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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(177)

知的革命たるゆえん
おむつセンサー

ちなみに現代社会では、〝男らしさ・女らしさ〟についてはどのように受けとられているのだろうか。
たまたまネットで「日本青少年研究所」による日本・米国・韓国・中国の高校生各千人を対象にした〝男らしさ、女らしさに関する高校生の意識調査〟(2004年発表)を見つけた。
総じて男女とも日本の高校生の、男らしさ女らしさに対する意識が薄い傾向が見てとれる。
読売新聞の社説でも、「女は女らしくすべきだ」を肯定した日本の生徒が少なかった事などにもとづき、「教育界で流行している『ジェンダーフリー』思想の影響を見て取ることができる」とし、その社説の最後で「調査結果は、倒錯した論理が広がったときの恐ろしさを示している」と結論づけている。

しかし当の若者達は、ジェンダーという男女の区別を示す社会的・文化的概念にこだわるよりも、むしろ「らしさからの解放」とか「その人の個性を尊重」とかにAIを基にしたグローバル経済社会に適応した自由で快適な感じ方や行動を無意識に感じとっているのだろう。日本には古くから「男は度胸、女は愛嬌」といった男女の〝らしさ〟の妙を伝えることわざも、今や色褪せた死語になりつつある。曰く

○男女の別にとらわれることなく、自分らしく生きるべきだ。
○あなたは、男である前に、女である前に、一人の人間です。
○私が考える理想の社会は、男女の差別も性的マイノリティーに対する偏見も無く、誰もが自分らしく生きる事が出来る社会です。
○自分が着たい服を着て、自分がやりたい髪型にして、自分がしたいメイクをしていいんだよね。
他人が決めた あなたらしい・・・
と言われる姿になろうとしなくていい。
自分が自分でいたい姿でいいんだと思いますね。
○茨城県古河市の平成30年度一行詩「男女の詩(ひとのうた)」最優秀賞作品に、
「男らしさ 女らしさ 重要ですか? 大切なのは自分らしさ」(30代・女性)とあった。

いったい今何が起こっているのだろうか?
本当は男女の〝らしさ〟も〝自分らしさ〟の追求・発揮も同じ質のものなのに、いろんな観念が邪魔してか二つの課題を同時に考える時に複雑になるのだろう。
しかも肝心の〝自分らしさ〟も、〝AIを基にしたグローバル経済社会に適応した〟自分に特化されている。
先の「卵の価値は〝生きる力〟だ」と聴いた場合、素直に「ああそうかな」となるのと、「何も形してたら、売れたらよいやないか」と二つあるようなものだ。
金の要らない楽しい世の中に世界中がなると聞いた時、複雑に考えれば到底不可能だと頭ごなしに否定するようなものだ。
これは何かの考え方を入れて、複雑に考え過ぎているにちがいないのだ。

一事が万事で例えば今、赤ちゃんがおしめを濡らすと音がなって知らす〝おむつセンサー〟がある。
紙おむつにセンサーを付けることで、周囲の温度と湿度の変化を即座に把握。赤ちゃんがおしっこをしたことを、仕事や家事で忙しいパパ、ママに代わってスマホに通知してくれるという。しかもおむつの交換回数、おしっこの回数をクラウド上に記録できるため、赤ちゃんの体調管理を簡単に行えるという。
たしかにおしっこで冷えたおむつが体温を下げたり不衛生になり体調を悪化させる原因にもなる。
なるほど人工知能AIを基にしたグローバル経済社会に見合った〝赤ちゃんに優しい〟開発技術なのだろう。
人と人とが離れ、相反目するタコツボ化した高度専門化社会ならではのスグレモノだ。

しかし一方では、本来赤ちゃんは自分が意識しないのにおしめが汚れた時、不快感でむずかる。
しかもそのことに無識に応じるお母さんがいる! そんな母子の求めるものと応じるものとの全面一致する正常健康な姿も、今や色褪せた光景になっていく!?

おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時、素直にむずかれるような感受性(〝情感〟という心情の営み)の涵養策こそ今直ちに着手しなければならない最重大方策ではないだろうか。もちろん大人の私たちに向けての話である。本稿を書き継いでいる意図も、じつはここにあったのだとあらためて思い知らされる。
本質(本来・理念)と現状とを一緒くたに混同してはならない。まず本質(本来・理念)に当たりをつけてから、現状を考えていくのが順序だろう。どちらが先かの後先ちょっとのことで、現象のあらわれがまるで異なるのだ。

山岸巳代蔵は、誰もが欲求する本当にお互いが自分らしく生きる・生きられるには、先の「仰慕←→愛撫」に象徴される二人で一つの謂わば真の夫婦から始まるのだとした。
相合うお互いを生かし合う世界へまず〝ポンと飛び込む〟ところから理想社会実現(=自分らしさ)へと繋がる本筋が見えてくるのだとした。
ここでの〝ポンと先に楽になって、それから考える〟考え方の飛躍・次元の転換に知的革命たるゆえんを見る。

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わが一体の家族考(176)

普遍性への通路
上野・「アメ横」

たしか学生時代だったと思う。ある日の新聞の日曜版に大きく載っていた一枚の写真に魅せられたことがある。東京・上野の「アメ横」の雑踏の中で、幼児を片手で抱きかかえる夫に寄り添いながら見上げる妻の姿が写真の中心に浮かび上がっていた。
思わず「こんな夫婦っていいなあ」と心に焼き付いてしまった。

後年、ヤマギシズム研鑽学校などで「仰慕←→愛撫」といったテーマを研鑽した時、すぐに思い浮かんだのはくだんの写真〝アメ横の夫婦〟だった。もつとも自分だけの何の深い根拠もないたまたまそう感じただけにすぎないありふれた光景にすぎないのだが。
しかしこの間ヤマギシズム恋愛・結婚観を探ねてここまで辿りついて、たまたまではない運命的なものをなぜか感じるのだ。
あの思わず「こんな夫婦っていいなあ」とふと心に焼き付いてしまった光景がきっかけとなって、その先の誰の心にもある真実に繋がる〝普遍性への通路〟ともなすことができるのではなかろうか、と心ときめかせるものがあるからだ。
謂わば「自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいと振り返ると」(山岸巳代蔵)といった具合に、一つの実感を求めて行きつ戻りつしながら醸成されてくるものがあるようなのだ。
そんな軽く聞き流し見過ごしがちな、ひょっとしたら〝それがあれば他に何も要らない宝〟を山岸巳代蔵は断片的に振り返る。

子どもの時から、その当時の社会に対して、おかしいと思っていた。親達は「分からん。この子の言うことは分からん」と言う。また友達ともどうしても妥協がなかった。それで、むろん友達もなかった。で、何が友達かというと、本当の世界の究明をやっていた。
本読むのでも、〝ああ、これでいいのかな、いいのかな〟という読み方で、それに入り込めなかった。それで良しとしなかった。
もう自転車乗るのでも、それこそ石踏まないようにゆっくり用心深く乗った。

ハッキリ線が出たのは青年時代、19、20,21歳の頃だった。それは〝真理は一つであり理想は方法に依って必ず実現する〟という考え方だった。
養鶏も百姓も、信じてやらないで、信じないでやった。
山岸会と標榜して全人幸福運動を始めた際にも、古い元のままの自分は再び生きて帰らないものと覚悟する〝出精平使より愛妻への手紙〟を記して、〝死にきる〟から出発すべく流浪の旅人に自分を託した。
すると、私はまいた覚えのないのに、行く所、いたる所に、麦、菜種が色づき、うれている。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが麦の収穫を始めていた。私は、

“私の田んぼの広さに驚いた。”

〝特講〟でも「特講の目的は自分の一つの確信をなくするところや」でやってきた。
名前も今までの私心のワタシを瀬戸内海に捨てて、「全人に適当に使われたらいいんだ」との気持から出た〝大村公夫(才)〟で通した。
理想社会は「私はあなた、あなたは私」の体認から出発せねばならないと確信したからだ。

ところが恋愛・結婚問題で大変なことになった。予期もしないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、ヤマギシズム結婚理念は何の役にも立たなかった。理論と実際とのジレンマで苦しみ、苦しめた。
理念通りの結婚をしようと無理をした。ところが柔和子との煉獄の試練を経てもうどうにもならなくなった途端、絶望の底板が抜けた!
互いの通じ合わないもどかしさからか、押し通そうとする執念深い我執から真の結婚へ入ろうとする無理にはじめて気づかされた。
一足飛びには行かない不思議な謎も解けた!

思えば恋愛巡礼、結婚巡礼というか、本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるようだ。すべてに本当の結婚を求めている私だった。
休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように感じられるのだ。
私の朝は情感に明け、夜は情感に暮れ、夜中も日中も情感多事、私は多情者にちがいなさそうだともいう。

ここで山岸巳代蔵のいう〝情感〟という心情の営みこそ、人と人との繋がりの、切ることの出来ない紐帯となすものではなかろうか。そこに触れるところからはじまるものがある。

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わが一体の家族考(175)

〝鬼の褌を洗う女〟
坂口安吾

次のような昔話がある。
“鬼の褌を洗う女
仲の良い若い夫婦が野良仕事をしていたところ、突然、女房が鬼にさらわれた。
男は女房を助け出すために何年も何年も諦めず探し続け、ついに山奥の河原で、鬼の褌を洗わされている恋女房の姿を見つけた。
しかしよくよく見ると女房は、鎖で繋がれているふうでもなく、近くで鬼が見張っている様子もなく、簡単に逃げ出せる状況だった。
結局、男は女房に声を掛けることなく、一人で山を下りた。”

この間の男らしさ・女らしさのテーマをうまく言い当てているような話にも感じる。しかしいったいこのどこに〝男らしさ・女らしさ〟から出発するかつてない〝理想社会づくりの急所〟が秘められてあるのだと問われれば、未だ未知の雲を掴むような話でもある。
しかし山岸巳代蔵には差し迫る課題に見えていた。こんな証言がある。
山岸会事件直後の伊勢湾台風や飼料倉庫火災等々で春日山の家計がひっ迫し、現金収入を求めて京都府船井郡(現在の南丹市)八木町の会員宅を拠点に〝ヤマギシズム生活八木移動労務班〟二十数名が土方工事に出向いた昭和三十六年頃である。山岸巳代蔵はその年の五月に亡くなった。

“最後にお会いしたのはこの三月だった。八木の実践地へ行く時、「では行ってきます」とご挨拶したら、「ああ体を大事にね、みんなに会いたくてたまらないが、その時間も惜しいからみんなによろしくね。どこにいても心はいつも通っているね」と別れたのが最後であった。
またこんなことも言われた。「女は女らしい女になればいいんだ。親は女に生んであるのだから女になればいいのだ。いつのまにか女が男になろうとするから社会はうまく行かないね。女は女らしく、男は男らしくね」
それを聴いているうち泪(なみだ)が出て止まらなかった。”(『ヤマギシズム』紙昭和36年6月15日 土居タカエ)

そこであえてその昔話に題材を取ったとみられる作家・坂口安吾(1906~1955)の短編小説『青鬼の褌を洗う女』[1947(昭和22)年]からその糸口を探ってみる。

妾の子であるサチ子は概ねウカツでボンヤリして暮らしてはいるが、知らない男の人でもタバコを欲しがっていることが分ると本能的に黙ってニュウと突きだしてあげるような分け隔てない親切な女性だ。
別に好きでもなかったが出征前になると男が近寄ってくるので、六人の男にからだを許していた。
その内に空襲で母が亡くなり、サチ子は勤めていた会社の老人(56歳)で醜男の専務、久須美の妾になる。彼はサチ子のためにを妻も娘も息子もすてたようなものだった。彼はサチ子を愛しながらも、サチ子をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それからサチ子を現実をとらえているようなところがあった。
久須美がサチ子から引き出したものは、天然自然の媚態だった。サチ子自身が自然の媚態と化した。

“私はどんなに快い眠りのさなかでもふと目ざめて久須美を見ると、モーローたる嗜眠状態のなかでニッコリ笑い両腕をのばして彼を待ち彼の首ににじりよる。
私は病気の時ですら、そうだった。”

サチ子の〝まごころの優しさ〟は、

“もはや私の腕でも笑顔でもなく、私自身の意志によって動くものではなく、おのずから私のすべてにこもり、私はもはや私のやさしい心の精であるにすぎなかった。”

そうした日頃から媚をふくめていつもニッコリ笑いながら彼を見つめているだけでウットリさせられるサチ子は、遠く想いをはせる。

“私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。”

ここに安吾が理想とした女性像が描かれているのだろうか。終戦直後「国破れて山河あり」のアナーキーなただ中で一瞬〝ニュウと突きだ〟された光景だったのだろうか。
この小説は妻の三千代を主人公のモデルにしたことでも知られる。夫人の手記(『クラクラ日記』)によると、めったに自作を読み返さなかった安吾がこの作品だけは何度となく読み返していたという。
ともあれ山岸巳代蔵が直覚した
“男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。”(『ヤマギシズム社会の実態』)
の中へともうひとつ入っていこう。

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わが一体の家族考(174)

情感溢れる世界
あおくんときいろちゃん

先にも述べたように山岸巳代蔵が〝ヤマギシズム理念徹底研鑚会〟を始めた意図の一つに、〝信じる〟〝執われる〟という人間観念の慣性、あやふやさ・いい加減さ・危なさが如何に人間の幸せを邪魔するものであるかの認識にあった。この間の夫婦間の苦しみを通しても、如何に先ず自分が不愉快に暮らす時間をたとえ一瞬でも少なくしてといった身につまされる思いがあった。

観念はいい加減なもので、妻が密通してても、知らない間はかえって低姿勢な妻に喜んでいても、事実を聞いたら、既にあったのに、瞬間カッとなる危なさがある。それでは一生暮らしていく上にもったいなさ、惜しさを考えるのだった。
しかも観念の中では、自分だけ「これで愉快だ、楽しい」と思っていても、なんとなく「もう一つそれでは」というあやふやなものが出てくる。
だとしたら、不愉快にならないようにするために……。なった時はどうするか……。
よく〝ほんとのほんと〟というが、そう言いたくなるものがある。そんな生来の物事を深く考える〝求真性格〟のたちから究めていくと
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」
にどうしても辿りつく。
誰もが切実に欲求しているものだ。だとしたら今のリアルな苦しみと本当だとする究明との関係は? 砂上の楼閣、絵に描いた餅にすぎないのだろうか?
何度も根本にまでさかのぼっての自問自答がくり返されたに違いない。
ふだんは「良いと思ったら良い」として暮らしているわけだが、体験的に「良いと思うことでも、正常でない場合もある」にぶつかることがある。だとしたら「良いということは、悪いに対してでなく、当たり前」のことであるような、そんな良いことづくめの世界はないのだろうか。
そして近頃体験を通して出てきたのは、ひっかかった時は、いったん〝外す〟と仲良い状態になって、スッスッと溶けていくものがあったのだ!
しかも柔和子の「オホホ……」によぎられることによって問答無用〝骨なしにされる〟自分がいた!
すると心一つの一体の中へ飛び込んだような情感に包まれた。ほのぼのとした満たされた思いの喜びがわき起こった。なぜかそこからすべてのことが始まるような心のときめきをも感じた。
「結婚、恋愛は楽しいのが本当」だとするリアルな実感が湧いた。驚きだった。
その後も難しい理屈・知恵抜きに、自分からひっかかってもポンと外す、を真面目にやってみることで、今すぐにも情感溢れる世界が立ち現れてきた。

男女・夫婦のあり方も、「結婚、恋愛は楽しいのが本当」とする理念からいった方が早いのではないだろうか。いや、どんなことがあっても楽しいの連続かということ。そこから出発して、これが本当に出来るかどうか検べて事実を積み増していかないと本末転倒になる。そこに観念なんかが邪魔して、悩み苦しむことになってくるのだろうか。

“本当に仕合せな社会に立って生きていこうとする毎日かどうか振り返ってみると、いろいろもっともっと究明しなければ、人の中へ行けないと思う。
信仰と研鑽、共同と一体、男女・夫婦のあり方など。
宗教の問題も、この理念からいった方が早いと思う。どれほど早く真理即応の、仲良く楽しい、より良く、より正しい生活が出来るか考えていったら、難しくないと思うの。いきにくいと思う、そこに観念なんかが邪魔してね。「いけるかい」と、そんな観念からひとごとになってくるもの。
真理に即応する現在只今、それの連続かと思う。
社会に拡げる前に、自分自身が間違った生き方で苦しみ、路頭に迷わすことになっても大変だし。
案外この真理即応でいけば、簡単にいける。いけるのが当り前や。”

一転して、それまで〝ひとごと〟になっていた理念というか理に立った観念が身近に感じられてきたのが嬉しかった。形の無いものが、自分の心の中に飛び込んできたような喜びだった。
ふとレオ・レオニの絵本『あおくんときいろちゃん』で、青くんは一番の仲良しの黄色ちゃんと遊びたくなって、あちこち探し回ってようやく出会い、二人とも嬉しくて嬉しくて、とうとう〝みどり〟になってしまう話が思い浮かんできた。

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わが一体の家族考(173)

男が男になり、女が女になる 
『アダムとイブ』デューラー

以前次のように記したことがある。
“ある日の研鑚会で次のようなことを研鑽した。
「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」
エッ、どんなこと?
〝無い要素をはっきり自覚したら〟とか〝お互いに立ち入らない〟って、どんなことなんだろう?
普段は生理身体的な凹凸の違いぐらいに思っていたからか面食らってしまった。
研鑚会は、男らしさとしての意志の強さとか貫徹や剛直をあらわす〈剛〉、女らしさとしてのすべてを包み溶かしてしまう〈やさしさ〉の世界について未知のことを知っていく楽しさに満ち溢れた。”(わが一体の家族考76)

たしか以前のヤマギシズム生活法テーマにも
「分類の極めつけ男らしさ女らしさ
 男は剛 女はやさしさ」
とあり、皆で研鑽したことがある。
まずは思いつくまま挙げてみる。
○やさしさは女の人なら誰でも本来持ち合わせている。
○男とまったく逆で、鍛えるという要素は一切不要で、途中でいろいろ付かないほうがよい。
○柔らかく、まろやかで、どんな固いものがきても溶かし包み込んでしまうやさしさ。
○特に自身が逆境や病身になった時こそ変わらぬやさしさがあることが、女性の絶対条件。
○どんな時でも、いかなる場合でも、女がやさしく出ること。
○男が男に惚れられるような立派な男。女に女が惚れるようなやさしい女になったら、混線は起こらない。
○女の頭の高いのは、カシコのアホよ。

なかでもこの〝カシコとアホ談義〟はとても面白い。山岸巳代蔵は次のように定義している。

“知恵があり、それを上手に使うのが「カシコ」で、知識の多いのは「ものしり」で、間違ったことでもたくさん知って覚えて、それを得意になって振り廻すのが高慢で、喋りまくるのが能弁・饒舌屋で、「カシコぶるアホ」の部類だと思っています。
理屈をこね廻すのも、この分類の理屈屋の部に属し、こんなのが多いでしょう。理屈で云いまかし得々としてる。(略)
カシコのアホ、アホのカシコ、カシコのカシコ、アホのアホ、とあるそうですから、各々どれにあて嵌るか、別の自分、自分の物指しを持たない自分を見物席に立たせて、現在世に踊っているピエロの自分を観察さして見ようかね。”(「知恵・知識・良識・常識・非常識について」)

そして、次のような感想をもらす。

“カシコのカシコはよいが、カシコのアホがほとんどやから、「アホのアホの方がましや」と言うの。賢いほどやりにくいね。知恵、経験があればあるほど、それが出てきてね。せめてアホのアホくらいまでいけるといいけど。私の考えをいい加減にしとけんところね。「私の考えは一つの考えに過ぎん」というのが、カシコのカシコかと思うが、「どうも納得できん」、「釈然とせん」となる。すると、つい押しつけようとするもの。”

山岸巳代蔵は今の恋愛・結婚等も含む社会的欠陥の最大なる原因(=悲劇)を、「カシコのアホ」同士の〝突っ張り合い〟に見ている。そしてそこからの〝この革命が出来た〟とまで言わしめる理想社会改造への鍵を、山岸巳代蔵をして〝最も知性的で、「納得しなかったら」という女性〟が〝納得して楽になれた〟り〝ポンと夫婦の本質の中へ入る〟実績・事実に見出すのだ。自分らのように死線を越えたところまでいかなくとも、誰でも和気藹々でいけるという確信が持てたというのだ。

○男と女の異いが際立てば際立つほど、男と女の本当の仲良しが生まれてくる。
○女の仕事を男がやってもあかん、持ち味を活かさな。
○女のことは女でないと分からない。
○女の本質を活かすことだ。女が女の姿に還ることだ。

いったいここで〝男〟とか〝女〟とかの異いを次々言い連ねながら、何を言おうとしているのだろうか。なぜそんな脳天気な〝性〟の分類ぐらい(?)で世の中が革まるとまで言えるのだろうか? 
しかもその区分けそれ自体が、〝真理だと思う〟とまで言い切るのだ! ”ここがロドスだ、ここで跳べ!”

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