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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(160)

〝一軒の家でいくらでもやっていること〟
発見.

先の「『恋愛と結婚』の前書き」の中に次のような一節がある。

“いかに科学的究明を信条としている思想を以てしても、観念論的部分の多い人間生活を、やはり観念論でキメつけて、それを優れているかの如く観念づけられた人達で社会風潮が作られ、そういう固定した観念の壁に対して、これだという固定した形態を持たない、無固定を正しいだろうとする観念での論議は、その論理がいかに正しくとも、受け入れられることは難しいことだろう。
固定観念に対して無固定観念で論議することは理解が全く至難だと言ってもいいくらいのものである。こうした場合に、その無固定観念を理解せしめるには、無固定思想の実践による立証をする必要がある。ごく小さい部分からでも実践することであり、しかもその小さい部分で止めるなれば、これまた理解さすことが容易でない。この思想を実践し、拡大して、証明することにあると思う。”

そうなのだ。〝固定観念に対して無固定観念で論議〟しても勝ち負け感で、無固定観念が勝っても怒るし、負けては馬鹿にするし……。
ここでは〝固定した観念の壁〟に真正面から向き合っている当事者ならではの感慨が述べられている。
なぜ今ヤマギシズム恋愛・結婚観の探求なのかの理由が率直に述べられている。
自分らもこうした世界認識・現状把握から出発しているのだと思う。
グローバリゼーションが普遍化しつつある流れの中で、なぜ今自分らは〝仲良い楽しい〟をうたい文句に〝こんなのがあります。こうしています〟と独自の酔狂な(?)道を歩んでいるのだろうか。

一九七〇年代のはじめ、当時担当していたヤマギシズム運動誌『ボロと水』の企画として、先述の〝無固定思想の実践による立証〟の一つとして誕生したヤマギシズム生活実顕地がしばらくして分解し、看板を下ろした経緯を探るために、北から南まで訪ね歩いたことがある。
貴重な体験をさせてもらった。現政治経済体制下、しかも旧態依然の道徳・常識社会の中で理想を追い求めることの意味と共にきびしさを我がことのように思い知らされた。本ブログを書き継いでいる意欲もそこから出ているのかも知れない。
当時(今も変わらないが)盛んに研鑽されたのは、〝真目的への最短コース〟として現時点で何に力を入れるかということだった。
例えば実顕地造成の場合にも二通りあった。

一つは常識的に考えられる無理のない段階法としての―
○個人経営⇒協業経営⇒協同経営⇒共同経営⇒一体経営即ち実顕地化というコース。
もう一つは即断即決の出発点の大事さを考えた上での―
○個人経営⇒ヤマギシズム特講⇒実顕地化の直線コース。

もちろん実際は、自分や相手の現状を考慮するあまり無理なく段階的にやろうとしたことがその段階でとどまってしまう結果になって、次の段階へ入っていけないことが多々ある。
少しでも〝できない〟という観念が入ったら難しくなってできない。
そこで人間、動機が適当であれば廻り道しないで真目的へ直進出来るもので、その間あまり雑念がない方が良いとして〝直線コース〟で押し切るわけだが、そこでも様々な問題が生じてくる。
こうした二つの方向性の中で、実顕地運営での現実問題の巧みな運営法いかんが問われるわけである。人類史がくり返してきた理想と現実のジレンマがここでも日々再現されてくる。
いや、そもそも実顕地なるものが発足したのは、

“家族の中でできていることが、家族同士寄るとできない。それができるのが今度の革命である”

からだった。
一軒の家でいくらでもやっていることを、ちょっと世帯が違うと難しくなる。〝固定した観念の壁〟に遮られる。そこで〝無固定思想の実践による立証〟が求められるわけではあるが、その前の〝一軒の家でいくらでもやっていること〟っていったいなんだろう?
ここを根底的に考え尽くすことができないだろうか。それができるのが今度の革命であるのだというのだ。発見だった!

そう、理想と現実のジレンマ(二つの相反する事柄の板挟みになること)に先だってある〝一軒の家でいくらでもやっていること〟に光を当てること! 
それがヤマギシズム恋愛・結婚観の探求だったのだ!!

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