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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(49)

五六年前になるだろうか、正月蒲団の中でうとうとしながらテレビからの音声を聞き流していた。それが5分間のミニ番組「にっぽん巡礼―心に響く100の場所」が流れた時、「あれっ、自分と同じこと言っている!」とビックリして目が覚めた。
番組は、女優の羽田美智子さんが荒々しい波が打ち寄せる茨城県大洗海岸に立つ大洗磯前神社を訪れての語りで構成されていた。
大洗磯前神社

例えば―
「はじめて触れた海で、家族の笑い声とか…童心に還るというんじゃないけど、ふっーと力が抜けて、なんか休まる場所ですね」
「対人関係に不安を感じた。人が怖かった」
「引いては満ちて、引いては満ちて、それを見ているだけで、自分の中の柔軟性が戻ってきて、なんか波が心を洗ってくれる」
「鳥居の足下にも、波がかかったり、穏やかな波が来ようが、激しい波が来ようが、頑として動かない、この揺るぎない感じをずっと見ていると、自分は自分だと、あっ、こういうことなんだと、気づかされるんですね」

その頃いつも、うまく言葉にならないところで同じような思念を何度もくり返していたからか、羽田美智子さんの「自分は自分だと」という発言から瞬時に「自分が自分に出会う」テーマの大事さを納得したからだ。
その頃の自分は、そうした「自分が自分に出会う」手ごたえのような感受だけが、唯一自分をリアルに確かめられるような心境にあった。

この間の文脈に沿えば、必死に「事実その中で生きていく強い自分」を見出す体験について思いめぐらしていた時期と重なるだろうか。「事実その中」に溶け込んでいるそんな自分を見出しては、〈やった〉とひとりで叫んでは充たされていた。
そこは羽田美智子さんのいう「はじめて触れた海で、家族の笑い声とか…童心に還るというんじゃないけど、ふっーと力が抜けて、なんか休まる場所」にも重なる部分があるように感じられたのだ。

早速再放送の日時をチェックしてビデオに再録したことはいうまでもない。以後研鑽資料として使っている。
するとある時誰かが「私の場合は、“どうせ”がつくのよねぇ」と発言して皆で大笑いしたことがある。「どうせ自分は自分だと」諦めがちな自分らの実状をうまく言い当てられたからだろうか。けだし至言である。

羽田美智子さんは大洗の海岸で、自分が納得する自分に出会う。そこはどんな場所なのか? しかも、そこで見い出された自分らしさと繋がる自分とは?

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