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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(168)

呪縛からの開放

こういうことだろうか。
例えば一週間の「特講」の終わり頃に、〝絵図研鑽〟をやる。
特講絵図

この絵図は、第一回特講(1956.1.12)開催日の明け方までかかって山岸巳代蔵が息子の純(日本画家1930-2000年)に描かせたものだ。左側に理想社会を現し、右側に現実社会を現すような政治家や僧侶や学者や酒を酌み交わす人らが描かれている。当日までかかったのも女の人が全てを放して〝ポンと飛び込む〟姿が思うように描けない。とうとうそこだけ山岸巳代蔵が描いてやっと間に合わせたのだという。
いわゆる理想と現実の世界をありのままに対照的に描いたものなのだろうが、皆で一週間の研鑽を経ての〝絵図研鑽〟の段階では、左側の花園での男女の語らいの姿などが妙に生々しく感じられるのか今すぐにも裸身で飛び込んでいきたい気持ちの自分に気づかされる。きっと誰もがそう感じるにちがいない。
現実よりも理想の世界の方がリアルに感じられた不思議な体験だった。

自問自答の始まりだった。その後、しばしばヤマギシズム(理念)と現実との相一致しない様々な矛盾に直面するにつけ、理念と現実の世界とはどんな関係にあるのかと考え込まずにはいられなかった。

○そもそも理想を描き、その理想実現に生きがいを感じるとは? 
○心底面白いからやっているだろうか?
○理想を唱え、追い求めることはただの幻想やロマンにすぎないのではないのか。なぜならこれまでのすべての理想実現の試みは、愚劣な失敗例と挫折例しか生まなかったではないか。
○理想を追い求めることが、何時しか日常行動からくる環境に押し流されてか観念的理想論に終わるのはなぜなのか?
○ヤマギシズム(理念)に即応するというか直結する生き方(生活)はどうしたら可能なのだろうか?
○理想を自己の生活に日常化しない限り、押し流されるだけだ。つまりそこでの生活・経済・生産活動その他が理想と直結した生活体とすることだ。
○そんなことが現実的に可能なのか? 窮屈で息苦しいだけではないのか?
○では〝理想は方法に依って実現し得る〟ならば、その最善の方法とは何のことを指すのだろうか? 
○その理想への出発点に立つとは?
○センジつめると、ヤマギシズム(理念)を生きるということになるのだろうか。
○そこまで行かねばならないのか? 凡人の自分には絶対無理な話ではないのか。

ふと以前実施されていた「ヤマギシズム無期研鑽学校」のことが思い出される。
当然無期というからには、何時実顕地に帰れるか決まっていない。なかには数ヶ月にも及ぶ人もいる。そこでの上昇点となる目安は「もうだいぶ研鑽して深まったなあ」という自信めいた気持ちから「自分はもうちょいと賢いと思っていたが、まだまだ。容易でないなあ」という謙虚な気持ちに切り替わったその時にあった。なぜか不思議とそんな頃合いに実顕地に戻されるのだった。
その絶妙のタイミングに人智を越えたものを感じてしまうのだ。

そこからあの理念と現実とのズレ“理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……”のそうもいかない不思議な謎を解明する手がかりが見つかりそうなのだ。そうした呪縛からの開放のヒントになるものが。
なぜあえて自分は、ヤマギシズム(理念)と現実を無理やり結びつけようと悪戦苦闘しているのだろうか? 本来良い悪いなどと比べられるものだろうか?

そうか、ふと自分が理想そのもの・〝ヤマギシズム〟になったらいい? との思いがわいた。自分が〝ヤマギシズム〟を勉強したり近づこうとしないで、理想・〝ヤマギシズム〟と同じ位置に立つというか、そこを生きることだ! 
するとあの絵図が、これまでとは違った生き生きとした姿で目に映り始めてきた。

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