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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(190)

探求をふり返って
壁穴から青空をのぞき見る

ふり返れば予期しないのに起こった本当の恋愛の実践の場では、特に苦しみの分析・分離、及び原因究明が出来ない状態になり、なかなかその苦しみから脱却でき得なかった。それまでの研究するための科学実験や怒りなどのように材料を持って来たり、場を造ることも出来ない事態に直面したのだった。
それは理論・理念を論じる前に在るもの、予期しないのに起こった事実それ自体からの、山岸巳代蔵に対してのある意味真なるものからの警鐘であったとも言える。

○鬼畜のような形相で〝即実行や〟とグングンやったもの。
○命がけ、血みどろの愛欲史。
○生来の求真性格に煉獄の試練を。
○死よりもつらい数々の責め手,受難史。
○常識世界は冷たく酷だった。
○課せられた運命か、あまりにもヒニク。
○「一回の私心(自殺)が欲しい」と何回思ったかしれない。自己愛とでもいうのかね、
○他の数々の探究と、あらゆる天災・人災・病苦等での身心の試練で打ちひしがれて、生来弱体で気弱の幼柔な重圧の僕を、なぜまたゆるさないで……。

これこそ旧約聖書ヨブ記でのヨブの叫びにも重なる〝理で虎に食われるを説いて、虎を退治しようとして、虎に食われなかった自分……〟の自画像だった。
こうした段階を経てはじめて〝理論・理念を論じる前に在るもの〟が、〝頼子さんの2の世界〟に想いを馳せることで〝死んでも死に切れないもの〟として迫ってきたのではなかろうか。
この間柿谷さんの探求課程を追いかけながら、よくぞここまで掘り下げられたものだと驚嘆する。
山岸巳代蔵の〝「理想社会」が浮かんできて、そうなるために具現方式もひらめいて、夫婦で縮図として成せる、となった時の感激〟とそうした世界を綴られる柿谷さんの勇躍歓喜の心境とそうした文言を書き写しているだけの筆者自身の心持ちが重なるようにも感じてしまう。
例えば次のような一節など、大きな気づき・発見ではないだろうか。

○〝表すものでなく表れるもの〟から〝表れるもの〟が、〝頼子さんの2〟か……。もちろんここでの〝頼子さんの2〟は2でない、全部に生きる2なのだ。
○しかもこの〝頼子さんの2〟は、あらゆる問題に連動するように思う。
○今日までの長い歴史の中で、一人の個人として引き継がれて来ていて、真の夫婦、夫婦一体で一人格、夫婦一体で一業理想、夫婦二人で一人格の持ち味という視点は無かったのではないだろうか。
○妻の前に女性としての出発点から出発して妻になる順序ではないか。つまり、まずは女の持ち味があって妻になるのではないか、と少々踏み込んでみました。(2004.9.11)

ふと山岸巳代蔵の発言が浮かぶ。

“自分の一尺後ろにある宝を前向きに見ていて、ちょいとふり返ると……”(第1回ヤマギシズム理念徹底研鑽会)

あまりにも身近にありすぎて、ふだんは軽く聞き流してしまったり見過ごしているようなものがある!? その〝宝〟を〝前向きに見ていて、ちょいとふり返ると……〟いったいどんな世界が開けてくるのだろうか? 
その〝宝〟とは、柿谷さんがはっきりと見出された〝頼子さんの2〟ではないだろうか?
もちろん次のような山岸巳代蔵の発言とも重なってのことだ。

“本当の結婚を求めに求めて、仕事そのものもそうだったと言えるように思う。すべてに本当の結婚を求めている私だったと言えよう。休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。”(『恋愛と結婚』の前書き)

こうした〝頼子さんの2〟から始まる世界について書き綴ることこそ柿谷さんの意図を引き継ぐ自分らの一番の願いだ。
また同時にこうした世界と現状の実顕地を対比的に重ねての苦言も頂戴している。曰く

○研鑽学校開校と実顕地の出発は同時進行したが、真の夫婦が抜け落ちて進められてきた。
○夫婦で世話係をやることだ。
○ダシの抜けたダシガラにも似たように思う。
○無感無識界研は無くて、我執ばかりが推進されてきた。
○愛情研鑽後まわしを憂える。
○我々の頭には、生活を支える産業を優先して考え行う習性があって、多忙とか、失敗とか、競争とかに追い回されることが当たり前になっている。
○世間では欠陥車について大きな話題になるが、ヤマギシ欠陥車は放置されたままである。
○振り出しに戻して、出直すことが、成功の秘訣だと思います。などなど。

はたしてそうだろうか。見出されたあるべき姿とそこに至らない現状との〝すきまの部分〟はどうしたら埋められていくのだろうか。理想を描き実現しようと試みるとき、誰もが直面する切実な問いであろう。そしてそこからこんなはずではなかったと後悔する底知れない落とし穴にはまっていく例が後を絶たない。
いや、こうした二元論的に理想と現実を取り分けていく考え方じたいが却って躓きの石になっているのかもしれない。たしかに次元の異なる場合はそれをいくら進めても異いがはっきりしてくるだけで同質のものには発展しない。しかし同次元での未熟には成長という可能性がある。それゆえたえず問われるのは理想に直結する次元の転換がはたして為されているか否かであろう。もとの考え方にある束縛に気付いて理想に合う原点的考え方に立つことが容易ではないのだ。振り出しに戻って考えてみるしかない。
柿谷さんもそうした混線する観方にはまっているようにも見えて仕方ない。
この間のヤマギシズムの恋愛・結婚観の文脈に沿えば、山岸巳代蔵と柔和子との果てしない愛情劇問答からふと浮かび出た山岸巳代蔵の発言がヒントになるのではなかろうか。

山岸 そこんとこ、双方から起ったもので、双方のものだと思う。そこに本当の夫婦の良さがあるんだと思うが。
「ここからよう言わない私や」とね、そういう考え方に入らずに、やはり二人のものや、二人一つのものや、どっちのと言うより、二つの入れ物に入れた水がつながっているように、「僕が至らぬ、あんたが出来てる」と言っても、それは、至らん、出来てる、二つで一つのものと思うの。
柔和子 そらそう言えると思うわね、そういう具合に言ったら。
山岸 それやと思うの。あっちやこっちと言ってるより、同じものをやね、ちょっとこっちに水が多いとか、そっちが少ないとか言うよりね。同じものやと思うの。
柔和子 そりゃ大乗的観方からすれば、そう言えるわね。
山岸 いや、これはホントやと思うの、それをかれこれとそういう観方をするところに、いろんなもんが出てくるのやなかろうかと。なかろうかやぜ。”(「編輯計画について」)

ふと壁穴から青空をのぞき見たようなハッとする驚きがあった。〝そういう考え方に入らずに、やはり二人のものや、二人一つのものや〟というのだ! 
至らないのは二人のものやともいう。相手が至らないなれば、至らないなりにそれは自分と同じもの。また自分も至らないからといって自分を責めないもの。理屈ではない。そこから他が全部健康正常になってくる根本なのだという!
そこへポンと飛び込むのが先なのだという。そことは〝二人一つのもの〟であり、〝頼子さんの2〟から始まる世界のことであるにちがいない。ここから出発しようというのだ!

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わが一体の家族考(189)

探求7 理想実現の絶好の舞台
小倉百人一首

前記の「柔和子に寄せた書簡」〝私はこの世に思い残すことがある。死んでも死に切れないものがある。〟の全文掲載(2004.5.22頃)から〝頼子さんの2〟解明が始まり、その後亡くなるまで(2016年)〝死んでも死に切れない〟真意の探求と自らもそこを生きようとする日々が続く。そこから柿谷さんは次のような新しい気づき・発見を記している。

○例えば〝よい年して孫みたいな小娘に惚れてうつつをぬかして云っているのかどうか、私の身になって聞いて頂き、頼子を理解してほしいのです〟とは、〝頼子さんの2〟を理解してほしいと云っているのではないか。
○柔和子さんの2と頼子さんの2が、一人の女性に存在しにくくて片寄っていることが多く真の夫婦に成り得ないところから、山岸さんは具現方式として〝固定のない結婚〟を編み出し、探求して来たのでしょう。
○すべての調和の崩れる元は、女性の持ち味2の軽視から。
○頼子さんの2は全てを生かすという。
理想社会実現に向けた仕事。それには三つの要素、発明力・実具現力・生かす力の実現が不可欠。
○発明力(男)、実具現力(女)、頼子さんの2の力(女)=生かし合う世界
○また頼子さんの2は、〝妻の一体〟にあると思う。
○夫と妻の持ち味を生かす〝妻の一体〟によって〝成るもの〟とは、〝和らげる、下手に出る〟といった女の人の心の状態が優しくなることではないのか。
○無我執も自然界では、保ち合う理として存在。夫婦の持ち味を生かし合うということが、我執を無くしていくエネルギー源である。
としながら、真の夫婦つまり〝男と女の持ち味を生かし合う生き方〟のねばり強い探求を通して、〝頼子さんの2の世界〟の拡張がはかられていく。
○〝頼子さんの2の世界〟は、零位に立てば見えるのではないか。
○女の人は元々、身も心も優しい。優しい美。
〝美しさを美しきで隠されて漂う美しさ、素直さ〟
〝忍ぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思うと 人の問うまで〟(平兼盛・小倉百人一首)
〝表すものでなく表れるもの〟という。その〝表れるもの〟こそ、〝頼子さんの2の世界〟か……。
として、次のような山岸巳代蔵の発言に重ねられていく。

“日本キモノも衣装を見せるためだったら本末転倒。目に見える姿だけなれば惜しいもの。本当は衣装を通して、人間を隠して、人間が表現される面白さと調和美にあると思う。その人のさわやかで高尚な芸術的個性美、ゆかしさと温かい情緒、凡てと溶けあい生かしあう、あいの象徴、或いは内在する柔らかい曲線美、まかり出(い)でないしとやかさ、嗜み・趣味に楽しむ人柄のよさなど、みせようとせない、つつましい内からこぼれて匂う、心根の美しさ。”(「正解ヤマギシズム第二輯」刊行に当たりて)

全てを生かすというほどのものが、女性に存在している。
しかもそういうものが〝二人で一つ〟という真の夫婦の基本条件からいつでも、どこにいても、生き生きと発せられているのだという。
なぜなら人は〝自然全人一体〟の産物だからで、しかも一体の夫婦の資格条件を調えることで自ずから、もっとも直接的で本質的な〝自然全人一体〟の姿が現象として顕れ出るのだとしている。
そえゆえそこはまた理想社会の縮図として最小単位の理想実現の絶好の舞台・出発点であるとされる!?
そこに充満しているのが頼子さんの〝2〟であり、女性の持ち味その〝2〟であり、「女性の心の美」であり、「心の優しさ」であり、「つましい内からこぼれて匂うこころねの美しさ」であり、この美は「夫の行為は妻の一体によってなるもの」によって生まれるものであるとされる。
いったいここで何のことが言われているのだろうか。

一体の夫婦の資格条件を調えることで、自ずともたらされる豊かさのようなものが表現されているようだ。
受け身の奥ゆかしさ、滲み出る情愛の香りや潤い。
以前〝食べたいから食べるのと食べなくてもよいが食べるのと、何でも二つある〟を研鑽したことがあった。あの〝食べなくてもよいが〟と受け身的に〝食べたいから〟という自らの要求を放したときに湧いてくる豊かさのようなものと重なる思いがする。そこが一体に合適していく資格のベースになるのだろうか。
たしかに頼子さんの〝2〟のようなものが自然から贈られ、人から発せられる美しさ・豊かさ・温かさの源が、そこはかとなく広がっているのがこの世界のようなのだとイメージされてくる。

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