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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(34)

真目的への最短コース

そもそも「愛情研」でどんなことが研鑽されたのだろうかと、当時の「快適新聞」の紙面を追っていたら次のような一文が目にとまった。

「私先だって愛研を受けてきました。受講の資格は十分でないこと承知してはいましたが、はき違えた一体観や自由観から来た、放縦の男女の問題を見聞きしては、愛の名によって行われる美と汚れへの疑問に考え疲れ、イズムそのものの働きにさえふと不安を感じる念さえ起こり、愛の本質の把握への願いが『愛情徹底研』の魅力に取り憑かれて、どうしても見送ることができませず、地方会の承認を頂き、参加した次第です。
それはもう『素晴らしい』の一言。何と自然な美しい人間性に満ちた男女のあり方、驚きにも似た感動そのものでした。
快楽や偽装の愛に悩み疲れた人々に、いえ全世界の人々に知らせたいと思います。けれど少しの常識やキメがあっては、まったく考えられない厳しさであり、観念ではない、日々の現実の中で、実感として湧き上がってくるものでなくてはなりませんので、親愛の本質への追究に懸命で、ふと窓外に目をやっていつの間にか白んできた空に驚いたことも一度ではありませんでした。
私たちが今まで愛情だと信じ、大切にしていたものは果たして真実のものなのでしょうか、本当に調べなくてはなりません。
愛情――それは相手をまず理解することから始まるのではないでしょうか。理解しようとする心に「我」があっては相手の心を素直に見きわめ受け入れることはできません。
自分の思い通りにならないと、裏切られたと腹を立て苦しみました。でも、限られた自己の中へ相手を引き入れることがはたして愛と言えるでしょうか。キメがあるところから正しい愛が生まれ育つ道理はありません。
いかに、〝好きだ〟〝愛している〟といっても、それが盲愛であり、独占であるなら、真実のものとは遠いと思います。
愛もやはり、知恵を伴うものでなくては正しい働きはできますまい。与えるものも、与えられるものも幸福になる愛――それこそ本当の愛情の姿ではないでしょうか。
限りない不条理に満ちた現実の中でも、真の愛情に目覚めることによって、真実に生き抜かれ、この人生を温かで豊かなものとしてゆくことができる確信を、はっきりもつことができました。
もっとも自然な全きものは、知恵ある愛の働きなのではないでしょうか。それこそヤマギシイズムの源泉だと思います。この運動こそ私の人間としての生きがいだとの確信と感動に、おなかの底から意欲が湧いてまいります。今までの苦しみも悩みもすべては自分の作った小さいキメの枠の中で、あっちへ突き当たり、こっちへ突き当たりしていただけのものでした。
そのキメを外して、外へ外へと自己を広げていったら、何とのびのびと楽しいことでしょう。毎日が快適そのものです。すべてのものが活かされ合っているこの世の中につまらないものは何一つありません。
生命あるものすべてに限りない愛情を感じられるような気がします。今やっと得た一体の中の一人だとの実感を心から喜んでいます」
(1958年8月10日発行 見出しは「愛情」筆者名は小笹文子) 

この一文にも記されている「放縦の男女の問題」とは、おそらく山岸巳代蔵の女性関係を指してのことだろうか。
この時期山岸巳代蔵の「女好き」「多情者」ときには「無節操」といった非難めいた噂が、会活動の進展にともなって噴き出していた。
また会の組織自体も、「百万羽」構想の出現によって大きく動揺していた。意欲的な各支部の中心になって活動していた人物が「百万羽」へと参画していき、各支部は一種の虚脱状態に陥っていた。悪評、疑惑、衰退・崩壊説が飛び交った。
あまりにも先を急ぎすぎたのだろうか?

いや、今やイズム運動は大きく脱皮しようとしていた。謂わばそれまでの一体の考え方での養鶏から一つの生活共同体(一体生活)の中で行う一体養鶏へといった次元の〈転換〉をはかろうとしていたのだ! 
何か確かな理論があって、知って、それを実行するというよりは、今の動きを新しい運動の息吹を見ていこう、感じていこう、やっていこうといった熱意の高まりだった。
百万羽設立総会

当時「百万羽」へ参画したあるメンバーの発言は今も自分の中で響いている。
「やはり一番の魅力は心一つの人たちと共に考え共に行う一体生活を、一ヶ所に寄って各々専門分業の一員としてやっていく、そんな生活がどんなにか素晴らしいことだろうかと夢ふくらんだ」
というのだ。

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