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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(143)

『エロスとの対話』

以前次のように記したことがある。

“「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」(わが一体の家族考76)

エッ、どんなこと? とずっと頭の片隅にあったのか、先頃『エロスとの対話 女は男を知らず、男は女を知らない』( 田中喜美子・木内信胤共著. 新潮社1992.7)という書を、題名に引かれて読んでみた。
そもそも人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものとがある。
今の社会では、人間的平等や同権論で男女共通に律していこうとする風潮からか男女が〝社会人間〟に化けてしまっている。社会人間とは、男でも女でもない今の消費社会に適応する〝商品化人間〟のことだ。もう一方の異性であるという本質的なものが消滅寸前の運命にある。
本の帯のキャッチコピーは次のようにあった。

“画期的な往復書簡 九十歳の男性の叡智と六十歳の女性の情熱をかけ赤裸に語る愛、性、結婚”

著者・田中喜美子さんは主婦向け投稿誌『わいふ』の元編集長。
田中喜美子

木内信胤さんは吉田茂のブレーンであり歴代内閣の経済指南番と呼ばれた人。
木内信胤

気骨ある男と女によって、男らしさ女らしさを論じた互いに真剣勝負を挑んだ書である。
さすが投稿誌『わいふ』を通して長年主婦たちの生の声を聞いてきた田中さんだけに、天下国家を論じ家庭では理想的な夫婦関係を築いてきた申し分のない男、木内さんへ生身でぶつかる真摯な問いかけには正直圧倒された。
終始本来の愛の力を取り戻すために〝戦いたい気分〟を秘めた田中さんの世の男達の脳天気ぶりを暴く押し気味の論調に、木内さんはタジタジである。率直に木内さんは語る。

“女性とは、いい関係を持ちたい、とは終始考えてきた。しかしそのためには、男がもっとよく女を知る必要があるとは考へなかった。いかに況や女がもっと男を知る必要があるとは、考へたこともなかったのである。”

田中さんはいう。

“男には男女の問題を考えるより、もっと大きな仕事があった。彼らにとっては、いつも「愛」だの、「家庭」だのといっている女というものは、正直いって煩わしかっただろう。”

そして女性に対する男の視点はつねに欲望(射精欲)を軸として回転していて、そこには

“女の真の姿は映っていません。”

と断じる。そこに現在男と女のあいだの最大のギャツプを見てとるのだ。

“欲望の問題として捉えている男とよりふかい人間的な愛の実現を夢みる女”

それは〝性の快楽〟の質に顕著に表れるという。
すべてを解く鍵は、女の「受動性」の解釈に潜んでいるのだという。

“「抱き締められたい」という女の欲望は、相手に屈従したいという望みをあらわすものではなく、相手のすべてを受容したいという望み、自らを与えたいという深い欲求の表われなのだ。”

として、心から安らぎを感じる世界、自分というものが溶解し、他者と分かちがたく溶け合ってしまう感じに、愛する男との肉体的一致にもまして精神的な一致の、そんな受容する愛を見てとる。
そうなのだ。田中さんの中には一貫して

“女が解放され、生活のために結婚しないでもいい時代がきたとき、男女の仲はどうなるのだろう。女と男のあいだから、性的欲望と現実的利害をとりさったとき、「愛」は本当に可能なのだろうか。”

という問いが流れている。
急に先の下重暁子さんの「夫婦という他人」や上野千鶴子さんの「おひとりさま」の主張がリアリティを帯びてくる。
田中さんは論を進める。しかもその解放度の高いアメリカを見ても、結婚した男女の約半分は離婚するという。そして離婚と再婚の繰り返し。結婚しても幸福を発見できないという事実。そこには一番大切な、「人間とは何か」人間にとって「愛」とは何なのかの問いが、すっぽり抜け落ちているのだ、と。
ここから本書の題名にもある〝エロス〟のテーマが浮かび上がる。
ここでも「産む性」である女・田中さんは、木内さんが考える〝男と女の理想的な関係〟例えば、

“この人と一緒になって、いい家庭、いい子どもがつくれる、と思ふような相手であって、初めて男は、真に強烈な愛情を感じることが出来るのであり、その結果として成立する性の交りに伴ふ満足感は、”

といった体験に基づいた感慨を蹴散らしてしまう。
そこに、自分のために自分の子どもを女に産んでもらいたい、産ませたがっている旧態依然とした「家父長制」に縛られている〝女性観〟を見抜く。相手に対する愛より先に子どもの存在が意識されているところに、何か不自然なものを感じるのだという。そして

“女というものは、自分の産むかも知れない子どものために愛されるよりは、どんなにつまらない理由からであろうとも、自分自身のために愛されるほうを選ぶ”

のだと言い切ってしまう。欲望のために女を追っかけるドン・ファンのほうを……。
〝エロス〟、それは理性を超える力、一つの狂気であり、女たちの心の奥の、そのまた奥底で人間を動かしている力であり、「愛」なのだと。
そして今、欧米流の「個」の自己主張と互いの権利のぶつかり合い、自我と欲望の固まりとは異質の、自分を自然の一部と感じる日本人の心の深層を流れる自分が「個」でなく、大きな自然と繋がっているという感覚の中に人間の真の幸福を見出そうとされている。
この間の自分らの文脈に沿うならば、男らしさや女らしさというものはすべて後天的につくられたものではなく、本来ある男らしさと女らしさでこそ構成される社会の可能性について本当は語りたいのだと受けとった。

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