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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(144)

「恋愛・結婚観」を輸出?

先の書『エロスとの対話 女は男を知らず、男は女を知らない』
『エロスとの対話』

のなかで、田中喜美子さんは〝本当のフェミニズムは日本から生まれるのではないか〟と発言され、その理由がこの往復書簡を通してはっきり見えてきたという。それは先進国のうち、日本人だけが天真爛漫に、

“エロスの力、世界に偏在している生命の力、自然の力を無意識に肯定している人々”

なのだという。欧米人にはほとんど理解しがたい心情、謂わば「もののあわれ」の感覚が日本的伝統として流れているのではないかという。自分をどこまで主張する「個」でなく、大きな自然と繋がっているという〝自己〟放棄的な感覚だ。
とても興味深い見逃せない発言として印象づけられた。
山岸巳代蔵の発言(「知的革命私案 二先ず日本から」)の中に、世界の一地域名である日本という場に揃っている〝日本人の物質欲求、及び心理的傾向〟等の諸条件が、理想社会への知的革命を遂行するに絶好の状態にあると見なして、〝先ず日本から〟と提唱する真意とも重なってくるようだ。

“私は日本とか、日本人とか、国と云う言葉を用いますが、日本とは、私共の考えている社会では、世界の一地域名であり、国と云うのは、個々に離れて独立したものでなく、便宜上の地方区割段階の一つであり、日本人とは、現在呼び習わしの民族の名称であって、永久に日本地域に居住しなければならぬものではありません。日本人の将来についての私の考え方は、そのうちに発表したいと思いますが、ここでは、理想社会は、今の日本地区のみに止まるものでなく、全社会が、正しい真のあり方に変ることを予想して、それの第一歩として、先ず私共は所謂日本人であり、日本に住んでいる関係と、地域が狭くて手頃であり、諸種の条件が揃ってありますから、ここから着手して、日本で実現させ乍ら、他の国の人々にも呼びかける心算です。
 今の世界状勢、特に日本人の物質欲求、及び心理的傾向は、この知的革命を遂行するに絶好の状態にあり、理論・目標のみを並べるのみでなく、具現方式により、混乱なくして、明るく、正しく、新しい、世界から関心と協賛されるに足るような、モデル社会と致し度いものです。”(『ヤマギシズム社会の実態』)

そのためにも肝心の人間問題の解決。
人間として最も大切な人格上の点での反省として、日本ならでは培われてきた〝大洋をたたえるおおらかさ〟を身に備える事に専心する方が先決だとする。
そうしてまた最も深刻な問題とされてきた男女夫婦のあり方なども、この人間革命を通して日本から「恋愛・結婚観」をソ連・米国へ輸出出来るようにしようともいう。
こうした山岸巳代蔵の敗戦国の日本?からとか、「恋愛・結婚観」をソ連・米国へ輸出?とか誇大妄想的な言説の意図するものが少しづつ見えてくるようにも感じられる。
また田中喜美子さんは、自らの結婚の動機を振り返り、

“あのとき私が夫に感じた「男らしさ」はなんだったのかと考えます。それはやはり私の依存性の現れに過ぎなかったのでしょうか。それとも男というものの奥底に潜む女にはない何ものかが、私をひきつけたのでしょうか。”

と語りながら、〝らしさ〟そのものに触れるよりも、〝一人の学者の妻であるという満足感〟に侵された〝私の依存性の現れ〟からの脱出の方へと話が展開されていく。
どうしても反省的通俗的な方へと向かいやすい。〝らしさ〟そのものに触れるなんて雲を掴むようで、まことに無理もないことである。
しかし山岸巳代蔵には最も差し迫る課題に見えていたのである。

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わが一体の家族考(143)

『エロスとの対話』

以前次のように記したことがある。

“「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」(わが一体の家族考76)

エッ、どんなこと? とずっと頭の片隅にあったのか、先頃『エロスとの対話 女は男を知らず、男は女を知らない』( 田中喜美子・木内信胤共著. 新潮社1992.7)という書を、題名に引かれて読んでみた。
そもそも人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものとがある。
今の社会では、人間的平等や同権論で男女共通に律していこうとする風潮からか男女が〝社会人間〟に化けてしまっている。社会人間とは、男でも女でもない今の消費社会に適応する〝商品化人間〟のことだ。もう一方の異性であるという本質的なものが消滅寸前の運命にある。
本の帯のキャッチコピーは次のようにあった。

“画期的な往復書簡 九十歳の男性の叡智と六十歳の女性の情熱をかけ赤裸に語る愛、性、結婚”

著者・田中喜美子さんは主婦向け投稿誌『わいふ』の元編集長。
田中喜美子

木内信胤さんは吉田茂のブレーンであり歴代内閣の経済指南番と呼ばれた人。
木内信胤

気骨ある男と女によって、男らしさ女らしさを論じた互いに真剣勝負を挑んだ書である。
さすが投稿誌『わいふ』を通して長年主婦たちの生の声を聞いてきた田中さんだけに、天下国家を論じ家庭では理想的な夫婦関係を築いてきた申し分のない男、木内さんへ生身でぶつかる真摯な問いかけには正直圧倒された。
終始本来の愛の力を取り戻すために〝戦いたい気分〟を秘めた田中さんの世の男達の脳天気ぶりを暴く押し気味の論調に、木内さんはタジタジである。率直に木内さんは語る。

“女性とは、いい関係を持ちたい、とは終始考えてきた。しかしそのためには、男がもっとよく女を知る必要があるとは考へなかった。いかに況や女がもっと男を知る必要があるとは、考へたこともなかったのである。”

田中さんはいう。

“男には男女の問題を考えるより、もっと大きな仕事があった。彼らにとっては、いつも「愛」だの、「家庭」だのといっている女というものは、正直いって煩わしかっただろう。”

そして女性に対する男の視点はつねに欲望(射精欲)を軸として回転していて、そこには

“女の真の姿は映っていません。”

と断じる。そこに現在男と女のあいだの最大のギャツプを見てとるのだ。

“欲望の問題として捉えている男とよりふかい人間的な愛の実現を夢みる女”

それは〝性の快楽〟の質に顕著に表れるという。
すべてを解く鍵は、女の「受動性」の解釈に潜んでいるのだという。

“「抱き締められたい」という女の欲望は、相手に屈従したいという望みをあらわすものではなく、相手のすべてを受容したいという望み、自らを与えたいという深い欲求の表われなのだ。”

として、心から安らぎを感じる世界、自分というものが溶解し、他者と分かちがたく溶け合ってしまう感じに、愛する男との肉体的一致にもまして精神的な一致の、そんな受容する愛を見てとる。
そうなのだ。田中さんの中には一貫して

“女が解放され、生活のために結婚しないでもいい時代がきたとき、男女の仲はどうなるのだろう。女と男のあいだから、性的欲望と現実的利害をとりさったとき、「愛」は本当に可能なのだろうか。”

という問いが流れている。
急に先の下重暁子さんの「夫婦という他人」や上野千鶴子さんの「おひとりさま」の主張がリアリティを帯びてくる。
田中さんは論を進める。しかもその解放度の高いアメリカを見ても、結婚した男女の約半分は離婚するという。そして離婚と再婚の繰り返し。結婚しても幸福を発見できないという事実。そこには一番大切な、「人間とは何か」人間にとって「愛」とは何なのかの問いが、すっぽり抜け落ちているのだ、と。
ここから本書の題名にもある〝エロス〟のテーマが浮かび上がる。
ここでも「産む性」である女・田中さんは、木内さんが考える〝男と女の理想的な関係〟例えば、

“この人と一緒になって、いい家庭、いい子どもがつくれる、と思ふような相手であって、初めて男は、真に強烈な愛情を感じることが出来るのであり、その結果として成立する性の交りに伴ふ満足感は、”

といった体験に基づいた感慨を蹴散らしてしまう。
そこに、自分のために自分の子どもを女に産んでもらいたい、産ませたがっている旧態依然とした「家父長制」に縛られている〝女性観〟を見抜く。相手に対する愛より先に子どもの存在が意識されているところに、何か不自然なものを感じるのだという。そして

“女というものは、自分の産むかも知れない子どものために愛されるよりは、どんなにつまらない理由からであろうとも、自分自身のために愛されるほうを選ぶ”

のだと言い切ってしまう。欲望のために女を追っかけるドン・ファンのほうを……。
〝エロス〟、それは理性を超える力、一つの狂気であり、女たちの心の奥の、そのまた奥底で人間を動かしている力であり、「愛」なのだと。
そして今、欧米流の「個」の自己主張と互いの権利のぶつかり合い、自我と欲望の固まりとは異質の、自分を自然の一部と感じる日本人の心の深層を流れる自分が「個」でなく、大きな自然と繋がっているという感覚の中に人間の真の幸福を見出そうとされている。
この間の自分らの文脈に沿うならば、男らしさや女らしさというものはすべて後天的につくられたものではなく、本来ある男らしさと女らしさでこそ構成される社会の可能性について本当は語りたいのだと受けとった。

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わが一体の家族考(142)

〝そこ〟に触れた時

例えば「ある愛の詩」の世界での〝そこ〟に触れた時、一瞬にして「叱られるかなぁ」といった憂鬱な気分が氷解し、何かほのぼのとした温かいものに包まれている〝自分〟を見たのだ。ただただうっとりと癒やされている自分がいた。
とても不思議な奇跡のような体験だった。

“無いものが、見えないものが見える人になるために、〝ふとした機縁から気づい〟た世界を通り過ぎないために、そこに立ち止まり、踏み留まって、行きつ戻りつを何度も何度もくり返し膨らませていくのだ。
何とも言葉で表せない感情でいっぱいになり胸が熱くなる〝この感じ〟って、いったい何なのだろうかと。
しかも〝この感じ〟に抱擁(つつ)まれて自足している自分とはどんな自分なんだろうか? それにしても彷彿と浮かぶあの恥ずかしそうな笑顔から一瞬のうちに蘇り、こみ上げてくる心の琴線に触れるものの正体は、いったい何なんだろうか? 
そうやって四六時中自分自身の実感に思いをめぐらせていると、ふと〝琴線〟の鉱脈を探り当てたような瞬間があった。底が抜けたような感触があった。実感をともなった体験の場に立ちあがった。”(わが一体の家族考116)

“心の琴線に触れるとは、ひょっとしたら〈性〉の琴線に触れるということだろうか!?”(わが一体の家族考87)

そうか、ここが自分で自分を尊重できて自分らしさに出会える場所だったのだ。何遍もくり返しくり返しひとりで立ち還っては勇気づけられた。自分の足でようやく一歩踏み出せたような嬉しさもあった。
漫画『ドラえもん』に登場するひみつ道具〝どこでもドア〟のように、
〝どこでもドア〟

何やる場合にでも、どんな場合にでも、あの時の心充たされた〝自分〟がいつもぴったり寄り添っていた。
はじまりの主観的な何か不思議な感情にすぎなかったものが、何時しか宇宙自然界の底に熱く息づくものにまで膨らんでイメージされてくるのだった。
以前研鑽した「実顕地用養鶏法研鑽会資料」の一節が浮かんでくる。

“その人の言う通りやろうとすることはその人になることで、その人の心になることで、方法のみを真似するわけではない。
一体になろうとするもので、一体とは無我執である。
その通りやれるかやれないかはわからないけれど、信じないで言う人の気持ちになってやってみようとするもので、そこに考える人とやる人の一体の成果が即ち本養鶏法が顕現される。
間違いなく完璧だからその成果を期待してやるものでなく、趣旨やあり方や仕組みに賛成して養鶏する目的や経営安定度の可能性にかけるもので、間違いなからんとして間違い多い過渡期も責め合いなく一体で励み向上さしていくものである。
それはヤマギシズム社会のあり方であり、そこに住む人の心情でもある”

じゃあ、その人の心って何?、自分ではない他人の心になぜなれるのか? しかも自分は大の人見知りで人が怖かった。そんな自分でもどうしたらなれるのだろうかと、いちばん思い悩んできた箇所だ。
それが一転して、そうか、そうだったんだ! 〝そこ〟に触れている〝自分〟が〝その人の心〟なんだ!?
ああそういうことか、とようやく肩の荷が下りたような深い安堵感に包まれるのだった。

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 「と」に立つ実践哲叢(40)

万年素人の初々しさ

さきの「あの崇高な〝人生踊り〟が特別人間のことでなく、自分のこととして実感されてきた」のなら、実際のところどんな状態を指して〝人生踊り〟というのだろう? 
じつは『養鶏書』(山岸巳代蔵著)には他に次のような一文もあった。

“人間の生活は一生を通じて、遊戯であり、私は自分を自分から離して、例えば芝居の登場人物を、客席から観る態度で、眺め、楽しんでいますから、喜怒・哀楽・不遇・得意の感情に冷淡な訳で、儲かってもそれほど嬉しくないし、損しても他所事のようです。”

“養鶏を職業とした時代でも、弄び的で、飼養法にしても、鶏種にしても、いろいろ建てては壊し、積んでは崩し、組み変えて試る癖が抜けなかったのです。”

人間の生活は一生を通じて、〝遊び戯(たわむ)れる〟ことであり〝弄(もてあそ)び的〟であり〝なぐさ(慰)み〟であり、それじたいが楽しい一つの踊りなのだという!?
そう言えばたった一人で〝おつかい〟に挑戦する子供たちの奮闘ぶりを、ドキュメントタッチで描くテレビ番組『はじめてのおつかい』がある。
はじめてのおつかい

親から買い物や用事などのおつかいを頼まれた3~5歳くらいの子供が、道を間違えたり、言い間違えたり、お金が足りなかったりしながらも必死に実行しようとする姿に毎回ハラハラドキドキ。そんな子供たちのけなげな姿にグッとくる。

あの、子が親からものを言いつけられた時の聴き方って、どんな聴き方なんだろうかと思いめぐらしてみる。きっと抗弁する態度でなく、ただ、じっくり聴いている。
その昔〝万年素人の初々しさ〟といったテーマで研鑽したことがある。それまでは経験や知識を豊富に積んだプロフェッショナルな生き方にどこか憧れていた。ところが〝玄人・完熟・固定〟になぞらえる自信人間ほど「来世に望みを持ち越すしかないなあ」と研鑽されて、みんなで大笑いした。
では〝プロであって素人〟であるってどんな世界?
生まれることも素人、死ぬこともはじめてのこと。恋愛も結婚も子供を産むことも育てることも仕事も、凡て経験のないことをはじめてやっていること。幾百回経験したといっても同じ経験は一度もない。

番組では、はじめてのおつかいを両親やお店の人はもちろん街中の人までがその子の一挙手一投足を我が子のように見守っている!
そんな姿を客席から観る態度で眺めると、凡てが楽しい一つの遊びにも慰みにも映り、客席の自分の心までほのぼのとしてくる。
人間は、人間の心の上には、その人なりの子供子供して遊んだはじめての光景が切ないほどはっきりと焼きつけられている。そうしてそこから、ある得体の知れない朗らかな気持ちが湧き上がってくるのを意識する。

だとしたら自分の鶴嘴(ツルハシ)をがちりと〝遊戯や弄びや慰みの状態が汲めども尽きぬ源泉〟に掘り当てることだ。そしてこの源泉を四六時中くみとるのだ。

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わが一体の家族考(141)

コロンブスの立卵鑽 
コロンブスの立卵鑽

ところが折悪しくというべきか、ある時たまたま風呂への行き帰りのすれ違いざまに実顕地造成の世話係だったSさんから「佐川節(『ある愛の詩』―引用者注)をきかせてもらったよ」とニッコリ声かけられたことがあった。
ショックだった。
というのも当時実顕地全体が有精卵の増産態勢の方へ力強く盛り上がりつつあった時期だったので、自分にはそんなマイナーで軟弱な私的な世界に入り込んでいる自分が否定されているように勝手に受けとったのだ。
さらに自分にとってその頃の一番の関心事は、〝そこの住人になりきる〟だった。そのためにも今までの頭でっかちな自分を解体したかったのだ。
それ以降、そうした実顕地に参画してはじめて自分にとって素晴らしい女性に出会えたという〝ぬるま湯〟的な感じ方・生き方を自己批判し意識して封印するようになった。
拡大発展の年だった。

“○会員拡大――特講拡大・旧会員の復活
○地元・同業者・関連業者との関係
○参画者の親子兄弟親戚の参画拡大推進
○実顕地生産物の増産拡大
○供給所 活用者の大幅拡張
○単位実顕地は夫々適正規模を目指して規模拡大
○単位実顕地は夫々一つ以上の実顕地を分家する
○実顕地が持たなくても実顕地で使える状態の土地や資金を拡大する”(正月経営研鑽会 研鑽課題より 1977.1)

しかもその頃社会を震撼させた〝連合赤軍事件〟も背景にあった。とても他人事には思えなかった。自分ら実顕地生活の中での組織や個人の生き方にも未解決で残されている重要なテーマのように漠然とながら感じていたからだ。
そもそも「〝ぬるま湯〟的な生き方を自己批判し意識して封印するようになった」こと自体の中に、今にして思えば連合赤軍事件と同質の芽が潜んでいたのではなかったのか?

組織によって個が安定するような依存型の人間によって構成された集団は、自ずと集団の安定が第一義の目的となり、どうしても固定化・閉鎖化していく体質となる。
そうだとしたら、すべてのことを自分のこととして為し、自分の生き方として生きるようになり、報酬の求めがなく、他に対して不平不満が一切なくなる〈個で充実し 個で安定する 依存のない生き方〉はどうしたら可能になるのだろうか?
長い間、個と組織の間でのジレンマを抱えてきた。個として何か〝してはならぬ〟ことをしているという、あの落ち着かない気分をどうしても払拭できないでいた。

後のあの2000年前後一人ひとりの本心からの〝今までやってきたことの根底からの見直し〟気運をとおして、歪みが一挙に噴き出した会組織全体の驚天動地の出来事は当然の帰結だった。
昨日までの同志相棒が、一転して心の底で軽蔑の眼差しを互いに向けながらわかれた。

はじめて自分はどうするんだと、イズム運動に真正面から直面せざるを得ない状況に追い込まれたのだった。
理想を追い求めるとは? 革命とは? 私が変われば世界が変わるとは? 反復して自分に問う以外に為す術がなかった。
その頃だった。なぜかあの封印していた〝佐川節〟の世界がよみがえってきたのだ!?

そしてふと妄想してみた。自分にとって〝ぬるま湯〟的な心地よくてずっといたい場所からヤマギシズムなるものにもし橋が架けられたらどんなにか素晴らしいことだろうなあと。本当に虫のいい話を思いついたのだ。自分が本当にやりたいことばかり追い求めていたら、ひいては全人幸福に繋がる? 

そんなバカな、と何度も何度も打ち消しているうちに、もうやぶれかぶれの捨て身の覚悟からの〝コロンブスの立卵鑽〟だった。
だから橋が架かったような感触が得られた時、ヤッターと思わず心の中で叫んだものだ。自分の中で閉ざされ眠っていたものが呼び覚まされた解放感とでも言えようか。
それが前述の自分自身の〝〈性〉の琴線に触れた〟実感がともなう体験だ。

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