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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(58)

この「自己への配慮」という観方・考え方は、自己や他人、世界に対する態度であり、視線の方向が他者や世界や事物から自己自身へと向かうことにとどまらず、自己を浄化し、自己を変身させる自己への陶冶(自己を試練にかけるという方法)といった実践行動にまで繋がっていくところがミソなのだ。
フーコーがこうした古代の自己の技術に注目したのは、キリスト教と近代世界にはない、見失われた「主体が自己を享受できる幸福な関係」が築かれているところだった。
ここにフーコーの人生観の一端が窺える。

「人間の人生は一個の芸術作品になりえないでしょうか。なぜひとつのランプとか一軒の家が芸術の対象であって、私たちの人生がそうでないのでしょうか」

そしてここから二つの問いが必然生まれる。

配慮するべきこの自己とは何だろうか?
この配慮とは何をすることなのか?


例えば先の靴の手入れをする靴屋さんの、自己への配慮とは何だろうか、何が靴屋としての職務をなすのだろか。
こうした二十世紀を代表する知性が投げかける問いは、じつは自分らにとってもなれ親しむ問いでもあることに気づかされる。

「農業者が真の農人でなかったり、商人が真の商人でなかったり、政治・教育・宗教家が真のそれでない事もよくある事です。工場等でも、組織そのものにも、間違ったものがありますが、各々の立場において、真実、それに自己を生かすことによって、闘争等絶対に起るものではなく、却って工場は繁栄し、自己を豊かにします。妻は妻、夫は夫、子に対しての親は親として、間違いない真の生き方があります。
各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会を、ヤマギシズム社会としているのです」(『ヤマギシズム社会の実態』)

来る日も来る日も「各々の立場において、真実、それに自己を生かす」ってどんなことなんだろうかとこの間皆で研鑽してきた。
すると妙なもので「真」という言葉にもなじんできたのか、先(イズム実顕地づくり考56))に紹介した一節

「ヤマギシズムとは一口に言うと、すべてに本当、即ち真なる理は正しいと思う考え方で、何事を考えるにも行うにも、真理に即応しようとする思想である」(『正解ヤマギシズム全輯』 )

での、「真なる理は正しいと思う考え方」が四六時中付いて回ってきて、そんな考え方からの考えが浮かんできたり、その考え方でやっていこうとすることで自ずと心が正されるような琴線に触れる事実が見いだされてくるのが面白い。 

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