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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考 (2)

しかしなぜ場所なるものが問われるのだろうか? 
この間自分らがイズム実顕地づくりの中で絶えずぶつかっている一番の「モンダイ」は、一般社会常識や価値観からの混同・混線・混入で過ぎた考えに陥る事態である。もちろんそこはイズムならではの「研鑚」で、複合観念を分離分析して考える焦点を一つに簡素化することでそうした事態を乗り越えてきた。またそこにやり甲斐・面白味も見いだしてきた。

そうした日々の中で浮かび上がってきたのは、Z革命とか自己革命と言いながらも、その実自分ら自身の考えが従来のままであったり、現代社会通念に知らず知らず溺れ込んでしまっているのに気づかされるのだ。もちろん今日まで人類が積み重ねてきた社会変遷の恩恵を受けての自分らがあるわけだから、当たり前のことなのかも知れないが……。

それゆえ現代社会を限定・固定的に暗に肯定のままで考えることが、現実的に考えることであるとされる。
曰く、「趣旨はいいが、現実はなかなかそうはいかない」「今の時代のレベルに合わして一般に溶け込んでいった方が良い」「一般の人に好かれるように革命だとか一体経営など刺激することは言わない方が良い」「新しいことは全部常識外れのことばかりだとすぐ常識を否定するが、常識がなかったら何をやるかわからん。人に迷惑ばっかりかける。収拾がつかなくなる」云々。

だとしたら、現状をより良くより正しくと願いつつ個々に財産を持つ必要の無い真に自由・平等の機構・制度を作る理想社会実現に生きがいを感じる生き方の浮かぶ瀬は、どこに見いだされるだろうか?
以前村岡到さんの『ユートピアの模索 ヤマギシ会の到達点』を読んでと題して、次のように記したことがある。

それから「第九章 ユートピア建設の課題と困難」の中で、村岡さんは「資本制社会の中に理想的な社会を創る」という課題について触れています。別の言い方をすれば、「金の要る社会の中に金の要らない社会を創る」となりますが、これはある意味で矛盾したとんでもない試みに映ります。「農としてのヤマギシズム実顕地」と言ってもよいです。現在の高度資本主義の社会では、農業は産業経済社会構成の上からも数パーセントの一小部分にすぎません。そういう「農業の中に〈農としてのヤマギシズム実顕地〉を創る」試みは常識外れの無謀な行為に映るかもしれません。
村岡さんによれば、従来のマルクス主義や社会主義運動では「資本制社会の中に社会主義の小宇宙(理想的な社会)を創ることはできない」とされて、「未来社会の青写真は描かない」というのが通説になっているということです。だから「いわば平時――この時期のほうが圧倒的に長い――に生きる人の場合には、理想と現実は隔離してしまう。そこを架橋するさまざまな工夫を凝らすことになるが、本質的なレベルで切断しているから、正解は見つからない」という。
村岡さんはさらに理想をめざす集団は「一般社会と隔絶した集団で在り続けることは許されない」とも注意しています。

イズム実顕地づくりとは、ホント「矛盾したとんでもない試み」なのだ! この始まりのたった一点の共通理解納得のところで、明暗二道への岐路に立たされている自分ら自身を見る思いがする。ここに「矛盾」それ自体を面白がる共通基盤を創っていくという課題が見いだされる。

さしあたってここでは、現代社会の資本主義的影響を受けた発想の一切の離別・削除を心して、あえて使い慣れた理想社会とかヤマギシズム社会とか次の社会とか呼ばないで、イズム実顕地づくりの実態を「場」とか「場所」の観点からより明らかに見直してみたいのだ。
即ち資本主義的交換商品経済社会という規制されたただ中において、

「例えば、部落を名実共に開放し、住職を束縛する法門から、嫁を家の道具視女から、寡婦を寂境から、刑務所の門を桎梏から、日本人を国境から、若夫婦を古い家から、貧乏人を生活苦から開放し、病人・老人に人間一生のうちの最上の待遇をします。商人を顧客と対等に、世界の人を紛争苦悩から開放し、総ての無理な束縛を断ち切り、真に自由な人生に開放する活動」(山岸巳代蔵)

を可能にするスリルに富んだ諸条件を探ってみようというわけだ。

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