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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(119)

『ファウスト』〝神秘の合唱〟

また三木成夫は学生時代から在野の哲学者・冨永半次郎(1883―1965年)に師事していた。そして文豪ゲーテが生涯を賭けて完成させた戯曲『ファウスト』の結末「神秘の合唱」の富永半次郎自筆の七五調の訳を研究室に掲げていたという。
富永半次郎自筆

“神秘の合唱
ものみなのうつろふからに
さながらに色とりとりにうつるなり
かけてしも思はぬことの
こゝに起き
ことはにも筆にも堪へぬこと
こゝになる
とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこそひすも”

1行目の〝うつろふ〟は移ろふか。2行目の〝うつる〟は映るか。〝とこおとめ〟は永遠の女性か。
なかでも最後の〝とこおとめおとめさひすとなよよかに われらひかれてをとこさひすも〟との訳がじつに味わい深い。ちなみに森鴎外は「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ」と、高橋義孝は「永遠にして女性的なるもの、われらを引きて昇らしむ」と、池内紀は「くおんのおんなが、われらをみちびく」と訳している。
三木成夫は次のように記している。

“ひとびとはこの宇宙の原形を在る時は「kosmos」と呼び、また在る時は「天」と呼ぶ。ファウストを完結させる〝Das Ewigweibliche(永遠の女性)〟の表現は、まさしく、こうした万物生成の天然の姿を、いわゆる大地母Magna Materのそれに託して披露した、それは文字通り〝根原秘奥への賛歌〟と見られるものであろうか……”(『人間生命の誕生』)

いったいなにをゲーテは、三木茂夫は言おうとしているのだろう? 当てずっぽうな物言いになるかも知れないが、かのゲーテが〝永遠の女性〟という表現に託した生涯とらえて離すことのなかった世界、山岸巳代蔵の「万象悉く流れ、移り行く」と呼べる世界、の解明にこそ、自分らがこの間追い求めてきた「秘められた実態の把握」に繋がるものがあるのではなかろうかと、ひどく好奇心をそそられるのだ。
山岸巳代蔵を始めこれら先達諸氏の未だ自分には謎めいたコトバは、共通して人間の中の「男と女」に、「人間」であるという本質的なものと「異性」であるという本質的なものとの両方を見極めようとしているかのようだ。
どういうこと?
一言でいうと、未だ生きられていない「男女の性」の世界を基調とした本質的な人と人との繋がりの世界で生きようというのだろうか……。
こんな自問自答が繰り返し脳裏に浮かんでくる。

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わが一体の家族考(118)

見ずして行うなかれ!

その解剖学者三木成夫の記述にあったゲーテの〝不可思議な転換〟についてあくまで自分勝手な推測にすぎないが今少し続けてみる。
1953(昭和二八)年「山岸会」が発足した年の暮れ、名古屋の養鶏専門誌『家禽界』の記者が京都地方の孵卵業者の得意先回り中に風変わりな養鶏の話から、その不思議な男、山岸巳代蔵に三日三晩旅館で書き上げさしたのが『山岸式養鶏法』だった。
山岸式養鶏法

その巻末は次のように記されている。

“今までに発表した断片的なものを見聞して、各地から、何か参考書をと所望され、また出版の呼びかけがよくありましたが、今これを書こうという意志はなかったところ、これは水害後の出来心で、用意もなく取り急いだため、纏まらない事甚だしいです。若い時に作成した自分用のデータ等少々残ってあったものまで逸失して、今になるとちょっと惜しい気がします。私には記憶力がなく、何か読んでも、頭に入れておくことが煩雑なので、そのエキスだけ吸収することにしています。人の名・年代・地名或いは文章までも努めて忘れる。ことに数字はなおさら覚えないことにして、それがどこを指しているかという程度で充分で、資料はなくしても私としては不自由はないのですが……こんなことで果たしてどうか……整理が出来ていないので重複した部分があります。
機を得て何れ削除・補綴を加えたいと思います。風袋が多くなり過ぎました。〝見ずして行うなかれ!行わずして云うことなかれ!〟の数語に尽きるものを。ではまた。(1953.12.)”

ここでの〝見ずして〟とは、何を〝見る〟ことなのだろう?
これこそ先述の「万象悉く流れ、移り行く」の一節に、心境の変化に伴って栄枯盛衰のはかなさやむなしさを見ていたものから宇宙自然界の底に息づく生命力というか美しさ・豊かさ・温かさの源がそこはかとなく広がっている自然全人一体の姿を見るということではなかろうか。
三木成夫はそのことを〝人間進化の究極の出来事〟と見なすのだ。
それはまたゲーテの眼に映じた大宇宙の森羅万象の〝ひとつのものが色とりどりに容姿を変えて見せる、そのような動き〟として眺める……というところと重なっていく。
宇宙自然も、人間そのものも、人為的な業績も、一日として〝後返り〟しない。常にとどまることなく流れ続けてゆく姿ではないのかと。
山岸巳代蔵もまたそうした秘められた実態の中の、

“人間の考えよりのものの中には、正しさに於て、方向を誤り、正しいと思っていること自体が思い違いで、大変な逆方向へいっていることがずいぶんある。”

と見なして、本来の姿・人間復帰へのスタート、考え方への切り変えを第一義としたのだった。
そして先述の、
〝稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく〟姿に、万象悉く流れてゆくものを見たように、
自分らもまた〝生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬ〟世代交替の〝後返り〟しない繰り返しに、とどまることなく流れ続けてゆくものの本心を見る思いがする。
これこそ理念と自分との間を結びつけるものの正体ではなかろうかと実感されてくるのだ。

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 「と」に立つ実践哲叢(35)

 コーヒーの〝美味しさ〟

最近の缶コーヒーのテレビCMがまったくもって心憎い演出だ。なかでも「世界は誰かの仕事でできている」シリーズの『つながっている』篇がとくに面白い。
世界は誰かの仕事でできている

道路作業員の一人が休息中に「便利になったよな」と、スマホアプリの便利さに感心する。→そのアプリを作った開発者が、コンビニの弁当の美味しさに「うま! この弁当企画した人、マジ神」と感動する。→コンビニの弁当を企画した企画者が、「お弁当は素材が命 生産農家様々ね」と野菜を作ってくれる生産農家に感謝する。→鮮度にこだわる生産農家は、「野菜は鮮度やけ、運んでくれる人に感謝やね」とトラックドライバーに感謝する。→新しく開通した道を通るトラックドライバーは、「この道完成したんだ、助かるわぁ」と道路作業員に感謝する。
そして再び、開通した道路で作業員二人の会話にもどる。
つながっている篇

「なんか他人とは思えないですね」
「つながっているのかもな」

これはスゴい! たったの30秒で缶コーヒーの〝美味しさ〟をここまで表現できるとは、と驚嘆した。きっと多くの視聴者の心に深く響いていくに違いない。
たしか宮沢賢治の言葉に「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とあったが、普段のたかがコーヒーの〝美味しさ〟にも通じるものがあるようなのだ?

ある日の研鑚会で、「本当にコーヒーを美味しく飲む秘訣は、例えば1日に三杯飲んでいたコーヒーを三人の人に飲んでもらった時のコーヒーの味、これは簡単な算数の問題です」と研鑽した。エッ!? 自分が飲まないのになぜ美味しいのだろうかと頭を悩ましたことが懐かしく思い出される。
人と人とが離れ、相反目している今の風潮の中で、くだんのCMでの「なんか他人とは思えないですね」と、うんと情が出て泣きたくなるような言葉が心に染み入るようだ。

そこにはよく考え抜かれた哲学が感じられる。するとやはり梅田悟司さんという制作スタッフの一人に『「言葉にできる」は武器になる。』という著書があった。

筆者は、相手に伝わり、胸に響く言葉を生み出したいとの強い思いから出発する。そこから言葉には、他人とコミュニケートするための〝外に向かう言葉〟と物事を考えたり、感じたりする時に無意識のうちに発している〝内なる言葉〟の二つの種類に気付く。〝外に向かう言葉〟を育てる〝内なる言葉〟の存在に気付いたのだ!
この〝内なる言葉〟の涵養こそ、相手の胸に響き、納得や共感を得られるようになるコツなのだと。そして今流行の「かわいい」や「ヤバい」で留めていると、いつしか自分の心の琴線を鈍らせてしまうことを危惧する。

要は〝たった一人のために言葉を生み出すこと〟にある!? まったく同感だ。自分の中のあなただけに通じればいい〝内なる言葉〟こそ誰の心にもあるあなたなのだから……。

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わが一体の家族考(117)

〝次元の〈転換〉〟を促すもの

先の「万象悉く流れ、移り行く」という森羅万象に満ち溢れているものにしょっちゅう想いを馳せていると、3D写真のように思いがけないものが浮かび上がってきて感動的だ。以前書いた文章の一部を再掲してみる。

“観光道路・レインボーラインの山頂公園からは、日本海・若狭湾の入り組んだリアス式海岸に面した若狭湾国定公園を代表する景勝地、三方五湖(みかたごこ)が一望できた。しかも正面の水月湖には何度目かのボーリング調査やぐらも遠望できた。
三方五湖

この水月湖から1991年七万年間におよぶ年縞(ねんこう)が発見された。年縞とは、木の年輪にも似て春先に大発生するプランクトンの死骸(白い縞)と秋から冬にかけて積もる粘土(黒い縞)とが織りなす縞模様で、過去の気候変動や植生変化などに関わる重要な情報が含まれているという。何万年にもおよぶ泥の堆積が奇跡的に維持されていたのだ!
麓の若狭三方縄文博物館には、湖底から採取されたボーリングコア試料の一部が展示されている。年縞の一年あたりの厚さは約0、7ミリ。その中に中国大陸からの黄砂,火山灰、珪藻、花粉、葉っぱの化石等々が分析解明されて、地震や大洪水の年も正確に復元されているという。
1年分の「年縞」

驚きだった。それまでわたしの中では地・水・火・風など無生物界の現象は、時の流れとともに跡をとどめないものという先入観があった。しかし泥の堆積物が語る事実に触れて、人間を含む動植物の生き様と変わらないのではという思いに打たれたのだ。数万年前までさかのぼれる黒っぽい縞と白っぽい縞の交替のくり返しに、無生物界の意志というか「こころ」を見たかのような……。
稲は一生元気で暮らして良い子孫を残したいと稲穂を実らせ、美果が甘露を湛えて人を待ち、太古の昔から鮭が故郷の川へ産卵のためにさかのぼっていく。そして吸収生長の期と後の世への生命の繁栄を、劃然と区分する。
わたしたち人間もまた、生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬ世代交替を代々くり返している。そんな不断の前進一路・無停頓の律動(リズム)を生きるわたしたちがいる! そうした交替の律動(リズム)現象に、なぜか名状し難い興奮を覚え、体の奥からなにか心温まるものがこみ上げてくるのだ。”(2015.1.1本旨 心あらば愛児に楽園を)

この間、解剖学者・三木成夫の『胎児の世界』等の著作に感化されてきた。なかでも『人間生命の誕生』所収の「ゲーテと私の解剖学」と題した一文に触れた時、今後自分が何に向かって考えていけばよいかの力強いヒントが得られたような気がした。
まるで自分に向かって語りかけられているように……。
その一文で三木成夫は、晩年の文豪ゲーテが生涯を賭けた労作『ファウスト』全篇を封印してしまった、その真意を探り続けることが自分の専門・解剖学はおろか生き方にまで大きな影響を受けた経緯について記している。

“十九世紀前半の一ドイツ人の内面に起こった、それも人に知られない不可思議な転換という出来事を、畑ちがいの私が、これ程までに問題にしようとする、そのこと自体、はなはだ奇妙に思われる方があるかも知れない。しかし十年一日というたとえがあるが、このゲーテのぎりぎりの体験に、様々な角度からひたすら近接を試みているうちに、何時からとはなく、一体このWendung(転機―引用者注)なる出来事は、一人の人間の特殊な経験として看過すべき性質のものではない、それどころか、これこそ人間進化の究極の出来事ではないかとすら思われて来だしたからなのである。
すなわち、このような体験の保証がない限り、徒に、ありのままにものを見るという事自体、実は不可能な要請ではないかと思われてき出したからなのである。”

として、三木成夫はここ二、三年、一番身近な生物の現象がこれまでとはおよそ違った生き生きとした姿で目に映り始めた自分自身の内部に起こったある微妙な変化をゲーテのぎりぎりの体験に重ねるのだ。
なかでも〝次元の〈転換〉〟を促すぎりぎりの体験が、〝一人の人間の特殊な経験として看過すべき性質のものではない、それどころか、これこそ人間進化の究極の出来事ではないかとすら思われて来だした〟という一節から、三木成夫と同じような心当たりが自分にもあるかのように迫ってきたのである。
すなわち、

“この自分がもっとも心安まるこの場所から〝真理、真実、真意、真相、事実、実態〟への通路というか「理念と自分との間に橋を架ける」とは、こういうことではなかろうかという驚き”
とも重なるようにも思えてきたのだ。

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わが一体の家族考(116)

心の琴線に触れる場所

“神がそばを通られてもわたしは気づかず
 過ぎ行かれてもそれと悟らない”(ヨブ記)

無いものが、見えないものが見える人になるために、〝ふとした機縁から気づい〟た世界を通り過ぎないために、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを何度も何度も繰り返し表現していくのだ。
何とも言葉で表せない感情でいっぱいになり胸が熱くなる〝この感じ〟って、いったい何なのだろうかと。
しかも〝この感じ〟に抱擁(つつ)まれて自足している自分とはどんな自分なんだろうか?
そう言えば〝心の琴線〟という言葉があったなあ。〝琴線〟という言葉が強く印象づけられたのは、たしか某新聞のコラム記事(1985年)によってであった。

“春の風や花びらといっしょに、楽しい便りが郵便箱へ入ってくる。外国からの絵はがきや、仲間の詩集や、映画の案内状や、なかにヤマギシズム春まつりの案内がひときわ目をひいた。ことしのテーマは「散財」とある。(……) きっとこの大らかな「散財まつり」は人の心の琴線を揺するに違いない”

〝琴線〟とは"heartstrings"の訳であり、古代解剖学で心臓を包み支える腱(神経)と考えられた。古くは「心弦」「心糸」と訳されていた。人の心には、琴の糸のように共鳴するメカニズムが備わっていて、その糸に触れると感情を動かされると考えられていたことから、心の奥底にある、微妙で感じやすい心情を〝琴線〟というようになった。こんな説明が一番しっくりする。
それにしても彷彿と浮かぶあの恥ずかしそうな笑顔から一瞬のうちに蘇り、こみ上げてくる心の琴線に触れるものの正体は、いったい何なんだろうか? 

そうやって四六時中自分自身の実感に思いをめぐらせていると、ふと〝琴線〟の鉱脈を探り当てたような瞬間があった。底が抜けたような感触があった。実感をともなった体験の場に立ちあがった。

例えば山岸会が発足してすぐの山岸巳代蔵の著作『獣性より真の人間性へ』は「万象悉く流れ、移り行く」という一節からはじまる。これは栄枯盛衰のはかなさやむなしさを表現したものだろうか。いや、それは逆で事実は宇宙自然界の底に息づく生命力というか美しさ・豊かさ・温かさの源がそこはかとなく広がっている自然全人一体の姿を言いあてた表現ではなかろうかと見えてきたのだ。
だとしたらこの自分がもっとも心安まるこの場所から〝真理、真実、真意、真相、事実、実態〟への通路というか「理念と自分との間に橋を架ける」とは、こういうことではなかろうかという驚きがあった。
琴線に触れるような体験の先に、人間本来の姿としての自分らの「ヤマギシズム」が立ち現れてきた! それって〝自分がヤマギシズムになる〟ということ?

例えば作家ドストエフスキーは、ムイシュキン公爵の心安まる場所を次のように表している。

“それは彼がいつも好んで思い出す地点であり、まだスイスに住んでいた頃、好んでそこまで散歩に行っては、その地点から眼下の村を、下のほうにわずかにほの見える真っ白な滝の白糸を、白い雲を、打ち捨てられた古い城を、眺めたものであった。ああ、いま彼があの場所にいて、そしてひとつのことだけを考えていられたら、どんなにかいいことだろう。そう、一生そのことばかりを考え続けて、そのまま千年だって過ごすことができただろう!”(『白痴』)
スイスの片田舎

そこは〝ただ自分の思いだけを抱いて一人きりになり、誰にも自分の居場所を知られないような場所〟なのだ。自分だけにしか通じないそんな心の琴線に触れる場所がある。しかもそこから、〝メビウスの輪〟のように誰の心にもある同質の〝琴線〟に触れられる・共感するという不思議さに出会うのだ!

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