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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(115)

思い浮かんだ虫のいい考え

ある日の研鑚会では、ボードに次のように画かれてあるテーマを終日眺めつつ研鑽した。
“無我執研鑽
1 人間の判断能力
(五感、六感、記憶力、知能、知識、経験、その他)
2 真理、真実、真意、真相、事実、実態と
人間の考えや観察による判断との異い
3 無我執(我当然、執抹殺)”
横山大観『無我』

なかでもとりわけ〝2〟の項目の、真理、真実……と続く上の段と人間の考え……と続く下の段との〝異い〟を自らの実例を出し合って研鑽した。
ここでの研鑽の急所は、自分よりの観方の延長で上の段と下の段を〝分離〟することにあるのではなくて、〝異い〟を肚に落とすことにあった!?
フッと〝自分がヤマギシズムになればよい〟という気持ちが思い浮かんだ。
でも瞬時に〝そんな馬鹿な〟と打ち消した。だって

“ヤマギシズムとは一口で言うと、すべてに本当、即ち真なる理は正しいと思う考え方で、何事を考えるにも行うにも、真理に即応しようとする思想である”

から、こんな我執まみれの自分が絶対にヤマギシズムになれるはずがないではないか。
でも、このままでは〝異い〟をスッキリ肚に落とすことはできない。そんな不完全燃焼感がくすぶり続けていた。
実はここでも〝次元の〈転換〉〟が意味するものにそれこそまさに直面していたのだ。
その当時は思いもしなかった事柄にぶつかって先の見通しが全く描けなく不安な日々を過ごしていた。心境的にも追いつめられていたからか、いつしかなじみの自分がいちばん安堵して心安まる自分だけにしか通じない場所へと引きこもりがちになっていた。現実から目を背ける心理状態にあったのだろうか。

ところが、そんな〝なじみの自分がいちばん安堵して心安まる自分だけにしか通じない場所〟から醸しだされる何かほのぼのとした温かさに何度もくり返し出会っているうちに、この不思議な感じの正体はいったい何だろうと想いを馳せるようになった。むしろ前向きにそうした想いに会いに行くようになっていた。心地よかったからだ。癒やされた。

でもその場所は自分しか知らなく、とても他の人々に通じていくはずがないマイナーな世界だった。
そんな世界が二十数年ぶりに蘇ったのだ!
というのも、いったんは自分よりの観方から来る極私的な体験世界でありヤマギシズム運動には不必要なものとして自ら封印・棄てたものだった。そんな世界がくり返し蘇ってきたのだ!?
以前にも紹介したその部分を引用してみる。

“朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも批難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。”(ある愛の詩)

自分の心に響く極私的な体験世界。きっと他の人に伝えようとしたら、〝通じないもどかしさ〟に身もだえするような……。
この何とも言いようがない自分自身の中から湧き出してくる〝この熱い感じ〟に思いを集中させていると、そうか〝いい思いをする〟ってこんな感じなのだなあと改めて実感させられた。

以前Sさんから「ヤマギシズム社会は徹底した個人主義ともいえる」と聞かされて驚いたことがあった。それまで漠然としたみんなで仲良く助け合って生活する社会像の印象しかなかったので、エッととまどったのだ。Sさんはいう。

“結局自分がよくなるためからすべて出発している。
屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝など一切ない。何ごとも自己より出発して自己に返る、という徹底したものだという意味からいったもので、工夫して人をよくするとか社会をよくするのでなく、自己の楽しむ場を広めていくためで、決して人のためでないということをいったもの。
そういう個人がやっていく上に副産物で理想社会ができていくというような意味なのだけれど……”

だとしたら、自分にとって一番心安まる場所から〝自分がヤマギシズムになる〟への通路が〝自分がよくなるため〟から拓かれないだろうかと、そんな虫のいい考えが思い浮かんだのだ。

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わが一体の家族考(114)

〝握り飯と餅〟の譬え

なかでも〝観念にも二つある〟と知らされて驚いたことがある。

“観念も二手ある。理念からくる観念と、理に反しててもよいとする観念よ。何か分からんものがあるとする、それ研鑽態度よ。明田さんも「何か分からん、それを知りたい」と言う。それ研鑽態度よ。だが分からんままに放っておいて、理念の検討やらないで、現象を言って信者を作る危なさよ。(略)
理念を軽く見るのと、これほど大事かと。「卵の価値は〝生きる力〟だ」と聴いた場合、「ああそうかな」となるのと、「何も形してたら、売れたらよいやないか」と。これは握り飯談義かと思うの。たくさんの人達に影響のあることは、なおさら考えてほしい。
観念と理念を分けて下さいね。”

観念にも〝理念〟、理に立った観念と〝非理念観念〟、ただ無智な理を忘れた観念と二つあるのだという?!
確かに当時(1960年)ソ連・中共・北朝鮮の一糸乱れず明るく楽しく仲良くやっている共産主義の全盛期の姿を見て、あれは初期の希望に満ちている段階に過ぎないと山岸巳代蔵はその正体を見抜いていた。
唯物論も一つの観念に過ぎず、何故そうなったかの過程を検べないで、現象界で仲良くいけたら良いとする危なさ、〝握り飯談義〟に警告を発していた。
月の世界へ何ぼ行けても、やはり解決できないものがある。今の姿は、人間社会はこんなものだと観念づける〝非理念観念〟からの〝仮の現象〟にすぎず、真理に即応する〝理念〟に立つ信じ込まない研鑽態度からの現象化される実態とにハッキリ区別される。

そうした〝出どころが全く異う〟にもう一歩踏みこんでみる。
〝二つの幸福〟についても、〝幸福感〟の延長線上に〝真の幸福〟が現れる訳では絶対にない?! タダそう思っているのみの〝感〟から出発しては、世界中からひとりも不幸な人が無くなるようにはならないのだと。
以前ヤマギシの実顕地造成の過程で、まずは無理ないところで共同経営等で段階的に試しつつ、良かったら実顕地化つまり〝共同から入って一体へ〟を目指したらどうかという意見もあったと聞く。
そこでよく〝共同と一体〟の異いを、〝握り飯と餅〟の譬えで論じられてきた。

山岸 〝一体〟を言っていた。僕が言ってるのは、餅の譬えを出したのは、「人間はみな餅だ」と、心の中に思ってるのよ、そういう心で言ってるのよ。皮をむき、蒸して、搗いたら餅になると。
現在、「一体、一体」と言ってて、一体になってないのは、「我の皮をかぶっていて、それをむかんことには一体になれない」と、これを言わんとするのよ。餅でも皮をかぶってる間はどっちに搗いても餅にならない。
やはり一体を出すのが先や。またばらばらになるものを先に作って出すより、一体を先に出してと、これを言うのやけど、これを聴かないで、ちゃんと自分の考えで早分かりする危なさよ。”(第一回ヤマギシズム理念徹底研鑚会記録より)

ここまで〝共同と一体〟の異いについてハッキリ解説されているにも関わらず、どうしても〝自分の考えで早分かりする〟のかバラバラの〝握り飯談義〟にはまり込んでしまいがちだ。
おはぎ

なまじ中途半端な〝ぼた餅(おはぎ)〟のように表面上は固まっているために何ぼ搗き上げても餅になれないでいるのかも知れない。
それぐらい「人間はみな餅だ」から出発するという次元の〈転換〉を意味するものの大きさをしみじみと感じる。しかしここの個所が、いっとう分かりにくいのだ。
本質的な異いをかれこれ口で言い、文字で書いてもどうしても〝共同から入って一体へ〟の文脈としてしか受けとめられない。それは普段の自分らの使い慣れた慣性観念からの考え方でもあるのだろう。
ただもう〝仲良かったら良い〟〝健康だったら良い〟とする社会通念に盲信し続けるのか、やはり自分から殻脱いでもっと底の本質的なものから検べていこうとするのか。

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 「と」に立つ実践哲叢(34)

 『天才を育てた女房』

先回ベストセラー『君たちはどう生きるか』の中の「石段の思い出」を紹介しつつ、

“ああ、自分にも思い当たるなあ。しかもそんな想いを繰り返しめぐらせていると、いつしか自責の気持ちも消えて心の中がジーンと熱くなってくるのを感じる。実は心の奥底では自分の喜びは他の喜びとなっているのだ!”

と記した。そして、その次に〝自分の喜びは他の喜びとなる〟心境って、こんな感じなのかなあといつか皆で研鑽した〝傘の例〟が思い起こされた。こんな話である。

“雨の日、向こうから傘なしで濡れてくる人がいたら、ふっと「この傘を使ったらいいよ」と差し出したい気持ちが浮かぶだろう。でも普通はそんな一瞬の気持ちが浮かぶか否かに(でも自分の方が濡れて困るな)といった様々な理由など何か観念づけたもので打ち消してしまう場合が多い。”

それでもなお、実際に最初に浮かんだ気持ちで傘を差し出してみたらどうだろう。きっと相手も困っていた時だから、差し出されたものへの喜びもひとしお増すのが人の情けではないだろうか。傘を差し出す方も嬉しいし、受ける方も嬉しい。
そんな気持ちのある心からの行為から、一気に与えて喜び、受けて喜ぶ世界が現れる! そこに喜びの自分を〝発見〟するのだ!

その矢先たんなる偶然か、数学者・岡潔とその妻・みちの人生を元に再構成したテレビドラマ『天才を育てた女房』を見た。
天才を育てた女房

世間から無視され数学三昧の発見の喜びのみに生きる変わり者の岡潔(佐々木蔵之介)を、あなたには〝頭の中にあるものを形にする責任がある〟と支える妻・みち(天海祐希)の夫婦愛に感動した。何せどんなにか素晴らしい画期的な論文を書き上げても、学会の誰からも理解されない!? 妄想に過ぎないと仲間外れにされて大学の職にも就けない。
それが戦後、論文を渡米する湯川秀樹に託し、シカゴ大の数学者アンドレ・ヴェイユを経由してフランスにわたり、はじめて第一級の成果として世界に受け入れられる。 

岡潔は若い頃フランスに留学していた。そこではじめて日本には空気や水のように絶えずふんだんにあるものが、ここには無いことに気付く。日本にあってフランスには無いその何かとは、人と人との間に、人と自然との間によく通い合う心、〝情〟であった。
数学上の発見においても、そんな〝情〟を基調にした温かいものに包まれている中に、なぜか突然難問が解けてしまった!
岡潔

魚が水の中に住んでいるように、人は〝情〟の中で暮らしている。だとしたら、人間観念界の空気や水に相当する部分についても、その清浄化復元に心すべきではないのか。
晩年の岡潔は、〝日本の国という水槽の水の入れ替え〟を本気で提唱しつつ人類滅亡への警鐘を鳴らし続けた。
改めて私の心の中にあるヤマギシズムを想う。 

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わが一体の家族考(113)

〝何でも二つある〟

振り返ると日々の生活の中で繰り返し呪文のように、〝何でも二つある〟というフレーズを自分に言い聞かせつつ現実に立ち向かおうと心してきた。
ここでの〝何でも二つある〟というフレーズは、例えば次のような文脈が出どころであるに違いない。

“幸福といっても二つあり、一時的の喜びは本当の幸福ではなく、仮の幸福感に過ぎないものです。”

つまり自分らは普段何気なしに幸福の意味を喜怒哀楽を伴う不幸に対しての対句で捉えていて、幸福だとタダそう思っているのみの、〝感〟だというのだ!?
その昔『二つの幸福 真の幸福と幸福感』(山岸巳著)という小冊子を資料に研鑽したことがある。そこでの小見出しをあげてみる。
二つの幸福

○仮の幸福(幸福感)に生きる愚かしさ
○感(幸福感)人種の如何に多き事よ
○真の幸福はいずこに……方法あり、具現方式で
○山岸会の結合とその活動
○ヤマギシズム社会は 幸福研鑚会から

つまり幸福研鑚会から、宗教・神仏に依らなくして、幸福感でない、真の幸福が得られるのだという!?
その頃は(否、今も?)幸福と感じる〝感人種〟そのものの自分しか知らないからか、〝真の幸福〟のイメージをリアルに思い描くことが出来なかった。逆になぜもっと詳しく〝真の幸福〟についての解説がないことが不思議というか不満でならなかった。
まあ、〝真の幸福はいずこに〟と問われてもねぇといった心許なさを感じながらも、この幸福感と真の幸福を区別する〝何でも二つある〟は研鑚会でどんどん拡張されていった。曰く

○人間の思い考えと真理、真実、事実、実態
○暗く見る観方と事実その中で強い自分を見いだす二つの逆の考え方
○二つの事実
○食べたいから食べるのと、食べなくてもよいが食べる
○失敗型と成功型
○共同と一体
○宗教と研鑽 等々

例えば今もって心に焼き付いている〝二つの事実〟談がある。
戦時中の飼料欠乏時代に養鶏組合の責任者だった山岸巳代蔵が牛も好まぬ粗飼料を調達して組合員に分配したところ、多くは食べさせずに鶏を痩せさせて皆の不評をかった。ところが山岸巳代蔵の鶏舎ではどの鶏も皆満腹し落ちついてよく肥り満足そうに卵を産んでいたという逸話がある。
この養鶏の達人談のようなことが八〇年代ヤマギシの有精卵の増産要請が一気に高まり、暑さや産み疲れや病気に負けない頑健な消化器の鶏体造りをねらって大量の青草やモミガラや焼酎粕のような食品副産物・廃物の活用もかねた給与を始めた頃、他人事ではなく同じ現象に直面したことがあった。 
というのも、ある日の鶏や豚や牛の飼料専門研鑽会で「ヤマギシズムでは餌代が安いほど鶏が健康に育つ」と聞いたのだ。その時は、原因と結果を逆さまにしたような表現にオカシミを感じつつ、何はともあれ、軽率にそうか安ければよいのかと、ある時単価の安い粗飼料を一度に多く給餌してみたのだ。
すると案の定、鶏を痩せさせて皆の顰蹙(ひんしゅく)をかった。打ちひしがれた。いったい自分の何が間違っていたのか?

確かによくよく観れば、例えばモミガラ一つとっても、こんな栄養もなく消化しにくい硝子繊維の固まりが餌になるとはとても思えない。事実食べ残しの餌を捨てる餌箱掃除で忙しくなり、しかも下痢便の鶏が続出したりでモミガラは厄介者にしか見えなかった。
反面またウイスキーを製造する際の液体粕とモミガラを組み合わせて給与してやると、なぜか鶏が喜んで食べつくす事実もあった。
モミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。
このモミガラを食べさすという小さな一事に、二つの事実がある? それって、どういうこと? とても不思議なことに思えた。人生上超難問題に取り憑かれた気分が続いた。

そうかあ、モミガラがダメじゃないんだ。モミガラを食べ残すようにするには、食べ残すようなやり方をこの自分がやっているからだ。食べ残さないという事実は、食べ残さないようにするからだ。そんな発見にも似た驚きが今も続いている。
〝出どころが全く異う〟のだった!
〝真の幸福〟を幸福と感じる〈私〉が確かに実在する!

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