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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(46)

〝母子系図〟の繋がり

こうした親子や生命の繋がりについて次のような山岸巳代蔵の発言が記録されている。

○餅の味、本当に言える人は一人もいない。「餅の味、どんなんや?」と言われても、「ああ、餅の味や」としか言えん。青い色でも何でも言えない。「団子のような味や」と言っても違う。
それで禅なども掴まえどころなく困るので、気持を表そうとして表せぬ。
○闇の夜に 鳴かぬ烏の声きけば 生まれぬ先の父ぞ恋しき(『山岸巳代蔵全集第五巻』)

夏目漱石の作品『門』が思い浮かぶ。親友であった安井を裏切って、その妻である御米(およね)と結婚した宗助(そうすけ)が、崖下の家でひっそり暮らす夫婦の物語だ。
しかし主人公・宗介は何時も何かに脅かされているような倫理観に悩まされている。そこで鎌倉の禅寺へ泊まり込んで座禅を試みる。そこで老師から公案が出る。
「父母未生以前の本来の面目如何」
母子系図

父と母すらまだ生まれていない自分って、どこにいるんだ、何なんだ?、ということだろうか。
彼は考えに考えた。しかし解答をもって老師の前に出るのだが、「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければだめだ」と撥ね返される。「そのくらいのことは少し学問をしたものなら誰でも言える」と。

「特講」でも使われている禅問答式としてしか伝わらないものがあるらしい。
それにしても、闇の夜に黒い烏(カラス)が、鳴いてくれるならともかく鳴かない烏の声を聞いたらまだ生まれてくる前の父(母)が恋しく思われるとは……?
いったい「人は、人と人によって生れ」を繋いでいる繋がりの正体とは何だろうか。
そこでお互い生まれ出た時の無想意だったであろう凡夫の自分のことを自分でソッと思い直してみようというのだ。

「母が父と何月何日にこの私を産もうと約束したかどうか、私には判らない。私には父や母に約束したようにも、産んで下さいとも育てて下さいとも頼んだような覚えがない。契約なしに、しかも何の思慮もなく、あてもなく、のめり出たらしい、無論何才まで生きようとか、何をしようとか、何々をしなければならないとかの予定もなしに。
八卦見や神霊がかりの人には、人の一生の運命が判るそうだし、透視術を心得ている宿命論者には、曰く因縁が付けられるか判らないが、ボクの場合、物心ついてから両親に聞いたところによると、長兄、次兄と二つ違いで産まれているから、次は急いで欲しいとも願わなかったうちに、いつか知らない間に宿ってしまったらしく、宿ったなればしかたがない。上二人とも男だったから、せめて今度は女なればよいが、とあまり邪魔にもされず、また胎内でも静かだったので女だと思い込んでいたのに、産まれ出てみれば、また男の象徴をしているので意外だったそう。
親の考えもあてにならないもの、この世の人は思い違いをよくやるもので、また願うようにもならず、願わぬことが次々と実現する。
『親の言葉とナスビの花は千に一つのアダもない』とよく訓示をした親にしてこの通り、意外、案外の固りで、わけわからずに娑婆の風に晒されることになった。
親の意に逆らうつもりもなかったと思うが、これも親不孝の一つになるのかも知れないが、約束もせない、頼み頼まれもせない、何も知らない判らないのに、できてしまったもので、どうとも致し方がなかったことだろう。今更どちらも責任が果たせるものでもなかろう。産んだ方にも、育てる責任がある、義務があると責めても、育てただけ位で責任だ義務だとて、取り返しがつくわけでもなく、育てれば育てる程、成長するに従い益々固りが大きくなる一方で、もとの卵子と精子の結合以前に戻して貰わない限り、この事態解決とは言えまいし、絶対にできそうもないこと。
思い違いの多い親や誰かが間違いの多い人間に育てあげて責任を果たしたなどとは理屈が合わない。中には早々と子供と離れて他へ去ったり、他界へ急ぐ人もあり、自分だけの子供として盲愛を集中する人、自分の子を人の子もなし、子は誰の持ち物でも、オモチャでもない、次代を受け継ぐ大切な子として世界中の幸せのためには命かけて尽くす人もある。
育てる約束もしていないから責任も義務もない筈だろうが、頼まれもせないのに子は育てられている。受胎した時は仕方がなかったものが産んでからは仕方なしに育てるのと違い、また責任、義務で育てねばならぬ、育てるでもなく、忙しくとも、疲れても、自分の生命を削っても育てるのは、契約や義務などでやれるような上ついたものでないからこそ、強いやさしい母になれるので、約束だからとか、責任や義務や職務で仕方なしでは、負担を感じ本当の子には育つものではない」(正解ヤマギシズム全輯 第二輯 無契約結婚)

「頼まれもせないのに、子は育てられている」事実が有る!
しかも仕方なしとか育てねばならぬからでもなく、忙しくとも、労れても、自分の生命を削ってでも育てる「強いやさしい母」が事実居る!
生まれた子供が乳を口に入れられたら何かなしに吸っていくもの。生まれたものが何かなしに呼吸していくもの。そんな生きてる事実がある!
何はともあれこうした事実そのものに驚くべきなのだ。
もっと新鮮な驚きを。親と子の間を繋いでいるいわば親愛の情感に琴線をふるわすのだ。

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わが一体の家族考(45)

母子間のコミュニケーション

先の一文での「赤ん坊が乳首を求めるようなもの」とはどんな世界なんだろう。その姿態に無性に惹きつけられる。
興味深い観察実験が行われた。出産直後の母子を暖かい個室に入れ、赤ちゃんをお母さんのおなかの上に置く。すると2時間ぐらいのうちにじわじわ這い上がり、おっぱいを飲み始めたという。
赤ちゃんが産まれてすぐしたいのは、他の哺乳動物の赤ちゃんと同じくおっぱいを飲むこと。しかもおそらく匂いを頼りに、ちゃんと乳房に到達するのだ。

また鳥類などに見られるヒナと親鳥の〝鳴きかわし〟も心ひかれる一例だ。
ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした動物行動学者K・ローレンツ博士は、自分の目の前で孵化したヒナの黒い瞳でじっと見つめられ、不用意にヒナからの最初の挨拶の声に二言三言挨拶の声を返したばかりに、このガンの子マルティナは博士を母親だと見なしてしまった。
K・ローレンツとハイイロガン

「あわれなヒナは声もかれんばかりに泣きながら、けつまづいたりころんだりして私のあとを追って走ってくる。だがそのすばやさはおどろくほどであり、その決意たるや見まがうべくもない。彼女は私に、白いガチョウではなくてこの私に、自分の母親であってくれと懇願しているのだ。それは石さえ動かしたであろうほど感動的な光景であった」(『ソロモンの指輪』)

こうした母子間のコミュニケーションに内在するものが現れ出る愛らしい姿に心から魅了される。
なかでも
「母親は乳房を吸ってもらう喜び、子は吸う喜び、互いに生かし合っている姿」、
「求めるものと応じるものとの全面一致」
するこの時期をこそ刮目して見るべきだ。

子は母親の乳房をむさぼるように吸う。しかもまるで死にもの狂いの勢いでなめ廻す。目で乳房を見ながら、手で乳房を摑みながら、口で乳首を含み、口腔に挿入される乳首を感じて乳を吸う。吸われた乳は喉から胃へ入る。そして腸をくぐり抜けて肛門から排泄される。
しかもこの時の手のひらや顔や舌や唇や胃袋や排泄などの感覚が気持ちいい〈快〉感なのだ。反対におっぱいが足りない時やおしめが汚れた時や眠りが足りない時は〈不快〉感でむずかる。

そこには乳を吸うという「食」の行為と共に、乳房をなめ廻したり口腔に挿入される乳首を感じて乳を吸う行為はまさに男性器が女性器に挿入されたり性的な愛撫を行う「性」行為そのものと重なり合う。
この時期、身体を育む栄養素と共に母から子へとただ一方的に注ぎ込まれ、受け身で浴びるものがある。

「ただ要するものは親が子を愛すると同じ親愛の情です。
自分だけ覚えたら出席を止めて、後を教えて貰えぬと腹を立て、後かまわずに離れるでなく、後に続く人々に、自分の持てる凡てを、〝かつて自分が受けたように〟、与えて、与えて、与え尽す愛の心です。後れている人は吾が子です。吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのです。
私の持っているなけなしのものも、早く貰って欲しいです。貰って怪我や食傷せないよう、真の人間らしく早く成長して欲しいです。成長に応じて差し上げます。人と人とが、権利よ義務よの法律のみでは、円滑な、感じのよい社会生活は絶対出来ないもので、与えて喜び、受けて喜ぶ、相愛社会に永久の安定・繁栄があるのです」(山岸会養鶏法)

こうした気持ちいい〈快〉感なるものこそ、「喜び」とか「生かし合い」とか「一致」の起源であり、誰の心にもある真実なのだ!
この眠っている、閉ざされている真実を開眼・解放することにこそ生きがいを感じる。

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わが一体の家族考(44)

〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉

「死の棘」を映像化した小栗康平さんについて以前次のように記した。

「小栗さんは、島尾敏雄を高校生の時から自分の支えとして読んできたという。
「自分が感じていることを一つひとつ整理していくことが、とりもなおさず自分を見つけていくことであり、それは気になる人を思うこととなんら変わらない、そんなふうにもいえるような、ひどく幼い発見があっただろうことを、私はいま思い出せる」(『言葉を呑む』)
ここでの「ひどく幼い発見」の箇所は、別の稿では、
「それは、ものを考えたり、感じたりすることそのものの中に、異性、異なる性の存在がしのびいっているという発見だった。好きな女の子ができ自分の心の中で何かが動く、そのことだけはよくわかった」(『近い家族・遠い家族』)
とも表現されている。まったく同感である。
そして小栗さんはそこに流れる「恥じらいというひそやかな感覚」とか「人間としての基本的な感覚」(『近い家族・遠い家族』)の欠如の回復を、二人の心の葛藤など無関心の故郷の原風景をときおりパートカラーのようにはめ込むことで図ろうとする。そこはかとなく広がっている自然の底に息づく美しさ・豊かさ・温かさを映像化に託して描いている」(イズム実顕地づくり考48)
死の棘・呑之浦

ここで小栗康平さんも指摘される「ひどく幼い発見」は、自分も思いあたる節があるからか心をほのぼのとするものが湧き出る源泉にも例えられるだろうか。
いわば「人と人によって生れ」た自分が、「人と人との繋がり」の世界ではじめて出会う他者が、〈異性〉だという「ひどく幼い発見」と驚き。
山岸巳代蔵の次のような発言にも重ねてみたくなる。

「休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。
講演会に出ても、戯曲を見る場合も、一点の女性がないということは、冷たく潤いのない無味さを感じる。おばあちゃんか子供でも、異性が入れば生花を感じ、心はにこやかになる。なごやかになる。生き生きと仕事が出来る。
これは僕一人でないと思う。また、男の場合に限らないと思う。男嫌いで定評の女丈夫などは、最も男好きだと思う。男嫌いなどと思っていることは、変態的観念から思い違いをしているのだろう。
そういう中にも本当に相合う人を、それは無意識であっても、探し求めているのは人間の本性であり、両性に別れてある生物の希求してやまぬところであろう。
赤ん坊が乳首を求めるようなものではないだろうか」(『恋愛と結婚』の前書き)

別段ここである青春の一時期の心ときめく恋愛感情について語りたいわけではない。また生前の山岸巳代蔵に浴びせられた〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉といった風評に対しての誤解を解きたいわけでもない。

むしろ「人と人によって生れ」た自分が、「人と人との繋がり」の世界ではじめて出会う他者が〈異性〉だという「ひどく幼い発見」と驚きの真なるものを、〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉と言いたくなるものから滲み出る情感を手がかりに探ねてみようというのだ。
「心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって満たされた思い」が「人と人との繋がり」の社会の中で伸展合適していく行程を記述したいのだ。

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わが一体の家族考(43)

「死の棘」のクライマックス

その「死の棘」を映像化したのが小栗康平さん(映画監督)だ。
「死の棘」のクライマックスは、映画でも原作通りに再現されているトシオと妻と女の三人が遭遇する場面である。原作では――

「トシオ、ほんとにあたしが好きか」
 と妻に出し抜けに言われたとき、悪い予感が光のように通り過ぎた。
「好きだ」
 と答えると、
「その女は、好きかきらいか」
 と追求してくる。女の目を見かえしながら、
「きらいだ」
 と低い声でやっと答えた。
「そんならあたしの目のまえで、そいつをぶんなぐれるでしょ。そうしてみせて」
 と妻は言った。試みは幾重もの罠。どう答えても、妻の感受はおなじだと思うと、のがれ口は段々せばまってくる。私はこころぎめして、女の頬を叩くと、女の皮膚の下で血の走るのが見えた。
「力が弱い。もういっぺん」
 と妻が言えば、さからえず、おおげさな身ぶりで、もう一度平手打ちをした。女はさげすんだ目つきで私を見ていた。
(中略)
 そのあいだ私はだまって突っ立ち腕を組みそれを見ていた。
「Sさん、助けてください。どうしてじっと見ているのです」
 と女が言ったが、私は返事ができない。
「Sさんがこうしたのよ。よく見てちょうだい。あなたはふたりの女を見殺しにするつもりなのね」
 とつづけて言ったとき、妻は狂ったように乱暴に、なん度も女の顔を地面に叩きつけた。
(中略)
「そうだ、こいつのスカートもパンティーもみんな脱がしてしまおう。トシオ、はやく、はやく」
 妻が本気で言っても、それは私の耳が勝手につくりあげた声のようだ。
「なにをぐずぐずしているの。こいつがそんなにかわいいの」
 とせかされ、そうする気になり、女の腰に手をのばしたとき、下ばきの下にかたいものが指先にふれたと思ったら、思いきり蹴とばされていた。なぜか女はされるままと思っていたから、私を蹴とばしたはずみに女が妻の手から脱けて立ちあがっても、事態の把握ができなかった。妻に叱咤されようやく女をもう一度地面にころがした。
映画「死の棘」

身の毛がよだつようなおぞましい修羅場だ。
先日刊行された梯久美子著『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』によると、この衝撃的な場面は観念を通した創作的なものではなく発せられた言葉も含めて実際に演じられた事実そのものだということが、島尾家に残された直筆資料などを整理する中で裏付けられたという。

山岸巳代蔵が「愛情研鑚会」という公開の場で鬼畜のような形相で自身をさらけ出したように、島尾敏雄も作品の場で飾らず匿さず余すところなく自身をさらけ出してみせた。
いや、さらけ出そうとしてさらけ出したのではない。罪と罰、善と悪を超えた事実その中で「私はだまって突っ立ち腕を組みそれを見ていた」自身の姿をただ見出しているにすぎないのかもしれない。

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わが一体の家族考(42)

母親に代わるもの
ミケランジェロ デッサン「聖母と子ども」

また作家・島尾敏雄には代表作『死の棘(とげ)』という私小説がある。夫の浮気を知って神経に異常をきたした妻が、どこまでもくり返し夫を責め続けどこにも抜け道のない夫婦の凄絶な危機を真正面から克明に描き出す。もちろん男の子と女の子がいる家庭の中はメチャクチャになる。
後年、娘の島尾マヤさんの「父島尾敏雄と母ミホ」と題する回想文に接して身につまされる思いがした。

「或る晩から母の様子が突然変になった。(中略)その時から父と母はそれ迄の関係の位置が反対になってしまったことは、幼い私にもわかった。それは父が母を自分を生んでくれた母親と同じように考え、何をしても許して貰えると思い込み、我がまま勝手をしたので母は疲れ果て、心の病になったのだと後から知った。
当時の家庭の事情を父は十八年間の歳月をかけて『死の棘』という小説に書いた」(『島尾敏雄事典』)

ここに「人と人によって生れ」から「人と人との繋がり」へと相渉(わた)る際に現れる親離れできないひと見知りの典型的な思い違えが見出されるからだ。
いつもここのところで厚い壁にはね返されているような気がする。今もきっと誰もが執着の度合の差はあれ思い悩んでいる個所だ。

「何をしても許して貰えると思い込み、我がまま勝手を」受け入れて抱擁(つつ)んでくれる母親こそ「人と人によって生れ」の象徴なら、いったい「人と人との繋がり」とはどんな世界なんだろうか?
ずっとそこは、赤の他人同士で構成される「社会」の別名だと見なしてきた。だから当然、特に人と人とが離れ、相反目していることもやむを得ないのだと。自分のひと見知りを無自覚に正当化してきた嫌いがあった。  
そんな「自己一人限りとの考え」を揺さぶり続けたのは、日々の暮らしであり研鑚会である。そこでは次のような問いに迫られた。

「その人の言う通りやろうとすることはその人になることでその人の心になることはできないのだろうか」

そんな無茶な。
でもある時、ふと「その関連を知るなれば」の一節がリアルに浮き上がってきたことがある。「その関連」っていったい何のことだと自問自答するにハメになった。
今までの「自分」を捨てなけねばならない!?
山岸巳代蔵は公言してはばからない。

「結婚観のね、定義から、これはやっていかんならんと思いますわ。
私はよく言いますがね、特講なんかへ出ても、よーく言いますがね、今のねえ、結婚した夫婦だと思っておるものはね、メチャクチャのがほとんどだと、こう言えると思うんですよ」(わが一体の家族考35)

どこがメチャクチャ何だろう?
言わんとするところは、きっとそこ、「人と人との繋がり」の世界にはホントのところ、未だ誰も住んだことも生きられたこともないまっさらな未知の領域ではないのか、と。
そこはあたかも旧約聖書の時代からの、
「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2-24)ような世界なのだろうか。何の変哲もない事実にすぎないのだけれども……。

人と人との繋がりの中へ、あたかも母親の自己自身に対する愛護と同じように入り込んでいけないものだろうかと、我がままなことを夢想する。
始まりは、全現実社会を自己の感受を基点に同心円的に拡張していき「少年が少女に寄せる淡いほのぼのとした思慕」の世界のみで包み込みたいのだった。
ここの始まりの場所を離れないで、いわば「自分」と「親子の家族」と「人と人との繋がりの社会」が一つに重なる世界像に迫っていきたいのだ。

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