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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(4)

〝もう一つある〟?
合奏

先の金鶴泳の小説『凍える口』の一節に

“ぼくは吃音に囚われているのだった。”

とあるが、囚われが高じてくるとホント真剣になって一生話さなくても暮らせる生き方はないものかといった妄想がふくらんでくる。社会から逃げるばかりの神経症的なほとんどビョーキの世界へと入っていく。
では囚われから脱け出すにはどうしたらよいのか? そんなことばかり思っていた。そんな自分の切実でマイナーな問題と研鑽資料にあった〝二つの逆の考え方〟という言葉が重なって、なぜかここに長年の悩みを解く鍵があると直覚したのだった。ふり返ってみてあの時の〝もう一つある〟という発見にも似た新鮮な驚きはいったい何だったんだろう。
一週間の「特講」体験は人間の本来の姿への復帰そのものを実証する場であるとして山岸巳代蔵はその一例に吃音を取り上げている。

“どもりは劣等感からくるもので、どんな強度のどもりの人でも、恥ずかしがりでも、一週間の特講で劣等感が無くなり、今まで以上にわざわざ意識しないのに、演壇に立ってしゃべれるようになる。どもりの人はぜひ参加されよ。
事実かどうか疑われる人は、どもりの人を連れて参加し、すでに四日、五日目頃にどもりが治って、人の中で自分も気づかずに話している事実を見られることであろう。”

以前よく町中の電柱なんかに〝どもり・赤面、治します〟などと貼ってあった広告を連想しがちだが、藁にもすがる思いだったからかここでの〝事実を見られる〟という表現に強く惹きつけられた。先の〝事実その中で生きていく強い自分を見出している〟という一節とも重なり、自分を今日まで支え続けてくれる言葉になっている。
ここでの〝事実〟とは何なんだろうか? しかも見られるとは?と自問自答をくり返しているとなぜか〝やってみよう〟とする勇気が湧いてくるのだ。
人と人との繋がり(あいだ)の病理を説いている精神医学者の木村敏さんはいう。

“この「あいだ」というのは、個人と個人が出会ってはじめて両者の間に開かれるような関係のことではない。むしろ、それがあってはじめて個人が個人として成立するような、個人の自己に構造的に先行しているような、だから一人ひとりの個人の存在の基底に深く根をはっているような、そんな「あいだ」のことである。あるいは西田幾多郎をもじってこう言ってよいかもしれない。―個人あって「あいだ」あるにあらず、「あいだ」あって個人あるのである。
「あいだ」を個人の生命活動の源泉にある生命的自発性が立ち現れる場として見定めたことによって、わたしはその後、そのような「あいだ」によって媒介された個別主体性と集団主体性との関係を、統合失調症という、個人と社会との関係の病理を理解するキーコンセプトとして常用するようになった”(『あいだ』ちくま学芸文庫)

かつて吃音という囚われから脱け出すことばかり思い詰め〝ほとんどビョーキ〟の世界を彷徨っていたからか、ここで何が言われているのかすぐにピンときた。次のような発言もある。

“「自分が自分であること」の根拠が「人と人とのあいだ」にあるという事実”

“音楽の場合にも、音と音との「あいだ」は単なる中断や休止ではなくて、そこにおいてはじめて、その両側にある音が全体のなかでの位置づけと意味とをあたえられ、音楽を構成する楽音として析出してくる場所であり、この析出のはたらきが「ま」とよばれることになる。”(『自分ということ』ちくま学芸文庫)

要は〝囚われから脱け出すにはどうしたらよいのか?〟などと思いわずらう考え方の延長線上にはもう一つある〝考え方〟は見出せないときっと言われているのだ。
言いかえれば〝もう一つある〟のもう一つの気づきとの出会いは、代替えとか二者択一を意味する〝オルタナティヴ〟や対抗文化を意味する〝カウンターカルチャー〟から大きく飛び出した世界を暗示しているようだった。

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