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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

36 安藤昌益の実践(中)

「私に一回くらい私心(自殺)を許されてもよさそうなものだと思うことが、時々頭をかすめる。私心の生活なんか、どん底から、まあ贅沢の極致まで味わってきて、これ以上何を求めようというものはない。ただこの面倒くさいシャバから早く解放されて、安らかな極楽熟睡に入り込んでしまいたいのは、私心としてたった一つの残された願いだが、自分で勝手に全人の枠から追い落すことも出来ないし、やはり今日まで天・地・人・宇宙から注がれた愛護を受けた物心に対しての、何かなすなく逃避でき難いもの。せめて数々の失敗の記録を留め、それらに対して浅いながらも反省・考慮を書き留めてでもおくことは、僕の宇宙・全人に対してのせめてもの所業の一端とも言えようか。それさえもなさないで、自分勝手に私心のおもむくままに消滅することは、人間の姿態を許されたものとして、成し得て恥じないものだろうか」(山岸巳代蔵)

安藤昌益の存在は文豪・夏目漱石とも深い親交があった教育者・狩野亨吉が明治32年に稿本『自然真営道』を入手することで発見された。しかし当時の検閲制度を懸念する中で狩野亨吉による「安藤昌益」と題する一文が発表されたのは30年もたった後だった。

そこで安藤昌益の「自然」観を、狩野亨吉は次のように読み込んでいる。
「かうして何も彼も棄て去った安藤に、ただ一つ、どうしても棄てられないものが残った。曰く自然。
自然は最後の事実である。それは一切の思慮分別を離れてそのままに存在する。その一切を許容し包容し成立せしめて、さらに是非曲直美醜善悪を問わない所に測り知れぬ偉大さがある。かうした自然そのままを直観しようとした態度は実によく科学者に近かった。……
すなわち彼は自然を処理するコツを悟ったのである。一切の迷妄煩悩はそこで一瞬に消え失せる」(『狩野亨吉の生涯』より)

しかもここまで安藤昌益に深入りした狩野亨吉はみずから生き方を変えて、京大文科大学長を辞し野に下ってしまった。

そういえば以前ある研鑽会で、当たり前にすぐしてしまう自分らの当たり前観を見直す話題から
「もって生まれた感応能力を磨く」
「知識や体験からは本質は見えない」
「豚や鶏の中に、素晴らしい事実があるのに見ようともしない。眼が外に向いている」
「事実そのものからもっと新鮮な驚きを。ただ感心するだけでなしに……」などといった発言がつづき、ピンと張り詰めた空気の中でのそんな一言一言が心にしみたことが思い起こされる。

また戦後になって岩波新書で出版されたカナダ政府の外交官・E・H・ノーマンによる『忘れられた思想家―安藤昌益のこと―』も安藤昌益の「自然」観を的確に捉えている。例えば

「昌益の書いたものには、人間は自然に対して永遠無限の負い目があることを悟らねばならないという熱烈な関心がいたるところに現れている」といった個所だ。

この辺り次のような個所にあたるだろうか。
「天地が穀物や万物を生ずる。人がこれを取って食べるのは、天が人に与えるのか、それとも、人がこれを天からもらうのか。もし天が一方的にこれを人に与えるとすると、天は人に、(無償で)恩恵を受ける罪を負わせることになる。もし天が与えないのに、人がこれを勝手に天からもらうとすると、人は天のものを盗むことになる。(略)わたしはこの難問をとき明かすことができない。良中師はご存じかどうか」
わたしは答える。「天が万物を生じるのは、これを人に与えるのではない、また生じて捨てさるのでもない、ただ直耕して生じつづけるだけだ。人がこれを取って食に供するのは、これをもらうのではない、これを盗むのではない、ただ直耕し、自分で食べて着るだけである。だから、天と人とが同じように直耕することにより、和して一体となるのであり、そのことは、とりもなおさず、活真の始めなく終りのない自発・自生の運行にほかならない」(安藤昌益『自然真営道』安永寿延 現代語訳)

山岸巳代蔵もまた、
「私が今日まで受けた過去、現在の人達、及び大自然に応える日の遅れることに重荷を感じ、無為に生命の燃焼し終る時に近づきつつあることを惜しむ。(略)
私を生み、育み、注ぎ込まれたものが活かされるのは、これからだと思う。
もし世に何ほどか役立つなれば、私を活かし、使われた方がいいと思う」

などと、「天・地・人・宇宙から注がれた愛護」にとうてい釣り合わない自分じしんをどこまでも羞じた一人だった。それゆえ「せめて」に込めたいもの托したいものがあった。

安藤昌益のいう「天と人とが同じように直耕することにより」とはどんなことなんだろうか?

ヤマギシ会の趣旨、「自然と人為、即ち天・地・人の調和をはかる」、即ち一つから発し、一つになり合っていく「即応」概念やそうした世界に住める資格を身につけるという実践から照らし合わせると、「和して一体となる」という「直」の実践概念が一段とふくらんでくるようなのだ。

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