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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

我が一体の家族考(100)

自由問答と結婚観のZ革命

ある日の研鑚会のテーマは、〝自由について〟だった。
研鑚会は、「ヤマギシには自由がなく窮屈だとよく言われる」から始まった。
自由と言えば、何でも自分の思う通りになると言われているから、みんなで〝一体生活〟をやろうとすると、遠慮が出てきたり、食事の好みが違うのに同じものを食べなければならない不自由を感じるのだろう。
一般でいう自由は、物を買うとしたら自分の好きなもの、遊びに行くにも自分の好きな所へ、自分で決めていく。仕事に於ても自分の気の済むままを言う。
そんな自分の考えだけでやる行動を自由と言う。自分の意志通りに行動出来れば不自由と言わない、出来ない場合に言う。
だとしたら万国共通の自由は次のように定義できるだろうか。

“個人の意志、考えを曲げないで、行動出来る状態をいう”

誰でも曲げられるのは困る。ここから意志や考えが人によって違うという事が、そこで問題になってくる。
こういう事はしてはいけない事だと入っていると、出来ない事は不自由に感じない。そして当たり前と思っている事が出来ない場合、不自由だと感じる。
だとしたら、自由、不自由は考え方による。そう考えていいようだ。

本当は不自由な事でも観念によって不自由と感じないし、本当の自由であっても観念によって自由と感じないこともある。
本当の自由が問われてくる?

つまり本当の自由はある訳だから、不自由と感じた時は、現象(環境)によるものか、自分の感じ方(観念)によるものか、と調べていけないものだろうか。
不自由を感じたが、それで良いとするのではない。
自分の考えでやっていこうとする人は、自分の考えでやっていく事が自由である。
みんなの考えでやっていこうとする人は、みんなの考えでやっていく事が自由。
思い方によって、その思っている通りにやっていいはず。
ところが実顕地では、自分の考えでやっていこうとすると不自由、窮屈感が出る。そういう場合だから変えるのではなく、どちらの観念が本当かによる。

本当の自由になろうとする人が本当の意志、考えを持って……から始まる一体社会における本当の自由は〝公意行〟の中にある。
繋がりの中で生きている部分的な自分は、一人では進めない。
そこからみんなの考え方でやっていこうとする〝個人の自由意志〟を基本にした自由の定義が見出されるはずだ。個人の自由意志を決してさまたげない。みんなの考えでやっていこうとする中においての思い通り。

普通一般の人はそこを調整するのが不自由だと感じるのではなかろうか。
調整されるという考え方が不自由。自分の考えを持ったままでは、そうしなければならないとしているから苦しい。まあ、どっちにしても結局は自分の思い通りにやったらいい訳で、みんなの考えでやっていこうとする思いになってからでないと努力がいる。

そう言えばその昔、「ヤマギシの養鶏法は、理想社会の縮図になっている」と聞いて、何でこんな鶏がいるだけのことが理想社会の縮図に繫がるのか不思議でならなかった。
自由なる生活

例えば雛(ヒヨコ)が産まれた時、一般ではやらない水に浸けない堅いままの玄米の山の上に降ろしてやる。生まれながらにして富貴の相というか悠々せまらぬ物静かな相を備えさすのだという。
雛が生まれて五日目くらいからは、三間先まで一直線にとんで行ける広い場所で、思いのまま運動し、餌は競り合いなく、欲する時望むがままに得られ、喜々として個々の生活を営み得るよう、持っていく。大きな胃袋の雛が多く食べても、胃袋の小さい雛は決してそれを咎めないし、消化器の働きの鈍い雛が負けまいと無理に食べて胃腸障害を起したりしない。多く食う雛は卵を多く産んでそれを多く提供し、産卵の少ない鶏を責めない。
雛の中には早く寝て、真夜中に暗い、寒い所へ散歩かたがた水を呑みに行くものもいる。そして朝寝坊の雛は、朝仕事から帰ってくる雛の万年床を冷えないように体温で暖めておくのだ。
これが自由の世界だという? 雛の肉付き、顔色を見てやって下さい。不平の無い満足そうな顔を……と。
いったいここのどこが〝自由〟だというのだろうか?

またヤマギシ養鶏法の秘匿技術の一つに「産卵自由調整法」というのもある。例えば今週は卵の値が良いから沢山産んで欲しいと思ったら、鶏の方もどんどん産んでくれる。要するに人間の思い通りに鶏の方も合わせてくれる。
すべてが自分の思い通りになるということだ!? 
本当の自由というのは、こちらの思い通りになるように卵を産んでくれるということ。
ということは、鶏の思い通りに自分も動けるということ。鶏が暑くてかなわんなぁという時は、ちょっと涼しくしてやるとか、餌でもちょっと少なめにしてやるとか。そういうことが出来ないと鶏の健康を保てない。

そういう関連性というか繋がりにあるということ。こちらの一方的な都合だけの自由というのはニセの自由なのだと。
みんなの考え方で意志、考えを曲げないで行動出来る〝個人の自由意志〟から構成される自由なる世界に触れた思いがした。
本当の自由は、他との繋がりの中でしかあり得ない。
これこそ山岸巳代蔵が先ず結婚観のZ革命を、そして本当の結婚へと何をおいても急いだ理由であったにちがいない。

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わが一体の家族考(99)

出発に先だって

確か以前思想家・吉本隆明さん(1924-2012)は、次のようなヤマギシズム〈一体〉理念への疑念を抱かれていた。
吉本隆明さんの疑念

“その「一体」というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を「一体」という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。”(『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)

それ故、男女の結びつきが非常に親密になってくれば、共同体から出たくなる衝動をいつでも感じざるを得ないような矛盾に晒されるというのだ。
そうなのだ。一般社会通念や価値観等を引きずったまま実顕地で暮らそうとしたら、たちまち吉本さんが懸念される「矛盾にさらされる」こと必至である。〝家族をやりたい〟という切迫した願いに駆られたこといかばかりであったか……。
ヤマギシズム(一体)と現実との、相一致しない矛盾や対立や背反にずいぶんときりきり舞いをさせられた。そんな自分が情けなかった。
自分のどこに根本的な間違いがあったのか。こうした矛盾はどのようにしたら乗り越えられるのだろうか? 切実な問いだった。
そもそも〝男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうこと〟ってどういうことなのか?

確かにヤマギシズム〈一体〉理念では、社会(共同体)とか個人とか離れたものでなく、個人即社会(共同体)であり、社会(共同体)の正常健康、即ち、個人の正常健康であり、幸福であり、どちらが主とか従とか、別々のものではないとする観方に立っている。
それがなぜ、絶えず脅かされているような、全部公開されているみたいな、そういう息苦しい心理状態に陥ってしまうことがあるのか? いったい何を自分らは試されているのだろうか。

ところがある転機を経て、現実の修羅葛藤の渦とはおよそ次元を異にした〝本当はどうか〟と真なるものに立つことで一挙に開けてくる世界に出会った!
しかもその世界は何かほのぼのとした温かいものに包まれていた。ああ、ここからだったら自分もやっていけるかも知れない。

自分らはその根本的な解決を、社会、政治、法律、産業、経済、教育、宗教、習慣等、不合理なものばかりの現状混乱に先だって、先述の〝本当(真)の結婚〟究明、真の夫婦としてのあり方に立つこと、そのあり方の実践に秘められたヤマギシズム恋愛・結婚観の実態の把握から始まるのではなかろうかと直覚したのだ。
巷間伝えられる山岸愛欲氏の〝フリーセックス〟(?)に惑わされてか、この間避けてきた事に遅れを取った原因の一つがあるようだ。
それには出発に先だって、

“本当の人生を生きる上に最も大切なことの中でも一番本元であり、人生のスタートであり、人生の最大目標であると思うヤマギシズム社会における真の恋愛・結婚観はどういうものであるか”

を知っておく必要があったのだ!?
要は出発に先だって、真の幸福や人生の正態を確かめ、本当の恋愛・結婚とはどんなものかを知っておけば、先の吉本さんの疑念は払拭されるという訳だ!?
しかし、そう言われても今一つピンと来ない。今少していねいに後先ちょっとのことで、根本的な異いが出てくる辺りを追ってみることにする。

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わが一体の家族考(98)

〝カマキリ夫婦の自覚〟?

そこで自分らも、「人間幸福の基本となる〝夫婦仲良くなる具現方式〟についての考察」を山岸巳代蔵と共に辿ってみたいと思う。その心はかつても今も変わらなく、次のような文言に集約されるだろうか。

“ただ一日でも真の結婚の妙境に浸ってから逝かないと、何しにこの世へ出て来たものか、人生の意義も覚らず、うとましい限りではある。”

“本当の結婚の何たるかを知らず、何たるかを究めようともせず、極めないから知り得ない。知らないからでもあろうが、サッカリンで満足したり、メチールに酔ったり、アルコールで自分をゴマカし、求めようともせない。”

ホントそんな自分がうとましく、ひどくみじめに感じられる。愚かしい限りだと省みる。
カイコ(蚕)は、卵→幼虫→蛹(さなぎ)→成虫と規則正しく脱皮を、そして吸収成長の期と整理と後の世への生命の繁栄を劃然と区分している。そして絹とその他のものを残す。
その辺りのことを解剖学の三木成夫さんも次のように述べている。

“江戸の俳人宝井其角は、交尾を終えたカマキリの雄が、そのまま雌にかじられていく光景に、稔りを終えた草が葉を枯らせていく光景をダブらせて、
〝蟷螂の尋常に死ぬ枯野かな〟の句を詠んでいる。
食から性への位相転換は、動物には親の死を、植物には葉の枯れをそれぞれもたらす。そこでは、だから、蟷螂の死が、あたかも枯れるがごとき尋常の姿として映し出される。ただ位相が変わったそれだけだ。”(『胎児の世界』)
かまきり

ある時、こうした自然界・動植物の普段の〝尋常の姿〟にハッと気付かされた。そこに〝こころ〟を見た思いがしたのだ。そうか! そういうことだったのか……。
そういえば先述の「イエスの方舟」の千石剛賢さんも〝カマキリ夫婦の自覚〟を強調されていて興味深い。

“男は女を愛することを、大げさでなく、人生最大の意義、ただ一つの価値というふうに分かっとらないかん。”(『隠されていた聖書』)

人間の雄も、いや男も自覚して、女に自分をささげる悟りが必要なんだという!?
この間のバタイユのいう〝コペルニクス的転回〟といい千石さんの大きな〝悟り〟といい、本当に言い得て妙だ。そんな表現が、ヤマギシズム恋愛・結婚観についても今最もふさわしく感じられる。
他にやること・思い悩むこと一杯の自分ら外に向いている目を、当たり前にしている自分の中の基準を、動かして見ようではないか。
つまりここでやりたいのは、ヤマギシズム恋愛・結婚観を〝カマキリ夫婦〟に見ることにのみあるのではなく、〝本当(真)の結婚〟の実証から出発することで自ずと開かれる世界を顕現することにある。

それにしてもなぜ社会、政治、法律、産業、経済、教育、宗教、習慣等、不合理なものばかりの現状混乱を差し置いて、〝本当(真)の結婚〟究明、真の夫婦としてのあり方に立つこと、そのあり方の実践なのだろうか? 
それは最も深刻な問題であり急がれるからではあるのだろうが、それだけだろうか?
そんなことを念頭におきながら辿っていこう。

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わが一体の家族考(97)

『正解ヤマギシズム全輯』刊行に托す

1959年7月10日、山岸会は一週間の講習受講者を軟禁した疑いで上野署の捜索を受け、幹部らとみなされた七人が逮捕された。翌十一日午前中には会事務局の東加九一への傷害致死事件がおきる。
こうした世にいう山岸会事件の真っただ中にあった山岸巳代蔵は、13日午前卵の出荷車(オート三輪トラック)の荷台に乗って春日山を離れた。そして24日午後には捜査中の三重県警は、事件の背後関係を解明するために姿を消した山岸を全国に指名手配したのだった。

山岸巳代蔵は各地の会員宅など転々としながら9月19日頃からは、琵琶湖の西岸に面した滋賀県堅田の
堅田の浮御堂

戦後、満州やシベリア抑留などから引き揚げた人たちのために建てられた「引揚者住宅」の四軒長屋の続きの二軒にヤマギシ色を隠して翌年4月12日の自意出頭まで移り住んだ。

この半年余りの時間は、非常に衰弱していた身体の快復と共に永年〝寝ても覚めても考えてきたもの〟を落ち着いた気分で『正解ヤマギシズム全輯』の草稿としてまとめられそうな場でもあった。その辺りを次のように述べている。

“かねてからの久しい宿願、『月界への通路』の宿稿を纒めたいとの念願も、浮き世の慌しさにのびのびになり、エンマの廳へのお土産、さびしいかと思えるほどの身心のあえぎも、ここ偶然か必然か、人間のわたくしの考え及ばぬ仕組みでか、書け、書こうと云われ、云ったとき、その前へ前へと雑用が出現して、それも振り払って捨てもならず、当面に忙殺され、書く方が遠ざかるばかりで、食言屋のそしりさえ下されようとする矢先、不思議の廻り合せと云おうか、こんどの出来事で、ちょっと落ち着いて纒められそうな環境・閑地に追いやられ、不幸か幸か、お蔭様でペンを執り始めた次第、何がトビ出すことでしょうか。流れにまかせたこの身、この心、往けるところまで行ってみましょう。”(1960・1・13)

いつ逮捕されるかもしれないという緊迫感の中で、文房具屋から大量のわら半紙を購入してきた時ほど先生の喜びようはなかったと、身の回りの世話をしていた川口兵衛さんは回想している。
もちろん旅先の身でもあり過去の覚書や草稿や参考書も何一つ無かった。あるのはわら半紙と鉛筆と人間社会はこんなものだと観念づけて、その世界からの脱却を怠っている世界情勢の中の全人一人ひとりに向けて焦眉の急を告げたい気持ちだけが全てだった。
現在そのB五版わら半紙に鉛筆で書いた直筆原稿が、約四百枚近く遺されている。

ちなみに『正解ヤマギシズム全輯』は十輯に分けて刊行するつもりだった。例えば―
第一輯『けんさん・もうしん』
第二輯『真理と人間の考え・人間の考えと言葉・言葉と行い、及びその間のくい違い』
第三輯『愛・愛情・結婚・恋愛について』
第四輯以下に、政治と法制、社会、産業、経済、人間生長・成熟、健康、衣食住生活、闘争・戦争・暴力・刑罰等の解釈とその根絶法、趣味・芸術論、学問・宗教論等その他に分類して構想されている。

山岸巳代蔵は『正解ヤマギシズム全輯』刊行計画に賭けていた。出版を通して世界中が混乱・摩擦・犠牲なしに、真の平和に、人々みな真の幸福になれる〝理想実現への方法〟を論理的に、立証的に記述して世界に打ち上げたいと念願していた。それはかねてからの久しい宿願でもあった。
なかでも急ぐものからという思いからか、人間幸福の基本となる〝夫婦仲良くなる具現方式〟についての考察に、わら半紙の直筆草稿の大半は占められていた。

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わが一体の家族考(96)

火種を燃やし続ける

先に次のように記したことがある。

“わたしたちは、太陽がエネルギーを獲得することなく、エネルギーを放出し続ける条件を理解していない。”
太陽エネルギー

そうなのだ! こうした人間自身が解くべき謎のような問いかけを前に、バタイユにおとらず自分らも心を掴まれ、心高まる個所だ。(わが一体の家族考(94))

心の片隅で〝エネルギーを獲得することなく、エネルギーを放出し続ける条件〟って何だろう?と想ってみる。それだけで何だかワクワクしてこないだろうか。
こうしたワクワク感をもっと膨らませたいといつも念っている。人間自身こそ真に解くべき価値のある問いかけがきっとあるはずなのだが……。
それってさしずめ〝無限電池〟のようなものか? SFの世界の話? 条件、条件言うけれど、物理的にも現実的にも考えられないし具体的な方法がなかった絶対無理・不可能なことだよ。もし〝ある〟のだったら、具体的に聞かせて欲しいよ。
いや、じつは何も無いわけ。でも〝無いけれど、あるんだ〟としかいいようのないものがあるはずなのだ、と。

いったいオマエは何を言いたいだ?
言いたいのはこの間の文脈に沿えば、次のような当たり前の話だ。

“楽しい嬉しいばかりの恋愛や結婚も、不安だったり、苦しかったり、悩ましい思いをしたりするのは、必ずどこかに結婚条件・資格が欠けているからにちがいない。
それゆえ先ず資格条件を揃えることこそ、人間のみが為されるべき生き甲斐・よりよき創造の歓びに繫がるテーマである。”

多くは「その通り」とそのまま素直にうなづける個所である。それなのにいったい何故、〝太陽エネルギを放出し続ける条件〟とヤマギシズム恋愛結婚観での資格条件を同列で論じようとあえてするのか?
ここが難解なのだ。
この辺り山岸巳代蔵の弁を借りれば、

“物を求める人に、かえって心の世界に主力を傾けて述べるのですから、大分喰い違いが出来るのです。
お互いに目的を持って寄るのですが、目的の違うもの同士が寄っても、一致点が見出せないのは当然です。
我田へ水を導き入れて増収しようとする人を、百里先の水源地工事に誘おうと云うので、どうも御機嫌を損じてしまいます”(「難解な私の言動」)

と割り切っているところである。
全く違ったものを創り上げる創造的建設的な目と頭に切り換えねばならぬというのだ。
目的(ヤマギシズム恋愛結婚)に到達するのが難しいのでなく、その目的(世界)への出発点に立つことが容易ではないのだ。
以上のような事などに心して〝真に解くべき価値のある問い〟の火種を燃やし続けていこう。〝やっぱりあったなあ〟と見つかるところまで……。

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