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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

 「と」に立つ実践哲叢(17)

自分がいる実顕地づくり(上)

実顕地とは「完全専門分業社会実顕地」のことで、その姿は少数の人では成り立たなく、多数の人が渾然一体となってやるところに偉大な運搬力を持った汽車を走らすことが出来る鉄道経営にも例えられてきた。
そしてこの間自分らの実顕地づくりのなかで、陥りやすい「分業」でない「専業」に固執する弊害についてふり返ってきた。
同じようなテーマに、「集団で生活しているのを実顕地と思っている」がゆえの取り違えがある。実顕地といっても、実は一人ひとりの寄り集まりであり、そうした個の充実によって成り立つはずのものが、実顕地という何か偉大な幻(まぼろし)に依存することで自分の生き方を見失う事例についてである。

なかでも一人がそうであるために、それを前提に全体がそうならないようにと「皆、実顕地のため」をお題目に自分を押し殺してきた苦い経験。要は「自分がやる」をしたくないだけなのに、つい「……のため」に依存することで結果サボる人を非難したくなる。

例えば、ふだん寝起きする部屋から貴重品が紛失した場合、画一的に「部屋の鍵の取付けや施錠を徹底する」方向に盛り上がりがちだ。もし一人の不届き者の存在を許したら、皆が勝手に侵入してくるではないか、といった相互不信の論理で正当化される?!
こうした一見正しく思える場面で、どう非難も弁解もせずに自分を取り戻せるのか?
ここに「食堂へ行ったら何でもタダの金の要らない」実顕地構想が発表された1960年代に、次のような山岸さんの発言がある。

「やってみたらこれが出来る。物が出来たらの人は出来んけど、そうでない人なら出来る。ここでもお母さんが柿をむいて出してる姿を見たらよく分かる。タダの魚屋出しても決して取り合いにならないもの。最もみな生かして使えるわね。
店出したら、どうなるか分かる。みな自分の店ですからな。ちっとも、あれしないものね。魚屋一つ考えても、鯛やらハモやら出してみて、あんたが毎日、鯛やエビを持って帰ってやろと思うか。最も残りそうなものを持って帰るやろと思うの。
『それは理想や』と言うけど、一体の中でやってきているし……。ちょっとの始めの一点ですけどね。あんたやったら、もう頭走ってると思う。『タダになったらどうするか』と」

刮目したいのは、「みな自分の店ですからな」の「の」の世界についてだ。曰く自分の店、自分の考え、自分の実顕地……。
この場合「の」は、「自分」が「店」「考え」「実顕地」に対して持つ関わりというか繋がりを示しているやに見える。どんな繋がりなんだろう? 自分は直接店の運営に関わっている覚えもないのに……。
「自分の店」だからこそ「タダの魚屋出しても決して取り合いにならない」。これこそ実顕地づくりの際に問題にされるべき「始めの一点」なのだという?!
実顕地という何か偉大な幻(まぼろし)に依存、隷属しない「自分の実顕地」とは……。

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わが一体の家族考(25)

革命は恋なのだ?!

きっかけは山岸会創設50周年を期して、2003年5月に開催された会の全国集会だった。何とか山岸巳代蔵の著作を世に発表し、広く研究材料として提供できないだろうか、という話がもちあがった。
そして翌年4月、「山岸巳代蔵全集」第一巻の発刊以来、2011年6月まで全集全七巻と資料編三巻を刊行することができた。
山岸巳代蔵全集

何しろ、生前の山岸巳代蔵を直接知る人も、年齢を重ねられている方が多く、今ふり返ればぎりぎりのタイミングだった。
幸いにも、うわさに聞く『正解ヤマギシズム全輯』など直筆の草稿が会員さんの倉の中から風呂敷包みのまま見つかったりするなど、多くの人の協力を得ることができた。
そしてその全貌が明らかになりつつある今、自分らが従来描いてきた山岸会運動のイメージを根底から書き換えなければならないのでは、と思えてきてしようがない。
「全集」発刊時に次のように書き記してみたことがある。

山岸巳代蔵の著作としてはさきに「特講」参加の時に手渡された研鑽資料『ヤマギシズム社会の実態―世界革命実践の書』がある。そして一週間参加者同士で資料の中の一句一節をああでもない、こうでもないと探り合ったことが懐かしく思い出される。
今にして思えば、あの書は「特講」の入門書というよりも幸福を願う人間の本当のあり方、人間社会の本来のあり方についての構想が凝縮されて画かれ、それに基づく様々な提案をほんとうにそうかと私たち一人一人が手探りで研鑽読みで検討し合う実践の時の始まりでもあった。
以後事ある時もない時もページを開くことで、望みもしなかった深い人生を探求できつつある。
ちなみに今世界中の耳目を集めるイラク問題も、「知的革命私案」の中の一節「アメリカに日本の心が掴めたら」の日本をイラクに置き換えてみたら案外簡単に事の真相と解決法が見えてくるものと確信する。
しかもここにきて山岸巳代蔵全集が刊行されるという。『ヤマギシズム社会の実態』の著作だけでも尽きせぬ宝が埋もれているのにまだまだ無尽蔵にあると想像するだけでその僥倖に目が眩む。
なかでも聞くところによれば、生前氏がこれこそ全人類への最大の贈り物として出版を急いだヤマギシズム恋愛、結婚観についての解明が含まれるという。
人生最大の幸福条件であり人生最大目標であると思われる恋愛、結婚について断定・断言のない研鑽文法で記述されたものだ。
論理的には成り立つようでも実証的には相一致するものがもっとも現れ難い男女の世界で、わざわざ研究するための実例を作ろうと思って作れるものではない世界で、真の結婚を求めて全人苦悩のない幸せに生きてもらいたいとする希いだけで、みずからその場に立たされて逃げ出さなかった実録研鑽資料でもあるという。
はたしてそこに込められた真意の一端をせめて逆解釈にならないように受けとめる資格が私にあるだろうか?
食べ物の場合だったら美味しく食べることで自ずと血となり肉になりするわけだが、本全集を完全に読み取り、そこに盛られた真意を会得するにはどうしたらよいのだろうか? 
つまり食物の消化の生理作用に見立てる要素さえきまれば、それこそどんな人にも通じ、分かり、どんな人をも溶かしていって、人間観念界も自然の理と同じようになるはずだ。そんな研鑽解読法の実証が世界中からまたれている。(「けんさん」2004年4月)

ここでも触れているが、どうも「男・女」の愛情問題をめぐっての解明を欠いては理想社会実現への道程はぜったいに辿れないのではなかろうか。そこからヤマギシズム運動を見直してみようとするものだ。
革命と愛情問題? いったいどんな関係があるというのだ? 
そういえば山岸巳代蔵も、革命提案の弁として「かなわぬ恋ではなかろうと、チョッピリ出した手がこの知的革命案です」と粋なことを言っている。革命は恋なのだ?!

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わが一体の家族考(24)

「わが一体の家族」へ

さきに山岸会が発足してすぐの山岸巳代蔵の著作『獣性より真の人間性へ』は「万象悉く流れ、移り行く」という一節から始まったと記した。この一節に込めた山岸巳代蔵の心情にくり返し思いめぐらしてみる。

自分の知る範囲内では、文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』の最終場面にそれは重なるかのようだ。
ゲーテ

森鴎外始めいろんな人の訳があるが、在野の思想家・教育者富永半次郎(1883-1965)訳が実にいい。

【神秘の合唱】
ものみなのうつろふからに
さなからに色とりどりにうつるなる
かけてしも思はぬことの
ここに起き
ことばにも筆にも堪えぬこと
ここになる
とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこさひすも

とある。
なかでも「とこおとめおとめさひすとなよよかに、われらひかれてをとこさひすも」との七五調の訳がじつに味わい深い。
ちなみに森鴎外は「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ」と、高橋義孝は「永遠にして女性的なるもの、われらを引きて昇らしむ」と、池内紀は「くおんのおんなが、われらをみちびく」と訳している。

ゲーテの形態学に魅せられた解剖学者三木成夫(1925-1987)に、次のような一節がある。
「これら森羅万象の悉くを宇宙根原のかたち――まさに宇宙の原形そのもの――の色とりどりのMetamorphose(変容、変態、変身―引用者注)として眺める……と言う処に迄行きつく。原形体得のそれはひとつの究極の姿と言ったものであろう。
ひとびとはこの宇宙の原形を在る時は「kosmos」と呼び、また在る時は「天」と呼ぶ。ファウストを完結させる“Das Ewigweibliche(永遠の女性)”の表現は、まさしく、こうした万物生成の天然の姿を、いわゆる大地母Magna Materのそれに託して披露した、それは文字通り〝根原秘奥への賛歌〟と見られるものであろうか……」(『人間生命の誕生』)

「山岸会事件」で指名手配中、山岸巳代蔵の潜伏先での口述筆記録にある、互いに相手なくしては生きてゆけないという愛の作用、
「一つにしても陰陽がある。男、女、花、太陽(極同士の接触)(愛の表現、極致)」
といった一節とも重なり合い響き合うようでじつに興味深いのだ。

当てずっぽうな物言いになるかも知れないが、かのゲーテが生涯とらえて離すことのなかった世界、山岸巳代蔵の「万象悉く流れ、移り行く」の中でのみ求められる「ほんとのほんと」と呼べる世界、の解明のなかにこそ、自分らがこの間追い求めてきた「秘められた実態の把握」に繋がるものがあるのではなかろうか。
ふと、あの千石さんのコトバが浮かぶ。

「人間という存在の現実は男と女です」
「真の家族の原点は、男が女を一体として愛するという愛の行為にある」
「夫と妻の素晴らしさは、一体の人格を発見するところにある」
「男の伝えることを受けとめる人格が女。男は女を愛し、女はその愛を受けとめる」
「男にとって女は自分」
「他者の中に自己を見る」(わが一体の家族考15)

山岸巳代蔵を始めこれら先達諸氏の未だ自分には謎めいたコトバは、共通して人間の中の「男と女」に、「人間」であるという本質的なものと「異性」であるという本質的なものとの両方を見極めようとしているかのようだ。
どういうこと?
一言でいうと、未だ生きられていない「男女の性」の世界をベースにして本質的な人と人との繋がりの世界で生きようというのかなぁ……。
とまれ本題である「わが一体の家族」へと分け入っていこう。

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わが一体の家族考(23)

あおくんときいろちゃん

そういえば皇后・美智子さまの著書『橋をかける 子供時代の読書の思い出』のなかに、レオ・レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』にも触れられている。
あおくんときいろちゃん

ただの青色と黄色のちぎり絵というかにじみ絵の抽象的な顔も手もない色のかたちが、ページをめくっていくうちに「あおくんときいろちゃん」の生き生きしたこころが浮かびあがってきて気持ちが温かくなる不思議な絵本だ。
ストーリーはいたってシンプルだ。

あおくんときいろちゃんは一番の仲良し。ある日、あおくんはきいろちゃんと遊びたくなって、あちこち探し回ってようやく出会う。二人は、「もう うれしくて うれしくて」抱き合って喜ぶうちに、とうとう緑色になってしまう!
でもそのままそれぞれの家に帰ると、パパとママに「うちの子じゃないよ」といわれてしまう。
二人は悲しくなって泣いて泣いて全部涙になってしまう。
すると青の涙はあおくんに、黄色の涙はきいろちゃんになる!
そこではじめて「ぱぱにも ままにも やっと わけが わかり」、「おやたちも うれしくて やっぱり みどりに なりました」

ヤマギシズムでいう「一体」のイメージがそのまま浮かびあがってくる絵本だ。
あおくんときいろちゃんの「もう うれしくて うれしくて」のこころに想いをはせていると、おのずと以前研鑽した「実顕地用養鶏法研鑽会資料」の一節

「その人の言う通りやろうとすることはその人になることでその人の心になることで方法のみを真似するわけではない。
一体になろうとするもので一体とは無我執である。その通りやれるかやれないかはわからないけれど、信じないで言う人の気持ちになってやってみようとするもので、……」(わが一体の家族考16)

とも重なってくるようなのだ。 
「みどり」の世界を知るもの、幸いなれ。

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わが一体の家族考(22)

両方に橋が架かる

あの始まりの、2000年前後のまったく先が見えず誰に頼る人もなく、悩み苦しんだ、もうどうにもならなくなった途端、ふと一瞬のうちによみがえり、こみ上げてくる心の琴線に触れるものがあった。
これって、いったい何なんだろう?
それも自分の思いや考えの先に立ちあらわれたのではなく、突然一方的に思いもかけず湧き上がってきたのだ。
しかもその世界に抱擁(つつ)まれては癒やされ、温まり、元気が出た。
この感触、この感じって、いったい何なんだろうか?
よく聞かれる言葉にスポーツなどで「ため」を作るというのがある。「腰のため」とか……。自分の場合は、あの琴線に触れたときのいわく言いがたい感じを「ため」を作るというイメージに重ねてみるのだった。
すると琴線に触れるものがよりリアルなものとしてイメージされてくるのだった。自分のものとして、自分の実感として確かな手触りをともなって琴線に触れるものが捉まえられてきたのだ。

「地獄の八丁目、即極楽の八丁目
窮まる所 必ず展(ひら)ける」

ともいう。
ここでの「即」とは、今あるままでの「即ち」とか「ただちに」「今直ぐ」「その場で」の急転直下、どんでん返しを意味する。底が抜けるというか……。あの「繋がりを知る精神」(わが一体の家族考17)にタッチしたような……。
そこに今までの自分が見えだすと共に、ここに於いて「我執のない自分」を発見するのだ! 
両方に橋が架かった瞬間だった。
しかもそこから今までの自分と我執のない自分の両方に橋が架けられると、思わず展(ひら)けてくるものがあった。
「何でも二つある」から「二つの事実」に、そして「二つの心」という概念に至るまでは指呼の間であった。
このあたりについては、以前にも紹介した一文を再度記してみる。

「『人間、腹立つのが当り前』と思ってる間は、怒りすら取れなんだ。本当に真なるものが見える立場から見たら、『絶対に腹立たん立場に立てる』というところからきての究明で、怒りは取れるし、我のあった人が我が取れて楽になれる。そういう目標に立って究明せんと」(山岸巳代蔵)

山岸会の体験は私の人生の出発点であったという宗教学者・島田裕巳さんは、何冊かの自著で一週間の『特講』とりわけ「怒り研鑚」会の醍醐味の一端に触れている。

「私はしだいに、答えることばを失っていった。(略)会場の空気は重苦しいものに変わり、沈黙が続くことが多くなった。(略)
私は自分がなぜこんな目にあわなければならないのか理解に苦しんでいた。(略)しかし脱出のための糸口は、なかなか見えてこなかったのである。(略)
ところが参加者のなかに、自力で脱出口を見い出した人間がいた。(略)
彼女の発言を聞いて、体の奥からなにか暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた」(『イニシエーションとしての宗教学』)

こうした解放感が一個人のマイナーな閾を超えて、誰にとっても普遍性の感覚にまで至らしめたい。こうした場でしか「真に分かり合う」ことはないのだし、そこはまた自分らの生きる場所でもあるのだ、と。

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