FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(12)

もっとも「物の必要限界」については、すでに「特講」開催の一年半ぐらい前に記された山岸巳代蔵の先駆的な一文がある。

「真の人間には、他の生物と等しく、生活を続けるために、物を必要とします。身体は物質から成り、物が無ければ一日たりとも生存出来得ない、最も重要不可欠な必要条件で、人類幸福に大きな役割を持っています。死を幸福とする人以外の、生を肯定する人々に、物質なくして幸福なし、またいずれの、凡ての人々にも物質なくして人生なし、と断ずる所以です。したがって物を軽視し、或いは物欲を卑俗な行為の如く云う人あらば、真の人間及びその幸福を云うを止めねばならないでしょう。私に対しても、物を生産し、または物を蓄積することを蔑むが如き人間と誤解される人も多いですが、物の生産を愚行為等と云ってはいないものです。ただ人生そのものについての考え方、或いは幸福条件の物質以外の要素を強調するため、物質軽視者に見られるのでしょう。
私は、何時かは来るであろう人類終滅の日までの永遠説論者で、その程度に欲望を継ぐ恬淡さが言動に現れるからでしょうか、余り執拗に、腐るほど、全人類が無くなっても残るほど、衣食の山を積む必要がないとする物質観から来たものです。
身体欲的に見た物の必要限度は、何時でも何ほどでも身体の欲求するだけは、容易に得られるにあります。
生存を継続し、持てる知能を行うために、それが遂行できるに足る身体を維持し、健康を保つに必要な物質を充たす量を限界とします。而して自己一代のみでなく、子孫までも計画するにあります。しかも最も払うものを少なくして、得るものの最大を狙わねばなりません。米が欲しければ米を、肉が欲しければ肉を、毛布や暖炉や、安全な住居をなるべく労せず、出来得ればボタン一つ押さずに容易に得る仕組みを造るにあります」(1954/8/5)

当初ここでの「人類終滅の日までの永遠説論者」という一節に「終滅の日」?のことを考えている不可思議さに困惑しつつ「全人類が無くなっても残るほど、衣食の山を積む必要がないとする物質観」という一節から、山岸さんという人はよほどのケチというかつましい淡白な暮らしを理想としているのだなぁとの印象を受けた程度だった。次々と新しい物が生みだされる今の時代に合わない物質観ではないのかとさえ疑ったこともある。
しかしその後例えば山岸さんの次のような発言にふれて、自分の早とちりを羞じた。

「鶏も卵も魚も食べぬ私の母など、最も豊かだった」
「子ども達にお母ちゃんが食べさすのでも、おいしいおいしいと食べてくれたら、自分が食べるより嬉しいのやから、それが他人の時はうんと情が出て泣きますわ」

先の見田さんは「有限であることを正視するところから近代を超える思想の問いははじまる」という。
「有限であることを正視する」って、どんなことをいうのだろうか?

さしあたってここでは、「有限であることを正視する」ということを「物の必要限界に目覚める」という意味に受けとるならば、なぜか滲み出る人の情で実顕地という場所が潤ってくるような気がしてきてならないのだ。

スポンサーサイト



PageTop