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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考 (4)

1961年1月に兵庫県にヤマギシズム生活北条実顕地が誕生以来数年で、日本全国及び韓国などに数十ヶ所の実顕地が誕生した。しかし弱小実顕地の初期的維持は余りにも厳しく、一部実顕地は痕跡を残して分解し、あるいは構成家族の減少など、形に見えた事象は多難に見えた。そんな折1969年4月、当時の三重県安芸群豊里村にヤマギシズム生活豊里実顕地として、三十家族、百名の適正規模実顕地造成が始まった。

二つ目は、その頃当時の実顕地誕生への産婆役を務めていた実顕地造成機関で描かれた「金の要らない仲良い楽しい村」の場所像である。それはこの村の特色として次のように記されている。

〈仲が良い〉
この村の合言葉は「まず仲良し」で、何をさておいてもまず仲良くなることをすべての出発点としている。人間同志は言うにおよばず、諸事・諸物とも仲良くしていくことで、自然科学の研究も、産業経済の発展も、みんな仲良くなってからのもの。相手が良くなれば私も仲良くするでは、世界平和も永久にこないであろう。
〈金が要らない〉
人と人との間に金やチケットが要るということは、それは相手を他人と見ているからだ。「私はあなた、あなたは私」のこの一体の村には、何ら取引や貸借の金銭受け渡しを必要としない。
〈財布一つで給料や分配がない〉
この村は何人何家族集まっても、それは仲良し一家の集まりだから、経済は一つで、よく働いても、働かなくても、給料も罰則もなく、分配して狭く囲うのでなく、公の広場で、その人がその時の必要に応じて適量使っていく仕掛けであり、ちょうど空気の使い方のようなもの。
〈規則、監視がない〉
この一体社会には人が人を監視する必要もない。それはまた人としてすることではなく、人からあるいは法規・条文によって規制される他動的なものでなく自らの内なるもので自分を正し、自分を自分で律していく自発的自由な方式である。各自の能力と持ち味に応じた楽しむ仕事には、監視がいらない。
〈階級や長がなく、無報酬〉
この村での運営は、寡頭独裁や多くの力で少数を押し切る多数決を排し、何事も同列横の全員が納得のいくまで研鑚した一致点によって運営される。何年働いても、どのくらい実績を上げても階級が上がるようなこともないし、待遇がよくなるようなこともない。タダ働きである。唯一の喜びは、そこに自己が活かされ、人生を全うすることであり、ここに真の生き甲斐がある。
〈固定がない――無定住〉
人生は、考え方も行為も固定しないで流動的に送ることが自然の真理にかなっている。この村には固定がなく、住む場所や家にしても、各実顕地間の交流により、その時の自分に適した環境に住み替えることが自分次第で可能で、やがて国中、世界中そうなれば、家替え村替え自由自在である。
〈物資豊満・自由使用〉
この村には、権力欲も支配欲も征服欲も所有欲もなく、財産を個々に貯え守る必要がない。あるのは、全世界の頭脳・技術を持ち寄って衣食住・生活必要物資を空気や水のように豊富に生産し、そのものを偏在させないで、使用の機会を万人に均一に与えることとする。
〈生活の終生保証〉
実顕地の中に生活調正機関を設け、そこに私の身体を含む一切の有形無形財を委ねる。一旦そうした以上、その家族の子々孫々までの生活が保証され、万人の愛に包まれて愛児が生長していく楽園たらんとしている。
〈現状そのままでスタートできる〉
この村を造るには、現状のままで、政治体制も社会機構も家族も家も財産も、破壊も撤去もする必要がなく、周囲環境はそのままで、その気その考え方になるなれば、今すぐ実現できる簡単容易な方式である。
〈全人幸福運動の一環として〉
ヤマギシズム生活実顕地は、未来永劫栄えて限りない確信のもとに、今日もその村づくりにいそしんでいる。なぜか――。それは、自分だけの幸せを願っても、それは終局において成り立たないとするヤマギシズム社会原理に基づいて、その実顕地だけよくしようとするのでなく、全人幸福運動の一環として進めているからである。
〈要約〉
何も持たない裸の人達の群れ、それが真の自由人。持つことが唯一の安定の道だと思う人達が身に余る多くの荷物を持ち過ぎて、その重荷の苦しさに耐えかねている、今の世相である。その道を進めば安定の社会になっていくだろうか。個人の幸福が得られるだろうか。今の経済成長がどれほど個人の幸福に役立っているだろうか。プラス、マイナス差し引きどうだろうか。
もっと楽な、楽しい、害のない、よいことずくめの本当の人生があるはずだ。
軒端にさえずる雀さえ、花に飛びかう蝶の群れとて、自分の家も財産も持たないのに、持たないからか、あの気楽さよ、楽しさよ。
蝶になりたい、花になりたい。裸で生まれて裸で死ぬ生身の途中の人生を――。

こうした世界が紹介されたのは、1971年8月に発刊された『Z革命集団山岸会』(ルック社・山岸会文化科編集) に於いてだった。当時実顕地に住みはじめて間もない頃だった自分には、一読しての感想は「ああそういうものか」以上のものはなかった。むしろ、蝶や花と自らの生き方が重ねられていることへの距たりの遠さに腑に落ちないものが残った。

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イズム実顕地づくり考 (3)

さきの「◯◯を△△から開放する」という具現方式。あたかも窓や戸などを開け放つようにして、それまで秘められ隠されていた本来の姿が日の目を見るようになる。そんな自分らのここで謂う「世界急進Z革命」という名の画期的なグランドデザインを幾つか見ておきたい。

一つは、山岸巳代蔵が亡くなるひと月半ぐらい前、山岸会会員有志が各地の県庁所在地において「特講」開催(三重県津市)に向けた「Z革命はあなたの身辺に」と題した新聞用紙半分大のチラシを配布したことがある。そこには人間生活総てにわたる革命方式があざやかに示されていた。

政治革命 独裁政治・寡頭政治・政党政治・多数決政治等を抹消し、一人の反対者もない、大衆全員の納得による政治に革命する。
法制革命 法律・制度を根底から改変し、一人の犯罪者も作らない法制に革命する。
経済革命 お金や券・符(チケット類)の一切要らない、「無所有」「共用」経済機構に革命する。
産業革命 適材適所の配置による純専門分業・計画生産の、画期的な、一人の失業者もない、争議の絶対起らない、合理産業に革命する。
教育革命 信仰と変わらない教え込み方式の宗教的教育を抹殺し、すべて究め、考え、創造し、実験する、真の科学「研鑽学育方式」に革命する。
社会革命 人間同士が排他・共食い・取り合いや、権利・義務で突っ張り合い、闘争する現状を打破し、豊富な物資と、健康と、親愛の情に満ちた、一人の不幸な者も無い、安定した、快適な社会に革命する。
結婚革命 男女・夫婦の愛情の不安定が、いかに多くの社会問題を惹き起しているか? 失恋も無く、寡婦も無い、絶対愛に基づく男女間の真の愛和の世界に革命する。
人間革命 絶対に腹の立たない人になる。人を憎まない、悩みを持たない人になり、親和協力の真の人間性復帰への革命。
健康革命 宗教・信仰による心理変化を、無智・蒙昧な迷信に結びつける非科学的な健康法を排除し、現代最新の精神・身体医学、医術を最高に活用して、病気・病身より正常健康で病気にかからない人に革命する。

ここには、今迄幅をきかせていた「△△」という本来必要が無くなるのに、それの究明がないために何時までも必要としているものを、研鑚をくしする知的な行為により確実に急速に「抹消し」「改変し」「要らな」くし「起らな」くし「抹殺し」「打破し」「無」くし「持たな」くし「排除し」て要らないところへ持っていこうとする「急進Z革命」の性格が明示されている。
誰もが納得する知的な行為によるのだから、「△△に換える(更える)に◯◯を」以てすることで犠牲や禍恨を遺さないとされる。

こうした知的革命の端緒を、一週間の「特講」開催をとおして、みんなと共に知恵や力を出し合って共に仲良く楽しく豊かに暮らせるようになろうとする考え、実行への転換の「場」としてひらいたのだ。しかもその場をとおして人間が真に生きられる「場所」の実在が指し示されたのである。
かくして今の仕事は後まわしとして、「Z革命の方が先だ」と運動に没頭する熱願行為の実が後年実顕地として結実するにいたるのである。

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イズム実顕地づくり考 (2)

しかしなぜ場所なるものが問われるのだろうか? 
この間自分らがイズム実顕地づくりの中で絶えずぶつかっている一番の「モンダイ」は、一般社会常識や価値観からの混同・混線・混入で過ぎた考えに陥る事態である。もちろんそこはイズムならではの「研鑚」で、複合観念を分離分析して考える焦点を一つに簡素化することでそうした事態を乗り越えてきた。またそこにやり甲斐・面白味も見いだしてきた。

そうした日々の中で浮かび上がってきたのは、Z革命とか自己革命と言いながらも、その実自分ら自身の考えが従来のままであったり、現代社会通念に知らず知らず溺れ込んでしまっているのに気づかされるのだ。もちろん今日まで人類が積み重ねてきた社会変遷の恩恵を受けての自分らがあるわけだから、当たり前のことなのかも知れないが……。

それゆえ現代社会を限定・固定的に暗に肯定のままで考えることが、現実的に考えることであるとされる。
曰く、「趣旨はいいが、現実はなかなかそうはいかない」「今の時代のレベルに合わして一般に溶け込んでいった方が良い」「一般の人に好かれるように革命だとか一体経営など刺激することは言わない方が良い」「新しいことは全部常識外れのことばかりだとすぐ常識を否定するが、常識がなかったら何をやるかわからん。人に迷惑ばっかりかける。収拾がつかなくなる」云々。

だとしたら、現状をより良くより正しくと願いつつ個々に財産を持つ必要の無い真に自由・平等の機構・制度を作る理想社会実現に生きがいを感じる生き方の浮かぶ瀬は、どこに見いだされるだろうか?
以前村岡到さんの『ユートピアの模索 ヤマギシ会の到達点』を読んでと題して、次のように記したことがある。

それから「第九章 ユートピア建設の課題と困難」の中で、村岡さんは「資本制社会の中に理想的な社会を創る」という課題について触れています。別の言い方をすれば、「金の要る社会の中に金の要らない社会を創る」となりますが、これはある意味で矛盾したとんでもない試みに映ります。「農としてのヤマギシズム実顕地」と言ってもよいです。現在の高度資本主義の社会では、農業は産業経済社会構成の上からも数パーセントの一小部分にすぎません。そういう「農業の中に〈農としてのヤマギシズム実顕地〉を創る」試みは常識外れの無謀な行為に映るかもしれません。
村岡さんによれば、従来のマルクス主義や社会主義運動では「資本制社会の中に社会主義の小宇宙(理想的な社会)を創ることはできない」とされて、「未来社会の青写真は描かない」というのが通説になっているということです。だから「いわば平時――この時期のほうが圧倒的に長い――に生きる人の場合には、理想と現実は隔離してしまう。そこを架橋するさまざまな工夫を凝らすことになるが、本質的なレベルで切断しているから、正解は見つからない」という。
村岡さんはさらに理想をめざす集団は「一般社会と隔絶した集団で在り続けることは許されない」とも注意しています。

イズム実顕地づくりとは、ホント「矛盾したとんでもない試み」なのだ! この始まりのたった一点の共通理解納得のところで、明暗二道への岐路に立たされている自分ら自身を見る思いがする。ここに「矛盾」それ自体を面白がる共通基盤を創っていくという課題が見いだされる。

さしあたってここでは、現代社会の資本主義的影響を受けた発想の一切の離別・削除を心して、あえて使い慣れた理想社会とかヤマギシズム社会とか次の社会とか呼ばないで、イズム実顕地づくりの実態を「場」とか「場所」の観点からより明らかに見直してみたいのだ。
即ち資本主義的交換商品経済社会という規制されたただ中において、

「例えば、部落を名実共に開放し、住職を束縛する法門から、嫁を家の道具視女から、寡婦を寂境から、刑務所の門を桎梏から、日本人を国境から、若夫婦を古い家から、貧乏人を生活苦から開放し、病人・老人に人間一生のうちの最上の待遇をします。商人を顧客と対等に、世界の人を紛争苦悩から開放し、総ての無理な束縛を断ち切り、真に自由な人生に開放する活動」(山岸巳代蔵)

を可能にするスリルに富んだ諸条件を探ってみようというわけだ。

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イズム実顕地づくり考 (1)

この間「備忘録」を41回まで書き継いできた。そこでは外からの借りもの受けもの知識に依らないで、私のなかの「心の琴線にふれるもの」を足場・手がかりに自分自身が「人と人との繋がり」の世界に躍り出るまでの道筋をくり返したどってきた。
としたら次はおのずと、「と」に立つことではじめて見出された「人と人との繋がり」の形態で現に行われていることそれ自体がテーマになってくる。

そんな折、青木新門さんのブログに先日あった一文だ。
4月13日(月) 曇り時々晴れ
明日上京する新幹線のチケットを受け取りに富山駅まで行ってきた。「場の研究所」の清水博先生の講演を聴くために「親鸞仏教センターのつどい」へ出席することにしたからであった。
7月5日に帯津良一先生と「場の養生塾」で講演と対談をすることになっている。なぜ、こんなに<場>にこだわるかといえば、スピリッチァリティという現象は<場>からしか生まれないと思っているからである。大無量壽経の「光顔巍々」も、親鸞の「二種の回向」も、縁起の<場>なしには成り立たない。この<場>の理解なしには親鸞の『教行信証』は理解できない。なぜなら親鸞の主著である『教行信証』は二種の回向というスピッチァルな現象を言葉で顕そうとしたものだと私は思っているからである。遠足前日の幼稚園の園児のように、そわそわしながら<場>のことを考えていた。

なるほどなあ。自分らも日頃ヤマギシの「村づくり」とか「実顕地づくり」と呼び習わしているものの実態を、「場」とか「場所」の観点から眺めるのも面白いかも知れないと感じた。

たとえば養鶏のとまり木(棲架)が浮かんでくる。鶏舎の後方に設営された一二〇羽前後の鶏が五列に並んで安眠できる移動式のとまり木(棲架)のことである。そこでは一羽一羽の適応・好みの「場」が得られるように少しづつ高さが違うように設計されたとまり木(棲架)のことを「場所」になぞらえられる。さながら実顕地という「場所」で、各自各自の持ち「場」に専心没頭するイメージだ。

かつて次のように諭されたことがある。
「ヤマギシズム実顕地では人間が幸福に生活する根源的要素が、織り込まれ組み入れられあるいは培養されているわけなのです。この要素は実顕地の内部にのみあるのでなく、山岸会や試験場、研鑚学校等のイズム運動全体の中に仕組まれているのです。
真実の人生とは何か、ヤマギシズム生活とは何かについて、わからないことがあり疑問があっても、その未解や疑問をそのまま棚上げして実顕地生活をしておれば解決されていくわけで、厚かましい言い方ですが、実顕地に居りさえすれば良い、そこにいる間は、心をおいている間は見込みがあると申し上げたいのです」(「前涉行程論Ⅱ」)

当時は実顕地に住み始めて2、3年目の頃。「実顕地に居りさえすれば良い、そこにいる間は、心をおいている間は見込みがある」との個所で「ゴキブリも居るよ」と皆で笑い転げた記憶がある。あれから40年、さきの文章は次のように結ばれていた。今も万感胸にせまるものがある。

「真の人間になる場として、またそうなった人間の思う存分の遊び場や働き場としてある実顕地を活用するために、その観点からもっと見直してみる必要があると思います」

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41「われ、ひとと共に」(下)

「山岸会の目ざす理想社会は、一人の不幸もあってはならぬ社会でありますから、その根本に自他一体観の、きびしい原理が自得出来ていなければならぬ筈で、この会旨を別なもっときびしい言葉で表しますと、
〝私はあなた、あなたは私〟
の体認に出発せねばならぬとするのであります。
人を見れば、自分と思える境地に立つことを条件とした言葉で、例えば人の子を見て、私の子同様に思えるかということです。自分の子の優秀や、栄進や進学、結婚を喜ぶに止って、他の人の子の、劣悪、失職、落第、墮落、破鏡を平気で見過し、時には内心さげすみ、あざ笑い、これに比較して我が子を誇るといった心が、微塵でもあったとしたら、如何に口で〝われ、ひとと共に〟と叫んでも、空念仏以外の何ものでもないことになります」(山岸巳代蔵)

さてここまできて改めて、さきのM・ブーバーの次の一節が思い浮かぶ。
「ひとは他者のもとに出てゆくことのできる出発点をもたねばならぬ」

そうなのだ。人は自分なりの実感にかなう自分の内部にとどまっているわけにはいかない。なぜなら、「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違な」(山岸巳代蔵)いからである。その出発点に於いてこそ対話がはじまる場所があるからなのだ。で、その出発点とは、自分なりの実感にかなう「心の琴線にふれるもの」に出遇うことであった。これぐらいだったら、今直ぐでも、資金も設備も資材も製品も、新しく造らなく共、今あるままで、踏み出せる場所なのだ。

しかしこの出発点に立つことが、この間見てきたように容易でないのであった。備忘録11でも引いた引用文、

「心を深く探るのは良いが、人間の考えであるとの自覚がない人が、心の奥に出会ったり、霊的な体験をすると、教祖か信者になってしまう。ヤマギシ・心の啓発系・他の新興宗教、だいたいそんな感じかなと思う。ヤマギシでは出会いや感動を〈研鑽〉と思っているみたいで、タチが悪い」(2009.10.01サイエンズ研究所 杉江優滋)

といったタチの悪いはなから感覚的・感情的なものを切り捨てる考え方が根深いからだ。
たしかに科学は、対象を限定することで誰がやっても間違いない方法を生みだしてきた。研鑚(=高度の科学的分析、総合徹底究明)というなら、自分なりの実感にかなう「心の琴線にふれるもの」をも切り捨てないで科学の対象に織り込んでみることで、どこまで誰がやっても間違いない方法を見いだせるか皆で試してみようというのだ。

この間の「―と―」という文脈にそっていえば、さきに「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能」だとするならば、「人」と「人と人との繋がり」の中間にある「人と人によって生れ」の場所こそ「と」の世界にあたるはずだ。だからか「と」に立つ生き方とは、いつでも親子の情感の源泉にふれられることを意味している。(備忘録38)

このことはなにを物語るのだろうか? こういうことである。
「人と人によって生れ」の場所こそ「と」の世界にあたるはずならば、「人と人によって生れ」の世界をそのまま同心円的に拡大していけば良いだけの話ではないか、と。ところが「人と人によって生れ」の観方の延長上には「人と人との繋がり」の世界はない。「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」とは、全く次元の異なる世界として存在しているからだ。

多くの「個と組織の対立・矛盾」は、そこを混同して個の善悪是非の倫理的内面律でもって組織上の問題を律しようとするところから自己欺瞞的に現象化する。互いの一挙手一投足まで監視しあう閉塞感に包まれていく。そこに理想実現を標榜する革命運動が悉く挫折してきた原因を見る。

だとしたらなおのこと感覚的・感情的なものに価値を見出していくなんてもってのほかである!? たとえばさきの備忘録11での引用文のように、

『自分の中でぐっと来るものに焦点をあてて、その奥のものを探る手法は宗教的。感覚的なものや実感を事実だとする進め方はまさに宗教。
現実感を事実にする根拠は、「係りが “事実ではないか” と言ったから・・・」では外のものに振り回されているだけ。
それでは宗教そのものからの感人種が出来るだけかな。
〈研鑽学校3〉の中に研鑽の実在が見当たらない。〈研鑽学校〉に研鑽が無い、そんな思いを強くした。研鑽が無い〈研鑽学校〉に参加希望が多いのは?
係りも参加者も、やっぱり本質・本来を知らない、理解の浅さなるが故なのかな!』

と鬼の首を取ったように早とちりしてちゃちゃを入れたくなるところではある。
そこで自分らが編みだした処方箋は、簡単にいえばむしろ「人と人との繋がり」の観方から「人と人によって生れ」の自分を温かく包んでやるという「実践」概念だった。繋がりを知る精神=繋がりそのものの自己から出発する生き方、「ひとと共に」の実態というものがこの間の避けて通ることのできない体験を通して得心されてきたからだ。
ここに「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」との関わりを従来の規則や規範や個人の倫理に求めるのではなく、「相反目する」関係を一体に結びつけた「ひとと共に」の形態に改組するという「実践」によって解消されていく道筋が見られるからである。

何度もくり返すが、「人と人によって生れ」から「人と人との繋がり」の世界へそのまま手ぶらで相わたることはかつての連合赤軍事件に象徴される悲劇や挫折しか生まない。そして同時に、自分らは自分なりの実感にかなう「心の琴線にふれるもの」は「人と人によって生れ」を源泉としている事実をも知らされるのだ! 「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」の世界は全く異質であり、そして繋がっている? しかも「人と人との繋がり」は「人と人によって生れ」の世界を織り込んでゆかないと親愛の情に充ちた理想社会には到達できない。

この相矛盾する二つの関係はいったいなんなのか? ここで今なお多くの人が躓き、もがき苦しんでいる。備忘録37では、次のようにも記した。
『こうした二つの世界をいったん明確に分けて、次に一つのものに創り上げていくという「研鑚力」を私たちのものにする実践とは……』

自分はこの筆法を、『山岸会養鶏法』の中の次の一節から示唆された。
「戦後、生活が年と共にきびしくなり、芋と水の生活さえも続かず、一九四九年心ならずも自活農業を始めてみましたところ、これは結構な職業で、反復作業が多く、体さえ動かしておれば、頭はかえって思考が纏まり、好都合なことを発見しました。なお経営を良くするために鶏の必要なことも解りました。
そこで過去専業時代の養鶏法を、農業に織り込んで、相互関係を一体に結びつけた形態に改組したものを、農業養鶏と名付けたのです」

またその書の結び近くにある一文
「〝私はあなた、あなたは私〟
の体認に出発せねばならぬとするのであります」

ここではもはや「私とあなた」ではなくなっている。どういうこと? よくわからないがとにも角にも「と」に立つ、へと跳ぶのだ!
〝私はあなた、あなたは私〟の体認は、いわゆる「新境地の味わい」という次元にとどまらない。体認とは「と」に立つ実践をいうからだ。それは研鑚を通して未知のことを知っていく楽しさに顕れる。「実顕地」なるものが生まれる必然がここに見られるだろう。

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40「われ、ひとと共に」(中)

「人でも、何物でも、無いと決めれば、いつでも、いつまでも無くて悲しまない、気にしない。死に切った道夫がいつか番田を訪れる日があるなれば、それは安子が死に切った後のことで、道夫がいついつまでも出ていて、アテにしない安子に成った時でしょう。妻子、眷族、故郷に、自分に、とらわれそうになる自分の殻から脱け出し、物心の貧乏から抜け出し合いましょう。愛児のために、自分のために。自分を幸せにするのは自分以外にない。しかも本当に自分が幸せになるには、全人の幸せを願う私から出たものでなかったら幸せにはなれない。(略)
頭でわかって口で言っている間はなんにもわかっていなかった。家を飛び出し、ゆくえ定めぬ旅路の宿で、もやが晴れつつある今の私。
地虫が地殻を破って地上にはい出し、せみは飛び立つ。〝死は生〟だ。実行! 実行! まず実行」(山岸巳代蔵)

さきのM・ブーバーの『我と汝』が発表されてから十年後の1932年、日本の哲学者西田幾多郎(1870~1945)は「私と汝」というじつに興味深い論文を発表している。自分の中では、M・ブーバーの『我と汝』と地続きのテーマとして読めた。というか、〈われ―なんじ〉が立ち現れてくる誰にとっても決定的な「出遇い」への道筋をいま一歩踏み込んで明らかにしていく、実践的行為をうながす論文として読んだ。例えば、次のような一節である。

「私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である、私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』岩波文庫)

ずっと理念とか真目的とか理想とかいわれるものを身近な自分のこととして生きる生き方を切実に欲求してきた。しかしこの間借りもの受けもの知識を振りまわしては自他を縛り合う悲喜劇にも巻き込まれてきた。だからなおのこと外に求める理念や知識や体験の蓄積や高い能力や激しい荒修行等に依らないでも、こんな不器用な自分でも温もりに包まれた場所に居続けながらなせる、そんな良いこと尽くめの生き方を探し求めてきた。

つまりM・ブーバーのいう〈われ―それ〉といった外在的・対象化して見る認識行為よりも、自分なりのリアルな実感そのものとして内在的に理念観念を掴みたかった。しかしそんなものは主観的な思い込みにしかすぎない。これだっ!と深く感じる実感ぐらい、アテにならずその時代環境からそう感じさせられているにすぎないもの、といった考えも根強くある。そうかもしれない。迷妄かもしれない。

しかし事態は展望を見いだせず盲目状態に陥っていた。そこでの日々は自分にとってもせっぱ詰まる心持ちだった。そんな中で、なぜか「心の琴線にふれる」温かい実感像が幾度となく甦ってくるのだ。そんな癒やされるような温もりに包まれた場所でしばし自足している自分自身がいた。

フトこんなところで自足する自分とはどんな自分なんだろうと思い返してみた。現実から逃避しているだけだろうか? それにしてはこの心地よさはなんだろうか? 「心の琴線にふれる」この「触感」とはなんなのかと、そうした実感に思いを馳せてはくり返し浸りきった。そうするとそこの部分がしだいに底光りしてきて、いつしかそこに「じぶん」の姿が映し出されてきたのだ! 思いもよらない成り行きだった。

生きた存在はなによりもまず自分自身に配慮するといった「自己への配慮」(セネカ)からはじまるという。ひょつとしたら「心の琴線にふれるもの」の大海へ飛び込んでいくことで、自分なりの実感にかなうその先にあるものにたどりつけるかもしれない。いや、誰の心にもある真実にまで……、と次々と膨らんでくる予感に心が躍った。

ふりかえると こうした自分が自分(繋がりそのものの自己)に出遇う実践を通して、さきの西田幾多郎の「私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである」といった文言がリアルに響いてくるのだ。かの文豪夏目漱石の講演「私の個人主義」にあった、「自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような」といった本質にふれた歓びにも通底するはずだ。

このような「底を通じて」(「私と汝」)、つまり底板を踏み抜く実践から立ち現れる世界があったのだ!
こう見てくると、山岸巳代蔵の「〝死は生〟だ。実行! 実行! まず実行」との叫びのような心底は、「私と汝」の「と」そのものに西田幾多郎が見た「絶対無の場所」とも深く通底しているようにみえてきて興味は尽きない。

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39「われ、ひとと共に」 (上)

「真に分かり合うには、夜を徹して語り合うことである。万象眠る。ただ二人のみ、その中に覚めて語る。真に分からぬということはない」(山岸巳代蔵)

学生時代イスラエルのキブツに関心があったから、多分その流れでユダヤ宗教哲学者マルティン・ブーバー(1878~1965)『孤独と愛―我と汝の問題』の書を手にしたことがある。その時はなにをいっているのかチンプンカンプン。でもなぜか心ひかれるものが残った。

後年ヤマギシズム実顕地に住み、様々な経験というより出遇いをとおしてM・ブーバーの世界が自分の心に入ってきたことがある。とりわけこの間の、「―と―」での「と」に立って見るテーマを考察するなかで容易に理解することができてきて自分でも驚いている。手元にある『我と汝・対話』(岩波文庫)から、はじめの数節を書き記してみよう。

「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。この場合〈それ〉のかわりに〈彼〉と〈彼女〉のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。
したがって人間の〈われ〉も二つとなる。なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。
                    *
根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表わすのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立がひき起こされる。
根源語は、存在者によって語られる。〈なんじ〉が語られるとき、〈われ―なんじ〉の〈われ〉がともに語られる。
〈それ〉が語られるとき、対応語〈われ―それ〉の〈われ〉がともに語られる。
根源語〈われ―なんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われ―それ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。
                     *
〈なんじ〉を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、〈なにかあるもの〉が存在するところには、かならず他の〈なにかあるもの〉が存在するからである。それぞれの〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接する。〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接することによってのみ存在する。しかるに、〈なんじ〉が語られるところでは、〈なにかあるもの〉は存在しない。〈なんじ〉は限界をもたない。
〈なんじ〉を語るひとは、〈なにかあるもの〉をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて〈なんじ〉を語るひとは、関係の中に生きるのである」

そうなのだ! 何でも二つあるのだ!
ずっと、鶏や豚の飼料配合の仕事に携わってきた。なかでもガラス繊維質の固まりのようなモミガラ等粗飼料を美味しく大量に食べさして体質改造をはかることで、その個々のもてる能力一杯に営めるような境地を得せしめることこそ飼育者冥利に尽きるというもの。ところがそこで直面したのが、モミガラは「食べ残す」「食べない」という事実と「よく食べる」「食べ残さない」という二つの事実だった。そんな二つの事実に出逢って、「こんなものは食べない」「この鶏は駄目なトリ」「こういう飼い方はイケない」等早のみこみで軽率に判断してしまう自分を嫌という程思い知らされた。

またそうした日々の中で、「暗く見る人と、事実その中で生きていく強い自分を見出している人と、二つの逆の考え方がある」ことをも知らされてきた。自分も気づかずにそうしている事実の中の自分に出遇えた歓びは格別だった! 「見られる」ものがある。

またある日の研鑽会で、「食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある」がテーマになった。エッ、食べたいから食べるのじゃないの!? 他になにかあるの? 食べなくともよい「もの」? 驚愕した!
そうか、それで一つしか知らない人はしんどい思いをくり返すのだなぁと、目から鱗が落ちる出遇いだった。

そこからまた、自分らは二つの心(こころと心) という概念をあみ出しては自らの生き方の指針としてきた。
それは、自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)=二つの心(こころと心) として現れる、と。

ここまできたら、M・ブーバーの世界は指呼の間にある。
「愛は〈われとなんじ〉の〈間〉にある」
「すべての人間は、この二重の〈われ〉のなかに生きている」
「ひとは他者のもとに出てゆくことのできる出発点をもたねばならぬ」

そこに於いてこそ対話がはじまる場所がある。
〈われ―なんじ〉が立ち現れてくる誰にとっても決定的な「出遇い」があるはずだ。その「〈間の領域〉の中にかくれている王国」(M・ブーバー)である秘められた「出遇い」のヴェールこそ上げなければならない。

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「と」に立つ実践哲叢 (4)

「と」からの展開(上)
 即座に具体策を提案

戦後生活がままならず心ならずも自活農業を始める中で、過去に専業として打ち込んだことのある養鶏と農業を一つに結びつけた「農業養鶏」を組み立てては自分の一町六反歩の田畑で実証をかねて実施していた。そんな稲作一年生に入った翌年(昭和25)秋、京阪神を中心に猛威をふるったジェーン台風が立ち去った後、一望倒伏田の中、一区画見事に立ち揃った稲田があった。それを見た農業普及員、和田義一が心進まぬ山岸さんを口説いて講演会などに引っ張りだした。のちに山岸会誕生のきっかけになった一挿話である。

続けて昭和29年の台風13号で宇治川が決壊し、耕地全部と自宅が3メートルを超える深さに浸水して、多数の鶏が溺死した。ところがその中で農業養鶏の形で飼われていた一五〇羽の鶏だけは、一羽も死なずに浮き上がった敷藁の上で卵を産み、生存していた!

その鶏舎は鶏糞を一回も取らずに、その上へ麦わらや病害虫のついた稲の穂などを敷藁代用をかねて投げ込んでおいたものが全部浮き上がったもので、農業養鶏の良さがこんなところで奇跡的に発見された! これほど愉快な事実はない、他の損失を償ってなお余りある収穫であるとさえ特筆している。「『何が良いやら、分からへんわな』と言うてた」(西辻誠二談)という証言も残されている。

それにしても、もし台風の被害がなかったら山岸会は誕生しなかった!? それが周囲から要請され「木切れを拾い集めて鶏舎を建て、その日食べる米を売って雛を育てる」熱心な有志が生まれるや否や山岸さんは、かねてから用意していた現在の山岸会の趣旨・方法についての成案文を提示したのだった。

先述した理想に直結する具体的な「決定的方法」がすでに山岸さんの中にあったのだ! 「と」からの展開が想定内に描かれてあるのだ! 他からのお声が掛かる掛からないに関係なく、即座に具体策を提案できるところがヤマギシストたるゆえんだろうか。

第一回「特講」開催一年半前に綴られた「病災は内より」は歓びで満ち溢れている。
「私は二百年後を目指して、青年時より理想世界の実現を計画し、近年その方法について書き綴っておりましたところ、私の有形物の減耗するに反比例して四囲の状勢が好転、奇しきまでに刻々に、それを具現化するに即応する様相に展開し、その日の近いことと確実なことが明瞭となりました」

ここにこそ先の農業養鶏から一体養鶏への動きへ、しかもその一端を形はまだまだ個々別々ながら一体の考え方でミカン作業を一体作業へと進ませていくものがあった。

「養鶏から入った人も今は養鶏を超え、唯々理想世界の構成員を育て護る仕事に熱中されています」と、必ずそう成ることを見ての発言だった。しかし反面この時期山岸さんは、我が田へ水を入れる即ち養鶏で儲けようとする人に、百里先の水源地工事に誘うような、その間の通じ合わなさにも直面していた。

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