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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(156)

〝失恋も面白いものやぜ〟
失恋

また山岸巳代蔵は人間観念の変わりやすさと同時に反面〝こうだと思い込むとなかなか変えられない〟我執観念の様々な場面での現れを、いろいろな種類を一つひとつ並べているところがじつに興味深い。
一口に漠然と我執・頑固観念とは、自分を持って放さない、キメつけて執われることだと言ってみたところで「ああ、そうか」で終わってしまいがち。頑固観念の一つや二つ脱げても、また入れ替わり立ち替わり、変わった観念が入って根を下ろしてしまう。人間は観念動物と云いたいほどなのだが……。それではいったい何を信じて(拠り所)人間は行動し、生きるのか?

○この世に、どんな場合にも、悲しい、苦しいと思うことは、自分や人への同情等や、悲しいときめ、苦しいものときめつけて、そこから脱却することを拒む頑固我
○きめつけたことが実現しないときめつけるきめつけ我
○思いごと、願いごとを持ち続けねばならんとする固持我
○いま思ったこと、人に云ったことも、コロコロ変わるものを、思ったから、心できめたから、人に云ったから、約束したからと、考えや事態が変わってあるのに、前に考えた、云った、聞いたことを、終生大事と持ち続けて、頑として放そうとしない我
○病気になったら、それを苦にする我
○きめつけを持っていないと思っていても、ずいぶんたくさんのきめつけを持っている人が多い。これが無自覚頑固
○きめつけなしでは不安定だと錯覚し、きめつけを大切に持って、放すことを怖れ、嫌う人もある。臆病頑固。
○自分の考えや行為を、これでよし、間違いなし、ときめつける、自信頑固。
○私は至らない間違い多い人間だから、私の考えではダメ、ときめつけて、昔からの常識や、多数の人の意見や、学者か知識・経験の深い人や優れた人、世評の高い人、賢聖等の言行を崇拝・是認して、または神、仏の道、教え等と謂われる事を間違いないかのように、至らない、間違い多い人間の筈の私の判断できめつけて信じ込む、盲信頑固。
○自分はダメだときめつける、劣等感頑固。
○恥ずかしがりがとれないときめつける、逃避頑固、羞恥頑固。
○頑固でないときめつけ、頑張る、否定頑固。
○相手が間違いだときめつけ、筋を通そうとする、正義感頑固。
○知識・能力・経験・美貌の点で他の人より優れているとしての優越感頑固
○俗に云う養子根性や、貧乏や、身丈や何かで、ひけめを感じてなかなか脱けられない、頑固な劣等感頑固
○沈黙頑固、温厚型頑固、逃避型や遠吠え型、貞淑型、羞恥型頑固、怒り型、悩み型、恨み型を持ち続ける頑固等々。

先ずは小口からその都度コツコツ脱いでみることであろうか。
なかでも先の〝観念あるけどいつでも外せるもの、本来持ってないもの〟の象徴的な実例として山岸巳代蔵は、恋愛問題をあげているところがさすがである。
人類史誕生以来くり返して体験されてきたにちがいない〝あばたもえくぼ〟に映るといった恋愛感情の起伏の中に、観念動物ならではの可笑しさ・哀しさ・素晴らしさなどの悲喜劇が凝縮されているようにも思えるからだ。

“失恋も面白いものやぜ、執われから解放される。記憶あっても執われから解放されるということは、いくらもなし得ることやし、あり得ることやと思う。僕はそれで楽になったわ。実際は代りがあるからやなしに、好きな人があるから一方の執われから忘れたやないの。それがある間は、可哀相な、苦しい、さびしいようなものがずっとあったが、それを外したらなくなるね。そういうものは早う外した方がよいと思うな。向こうにあるのでなくて、こっちにあるのやから、それは。”(「ヤマギシズム理念徹底研鑽会」第六回)

そして第一回特講期間中親身になって手当てしてくれた大森敏恵について語る。

“誰と恋愛して暮らしていてもちっとも消えず、しかもほのぼのとしたもので、しかも二度と寄るか寄らんか分からんとしても、点滅でフツフツと浮かんでくるもので、執われてさっぱり仕事できんかというと、そうでないが、それもやっぱり取り去れた。それが同じ思い出でも、明るいものならよいが、暗い悲しいものならみじめやわね。また何回も出てきても、外していけると楽やね。また観念をパッと外すこともなし得ると思うわ。”

一つの観念我が外れて、ふっと浮かび上がってくる〝ほのぼのとしたもの〟がある。
これぞ山岸巳代蔵がひそかに待ち焦がれている、ヤマギシズム恋愛・結婚観の底に一貫して流れているものにちがいない。
我執を超えるものがたしかに誰の心にもあるということを言いたくてしようがないのだ。観念我が外れて、頑固が謙虚に転換する姿にかつてない地軸を動かす事態を見ていたのである。

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わが一体の家族考(155)

脱げない着物はない
水鏡(みずかがみ)

“ みずかがみ
こころ ころころ みずかがみ。
かげがながれる、みずはなみうつ。
自分で自分の心を眺め視る。
つかの間も停まっていない。
自分で自分の心を信じられない。あてにならない。
秒後は何を思うだろう。
物のすがたは定規ではかる、
はかりかたないひとごころ。   鈍愚生”

また山岸巳代蔵は亡くなる少し前に、次のような言葉を残している。

“人間の観念というものは、頑固なもので、生まれた時はそうでもなかっただろうが、だんだんに観念が入り、その観念を物差しにして何回、何十回検べ直しても、答は同じように出る。「何回検べ直しても同じ結果になるから間違いない」と思い違いするもので、物事を検べる元になる自分の観念を、零位に立って検べ直してから、とりかかることではないだろうか。
人の頑固はよく見えやすいもので、頑固でないものまでも頑固に見えたりしやすいものであるが、自分の頑固は、自分の体臭に気がつかない如く気づかないもので、ちょっとした頑固観念があっても、損するのは自分で、その余波を人にまで及ぼすものである。
自分の我利・我欲・頑固観念を真っ先に無くし、それだけにとどまらず、全世界の頑固・我利・我執を絶対に抹殺することによってこそ、真の幸福は招来される。
頑固・我執を無くさない限り、最後の土壇場で自分が苦しむもの。
仲悪く、人と人とが同じ世界に住み得ないもの。
不幸の芽はそこから伸び広がっていくもの。
自分の我はむろん、世界の我を無くすることを、全てのものの始めとしよう。
早く、これを急速に拡めようではないか。―1961.3.15―”(―理想社会をめざして―一粒万倍に)

一般に〝我執〟と聞くと、先入観からか宗教臭味を感じて何となく避けがちになる。それでも意味的には〝自分中心の狭い考え。また、それにとらわれること。〟と知っている。そして「いや自分にもたくさん我執がありまして……」とへり下ってはみるが、それ以上〝自分のどこに〟我執があるかまでは検べようとはしない傲慢さを恥じる。
山岸巳代蔵は一貫して「我執があるというのは人間最大の不幸で、仲良く暮らすには我執があったらあかん」と言い続けた。
自分は幸せばかりを願っている〝我抜きの固まり〟だとした。そして我執のない自分を発見する喜びを生きる力の源泉とした。
しかもそこから希望、明るさ、豊かさを味わったものは、自分だけで止まらずに「世界中の我の根を絶ち切ろう」「生身の自分は死ぬかもしれんから、その理解者を一人でも多く作る」ことに情熱を燃やした。
そこから我のある人が我のない状態になれる方法、機構、場所について徹底的に究明し抜いた。現在自分らの住む場所のことを〝実顕地とか一体経営、一体生活〟とも呼んでいるが、そのベースは〝我執があったら一体とは言えない〟というハッキリした理念に支えられてのことだ。もちろんいちばんの素晴らしい真の結婚を希うなれば、無我執の自分になることが絶対条件だとした。
その一手段として各個人の頑固観念を抹殺焼却するために、常識ではとうてい出来難いこと、やってはならないこと、絶対やれないようなことを、やれと強弁する〝我抜き研鑽〟がある。次のような証言もある。

“どう考えても我と思えんことを、我やとキメつけてやるわけ。たまりかねて先生(山岸巳代蔵―引用者注)に言うたら、我抜きについては何も言わない。我抜きは否定しない。
我のない人に、いくら我抜きやっても無害だから、やはりいくらやってもよい、と。”

確かにコンクリートの川に網かけて、布みたいなもの流してみると、私の考えはいろいろあっても帯や着物があったら引っかかるが、水だったら引っかからない。
また何を話し合っても受け付けない頑固な人でも、死んでも行かないと言い切っている人でも、一通の急信によってどんな忙しい中でも遠隔の地からでも、取るものも取りあえず頑張っていた頑固さをサッと抜いて自分では意識しないで兄弟近親の元へ馳せつける。
またトゲが刺さった時のように、調子良い時は「良いな、良いな」で痛みを感じないが、ちょっと逆撫でされると痛い。とにかく抜かんことにはおさまらない。
こうした事実はいったい何を物語っているのだろうか? 
観念動物としての人間は、それにとらわれて外せなくなったり、しかしまたそうした観念あるけれどいつでも外せるもの、本来持ってないものでもあるのだ!
こうした観念の特質をよく知って上手に扱っていければよいのだが、その前に我執は〝いつでも外せるもの〟だという当たり前の事実を知るところからはじまるのだろうか。

そうした意味では愛情研鑚会はまた〝我抜き研鑽〟実演の場でもあった。いや〝我抜き研鑽〟も我執抜きなど必要のない〝我執を自分で発見する喜び〟の場へと移行進化していくための必要行程でもあったのだろうか。

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NHKスペシャル「サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む」 

先日テレビ番組『サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む』を観た。
イエスの塔

世界遺産スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア教会。ついに去年10月、教会の最大のシンボル・イエスの塔の建設が始まった。完成すると、サグラダ・ファミリアは世界で一番高い教会(175メートル60階建ての高層ビルに相当)となるという。しかし、建築家ガウディが残した建築資料はスペイン内戦で焼失。イエスの塔の壮大な構想は長年、謎に包まれてきた。その謎に挑むのは、サグラダ・ファミリアの芸術工房監督として、40年前からガウディの残した手がかりを探し、教会を作り続けてきた彫刻家・外尾悦郎さんだ。
以前にも外尾さんについて触れたことがある。

“今もスペインのサグラダ・ファミリア教会でガウディの遺志を継ぐ彫刻家・外尾悦郎さんのことが以前新聞(2013.6.8朝日―引用者注)で紹介されていた。石を彫りたい自分に気づいて、若き日偶然スペインで石の教会の工事現場に飛び込んで以来、今日までやってこれた理由に、ふとした心の転換があったからだという。
 それはガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ、と気づいたとき、ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えたというのだ!
 あ、これだ。こんな感じかなあ、と思わずうれしくなった。自分にも思いあたる節があったからだ。”(「と」に立つ実践哲叢22)

糸口は外尾さんの「ガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ること」、つまりガウディと同じ視点(=位置)に立つというか、ガウディが込めた思い(=心)になることにあった! 
すると「ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えた」!?というのだ。
ホント、これこそ目から鱗が落ちる気づきなのだ。これは〝近づこうとする自分〟から自分が〝その人(ガウディ)が見ていたもの〟を共に見るといった次元の飛躍・転換を意味する。この点はいくら強調しても強調し足りないところだ。

風来坊のような一日本人を、石工たちがすんなり受け入れてくれた訳でもないだろう。ただただ一生懸命に石を彫るだけだったはずだ。
その外尾さんが今芸術工房監督として教会の最大のシンボル・イエスの塔の内部をデザインする。塔の中に何を込めたらよいのか? それをガウディが願った心になって探すのだ。
そうした企画案変更の様子が興味深い。

塔全体でイエスの存在を感じる空間にしたかったのでは……。だとしたらイエスそのものがいるという空間とはどんなもの?
イエスが出会った人や風景を形にしてみたらどうか。神と聖霊を象徴するオブジェとか、ガラスのオブジェで森羅万象を〝種〟として配置して、それらを神から人間への贈り物として表現できないものだろうか。
実際に試作品もつくってみるのだが、どれもしっくりいかない。ガウディならどうするか? ヒントは必ずある。
番組では近年失われたと思っていたガウディの資料が大量に発見され、そこでのガウディが境目なく混じり合う色のグラデーションの実験材料から、イエスの塔につながるヒントが明らかになる。 
外尾さんは40年間探し求めていたものを見つけた思いで語る。

“自然には境目がないんですよね。空の色も海の色も。色が無限にグラデーションがかかって変わっていく。ところが人間が作るものはすべて境目がある。それをガウディは悲しく思った。
貧富の格差や社会の分断が広がる中で苦しみが続く人間社会がつくる境目を、自然がつくる自然のグラデーションで乗り越えるといったガウディの願い”
色のグラデーション

を彫刻やオブジェでなく、水・光・時間・土・重力など森羅万象を色に託して色のグラデーションで神から人への贈り物として表現してみようと思い至るのだ。
そんなサグラダ・ファミリアに託されたものを追い求めて止まない外尾さんの発言に励まされる。

そういえば、自分にも思いあたる節がある。
ある秋の「ヤマギシズム展示博覧会」での出来事だ。自分はテーマ(自然と人為の調和)館の担当だった。ところが約一ヶ月前からの準備の中で最初に立てた企画案にNGが出た。何で? テーマの焦点が全くズレていたのだ。そこで関係者で再度寄って、例えば次のような一節

“人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり、政治・経済機構も大改革されますが、その何れにも相互関連があり、この条件を必ず重大要素として組織し、総親和社会への精神革命を必要とする所以です。”

を研鑚しながら、『ヤマギシズム社会の実態』の書は実態の書であって、書でなくて実態そのもの。この実態の書を、実顕地そのものにしていくことが実顕地の深まりなんだといったこと等を確認し合ったことがある。
今にして思えば自分自身大きくズレていたが故の、何と素晴らしい僥倖にめぐり逢えたことだろう! 
その後何度もやっかいな局面に立たされた時、きまってこの一節を一字一句研鑚して心に焼き付けたことが鮮やかに甦ってくる。
人間は言葉による観方・考え方に立つことでしか、現実を乗り越える実態は立ち現れては来ないことを思い知らされたことだった。

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わが一体の家族考(154)

私心と全人幸福を願う心

また先の愛情研での柔和子の発言にもあったように当時1958年頃山岸巳代蔵は大村公才(キミオ)と自称していた。愛情研鑚会の記録として残っている1958年10月21日の研鑚会の初め頃に次のように語る。
奥村土牛 「鳴門」

“私は大村キミオっていう名をつけた、あれはね、ねえ、「全人に適当に使われたらいいんだ」っていう、そこから出た、あの夫(オット)っていう字を書いたんですわ。夫(オ)は、それではやはり一般を刺激するから、才(サイ)という字を書いてますけどね、夫(オット)という字、大村公夫って。一旦あのねえ、瀬戸内海でねえ、ねえ、私はもう、ワタシは捨てたんですわ、ね。私を必要としやね、ねえ、相合う人あるなれば自由に使ったらいいじゃないかって、大村公才(キミオ)。そういう私の観念を象徴する意味で大村公才とつけたんです。大村は世界っていう意味ですわ。ねえ、世界っていうことは、今の世界じゃない、永久の世界ですがね。世界の中で、ねえ、それで公才とつけたのはね、私のまあ才能って、そんなおこがましいもんじゃございませんよ、ねえ、能力そのものをやね、世界中の人のために役立つものがあるなればですよ、はっ、使われたらいいんだって、この気持なんですわ。で、いずれもこれは通じる「オ」なんですわ。”

この、私心の〝ワタシ〟にはもう、なんらこの世に未練がないというのだ。生きていたくなかった。即座にこの場ででも消えてなくなりたかった。
そう言えば1957年9月、和歌山の高野山での山岸会全国大会で西辻誠二さんが次のようなエピソードを披露していた。

“こんな名刺を持って来て、小さい小さい字で端の方に〝山岸〟と書いてある。外に何も書いてない。〝なんで所を書いてはらへんのや〟、〝いや世界……日本地区くらいかナ〟と言うてはるんですナ。それから〝あの堤防も直しましょうね、あの堤防の三倍もあるのを〟ちゅうようなことを言って、〝モデル農村をこしらえましょうね〟と言われる。わしも〝ハアーン〟となって聞いていたんです」(笑声)”

あえて平たく言い直せば、ここで山岸巳代蔵は〝二つの山岸〟を表明しているのではないだろうか。一つは瀬戸内海に捨てた〝私心のワタシ〟であり、もう一つは〝私が真理だと思うもの〟というか〝全人幸福に役立つ私〟である。もう一刻も早く死にたい私心と全人幸福を願う心との二つがうず潮のように渦を巻いていたのだ、と。
このうず潮のイメージこそ、この間の文脈での〝二つの幸福〟〝何でも二つある〟〝二つの事実〟〝二つの心〟〝「と」に立つ〟といった文言に重なるのだが……。

この運動をはじめるにあたって山岸巳代蔵は、〝自然全人一体の産物としての自己(自分)〟から出発していた。山岸養鶏普及にあたっても、くり返し鶏を飼う場合の鶏や社会との〝繋がりを知る精神(心)〟がそれである。
自分が全体の関連の中のどこに位置しているか、一つ一つ辿っていくことによって、自分の立つ位置が分かるとした。確かに自分の働きによる間違いの及ぼす影響ということを考えれば自分の位置の大きさを感じ、またみんなとの一体によって成り立っている繋がりから知る自分の小ささを思い知らされる。
そうした繋がりの中の自己(自分)にとってのいちばんの牆壁は、じつは自己意識や自我や主観や主体といった自分を護る観念から生まれる〝剛我〟観念であった。

その〝剛我〟観念との格闘・脱却劇を、〝我抜き研鑽〟としてもっともリアルな愛情世界の場で演じてしまうのだった。
しかもそこでの〝無意識ですわ、無意識にねえ〟と予期もしないのに起こった本当の恋愛の実践の場では今日までの恋愛・結婚理論など何の役にも立たなかったことであった。
それはヒニクにも真を求める者に課せられた運命というか結婚受難史を予期させるものだった。
いやその前にそもそも〝剛我〟観念とは、〝我抜き研鑽〟とはなにか? 再度軽く振り返ってみる。

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「と」に立つ実践哲叢(41)

新しい時代についていく

昨年11月末の村の交流会で何か皆の前で話せというので、たまたま当日朝のニュース〝中国政府、「世界初のゲノム編集赤ちゃん」研究の中止命令〟から思いついて、今世界で起きている目覚ましい科学技術の進化と自分ら日々の暮らしとの繋がりについて話してみたことがある。
ゲノム編集技術

今まで自然(神)の領域でなされていた遺伝子の組み合わせが画期的な遺伝子編集技術(クリスパー・キャス・ナインの発見)によってまるでワープロで文章を編集するように人為的に簡単に書き換えられるのだという! そのゲノム編集技術の開発者の一人、ジェニファー・ダウドナ自身が自著で心配していた真当の使い方を知らない人にも使える技術ゆえの懸念がまさに現実になったといえる。

以前にもスマホや自販機などに象徴される文明の利器の有り難み、温もりを振り返ってみたことがある。その時までは外なる創造・物質進化と内なる人間自体の開発・創造面とを切り離して考えていた。だから外なる創造のより一層の進化と共に肝腎の人間問題が立ち遅れにならないよう、今ほど人間自らの開発・創造の方面こそむしろ先行して取り組む時はないとしてきた。

ところが今世界で起きていることは、内なる心は知らぬ間に外なる便利で快適な科学技術の一方的な勢いに侵されつつあるという驚きにある。外なる創造する積極的能動をそのまま内なる人間自体に持ち込み、内部が心を持たないAI(人工知能)のアルゴリズムに置き換えられようとしているのだ。外と内が離れたものでなく直にリンクする、はじめての事態に直面しているのだ。
先の中国政府の中止命令に見られる旧来の生命倫理観から見ての今日の重要施策と同時に、今一つ、今直ちに着手しなければならぬことがあるのではないか……。
そんな話す本人も未知ではじめての事態のことをたどたどしく語るものだから、聞く方はもっと見事なくらいチンプンカンプンだったらしい。

それはさておき、そうした事態が当然の帰結ともいえるなら、今世界で起きている目覚ましい科学技術の進化はどうしたら真の幸福目的のために利用されるのだろうか。また生来の人間としての豊かさ、広さ、徳性を果たしてどれほどより広く深く進化させていけるのだろうか。問われるのは、内なる人間自体の開発・創造面であろう。

そう言えば当の〝クリスパー〟も細菌がウィルス感染から身を守っているという自然現象の研究から生まれたという。内なる人間自体の開発・創造というと大層難しいように聞こえるが、ヤマギシ会趣旨の一節〝自然と人為の調和をはかり〟という意味での自らの能動的な〝働きかけ〟としてとらえたい。
そうすると、それは誰の中にも無限大に潜在して人間ある限り無くならない、開発さえすればどんどん湧き出てくるものではなかろうか。その辺り今少し思い巡らしてみる。

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