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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(188)

探求6 死んでも死に切れないもの
宇宙自然界

例えば先の「頼子は全部に生きるわけよ」の真意について、あえて数字で表して言っている〝2〟についての探求を次のような山岸巳代蔵の発言をくり返し吟味するところから取り上げられる。
直筆での原稿は、

“私はこの世に思い残すことがある。死んでも死に切れないものがある。”

との一文から始まる。たしかに私は、

“どうしても全人幸福研鑽一体社会の峠を越すまでは、この世へ生まれ、養って頂いたお返しとしてでも死ねないのだが、時の流れと云うか、自我世界の流れに力及ばず、死んで行くのかも知れない。”

しかし、これも時代であり、別段私がやらなくても、いつかたれかがやるから、残念は残念だがニッコリ笑いながら死ねそうだ。
ただ、もし私心が許されるなれば、本心はどうかと尋ねられるなれば、この間少しも生への執着も残さなかった頼子と死にたい。
しかしまた、私をして死んでも死に切れない絶対のものがある。これを抱いたままでは、どうしても死に切れない一つのものが残されているのだという。それは、

“頼子を柔和子たちに理解ささずに、誤解さしたままでは、如何に苦しくとも、死にたくても、死に切れないのである。”

のだという? なぜなら、

“柔和子を最も愛しているが故に、本当の頼子を理解してほしいのである。また誤解され、世人から、家族から、一人ぽっちにされている頼子のためにも、柔和子たちに正しく頼子を見てやってほしいのです。この世の中にこんな愚かなことがまたとあるだろうか。その原因の殆どを私がつくっただけに、私は死んでも死に切れないのである。
これについて私の云いたい事を、私になって聞いてほしいのである。本当の研鑽がしてほしいのです。批判者でなく、苦しみ悶え抜いている私は何を云わんと、くりかえしくりかえしするのか、なぜ、どういう点を苦しんでいるのか、一方的とり方できめつけないで、苦しんでいる私になって聞いてほしいのです。
先ず私の欠点であった、感情もあり、我もある相手に、相手の気持にもならず、云い度い本心を聞かないで、筋ばかり通そうと理責めを相手に感ぜさす理詰め、検事、裁判官態度でなく、私もその身になって聞くけいこをしますから、私の身にもなって、感情に走らないで聞いてほしいのです。この世で、私としての最大の念願は、柔和子や、自分では気がつかないが、頼子を誤解し、頼子を苦しめ、私を苦しめ、息の根を止めようとしている人達に、私が死ぬに死ねん、死よりもつらい思いで、何を苦しんでいるのか、云わんとしているのか、よい年して孫みたいな小娘に惚れてうつつをぬかして云っているのかどうか、私の身になって聞いて頂き、頼子を理解してほしいのです。
頼子も憐れですが、そうゆう心の世界に平然としている人、こういう世界が私に堪えられないのです。本当の研鑽が出来るお互いになり度いです。そうなれないために、苦しみ苦しめ合って下手ばかりしているのです。
間違いばかりで勝手に苦しんでいる私でしょうが、その間違いばかりで苦しんでいる私になって聞き考えて下さいね。”(1959.9月頃か、柔和子に寄せた書簡より)

この一文は、この年の七月山岸会は一週間の特講受講者を軟禁した疑いで上野署の捜索を受け(世に謂う山岸会事件)、幹部と見なされた人々が逮捕され、山岸巳代蔵も全国指名手配中の潜伏先で記されたものだ。共同謀議の疑いも晴れていなく非常に逼迫した状況にあった。今度は死刑になるかも分からん、せめて息のある間になんとかこの結婚観を、といった焦りをも感じていた。
柿谷さんは、頼子さんの〝2〟という持ち味は「接着剤同士の一体」の妻の側から夫に対する接着剤に当たるという。妻の一体が、頼子さんの〝2〟の焦点だというのだ。
例えば約束と云う強い接着剤で密着さした合板は、両面別々で、両者の間に糊の隔てがある。雨や嵐や、割り込む金や何かの、他からの梃入れのヘラや鋸で引き割かれもする。 そんな約束と云う接着剤なしで一つになってしまっているものだ。男には女の要素が無い、女には男の要素が無い。そんな無いもの同士の一体なのだという? いわば餅と餅を搗き合わしたようなものだともいう? 
先の柿谷さんの推理(わが一体の家族考186)を再度記しておく。

“○男にあって女にないもの。女にあって男にないもの。生かし合うには一体以外にはない。
AにあってBにない 2―男
BにあってAにない 2―女
AもBも生かす   2―女
から、男を一極、女を二極、三極と表現するなら、三極に当たる世界が、女の人に存在する!?”

つまり山岸巳代蔵が叫んでいる〝死んでも死にきれない〟というのは、三極に当たる世界、〝AもBも生かす2―女〟があることを聞いて欲しい、本当の頼子を理解して欲しい、というのであると。
この間何度も〝男が男になり、女が女になる〟主題に触れてきた。例えば次のような発言もあった。

“「女は女らしい女になればいいんだ。親は女に生んであるのだから女になればいいのだ。いつのまにか女が男になろうとするから社会はうまく行かないね。女は女らしく、男は男らしくね」”(わが一体の家族考175)

しかし今の自我欲、自我観の染みこんだ世界の流れの中では、三極に当たる世界、〝AもBも生かす2―女〟そのものが無視・否定されている。その点を強調し続けても却って嫌われ、憎まれる。〝そうゆう心の世界に平然としている人、こういう世界が私に堪えられないのです。〟とも言っているのだ。人間の傲慢さが、宇宙自然界の現象に反する行為に及んでいるのだという緊迫感に満ちていた。他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付いてたった一人目覚めているじぶん自身がいた。

それにしても、〝全てを生かす〟というほどのものが女性に存在しているということは凄いことではなかろうか。
そういうものが〝二人で一つ〟という真の夫婦の基本条件からいつでも、どこにいても、生き生きと発せられているのだという。

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 「と」に立つ実践哲叢(49)

〝一つ〟からの偉力
リーチ・マイケル主将

先頃のラグビーワールドカップ日本大会での日本チームの活躍が日本中を歓喜に包んだ。今ひとつ政治も経済もパッとしない中に風穴を開けたような開放感があった。誰の心にもあり、それまで眠っていて閉ざされていたものが呼び覚まされるような衝撃をも感じた。
もちろんテレビでのラグビー観戦なんて初めてのこと。にわか仕込みの知識で、野性的な力と力の直接肉弾戦を突進しくぐり抜けたりパスで繋ぎながらボールと共に飛び込む〝トライ〟など、観る者を興奮させ感動させてやまない。

しかも日本チームは主将のリーチ・マイケルはじめ多くの海外出身者で占められ、合い言葉は「ONE TEAM」。テーマは〝一つ〟なのだ! いったいなにで多種・多様・異見を〝一つ〟にまとめられるのだろう? 単なるスポーツの関心を超えての興味がおのずと湧いてくる。
それにしても決勝トーナメントでの世界レベル・南アフリカは強かった。試合後の円陣を組んでのリーチの発言が共感を呼ぶ。
「このチームを誇りに思う。この一年間だけでも250日以上一緒に生活してきて、本当に家族のように思ってきた。そのチームが次に試合が出来なくなるのは寂しいけど、自分たちの今までやってきたことを誇りに思おう」
宋の文人・蘇軾(そしょく)の詩句“脚力尽くる時 山更に好し”とはこのことか。

各地にヤマギシの実顕地が続々誕生したての頃だったろうか。ある年の正月の研鑽会で、今年は〝一つ〟の研鑽をもっとやりたいといった提案があった。エッ、一つは一つでしょ。なにをさらにもっと研鑽するのかその時はさっぱり意味不明だった。今ふり返ってみて冷や汗が出る思いがする。
たしか当時の世界情勢は、ベルリンの壁撤去に象徴される社会主義国家の行き詰まりから共産主義国家と資本主義国家の共存態勢の動きが連日のように報道を賑わしていた。それ以来一人で持つかみんなで持つか、持つ者同士の世界が統合されて最近のグローバル時代に至っている。だとしたらヤマギシの〝持たない世界〟はどのように切り開かれていくのだろうか。

同じ〝一つ〟でも出所が異うと、現れる現象が真逆になってしまう。そのことを痛感させられる日々だ。というか、なにを差し置いてもそのことを真っ先に研鑽する考え方にまず立つことの大切さを感じている。
例えば実顕地の暮らしの中で、いつもみんなに合わせんならん思うと自分を押し殺しているようで窮屈に感じる場合がある。心一つでやることと全員一律でやるということが混線しているのだ。一見バラバラに見えても一体の一つ、一つからのものとは、断じて一技術や方法の末に有るものではないはずだ。

先のラグビーも「ONE TEAM」だから、個々の犠牲によく似た行為が全て生き、活かされる。そんな合わすことによって発揮される〝一つ〟からの偉力に触れての共感なのだ。  

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わが一体の家族考(187)

探求5 接着剤同士の一体
月界への通路

柿谷さんの探求は続く。しかもその道中での心境は以前(わが一体の家族考150)で柿谷さんに宛てた手紙で紹介した

“○「夫の行為は妻の一体によってなるもの」 先生の発見であろうが、自然界のことで、世の男、女の実態を数字で顕したもの。
○「理想社会」が浮かんできて、そうなるために具現方式もひらめいて、夫婦で縮図として成せる、となった時、感激だったであろうと想像できる。
こうした世界を綴られる柿谷さんの世界も、勇躍歓喜の心境で満たされているであろうと推察されます。この世界はまた私自身の目指す世界だと知らされます。”

といった〝勇躍歓喜〟の日々でもあったにちがいない。
なかでも、山岸巳代蔵の発言
「頼子は全部に生きるわけよ」
「夫の行為は妻の一体によってなるもの」
という表現から、
○「もの」が付くと、宇宙自然界の現象といったものを感じる。
○先生が(山岸巳代蔵のこと―引用者注)勝手に云っているように受け取れない。
として、〝宇宙自然界そのものだといわんばかり〟へと探求のツルハシをがちりと掘り当てるところまで粘り強く考えを進めていく熱意には驚かされる。
○先生の論として片づけてしまうと、世の男、女は無いもの同士であの世に行くことになるのではないか、と私は思って、「妻の一体によってなるもの」という一節は、どういうことか、と先生の残した資料を読みあさり、はっきり決着しなくて〈どういうことか〉が、日々あって年月が経っている。(2004年5月22日)
ともふり返る。そしてついに、
○男も女も生かす持ち味が闇の中から出現するためにも、男と女が混線しないこと。
つまり、
「発明と実具現化の二極によって物事が進行して、二極を生かす三極は無視同然。闇の中にある。今日までは二極が最優先でした。そこから二極と一極の混線が、最優先は、三極です。」
と〝三極から出発する生き方〟即ち男も女も生かす、女にある持ち味の発見にたどり着く。
こうした宇宙自然界の「無感無識界」にまで拡張されてはじめて、次のような一節が解読されてくるのだろうか。

“真の夫婦は、夫婦そのものが接着剤同士の一体で、約束と云う接着剤なしで一つになってしまっているから、考え方から行為から凡てが一致し、夫の考えは妻の考えであり、妻の願いは夫の願いで、妻行うところ夫の行いであり、夫の行業は妻の一体によって成るもの。裏も表もなく、食い違い、波乱の起る隙もなく、他からどんなに手荒い邪魔だてされようと、水をさされ、火で炙られようとも、別れようのないもの。”(「真の自由結婚―真の結婚には契約がない」1959.12頃)

もうここまでくると、そんなに容易く分かってもらっては困るといった不思議な感慨が自戒の念を込めて沸き上がってくる。
そんな個人的な経験から普遍的な月界へと至る通路を辿ろうとしてついに、自分のツルハシをがちりと鉱脈に掘り当てたかつての夏目漱石の発見の喜びとも重ねてみたくなる。

“ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずることができるのでしょう。”(講演「私の個人主義」)

しかしそれにしても〝接着剤同士の一体〟とか〝無感無識界〟とか言われても、全くイメージが湧かない。いやなんとか空間的に掴もうとして、かえって無形・無感であるものをそのまま素直に受け取れないのかもしれない。
ここは柿谷さんも言われるように、早わかりしないでヤマギシズム研鑽学校の予科、本科、専科の指し示す真意に思いを致したい。

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