FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(49)

繋がりの源に触れる

「人と人によって生れ」、「人と人との繋がり」の中で一つに重なり合い一致する、そんなかつてない世界に触れるためには何か〈次元〉の転換に迫られていた。
そのためにももっと自分の実感がともなう生き方や考え方があるはずで、そんな心の底から納得して本筋に至る道筋が切実に欲求されて来るのだ。
しかし自分の実感? そんな自分の思い込み、主観、実感ほどアテにならないものはない。
その間の考えの揺れを次のように記したこともある。

「そのアテにならない誤りうる実感を頼りに足場にして、例えばこれからの季節、山の木々に見る紅葉をあらためてきれいだなぁと心の奥底から湧きあがってくるものに『心の琴線に触れるものがある。それはどういうものか』と美しさの正体に想いをはせるなかで、自然の一部である人間にも流れているものに気づかされ、その心から自然・永遠・事実・普遍・真理に相渉ろうというのである。
宗教と科学を分ける『と』の垣根を取り払うことで、宗教も科学となる繋がりの場所を見出そうというのである。
自然と人間は一体のもので、人間は自然から産まれたものであることを、みずからの生きた事実実証で表してみようというのである。
たかだか百年にも満たない時間を生きる人間の主観でもって、自然・永遠・事実・普遍・真理を掴むことはできない。
しかしそうした『事実その中で生きている』繋がりそのものの自己を見出すという『自己への配慮』という知恵でもってしたならば、真理即応の人間性(心)にまでひょっとしたら到達できるかもしれない!
ハッとする心躍りがあった」(実顕地づくり考11)

この時の「ハッとする心躍り」は今も脈々と生きている。そんな歓びを行きつ戻りつ数え切れないほど心に反芻してきた。
以前も次のように記した。

「それにしても彷彿と浮かぶあの恥ずかしそうな笑顔から一瞬のうちによみがえり、こみ上げてくる心の琴線に触れるものの正体は、いったい何なんだろうか?
そんなくり返しくり返し自ずと湧いてくる温かなものの心触りの感触を確かめていると、これだけはゆずれないといった確信めいたものがふくらんできた。
それは、もし心の琴線に触れ何かほのぼのとした温かいものに癒やされ、いいようのない感情がこみ上げてくる中で『ヤマギシズム』が立ちあらわれて来なかったら、自分は『ヤマギシズム』を見捨てる、といったのっぴきならぬ一つの考えだった。
するとそんなある日、さきの例えば『ヤマギシズム七不思議』の一つ
○「万象悉く流れ、移り行く」
に込められた“流れ”に例えられるものが、身近な自分の実感をともなって、一つの共鳴・共感する生命を感じさせるものとして目に映ってきたのだ! しかもそれが万象悉くに満ち溢れている!
流れているものの実態にじかに触れた感がしたのである!」(わが一体の家族考18)

自然から贈られ、人から発せられる美しさ・豊かさ・温かさの源が、そこはかとなく広がっているのがこの世界のようなのだ!
しかも人は、親から生まれ育ち、親から離れて脱皮して一人の自立した個体として、「人と人との繋がり」の中で自分以外の他の個と出会い結びつく仕方で生きていく。だとしたら、その結びつく繋がりの正体とはいったい何だろうかと想いをはせる。
そのことはまたさきの「自然と人間は一体のもので、人間は自然から産まれたものである」自然全人一体観の一番底に流れる繋がりの源に触れることでもある。汲めども尽きぬ源泉をくみ取らねばならない。これこそ絶対に行き詰まらぬ、永久に幸福を齎す繁栄一筋の道の秘鍵だった!
例えばこの間記してきた―

「それは、ものを考えたり、感じたりすることそのものの中に、異性、異なる性の存在がしのびいっているという発見」
「『人と人によって生れ』た自分が、『人と人との繋がり』の世界ではじめて出会う他者が、〈異性〉だという『ひどく幼い発見』と驚き」
「『心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって満たされた思い』が『人と人との繋がり』の社会の中で伸展合適していく行程」
「こうした気持ちいい〈快〉感なるものこそ、「『喜び』とか『生かし合い』とか『一致』の起源であり、誰の心にもある真実なのだ!」
「親と子の間を繋いでいるいわば親愛の情感に琴線をふるわすのだ」

といった文脈において「わが一体の家族」の輪郭像を描こうとしてきた試みにも重なる。
それはまた、ヤマギシズムでいう〈一つ〉の中に『心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって満たされた思い』で分け入ってみようとする試みでもあるはずだ。
なぜなら〈一つ〉とは、「私はあなた、あなたは私」の体認から出発するものだからだ。
そこは「最も相合うお互いを生かし合う世界」であり、無意識に惹かれ合い・求め応え合い・心の手を差し延べ合う衝動にかられる〈一つ〉の世界の謂いでもある。
ヤマギシズム恋愛・結婚観を探ねて、ようやくここまできた。

スポンサーサイト

PageTop

わが一体の家族考(48)

瓜の蔓に茄子は生らぬ

またある日の研鑚会で次の一節を研鑽した。

「食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある」

二つあることを知る?
こういうことだろうか。
幸福に真の幸福と幸福感という二つの幸福があるように、人間の考え方にも成功型と失敗型とにも分けられる二つの逆の考え方がある。
難所に直面した時に、こんなはずでなかった、えらいことになったと、暗く見る失敗型の人と、しかしまた難関にぶつかるほど情熱と知恵が湧き出てくる成功型の人に分けられるという。
先の「人と人によって生れ」の自分と「人と人との繋がり」での自分が対立的に矛盾するように感じられる分け方には、どこか無理があるように感じられた。
ではそれ以外にどのような分けて考える考え方があるのだろうか? ここがいちばんの難所だ。

「何でも二つある」とは、何と何が二つあるのだろうか?
ことわざに「平凡な親から非凡な子は生まれないこと」の意味や、「原因のないところに結果は生じないということ」の意味のたとえとして

「瓜の蔓に茄子は生らぬ」
瓜の蔓に茄子は生らぬ

とある。
以前にも記したが、このことわざの謂わんとする一端に触れたのは、養鶏のモミガラ給餌での大失態例・「二つの事実」の気づきからである。
ある時エサ代を安く上げようとモミガラなど単価の安い粗飼料を軽率にも一度に多く給餌してみたのだ。
確かにこんな栄養もなく消化しにくい硝子繊維の固まりが餌になるとはとても思えない。事実食べ残しの餌を捨てる餌箱掃除で忙しくなり、しかも下痢便の鶏が続出したりで皆の顰蹙(ひんしゅく)をかって打ちのめされた。
ところが反面またウイスキーを製造する際の液体粕とモミガラを組み合わせて給与してやると、なぜか鶏が喜んで食べつくす事実もあった。

モミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。このモミガラを食べさすという小さな一事に、二つの事実がある? それって、どういうこと? とても不思議なことに思えた。人生上超難問題に取り憑かれた気分が続いた。
そうかぁ、モミガラがダメじゃないんだ。モミガラを食べ残すようにするには、食べ残すようなやり方をこの自分がやっているからだ。食べ残さないという事実は、食べ残さないようにするからだ。

ひょっとしたら分からないまでも、本当に真なるものの見える立場からの観方があるのではないだろうか。
そういう現状肯定でなしにそうなる元まで掘り下げられる人というか観方に立つことだ、といった発見にも似た驚きが今も続いている。

例えば、対立とか警察とか戦争とか病気など本当の世界にはあり得ないものが現象に出てくるという事実は、そういう現象が発せられる元(底)が未だ究められないでいい加減だからではなかろうか。
本当の現象は、そうなる元(底)から正常・健康な姿ではなかろうか。
瓜と茄子は、仮の現象と本当の現象として分けられる本筋的に全く次元の異なる世界の現れなのだ。
現象に出てくる前の、そうなる元(底)をそのままにしておいて、いくら現象を調えても砂上の楼閣なのだ。

PageTop

わが一体の家族考(47)

「自個」即社会観への道のり

ずっと長い間、「人と人によって生れ」た自分が「人と人との繋がり」の世界へ相渉っていくことに異和感を覚えていた。怖かった。
そこを逃げないで立ち向かっていくには、何かとてつもなく大きな割り切りを迫られているようにも感じてきた。内と外はどうやったら親和的に結びつくのか、と。切実だった。

例えば今のようにスマホのような連絡方法がなかった学生時代、電話で在宅の有無を確認しないまま電車を乗り継ぎ友人の下宿先を訪ね、不在のためそのまま帰ったことが幾度もあった。電話が怖かったのだ? 笑い話のようだが、電話で自分の意志が相手に伝わるとはとても思えなかったのだ。〝ほとんどビョーキ〟な日々だった。

「人と人によって生れ」の自分で「人と人との繋がり」へと気楽に相渉(わた)ろうとすると手ひどく傷ついた思いに囚われていたから、「人と人との繋がり」の世界は見ず知らずの赤の他人同士のように冷たく感じられて、どうしても身構える心持にならざるを得なかったからだ。
そこで必至になって編み出した理屈は、「人と人によって生れ」た自分と「人と人との繋がり」での自分を分けてみることだった。
それは本来の自分と仮の自分という分け方だった。確かにそうしてみることで、それなりの安堵感を得ることができた。しかしそうした分け方は必然「人と人との繋がり」を避けがちな自分勝手な思いつきにすぎなかった。ちっとも楽しくはなかったからだ。それが大人になるということなんだろうか。

やりたいのは、先の〝母子系図〟の繋がりに見られた親と子の間を繋いでいるいわば親愛の情感そのまま親から離れて脱皮し、
蝉の脱皮

「個」体としての「自」分=「自個」=「人と人との繋がり」によって「自己を次代に継ぎ、永遠に生きる」ことだ!

ということは、「人と人によって生れ」の自分と「人と人との繋がり」での自分が対立的に矛盾するように感じられる分け方では、どこか無理があるというか尻すぼみに終わるにちがいない。
今の社会実態と本来と呼べる実態を混線・混同しないで分けて考えてみるには、今一つ決め手を探しあぐねていた。

PageTop

「と」に立つ実践哲叢(20)

自然界の歪みの良さ

最近の実顕地づくりのテーマに「先を見通し、実顕地の将来像を描く」がある。だとしたらその先が見えてくる描きの底辺となるものは何だろうかと思いをはせてみる。
ふだん研鑚会などで取り上げられるテーマは常に何か問題事が生じ、その問題をどう解決するかといったそこからの抜け道を見つけようとするような対応策にとどまる場合が多い。
当事者であるがゆえの自分らの置かれている立場からの利害・損得に走り、それはこうしたら良い、ああしたらといった狭い袋小路に入り込む意見のやりとりになっていく。
なかでも公意と私意、皆の考えと自分の考え、全体の意志と個人の意志との間で、提案する人と調正される人という相対関係や矛盾をどうしたら解消することができるかといった問題に日々迫られている感がする。
こうした当事者であるがゆえの先入観で変形された近視眼的な自分らであることを痛感し、そうした立場や問題から離れて物事を見ていく観方の難しさにぶつかる。

そしてふと気づく。相対関係や矛盾をどうしたら解消できるかといった考え方の中にこそ、間違いが潜んでいるのではないかと。あたかも金を儲けようという考え方からは、金の要る社会しか見えてこないように……。しかも問題は常に暗い否定的なイメージで問題化されがちだ。
まずは暗い人生観を転換せねばならない。このことは、すべてを放して考えてみるという次元の〈転換〉を意味している。「明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの」とする出発点に戻るべきだ。
かって詩人・谷川俊太郎は、第一詩集『二十億光年の孤独』でうたった。

「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」
「宇宙はひずんでいる/それ故みんなはもとめ合う」
アインシュタイン

アインシュタインによれば、万有引力とは時空の歪みのことだそうだ。宇宙がひずんでいるからこそ、みんなが切実に心の手を差し延べ合う衝動にかられるのだろうか?
つられて次のような一節が浮かんでくる。

「私の性格は、実はそうではないのですが、事に当たると数理的に走り、自然界の歪みの良さを容れないために、殺風景で味がありません」(山岸会養鶏法)

そうか!「自然界の歪みの良さを容れる」って、当事者であるがゆえの様々な相対関係や矛盾を「歪みの良さ」へと転じるというか包み溶かし込んでしまうことなのだ?

心は宇宙自然の歪みから齎される! 歪んでいるからこそ、不調和状態の中で調和状態を保とうとする働きが生まれて世界を潤いで満たす。しかしその調和を満たした時、必然また矛盾が生まれ、次の調和を目指す。
そんな自然と人為の調和をはかるという生き方で、問題(=矛盾)がないのではなく、次々問題を問題と見做さない汲めども尽きぬ味わい潤いで溶かし込んでしまおう。
 

PageTop