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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(51)

先の「近代日本の歪みの問題」への小栗さんの問いかけ(イズム実顕地づくり考48)を、今少し追ってみる。
小栗さんはまた、島尾敏雄について次のようにも記している。

島尾文学の、低い姿勢に引きつけられていたのかもしれない。島尾さんの「私」は、どの作品においても強くないし、主語が突出することもない。述語に書き手の思いが綴られるばかりだ。それを私は、自らの気持ちの見つめと、読んでいた。あるいはもっと身勝手に、自分の自信のなさを、作中の弱い「私」に重ねてもいただろう。(『時間をほどく』)

多分ここで小栗さんは、「主語が突出する」ところに、どこまでも自己主張することで個を確立してきた西洋近代の考え方とその限界を見ているのだ。
だとしたら、「述語に書き手の思いが綴られるばかり」の場所とはいったいどんな場所なんだろうか? その場所の発見にこそ、そこから立ち上がってくるもうひとりの自分に託していきたいものがあるのだ、と。
ふと、『知的革命私案(一)』の次のような一節が浮かんできた。

「今までに言い尽され、教えられて陳腐なことですが、ややもすると、自分のみの近道を行なおうとする間違いが、混雑の根本的原因です。
これは、一見最も楽な、確かな方法のように思い違いをしやすいもので、殆どの紛争は、ここから発しています。
なる程、今の世の中ではこんな考え方の人が多く、そんな人は、一人で何倍かの幅を取り、その限界を知らないために、幾らでも拡大しようとします。こうした行為は、少数の人でも、多数の人に影響しますのに、周囲からこんな人に寄って来られて、遠慮していたなれば、自分の立場が無くなりますから、止むなく自分で自分を護り主張するのは、誰もの考え方でしょう。周囲がやって来るからで、自分としては、突っ張りたくないが、突っ張ることは間違いと知りつつも遂い、生きて行けないから突っ張ることになるのだと云うのです。
ここに三つの方法がある。
その一つは、その限界を定めて、お互いにその線を越えないこと。
今一つは、他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くこと。
他の一つの方法は、有り余って保有していることの、無駄であり、荷厄介になる程、広く豊富にすることです。
私はこの三案を併用すべしとしますが、そのうちで一番重点を置き、他の二案を欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案は第二案で、即ち幅る辱しさ(太字―引用者)に気付いて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になり合うことだと決定しています」

ここでの「幅る辱しさ」に思いをめぐらすのだ。
何度もくり返すが、この間の文脈に沿えば、

「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく」(知的革命私案一)

とある、「人は」「人と人によって生れ」かつ「人と人との繋がり」によらねば、の一節に込められた含意が、人類発展史のアジア的心情に包まれた一隅に生を受けた自分ら日本人が、西洋近代を受け入れ関わってきた時に味わってきたためらい・とまどい・矛盾・歪みの感覚にも重なってくるようなのだ。いや、もはや行き詰まりの近代に直面しているのだが……。

たしかに「幅る辱しさ」といっても、人見知りが激しいなど個人の資質に帰するところもあるのだが、社会環境的な「人と人との繋がり」の場所によっても大きく影響される一面も見逃せない。
現在今なお未解決の切実な課題は、幅る辱しさに気付くところから、どのような「人と人との繋がり」が真の人間に合うかどうかが問われているのだ。

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