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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(47)

ポンとそれに飛び込む
雪の崖を登る熊の母子

以前、雪の崖を登る熊の母子の動画が話題になっていた。
斜面の上から母熊が心配そうに見守る中、子熊は必死によじ登ってくるがもう少しのところで滑り落ちてしまう。それも急斜面のかなり下の方まで滑り落ちるが、子熊はあきらめず再び斜面をよじ登り始める。そしてついに子熊が何とか母熊の元にたどり着くと、何事もなかったようにまた一緒に雪の道を跳ねながら去っていく。
その元気よく嬉しそうに走り去っていく後ろ姿に〝よかったね!〟と誰もの心をグッと掴むものがあったのではないだろうか。

わずか3分に満たない映像に、〝ガンバレ〟と滑り落ちる子熊を応援せずにはいられなかったり、無事お母さんと一緒に嬉しそうに走り去るしぐさに、なぜこんなにも胸の中が熱くなるのだろうか。
たんなる人間の側からの勝手な思い入れに過ぎないのだろうか。そして心温まる情景の一つとしていずれ忘れ去られていく。

しかし、それにつけても、熊の母子の姿におぼえるこの心のときめきの正体はいったい何だろうと想いを馳せていると、何か不思議な感情が充ちてくる。
自然と人は一体のもので、人は自然から産まれたもの。この事実はそのまま熊の母子にも当てはまるだろう。そうなのだ。自分らはあの熊の母子の姿に、きっと熊の〝こころ〟を見ているのだ!

そんな事実その中での新鮮な気づきを、本紙四月号に載っていた研鑽学校に参加してのIさんの手記からも感じとれた。
研鑽会でテーマ〝私の原風景〟を出し合った。要約してみる。 
 
父は私が五歳の時に病死。母は父の死後一年ぐらいで働きに出て、私は弟妹の母親代わりをしていた。
そういう日々の中で、夕暮れになると母が恋しくて、五歳、二歳の弟妹の手を引いて母の働いている所へ行くのだが、「帰りな!!」と言われる中で「今日は迎えに来てもいいよ!!」という日があって、その日はお菓子かりんごを買って貰える日で、朝から嬉しくて、早く暗くならないかなあとワクワクしながら暗くなるのを待ち、ようやく母の顔が見えた時の嬉しかったこと。
そのことが、悲しくて辛くて苦しいことと思っていたことが、その時の自分と向き合った時に、嬉しいことだったんだと思え、切なかったり苦しかったりばかりだと思っていた母の人生が、一瞬のうちに、明るい楽しいことのようにキラキラと光るものに見えたというのだ。

その時のお母さんの眼に映っていたものはそのまま今のIさんの目に映っているものだ。それは懐かしい思い出では決してなかった。何ともいえない嬉しい気持ちがとめどなく溢れてきて、今の私に会いにやってきたのだ!

前述(本稿44)の山岸さんの弁を借りれば、ポンと〝それに飛び込んでゆける私〟って、こんな感じなのだろうか。

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