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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(123)

何しにこの世へ出て来たものか

それにしても〝二人一人格〟のイメージが今一つリアルに膨らんでこない。
そこには根強い頑固観念の中にどっぷり浸かって暮らしてきた自分らがいる。
〝恋愛〟といい〝結婚〟といい〝夫婦〟という世界は、人生のある一時期直面する人間社会生活のホンの一部にすぎないという頑固観念だ。何しろ他に社会、政治、法律、産業、経済、教育、宗教等々の分野で取り組むことはたくさんあるのだから、いつまでもたわいもない〝真の幸福結婚〟などにかかずらっているわけにはいかないのであると。
以前にも紹介した「イエスの方舟」の千石剛賢さんは、そんな現状の結婚を

“結婚ってなんだ、良心を麻痺させる淫行の場ではないのか。”

と言い切って、

“男は女を愛することを、大げさでなく、人生最大の意義、ただ一つの価値というふうに分かっとらないかん。”
“夫と妻の素晴らしさは、一体の人格を発見するところにある”(『隠されていた聖書』)
千石剛賢

と強調する。随分こうした飾らない千石剛賢さんの語りに刺激された。
山岸巳代蔵もいう。

“人生最大の意義は「結婚の華」と「よりよき創造の実」の歓びであろう。”
“一体でない結婚など、
夫婦の真字・ふさい

(ふさい)などあり得るものだろうか。
何も出来なくとも、先ず我執をなくして一体に。
知恵、知識、能力、容姿に先んずるもの。”

他はみな真の結婚の何たるかさえもわきまえないニセモノなのだという。だから、

“五十歳、七十歳になった人も、今からでもやり直して、決して遅くはないと思う。
他を責め、批難している自分自らの結婚が偽物だったり、不徹底・不完全なものだったでは、ひと事をかまってるヒマもなかろうし、ただ一日でも真の結婚の妙境に浸ってから逝かないと、何しにこの世へ出て来たものか、人生の意義も覚らず、うとましい限りではある。”

として、諦めないで、

“人間社会を幸福の花園に飾る一番大切なことだけに、五十、六十、七十歳に歳をとろうとも、資格の揃うまでは結婚を焦らないことだと思う。”

と、〝真の結婚の妙境に浸って〟から逝けという!?
自分らは根本的な大思い違いをしているのかもしれない。ヤマギシズムの出発点に未だ立っていないのかもしれない。
共に真面目に考えてみよう。

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わが一体の家族考(122)

二人一人格

毎朝見上げるメタセコイヤの大きな樹がある。最近はもう初夏の若葉から深緑へと移りゆく一本の円錐形の樹形としか見えない。が、しかしそれまでの冬枯れのメタセコイヤはさまざまな想念が去来する実に味わい深い一本の木だ。
というのも写真を見てもらえば分かるように、上部できれいに幹が〝二股〟に分かれているのだ。一本の木が二本に、二本の木が一本に……。
メタセコイアの樹

先の〝二人の一人格〟がイメージされてきて、なにか飽きることのない姿とでもいうか秘められた実態を垣間見たようなドキドキ感を毎度覚えるのだ。
晩年の山岸巳代蔵がいっていた、

“〝同じ二人が一つになれてから〟、そんな〝二人の一体〟から始まるものがある”

これってどんなこと何だろうと思いをめぐらす。たしか〝一つが二つ〟にも二つあったはずだ。ここでは〝不幸との対句ではない〟本来の姿からの一つから発する二つのことだ!
あの旧約聖書の中の一節

“そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”(創世記2:21~2:25)

に重なるのだろうか。
一体の夫婦から始まる本当の仕事があるのだという!?

“そこで、「夫婦とは」、「人間とは」と検べてみて、先ず夫婦一つだとの観方に立って、男と男と寄ってするより、夫婦が一つになってする仕事の方には、本当のものという意味で質の異うものが出てくるので、半分でやったのでは、本当の仕事になってないというのも出てくる。
〝一つ〟というのは、離れていようが〝一つ〟が先ず根本になるが、肉体も言葉のやりとりもあるから、出来れば、現象界でも、心の世界でも、〝一つ〟がなおよいのだろう。心が〝一つ〟なれば、離れていても相当良い仕事が出来ようが、もう一つ、〝一つ〟に仕事すればなお良い仕事が出来るだろう。そういう状態にもっていく今の段階。〝一つ〟になって仕事した方が、二人がこっちの持ち味、こっちの持ち味といってやるより、質の異う本当の仕事が出来ると思う。”(第四回ヤマギシズム理念徹底研鑚会)

〝質の異う本当の仕事〟って、どんなこと何だろうと興味は尽きない。
そう言えば次のようなやり取りも興味深い。

山岸 山のあり方なんかだいぶ変わってきて、炊事へ夫婦で行き、人事も夫婦で、と何でも夫婦でいくと、今までゴテてたことが具合よくいくらしい。そういうふうにだんだん変わってきて、やってみると、だんだん能率が上がってきた。また楽しいという。研鑽会も夫婦で出る。総務も夫婦で一役だから、奥さんも一緒に出てるから話もみな通ずる。主人が留守の時も代理でなく、総務として来ているとなっている。総務も十人で十夫婦で二十人。
雄治 船頭が多すぎるのと違うか。
山岸 それが育児、文書、教育となっているので、出てくるとみんな関連があって出来る、といった便利。
雄治 「その人でなければ」と、まごつくことないしな。
山岸 寝てる間でも、夫婦で相談できるらしい。なかなか賑やかになってきたし、物事が簡単に済んでいくらしい。子どもの係でも、最も適当な人が、大事なことやから、しかも夫婦でいく。”(ヤマギシズム生活実顕地について1960.10.6)

そこまで行くの?
二人、即ち〈と共に〉からひらけてくる世界があるというのだ?

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「と」に立つ実践哲叢(36)

 お金より前にあるもの

テクノロジーが自分らの暮らしを劇的に変えつつある実感が確かにある。
小学生の頃視力も良かったのか、日がな一日寝転んで天井板の木目を飽きずに眺めつつ木目の代わりに観たい映画が映し出されたら良いなあと夢見ていた記憶がある。それが今や当りまえに実現している! 

最近〝資本主義〟の先の世界を選ぶ時代がやってくるという驚きの書、『お金2・0 新しい経済のルールと生き方』(佐藤航陽 著) が若い世代に評判だという。
お金20

じつは自分らヤマギシストも、半世紀以上前から「金の要らない仲良い楽しい」をうたい文句に、〝働かなければ食べられない、食べるために働く〟という交換価値や所有欲から来る観念を放すテーマにこの間取り組んできた。そんなどこか肩に力が入りがちな試みに比べて、この書の筆者ら後の世代の人たちの、難なく自然に〝そんなことは当りまえ〟といった語調にすがすがしさを感じた。
例えばお金に対する見方もとても軽いのだ! 現状はお金がないことによって起きる困窮や不安からお金に感情をくっつけてしまい、道具以上の意味を感じてしまいがちだ。そこを〝お金は価値を資本主義経済の中で使える形に変換したものに過ぎず、価値を媒介する一つの選択肢に過ぎません〟として、お金と感情を分けて考えられる新しい「価値主義」を提唱する。

お金2・0とは、従来の資本主義の枠組みでは当てはまらない〝更新〟を意味する。例えば今や仮想通貨(ビットコイン)は既存の国がコントロールする法定通貨とは全く違う仕組みで動いている。あたかも自然界の生態系のように、それぞれが分散して自律的に価値がコントロールされるシステムとして捉えてみるべきだという。
しかもそこでは〝信頼や時間や個性のようなお金では買えないものの価値〟が台頭して、〝儲かることから情熱を傾けられること〟へと〝お金〟や〝経済〟のあり方や価値観が変わろうとしているのだ、と。

そう言えば「物の豊かさから心の豊かさへ」といわれて久しい。なるほどそれがテクノロジーの進化に伴って、共感や感謝などの内面的な価値が基準となる「価値主義」に移ることだったのかと思い知らされる。
また以前アジアの新興国でスマホなどの新サービスが一気に浸透している光景に驚いたことがある。実はこれこそ法規制などの社会基盤整備が進んでいないからこそ実現可能な、途中の発展段階を飛び越す〝蛙飛び現象〟なのだという。謎が解けたような気がした。
カエル跳び

筆者は人間の内面的な価値は現在の資本主義の枠組みでは認識しにくく、ここに新しい時代を創っていくチャンス・生き甲斐・面白みが見いだせるというのだ!
なるほどなあ。心あらばその心意気で「金の要らない仲良い楽しい」を基調にした、既存のしがらみに一切とらわれない〝贈り合いの経済〟まで見通せないものだろうか。

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わが一体の家族考(121)

〝にわにおさまるみよ〟

それでは〝「永遠の母性」への回帰〟の辺りを、山岸巳代蔵はどのように語っているのだろうか。たんにゲーテ一人の人間の特殊な創作として見過ごすべき性質のものではないとしたら……。
例えば次のような箇所だろうか。

“夫だけでも、妻だけでも、何もなし得ない。夫は夫として生きない、妻は妻として生きない。男でないもの、女でないもの。男女寄って初めて、男の、女の、持ち味が本当に生かされるもの。”(柔和子に宛て 1960・2・29)

“僕はママとの、もう一対一で、一対一というより、二人の一人格。これでこそね、生きた仕事も出来るし、もうご飯もおいしいし、生活そのものもいきいきしてくるし、文章も生き生きしてくるし、著書もね。こういうね、こういうあの、結婚様式を、ね、こういうものがあると。相合うもの、最も相合うもの、こういうものがね、結婚できると、で、それでこうなるんだと。”(山岸夫妻を囲む徹夜研鑽会の記録 1960・3・27)
山岸巳代蔵と柔和子

これらの発言は、山岸会事件後指名手配された山岸巳代蔵が滋賀県大津市堅田での潜伏期間中に福里柔和子に宛てた手紙や研鑚会の発言である。なかでも4月12日に警察に出頭する前のこの時期、結婚観についての二人の不一致を解消して愛情の不安定に区切りを付けたいと、山岸巳代蔵は夫婦、真の一致一体により、真の世界へ脱皮することができた実態を次のようにも表現するのだった。

“○にわの、おさまる、みよ(1960.2.26)
○みよは、にわに完全に納まった。(1960.2.26)
○にわにおさまるみよ、オメデトー。(1960.2.27)
○柔らかく和やかな、夫を思い、全人を思う真の愛の女神に温かく抱擁されて、さすがのみよも、にわにおさまる。(1960.2.29)
○にわおさまるみよの初春(1960.3.11)”

これぞゲーテの「神秘の合唱」の詩句

〝とこおとめおとめさひすとなよよかに
われらひかれてをとこそひすも〟

そのものではなかろうか?
あえてヤマギシズム恋愛・結婚観の姿を〝「永遠の母性」への回帰〟に重ねてみた。
それにしても〝二人の一人格〟とは面白い表現だなあと次々と興味をそそられる。

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わが一体の家族考(120)

「永遠の母性」への回帰

いったいどんな意図があってゲーテ(1749-1832)は、『ファウスト』の結末「神秘の合唱」で「永遠の女性」への回帰で締めくくったのだろう。
ファウスト・山本容子画

まるで〝鮭の母川回帰〟と同じではないのか? 鮭の一生は、初期には淡水の清流にすみ、中期は大海に出て大きくたくましく成長する。時がくれば、あらゆる危険を乗り越えて川をさかのぼり、自分が卵からかえった場所にもどる。
しかしものの本によれば、〝サケはなぜ生まれ故郷の河川に戻ることができるのでしょうか?〟といった驚くべき〝母川回帰〟のメカニズムの方に関心が向けられている。
問いたいのは、なぜ〝母〟なのか、なのだが……。

幸いゲーテ晩年の10年間秘書をつとめたエッカーマンにゲーテの談話を記録した『ゲーテとの対話』がある。
その中の1980年1月10日付に、
ゲーテが食事の後、ファウストが母たちのもとへ赴く場面を読んで聞かせてくれて、ゲーテから「これ以上君に明かすわけはいかない。ただギリシャの古代では、母たちが神として語られていたということを見つけた。後は自分で工夫して創った。どこまで掴めるものか、ひとつやってみたまえ」と励まされる箇所が出てくる。
そこでエッカーマンは次のような見解に達している。
○母たちは時空の外に生きている。
○地表に形態と生命をもつものはすべて、創造する存在である母たちから発生する。
○この地上の存在の、発生、成長、破滅、再生という永遠の変態は、母たちの片時も絶えることのない営みなのだ。
○この地上で止むことのない生殖によって新しい生命を得るすべてのものに、女性的なものが主として働いているのであるから、あの創造する神々は当然女性的なものと考えられるであろう。
○もちろん、これはすべて詩的な創作にすぎない。しかも限りある人間の知恵を以てしては、これから先へは進めない。推測はするが、分からない、としている。
ここでエッカーマンは、断定・断言を避けているところが興味深い。きっとそれに先立つ1829年2月18日の次のようなゲーテの発言を受けての見解にちがいない。

“人間の到達できる最高のものは、脅威を感じるということだよ。根源現象に出会って驚いたら、そのことに満足すべきだね。それ以上高望みをしても、人間に叶えられることではないから、それより奥深く探求してみたところで、なんにもならない。そこに限界があるのさ。
しかし、人間はある根源現象を見ただけではなかなか満足しないもので、まだもっと奥へ進めるにちがいない、と考える。”

そう言えば自分らもいつも研鑚会で、
「すぐに当たり前のことにしてしまう」
「持って生まれた感応能力を磨かないと」
「知識や体験からは本質は見えない」
「目の前の事実そのものから、もっと新鮮な驚きを」
「ただ感心するだけでなしに……」
「知者の振る舞いをせずして、唯一向に念仏すべしと。ただそれだけ」
と諭されたものだ。

ともあれエッカーマンは、この不思議な場面を何度も繰り返し静かに味わいながら読んでみて、喜びをおぼえたと記している。同感だ。〝温かく包み込む母性〟にひかれる自分らがたしかにいる。

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