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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(103)

〝我抜き研鑽〟と『ヨブ記』

旧約聖書の『ヨブ記』に出てくるヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。7人の息子と3人の娘を持ち、東の国一番の富豪であった。
ある時神とサタンがヨブの正しさを巡って賭をした。そこでサタンの挑発にのった神は、ヨブに試練を与えることをサタンにゆるす。
ヨブに次々と災難辛苦が襲う。ヨブは二度の略奪隊の被害に遭い、また二度の天災に遭い、財産も、家畜も、僕たちも、さらには息子や娘たちまでも、一切合切を失ってしまう。試練はそれだけに留まらない。ヨブは全身を覆う酷い皮膚病にかかって苦しみ、妻からも見放されてしまう。
突然、人生のどん底に突き落とされてしまったのだ。
ヨブ

ヨブは、正しく生きてきた自分がなぜこんな酷い目に遭わなくてはならないのか、その訳の分からなさを思いっきり神にぶつけて、神を呪う。「なぜ、神は私なんかをお造りになったのか。私など生まれなかった方がよかったのだ」、「私は、こんな苦しみを受けなければならないような悪いことは何もしていないはずだ」、「私の幸福を返してくれ」、「それがダメなら、せめて何故こんな苦しみを受けなければいけないのか、それだけでも答えてくれ」等など、人生の理不尽さを嘆く。

見舞いに来た三人の友人らも、ヨブのあまりにも惨たらしい変わり様にショックを受け、取り乱し、言葉を失ってしまう。
ヨブは堰を切ったように自分の心の弱さを吐露しはじめる。「わたしなんか生まれてこなければよかったんだ」と苦しみを訴え、死を希う。神をも非難する。「わたしは正当に扱われていない」、「なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか」と、神に絶望する。

三人の友人らは、ヨブがこのような苦しみを味わっているのは、きっとヨブ自身の中に災いを生み出す原因があるに違いないからだと思って、「間違っているのは神ではない、あなただ」と言いきかせるのだが、彼らはヨブを慰め、励ますことができない。
むしろ逆に、「あなたたちは藪医者だ」と言って、友人たちを非難する。
ヨブが自分は正しいと確信していたからだ。
そこで今までじっと黙って、ヨブと三人との議論を立ち聞きしていたエリフが登場する。

彼の目には、ヨブが神様を冒涜しているように映った。またそのようなヨブを黙らせることの出来ない三人の不甲斐なさに対しても、強い怒りを覚えたからだ。エリフは言う。

「『わたしは潔白で、罪を犯していない。
  わたしは清く、とがめられる理由はない。
  それでも神はわたしに対する不満を見いだし
  わたしを敵視される。
  わたしに足枷をはめ 行く道を見張っておられる。』
  ここにあなたの過ちがある、と言おう。」
「だから、叫んでも答えてくださらないのだ。
  悪者が高慢にふるまうからだ。
  神は偽りを聞かれず
  全能者はそれを顧みられない。」

と、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも力を尽くしても、それは役に立たない」とさえ言う。
エリフはさらに言う。

「ヨブよ、耳を傾け
 神の驚くべき御業について、よく考えよ。 あなたは知っているか」

と、繰り返しヨブに人間には計り知れない自然の、神の御業について問いかける。
そしてここから、神の言葉が始まる。
神がヨブに対して「お前は知っているか。見たことがあるか。調べたことがあるか。お前に同じ事ができるのか」と、たたみかけるように問うのだ。

あたかもドラマ『水戸黄門』で、三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「控え居ろう! この紋所が目に入らぬか」と黄門の正体を明かすようなものだ。
神は傲慢なヨブに対して、誰が自然万物、天・地・人を造り司っているかを知っているのかと激しく問い詰める。
誰が大地を据えたか? 誰が朝に命令し曙に役割を指示したか? 光や闇の住みかを知っているか? 誰が露の滴を霰を霜を産むのか? すばるやオリオンや銀河を支配するものはお前か?等々。
もちろん、そんなこと出来るはずもない。それがどうしたというのだ? 

しかしなぜかそこでヨブは自ずと主に答えていう。

「あなたのことを、耳にしてはおりました。
  しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
  それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
  自分を退け、悔い改めます。」

こんなにアッサリひきさがってよいの?
いったい、どこでヨブの態度は一変したのだろうか。ヨブは何を悔い改めたのだろうか?
こうした問いかけは、そのまま今の自分だったらどうかと自分に返ってくる。
どこで自分だったら、〝自分を退け〟るのだろうかと……。

ヒントになったのは、次のような様々な動物たちの不思議なというか一途に生きていく姿が描かれている一節からである。
例えば次のような〝事実〟に出会うと、すべてのものを生み出し活かそうとする自然の本質に触れ得たような、なぜか自分の心も温かくなる琴線に触れる不思議な生命力を実感する。
餌を求めて鳴く烏の子

「お前は雌獅子(ライオン―引用者注)のために獲物を備え
  その子の食欲を満たしてやることができるか。
  雌獅子は茂みに待ち伏せ
  その子は隠れがにうずくまっている。
  誰が烏のために餌を置いてやるのか
  その雛が神に向かって鳴き
  食べ物を求めて迷い出るとき」等々。

自然と人は一体のもので、人は自然から産まれたもので、太陽・水・空気と共に自然はいろいろな食べ物となって人の身体を育む。それと同時に自然は人の精神をも豊かにする。
こうした自然から贈られ、人から発せられる美しさ・豊かさ・温かさの源が、そこはかとなく漂っているのがこの世界なのだ!
これが紀元前の『ヨブ記』から自分が自分に向かっていく現在進行中のあらすじだ。

それはまた山岸巳代蔵が愛情研鑽の現場で真摯に取り組んだ〝我抜き研鑽〟そのものに、再現された現代の『ヨブ記』を見ていく試みでもある。なにせ絶望のドン底から結婚資格のなかった自分が見え出したのだから!?
しかも自らヨブになったり3人の友やエリフになったり神にもなったりと身替わる山岸巳代蔵が出現してくるところが実に興味津々だ。

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わが一体の家族考(102)

理論と実際とのジレンマ

いろいろとすったもんだがくり返される愛情研鑚会の中で、参加者からもっと本当の夫婦とか愛情のあり方はどんなものかといった根本理論から入らないと、この問題解決しないとの発言があった時、すかさず山岸巳代蔵は

“研鑽してから愛情が起こるもんと違うやろ”

と応えている場面がある。
好きになろうなんて少しも思わなかった。相手もそうだった。それが偶然か、必然か分からないままに無意識に惹かれ合ってしまう。
ここに何やら分からずに相合うもの、求めるものに触れようとする人間の本性に根ざした恋愛・結婚問題の独自性をみる。
例えばここで次のような一節を振り返ってみる。

“予期しないのに起った本当の恋愛の実践の場では恋愛・結婚理念は何の役にも立たなかった。理論が先走って理詰めになり、押しつけになり等と、理論と実際とのジレンマで一層苦しみ、苦しめ、お互いの命が絶たれた状態も幾度となく体験した。”

ここでの〝理論と実際とのジレンマ〟とは何を指してのことだろうか?
理論・理念からすると、我執を無くするのは仲良くなる基本であるし研鑽形態はもちろん真の結婚も絶対に成り立たないと、ハッキリしていた。
それゆえか、身近な女房(柔和子)の我が抜けないで〝何が我抜きだ〟と、やむを得なくどんな方法を以てしてでもといった熱願行為に幾度となくかられるほど本人自身ひっ迫した感じに囚われていたのである。
この間全人幸福への熱願から、〝怒り〟の発生しない方法を考案した。次に悩みも数時間の理念研鑽で悩みから解放されて、自分もひとも豊かにしている人がどしどし誕生してくるといったかつてない人間革命運動にまで発展してきた。
ところがそうした怒りや憎しみや財産等、大抵の悩みや心の苦しみはスッカリ解決したようだが、恋愛・結婚問題で大変なことになった。悩み苦しみの方で〝特別〟が残されてあった!?

予期しないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、特に苦しみの分析・分離、及び原因究明が出来ない状態になり、なかなかその苦しみから脱却でき得なかった。
それまでの研究するための科学実験や怒りなどのように材料を持って来たり、場を造ることも出来ない事態に直面したのだった。
それは理論・理念を論じる前に在るもの、予期しないのに起こった事実それ自体からの、山岸巳代蔵に対してのある意味真なるものからの警鐘であったとも言える。
警鐘

他の間違いを間違いと裁いて、直そうと気づかさないで、イヤがるのに押しつけ責め立て、その人と溶け合わない、そんな自分自身を振り返る。
○鬼畜のような形相で〝即実行や〟とグングンやったもの。
○命がけ、血みどろの愛欲史。
○生来の求真性格に煉獄の試練を。
○死よりもつらい数々の責め手,受難史。
○常識世界は冷たく酷だった。
○課せられた運命か、あまりにもヒニク。
○「一回の私心(自殺)が欲しい」と何回思ったかしれない。自己愛とでもいうのかね、
○他の数々の探究と、あらゆる天災・人災・病苦等での身心の試練で打ちひしがれて、生来弱体で気弱の幼柔な重圧の僕を、なぜまたゆるさないで……。

これこそ“理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……”
の自画像だった。
あたかも『ヨブ記』(旧約聖書)で、ひどい目にばっかり遭うヨブの姿を彷彿とさせる。

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我が一体の家族考(101)

結婚資格のなかった自分
山岸巳代蔵は自らの来し方を振り返って次のようにいう。1959年11月頃記されたものだから、亡くなる1年半ぐらい前のことだ。
残されている幾通りもの表現を変えた同じような趣意の草稿や口述筆記の中から目にとまった章句を挙げて要約してみる。

著者は、夫婦が一つのものだということを示す山岸の造字(「ふさい」と読む)で記されている。
夫婦の真字・ふさい

ちなみにこの夫妻の造字に、最も相合う真の夫婦を象形する〝真字〟としての「仰慕←→愛撫」の世界が盛られてあるようなのだ。興味津々だ。
しかし今は、本当の結婚を求めに求めて、自分自らをまな板に乗せて、誰でもたやすく真の結婚の楽園へ入れる鍵を見つけた発見の歓びとその愛情結婚についての道程を聴いてみよう。

“真の結婚をする資格がないのに、理念通りの結婚をしようと無理をした。当然苦労し抜いた。真の結婚が出来なかった。
しかし、悩み、苦しみ、もうどうにもならなくなった途端、絶望のドン底から途が開け始めた。悩み、苦しみのほとんど起らない境地にまで漕ぎつけたようだ。
結婚資格のなかった自分が見え出した。見えだすと早いもので、いよいよ真の結婚の出来る資格が、初めて、ようやくにして、ついたように思える。”

ここでいわれていることを、幾つかの草稿の中の一文から今一度再構成してみる。

僕(山岸)はこれまで結婚によく似たことを幾度かしてきたが、真の結婚とは縁遠いものばかりであった。肝腎な条件が欠けていた。五十、六十、七十歳に歳をとろうとも、資格の揃うまでは結婚を焦らないことだ。
ところが怒りや憎しみや財産を持たない等はスッカリ解決した僕だったが、恋愛・結婚問題で大変なことになった。予期しないのに起った本当の恋愛の実践の場では恋愛・結婚理念は何の役にも立たなかった。理論が先走って理詰めになり、押しつけになり等と、理論と実際とのジレンマで一層苦しみ、苦しめ、お互いの命が絶たれた状態も幾度となく体験した。
真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当だと思う。ヤマギシズムにこうした苦しみがあるということはなぜだろうか?
そんな数々の試練の中で、もうどうにもならなくなった途端、絶望のドン底からヤマギシズムと現実とのジレンマの不思議な謎も解けた! 誰でも容易く真の結婚の楽園へ入れる鍵を見つけた!
こんなヘトヘトになっている未熟な僕がココまで辿りつかして貰えたのも〝今日まで天・地・人・宇宙から注がれた愛護〟の賜で、せめての恩義に報いたいとその研究行程報告を包み隠さず記述し、僕の本願とする全人幸福への道標か何かの足しになるなれば、と参考に供するつもりで著してみたのだという。

以上のような内容のことが、何度も後から書き加えたり、順序を変えたりして遺されている。
ここではいったい何がいわれているのだろうか? すぐに思い浮かぶのは、次のような二つのことだ。
○真の結婚をする資格がないのに、理念通りの結婚をしようと無理をした。つまり予期しないのに起った本当の恋愛の実践の場では恋愛・結婚理念は何の役にも立たなかった。
○絶望のドン底から結婚資格のなかった自分が見え出した。そこからいよいよ真の結婚の出来る資格が、初めて、ようやくにして、ついたように思える。

いったい理念の何が災いしたのだろう?
いったい絶望のドン底から何が見えてきたのだろう?

そう問いかけてみて始めて、あの「山岸会事件」前の『百万羽養鶏』事業発足とほぼ同時にもたれた一連の愛情研鑚会で再現された愛情世界の心の動き等、山岸巳代蔵本人の弁を借りれば「私の愛情の不安定から起こる狂態」という出来事の真意の一端が今明らかになりつつあるのかとも思えてくる。

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「と」に立つ実践哲叢(31)

 〝結びつける力〟の涵養

そもそもこの連載コラムの始まりは、ヤマギシ会が発足した翌1954年に山岸巳代蔵が某誌に寄稿した文章のタイトル「稲と鶏」の「と」の意味するものを探るところにあった。
そこには稲作は稲作として養鶏は養鶏として従来個々別々にあったのを、稲作があって養鶏が成り立ち養鶏があって稲作農業が成り立つよう〝一つ〟に結びつけた画期的な農業養鶏の誕生が記されてある。

それまで繋がりのなかったものを結びつけることによって打開されていく実践だった。それは「稲と鶏」の、稲の立場や鶏の立場を通さずに、両方の立場を離れた、いわば「と」からの観方であるとも言える。
そんな見晴るかす場所に立つことで見出される双方が溶け合う〝結びつける力〟を、もっと自分らの暮らしの中で涵養(かんよう)していきたい念いから出発したのだった。

例えばこの間マスコミが連日報じる角界を揺るがす横綱日馬富士の暴行問題も、当事者が一堂に会しての〝研鑽があったら〟とっくに解決済みの一件にすぎないのでは?
貴乃花VS白鳳

加害者と被害者の相矛盾、貴乃花と白鵬の確執、モンゴル横綱と相撲道のねじれ等などに加えて、協会関係者からの横槍から警察当局へと問題はますます複雑化されていく。
暴行問題一つとっても、なぜもっと楽な方法で仲良く溶け合っていけなかったものか。
今の社会の法律ではどうしても物理的暴力だけがクローズアップされて、なぜそこまでの行為に至ってしまうかの真意・遠因等が消されてしまいがちだ。その原因を取り除いたらよいだけのことなのに……。

よく「千貫匁(3750㎏)の石を動かせ」と言われた時に、僕はいったいどうしたらいいんだろうかという例題が思い浮かぶ。
普通は「そんなもの動かせるかい」と言って拒むか、動かす気になってすぐ石に飛びついてしまいやすい。
幸い自分らは、ふだん〝研鑽態度〟の研鑽の必要性に迫られる暮らし方をしている。
「そんなこと出来るか」と一方的にキメつけるのでなく、「どうしたらそんなこと出来るのか聴いてみよう」と相手の身になって何を言わんとするかの研鑽態度がなかったら話が一歩も進まないのだ。
すると「そんなに言うなら、どうしたらよいのや」、「石にもこそばゆいところあるし、下の方掘ってみるか」、「そうか、こうするのか」となって研鑽が進み出す。
やる気になって研鑽したら活発に意見が次々と出てくるところが面白い。
研鑽態度こそ凡てが納得解決されていく鍵なのだ!

日常的に「本当はどうか」という研鑽態度でやってみようとすることを、「と」に立つ実践とも言うのだろう。
先の日馬富士の問題でも、対立・反目・確執・暴力等あり得ないのが本当なのに、「それは絵空事にすぎない。現にあるではないか」と〝混線〟しているところに間違いをみる。

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新年にあたって

特講絵図原画(部分)山岸純 作

つい2、3年前まで、自分がスマホを持つなんて考えられなかった。ノートパソコンと携帯があり、時々音楽CDや映画DVDをレンタルするだけで充分に満たされていた。今更この歳になって、複雑そうに見える操作を習得するのかと想像するだけで腰が引けた。

ところがLINEで連絡し合う必要に迫られ持つことになってビックリ。何だ、これはポケットに入るコンピューターではないのか!?
ニュースも天気予報もテレビ番組も時刻表もすぐ知れる! 大部の『山岸巳代蔵全集』全7巻がいつでも、どこででも読める! 最近はアメリカTVドラマ視聴にハマっている。なかでも生まれつき弱視の自分の妻など一番の恩恵を受けている。それまで読めなかったヤマギシの〝むらーnet.〟も読み上げてくれるし、連絡のやり取りも音声入力で超簡単! その昔、冬の夜始めて自販機でカップヌードルを食べた時の文明の利器の有り難み、温もりと重なってくるようだ。

そうしたあらゆるモノがネットに繋がるIoTや人工知能(AI)の目覚ましい外なる物質進化と共に、内なる人間自体のヒトが人になる豊かさ、広さ、徳性のようなものがどこまで備わってきただろうか? むしろ末梢神経的に偏向し、〝先ず自分が食えて、安定してから〟と自分の立場を頑として自分で護り主張することで自ら苦しい立場に立たされ苦悩し、他にも大きな害毒を及ぼしている思い違いの観念習性に慄然とする。
今ほど外なる創造に見られる積極的能動の成果顕著なるものが、内なる人間自体の開発・創造面においてもどれほど能動効果の足跡を残せたかを問われる時代はない。即ち―

 戦争のない世界を実現することにある。
 自己の延長である愛児に、楽園を贈ることにある。
 宗教の要らない真理即身の人間に、医者の要らない身体になることにある。
 金の要らない仲良い楽しい譲り合い贈り合いの世の中にヒックリ返す大仕事がある。

幸いにも自分らは「真理は一つであり、理想は方法に依って実現し得る」という考え方を持っている。
明日の幸福は、今日の歓びの中から生まれ出るもの。
この考え方を元に、もし、今日只今が正常・健康でないなれば、速やかにそれの原因を検究して、その間違いの部分を発見し、実際にそうなるようにしていくことだ。
悲しい今日の中から楽しい明日は生まれない。

そして〝その間違いの部分〟とは〝自分の立場を頑として自分で護り主張する〟、これこそ我執であった。だがしかし自分の我執に気づき、無くすると一気に世界が開け、仲良く溶け合う中で、誰の中にも潜在して自ずと湧いてくる親愛の情に触れられた!
そんな各々真実の自分を知り、自分の我執はむろん、世界の我執を無くすることを、総てのものの始めとしよう。

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