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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(36)

「愛情研鑽会」以降の展開

だがしかし、さきの『全集資料編Ⅰ』所収の「愛情研鑽会」を以てしても、愛情問題が解決の方向に向かったわけではなかった。
その後の経緯を簡単に要約してみる。

翌1959(昭和34)年1月には、山岸と柔和子が四日市の頼子のアパートに行き、そこでひと悶着があった。山岸が先に帰った後、柔和子が頼子に対して、「私とあなたと奥さんを交替しましょう」ともちかけたことがきっかけだった。翌日、春日の中林宅へ帰った柔和子がその話をし出すと、山岸が柔和子に無理難題をふっかけてきた。大声でどなったり、大変な血相で迫ってくる山岸の姿を見て、完全に気が狂っていると思った柔和子は、沸騰しているヤカンの湯を、オーバーのまま寝ている山岸の顔にかけたのである。
顔が真っ白に焼けただれた山岸は、すぐに病院へと運ばれた。幸いにして火傷は左耳の鼓膜が破れたぐらいですんだ。3月に入って、山岸は療養のため柘植のみどり莊へ移り、四日市から呼び寄せた頼子が看護に当った。

この後、山岸は、4月に山岸会に対して「急進拡大運動」を提案、春日山に山岸会機構の機能をすべて移し始める。
前年8月に現在のヤマギシズム春日山実顕地のある三重県阿山郡伊賀町で始まった通称「百万羽」の春日農場では老人・子供を含め三百人近い参画者が自活態勢に入りつつあった。
ねらいは、その春日農場へ当時京都・山崎にあった山岸会本部事務局を移し、農場内に特講会場も設けて、一丸となって急進的に特講拡大を呼びかけようというものであった。そうした急進拡大こそ真目的だとする高揚した空気が春日山全体を包んでいった。
6月には、山岸は柔和子と共に春日山に移り、「急革体制」に備えたが、そんな矢先の7月10日、山岸会は一週間の講習受講者を軟禁した疑いで上野署の捜索を受け、幹部らとみなされた七人が逮捕された。
山岸会事件

こうした世にいう山岸会事件の真っただ中にあった山岸巳代蔵は、13日午前卵の出荷車(オート三輪トラック)の荷台に乗って春日山を離れた。そして24日午後には捜査中の三重県警は、事件の背後関係を解明するために姿を消した山岸を全国に指名手配したのだった。
その後、あちこちを転々と移り、出頭の機会をうかがうことになるのだが、この年の12月、山岸は側近の人に頼子宛の手紙を託している。以後、頼子と山岸との連絡は途絶えることになった。
また12月の中頃からは、滞在先の山岸の元へ時々柔和子が訪ねてくるようになる。
その間も二人の間での愛情問答は何度となく繰り返された。それについては、現在テープで残されている「徹夜研鑽会」(1960年3月)記録などを通して知ることができる。

1960(昭和35)年4月、柔和子の段取りの元、山岸は大阪松坂屋デパートへ柔和子や弁護士と共に赴き、逮捕という形をとって出頭した(10月に起訴猶予の判決が出る)。
そして、逮捕後取調べが一段落した後、三重県津市の「三眺荘」という一軒家を借り、柔和子や婆やや側近の奥村通哉らと住み、
三眺荘で山岸と柔和子他

少数のメンバーで山岸巳代蔵が思い描く世界観をじっくりと聴く「理念研」の定期的な開催や理想社会の実態づくりを目指す「実顕地造成」という仕事に取り組むことになる。

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