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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(47)

そもそもこの間語られてきた「私」とは、「自己」とは、何なのか? 別段ここで哲学談義をするつもりはないのだけれども、普段の暮らしの中での切実な実践的な問いとして引き受けざるを得ないのだ。

例えば何よりも先ず自分を守り優先する考え方と一対になって構成された今の社会では、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目していることで生ずる利害関係問題の調整・管理方法がたえずいつも取り沙汰されている。

そこでヤマギシズム実顕地造成への必要条件の一つに、
「如何なる場面に直面しても崩れない三組以上の推進メンバーが存すること」
とあるように、一体生活という社会の中で、そこで見いだされた仲良しの理や人や周囲環境に如何に調和しつつ、その中で自己を最大限発揮する生き方が出来ることにいちばんのネライが置かれている。

「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく」(知的革命私案一)

とあるが、ここでの「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば」のくだりこそ、じつは自分らにとってももっとも混同しがちな「解りかねる」難関の箇所なのだ。
というのも、「三組以上」の社会に生きる「私」とは、「自己」とは、何なのかぐらい、普段の暮らしの中で探り当てる必要に迫られている問いはないのであるのだから。

この間の「倫理」観も、「人と人によって生れ」の次元と「人と人との繋がり」の次元との関連がはっきりと区別されていないと、「自己一人限りとの考えは間違い」だと一種の精神修養や善悪の意味ぐらいに受け取られがちである。
どうしてもここで、今まで通りの道からの次元の「転換」、即ち「人と人によって生れ」の次元と「人と人との繋がり」の次元をいったん分けてみるという研鑽を必要とするゆえんなのだ。

先の山岸会の趣旨「自然と人為の調和をはかる」のところで、人間としての立場からでなく大自然の姿の中から観た「自然全人一体」次元の世界に触れたように、ここでも「人と人によって生れ」の次元からでなく「人と人との繋がり」の次元に立って、「私」とは「自己」とは何なのかを、浮かびあがらせてみようというのだ。
今までの社会での「自己」は、自分という己があって、自己主張するなど、個体としての私以上の所有的・我執的自己がそこに含まれている。ここでは「個」体としての「自」分、「自個」のことを「自己」として捉えてみようというのだ。

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