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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(186)

探求4 数字に秘められた愛情世界
空気とタイヤとハンドル

そして第6信(2004.4.20)頃から、以前(わが一体の家族考149)で軽く触れた〝数字に秘められた愛情世界の解読〟が登場する。
愛情の複数形態に至った経緯を振り返る山岸巳代蔵自ら仁和子や頼子が参加しての〝愛情研鑽会〟(1958.12.9)での発言である。
本稿では次のように記した。抜き書きしてみる。

『さっき言ったね、「これも五つのうちの、まあ、柔和子が五つ」と、それで、「頼子と僕で五つ」と、こういうことは。「三は柔和子と同じような、こう、能力、そのかわりに柔和子にない二つの能力が僕にはある」と、こう言ったわけですな。
まあこれも、数字で言うと非常にややこしいから、言い直しておかんといかんからね。そうするとやね、二つが頼子かというと、そうやないのよ。頼子に、いや、柔和子にない二つが僕にあると、そうして柔和子と同じ、柔和子の持っておるもので太刀打ちしたらやね、どっちがどうって言うたら、そりゃもう柔和子の方がガーンとやりますよ。ね、ある能力っていうかね、そういうもので、ね。そういうような意味のことね。
そりゃ、僕の3より柔和子の5の方がっていうかね――もう、ちょっと、数字で言わんと分かりにくいから、ちょっと例えて言うんですけどな――こういう非常に素晴しい能力持ってるっていうことやね。
そういうことでね、ところがこの、この僕には5、寄せての5がある、柔和子にないもの2寄せて頼子と同じもの3が、あの、柔和子に……ややこしいね、今の。
あの柔和子に3ね、柔和子と同じ3と、柔和子にない2寄せて5として、ここに頼子が入ることによって全部これが生きるということね、ね。
ここや、ここんとこね。頼子が2でないの、頼子が2でないわけよ、頼子は全部に生きるわけよ。この3だけも、この3の柔和子と同じ3もやね、頼子が入らなかったらやね、3も生かされない。むろんこの2もやね、働かないと、こういうものを僕は感じるの。そういうものを感じる。
ところがこれだけあってもやね、柔和子の、この5があってこそやね。』

要するに柔和子は、〝5〟ともいえるこの間の〝百万羽〟構想を実現していく力を備えている女性。一方頼子は、ただ愛一筋、愛だけでもう生きているような女性。そうした皆それぞれの持ち味の異いが次のような発言からもうかがえる。

“頼子と二人っきりだった当時を思うと、省みるとね、頼子によってね、この生きる力やね、生かされていたと思うの。やっぱり米とか空気とか水とかいろいろのものでこう、人間生かされているわね。周囲の愛情とかこういうもので生かされておるけどね、それはね、頼子によってね、生かされていると。”
“あの、どんな場合にでもよ、僕が頼子に愛しておられると思っておるなればよ、そして愛しているという頼子を感じておる場合にやね、そういう場合にはこの、非常にこの、生きる喜びっていうかね、なんか知らんが、まあ生きる力もらっている。”
“もう頼子を知ってからっていうものはね、もう他には要らないの。ニコニコ、話がふわーっと明るい、こういう感じやね。そうすると、生き生きした仕事が出来るの。”
“私の考える働きを持つところへやね、ちょうどエンジンがあってやね、そこへこの、あれが送られるというかね、ガソリンが送られると、まあこう考えてもええと思うね、”
“頼子と一緒にいるっていうことは、自分が生かされるのやと、頼子と僕と結び付いて、そういうことになるのやと、こう思うね。これは、こんなのこじつけやないと思います。何回考えても、そういうふうに思われます。”
“私は頼子によってよ、そういう若い働き(19,20、21、22、23、24、25のその時分の考え―引用者注)があるので、その働きを生かすものが柔和子やったと、ね、実、具現化していくものね、実現していくものは柔和子やと思う。”
“柔和子一人では仕事にならないものがね。”
“頼子と僕と二人寄ってよ、ね、の力と、柔和子の一人の力とね、同じやと言えると思うの。頼子を取った僕はもう全然ダメやと。ね、頼子と僕とね、こう結び付いたものやね、それがもう今度はまた柔和子と結び付くことによってやけど、これ、こうやと思うわ。”

何となくヤマギシズムの恋愛・結婚観に於ける〝人生最大の意義は、結婚の華と、よりよき創造の実の歓びであろう。〟の世界がイメージされてくる。〝こんなのこじつけやないと思います。何回考えても、そういうふうに思われます〟という発言に、未知で未然な愛情世界実践へと一歩踏み出した山岸巳代蔵の肉声を聞くおもいがする。
自転車の例えで云ったら、空気の抜けたタイヤが山岸巳代蔵で、頼子という空気が入って、柔和子という車体、ハンドルのついたものに組み込んでこそ、そんな複数形態でこそ本当の仕事が出来ることを言いたかったのだろうと。

しかしそれ以上は柿谷さんの解読に出会うまでそのまま見過ごしていた。当時愛情研鑚会の周辺に居合わせ、その渦中にあった柿谷さんにしてみたら、そんな程度のものとして理解されるべきものではなかった。
“寒い寒い夜でした。今夜は危険だからといって8名で頼子さんのアパートのまわりを寒空の下で夜明けまで夜番をしました。心の芯まで凍るようでした。死んでも忘却し得ないほど寒い夜でした。春日山から四日市まで、8人で飛ぶようにして行きました。”(2004.5.22記)
そうした長い年月を重ねてようやくたどり着き、そこで内心歓喜している柿谷さんの探求過程を並べてみる。

○三人三様に他の二人に共通しない単独の持ち味がある。
○女の人にある持ち味は2種類ある。女の人は、2種類の持ち味が発揮されないと成り立たない。
○妻の2種類の持ち味が、夫の持ち味を生かす。女が女を生かす、そして男も生かす。
○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
○男にあって、女にない持ち味
女にあって、男にない持ち味
女にあって、男も女も生かす持ち味
○それぞれにある2と女にあって男をも女をも生かす2とが、一体になると(接着剤同士)2+2=5になって、夫婦お互いが5になるという。
○ひらめきの男+実具現化の女+ひらめきの男と実具現化の女を生かす女の2を頼子さんの例で言っている。
○男も女も生かす持ち味が闇の中から出現するためにも、男と女が混線しないこと。「角を生やすから男心は去りゆくのです」。男の目で女を見、女の目で男を見るという混線。
○〝夫の行為は妻の一体によってなるもの〟の「妻の一体」とは? 
○先生の論と言うより、宇宙自然界のことか……。
○実具現力の高い女性、いわば生活力、所帯持ちの良い女性(妻)は、女性本来の魅力、心の優しさからの2+2の5になりにくい。真の夫婦には成り得ないところからの、具現方式としての複数形態。
○三人で一体の場合も二人で一体の場合も、頼子さんの2は欠かせない。
○頼子さんは2以外の表現がない。
○柔和子さんが、頼子さんの2を生かすことが愛研のテーマではなかったのか……。
○頼子さんと離れて、柔和子さんと二人の中で、三つの要素の実現に向けて2の生かす力を柔和子さんに期待したのでは……。通じなかった?
○発明力、実具現力、生かす力=接着剤。
○夫の持ち味は発明創造にある、「柔和子さんにない、先生にある2」
妻の持ち味 その1(実具現力)「先生にない、柔和子さんにある2」
妻の持ち味 その2 「先生も柔和子さんも生かす頼子さんの2」
○頼子さんの2を、〈その2の持ち味〉と私は呼ぶ。夫も妻も生かす。接着剤同士の一体。
「心の状態が優しくなること」を失わないように。
「妻の一体によってなるもの」とは、
〝もの〟という字句は、宇宙自然界そのものだといわんばかり。
無我執も自然界(無感の世界)では、保ち合う理として存在する。感化力、零位に立つ、研鑽も無感無識界に存在する理だと思う。

そして次のような真理像が柿谷さんの中から浮かび上がってくる。たとえば先に記した、
○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
から、男を一極、女を二極、三極と表現するなら、三極に当たる世界が、女の人に存在する!?
一極と二極は男と女が無い者同士。お互いに無い者同士だと思うだけで、謙虚になる。
だとしたら、男も女も生かす、女にある持ち味三極とは? 一極と二極とで生かし合えるのではなく、三極の存在によって一も二も三も生きることになる!
では、三は……何? いよいよ佳境に入ってくる。

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わが一体の家族考(185)

探求3 夫婦一体単位からの〝私〟
天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん

第3信で展開される「持ち味を活かす」テーマの考察はじつに味わい深い。

○ヤマギシズム研鑽学校へは何回も行ったが、無我執人を目指して来たけれど、自分の持ち味について探求する研鑽はしてこなかった。今頃になって、こんなことに気づくとは愚かな人生よ、と痛切に感じる。
○テーマ表に、〝私意尊重公意行による運営と行動〟とか〝自発的自由意志〟とある。しかし自分で自分を尊重していたか、となると軽率の一文字です。他の人に対しても尊重できていないのでしょう。
○その原因の一つに、自発的自由意志による行動の不備。二つ目は、自発的自由意志による〝自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方〟、持ち味の探求がある。
○持ち味は生きる力であり、原動力である。その探求の過程では、自発的自由意志は泉の如く湧いてくるようだ。
○持ち味を活かすということでは、〝夫婦の真字〟は、男と女の持ち味の異いを指しているように思えるが、では〝夫婦の真字〟での持ち味とは?
○それは夫婦一体単位、つまり〝夫婦の真字〟の単位に成る、人種がちがうほど変身した活かし合う夫婦(男女)に生まれ変わることを意味するのではないか! 例えば次のように書かれてある現象が起こり得るのでは……

“従って何時か其のいずれか(両方にありそう)にある我執が消えた場合、心も現象も完全無欠の完全夫婦と必ずなるであろう。
過渡期に如何なる波乱万丈の混乱事象が起ころうとも、末は必ず真なるものに落ちつくもの。”(「真の結婚について」)

○また〝私意尊重〟についても、「百万羽養鶏」発足時に〝一羽の鶏が完全に飼い得たら、百万羽の鶏も完全に飼い得て当然だ。ただ一羽の場合と十羽百羽百万羽の場合とで適当する様式を異にするだけ〟と云われていたが、一人の人間に置き換えることを指している。
○とすれば〝自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方〟の探求は、私の中に存在する持ち味の探求ですから〝私意尊重〟そのものでなければならない道理。
この自分一人に任された、自分に最も適した生き方が、無我執体得に不可欠要素として組み込まれた探求をしてこなかったことを痛感している。
○研鑽学校に、〝真実、それに自己を生かす〟という具現方式が組み込まれていた!
〝生きる力〟も、これだけ切り離して存在していない。全人の幸念う者に湧いてくる力であろう。〝真実〟の究明。やりたい。死の直前まで。
第4信(2003.12.20)での〝真〟についての感慨も興味深い。

“真の夫婦等々、真のつくものには、ヤマギシズムを知ってからは随分接して来ているが何故かまた遠のいてしまう。
研鑽不足か、日常の暮らしの中にある常識観念が強く、それに押し流されてしまうからか、と思うが、この常識を根底から脱却して零位に立って考える研鑽になりにくい、研鑽不足から来る日々の考え、研鑽が、日々目の前の差し迫った事柄の引力に引き込まれて、それが当然と思っていないながらも、当然の様相に明け暮れて来たのだと振り返って見ています。”

として、〝真理実践のための真理探求こそが急所だ〟とする柿谷さんの覚悟のこもった思いが吐露される。人間にとって一番切実なテーマは、真の夫婦になることではないか、と。
まったく共感する。
そしていう。

“個人は個の主張を止めて、夫婦単位の個、つまり夫婦の真字が一人格で一人前だとする提案に対して取り組まないと、従来の個々に留まっていては、世界革命も自己革命も人間復帰も成らないと思う。”(2003.7.1)

そうだと思う。ここに柿谷さんの大発見というか本ブログのタイトル「自己への配慮」と重なるモチーフを見る思いがする。
そうなのだ! ここで云われている〝私意尊重〟、私が主役なのだ!? ここでの〝夫婦一体単位〟からの出発が迫られているのだ。
別段今から、私と全く別の私を生み出そうとかでなく、我を捨て白紙になる実践を通して本来の自己へと返るだけである。
即ちあの〝夫婦の真字〟の中から必然現れる〝私〟の持ち味がそれである。俗にいう私が、私がという個々人主義の世界とは次元を全く異にする〝私〟をそこに見いだすのだ。男は男になり、女は女になることは、誰でもが目指している理想である。この理想は、〝夫婦の真字〟の中から必然現れる〝気づかなくても多い方がよい〟無意識の世界状態の実践によって実現する理を、山岸巳代蔵の文言に重ねつつ述べられていく。
しかもここでの〝私意尊重〟の私とは夫婦一体単位からの〝私〟であるという柿谷さんの洞察は、本稿ヤマギシズム恋愛・結婚観の探求にしっかと引き継いでいきたい箇所だ。

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「と」に立つ実践哲叢(48)

そこに見出された世界
愛和館リニュアール

春日山食堂「愛和館」がリニューアルオープンしてもうすぐ一年近くになる。それまで枯山水の池だったところが埋められ、段差のないオープンテラス仕様になりずいぶんと開放的な広い空間に変わった。
この夏夕日が沈む頃まで「愛和館」の前の芝生でボール遊びに興じる娘たちや、いつまでも食堂の片隅のテーブルで話し込んでいる男の子らの姿を目にしていると、なぜか新しい発見をしたような気持ちのたかぶりを毎度のことながら覚えてしまう。
先日読んだある書の終章のはじめにあったエピグラフが浮かんできた。

「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」(マルセル・プルースト)
なるほど〝新しい目〟なのだと胸にストンと落ちる。でもいったい〝新しい目〟って何? それに〝新しい目〟で見られるにはどうしたらよいの? 「一体食堂愛和館」もリニューアルなったその〝新しい景色〟に感じているだけにすぎないのでは? だんだん心許ない気分になってくる。

そんな先々の姿をお見通してか、第一回「特講」(1956.1)開催直後の山岸さんは、〝「見る眼」は正しく見られる心が出来たか出来ぬかによって定まる〟と歴史的快事を目の当たりにしてやや興奮気味に次のように語る。

▽今の世の人々の眼は、一部を除いてはすべて狂い怒った眼である。今にしてこの狂った眼をヒックリ返さねば、人類最大の悲惨と残虐が襲いかかってくることは必定である。
▽「正しく見る眼」はまた、狂った眼の見えぬものまではっきり見えるから面白い。鶏の飼料として餌屋の売り出すものと、我が田畑で出来たものと、臭い魚あらと近頃流行の雑草とやら以外に見えない眼のあわれさよ。餌はどこにでもいつでも無尽蔵にあって、それがありありと見えるではないか。そして人の世の至宝も、永遠の幸いも。
▽狂った眼の悲しさよ。怒った眼の怖ろしさよ。怒り狂いをヒックリ返して、暖かく、清く澄んだ、そして和やかな正しい眼を持つことこそ、生き甲斐あらんとする人の第一の仕事ではあるまいか。
そして怒り狂った今の世に、この眼を入れ換える所がたった一つある。たしかにたった一つ──それがどこにあるのか、「見る眼」に入れ換えようとする人々にはそれがはっきり見えるはずである、としている。

そう言えばエピグラフの出典はフランスの作家・プルーストの『失われた時を求めて』だった。ある日マドレーヌのひと切れを浸しておいた紅茶を口に運んだ、まさにその瞬間呼び覚まされた〝えもいわれぬ快感〟から始まる長大な物語だ。
そこに見出された世界は先回のお母さんの眼に、今のIさんの目に飛び込んできた〝何ともいえない嬉しい気持ち〟に、あの「特講」でのキメつけていた観念を放したその瞬間湧き出てきた〝愉快の幾千万倍の気持ち〟にも重なる気がする。  

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わが一体の家族考(184)

探求2 〝感化力〟と〝感応力〟
電磁石

柿谷さんの問題意識の始まりはたとえば次のような一節に集約されるだろうか。
○「金の要らない仲良い楽しい村」と云う名称が残されています。
お金を採るか、仲良しを採るか(原点は夫婦一体)と云うと、極論に思われるかも知れませんが、今日までは、仲良しが二の次に扱われているのではないでしょうか。つまり「金の要らない」と心からそう思うほどには。「仲が良ければ金は要らない」、というほど仲良しに重点を置いて来てはいないように思う、と。

そして夫婦のテーマから、男女問題や、人と人との対人的心の持ち方をも左右する、糸口のあることを見出されていく。
○家庭を軽視している。生活が保障されているので、大事なテーマが浮き彫りになりにくい。真の夫婦への欲求度が低い。
○夫婦一体は、家庭の仲良し、子育ての柱だと思う。家庭に焦点を当てて、夫婦父母のあり方から世界中へ仲良しを発信。夫婦父母のテーマは、人みな求めているもの。そこからの感化、感化力(観念の入らない感、崇高な本能の働く世界)が働きやすい。
○真なるもの、というのか、真実の働きには感化力が働き、感受性も働く。これを実証したい。
感化力は、国境を越え、海も渡り、空を飛ぶだろう。例えば、世界急進革命の〝急進〟は感化力ではなかろうか。
山岸先生に惹かれるのは、先生の感化力にあったのではないか。感は感でも感人種の感ではなく、私やあなたも持って生まれた感応、感化力に依るところにこの運動の成否があるのだとされる。
それも夫婦というものにおいてこそ、強力な感化力、感応力がある、と推理される。感化力と云うものは発信受信により起こる力だともいう。この間見てきたように、真の夫婦とはどんな場合でも発するものと応じるものとの全面一致して仲良く暮らしている実態をいうのだろうから。
こうした感化力、感応力に着目する柿谷さんに大きな気づきを見る思いがする。

また次のような一節
○“「こんな人さえ、なれた」という実証と方法と理念を打ち出せば、今まで分からないと言われていたことが早いと思う。”(「第一回ヤマギシズム理念研鑽会」1960.7.21)
から、〝こんな人〟とは柔和子さんのことで、なぜ柔和子さんと結婚したのかと云うことも、〝こんな人〟だから結婚したのか、と推理できる。
〝こんな人さえ、なれた〟という実証が、方法に依って成立した。これが理念だ、と理念が実証される方法。この方法こそ具現方式であり、具現方式の実証と、こんな人と云っている妻と自分が、目指している理想社会になった、という実証と方法に依り、実現した、ということだろうかと。
そして夫婦二人で一業に就く、これは真の夫婦になる具現方式、方法だと考察される。

またあの〝ポンと外す〟テーマ(わが一体の家族考168)についても柿谷さんは、
○〝オホホ……〟で外す、というのは零位に立つということか。「骨なしや」とは、夫も妻に一体になるということではないかという。
そして「相手がどうあろうとも門答無用で自分が外す」 パッと外す、このパッというところが具現方式では? と強調される。

また次のような発言
○“後から後から研鑽上手の人が現れるのに、考案した自転車に乗る方が未熟で、坂道やぬかるみ、人混み道路を、荷物積んで自分で走る日には、事故・故障の繰り返しです。
ひとの研鑽に急で、自分の研鑽態度は疎かで恥ずかしいかぎりです。”(『愛和 ― 山岸巳氏よりの第一信集 』1959.10〝後の鴉が先にたつ〟より)
からは、考案した自転車(ヤマギシズム)を乗り回せるようになったこととようやく60歳にして結婚資格ができた山岸巳代蔵を重ねている。
いや、考案した自転車は考案者でなくとも、自転車を知ったら乗り回せるように取り組むのが人生のようで、死ぬまでと云うか、死の前つまり死期を知ってからが深まるようになっているのだろうかと自分自身を重ねられていく。

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