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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(6)

移動祝祭日(下) 
島田裕巳・青木新門

〝移動祝祭日〟とは、例えば若き日のそこでの様々な出会いや経験は、生涯にわたってその後の人生に消えることなく大きな影響を与え続けてやまない非日常性を意味するハレの要素を含み持つ日々を暗示しているはずだ。
そこが自分らにはヤマギシの〝特講〟であったり、その後の常識はずれの〝暮らし〟であった。
以前その証として、「自分はヤマギシ会の体験があったからこそ、宗教学者に成れた」とか「自分の人生の出発点は特講だった」と公言する宗教学者・島田裕巳さんの一週間の特別講習研鑽会(特講)体験記を会員集会の場で紹介したことがある。
こんな風に特講の〝怒り研〟でのじぶんの心の動きを言葉でうまく表現できるのかと思って我がことのように嬉しかったからである。

“私はしだいに、答えることばを失っていった。それは他の参加者の場合も同じだった。だれの答えも係を満足させず、即座に切り返された。参加者の発言が少なくなっていくにつれて、係の問い詰め方はきついものになっていった。会場の空気は重苦しいものに変わり、沈黙が続くことが多くなった。すでに時刻は真夜中になっていた。
おそらく他の参加者も同じように考えていたことだろうが、私は自分がなぜこんな目にあわなければならないのか理解に苦しんでいた。こんなことになるのなら、やはり参加しない方がよかったのではないか。一刻も早く、この状態から逃れたかった。しかし脱出のための糸口は、なかなか見えてこなかったのである。
ところが参加者のなかに、自力で脱出口を見い出した人間がいた。それは早稲田大学に通っている、私と同じ学生の女子学生だった。彼女は、「いま自分が腹を立てたときのことを考えてみると、腹が立たないような気がする。今度、そういうことがあっても腹は立たない」という発言をしたのだった。
この発言は意表をつくものであったが、私には納得することができた。彼女の発言を聞いて、体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。係の発する「なんで腹が立つのか」ということばも、怒りの原因を尋ねているのではなく、「腹を立てることなどないではないか」という反語的な表現として聞こえてくるようになった。その瞬間から、私にとって特講は苦しいものではなく、楽しいものに変わっていったのだった。”(『イニシエーションとしての宗教学』1993.1)

ここでの〝私には納得することができた。彼女の発言を聞いて、体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。〟といった心の動きに深く共感するものがあった。
二人で話す機会があった時、そのことを本人の前で話したら「自分にはあんな素直な文章はもう書けないよ」と喜んでくれた。

また映画「おくりびと」の原作になったとされる『納棺夫日記』の著者・青木新門さんの前で、あなたの書かれたここのところに自分も深く共感したと伝えられた時も読者冥利につきる思いがしたことがある。
納棺の仕事で行った先が元恋人の家で、意を決して中に入り作業に熱中していたらいつの間にか横に座って額の汗を拭いてくれる彼女がいた!

“澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の顔の汗を拭いていた。”(『納棺夫日記』)

その時青木さんの眼に映ったものが行動を一変させる。翌日から白衣の服装に整え、言葉遣いも礼儀・礼節にも心がけ、真摯に堂々と納棺をするようになった。そんな一挿話が以来自分の心に鮮やかに焼き付いている。
妻や親戚や友人、そして地域社会からも白い目で見られていた自分にとって、丸ごと認めてくれたような恋人の瞳は救いだったという。
青木さんはそこに〝軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた〟と言う。自分もそうした同じ経験もないのに同じように感じるのだ。この〝感じ〟っていったい何なんだろう? 

しかも興味深いことに、十年ぐらい前に話題になった島田さんの著書『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に〝死の本質がわかっていない学者の本〟だとして真っ先に批判されたのが青木さんだ。
そうかもしれない。しかしそれでも私が変われば世界が変わる。島田さんの中にも青木さんの中にも、そして誰の中にも同じように流れ、響くものがあるのではなかろうか。

もちろんヤマギシの村に住み始めてから今日までのじぶんをたどってみた手記『ある愛の詩』(1977.1)とも重なってくるのだ。
そのことのみに的を絞って飽かずに日々確かめることがいつしか自分の天職にも感じられてきた。

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鈍愚考(5)

移動祝祭日(上)
移動祝祭日

〈もし君が幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過そうともパリは君についてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ〉(アーネスト・ヘミングウェイ1950年)

職場での日々の編集作業や「特講」写真の撮影・フィルム現像から焼き増し等の仕事はだいたい午前中に片付けて、午後はきまって夕方Oさんと二人で飲む焼酎のアテもかねての魚釣りや山菜採りに多くの時間を費やした。多分Oさんは自分の性格を見抜いてか何かと外へと連れ出してくれたのだ。人生における遊びの要素の大事さを身をもって伝えてくれていたのだと思う。
また意見があったらその場で言ったらよいのに後でウジウジ繰り言をくり返すそんなじぶんの性根を叩き直してくれた。

ヤマギシズム運動誌『ボロと水』の編集では、鶴見俊輔(哲学者、評論家)さんや「特講」に参加されたばかりの見田宗介(社会学者)さんに登場してもらっていた。そこで次回は、当時若者に人気があり自身もファンの一人だった詩人、評論家の吉本隆明さんに登場してもらおうと依頼の手紙をOさんにも推敲してもらって出したことがある。
その時は梨のつぶてであった。ところが3~4年してからご家族の方が実顕地にお見えになって一緒に伊賀島ヶ原の石仏探しに田んぼのあぜ道を歩いたり、お土産に採りたての栗を持ち帰ってもらったりした思い出がある。
晩年まで吉本さんには〝ヤマギシ会〟の試みが傍目にも危なっかしくて見ちゃいられなかったらしくよく話題にされていた。例えば、
山岸会式管理方式に象徴される〝疑似ユートピア〟を乗り越えるためのたった一つの指針となる原則として、

“すべての管理システムをもっている国家、社会、部分社会は管理される者の利害、健康、自由を最優先すること。これに反する管理システムは破棄されるか、または修正されること。”(『中学生のための社会科』2005.3)

だと人間が描きうる可能性の世界について言及されていたり、
また国税局による税務調査で申告漏れが指摘されたり、脱会者が次々と告発本を出したことも大きく影響したのか、生産している食品が売れなくなるという事態にも直面した時は、
「おやっ、これはいかんぜ。ヤマギシ会は社会に対して閉じている。もっと開かないと……」と最後まで心配をかけどおしだった。
そこには吉本さんからの熱いメッセージや励ましや温かい思い遣りが感じとれた。そうか、そうかもしれないと半分は同意し、半分はいや、ちがう。大事なものが未だ未然のまま残されているはずだと、その半分のところから催促してくるものが今も書き継ぐ源泉になっている。

またこの時期、『ボロと水』4号、5号で
○「前渉行程論(1)―〈養鶏法〉の位置と方向について」1972.9
○「前渉行程論(2)―ヤマギシズムの〈仕組み〉の特異な展開」1974.1
続けて会の機関紙『けんさん』で
○「インタビュー適正規模実顕地構想」1975.11
の三部作を編集した。
これは先述の実顕地造成機関の世話係だった杉本利治さんにその時のじぶん自身にとって一番の切実な問いかけを往復書簡の形でぶつけたものだ。
今ふり返ってみても、まさにぶつけたという表現がピッタシの感がする。そこには求めるものと応じるものとの全面一致の至福があった。よく真正面から受けとめてもらえたものだなあ、という感慨がどっとこみ上げてくる。

その頃(1975年の夏)現在宗教学者の島田裕巳さんは、大学四年生のゼミの潜り込み調査でコミューン(共同体)への関心から対象にヤマギシ会を選んだ。ところが一週間の特講で、本人の弁を借りれば回心してしまった。秋には関東の実顕地に参画してしまったのである。その彼も研鑽資料として当時熱心に読んだのが先の三部作だったと後で聞いた。
かくして1970年代は毎日が〝移動祝祭日〟のようにすぎていった。

そのことをもっとも象徴するのが会の機関紙に投稿した一文『ある愛の詩』(1977.1)だ。
何かやむにやまれぬ思いでヤマギシの村に住み始めてから今日までのじぶんをたどってみたものだ。書き終えて得も言われぬ解放感があった。しかし同時にいつまでこんなマイナーなことにかかずらっているのかと自己批判する自分もいた。
個と組織、自由のテーマが切実に迫ってくる前段階の日々でもあった。

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 「と」に立つ実践哲叢(50)

私が変われば世界が変わる
馬脚をあらわす

ヤマギシの村に住み始めてしばらくしたある日の研鑽会で、「なんでここにいるのと問われたらどう答える?」といった話になった。自分らは、全人幸福運動、戦争のない社会、不幸な人が一人もない、愛児に楽園を、理想社会を創りに等々と答えて、なぜ今さらそんな分かり切ったことを問うのかと怪しんだ。すると問うた人は、「そうかなあ、自分だったら他にやることがないからとしか答えようがないなあ」と発言して皆を煙に巻いた。

そうか、他にやることがないから〝この生き方〟をやっているだけで、もし他にそれ以上のものが見つかればそれをやるだけなのか……。なぜか拍子抜けするぐらい当たり前の理屈(?)に直面してかその後の研鑽会は沈黙気味で盛り上がらなかった。

今ふり返るとなぜあの時、だとしたら他にやることがないというその〝やること〟ってなんですかと率直に問わなかったのだろう?
その一方でいや、それはちがうだろう。自分らは〝他にやることがないからとしか答えようがないなあ〟という発言に、たんなる言葉のあやにとどまらない別次元の世界からのメッセージを無意識に感じ取っていたのだ。だからこそ、今日まで新しい世界を暗示させるとても大切な場面として甦ってくるのだと思ってきたフシがある。
というか、たんなる言葉のあやにとどまらない別次元の世界について想いを馳せるきっかけにもなったある出来事を経てからであった。オウム真理教が話題となり、マスコミなどからヤマギシ会もカルト集団とか洗脳集団だと二重写しにバッシングの逆風が吹き荒れた2000年前後の出来事だ。

弱い馬は平坦道路ではついてくるが、難所になると馬脚をあらわす。難所に直面した時に、こんな筈でなかった、偉いことになったと右往左往。これはとても、と逃げ腰で見ると、みんな悲観的になる。それまでの同志・相棒がにわかに悪く見えてくる。コリャいったいなんやろう?
あの全人幸福運動、戦争のない社会、不幸な人が一人もない、愛児に楽園を、理想社会を創り等々の言葉の空しさに襲われた。画餅・口頭禅、仏創って魂入れずとはこうした事態を想定してのことだった。

要はすっかり今まで通りの一般社会通念や人生観の道を歩いたことに尽きるだろう。
初めて自分らは〝他にやることがないからとしか答えようがないなあ〟という発言の真意の一端に触れるまたとない機会に遭遇したのだった!
だってそうではなかったのか。先の展望など描けず暗い思いの中で唯一やったことといえば、〝自分はどうしていくのか〟を自分に問うことだけだった。

そうか、他人ごとではなかったのだ! 自分の生き方として、つまり〝他にやることがない〟ところまでセンジ詰めて生きていくのだと。そんな未知で未経験の世界を前になぜか心が奮い立ってきた。

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鈍愚考(4)

〝もう一つある〟?
合奏

先の金鶴泳の小説『凍える口』の一節に

“ぼくは吃音に囚われているのだった。”

とあるが、囚われが高じてくるとホント真剣になって一生話さなくても暮らせる生き方はないものかといった妄想がふくらんでくる。社会から逃げるばかりの神経症的なほとんどビョーキの世界へと入っていく。
では囚われから脱け出すにはどうしたらよいのか? そんなことばかり思っていた。そんな自分の切実でマイナーな問題と研鑽資料にあった〝二つの逆の考え方〟という言葉が重なって、なぜかここに長年の悩みを解く鍵があると直覚したのだった。ふり返ってみてあの時の〝もう一つある〟という発見にも似た新鮮な驚きはいったい何だったんだろう。
一週間の「特講」体験は人間の本来の姿への復帰そのものを実証する場であるとして山岸巳代蔵はその一例に吃音を取り上げている。

“どもりは劣等感からくるもので、どんな強度のどもりの人でも、恥ずかしがりでも、一週間の特講で劣等感が無くなり、今まで以上にわざわざ意識しないのに、演壇に立ってしゃべれるようになる。どもりの人はぜひ参加されよ。
事実かどうか疑われる人は、どもりの人を連れて参加し、すでに四日、五日目頃にどもりが治って、人の中で自分も気づかずに話している事実を見られることであろう。”

以前よく町中の電柱なんかに〝どもり・赤面、治します〟などと貼ってあった広告を連想しがちだが、藁にもすがる思いだったからかここでの〝事実を見られる〟という表現に強く惹きつけられた。先の〝事実その中で生きていく強い自分を見出している〟という一節とも重なり、自分を今日まで支え続けてくれる言葉になっている。
ここでの〝事実〟とは何なんだろうか? しかも見られるとは?と自問自答をくり返しているとなぜか〝やってみよう〟とする勇気が湧いてくるのだ。
人と人との繋がり(あいだ)の病理を説いている精神医学者の木村敏さんはいう。

“この「あいだ」というのは、個人と個人が出会ってはじめて両者の間に開かれるような関係のことではない。むしろ、それがあってはじめて個人が個人として成立するような、個人の自己に構造的に先行しているような、だから一人ひとりの個人の存在の基底に深く根をはっているような、そんな「あいだ」のことである。あるいは西田幾多郎をもじってこう言ってよいかもしれない。―個人あって「あいだ」あるにあらず、「あいだ」あって個人あるのである。
「あいだ」を個人の生命活動の源泉にある生命的自発性が立ち現れる場として見定めたことによって、わたしはその後、そのような「あいだ」によって媒介された個別主体性と集団主体性との関係を、統合失調症という、個人と社会との関係の病理を理解するキーコンセプトとして常用するようになった”(『あいだ』ちくま学芸文庫)

かつて吃音という囚われから脱け出すことばかり思い詰め〝ほとんどビョーキ〟の世界を彷徨っていたからか、ここで何が言われているのかすぐにピンときた。次のような発言もある。

“「自分が自分であること」の根拠が「人と人とのあいだ」にあるという事実”

“音楽の場合にも、音と音との「あいだ」は単なる中断や休止ではなくて、そこにおいてはじめて、その両側にある音が全体のなかでの位置づけと意味とをあたえられ、音楽を構成する楽音として析出してくる場所であり、この析出のはたらきが「ま」とよばれることになる。”(『自分ということ』ちくま学芸文庫)

要は〝囚われから脱け出すにはどうしたらよいのか?〟などと思いわずらう考え方の延長線上にはもう一つある〝考え方〟は見出せないときっと言われているのだ。
言いかえれば〝もう一つある〟のもう一つの気づきとの出会いは、代替えとか二者択一を意味する〝オルタナティヴ〟や対抗文化を意味する〝カウンターカルチャー〟から大きく飛び出した世界を暗示しているようだった。

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