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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(91)

普段着が実はハレ着!?

先のI君の発言に〝ヤマギシは非常識〟云々の文言があった。そうなのだ、自分らには常識はずれが現実を変えていく原動力になるといった予感めいた観念習性がしっかり賦植されているらしいのだ。
なかでも年に一度の1980年代中頃からの一般社会に向けてヤマギシを表現する〝ヤマギシズム春まつり〟の企画・実施を十年以上やってみて身にしみて知らされたような気がする。
タダのまつり

課せられたテーマを羅列してみよう。
○テーマ 散財―放してこそ豊か 大衆から得たものは大衆へ還す
○金の要らない村まつり
○放す場へ財を散らす
○全部放した純粋な心境でまつりを用意する
○〝実に華やかなお伽の国のような、しかも真実の世界があり……〟
10万人にも及ぶ不特定多数の人達の自由意志を尊重しながら、何ら制限を加えずして受ける側の仕組みや対応で人々は如何に反応するか、変化するのか。
割り切りも研鑽会もなくして瞬時にその人の中にある本質的なものが引き出されて、先陣争いや物の争奪もなしに〝みんなで持ち寄ってみんなで贈り合う〟一日を楽しむことができる、この仕掛けやあり様等など。まさに世紀の大実験であった。
〝タダ〟とか〝放す〟とか〝持たない〟といった理念を地で行って合わさっていく過程を目の当たりにする実践機会でもあった。

それにしても始めに与えられたテーマ「〝散財―放してこそ豊か〟大衆から得たものは大衆へ還す」との摩訶不思議なフレーズが今でも忘れられない。
単純に考えて、散財して放したら、後は何も残らず貧しいだけではないのか?
どう考えても、腑に落ちなかった。何で放したら豊かなのだろうかと。
その頃出会った書が、『呪われた部分―普遍経済学の試み』(ジョルジュ・バタイユ)だ。まるで自分らのまつりの一日を綜合哲学的にうまく言い当ててくれているようにも感じられた。曰く、

○生命体は、原則としてその生命の維持に要する以上のエネルギーを太陽から受け取る。
そして過剰エネルギー(富)は一つの組織(例えば一個の有機体)の成長に利用されるが、剰余の部分は好むと好まざるとに関わらず〝消費(蕩尽)〟せねばならない。
○そうした剰余の部分の活かし方は歴史的には古代の祭礼のなかでの生け贄としての〝人身御供〟に見出した。また有用性を持たぬ見事な公共建物を建立した社会もある。ラマ教では生産に従事しない僧侶を増やす政策を実施した。
しかしそれでも充分と言えず、いつの時代にも多数の人間と大量の有用資材を戦争という破壊行為に投じてきた。
○エネルギーは常に過剰な状態にあるのに欠乏が問題になるのは、人間の精神が他の人間達と分け前を奪い合う分立的存在であり、一度も全般的に考察されたためしがないからである。
○かくして、もしも心得ておれば思い通りに操作できるかもしれないものに、われわれは無知なるが故に屈服させられるに至る。
○もしわれわれが余分なエネルギーを自分の手で破壊できなければ、それは活用されようがないからだ。

その頃また普段の研鑚会のなかで次のような一節などを皆で研鑽していた矢先だった。

“先ず自分を、先ず自国をかためてからの出発でなくて、先ず全世界人類全体のための立場から見ての、今日、唯今の行いにならねば、全部狂った結果になります。(『山岸会養鶏法』)”
“足下の稲で十石穫るよりも、広大な田で無限大的の収穫を増し、小さい養鶏よりも、最も大きな養鶏をしているつもりですが、その意味が解りますかね。
自分一人の仕合せよりも、世界中の人の幸福の方が大きいし、本当だと私共では真面目に眺めているのですが、こんなに決まり切ったことを云っているのに、なんと簡単な算数の出来ぬ棒槍頭もあるものですね。
大百姓の方が忙しく、大幸福の方が面白くて、土こねには向かぬヒョロヒョロからだで、狭い耕地を占用するよりも、身に合わぬ田畑は放して、最も安全な、誰にも盗られぬ、子孫永久に栄える、世界幸福株に乗り換えているのに、何が貧乏しているのでしょうか。(同上)”

だからか、例えばバタイユの発言

“もしわれわれが余分なエネルギーを自分の手で破壊できなければ、それは活用されようがないからだ”

という一節での〝破壊〟とは自分らのいう〝放す〟実践のことではないのかとイメージされてきて、普段着の暮らしが実は〝金の要らない村まつり〟そのもののハレ着だったのだとシラけることなく結びつくのが愉快だった。

ところが本書『呪われた部分―普遍経済学の試み』は三部作の第一巻で、第二巻は『エロティシズムの歴史』だという。
いったい〝放してこそ豊か〟と〝エロティシズム〟はどう結びつくのか? 
狐につままれたような気分がした。あたかもかつてのヤマギシズムの〝百万羽養鶏構想〟と〝愛情研鑚会〟との結びつきに、周囲ではその荒唐無稽さで物議をかもしだしたように……。

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「と」に立つ実践哲叢(29)

 〝共に〟を地で行く

先回「では〝虚構〟に代わる〝信じない〟でやる生き方は可能だろうか? 時の最先端〝金の要らない仲良い楽しい〟の真価が問われる」と記した。
でもいったい〝信じない〟でやる生き方ってどんなこと何だろう? ただ口先だけの言葉ではなかろうかとだんだん心許なく感じてくる。きっとその先の描きが足りないからだ。
かつてない現実を創るビジョンが切に求められている。それには〝信じない〟でやる我執のない自分を発見して、〝金の要らない仲良い楽しい〟をそのまま現していくことだ。そんな内実が問われているのだと。 

確か1970年代の始め頃、本紙『けんさん』の発行費用の一部は、種鶏場で生産された種卵をヒヨコに孵化する各地の会員でもある孵卵場からの広告収入に負っていた。
その中の「トモニヒヨコ」という種鶏場さんの名前が今も強く印象に残っている。というのもずっと後で、あっ、トモニって山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の〝共に〟のことだったんだ!と今頃気づくうかつな自分にあきれ果てたことがあるからだ。
と同時に、自分の中に〝共に〟がストンと肚に落ちたような爽快感もあった。なぜか嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

日頃大勢で暮らす暮らしの中で、つい気の合う人、苦手な人といった人間関係面で気持が揺らぎがちだ。でも今日までやれてきた秘訣は何だろうかと想いを馳せると、個々人の取り組みもさることながら、「それは共にやってきたから」としか応えようがない感慨に打たれずにはいられない。
そうなのだ。山岸会の会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」の主体は、われにも、ひとにもなく、〝共に〟にあるのだ!? 

オーケストラの例えが分かりやすい。
オーケストラ

下手な指揮棒にも合わし、合奏しながら、全体を向上させていく上手な楽士が本当の楽士だ。めいめい思い思いだったら、その楽団はどうだろう? また一人の異端者が、ブカブカドンドンやってもどうだろう? またその曲調に最も堪能な人であっても、他の未熟な連中には付いていけないと独奏・独走したなればどうなるだろうか? 

主体は〝共に〟にある。〝共に〟の心にある! 一人ひとりの〝共に〟の自己が合わされてこの上ない感動を生み出すオーケストラの合奏が実現する。
この〝合わす〟という能動的な自己って、ひょっとしたら先の「〝信じない〟でやる我執のない自分」のことではないだろうか。
大発見だった。我執まみれの自分が、〝我執のない自分〟に出会えるなんてもうビックリ。それまでのばらばらに抽象的に散らかっていた言葉の概念が一つに繋がって生き生きとイメージされてくるのだった。

最近とみに盛んな実顕地間交流も、農繁期の労務調正を兼ねつつ〝至る処家在り、食有り、友、吾が子あり〟の世界を実現している。〝共に〟を地で行く楽しさを味わいつつ。

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わが一体の家族考(90)

永遠と現在についての問答

あの〝インドの少年〟は妹がバナナを食べている間、少年は法悦のような目つきで女の子を見つづけていた。そして終いの根元の部分を女の子の口に押し込むと、自分は皮だけを食べて、またあの容赦のない争奪戦の中へと走り込んでいく。
芥川龍之介の『蜜柑』の小娘も、三人の弟たちの何とも意味の分からない喚声のほとばしりと同時に窓から半身を乗り出し、手をつと伸ばして勢いよく左右に振ったかと思うと、暖かな日の色に染まっている蜜柑が五つ六つ弟たちの上へ空から降って来た。
そしてこれから奉公先へ赴こうとしている小娘はいつかもう席に戻り、大きな風呂敷包みを抱えた手にしっかりと三等切符を握っている。
ここには少年をウットリとさせ、小娘が思わず蜜柑を投げ出してしまう奇跡の〝時間〟と少年の容赦のない争奪戦や小娘のこれからの奉公先での不安や緊張感に満ちた〝時間〟が一続きの一つのものとしてあらわれている。永遠と現在が一つになっているのだ!?

そういえば自分らにも思いあたる節がある。
1976年頃から〝金の要らない村づくり〟への村外会員募集と銘打って「ヤマギシズム世界幸福株」なるものを発行してきた。
世界幸福株券

例えば「世界幸福株―卵券」の場合は、一口30数万円の無所有生活の代償として、一週間に1キロの卵を永久に届けようというもの。
今まで暮らしを安定させる方法を所有でやって来たが、今度は無所有(放す)ことで、つまり年々目減りする通貨を用いて絶対目減りしない現物生産と供給の循環の環に一口参画されませんかと、実顕地生産物の活用者グループに呼びかけたのであった。
当時国民一人当たりの貯金額は平均200万円ぐらいだったから、卵券、肉券、米券……と一枚づつ剥がして、全部放したら食べ物に関しては一切タダでいける!?
こんな方法で無所有の事実が如何に安定するかを実証できないだろうか。
〝金の要らない社会〟をこんな方法でつくっていけないものだろうか等など、皆で研鑽していくと本当に、
“日常茶飯事にも永遠に大きく生きんことを心するもの”
って、こんな感じかなあと実感されてきて興奮したことがある。

そうした鳴り物入りのその株券を、今度は自分らで数年前から回収の動きに回ったのである。
〝永久〟を謳い、確約しながら撤回するとは何ごとか! 自分らは大うそつきなんだろうかと、人にも自分にも大うそつきの自分に気付く行事が各人の心の中でとり行われたことであった。
ある日の研鑚会での、そんな幸福株回収をめぐるやりとりで感じたことを若いI君が忌憚なく書きとめてくれている。貴重な研鑽資料だ。

“幸福株を額面通りに買い取る「回収」の動きを昨年からやっていて、それについて思っていることを研鑽会で出した。
なぜ出したのか思いだせなかったが、今書いていて思い出した。
Aさんが、豊里ファームのことで、「今は倉庫登録でやっていたり、駐車場も砂利の所が多く、安全面で不安があったり、老人がカートを押すのは無理があったりする。でも社会の中でやっていくという面でも、舗装した方がいいんじゃないか。自分達が楽しくファームをやれてればいいというのだけではまずいんじゃないか」などと出していた。
言っていることはよくわかるし、しごくまっとうな意見だと思った。
お客が増え売り上げが増え、地域的な影響力が増していくと、それだけ責任も大きくなる。常識的にはそんな感じだよなと思う。
前は、僕もそう思っていた。むしろヤマギシの非常識な感じは嫌いだった。
でも、Aさんの話を聞いていて、さて自分はどうなんだろうと考えた時に、幸福株回収をやっていてのことが浮かんできた。

幸福株という考え方自体が非常識で、さらに株券に「永久に届ける」と謳っているにもかかわらず30数年で「返してください」と迫る非常識。
回収に行くと、おだやかに返してくれる人もいるけど、
「あなたは常識を知らないだろうから教えてあげるけど、こういうことは社会では通用しないのよ」と言ってくる人もいる。
まあそうなんだよなと思う。常識的にいくと、約束を反故にするわけだから、ヤマギシはペナルティを払う(しばらくタダで届ける、もしくは額面より割増して買い取るなど)のが当然らしい。
そういうのをまじめにやっていくと、お互い面白くもない終わりかたになる。
実は、相手も、本心はそういうの望んでないんじゃないか?
「いやいや、約束破りなんですけど、でも返してほしいんです。非常識ですいません、でもヤマギシなんで」
くらいの返しを、相手も待ってたりして?!…という冗談が通じる人は少ないかもしれないけど、色々話してると最後は円満に終わることが多い。
「すいません、ヤマギシなんで」
無責任極まりないけど、最近の実顕地の動きなんてそんなことの連続のような気がする。
そしてその方が、人の心が動いていく気がする。

正直、幸福株に「永久」なんで書かんでほしかったとは思うけど、しょうがないか、その時はそう思っちゃったんだよな、勢いもあったんやろーし…とも思う。
自分が今やってるファームや、内部川に養豚をということだって、あとあと誰が何を思うか、誰にどんな迷惑かけるか分からない。
でも今は、それを進めることで一つの運営が進むことを大事にする、そんな感じなのかなー。後のことがどうでもいい、ということではないけど。
今そこを進めることが、後にもつながっていく、と思っている。

「幸福株を回収した人のリストを作って、年に一回か二回かでもささやかな贈り物をしたらいいんじゃないか」という意見が出され、
「それは自分もやりたい」「そういうのやりたいのよね!」といった発言が相次いだことにちょっと驚いた。
やめてほしい。と思った。それも出した。
そういう気持ちを形であらわす、というのはいいと思うし、各自の気持ちでやれる範囲で何かやるのはいいと思う。
でも、そういうのは結構仕組みになりやすくて、リストが出来て「何月ころに、毎年この人達に何かを送る」という「作業」が出来上がる。
最初に始めた人は心をこめてやるかもしれないけど、その人が何かあってその作業が出来なくなったとき誰かに「引き継ぎ」して、それがだんだんルーチン化されて、やめられなくなる。
引き継がれた方は、まじめにやろうとするから。
そうして、形だけのものが残り、その相手が死ぬか、またどこかでやめる話を誰かがしに行かなきゃいけなくなる。やめてほしい。
贈りたいという気持ちはわかるので、そういう人には、心のある人が、心の続く内は手紙書くとかくらいでいいのでは。

佐川さんが「永久ってのは、一瞬でも永久、30年でも永久ってことじゃないの」と出した時、たぶん研鑽会参加者の多くの人が「??それ、株券の文章にしたらアカンやつじゃないの?!」と思ったんじゃないだろうか。
それはその人の生き方として、その人が心に秘めておけばいいことで、契約の文章にしてしまったら誤解を生むし、まずいやろーと思った。
今も、それは思うけど、そのまずいヤツを実際にやってしまったヤマギシがあって、でもまあやっぱヤマギシやからなあ…という感じにも思う。
まずいヤツやらんヤマギシやったら、ファームも始まらなかったかもしれないし、供給所もずるずる続いているかもしれない。

色々書いたけど、やっぱり幸福株の「永久」は書かないでほしかったと思うし、回収はそんなに楽しい仕事ではないけど、自分が身を置いている「ヤマギシ」について色々考える面白い機会になったと思う”

ホントI君の言うとおり、日々いろいろ考えさせられる機会が多い。そこが面白いところか……。
ヤマギシではあちこちで〝永久〟なる言葉が出没する。
曰く「夫婦に限らず、どこの誰ともまず人間と人間との間に、約束の要らない、永久に動かない変わらない一体の実態が本当のものではなかろうか」
曰く「不況とは何ぞ 原子力時代を迎え 新旧養鶏の大転換期!! 永久に責任を持つ養鶏書」等など。
まるであのキリシタン狩り(江戸時代初期)の〝踏み絵〟のように日々試されているのだろうか。

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わが一体の家族考(89)

〝心のため〟をつくることで

もう20年近くなるだろうか、「みんなの為め、全体の為め、これらは本当は自分勝手の利己心に過ぎないのではないか?」といった疑心暗鬼にかられた時期があった。
というのも、口に〝われ、ひとと共に繁栄せん〟と言いつつも、どこかで嘘っぽい自分を意識してしまうからだ。心がシラけるのだ。
弱い馬は平坦道路ではついてくるが、難所になると馬脚をあらわすという。そんな弱い自分にビクビクしながら、そこからの相互不信に陥っていた。
本当に人のためでない〝自分〟がよくなるためからすべてのことが出発する生き方や社会像は不可能なのだろうか?
そんな折きまってフト思い浮かんでくる光景があった。そしてなぜかそこからもたらされるものに癒やされている自分がいた。
幸いにも思いがけずその時のことを振り返った手記(『ある愛の詩』)が残っている。よほど深く心に刻まれた光景であったのだろう。

“朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも非難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。休憩時のおやつ作りの時もそうだ。どうしてあんなに素早く用意できるのか、ぼくたち若い飼育係にとっては毎日驚異のマトであった。自分が作って自分で食べるよりも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べるのを眺めているさまが、その場での奥さんにとっては最も似つかわしかった。山岸会とはアナキズムの流れを汲むものではないか、などと当時つまらぬことばかり考え、そうした複合観念に悩まされていたぼくの心に、Yさん夫妻のそうした笑顔や立居振舞はものすごく新鮮なものとして飛び込んできた。(1977年1月)”

この光景を契機に自分の考え方が一変していくのだった。
そうした、追いつめられ切羽詰まって、もうダメかもしれないと弱気な気分になりかけた時、きまってなじみの原風景の中へと引きこもっている自分がいた。自分は現実から逃げているのだろうか?
しかしそんな世界にひたっては癒やされ、温かくなり、元気が出たのも事実なのだ。
そうだ! ここから始めて、それをずっと掘り進めていけばひょっとしたら空念仏に終わらない〝ヤマギシズム〟なるものに出会えるかもしれない!? そんな虫のいい思いつきから俄然やる気が湧いてきた。
それではいったいあの一瞬の「ハッ」と心に響く情動のようなものは何なのだろうか? しかもその正体は……と想いを馳せるだけで油然と温かいものが湧いてくるものがある。
くり返しくり返しその情動に包まれていると、いつしか心底納得できるような自分なりのイメージが形成されてくるようなのだ! 
そこはいちばん自分にフィットして心安まる世界だ。この世界の感じを、その時その場だけの「感じ」に終わらせたくない思いがつのった。

ある時「溜(ため)」という言葉が浮かんだ。「腰のため」とか「バックスイングにためをつくる」とか……。
バックスイング

それが転じて「力をためる」とか「思いをためる」など前向きの精神状態にもイメージされてくるようなのだ。
ふと〝心のため〟をつくるという〝行為〟がとても魅力的で豊かなことに感じられてきた。
そんな自分なりの考えを後押ししてくれたのが、その頃一心不乱に読んだ『主体の解釈学』(ミシェル・フーコー)だ。例えば次のような一節から、〝心のため〟をつくるという〝行為〟が〝自己への配慮〟に繫がることなんだと勝手に思い込んでは勇気づけられた。 

“つまり、自己への配慮という教えは、それが私たちにとってはむしろ自己中心主義とか引きこもりを意味するものであるのに対して、かつては何世紀ものあいだ、極度に厳格な道徳の母胎となるような肯定的原則であったという逆説があるのです。”

そうした〝心のため〟をつくることの先に、〝インドの少年〟や〝産卵死する鮭〟の話や芥川龍之介の『蜜柑』の小娘の心の動きや立ち振る舞いがまるで自分のことのように生き生きと感じとられたのだ!
自分だけにしか通じないような〝情動〟が、大正時代の蜜柑の小娘の心にも遠く離れたインドの少年の心にも人間ではない〝産卵死する鮭〟の心にも流れている!? といった発見の驚きがあった。
時間も隔てや境や囲いもなしの、無いことばかりの世界に触れた瞬間だった。

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わが一体の家族考(88)

集団性の成り立つ根拠をどこに?

ここでいう〈性〉とは、恋愛・結婚を意味する夫婦の性(繋がり)や肉体的な〈性〉行為の世界に留まらず、広義にいった場合〝自己一人限り〟とか〝一人ででも立ち行けるものだ〟と他との関連を断ち切る考え方でなしにお互いを生かし合う繋がりの総体を意味する〝一体〟の世界にまで通底するはずのものだ。
たしか本稿「わが一体の家族考」を始めるキッカケになったのは、吉本隆明さんの次のような指摘からであった。
吉本隆明

“その「一体」というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を「一体」という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。
もし人間の性愛のなかに、色とか、味とか、匂いとかの比喩でいうべき問題があるとすれば、それが全部、無味・無臭・無色というふうになってしまうような気がするんです。ほんとにそうなることはたぶんありえないから、絶えず解体にさらされるか、または、もし男女の結びつきがひじょうに親密になってくれば、共同体から出ちゃうという衝動をいつでも感じざるをえないみたいな、なにかそういうところでいちばん矛盾にさらされるような気がするんです。(吉本隆明『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)”

実際に自分らはある時期、〝家族をやりたい〟と“共同体から出ちゃうという衝動”にかられる場面に遭遇したことがある。
しかしそれは果たして吉本さんが一貫して主張されてきた、「一体」理念で“男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまう”矛盾から来るものだろうか? 

果たしてそうだろうか? ホントにそうだろうか。キッカケは皮肉にもあの〝家族をやりたい〟と“共同体から出ちゃうという衝動”にかられる場面に遭遇したことにあった!? 絶望のドン底から途が開け始めたのだ!
むしろこの生身の〝人間性〟から発して、主体とした、基調の上に〝一体の家族〟像なるものは描けないものだろうか、と。
こうしたモチーフが本稿を書き継ぐ動機ともなっている。

一般的にも個と集団とは次元の違った別々の世界をつくる。集団としての組織化が進むと、運営する者とされる者との間には、どうしても埋めることの出来ない溝が必然生まれる。
だとしたら個と集団の矛盾や対立を解く糸口はどこにあるのだろうか? 集団性の成り立つ根拠をどこに見出すのか?
この問いは、自分にとっても一貫して変わらない自身に対する問いかけにもなっている。ある意味この場で生きる自分の存在理由とも繫がっている。

たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。
そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。
こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。

しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。
ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。
ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、
“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)
が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。

〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。

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