結びつけた形態に改組した「農業養鶏」は、特講受講者による本当の仲良しで心を一つにした「一体養鶏」に発展していった。「一体養鶏」をやることが理想社会実現への第一歩として位置づけられたのだ。

たとえば古くからの有田ミカンの産地、和歌山県金屋支部では、ミカン園は荒廃し、それを復旧するための化学質肥料や有機質肥料の多量の施肥、その作業に従事する重労働などの現状の中で、「私たちは、少しでも良い、安い、美味しいミカンを多量に生産することが有田農民の仕事ではないか。そのために『一体養鶏』をやることで解決し得るのではないか」との研鑚から「一体養鶏」を皆で始めることになったという。
もっとも当時は一体養鶏といっても何か理念や方法があったわけでなく、ただ特講を受けた時の「楽しく暮らそう」「仲良くやろう」という気持ちからの実行だった。なかでも部落の過半数が特講に参加していた下六川地区では、いよいよやると腹を決めた八戸の総家族五十名の気持ちには悲壮なものがあった。

まずは仕事の遅れている家へ手伝いに行く者、農機具のない家へ農機具持参で作業に行く人、自家産野菜や珍しい物を分け合って喜ぶなどの助け合いの気風から始まり、稲刈りからは農作業のできる者は全員出動し、刈取り脱殻と一体作業が活発化していった。もろん従来の共同作業とは違って、各戸何人づつ、何時間働かねばならない規則もない。また鶏卵肉がふんだんに食べられるようにと十一連の一体鶏舎も皆で建てた。
すると我利我欲の観念もどこかへ飛んでいって、作業の報酬や、収穫物に対する期待もなく、休暇時にはよもやまの話が飛び出し、個人作業をしていた時の苦労話、特講を受けるまでの腹立ったこと、大酒飲んであばれたこと、夫婦げんか等々尽きぬ話題に大笑い。以前は水げんかしたことのある田んぼの畦で、まったく驚くべき変り方だった。

形はまだまだ個々別々の中途半端ながら、自分を丸ごと一体の中へ入れる実践がつづく。

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34 曖昧にしてきた「と」のテーマ

「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり、……」(山岸巳代蔵)

たびたび述べてきたように、この一節を自己としてどのように読み解くか? それが何やる場合にも大きな分かれ目になるところだ。

二十歳前後だったろうか、当時愛読していた作家・島尾敏雄が学生時代にものした初期作品などに自分の似姿を見つけては嬉しがっていた記憶が今も甦ってくる。例えば次のようなくだりだ。

夕飯前の黄昏の原っぱで日頃思慕を寄せている少女が縄飛びに興じている。ふと少女は櫛を落とす。それを告げた少年は櫛を遊びが終るまで持っている光栄に預るのだけれど、よごれた手で綺麗な少女の櫛を持ちつづけるのは彼女を冒涜しているみたいで自分が卑屈にみえてしようがない。そこで戻ってくるまで遊びが続いていることを願いながら、一目散に手洗い場へ駆けこむ。が、少年が見たのは少女等が帰り仕度にかかっている光景ではないか。

「何してたの、貫ちゃん、嫌よ人の物を持つて何拠かへ行つちや」
 貫太郎は黙つていた。万年房枝の前では何も言へやしない。
「御免なさいね、万年さん」
自分でも情ないような声を出した。
夕飯もまづかつた。もう万年房枝には可愛がつてもらへる事はなかろう。(「原つぱ」)

こうした少年の意識に棲みついた関係の齟齬(そご)・曲解・思い違い・食い違いからくる「夕飯もまづかつた」心的な体験について、ずっと考えつづけてきた。自分の人生を貫く最大のモチーフであるかのように、ほんとうの他者との関わり合いを探し求めてきた。そして後年、ようやく納得できる理解に達した。それは、「人と人によって生れ」の延長線上に「人と人との繋がり」の世界はないのだ、と。そこを無自覚にただたんに同心円のように拡大していくところに、関係の齟齬から生じる葛藤・矛盾に思い悩みひいては自己欺瞞に晒されるのだ、と。

まさに「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」での、「と」のテーマに当面していたのだ!

そこで今まで採られてきた対応策は、長いものには巻かれろ式に一般社会通念を基盤とする「人と人との繋がり」に「人と人によって生れ」の「人は」(自分)をそのまま合わせることだった。しかしそれでは、「今の社会的欠陥の最大なる原因」を除去する方向には絶対向かえない。

ここに「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」との安易な妥協や和合でなく、「相反目する」関係を一体に結びつけた形態に改組するという「実践」が求められるゆえんがある。つまり、こうした文脈においてはじめて「と」に立つという「実践」概念が立ちあらわれてくるのだった。

「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」とは、全く次元の異なる世界として存在している! あの夏の「ヤマギシズム研鑚学校」でのこうした気づきに、自分は青ざめるほどの衝撃を受けた。しかもそこから「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」の双方が見渡せる、そんな「と」という場所に立つ自己が映し出されてくるのだった!

今までこの「と」という、超隙間のテーマを曖昧にしてきた、見過ごしてきた。こうした二つの世界をいったん明確に分けて、次に一つのものに創り上げていくという「研鑚力」を私たちのものにする実践とは……。

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