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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(55)

講義の初日にフーコーは、「主体の解釈学」の全般的な俯瞰図を提示する。
テーマは、「主体」と「真理」だという。この間の自分らの文脈での、あの「山岸会養鶏法」の「稲」と「鶏」での「と」に立つ実践思想に当てはまるではないか! ここは自分らの勝手な思い込みに引き寄せることで、自分のこととして読解していくのだ。

そして主体と真理の関係を研究するにあたって、全ギリシア文化を通じて大変長い生命を保ってきた、それは紀元前五世紀に登場し、紀元後の五世紀まで、ギリシア、ヘレニズム、ローマ、そしてキリスト教の霊性の哲学の全体を貫く「自己への配慮」という観念を選ぶところから出発したいという。

しかし主体の問題を考察するのなら、有名なデルフォイの神託において提起された「汝自身を知れ」こそが定式であるのに、いったいどうしてこんな逆説的で手の込んだやり方をするのかと自問自答していく。
いや、この格言が命じているのは、自己認識の原則ではなかった。むしろ「自己への配慮」の枠内で現れていることを、プラトンの『ソクラテスの弁明』などを引用しながら、自己について配慮する主体のあり方こそ重要であり、アテナイの人々も自己に配慮する必要性を痛感していたのだと検証していく。

それなのに何が原因で、「自己への配慮」という考え方がないがしろにされてしまったのか?

一つは、自己中心主義とか引きこもりを意味するものが、キリスト教と近代世界は非・自己中心主義の道徳のなかに基礎づけられたので、関心が消えてしまったという逆説が挙げられる。
しかしいちばんの理由は、「真理と真理の歴史に由来するもの」だという。
それをフーコーは、「デカルト的契機」と名付ける。確かにデカルトの方法には「明証性」がある。たとえば「真理を認識するためには、狂っていてはならない」といった条件を調えることで、認識の内部から主体の真理への到達は定義されるからである。

かくして十七世紀以降「汝自身を知れ」は、真理に到達する根本的な手段となった。そして自己への配慮の原則を格下げし、近代の哲学的思考の領野から排除するに至ったというのだ。
西欧近代では主体は自己を「解釈するもの」になり、古代のように主体が自己を生きるとか享受できる幸福な関係ではなくなったという!?

フーコー自身が自分の生き方そのものに関わる、西欧近代や近代哲学の概念を真なるものに照らして相対化していく。
現在もなお「歪み」として西欧近代を普遍的なものとして受け入れている自分ら日本人にとっても、フーコーがやろうとしている真理の歴史についての問い直しがとても他人事のようには思えない。
まるで切実でとびっきり上質の推理小説を読んでいるような感慨にとらわれる。

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