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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(137)

自分の一尺後ろにある宝

先述の〝自分の一尺後ろにある宝〟を「ヤマギシズム恋愛・結婚観」として見なすこともできるのでは、といった気づきから切れ切れの思いがくり返し溢れてくる。取りあえずメモしておく。

自分に先立ってあるもの。
自分の背後にあるもの。

あのメーテルリンクの『青い鳥』が思い浮かぶ。兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語だ。
真理は簡単なことにあり、それを軽く見過ごしたり聞き流してしまいがちだ。
青い鳥

“山岸養鶏では(技術20+ 経営30)× 精神50と、精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋りを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです。”(『山岸会養鶏法』4頭の悪い人のために)

ここでの〝繋りを知る精神〟とは?
“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、……”(『実践の書』)での、切ることの出来ない「と」において繋がっているものとは?
この繋がりさえ分かれば……。
自分とは今までの自我や自己主張するなどの自己からなっているだけでなく、繋がりの結び目としての自個からなっていると見なせるのでは……。
自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)。

以前このことを皆で研鑽していたら、若いK君が「こんなことかな」と話してくれたことがある。
村人総出での運動会があった。その時「運動会なんて出るの、一緒にやるのは嫌だなあ」とすごく思った。でも、皆参加するからと嫌な気持ちだったけれど参加してやっていたら「運動会を楽しんでいる自分を見た」という。
村の運動会

この感じっていうか、こんな誰でもがふだん体験していて、そんな事ありふれたことだと見なして顧みない、「嫌だと思っている自分がいて、それでも事実皆と一緒に楽しんでいる自分もいた」という気づき。
やりたくない自分とその隣にもう一人の自分がいる。その自分は、みんなと繋がってやっていきたいと思っている自分!
これはすごい発見というか、人と人との繋がりの中で楽しくやれている自分を見出して、そんな自分をもしっかり掴んでいく。分かりやすい具体例だなあと今でも心に焼き付いている。

ヤマギシ会会旨に〝われ、ひとと共に繁栄せん〟とある。
主体はわれにも、ひとにもなく、〝共に〟にあるとするなれば、〝われ〟とは先の
自分=自己+自個(繋がりそのものの自己)
でいう自個(繋がりそのものの自己)を指すのではないか。自己からは〝共に〟の世界は絶対にあらわれない。
切ることの出来ない「と」において繋がっているものが主体である!?
そんな繋がりのあらわれが自分でもあるのだ。
「自分の一尺後ろにある宝」とは自個(繋がりそのものの自己)のことであろうか。
つまり「自分の一尺後ろにある宝」とは、ひょっとしたら〝性を基盤とする恋愛・結婚観〟から溢れ出る世界ではないだろうか。
なぜなら“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がり”のうちに生きるからだ。
いわば〝人と人によって生れ〟の〈性〉として〝自分〟という主体がはじめに構成されているからだ。
自分より前に一つある実態のことを、〈性〉と呼んでいるのでは?
そんな「自分の一尺後ろにある宝」を、
〝何やる場合にでも、百姓するのでも、商売するのでも、教育でも、子供を育てる場合でも、どんな場合にでも、寝る場合にも、また食べる場合にも、或いは映画を見る場合にでも、散歩する時でも〟
「前向きに見ていて、ちょいと振り返ると……」
みんなの心をほのぼのと温かくするものがなぜか一気に湧き上がってくるようなのだ!

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