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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(71)

真に〝分かり合う〟の源泉

さき(わが一体の家族考66)でフーコー最後の講義の一節にふれたが、講義では〝しかしもう遅いので〟として取り上げられずに終わった草稿の最後は、次のように記されている。

“最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は、他界および別の生の形式においてしかありえないのだ。”

すごく難解なことが云われているように感じる。なかでも〝真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ〟という一節などチンプンカンプン。
そもそも〝他性〟って何なんだ?

たぶんフーコーが〝他性の本質的な措定〟という表現で言いたかったのは、真なるものが現象化されるとは現実世界(既成)の常識価値観、例えば強者の論理・力の論理・支配者の論理等を肯定・固定してその枠内で幾ら改良を重ねても絶対到達し得ない質のものであり、本物を本当に乗せておく〝他性の本質的な措定〟なるものからしか真実は姿を顕さないという本筋的な異いについてのことだったのではないか?
ここを何とか自分らの文脈で解読していきたいのだ。

1959(昭和34)年七月、〝Xマン〟〝Z革命〟などの新流行語と共に一躍全国的に名をとどろかした「山岸会事件」で全国指名手配されていた山岸巳代蔵は、翌年四月逮捕という形で三重県の上野署へ自意出頭した。
そこでの上野留置場での看守とのやりとりの逸話が残されている。

“山岸 寝床が敷いてないから寝れない。
 看守 自分の床ぐらい自分で敷け。
 山岸 そうかね、そうかね、自分のことは皆自分でするのかね。
 看守 そらそうだ、自分のことぐらい自分でしたらよい。
 山岸 そうかね、それじゃ君のそのメガネは自分で作ったかね。
 看守 そら眼鏡屋が作ったに決まっているじゃないですか。
 山岸 君は何でも自分のことは自分で出来ると言ったじゃないか。
等々で看守がカンカンになったという。”

かのディオゲネスの再来といったところか。つい思わずふき出したくなるが、本人はいたって何時如何なる場においても真面目なのだ。
それにしても山岸巳代蔵と看守とのかみ合わない〝やりとり〟はじつに興味深い。
これこそ、何も甘やかされて付け上がっているものではなく、かのキュニコス主義的生を特徴づけるずけずけと包み隠さず勇気をもって〈真なることを語ること〉の実践にも似て、ある意味スキャンダラスなやり方で他の人の生き方や周囲社会を明るみに出して反転させていく逆説的な実践であり、まさに〝私が変われば世界が変わる〟目に見える振る舞いであったのではなかろうか。
そしてそこから始まる次のような山岸巳代蔵の発言が思い浮かぶ。

“真に分かり合うには、夜を徹して語り合うことである。万象眠る。ただ二人のみ、その中に覚めて語る。真に分からぬということはない。”
万象

万象眠る夜の沈黙の中で、私とあなたとの語り合いのうちにお互いの主張や考えを強行し合う誤解の急所が次々とほぐれ、談笑のうちに溶けていくものがあるというのだ。
ただ二人のみ共に向かい合い、それぞれの眼に相手が映るのみだ。あなたの目に映っている私、私の目に映っているあなた。そこに〝他性〟になることで〝他性〟の心になることではじめて〝一つ〟なるものが浮かび上がってくるとでもいうのだろうか?
こうした〝分かり合う〟とか〝一致〟とかの源泉について思いめぐらしていくと、

自分が生きているとは相手があるからで、相手は自分の中にある。自分だけでは自分はあり得ない。自分が生きているのはみんながあるという事実に思い至る。

そうした自分以外の他の個との関わり、結び付きの成り立ちを、男女とか夫婦として現れる「性」を基盤とする恋愛結婚観から訪ねてみようというのだ。「性」の琴線に触れてみようというのだ。そこからしか展開されない世界を指して〝理想社会〟と名づけているのだ?!
理想社会への道程は、「性」を基盤とする恋愛結婚観を抜きにしては語れないし成就しないという後先の話についてだ。
もちろんそのことの気づきは、自分にとっても青天の霹靂だった。

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