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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(132)

森﨑茂さんからの励まし

自分らはいまどの辺りにいるのだろうか。
以前〝ヤマギシズム恋愛結婚観への足がかり〟と題して書いた文章を九州の方に住む森崎茂さんが思いがけず拾い上げてくれて、次へと向かう道標を示してもらったことがある。有り難い! 貼り付けてみる。

『贈り合いの経済』を書いた佐川清和さんの「自己への配慮」というブログをいつもどきどきしながら読んでいる。まだ一度もお会いしたことはない。昨年8月に公式サイトを開設したとき佐川さんから励ましのメールをいただいた。偶然に見つけて読んでいますと書かれていて、とてもうれしかった。読みにくい文章なので読んでくれる人がいるとは思っていなかった。なにかやむにやまれぬものを抱え、半世紀のあいだ同一の主題を追いかけている表現者だと思う。その佐川さんが「自己への配慮」の「わが一体の家族考(88)」で次のように書いている。

“たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。
しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。
〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。”

引用のブログに先立って佐川さんは「わが一体の家族考(84)」で、ある気づきを述べている。

“社会学者・真木悠介(見田宗介)さんの著書『自我の起源』の中の「補論2 性現象と宗教現象」で次のような事例が紹介されている。
見田宗介

1980年代後半ヴェトナムからの難民船の幾つかが日本にも漂着したことがあり、偶然そのうちの一つを見たことがある。小さな木の船に、考えられないくらい大勢の人が乗っている。しかも漂流の月日の中で、いちばんはじめに死んでいったのは、小さい子供をもつ若い母親たちだったという。
つまり母親たちは乏しい食料を幼い子供たちに与え、自分たちは飢えて死んでいったのだと想像することができる。こうした難民船での出来事に心を動かされた真木悠介さんは次のように考察する。

“人間の個が、じぶんに固有の衝動に動かされながら、じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう”
つまりこういうことだ。“わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する”

性とは、自己解体の爆薬? どういうこと?
“自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している”からだ。そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだともいう。

以上のような難破船の話を知ったのは、森崎茂さんのブログ『日々愚案』の中の「歩く浄土182」からであった。そこで森崎さんは次のようにコメントされている。

“真木悠介はとてもいいことに気づいていながら、自己を裂開する背理をそれ自体として取りだすことができていないから、鋭利な気づきは外延論の背理として記述されるほかなかった。”

たしかに真木悠介さんはこの書の〝あとがき〟で、この仕事の中で問おうとしたことは、“どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか、他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか”というとても単純な問題だと記されていた。だとしたら、先の真木悠介さんの〝じぶんの欲望を透明に追い求めてゆく〟とか森崎さんのいう〝自己を裂開する背理をそれ自体として取りだす〟とは、どんな内実を伴うことなんだろうか?

何かすごく大切なことがいわれている気がするのだ。
“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?
〈性〉は自我を裂開する力を内包している!”

佐川さんの気づきを「イェニーさん問題」(「歩く浄土200」)と呼んでみる。(「歩く浄土201」2017.10.8)


そうか、自分がこの間やみくもにかかずらわってきたテーマって、「イェニーさん問題」(?)だったのか!という驚きだった。

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わが一体の家族考(131)

皆が欲求する源泉の涵養

またかつて昭和30年代一世を風靡したヤマギシ養鶏について書かれた『山岸会養鶏法』の末尾に次のような一文が記されている。

“対立社会(現代社会)と総親和社会(理想社会)との根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば、凡ての事柄が簡単に解決し、不平不満も、危惧不安も、世の中の紛糾も闘争も一切を無くして、万人がねがってやまぬ真実の幸福社会が実現するのです。”

ここでの〝根本的な原理の相違を、はっきりと把握するなれば〟の一節にずっと惹き付けられてきた。何しろ、ちがいを把握するだけで万事を解決することもできるというのだ!?
そんな魔法のような〝知的なるもの〟があるのだ! 
いったい〝根本的なもの・核心・真髄〟をつかむってどんなこと何だろう? こう問いかけるだけで心がワクワクするのだった。

今日まで理想社会が実現されなかった原因に、現在までの世界の人たちのほとんどが〝手段を目的のように取り違えている〟ところにあると山岸巳代蔵はいう。
例えば鶏で寄って来た人たちの本音は始め、「お金儲けたら幸せになれる」として「鶏飼うのもやはりお金儲けが目的」であった。そしていったんお金が儲かっても、「あっ、これでなかったな」と気づく人は少なかった。目的のための、お金儲けのための鶏を飼うについても、着眼点が違っているが故に〝鶏飼うのはお金儲けが目的〟だとする一つの観念から抜け出せない人が多かったという。

戦後日本の農業者が歩んできた道と重なる。
農業のみでは生活が成り立たないということから、本業としての農業の薄利を補う意味で、何かの副業なり出稼ぎなりを始めることがある。この副業なり出稼ぎなりは、出発においてはあくまで本業を維持する一手段であったはずなのだが、興味が出て面白くなってきたりすると、本業たる農業の使命を忘れてしまったり目前の経済面のみを比較して農業を低く評価したりして、つまるところ本業としての農業そのものを放棄してしまうようなことになる。

知らず知らずのうちに、手段が目的にすり替わってしまう逆転現象を起こしている。真目的ならではの〝みんなが一つになって仲良く楽しく繁栄していく〟といった中身からの感化よりも、心ならずも便宜的手段としての日常行動から来る感化の方が影響が大きいからである。
その人が目的を頭で分かるだけでは、目的そのものが観念的理想論に終わってしまい、その理想論すらいつの間にか忘れ去られていく。

ではどうあったらよいのか?
目的そのものを研鑽することだ。養鶏の場合だったら、〝養鶏する人が目的をはっきり知る〟ことだ。つまり目的の日常化である。目的を今日とは遠くかけ離れた先のことや方向性としてのみ置かないで、日常化する必要がある。自分自身のものというか自分の目的=心にすべきなのだ!
これこそ自分らにとっての〝ヒックリ返す〟革命だった!

先の下重暁子さんの発言に、

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”
仮面夫婦

とあった。しかしだからといって、〝妻が夫に依存〟しない方向に〝かたち〟(方法)を整えることで、対等で自由な人間同士の夫婦の関係が実現するだろうか? 
目的そのものを研鑽するという過程を億劫がるならば、便宜的手段としての日常行動から来る感化に押し潰されること必定である。
むしろ皆が切実に欲求する願いから出発するなれば、互いに〝頼らない〟よりは〝頼りきる〟中に、むしろ必要に迫られて他の人の力を借りなければならない場面で、自ずと湧いてくる謙虚さなど心の状態をまずは涵養することだ。その次に頼りきれない部分を自分で力を付ける後先にあるのでは……。

いろいろの観念で目隠しされていて「本当に自分を気づかなかった」。それがたかが(?)こんな必要性の小さい産業としての養鶏や日々の暮らしを通してその一端を知らされる豊かさを今噛みしめている。

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わが一体の家族考(130)

正しきに戻す知的革命案

先のベストセラー作家・下重暁子著『夫婦という他人』のAmazonカスタマーレビューでの、〝それぞれの個を尊重して、共に水臭い関係にある〟生き方についての賛否両論が興味深い。
大方は、〝後味が悪い・寂しい・読んでいて心が暗くなりました〟との意見に代表されるのだが、下重暁子さんの本音での語り口の方にも現実味が感じられるのだ。 
どうしてなんだろう?
人間愛が人間社会には不可欠であるということぐらいは、既に過去幾多の宗教家、哲学者、思想家によって度々主張されてきた。それなのになぜ人間愛が、現実社会全体を流れるものにならなかったのだろう? 愛だけではすべてが片付かない現実社会においてはあまりにも無力な抽象的空想的な唱い文句にすぎなく感じられるからだ。人間愛を裏付ける何物かが欠けているからであろうか。ここに理想と現実との相一致しない矛盾に割り切れないものを感じる。
ある意味〝世はまさに逆手なり〟で、

“売ろうとすすめると、手を引っ込める。
取ろうとするから、やらぬと来る。
平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む。”(「知的革命私案」山岸巳代蔵)

といった交換条件的や報酬期待的な上下感・勝ち負け感・損得金銭計算・所有欲、力の論理・支配者の論理・欲望の論理等々の逆手社会(既成)の常識観を永年通用させてきたからであろうか。
そしてその具体例として

“アメリカに日本の心が掴めたら”、“余剰小麦に剣を包まずに、サンタ爺さんに托し”て、“「日本は狭い、常夏のハワイを自由にお使いなさい」と来たら”、戦後史は塗り替わったかも知れないと、奇想天外な〝知的革命案〟を提案するのだ!? 
確かに逆手社会(既成)の常識観から見たら、付け上がった荒唐無稽な絵空事と一蹴されるのがオチであろう。
しかも当の逆手の世界に住んできた自分ら日本人にとっても、戦争に負けてすごすごと引き下がる〝負け犬根性〟にどっぷり囚われている。ここに今の対立社会の病根の深さ・複雑さを見る思いがする。
だとしたらこうした社会通念の旧い殻を破るのにはどうしたらよいのだろうか。

ヤマギシ会では当初〝鶏〟で「特別講習会」へ人を寄せた。〝鶏〟で変わった鶏舎建てたら目につくし、自分も気づいて、利益も目に見えて、「講習を受けようか」となっていった。
農業養鶏の鶏舎

実は〝稲作〟でもよかったのだが、講習を受けてやった効果がハッキリしないし、変わったことをやる方がどうも失敗したらしい。
だからあんな農業養鶏の鶏舎が日本中に建ったところで、どっちでもよかった。
ねらいは「鶏こそ」「金こそ」と思って飼ったところで労多くして功少なしと気づいてもらうことにあった。誰の心にもある本能的に欲求するものを呼び醒ます呼び水であった。
まずは当面の農家経済を潤す中で「なるほどなぁ」と気がついて、結局は我を張ってたら皆と共にやっていけないことが分かってくる。
方便と言えばいえるだろうが、鶏で寄ってホンモノになる近道ともいえた。
研鑚会では「他よりも優れたい、儲けたい」と思っている参加者を前に、何のために鶏を飼うのかとしつこく尋ねたり、鶏が病気になっても直ぐには治さなかったり、「卵を産まぬのが幸福ですわ」と公言してはばからなかった。現象によって一喜一憂しない人になる方便だった。
こうした常識では分からないことだらけの不可解さに、会を離れた人も多かった。
しかしそうなってからの「鶏も卵も、無いよりあった方が良いなぁ」というくらいの気持ちの中に、〝養鶏する目的〟とか〝人間生きる道の原理〟が秘められていたのである。

それでは「個」であることが価値や権利であり、男女の関係も個人と個人の夫婦関係になっている逆手社会(既成)の常識観を、〝ヒックリ返し〟て正しきに戻すとはどんなことなんだろうか。

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わが一体の家族考(129)

『夫婦という他人』!?

吉本さんが定義される〝対幻想〟の概念を今少し挙げてみる。

○人間が男ないし女としてしか存在し得ない世界。
○対幻想の具体的な、現実的な現れとして家族という形態がある。
○一人の人間として他の一人の人間と関係するとか、出会うという場にできる、その精神性は全部「対幻想」と呼べる。
○そういう一人の個人対自分以外の他の一人の個人との結びつきとか関係というのは、社会に対しても、あるいは自分一人に対しても違う精神性として区別される。
○自己と共同性を繋ぐものが対幻想という特殊な共同幻想となる。

こうした吉本幻想論はどのように拡張されるべきなのだろうか?
しかしいきなり〝幻想論〟を振りかざしても何なので、まずは身近な題材から…。
元NHKアナウンサー下重暁子さんの最新刊に『夫婦という他人』という著書がある。早速一読してみて、その率直な語りに好感をもった。紹介してみる。
下重暁子

“一人暮らしなら自立せざるを得ないが、二人暮らしだと、つい甘えそうになったり、よりかかって楽な方法を選んでしまう。結婚のワナはそこにある。”

として、互いにもたれ合わない謂わば他を侵す必要のない〈個で充実し 個で安定する 依存のない生き方〉の実例を自身の体験を通して語られる。曰く

“妻や母という役割が先にあって、夫や子供との関係も、個人と個人のつき合いではなく、役割としてのコミュニケーションなので、お互いに相手を理解することができない。”
“価値観も違えば、作法だって違う。いちいち目くじら立てて気にしていたら暮らしていけない。寛容の精神がなければ、他人となぞ暮らせはしない。結婚は、心の寛容さを養う良き修業の場と言わざるを得ない。”
“自分という個があっての結婚。”
“独立採算制なので、自分で稼いで自分で使う。何も遠慮はいらない。”
“一人づつの生活が二つあるわけで、”
“病気の時以外は、私はつれあいの面倒は見ない。”
“危なくなるとさらりとかわす私達夫婦の間の愛情とは何か。実は愛もその瞬間にすりぬけていっているのかもしれない。”(作家・島尾敏雄の『死の棘』を紹介しつつ―引用者注)
“なぜ結婚なのか。こんなに面倒で束縛されるものはないのに……。”
“一緒に生活するということは情が出てくるはずで、
情とは何か。それは思いやりである。四十年も一緒に暮らしていると、何が嫌で何が好きかもよく分かっている。
思いやりとは、その人の立場や性格や考え方を認めることである。”
“夫婦とは何なのか。二人で一対と考えていたら、どこかでくい違いは大きくなる。私達のように個としてそれぞれ邪魔をせぬように生きていても、時に驚くような出来事に出会う。まったく違う感覚や意見に、改めて違う人なのだという認識を深め、当然なのだという結論に至る。”

なるほど、〈個〉から出発するとこんなふうに結婚・夫婦生活が展開するのかとビックリした。この間、ヤマギシズム恋愛結婚観即ち〈性〉とか〈二人〉から出発する世界の可能性を探ってきた自分らにとって、改めてヤマギシズム結婚観でいう、

“真の夫婦はどこまでも夫婦一致で、二個別々に分けようのないもの、夫婦を切るなれば、男と女に分けられないで、粉々に細断しても、その細片のいずれもが一致夫婦の断片である。”

といえる〝一致〟の世界へとより一層の探究心をかき立てられる思いがする。
吉本幻想論に倣うならば、自己幻想(自己愛)同士の個体と個体を寄せただけの潤いのない造花の世界に住んでいるようなものだ。
なかでも作家・島尾敏雄の作品『死の棘』から夫婦愛の深淵について触れられている箇所で、自らの夫婦愛についてもサラリと省みられてはいるが、本当は作品『死の棘』に圧倒されるだけでなく、反面教師としてむしろそこで演じられた〈性〉の三角関係の修羅場を軽々と飛び出して解消されていく中にこそ、誰もが求める愛情世界が見出されるのではなかろうか? 実は本稿はそこを目指して書き綴っているのだが……。
確かに一人ひとりが〈依存しないで〉〈自力をつける〉という〈個〉であることが社会の安定には絶対に欠かせない要素ではあるのだが……。
そう言えば、

“結婚は社会契約。「つがい」は繁殖期の行動。夫婦は子育ての戦友だ。”(『ひとりの午後に』)

と発言してはばからない「おひとりさま」の社会学者・上野千鶴子さんの考え方にも重なるようだ。
今の社会風潮なのだろうか?
本来〝二人で一つ〟の対関係が、個人と個人の夫婦関係として何の疑いもなく語られるところに今の対立社会の病根を如実に物語っているように思えて仕方ない。

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わが一体の家族考(128)

幻想領域の関連図から

吉本さんの〝共同幻想論〟をうまく視覚的なイメージで表現できないものだろうかと考え込んでいた矢先、「与論島クオリア」を展開されている喜山荘一さんのサイトに出会った。
そこで、吉本隆明が設定した人間の観念領域、「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」の三つはどう図にできるか、その試案です。として次のような関連図が示されていた。
喜山荘一 吉本幻想論の構造試案

なるほどなぁと感心した。
一つは「共同幻想」と「個人幻想」は〝逆立〟する関係にある。
例えば気の合う仲間同士で毎週集まろうといった〝決まり事〟を全員オール納得でつくる。しかし、そのうちに一人がある都合で出席できなくなる場合がある。すると、欠席する人には〝決まり事〟が重荷や抑圧や縛りに変わってくる。その辺りを〝逆立〟というのだろうか。
もちろん〝決まり事〟(共同幻想)なんて、個人の意志によっていくらでも原則変えられるはずなのだが、宗教・法制度・国家へと進展していく社会の共同幻想となると権利・義務などの様々な縛りが複雑怪奇な形相に変貌して介入してくる。中身は仲間同士の〝決まり事〟と原則同じだとはとても見なせなくなる!?
また男女の問題や家族の問題を含む「対幻想」の位置は、「共同幻想」や「個人幻想」とも異なり、たんに〝幻想〟としてのみ片づけられない〝永遠性〟を繋ぐ価値を内包しているはずだ。
そうした意味で、「共同幻想」と「個人幻想」の間に位置するのがふさわしい。「対幻想」の人間愛を基調とする本質が「個人幻想」に関わって〝芸術〟が、「共同幻想」に関わって〝母系制で同致〟の世界が現出するのだろうか。
先に吉本さんが、「ヤマギシ会という共同体の一体理念」が深まれば深まるほど、却って〝男女の結びつきが圧迫される〟という懸念」を抱かれていた発言は、ヤマギシ会は共同体の理想の原型として〝男女間と共同体との水準の同一化〟、つまり〝母系制で同致〟の歴史段階を想定されていたのではなかろうか?
もっといえば、対幻想が個人幻想や共同幻想に対して無矛盾の状態に一つの理想を描くことも可能だと考えられていたのではなかろうか。
喜山荘一さんの試案図から、〝母系制で同致〟という概念が〝未知の未来に向かって〟とても興味深い新鮮な発言として蘇ってくるようだ。

“人間がある最古の時代に、集団を組んで生活しながら、男・女としてそれぞれ〈性〉的にも組んでいたとするならば、このふたつの場面で人間はどうじぶんを使いわけているのか。そしてその使いわけにはどんな関連が存在するのかということであった。”(『共同幻想論』吉本隆明)

こうした発言から、家族は本来的にどうあったらよいのか?、が『共同幻想論』の一番のモチーフであったのではないかと推察される。
ともあれここでも自分らがやりたいのは、部分的ではない本質的な意味での〝性を発見する〟ことにあるとしたら、こうした対幻想の位置する独自性の追求の中に見出されてくるのかもしれない。

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