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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(140)

まるで自分のことのように

たしか〝ぼくが衣類と書物をいっぱい詰め込んだ重いリュックを背負って国鉄関西線・新堂駅に降り立った〟参画時(1970年9月)に、詩人・清岡卓行の当時の芥川賞受賞作品『アカシヤの大連』もリュックに入っていた。とても大事にしていた記憶がある。
アカシアの大連

あらすじはこうだ。
大連に生まれ育ち、東京の大学の一年生だった彼は、第二次世界大戦が終わる5か月前(1945年3月)に大連へ里帰りする。内向的な文学青年であった彼は、戦争下の生活に矛盾を感じ、生きる望みもあまりなく、自殺まで考える。戦争は終りロシア統治下の大連には、日本の内地に比べれば飢えの雰囲気もなく平和な面影がまだ残っていた。
彼は帰還船を待つ間に、知り合いの化学技術者の娘さんがデパートで働くのを手伝うことになり、……。
といった具合に日本統治下の大連の描写が続き、ただ往時を懐かしむ謂わば淡い郷愁を感じさせるだけの作品のようにも見える。
当時の選考委員の一人、作家・石川達三のむしろ受賞に否定的な選評は今読み返しても適切だ。

“私は躊躇した。ほとんど全篇が個人的な思考を追う(哲学的随想)のようなかたちで、どこまで行っても平板な叙述であって、立体化されて来ない。最後の短い一節だけでようやく小説になっている。”

その通りだ。うまく言い当ててるなあと感心した。
しかしその〝最後の短い一節〟から、不思議にも心底求めるものと応じるものが出会い全面一致する、そんなかけがえのないものに触れ得たような喜びが湧き上がってくるのだ!
そこで『アカシヤの大連』から〝最後の短い一節〟と思える中から心に響いたフレーズを抜き書きしてみる。
先のあらすじ、〝彼は帰還船を待つ間に、知り合いの化学技術者の娘さんがデパートで働くのを手伝うことになり、……。〟の次の場面からである。

“彼女はよく笑った。それは、彼に、洗ったばかりの葡萄の房の綺麗な粒がいくつも転っていくような印象を与えた。”

“ああ、きみに肉体があるとはふしぎだ!
彼は自分の胸から不意に湧いてきたその言葉に、たじろいだ。”

“彼女の出現は、急激に、彼の心の奥底に眠っている何かを揺さぶり起こしたようであった。”

“彼は、アカシアの花が、彼の予感の世界においてずっと以前から象徴してきたものは、彼女という存在であったのだと思うようになっていた。”

“彼は、いつのまにか、彼女と結婚することを夢みるようになっていた。”

“「彼女と一緒なら生きて行ける」という思いが、彼の胸をふくらませ、”

等々。なかでも圧巻は、デパートからの一緒の帰り道で、彼は彼女のとても風変わりな立振舞いに接した時であろう。
いつも同じ顔ぶれの数人の中国人の子供たちが駆け寄ってくると、彼らはにこにこしながら彼女に向かって小さな手の平を差し出す。すると彼女は十円紙幣を一枚づつ、彼らの小さな手の平の上に嬉しそうに載せる。
彼にははじめ、その光景が苦痛であった。

“しかし、同じ光景を何べんも見ているうちに、そこにある人間関係は、かつてのものとは全然ちがうものであるということを彼は知った。そこには、恵むものの傲慢も、乞うものの卑屈も、まったくないのであった。まるで、親しい姉と幼い弟たちの間におけるような、自然なやりとりの温かさだけが流れているのであった。”

そうだったんだ! 自分もまた作品『アカシヤの大連』に流れているものにずっと無意識に惹かれ、ヤマギシ会に出会ってそのことをついに〝ある愛の詩〟として確かめられたのだ、と。
今読み返してみても時代や背景はちがうけれど、まるで自分自身の結婚の経緯までの心の動きがそのまま再現されてあることに驚愕した。

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わが一体の家族考(139)

出会いは〈性〉であった?

この間の文脈に沿えば、かつてマルクスは「イェニーさん問題」から〝資本論〟の世界へと大きく逸れていくことで、たくさんの人に永く影響を及ぼすような盲信的な〝災い〟を残した。
先の見田宗介さんも〝高原の見晴らしを切り開く〟という本質的・根源的な問いから〝この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いている〟といった通俗的な〝にぎり飯談義〟へと大きく逸れていく。
自ら省みても一番肝心なところから気づかないまま脇道に逸れてしまうことはしょっちゅうなのだ。

それほど本質的・根源的な問いから出発して、ただ聴き・そのまま受け取り・逸らさないで踏み留まって〝あらかじめ個をこえたものの力〟(見田宗介)を内包している実態を〝透明に〟〝それ自体として〟浮かび上がらせることは未然で未知で未体験の出来事なのだ。
なにせ〝自分の一尺後ろにある宝〟はあまりに近すぎて可視化することも分離することもできないものらしい。
もう破れかぶれの気持で〝自分の一尺後ろにある宝〟とは、〝性を基盤とする恋愛・結婚観〟(わが一体の家族考87〈性〉の琴線に触れる)を指すのではないだろうか、とまで言い切ってみたのだった。
そこでそもそも自分自身にとって、山岸会(ヤマギシズム)との出会いは〈性〉であったのではなかろうか? といった問いから出発してみる。
そうかあ、あの時自分は〈性〉の琴線に触れたのだと今頃になって思い至る。
それはヤマギシ会に参画して直後の出来事で、数年後に手記としても書きとめていた光景だった。

“ぼくが衣類と書物をいっぱい詰め込んだ重いリュックを背負って国鉄関西線・新堂駅に降り立ったのは、たしか8月の暑い盛りであった。
関西線 新堂駅

そこから20分ほど歩けば、山岸会の一体生活体があるはずだった。これからの行方にどんな生活がまっているのか、それは未知であり不安でもあった。でも、すでにぼくは都会での生活に見切りをつけていた。
 翌日からぼくは養鶏の仕事の配置についた。今にして思えば、後にぼくの人生上の大きな転機に係わり、これからもぼくの生き方をたえず触発してやまないであろうYさん夫妻に出会ったのは、その日だった。一体生活体の中では格別珍しくもない、そのYさん夫妻について書いてみたい。
 その頃のYさんはまだ40代半ばであったが、すでに額はツルツルに禿げ上り、いつも健康そうな笑顔を絶やさず、外見は無類のお人好しの典型といえる人だった。奥さんもこまめに動き、世話好きで、田舎気質で、この人の担当するヒヨコ達は健康正常に育つ以外にありようがないとさえ思えた。この夫妻の言動から醸し出される雰囲気は、たんに鶏達に及ぼす影響にとどまらず職場の人間関係をもやわらかく包み込んだ。ほんとうの「仲良し」ってどんな状態かなどと考える必要はなく、Yさん夫妻のふだんの間柄を思い浮かべればそれで足りた。
 そうした他を思いやるYさん夫妻のさりげなく差し伸べられる心の手の恩恵を一番たくさん被ったのは実際ぼく自身ではなかったのか。 朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも批難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。休憩時のおやつ作りの時もそうだ。どうしてあんなに素早く用意できるのか、ぼくたち若い飼育係にとっては毎日驚異のマトであった。自分が作って自分で食べるよりも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べるのを眺めているさまが、その場での奥さんにとっては最も似つかわしかった。山岸会とはアナキズムの流れを汲むものではないか、などと当時つまらぬことばかり考え、そうした複合観念に悩まされていたぼくの心に、Yさん夫妻のそうした笑顔や立居振舞はものすごく新鮮なものとして飛び込んできた。
 その後さまざまな時の経過を経て、Yさん夫妻の口から問わず語りに聞いたその来歴はざっと次のようになるだろうか。
 山々を水田が縫い込む山間の小さな部落で育ったYさん夫妻は、我が家のためにと一生懸命働いていた。そうしてもっと新しい農業のやり方はないものかと、近くに本部があった農業団体「愛善みずほ会」の熱心な会員でもあった。その頃すごく儲かって、それでいて手間のかからない養鶏の会があることを知った。早速庭先に200羽ほどの鶏が飼える鶏舎を建ててみた。それが山岸会との出会いのはじまりだ。ところが会発行の新聞でほんとうに鶏を飼うにはまず腹の立たない人間になるのが先決で、そうなるための講習会が毎月開催されているのを知る。「これはただ事じゃない」。
 その講習会に参加してからというものYさんの言動は一変してしまった。家の仕事に手が着かず、一人でも同志をつくろうと近所・友人・親戚、人を見るごとに講習会を勧めて歩いた。自分だけどれほど儲かって幸せになったと感じても、みんなが幸福にならない限り自分のほんとうの幸せはないと思ったからだ。仲間も次々と増える。ところがみんな自分の家の仕事はうちすてて他村へ拡大に、本部の研讃会にと出かけてばかりいる始末。どうしたらいいものか? そこでみんなで考えついたのは、お互いの家の仕事(田植・除草・稲刈り・脱穀に至るまで)を部落全体の共同作業としてやることだった。早速実施。 しかし、しばらくすると何か物足りない気持が湧いてきた。「ほんとうの一体って何だろう? 作業がいくら合理化されてもそれだけではたんに高い処へ土もちをするようなもんや」
 そうこうしている矢先、山岸会の方で「一体経営専門研鑽会」が開かれる。昭和33年の春頃だ。全国から集まった同志はほとんどみな自分の部落で共同作業をやってみて、なおかつ何か物足りないものを感じていた人達ばかりであった。そこで「百万羽構想」が山岸さんの録音テープで発表された。ストライキも社長もない、そんな養鶏の会社をみんなの財産を投げ出してつくろうといった趣旨の提案である。さあ、その場は一時騒然とした。自分はどうする? あんたはどう考える? 「そうやなあ、家庭はむろん支部でも何かがつまって出口を塞ぎ止めている感じがしてたし、ここらでひとつ踏み切ろう。同じやるからには大きくやろう、自分を最大に活かしてみよう」 Yさんはその場で参画の意志を表明した。
 それからが大変だ。財産整理に取りかかる。「ほんとにビックリしたわ。お父さんはあれ以来三重の四日市の創立事務所に出たきりで、時折お金が必要だから取りにきたと言うて帰ってくるだけ。ちょうど5月の田植の忙しい時期で、お母さんと私と近所の人にも手伝ってもらって泥まみれで働いているのに、お父さんからは毎日楽しみの連続ですと、人をバカにしたような便りが届いたり……」と奥さんは述懐するのだ。息子が出ていくのを止めてくれ、と見る人毎に頼み続けていたYさんの母親も終いには田圃か道中だかに倒れてしまう。もうあれだけ信じきってしもたらなんぼ止めてもあかん、部落の人達が話している。「でもなんやなあ、家財道具一切を処分するから帰れという電報が届いて四日市から我が村のバス停に降りたとたん、 "Y宅の家財道具一切を処分する 何時より せり市に出す"と書いた立札を見たときは、さすが我ながらやったなあと思ったわ」親戚中からは泣きつかれる。でも何も言うことなかったから黙り通した。「でも、やってみれば何でもないことやな」。
 こうして四日市に集結した大勢の仲間達と共に、理想社会実現の第一歩を踏み出す。それからのYさん夫妻の足跡を辿れば、現在の春日山への移転、入雛準備、山岸会事件、一年近くの行商、北海道での分場作り、各地の実顕地造成……と、白分がどうするかではなく、むしろどうしたらみんなのためになるかだけを考え行動していく〈旅〉が続く。「もう無我夢中でやってきたわ」。 ちょうどぼくが始めてYさん夫婦に出合ったのは、彼等が回り巡って久し振りに春日山に生活の場を置いてまもなくのことだったのだ。
 それからしばらくして、ぼくはYさん夫妻の娘さんと結婚することになった。ある日その旨を報告しに部屋へ行くと奥さんが居て少し顔を赤らめて「そうけえ」と一言いったきりだった。それ以降ぼくたち夫妻は何かに促されるように毎晩Yさん夫妻の部屋を訪ねた。別段かしこまった話をするでもなく、ただとりとめもなくテレビを見て帰ってくるだけの日が多かった。そんな中でこの夫婦の間柄から発散してくるものが、生活のすみずみにまで及んでいるのを知って、かつて思ってもみなかった無形の大きさにはじめて触れた思いであった。
 それからまたしばらくして奥さんが病気になった。ガンであった。Yさんは居を東京に移して毎日看護に通った。しかしまもなくYさんに見守られて奥さんは亡くなった。その時ぼくはある研鑽会に出席していた。そこへ人事係から電話が入ってぼくの家族が動揺するかもしれないから早く部屋に帰るようにと言ってきた。ところが意外と妻は冷静で、それよりそのことをどうおばあちゃんに伝えたらいいかと心配していた。でも、それはまた明日考えようと、その夜はひとまず親子四人一つの蒲団にみんな小さくなって寝た。
 正直なところYさんの奥さんの死はあっけらかんとして、実はちっとも悲しくはなかった。短い生涯ではあったけれど、その間誰が見ても頷く最も相合う夫婦として生き、かつ山岸会の基礎造りの仕事に精魂込めることができた事実からは、この世での至上の価値を生き切ったさわやかさが残った。そうぼくは見た。もっともその際にYさんの内面で起きたさまざまなドラマについては知るよしもないのだが……。
 こうしたYさん夫妻の間柄と生き方をそのまま、ぼくたち夫妻の間柄に、その生き方に重ねて行きたい、引き継いで行きたい願いが強くいま蘇ってくるのだ。
 以上がぼく白身の現在進行中の"ある愛の詩"の一節だ。(『ある愛の詩』1977.1) ”

今にして思えば、いい目にあったのだなあ、じつにいい思いをしたのだなあと、つくづく実感するのだけれども、当時はそれ程価値ある世界との出会いだとは想像だにしなかった。偶々Yさんの奥さんの死をきっかけに一つの懐かしい思い出として沸きあがった気持をそのまま言葉にしてみたのだった。

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「と」に立つ実践哲叢(39)

〝人生踊り〟を踊る

先回は次のような一文で締めた。
“戦う前から〝のぼう様〟は、「北条家にも関白にもつかず、皆で今までと同じように暮らせないかなあ~」と呑気なことを言っては皆を唖然とさせていた。この次元ですでにボールはゴールネットを揺らしていたのだ!
 これが奇策と見えて実は理にかなった〝正攻法〟だった。その顕れが田楽踊りである。自分らの〝人生踊り〟とも重なってくる。”

そして今、自分らの〝人生踊り〟ってどんなこと? とあらためて問うてみる。たしか〝人生踊り〟の出所は『養鶏書』(山岸巳代蔵著)の一節からのものだ。

“養鶏も、農業も、本来の仕事の方も、凡て芝居であり、遊びであり、生きている間のなぐさみで、楽しい一つの踊りに過ぎないのです。”
“自分のしたい放題のことをして楽しみ、遊び踊って(私の日常は踊り)悔いなき生き方で、この途でならニッコリ笑って死ねそうです。” 
“金も名も求めず、各自の身に合う仕事で世界中に踊り、天地に愧じない連中には、至る処家在り、食有り、友、吾が子ありです。”

だんだんと心許なくなってきた。つい〝のぼう様〟の意表を突く田楽踊りに心が高ぶってか、その勢いで自分らの〝人生踊り〟に重なると口走ってしまった?
絵に描いた餅

だって『養鶏書』で描かれる〝人生踊り〟はあまりにも崇高な立振舞いではないのか。それに比べて普段の、やれ足腰が痛いの首筋が凝るのとぶつぶつとぼやきつつ時には惨めな気持に落ち込む今までの自分が頭を持ち上げてくる。だとしたら自分らの〝人生踊り〟って、ただ言ってみただけの絵に描いた餅でしかないのだろうか。
こんな自己問答をずっとくり返している。

思えば崇高な〝人生踊り〟って、我執まみれの自分には絶対ムリムリ。でも自分は実顕地、通称「金の要らない仲良い楽しい村」という舞台で、曲がりなりにも〝研鑽生活〟という踊り場で暮らしている!? そんな聖と俗のはざまにいつも戸惑ってきた。
嫌ならおさらばをしてはと自分に問えば、なぜか〝仲良し〟とか〝楽しい〟といった簡単な言葉に秘められている奥深さに、何かほのぼのとした温かいものに包まれる〝研鑚会〟の魅力に惹きつけられる自分もいた。

ある時ふと気がついた。〝何かほのぼのとした温かいもの〟に惹きつけられる自分って、ひょっとしたら自分? 我執のない自分の姿ではないのか! 同じ〝仲良し〟とか〝楽しい〟でも、〝本当〟と言いたくなる〝仲良し〟とか〝楽しい〟実態に触れている自分が浮かび上がってきたのだ。
崇高な〝人生踊り〟は絶対に出来ないかの如く思っていた。その出来るか出来ないの前に、どちらを本当に願っているのだろう?
心にパッと明るい灯が点った。崇高な〝人生踊り〟が特別人間のことでなく、まさに自分のこととして実感されてきた。

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わが一体の家族考(138)

未知で未然の〈性〉

先に見田宗介=真木悠介著の『自我の起原』から、次のような知見に触れての感想を記した。(わが一体の家族考128)) 要約すると
○性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。
○自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している。
○そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだ。
鮭の産卵

“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?”

個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。
個体は不可解な力に動かされるように性を求める。
とても刺激的で優れた知見だ。
最新刊の著書『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書2018.6)に於いても、その知見は変わらない。

“依拠されるべき核心は、解き放たれるべき本質は、人間という存在の核に充填されている、〈欲望の相乗性〉である。人によろこばれることが人のよろこびであるという、人間の欲望の構造である。”(6章高原の見晴らしを切り開くこと)

そして同じ章の中で、次のようなエピソードが紹介されている。

“最初にわたしが連想したのは、1970年代に若い人たちをひきつけていたユートピア的な共同体たちの一つの実験だった。この共同体では、労働が全然強制されない。仕事はやりたい人が好きな仕事をやればよく、もちろん生活は保障される。というものだった。そんなことで社会というものが成り立つものか、そんなまちがった甘い幻想はおれが行って粉砕してやる、という固い決意をもってこの共同体にのりこんだ人がいた。その人は釣りが好きだったので、毎朝ご飯を食べると、共同体の仕事をしている人たちの中をこれ見よがしに釣り竿をかついで、近くの川か池に通った。帰ると夕ごはんをおいしく食べて、ゆっくりねる。五七日目かに、だんだん遊んでいることが退屈になって、ついにニワトリの世話などをしはじめたという。もちろんがんばって、何十年もあそびつづけるということも考えることはできるが、そういう人は少ないと思う。仕事というのは、強制されたものでない、好きな仕事ならば、あそぶこと以上にさえも楽しいものである。
 この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いているのだけれども、仕事というものが、経済的にさえも強制されることがなくても、仕事をやりたいという動機づけだけで、社会は回ってゆくはずだという発想と、そのための果敢な試行自体は、さまざまなことを根本から考え直してみるきっかけとなった。”

多分Tさんのことだ。昼間から湯飲み茶碗に焼酎をなみなみつがれ「若いもんはもっとしっかりしろ。飲めっ」と差し出された懐かしい日々が蘇る。
ただここでの〝この共同体それ自体は、別に問題があってあまりうまくいかなかったという話も聞いている〟云々の箇所はあまりにも唐突な表現だ。〝高原の見晴らしを切り開く〟という根源的な問いから大きく逸れる〝にぎり飯談義〟(わが一体の家族考114)の部類だ。

ここでの〝問題〟とは、察するに以前マスコミが報じた「ヤマギシ会二百億円の申告漏れ」(1998.4.16)や「日弁連が学園に対し改善勧告」(1999.5.11)や「財産返還訴訟での最高裁判所判決」(2004.11.5)等のことを指すのだろうか。
それともこの間の文脈に沿って言えば、今自分が置かれている立場からの見方が邪魔して理想実現への出発点に立たなかった、またそこから踏み出さなかったところに帰因する〝問題〟なるものだろうか。
どちらにせよ、社会との関わり、自分自身との関わりで日々試され問われる他人事ではないテーマではある。

今求められているのは、自分らにとって未知で未然の〈性〉があらわれるまで、〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を〝透明に〟〝それ自体として〟浮かび上がらせることにつきるのではなかろうか。

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わが一体の家族考(137)

自分の一尺後ろにある宝

先述の〝自分の一尺後ろにある宝〟を「ヤマギシズム恋愛・結婚観」として見なすこともできるのでは、といった気づきから切れ切れの思いがくり返し溢れてくる。取りあえずメモしておく。

自分に先立ってあるもの。
自分の背後にあるもの。

あのメーテルリンクの『青い鳥』が思い浮かぶ。兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語だ。
真理は簡単なことにあり、それを軽く見過ごしたり聞き流してしまいがちだ。
青い鳥

“山岸養鶏では(技術20+ 経営30)× 精神50と、精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋りを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。”(『山岸会養鶏法』4頭の悪い人のために)

ここでの〝繋りを知る精神〟とは?
“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、……”(『実践の書』)での、切ることの出来ない「と」において繋がっているものとは?
この繋がりさえ分かれば……。
自分とは今までの自我や自己主張するなどの自己からなっているだけでなく、繋がりの結び目としての自個からなっていると見なせるのでは……。
自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)。

以前このことを皆で研鑽していたら、若いK君が「こんなことかな」と話してくれたことがある。
村人総出での運動会があった。その時「運動会なんて出るの、一緒にやるのは嫌だなあ」とすごく思った。でも、皆参加するからと嫌な気持ちだったけれど参加してやっていたら「運動会を楽しんでいる自分を見た」という。
村の運動会

この感じっていうか、こんな誰でもがふだん体験していて、そんな事ありふれたことだと見なして顧みない、「嫌だと思っている自分がいて、それでも事実皆と一緒に楽しんでいる自分もいた」という気づき。
やりたくない自分とその隣にもう一人の自分がいる。その自分は、みんなと繋がってやっていきたいと思っている自分!
これはすごい発見というか、人と人との繋がりの中で楽しくやれている自分を見出して、そんな自分をもしっかり掴んでいく。分かりやすい具体例だなあと今でも心に焼き付いている。

ヤマギシ会会旨に〝われ、ひとと共に繁栄せん〟とある。
主体はわれにも、ひとにもなく、〝共に〟にあるとするなれば、〝われ〟とは先の
自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)
でいう自個(繋がりそのものの自己)を指すのではないか。自己からは〝共に〟の世界は絶対にあらわれない。
切ることの出来ない「と」において繋がっているものが主体である!?
そんな繋がりのあらわれが自分でもあるのだ。
「自分の一尺後ろにある宝」とは自個(繋がりそのものの自己)のことであろうか。
つまり「自分の一尺後ろにある宝」とは、ひょっとしたら〝性を基盤とする恋愛・結婚観〟から溢れ出る世界ではないだろうか。
なぜなら“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がり”のうちに生きるからだ。
いわば〝人と人によって生れ〟の〈性〉として〝自分〟という主体がはじめに構成されているからだ。
自分より前に一つある実態のことを、〈性〉と呼んでいるのでは?
そんな「自分の一尺後ろにある宝」を、
〝何やる場合にでも、百姓するのでも、商売するのでも、教育でも、子供を育てる場合でも、どんな場合にでも、寝る場合にも、また食べる場合にも、或いは映画を見る場合にでも、散歩する時でも〟
「前向きに見ていて、ちょいと振り返ると……」
みんなの心をほのぼのと温かくするものがなぜか一気に湧き上がってくるようなのだ!

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