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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(35)

生きる喜び・生きる力

ここで少し背景にある山岸巳代蔵の女性関係の一例をあげてみる。
『山岸巳代蔵全集』資料編Ⅲ所収の「山岸巳代蔵年譜」によれば、

「第一回特講終了後、妻・志津子は娘の映と東北方面へ拡大へ出かけたその留守、大森敏恵は山岸宅で身辺の世話をした」
「第四回特講(京都、三鈷寺)で出会った井上頼子と同伴で向島の実感へ戻った時、志津子夫人が頼子を家へ入れることを頑強に拒んだので、鳥羽の中林正三宅の離れに滞在」
「しばらくして、三重、四日市市の会員井上与男宅で井上頼子と住むようになる」(妻・志津子とは別居)
「第三九回特講(京都、三鈷寺)で福里柔和子に出会う」

と記されて、翌1958(昭和三三)年3月末には

「柔和子との婚約発表」

とあり、4月15日には「百万羽科学工業養鶏」構想の発表、17日には「第一回愛情徹底研鑚会」が開かれている。
その春四日市の短大に進学した柔和子の娘、美和子も「学校を休め」と山岸巳代蔵に言われて4月17日からの研鑚会に参加したという。
こうした山岸巳代蔵の女性関係で会を離れた人も多くあった。たんなる女好きの遊冶郎(ゆうやろう)にすぎなかったのだろうか。
参画者の間からも、
「愛情問題が『百万羽』の進展に非常に影響している。これがために、みな不安な気持ちになっている」との声が上がっているのに対して、山岸巳代蔵は、
「これは生きるか死ぬかの問題であり、幸福への根本問題だ」と応えている。

幸いにもその後、11月末から12月のはじめと12月9日、三重県菰野町の見性寺で当事者の井上頼子や福里柔和子も参加しての愛情研鑚会の記録の一部がテープ録音されている。(『山岸巳代蔵全集』資料編Ⅰ所収)
そこで山岸巳代蔵の真情を求めて自分なりの関心に引き寄せた個所の幾つかをまずは拾ってみることにする。

「この忙しい『百万羽』,或いは『新聞社』がどうなるか、死活の断崖に立ちながらやね、彷徨しておるこの姿見ながら、何をしておるかと言われるか分からんですけどもね、やはりこの問題解決しなかったら、私はね、生きた仕事出来ないと思うんです」

「結婚観のね、定義から、これはやっていかんならんと思いますわ。
私はよく言いますがね、特講なんかへ出ても、よーく言いますがね、今のねえ、結婚した夫婦だと思っておるものはね、メチャクチャのがほとんどだと、こう言えると思うんですよ」

「第一回特講の時にねえ、松山の大森敏恵っていうのでねえ、あれで私はまあ生かされたっていうような気持がしたんですね、ね。あの時ね、もう既にまあ、コト切れる状態で家出掛けたんですがね、」

「それは、どうすることも出来ないと思う。或る場合には起り、濃厚になり、また場合によると薄れ、なくなっていく。それは自由でいいと思う。また自由以外にないと思う。自由に任した、任したものでいいと思う。任すより他ないと思う。『別れる』とか、『結婚する』とか、こういうものは、一つの言葉、またそういう観念。だが、そういうものに縛られる何ものもないと思う。本当に何ものにも縛られない自由。それでいいと思う」

「自然界の営みによって、ちょうど、拠り所のない月や星や地球が、どこにも紐帯を持たない、足場を持たない中に、間違いなしに律動しておる状態、(……)人間同士の結婚に於いても、そういうものがあると思う」

「頼子と二人っきりだった当時を思うと、省みるとね、頼子によってね、この生きる力やね、生かされていたと思うの。やっぱり米とか空気とか水とかいろいろのものでこう、人間生かされているわね。周囲の愛情とか(……)そして楽しい状態で生きてきた時間が多かった、(……)もう頼子を知ってからっていうものはね、もう他には要らないの」

「そんなんでね、私は頼子によってよ、そういう若い働きがあるので、その働きを生かすものが柔和子やったと、ね、実、具現化していくものね、実現していくものは柔和子やと思う」

「こういうふうに、そうしようと思わないのになってきたものの中にやね、ここまできたっていうことやね」
流れ雲

「もう成り行き任せやね。ちょうど自分のね、考えや力が入らないの、そこにね。ちょうどね、この流れ雲のような状態ね。湧いて、流れて、そしてまた消えていくっていうかね。私がどうしようってものがなくなるのよ」

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