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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

 「と」に立つ実践哲叢(30)

みんなの心を受けて 

先頃二週間の研鑽学校Ⅲに参加された高橋タカ(80歳)さんの言動に、自分ら参加者は圧倒される思いだった。何人もの人が「自分もタカさんのような心境になってみたい」とも発言されていた。
まず参加の動機からして劇的だ。日頃旦那さんの介護をしていくうちに、研鑽学校に行きたい気持ちが湧いてきてそのまま素直に出してみた。でもいざ行くとなると、ご飯の世話、風呂入れ、泊まり役、デイサービスに行く準備、訪問リハビリの付き添い、と次から次に引き継ぐことが出てきて、途中で「やはり無理かもしれない」とあきらめかけた。
すると世話係の人から、「こういうことはこれからの実顕地のやりどころだよ。タカさん一人のことじゃないよ」と言ってくれて、その心が入ってきて、そこから行ってみようと気持ちがどんどん前向きに変わってきた。それからはいろんな人が部屋に「具体的にどうしたら良いか」と訪ねてきて〝美里「チーム高橋」〟が結成されたのだという。

無理だったら仕方ないなと止めることは簡単にできる中で、「一人のことじゃないよ」と声をかけ一緒に考えていく人が居る! その心を受けて、やってみようとする私が居る! しかもそんな仲良い姿を現す場が有る! これって凄いことではないのか?

日々の何気なく通りすぎ、どちらにでもなり得る状態の時にこそ、その都度どちらの方向に向かうかの分岐点に立たされている事態に気づかされる。日頃自分らは何に価値を置いて過ごしているのだろうかと。
そんなみんなの心を受けてのタカさんだからか、出されるテーマを体中で受けとめ、そこから湧き上がる〝うれしいばっかり〟での軽妙なやりとりが印象的だった。

後半アンデルセン童話『みにくいあひるの子』を研鑽した。タカさんの感想だ。
みにくいあひるの子

「あのみにくいあひるの子のずーっといじめられてきたにも関わらず、最後にはもうどんなにいじめられても本当に自分の心が素直に出せて、あの二羽の白鳥の所に行きたい、その心が通じたように二羽の白鳥が自分に寄って来てくれた。
その時その二羽に首を下げたその瞬間、下の氷に映った自分の姿が白鳥に映った。
まわりの子どもの声が聞こえる。『いちばんきれいな白鳥がいる』 うれしかった……パッと声を上げて飛び立った。
いまだにその姿が私の頭に残っている。私の心もうれしくて両手を上げて声になった」
そして旦那さんに対しても
「美里実顕地の一人ひとりの顔が浮かんでくる。父さんの顔も……淡々とみんなの心を受けて動いてくれたんだなー」と、体中でヤマギシの心を感じた気がすると語っていた。

みんなの心が自分の中に入ってくると、全てのことが自分のこととして観えてくる。すると自分の心からの行いがみんなの心に響いていく。ああなるほどこうして実顕地がつくられ人が育っていくのかとうなずけた。

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わが一体の家族考(95)

〝獣性より真の人間性へ〟

かつて山岸巳代蔵は宇宙天体の地球も太陽もどの星も、空間に点在するのみで、安置の場所もなく、固定した軌条もないのに、時間・距離をほとんど正しく自転・公転等を正しく律動している現象を見て、その不安定状態、少しも止まらない状態、それがそのまま〝安定〟やと〝不安定の安定〟やと実感として捉えた。
例えていえば普段の〝汽車に乗る時〟のようなものだともいう?
ある時たまたま風呂場で山岸巳代蔵と一緒になり、二人で湯船に浸かりながらの問答を藤川勘多さんが機関紙『ヤマギシズム』(1961.6.15発行)に書き記している。

藤川 先生この頃命がけという言葉が言われていますけど、命がけいうたらどんなことですやろ。
山岸 そうですね。そんなにハッキリ命がけというようなことは言えんけど、まあ汽車に乗るようなものでしょうね。
命を賭けたつもりでいるのに、案外賭けていない場合が多いね。命を賭けたと思わんでも命のかかっている時が多いね。”

たかが汽車に乗るぐらいで、そんな悲壮な思いして乗るのかと誤解されがちだが、そうではなくそれで一つの安定感に立って乗っている、危ないかもわからんと、そういう線でもう安定している事実をいっているのだろう。

そういえば山岸会の運動が発足していっとう始めに山岸巳代蔵が起草した一文の題名が「獣性より真の人間性へ」だった。
そこで〝物の必要限界〟について触れ、身体よりの物欲には限界があり、同じ物が必要以上にあり、自由に得られるなれば、空気や水に対する感じと変わらなくなるはずだと述べる。
ところが心よりの欲求による物量には、際限無きものがあり、征服欲・支配欲・優越感情・所有欲等に至っては、心の転換を見るまでは停止するものでなく、その多くは他を苦しめ自らを誤ることがあると断じている。
そして、誰でも何時でも必要なだけ、何程ほどでも常住不断に得られる物の偏在機構を正す仕組みの確立と共に、無智・無能・狭量・偏見・自己を知らない人間の馬鹿さ・蛮行を知って智恵ある人間の賢さに賭けようと力強く提案・主張している。

ここで奇しくもバタイユの取り組んだテーマ〝動物から人間への移りゆき〟と山岸巳代蔵が事の始めに掲げたテーマ〝獣性より真の人間性へ〟の重なりに驚かされる。
ただバタイユのいう〝動物〟とは本能に縛られる人間を意味するものだが、山岸巳代蔵のいう〝獣性〟とは動物の特性を指すのではなく、蛮行・愚行に通じる品を欠いた人間の一面をいうものだろう。そこからの旧い観念の殻を脱皮し、〝心の転換〟を蝉の脱皮の姿に托した。心の人間復帰を目指した。
セミの脱皮

“世界中みんな抜けたらよいのだ。蝉のように固い固い醜い殻を破って、みずみずしい羽根は生の喜びに輝くであろう。”(せみ丸1959.10.3)

先にバタイユの思想の真骨頂は〝動物から人間への移りゆき〟それ自体を弁証法的に捉えたところにあるとした。そして例えとして、動物は空腹であることと餌の探求は直に結びついているが、人間はそんな動物的な部分を嫌悪し否定しながらも一面絶えず引き寄せられる矛盾と対立に満ちた不安定状態に呪われている謂わば〝戦争なんかしたくないのに戦争へ突入していく〟存在として捉えた。
その辺り自分らは今一歩弁証法的に、〝無智・無能・狭量・偏見・自己を知らない人間の馬鹿さ・蛮行を知って智恵ある人間の賢さに賭けようと〟例えば
“食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある。”
といった研鑽テーマを掲げては、
〝食べなくともよいが食べる〟といった人間ならではの間隙の〝部分〟にもっと着目して、いってみれば〝不安定状態〟を活かすというか、調和をはかるという知的な「研鑽」を如何にしてそこから産み出せるのだろうかと日々取り組み中のところだ。

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わが一体の家族考(94)

〝動物から人間への移りゆき〟

バタイユの思想の真骨頂は〝動物から人間への移りゆき〟それ自体を弁証法的に捉えたところにある。どういうこと?
ジョルジュ・バタイユ

例えば動物には、空腹であることと餌の探求とのあいだに差がない。ところが人間には例えば〝武士は食わねど高楊枝〟といったやせ我慢?や武士たるものは貧しくても気位は高くしているといった〝武士道〟が生まれる隙間がある。
〝腹が減った〟と〝食べたい〟とする欲望が直接結びつかない間隙の〝部分〟が人間にはあるのだ!
これ(〝部分〟)って何だろうと生涯をそれの探求に費やしたのがバタイユの思想だ。

自然の子である人間は、自然を離れて生きることはできず、自然に背いて栄えることもできない。その通り!
それにもかかわらず〝動物から人間への移りゆき〟の過程で発生する人間と動物を区別するこの狂おしく激しく密かに引きよせる力、誘惑する〝部分〟はいったい何なんだ?
なかでも動物の本能的な性活動からエロティシズムへの移行へとエロティックな欲望を伴う質変化の正体は……。
そうした人間の本質的な矛盾が現れる謎のいわば〝呪われた部分〟の深みへと下りていくと、そこには美と醜、神聖な恍惚と極度の恐怖、死とエロティシズムとの結びつき等などあらゆる対立する要素がまばゆいばかりに露わにされてきて、しかもそうした矛盾する二つの動きが一つのものとして立ち現れてくるのだ。
そのことはまたエロティシズムの解明にとどまらない。
一方的に太陽からのエネルギーを受けるばかりの人間社会は、どうしてもエネルギーの余剰を過剰生産や戦争によってしか始末できないでいる。それは人間社会にとっては、〝呪われた部分〟として今もあり続ける。
だとしたら過剰なものをどうしたら平和的に無くすことができるだろうか? しかしまだ

“わたしたちは、太陽がエネルギーを獲得することなく、エネルギーを放出し続ける条件を理解していない。”

そうなのだ! こうした人間自身が解くべき謎のような問いかけを前に、バタイユにおとらず自分らも心を掴まれ、心高まる個所だ。
また断章『呪われた部分あるいは有用性の限界』の中で次のように書きとめる。

“いまやわたしたちは孤立した存在の群れであり、乾ききった埃である。人間を動かしている生の深さを知らず、みずからを知らず、宇宙にあるすべてのものが、すばらしい壮麗さをそなえていることを知らない。(略)
わたしたちは壊れた世界を結び直したいと思うが、そのための紐がない。”

そんな紐に象徴されるようなものが〝放してこそ豊か〟や〝エロティシズム〟の本質を通して、〝自己裂開的〟に自分らの心をうっとりと〝喜びに満ちた忘我の境地〟として立ち現れるのではなかろうか!
所有とか囲うとか獲得するというよりも、放すとか無益な消尽とか無償(タダ)の実動行為によって立ち現れるものがあるというのだ。
きっとバタイユはそこに合目的な真面目な労働とは対照的な〝遊び〟の世界を見ているのだ。 

“「ひとりの人間の、他のひとりの人間への愛」が、無限に終わることなく関係する欲望として反復される”
そんな
“快楽から快楽へと、歓喜から歓喜へと進んでいくためだけなのである。彼らの共同体は消尽の共同体なのであって、獲得の共同体である国家とは正反対なのである。”

という〝愛人たちの消尽の共同体〟を見ているのだ。

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わが一体の家族考(93)

エロティシズムの魅惑力

テーマは、〝放してこそ豊か〟と〝エロティシズム〟との結びつきであった。
バタイユは考察する。エロティシズムもまた比類のない豊かさをもつ諸反応の総体であると。なぜなら、動物たちの性的な戯れに類似したような性活動の中にはなんらエロティックな要素はない。あのエロティシズムの激しい感情・観念は存在しない。
というのもエロティシズムは、「動物から人間への移りゆき」の〝運動〟それ自体の中から湧いてくるものだからだ。

人間とは、自然を否定する動物である。身近な女を断念するという〝近親婚の禁止〟もそれである。性と排泄物への嫌悪もそうだ。消しがたい恥の感情……。
動物性を離脱しつつある人間は、動物的・本能的な生殖活動に象徴される性的事象全体に怖れや嫌悪を抱き、しかも怖れや嫌悪を抱きながらも、結局は動物性を離脱できないという事実に直面してしまうところに激烈な矛盾と対立に充ちた人間性を見てしまうのだ。
自然を否定し自然から離れようとしても結局は自然の一部であるという事実に回帰せざるを得ない人間性。
だとしたら、エロティシズムが与える、あの〝喜びに満ちた忘我の境地〟は、動物本能的な性の欲望から、人間性の深奥に向かってどこまで離れることができているのだろうか? これが生涯を賭けたバタイユのモチーフだ。

そうしたエロティシズムがもたらす〈私〉と〈あなた〉は、何れが主体でもなく、対象でもなくなる次元においてのみ出会い、溶け合い、関係する。それは人間の生そのものと宇宙の存在が結びつく瞬間である。なぜなら欲望の対象は宇宙であるからだ。
エロティシズムの恍惚は、〈私〉と〈あなた〉との関係は、宇宙の存在に結びつく瞬間にある!? そんな大げさな!

以前所用で神戸に出かけた折、その頃開館したばかりの小磯記念美術館に立ち寄ったことがある。
そこで画家・小磯良平の描く〝二人裸婦〟等に見られる丸味やボリューム感あふれる裸婦像に、ふくよかな母のイメージへの憧れのような思いが呼び起こされた記憶がある。
その後「イエスの方舟」の千石剛賢さんが著書『隠されていた聖書』の中で同じ小磯良平の〝横向裸婦〟に、
横向裸婦・小磯良平

美の極致としての女性の本質というか造形美を見たという。それも裸婦のかがみこんだ下腹に、嫌悪すべき排泄物と同居していのちが受胎する〈性〉が位置づけられている、まさにその醜と美の絶妙な位置づけに神のはかり知れない叡智を見る思いがするといわれていた。
なるほどなぁと感心した覚えがある。

しかしここでのバタイユはそんな〝ふくよかな母のイメージ〟とか〝神のはかり知れない叡智〟といった静止的な理解では、動いている事実の内包する溢れる豊かさの中に入っていけない甘ちょろい観方にすぎないと言いたげである。そこが全ての間違いの元凶なんだと断じてやまないふうなのだ。

バタイユは、エロティシズムの魅惑力は人間の性における動物性に抱く一貫した嫌悪(怖れ)が逆説的に〝禁止の侵犯〟として働くところから発しているのだと言いたいのだ。
そこから愛人たちの性的な熱狂の瞬間には、著しい量の生命エネルギーを無際限に、なんらの利益なしに消失する。その最も強烈な昂まりの瞬間は「小さな死」と呼ばれるほどである。〈私〉と〈あなた〉の愛の世界は、〝欲望の対象は宇宙である〟と断言したいほど宇宙の広大無辺さを前にして、切り離された脆い個人を超えて肯定し繋がり包み込んでくれる唯一頼れる真理顕現の場なのだ、と。

“美しい女の裸体が垣間見させる猥褻は欲望をそそる。それは(……)彼女の動物性の与える不快感が、美によって許容可能で魅惑的なものにされる嫌悪の限界を超えないかぎりにおいてである。(『エロティシズムの歴史』)”

あの西欧特有の禁欲的なキリスト教道徳や私的な母と子の関係の呪縛から逃れたいこだわりの難解さを脇に置けば、何となく〝放してこそ豊か〟とか〝エロティシズム〟とかが体験的・実感的に自分らにも重なってくるところがじつに興味深いところだ。

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わが一体の家族考(92)

コペルニクス的転回を実現

それにしても例えば先の、

“先ず自分を、先ず自国をかためてからの出発でなくて、先ず全世界人類全体のための立場から見ての、今日、唯今の行いにならねば、全部狂った結果になります。”

という文言など、すでに往昔から言い古された陳腐な言葉でもあり、とりたてて問題にするほどの事ではないようにも感じる。
ところがその昔ある研鑚会で、次のような一節を研鑽していた時だった。

“かように優れた雛が生産されるのも、原種改良と、種卵養鶏会員・孵化会員及び多数実用養鶏会員間の緊密な連繋によったもので、相手方を栄えさして全体が栄え、自分も栄える一体機構が養鶏面にも具現され、親愛協力社会のモデルケースと云えましょう。”

誰かが、思わず
「何だ!? 自分が栄えるのは一番最後になっている!」
と発言して皆で大笑いしたことが蘇る。
と同時に何か新しい世界を垣間見た発見の歓びのような気持の高ぶりが押さえられなかった。
そうなのだ。〝先ず自分を、先ず自国をかためてからの出発〟と〝先ず全世界人類全体のための立場〟との異いは、人間の倫理・道徳価値観の異いからではないのだ!

バタイユは〝宇宙エネルギーの流通の表れ〟の観点から人間社会のあるべき姿を描こうとしているのだ。
宇宙エネルギー

つまり生命=生きる力のもとは太陽エネルギーにあり、即ち人間の富の源泉と本質は日光のなかで与えられてあるものだという。しかもその生命の維持に要する以上のエネルギーを受け取る。
それゆえ問われるのは絶えず
“存続するエネルギーの沸騰をどう始末すればよいのか?”
という〝普遍的観点〟からのテーマのみである。

ではなぜ人は、欠乏感や不安から他の人と資源の奪い合いに終始するのだろうか。多くあるが故に守らんと戦争に駆り立てられるのだろうか。それは〝個人的、個的観点〟から出発しているからだという。孤立的存在に閉じこもっているからだ。
そんな〝個人的、個的観点〟から〝普遍的観点〟のそれへ移行することは、まさしくコペルニクス的転回を実現するに等しい。すなわち思考の―そして倫理の裏返しを実現することだとバタイユはいう。それは人間の生そのものと宇宙の存在が結びつかなければ実現されない! 
確かにこの真理は、あまりにも逆説的であり、突拍子もない事実を人間のあり方に突きつけているかのようだ。

こういうことだ。
人はみなそれぞれ個性なり、我なりがあるのが当然で、これを個人とか、自己・我・私などと呼んでいる。その個人個人が自分を護って最も上手に生きようとして、自我を立て、護ることは理の当然だ。
人はみな自分が都合よく生きられるようにと考えて実行することが肝腎だ。
ところが、あまりにも自分を護りすぎて、他との連携の大切さを忘れがちになる。
自分だけでは都合よく生きられない事実!
異性なしでは都合よく生きられそうもない事実!
この辺が逆の考え方で……。
その辺りをバタイユは、〝思考の―そして倫理の裏返しを実現するコペルニクス的転回〟といい、自分らの〝世はまさに逆手なり〟と自分の考え方で自分を束縛している自分の頑固に気付いて、「先ず実行」とそうした観念から脱け出す〝出発点〟に立つことを必要とする所以のところであろうか。

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