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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(112)

心の〝転換〟の機微

先の映画『おくりびと』で主人公・大悟は、突然くるりと踵を返して、〝とっくに戸籍から外れている〟父親の元へと駆け出した。
また映画『エロデ大王』のエロデ大王と王妃マリアムに自分と柔和子を重ねた、

“柔和子を苛め殺した(エロデ王)悔恨の涙と、うつろな孤独な僕、盲信のままで一度も溶け合わない、愛して愛して、真に愛し合っているが故に、愛し合ってい乍ら、ピタリと寄り添えない感じ、通じ合わないもどかしさ、夫婦であり乍ら直接話し合えない、悲しい、哀れなお互いを感じ乍ら、永遠に死境をさまよおうとしているアブナイ瀬戸際”

が一転、

“柔らかく和やかな、夫を思い、全人を思う真の愛の女神に温かく抱擁されて、さすがのみよも、にわにおさまる。”

に好転していく、こうした心の〝転換〟の機微に迫りたいと思う。
次のような一節がヒントになるかも知れない。

“僕と柔和との恋愛結婚は真なるもので、心・情・感等の世界では、我執の出没によって波立ち、言動・現象は結婚したり、解消したりしているように見誤られるが、感の世界の基なる無感の真の世界では、恐らく絶対動かない、離れようのない真の結婚だと思う。
従って何時か其のいずれか(両方にありそう)にある我執が消えた場合、心も現象も完全無欠の完全夫婦と必ずなるであろう。
過渡期に如何なる波乱万丈の混乱事象が起ころうとも、末は必ず真なるものに落ちつくもの。
人間であるから思い違いはいくらでもある。それは赦されるが、それを持ち続け放そうとしない我執は、いつでも赦されない。自分が苦しみ悩むものである。”(我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり)

ここでの〝感の世界の基なる無感の真の世界〟について想いを巡らしてみようというのだ。いったいどういうことなんだろうかと。
たしか宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(岩波文庫版)に、黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせた大人がジョバンニに語りかける個所がある。
銀河鉄道の夜

“みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。”(九ジョバンニの切符)

人と人とが離れ、相反目、敵対しないで〝ほんとうの考え〟と〝うその考え〟を分けることが出来たら、どんなにか素晴らしいことだろうか。今なお心ある人々にとっての切実な課題であろう。
それにもかかわらず〝めいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだという〟自分の立場を全部放したところから、本当はどういうものかというところからの観方・考え方の実行に踏み込んでいる・いく人は皆無に近い。
自分の立場から発して〝ほんとうの考え〟と〝うその考え〟を〝分ける〟ことはぜったいに出来ない!? むしろ〝分ける〟のではなく、〝出どころが全く異う〟ことを知ることが先なのだ。肚に落とすことが肝要なのだ。
ここでの〈次元〉の転換の機微をハッキリ掴むことが容易ではない。せいぜい自分の立場から発しての〝ほんとうの考え〟と〝うその考え〟の分離にとどまっている。
謂わばよくいう〝お金儲けのための鶏飼い〟から〝みんなの幸せを願っての、先ず自分がそういう人になって鶏を飼う(飼わなくても)〟気持ちへの転換・現れなのだ。

先の映画『おくりびと』での事務員・上村さんの発言、最初の「行ってあげて」と二番目の発言内容「行ってあげて」との異いについても当てはまる。事務員さんの二番目の「行ってあげて」の発言は大悟から「だとしたら、無責任すぎるよ」と大声で怒鳴られながらも、〝何かに突き動かされるように〟立ち上がり大悟のそばまで詰め寄っての「行ってあげて」なのだ。
そこにはどうしても〝放す〟行為が、それが出来る人になるという次元の転換が絶対要素として浮上してくるようなのだ。

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わが一体の家族考(111)

琴線に触れる発言

ひょんなことから遺体を棺に納める〝納棺師〟となった主人公・大悟(本木雅弘)の葛藤や成長を描いた映画『おくりびと』(2008年公開 米国アカデミー賞外国語映画賞受賞作品)に次のようなシーンがある。
おくりびと

ある日事務所(NKエージェント)に戻ると、妻・美香(広末涼子)からの伝言が入っていた。それは大悟が子供の時に家庭を捨て出て行った父の死を伝えるものであった。
そこでの事務員・上村さん(余貴美子)とのやり取りである。『おくりびと』の台本からそのまま抜き出してみる。

“NKエージェント・内
大悟「とっくに戸籍から外れているし……。書類にサインも出来ない、って電話しといて」
大悟、電話を切る。
上村、心配そうに見ている。
上村「行ってあげて」
大悟「ホント、大丈夫ですから」
上村「お願い。お願いします」
上村、目に涙を浮かべて訴える。
大悟「……」
佐々木(社長・山崎努―引用者注)「……」
ストーブの上の薬缶から湯気が出ている。
遠い目をして上村が語る。
上村「私もね、帯広に捨てて来たの。息子を。6歳だった」
大悟「……」
上村「目先の愛が……大切だった。ママ、ママ、って泣き叫ぶ息子の小さな手を振り払って家を飛び出した」
大悟「息子さんとは?」
上村「会いたいに決まってるけど、会えない」
大悟「どうして? 会いたいなら、会いに行けばいいじゃないですか」
上村「……(首を横に振る)」
大悟「子どもを捨てた親って、みんなそうなんですか?」
上村「……」
大悟「だとしたら、無責任過ぎるよ」
上村「……。お願い、行ってあげて。最後の姿、見てあげて」
大悟、何も言わずに、出ていく。
同・外
大悟、事務所を飛び出すと……美香が立っている。
美香「……」
しかし大悟は、美香を振り切り、そのまま進む。
美香は大悟を追いかける。
美香「大ちゃん……」
それでも大悟は立ち止まらない。
何かを吹っ切ろうとしながら、ただ足を進める。
父親の影を完全に消し去りたくて、ただ足を進める。
が、けれども。
突然、大悟の足が止まる。そして……
目を閉じて自分への苛立ちを他のもので押さえつけながら振り返る。
美香「……!」
大悟は事務所に向かって、一気に駆け出す。”

そして社長に車を借りて遺体の安置場所に向かった大悟は、30年ぶりに対面した父親の納棺を自ら手掛けつつはじめて父に出会うのだ。
このNKエージェントのシーンをみなで何度も研鑽している。
なかでも事務員・上村さんの発言、最初の「行ってあげて」と二番目の発言内容「行ってあげて」との異いについてだ。
実際の映画の場面では、事務員さんの二番目の「行ってあげて」の発言は大悟から「だとしたら、無責任すぎるよ」と大声で怒鳴られながらも、ひるむことなく何かに突き動かされるように立ち上がり大悟のそばに詰め寄っての「行ってあげて」なのだ。
ここが映画『おくりびと』のクライマックスだ。
最初の「行ってあげて」では通じなかったので、めげないで再度強く「行ってあげて」をプッシュしたから大悟の心を変えたのだろうか? そんな自分よりの観方・思い・考えの同心円・延長線上だけから、はたしてこの場面は生き生きと立ち現れてくるものだろうか? 
この間の文脈で言えば、

“ふとした機縁から気付いて、心が転換して、あの我が抜けた時の何とも言えん気持ちに立ち返って、そこから出発することで、”

に重なってくるものがあるようなのだ。
じつはこの二つの発言の出どころが全く異うことが肚に落ちるというか異いを知ることで、なぜか本当にスカッとするのだった。視野が急に広く明るくなったように感じるのである。
ところがここでの〝異うことが肚に落〟ちる勘どころを掴むことがじつに難しい。〝知的革命〟といわれている所以である。
それにしても〝出どころが全く異う〟ってどんなことなんだろうか?

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わが一体の家族考(110)

映画『エロデ大王』

先述したように1959(昭和34)年7月24日三重県警から全国指名手配された山岸巳代蔵は、各地の会員宅などを転々としながらも、9月中旬から自意出頭する翌年四月十二日まで滋賀県堅田の地に住んだ。この間疲れ切った身体の回復に努めると共に情勢がある程度進展するまで出頭を見送りたいとの心境行動からであった。
またこの時期こそ、かねてからの久しい宿願『月界への通路』の宿稿、なかでも〝ヤマギシズム社会における真の恋愛・結婚観〟はどういうものであるかをまとめるまたとない機会でもあった。
そのことは必然〝熱湯事件〟(昭和34年1月17日)等に象徴される〝随分むごい我抜き、剛研鑽実践やら、私の愛情の混乱から起こる狂態等〟に対しての悔恨や猛省を促した。
たしかに恋愛や結婚は楽しいはずだと思うが、不安だったり、苦しかったり、悩ましい思いをしたりするのは、必ずどこかに結婚条件・資格が欠けているからだ。
そこから我のない人を求め、我のない人を造るに急にして、自分を救うことにウカツだった。
山岸巳代蔵には、目の前の福里柔和子は世界一の我執の固まりに見えていたのである!?
しかしヤマギシズムと現実との、どうも相一致しない矛盾に割り切れないものがあった。本当にそれだけだろうか?
この間の〝血みどろの愛欲史〟に塗り潰された期間をどうにかくぐり抜ける中で見出されたものがあった! 大発見があったのだ!
まずは自らの悔恨や猛省ぶりを山岸巳代蔵と福里柔和子間で交わされた書簡などから今一度振り返ってみよう。

“柔和さえ、それきめつけとちがうかねと云わしてくれて、エッそうかしらと素直に聞いて、共に我執の正体、みんながあれだけの人がなぜあれに気づこうとしないのだろうかと不思議がっている、簡単に判る筈の我執について調べてくれたら、判れば持ち続けられない柔和でもあるし、柔和さえ、柔和さえを連発して来た。”

“今の今まで柔和さえ、柔和さえ、柔和を楽になってもらうためだと云い、実は苦しめ続けて来たことに気がついたよ。”

“苦しいのも悲しいのも、他でなくて自分にあったね。自分でこうありたい、こうあらねばならんかのように決めつけて、そうならないに対し、苦しみ悶える我があったね。他人ばかりを見ていたね。あの人がこうさえしてくれたら、あの人がこうだからなどと、自分さえそうはまいらないのに、人がそう着々とまいるものですか。あの人がわかってくれさえしたら楽になってもらえるのにと、その人が楽にならない事を苦しみ悶えている僕だった。”

その頃、キリスト生誕にまつわる伝説に登場する暴虐な王、ヘロデ大王の半生を描いた映画『エロデ大王』(1959年12月1日公開)見た柔和子は手紙に映画の感想をしたためた。
次のようなストーリーだった。
映画・エロデ大王

“約二千年前のパレスチナは、エロデ大王の暴政の下にあった。勇壮な戦士であり、神殿や都市の建設に力を注ぐ彼も、人民に対しては暴君であった。彼はローマのアントニオと同盟することで勢力を保持していた。ところが、アントニオの軍が、シーザーの養子オクタヴィアヌスに敗れたことから形勢は逆転した。王宮内には謀反の機運が高まり、エロデ大王の地位は危うくなった。彼は自身でオクタヴィアヌスのもとに出かける決心をした。
出発に先だち、彼は腹心の部下アロンを呼んで、残酷な命令を下した。自分が狂気のように熱愛する王妃マリアムを、もし自分が帰らぬ時は殺害せよというのである。
王が出発してしまうと、マリアムの母アレッサンドラが陰謀の口火を切った。息子のアリストブロを王位につけようと計ったのである。折から王はオクタヴィアヌスにより獄につながれているとの報が入った。叛乱は爆発した。アロンは命令どおり王妃殺害を計った。だが、妃と王子アレッサンドロの姿をみると、彼の手はにぶった。暴徒から二人を守ってアロンは脱出した。
その時、エロデ大王が突如帰国した。彼はオクタヴィアヌスを言いくるめるのに成功したのである。復讐がはじまり、妃の母や、その子で妃の弟アリストブロは殺された。その上、王は妃のマリアムとアロンの仲をさえ疑った。アロンは捕えられて拷問され、妃も、狂った王に殺されてしまった。
死後、妃の潔白を証明する事実が現われたが時すでに遅かった。ますます狂気をつのらせた王は、三人の東方の王が、彗星に導かれ新しいユダヤの王の生誕を祝いにきたのを耳にした。
彼は、その年にベツレヘムで生れたすべての赤児を殺害した。無人の王宮の中で、マリアムの名をよびながら、エロデ大王は彷徨った。キリスト文明到来の前夜の物語である。”

山岸巳代蔵はこの手紙の一言一行に、鉛筆で○や×や下線等で強調したり、〈同感感激〉〈一緒に見たかった〉等と書き込んでいる。
二人とも、エロデ大王と王妃マリアムに自分自身を重ねていた。
そして〝最愛の妻さえも責め殺すような、前世紀の遺物(剛研鑽での我抜き)に死守して〟いた自身を振り返り、

“どうかどうかエロデ大王に成らさないでね。アレを教訓に僕も好んで成らないよう努力するから、”

と誓うのだった。

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わが一体の家族考(109)

メビウスの輪・二人の一体
メビウスの輪

山岸巳代蔵のこうした複数の女性との〝愛情研鑽現場〟での狂態、本人はそこから真なるものへと打ち続く本質的な世界への入口を見出したとも言うが、あまりに理解をはるかに超えたものだった。

“甘えているものではない
 二人の女等にこだわっての問題と違う”

と自己弁明しつつ、

“理念と現象と、一貫して見ないと。”

ともいう。
もちろん自分らも所謂複数婚の修羅等に眩惑されてはならない。ヤマギシズム結婚観の核心部分へと分け入っていきたいと思う。
手がかりとして、例えば先の〝柔和子に寄せる〟に次のような一節がある。

“本当の僕になりきって聞いて欲しい、知って欲しい。”

という。例えば乱暴している姿を見て、非難しないで、苦しいのだろうなぁと共に苦しむ〝同情者の立場〟でもなく、何であんな事するのかと〝何故の立場〟でもなく、検事、裁判官や教師の立場でもなく、

“顔も姿も心も体も、年令、性別も凡て、全く愚かさも、幼稚さも、僕そのままになって聞いて欲しいよ。淋しがりやで、自制心のない僕になりきってね。”

と、判断等、後の後の回しで、寸分違わぬ同じ僕になりきってね、と呼びかけているのだ?
どういうこと? 〝本当のお互いになりきる〟なんて、そんなこと実際可能なのか?
あの表側がいつのまにか裏側に繋がっているという不思議な〝メビウスの輪〟のようなものか?
次のようにもいう。

“僕と柔和との恋愛結婚は真なるもので、心・情・感等の世界では、我執の出没によって波立ち、言動・現象は結婚したり、解消したりしているように見誤られるが、感の世界の基なる無感の真の世界では、恐らく絶対動かない、離れようのない真の結婚だと思う。
従って何時か其のいずれか(両方にありそう)にある我執が消えた場合、心も現象も完全無欠の完全夫婦と必ずなるであろう。
過渡期に如何なる波乱万丈の混乱事象が起ころうとも、末は必ず真なるものに落ちつくもの。
人間であるから思い違いはいくらでもある。それは赦されるが、それを持ち続け放そうとしない我執は、いつでも赦されない。自分が苦しみ悩むものである。”(我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり)

いったい何を言わんとしているのだろうか。
ここでは我執の有る無いは問われていない。これほど〝我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり〟と断言しているわりには、〝我執の出没によって波立ち、言動・現象は結婚したり、解消したりしているように見誤られる〟と我執が有ることに案外寛容なのだ!? たんなる修辞的な逆説表現だろうか?

否、それが〝我のある世界での研鑽態度〟なのだ。自分が気狂い、乱暴者、ひねくれ者、我で苦しんでいる幼稚な人になりきって、〝同じ二人が一つになれてから〟、そんな〝二人の一体〟から仲良くほのぼのの気分で問題を解いていこうというのだ!
この間の愛情研鑽現場で、ヤマギシズムと現実との、どうも相一致しない矛盾に翻弄され続けてきた。真なるものには、悩み・苦しみはないのが本当なのに、いったいこの苦しみはどこからやってくるのか?
理屈ではその通りだと思うが、そうなれませんと言っている相手を、これでもかこれでもかと責め苦しめ、自らも自分で自分をどうすることも出来ない苦しみから脱却できい責め手、受難史の数々。
それが今や、そうも行かない不思議な謎が解けたのだ!
それが〝我のある世界での研鑽態度〟、〝本当のお互いになりきる〟ことだった。一体になることが先だった!?

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 「と」に立つ実践哲叢(33)

 『君たちはどう生きるか』
君たちはどう生きるか

昨年来新聞広告『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)を目にするたびに、戦前に書かれた題名からして倫理道徳の教科書を彷彿させるものが、なぜ今多くの人々に共感をもって読まれているのか不思議に思われた。
そんな折人から「面白いよ、〝粉ミルク〟の話なんて、まるで特講でやる〝一体〟のテーマそのものだよ」と勧められてようやく、少年「コペル君」と彼を亡き父親の代わりに見守る叔父さんとの心温まる物語を自分も読んでみた。

驚嘆した。青少年向けの啓蒙めいたものと見なしていた自分のキメつけが外れた爽快感があった。この間自分らが必死に追い求めているテーマがここで展開されている!

例えば先の〝粉ミルク〟の話。赤ん坊の時粉ミルクを飲んで育ったことを思い出したコペル君は、ミルク缶に画いてある地図からオーストラリアの牛を自分のお母さんに重ねて、そこから順々に自分の口に入るまで一つ一つ辿っていくと、たくさんの人が自分に繋がっている事実を寝床の中で発見して昂奮する。そう考えてみるとすべてそうで、先生の洋服も靴もやはり同じで大勢の人と網のように繋がっていることを実感するのだ。
ところがそこでコペル君は一つの疑問にぶつかる。大勢の人の中で、自分の知っている人は粉ミルクを売ってくれた薬屋の主人だけだ。後はみんな、見ず知らずの人ばかりでどんな顔しているんだか見当もつかない。コペル君はそのことが実に〝へんだ〟と思う。

そんな疑問を叔父さんに打ち明けると、どこまでも赤の他人だとしたら、その繋がりはまだ本当に人間らしい関係になっていないからだ。そして本当に人間らしい関係とは、人間同士が喜び、喜ばし合う世界ではないのかと叔父さんはコペル君に同意を求める。

またコペル君には何人かの指切りまでして約束し合う心を許せる友人がいる。
ところがある〝雪の日の出来事〟で自分の弱さに打ちのめされる。親友たちが殴られているのを黙って見ているだけで駆け寄ることが出来なかった。そんな卑怯者の自分についての悔恨に責められる。一人ぼっちの暗い暗い世界に落ちこみ、とうとう熱を出して寝込んでしまう。

事情を察してかある日、お母さんが女学生時代の妙に深く心に残った〝石段の思い出〟の話をしてくれる。
石段の思い出

学校の帰りに重そうな風呂敷包みを下げたおばあさんが、お母さんより五、六段先の石段を登っていた。その大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物を持ってあげようと思いながら、とうとう果たさないでしまった。大変悪いことをしたような気がしたけど、それからは人の親切がしみじみと感じられるようになったのだという。

ああ、自分にも思い当たるなあ。
しかもそんな想いを繰り返しめぐらせていると、いつしか自責の気持ちも消えて心の中がジーンと熱くなってくるのを感じる。実は心の奥底では自分の喜びは他の喜びとなっているのだ!

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