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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(9)

自己欺瞞的な矛盾の解消
ある愛の詩

森崎さんの発言
“わたしが「イェニーさん問題」と呼んできたところのものをそれ自体としてつかみださずに、性の世界を社会への媒介とみなしたからです。”
にあった〝性の世界を社会への媒介とみなした〟の一節にもう少し踏み込んでみる。

人間社会を組織する原則としての自由・平等のテーマは、古くて新しい今現在も続く実践テーマである。例えば一体生活(ヤマギシズム生活実顕地)発足時(1961年)当初から「一体生活をやっていると窮屈、自由がない」といった意見がよく出るが、どのように研鑽していったらよいのかと話題にされてきた。
それくらいまず一番先に出てくるのが、財布一つの一体生活をやっていこうとするとどうしても遠慮せんならんものが出てくるといった〝自由〟のテーマがリアルに迫ってくるのだ。皆と〝共にやる〟ことの楽しみ願望が一転して不自由きわまりない苦しみ現実に反転してしまうのだ!? 
なんで?

〝一体の家族〟を目指すものの結局は従来からの格家族単位に舞い戻ってしまう。理念やあり方は分かっていても、それが生活習慣となって自分の身につくまでの段階で寄った人の我執がそれを崩してきたというのだろうか?
吉本隆明さんが以前体験的にこのあたりを解明してくれたことがある。

“その「一体」(ヤマギシ会の理念―佐川注)というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を「一体」という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。
もし人間の性愛のなかに、色とか、味とか、匂いとかの比喩でいうべき問題があるとすれば、それが全部、無味・無臭・無色というふうになってしまうような気がするんです。ほんとにそうなることはたぶんありえないから、絶えず解体にさらされるか、または、もし男女の結びつきがひじょうに親密になってくれば、共同体から出ちゃうという衝動をいつでも感じざるをえないみたいな、なにかそういうところでいちばん矛盾にさらされるような気がするんです。”(吉本隆明『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)

さすが思想家・吉本隆明だなあ、的確に分析されているなあと感心していた時期が自分の中で長く続いた。たしかにそのように考えるとそのような現象が現れ出た。人間は単独では絶対に生きられない社会動物・人間なのだから、個別観的な観方でなく〝共同体の次元〟つまり社会人間からの観方こそ欠かせないとしっかり考えていたのだから。
ところが現象は多くの同志・相棒が血縁の〝家族をやりたい〟といったやむにやまれぬ切迫感にかられてこの間実顕地を去っていった。
今の常識からかけ離れた「一体」理念で日常生活を律すること自体が無謀で間違った行為なのだろうか? 社会人間から〝一体の家族〟へと拡張されていくには、未だ究明されていないどんな要素が自己革命が求められているというのだろう? 
こうした自己欺瞞的な矛盾を解消するにはどうあったらよいのか? 自己問答をくり返した。  
そんなこんなから先(鈍愚考7)で引用された「わが一体の家族考(88)」での一節、

“たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。
しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。
〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。”

といった文節に続いていったのだ。
みずからの「個別観的な観方でなく〝共同体の次元〟つまり社会人間からの観方こそ欠かせない」とか「三つの次元に分けて考える」としているところに異和感を覚えてきたのだ。
幸いにも二つの心当たりがあった。
一つはこの間ずっと不可解だった〝山岸会事件〟前後の山岸巳代蔵の〝愛情研鑽会〟での言動を「ヤマギシズム恋愛・結婚観」として普遍的にたどってみる試みである。そこから自分なりの実感が伴う〝一体〟の世界が鮮明に現れてこないだろうか。
もう一つは、じぶん自身のヤマギシ会との出会いは本当のところ何であったのかを〝ある愛の詩〟の世界を通して確認していく試みだった。

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鈍愚考(8)

「イェニーさん問題」とは
イェニー・マルクス

〝イェニーさん〟とは古典的名著『資本論』の著者カール・マルクス(1818-1883)の妻イェニー・マルクス1814-1881)のことだ。
森崎さんは次のように言う。

“マルクスが『経済学・哲学草稿』のなかで熱く語ったイェニーさん問題をそれ自体として取りだし、貨幣論ではなく『贈与論』を書いていたらマルクス主義という人類史の厄災は回避できたと思う。”

そこで二十代の若きマルクスが『経済学・哲学草稿』(1844)のなかで熱く語ったイェニーさん問題と呼ばれる箇所を、森崎さんのブログ「歩く浄土200:親鸞・マルクスとの架空座談」(2017.9.28)から引用してみる。

“男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。”(『経済学・哲学草稿』岩波文庫129~130p)

ここでの〝男性の女性に対する関係のなかに人間の人間にたいするもっとも直接的で本質的な関係が現われる〟と述べるマルクスの直感を指して「イェニーさん問題」と呼ぶ。
森崎さんは続ける。

“『経済学・哲学草稿』のなかでもっとも音色のいい言葉はここです。イェニーさんのことを思い浮かべながらマルクスさんはこの箇所を書かれています。”
そして次のように指摘される。
“それにもかかわらずこの大いなる気づきをマルクスさんは部分化し外延化してしまいました。男性の女性にたいする関係、あるいは女性の男性にたいするる関係と、人間の人間に対する関係はまったくちがいます。ちがうにもかかわらわず、マルクスさんは性の関係を社会関係に外延しています。そしてその外延関係を人間と自然の関係までさらに外延しています。”

つまりせっかく大切なことに気づきながら、一番肝心な部分をそらしてしまったのだと。そこに現れた〝私のただ一人のいとしいイェニー〟(マルクスから父への手紙1837.11.10―佐川注)との〝心情〟の部分に踏みとどまらないで、社会(共同体)の考察へと向かってしまったのだという。

たしかに20世紀最大の〝社会主義革命〟の社会実験の悲劇も、あの偉大なマルクスが「イェニーさん問題」から大きくそれていったところにその真因を象徴的に見てとることができるかもしれない。

“わたしが「イェニーさん問題」と呼んできたところのものをそれ自体としてつかみださずに、性の世界を社会への媒介とみなしたからです。”

ハッとした。
社会主義はなぜ人類史的な厄災を招いたのか? 全人幸福親愛社会を目指すヤマギシ会の試みがなぜ大きな壁にぶつかったのか? そしてヤマギシの村に住み始めてから今日までのじぶんをたどってみた手記『ある愛の詩』(1977.1)での

“朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、『フフフッ』と微笑むだけだ。ちっとも非難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。”
“それからしばらくして、ぼくはYさん夫妻の娘さんと結婚することになった。ある日その旨を報告しに部屋へ行くと奥さんが居て、少し顔を赤らめて「そうけえ」と一言いったきりだった。”

等々といった世界をマイナーで口にするのもはばかられるものとしてなぜ自ら封印してしまったのだろうか?
ともあれ自らどん底まで落ち込むなかで、ふっと甦ってきたのがなぜか胸が熱くなる「ある愛の詩」の世界だったのだ。本当に苦しいときに生きる力を与えてくれた!
あの、溢れ出る琴線に触れる感じはいったい何なんだろうか?
ひょっとしたら今まで退けてきたじぶん自身が触れた世界、先の島田裕巳さんの一週間の「特講」で触れた世界、『納棺夫日記』の著者・青木新門さんの触れた世界から現れてくるものを基調とすれば、理想実現への解決の鍵が発見されるかもしれない。
森崎さんに言われてますます「イェニーさん問題」から展開されるものに託していこうと考えるようになった。

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 「と」に立つ実践哲叢(51)

普だん着が実はハレ着
ファーム町田店

先日の〝ヤマギシのむらnet〟(1/17)「もう、阪神淡路大震災から25年が経つ」の記事は生き生きした心持ちに溢れていた。
夕方ファーム町田店(東京都)で買い物かご2つに卵やら肉やら野菜をいっぱいにしたあまり見かけないお客さんが「間に合って良かった!」と微笑む。聞くと、阪神淡路大震災の時には三宮(神戸)に住んでいたという。

「私ね。ヤマギシさんには、本当に感謝しているのよ。あの地震のあと、自衛隊も登ってこなかった急な坂道を、牛乳とひよこ煎餅なんかを積んでヤマギシさんの車だけが登って来てくれたの。ほんと、嬉しかったわ…」
こんな25年前の話をしてくれて、
「それからよ。ヤマギシさんの農産物知ったのは……。こちらに引っ越してきて、先日、車で通ったら看板があって、嬉しかったわ…」

こんなファーム町田店でのお客さんとのやりとりに呼応してか、広島の三次実顕地から何とか混雑中の下道を通って神戸供給所に卵を運んだとか会員の友人と一緒に50ccのバイクで救援物資を運んだといったコメントが寄せられていた。
なかでも当時某電気会社に勤めていたFさんが洗濯をしたいという話から、勤務先に洗濯機を提案したところ八台が現地に届いて多くの会員さんと一緒にハレハレランドリーを学校のプール脇に設けたという話があった。
ハレハレランドリー

当時をふり返ってFさんは記している。
「神戸に続く道は車で溢れ信号は全て壊れ車はほとんど動きません。歩道は人と自転車とバイクもいます。でも怒号やクラクションは一切無くとても静かで声を掛けあったり情報交換をしたり、全ての人が他を思いやり譲りあっているように見えました。(略)
一番強く感じたのは人の心の温かさです。誰の心にも間違いなくそれは在り、きっかけさえ有ればそれは溢れ出て来る。そう感じました。幸福社会の実現を願い参画し25年やってきました。これからもそれをやって行くのだと今改めて思っています。これからも一緒にやらせて下さい。」
そうだなあと思う。人の心の温かさを見出し引き出し合うことが自分らの一番やりたいことなんだとあらためて知らされる。

レベッカ・ソルニット著『災害ユートピア』は、災害時に自然に理想的なコミュニティが形成される驚くべき社会実態を、サンフランシスコ大地震やハリケーン・カトリーナなどを例にして社会や人間心理の本質に迫る。

「祭りの三日間という言い方がある。たしかに一過性のものには違いない。だが、いざというとき瞬時につながり合う力、本能のようなものが、人間にはあるのかもしれない。自然災害のあとに、一瞬だけあらわれる人間の本性。みんなが助け合い、そのことに喜びを感じるという、もう一つの人間的自然。」

人の心の温かさは〝一過性のもの〟にすぎないものだろうか。そこには諦めと無関心と無知が……。普だん着が実は祭りに着るハレ着だったと言えるところまで行くのだ。

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鈍愚考(7)

くめども尽きぬ源泉
吉本幻想論

先の島田裕巳さんの一週間の「特講」で触れた世界
“体の奥から何か暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた。”

また『納棺夫日記』の著者・青木新門さんの触れた世界
“澄んだ大きな眼一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の顔の汗を拭いていた。”

そして手記「ある愛の詩」でじぶん自身が触れた世界
“朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、『フフフッ』と微笑むだけだ。ちっとも非難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。”

これら三者三様の思いがけない体験から溢れ出てくるものがある。なぜか自分の身体感覚に同調してくるような心地よい自分が自分を表現するくめども尽きぬ源泉を見つけた思いがするのだ。
これらの何となく共通的な似ている〝感じ〟をそのまま素直に感受・感知して、そこからもう一歩踏み出すことではないのか?
そんな思いをベースにブログを綴っていたら、ある時九州熊本在の森崎茂さんから励ましのコメントを頂戴したことがある。以前にも紹介したことがあるが、再度森崎茂公式サイト「GUAN」(http://guan.jp/)からコピーして貼り付けてみる。

『贈り合いの経済』を書いた佐川清和さんの「自己への配慮」というブログをいつもどきどきしながら読んでいる。まだ一度もお会いしたことはない。昨年8月に公式サイトを開設したとき佐川さんから励ましのメールをいただいた。偶然に見つけて読んでいますと書かれていて、とてもうれしかった。読みにくい文章なので読んでくれる人がいるとは思っていなかった。なにかやむにやまれぬものを抱え、半世紀のあいだ同一の主題を追いかけている表現者だと思う。その佐川さんが「自己への配慮」の「わが一体の家族考(88)」で次のように書いている。

“たしか吉本さんは、例えば「一体」とか「全人真の幸福」といった誰もがそうだと認める理念を前にして〝息苦しさ〟のようなものが伴ってくるとしたら、次元の違うものとしてある集団と個の観念世界をごちゃまぜにして個の〈倫理〉として受け取ってしまうからだと考察された。そしてそこから「個人としての個人」「家族の一員としての個人」「社会的な個人」と分けて考えることで、自己欺瞞に陥りがちな三つが混同される観念の矛盾から解放されるはずだという独自の見解を自分らに托された。こうした吉本さんからの贈り物にこの間ずいぶん救われ励まされてもきた。
しかしここで吉本さんは、〈性〉に関わる家族の次元の領域を人間の観念世界が生み出す三つの次元の一つと見なされている。ところが実際そう見なすだけでは、集団と個の問題が心底解消されたという実感が湧いてこないのだ。ある意味人間の〈性〉の世界を社会の共同性への媒介と見なすだけでは、“無味乾燥・器物の世界に等しく、潤いのない造花の社会”(『ヤマギシズム社会の実態』)が現れてくるだけだ。一般社会の共同性の中へ〈性〉の世界が取り込まれて位置づけられてしまうだけのことへの危惧というか異和だ。
〈性〉の世界という一番肝心な部分が、未解決で残されている。そんな未知で未経験な事柄にいどみ、そこに何か新しいものを刻んだという事実を発見しかつ味わいたいのだ。”

引用のブログに先立って佐川さんは「わが一体の家族考(84)」で、ある気づきを述べている。

“社会学者・真木悠介(見田宗介)さんの著書『自我の起源』の中の「補論2 性現象と宗教現象」で次のような事例が紹介されている。

1980年代後半ヴェトナムからの難民船の幾つかが日本にも漂着したことがあり、偶然そのうちの一つを見たことがある。小さな木の船に、考えられないくらい大勢の人が乗っている。しかも漂流の月日の中で、いちばんはじめに死んでいったのは、小さい子供をもつ若い母親たちだったという。
つまり母親たちは乏しい食料を幼い子供たちに与え、自分たちは飢えて死んでいったのだと想像することができる。こうした難民船での出来事に心を動かされた真木悠介さんは次のように考察する。

“人間の個が、じぶんに固有の衝動に動かされながら、じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう”
つまりこういうことだ。“わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する”

性とは、自己解体の爆薬? どういうこと?
“自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包している”からだ。そのことはまた、“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”が人間にも貫通しているからだともいう。

以上のような難破船の話を知ったのは、森崎茂さんのブログ『日々愚案』の中の「歩く浄土182」からであった。そこで森崎さんは次のようにコメントされている。

“真木悠介はとてもいいことに気づいていながら、自己を裂開する背理をそれ自体として取りだすことができていないから、鋭利な気づきは外延論の背理として記述されるほかなかった。”

たしかに真木悠介さんはこの書の〝あとがき〟で、この仕事の中で問おうとしたことは、“どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか、他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか”というとても単純な問題だと記されていた。だとしたら、先の真木悠介さんの〝じぶんの欲望を透明に追い求めてゆく〟とか森崎さんのいう〝自己を裂開する背理をそれ自体として取りだす〟とは、どんな内実を伴うことなんだろうか?

何かすごく大切なことがいわれている気がするのだ。
“産卵死する鮭の個体をつきうごかすものと同じ力”のようなものが、自分の中にも流れているのではないかというのだ。そんな〝あらかじめ個をこえたものの力〟を内包している実態を、〝透明に〟〝それ自体として〟求め取りだすことができると、そこにはじめて〈性〉があらわれるというのだ!?
〈性〉は自我を裂開する力を内包している!”

佐川さんの気づきを「イェニーさん問題」(「歩く浄土200」)と呼んでみる。(「歩く浄土201」2017.10.8)

そうか、自分がこの間やみくもにかかずらってきたテーマって、「イェニーさん問題」(?)だったのか!という驚きだった。

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