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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(56)

この間自分らがイメージする「主体」と「真理」との関係とは、

「ヤマギシズムとは一口に言うと、すべてに本当、即ち真なる理は正しいと思う考え方で、何事を考えるにも行うにも、真理に即応しようとする思想である」(『正解ヤマギシズム全輯』 )
であり、
「真の人間は、全行為真言真行」といわれているように、イズムを食べて、着て、住まうような生きることそれ自体であり、齎される恩恵に浴することをいう。

こうした観点から、真理に到達する根本的な手段としての「自己への配慮」についてのフーコーの考察を聴いてみよう。

まずは紀元前五世紀に登場し、紀元後の五世紀までの古代の哲学的および道徳的な生の掟としての自己への配慮という概念や実践の変遷の過程が大まかに再検討されていく。
それは哲学的思索としてソクラテス=プラトンという契機で登場し、次にストア派思想に代表される自己の陶冶、自己自身への配慮の黄金時代を迎え、紀元後の初期キリスト教的禁欲(=修練)主義への移行である。
古代の哲学においては、主体が「真理にどう到達するかという哲学の問題」と「真理に到達するためには、主体にどのような変身が必要かという霊性の問題」が重層して存在していた。それが近代になると、主体が真理に到達する条件は認識だけになるのだが……。
そこで問われるのは、

自己へ配慮しなくてはならないとすれば、配慮するべきこの自己とは何だろうか。この配慮とは何をすることなのか。

こうした個人から発して自己にめぐり来たる円環の中に、きっとフーコーは近代以降見失われた「主体と自己との肯定的な関係」を一縷の希望の光を見いだしているのだ。
靴屋さんは、靴の配慮する(=靴の手入れをする)そのすべをよく心得ている。それが靴屋の技法だ。彼らはそれの専門家なのだ。
しかし「自己へ配慮する」ということ、これがどういうことかを正確に知っているもの者がいるだろうか。

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